【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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21.混沌の予兆

 行きと同様、帰り道も、とても静かだった。

 夜明けまでもう何時間もないというのに、相変わらず動物の姿さえ見つからない。せめて、車の一台でも走っていれば違ったのだろうが……町が静かすぎるからこそ、その重い沈黙は、否が応でも失くしたものについて考える機会になった。

 

 ──サーヴァント、セイバー。

 

 遠坂がぽつぽつと話してくれたのだが……セイバーの真名は、アルトリア・ペンドラゴン。男性名にすれば、アルトリウス。つまりセイバーの正体は……かの有名な、アーサー王その人だったのだ。

 アーサー王といえば、イギリスの伝説的な大英雄だ。日本においても、その知名度はあのヘラクレスにさえ匹敵しよう。今から千五百年ほど前に活躍した人物で、選定の剣を引き抜いたことから王になり、十二の会戦を勝ち抜き、サクソン人の侵攻を防ぎ切ったと言われている。その愛剣であるエクスカリバーは、恐らくは世界一有名な聖剣だろう。

 まさかアーサー王が女の子だったとは思わなかったが、それならばあの強さにも頷ける。ライダーとキャスターを一撃で消滅させたあの光こそ、エクスカリバーだったに違いない。

 

 ──では。そのアーサー王さえ下した黒い影は、いったい何だったのだろうか。

 

 あれは、人間でもサーヴァントでもない。だが、神獣や幻獣の類かと言われると違う。俺もそんなに詳しいわけではないが、吸血種のような怪物とも違うだろう。そもそも、比較的有名な類の化け物なら、あれと直接相対したセイバーやランサーがその正体について知っていたはずだ。

 唯一、アーチャーだけがあれについての知識を持っていたようだが、記憶が戻るまでは結局分からずじまいだ。もしアーチャーの真名が判明すれば、その神話や伝説から、あの怪物の正体が判明するかもしれないのだが……。

 

「…………」

 

 アーチャー。弓兵のクラスで召喚された、イレギュラーなサーヴァント。

 霊体では無く生身の肉体を持ち、召喚時の不手際のせいか、自らの記憶を失っている。これまで一週間以上この英霊と過ごし、幾度となく戦う姿を見てきたが、結局その真名に繋がる手がかりは何一つ掴めていない。

 彼が纏う黄金の鎧。確かインド神話あたりに、黄金の鎧を持った英雄がいたような気がするが……昔のことなので、俺の記憶も定かではないし、その人物は"英雄"ではあっても"王"ではなかったように思う。このサーヴァントは、間違いなく人の上に立つ統治者だ。

 では、黄金の双剣はどうか。スペインの叙事詩に、双剣を使う英雄がいると聞いたことがある。だが、弓に変化する双剣など見たことがない。それに、その叙こと詩は十世紀よりも後にできたもの。たかが十世紀ほど度の神秘が、あのランサーの槍に太刀打ちできるだろうか。

 更に言うなら、キャスターの正体は魔女メディアだった。ギリシャ神話に登場する彼女は、悲運に翻弄された王女としても有名だ。伝説によれば、彼女は並外れた魔術の腕を誇っていたという。その伝説が本物であったことは、俺自身の目でしかと見た。だが、アーチャーの武具は、そのメディアの魔術さえ跳ね除けるほどの神秘を有していたのだ。

 考えれば考えるほど、アーチャーの正体が分からない。セイバーの話によれば、前回の聖杯戦争では、アーチャーは無数の宝具を湯水のように使っていたという。ギリシャ神話の人物さえ凌駕する神秘に、アーサー王やイスカンダル大王すら一蹴する規格外の強さ。その通常考えられない特異性に、この黄金の青年の正体を掴む鍵があると思うのだが──。

 

「……っと、もうすぐ朝か。空が明るくなってきた」

 

 怪物の正体もアーチャーの真名も分からないまま、考え込んでいるうちに、時間の方は進んでしまっていたらしい。真っ暗だったはずの空が、朧げに赤みを帯びはじめていた。

 夜明けの空を見上げていると、ふっと意識が飛びそうになり、慌てて頭を振って正気を取り戻す。夜を徹しての戦いに、投影魔術という無茶に、セイバーの敗北。精神的にも肉体的にも、さすがに疲れ切っていた。

 意識を覚醒させると、先行するアーチャーと遠坂の後を小走りに追う。この角を曲がれば、すぐに我が家が見えてくる。休むのは、家に着いてからにしよう。

 

「ただいまー」

 

 鍵を開けて、数時間ぶりの我が家に入る。いつもの癖で声をかけたが、桜はまだ寝ているはずだ。当然、返ことが戻ってくることもない。

 ……というか、そろそろいい加減に俺も寝たい。そこそこ体は鍛えている方だし、一晩ぐらいの徹夜なら大した問題にはならないが、戦いのせいで体が休息を欲している。まずは部屋に戻って、仮眠を取ろう。

 

「…………む?」

 

 と。靴を脱いで廊下に上がったところで、アーチャーが怪訝な表情を浮かべた。その理由に思い当たり、俺もはてなと首を傾げる。

 体調を崩したままだし、まだ桜は起きていないと思ったのだが、調理場から料理の匂いが微かに漂ってくるのだ。確かに遠坂はそろそろ快復する頃だと言っていた気がするが、それにしても、いきなり朝食が作れるほど体調が戻ったとは──。

 

「まさか、あの子──!」

 

 顔色を変えた遠坂と一瞬だけ見つめ合い、アーチャーを置き去りに、同時に廊下を抜けて台所へと走っていく。この間のように、また無理をしているようなら今度こそ叱りつけなければならない。

 障子を乱暴に開け、台所に飛び込むと、そこには。

 

「っ…………!」

 

 短い悲鳴。遠坂の口から漏れたそれは──床に倒れ伏す、桜の姿を見てのものだった。

 

「桜!?」

 

 度肝を抜かれ、慌てて倒れた桜の体を抱き起こす。意識を失っているのか、名前を呼んでも何の反応も返ってこない。加えて、体の熱さと息遣いの荒さが、どれだけ容体が悪いのかを感じさせた。額には、熱と汗のせいで髪が貼りついている。こんな状態で、まともに動けるはずがないのだ。

 味噌汁を作り、次のおかずを作ろうとしたところで倒れてしまったようだが、よほど無理をしていたに違いない。倒れた時に怪我をしていないのは、不幸中の幸いだった。

 

「くそっ、また酷くなってるじゃないか! 遠坂──」

 

「ええ、これはもう病院に行かせた方がいいわ。もう何時間かすれば病院も開くでしょうから、それまで休ませましょう。

 まったく、あれほど無理はするなって言ったのにこの子は……!」

 

 遠坂と二人で、台所から居間へと桜を移動させる。……本当なら俺一人でも桜を運べるぐらいの力はあるはずなのだが、疲労のせいで、遠坂に手伝って貰わなければ桜の体を持ち上げられなかったのだ。

 ここまで容体が悪化しているなら、すぐ病院へ連れていかなければならないため、部屋ではなく玄関に出やすい居間で桜を休ませる。まだ体温は計っていないが、この感じだと三十九度近くにはなっているだろう。こんな状態で朝食を作ろうなんて、無茶としか言いようがない。

 

「何事だ、騒々しい」

 

 慌ただしく体温計やら座布団やらを準備していると、平然とした様子のアーチャーが、今更になって障子から顔を覗かせた。空気が読めないのか無視しているのか、周囲を顧みないその態度に苛立ちを覚えながらもそれに答える。

 

「桜が倒れてたんだ。熱が酷くて、病気かもしれないから、これから病院に連れて行く。アーチャーも見てないで手伝ってくれ」

 

「──病だと? その娘がか?」

 

 何故か。溜息を吐くか、一笑に付すかと思われた黄金のサーヴァントは、俺の話を聞くなり、横たわる桜をやけに真剣な瞳で観察し始めた。アーチャーが豹変する意味が分からず、体温計を持ったまま困惑する。

 桜は俺にとって、家族の一員も同然だ。しかし、アーチャーにとってはそうではない。マスターでも魔術師でもない桜の存在は、サーヴァントとして召喚されたアーチャーにとっては何の関係もないはずなのだ。だと言うのに、前回倒れた時といい、この男はやけに桜を気にかけている節がある。一体、桜の何処にこの青年の関心を惹くものがあったのだろう。

 三十秒ほど、そうして眺めていただろうか。何らかの結論が出たのか、一度頷くと、アーチャーは腕を組んであらぬ中空へと目を向けた。何か考え込んでいるのか、落日の瞳はすっと細められている。恐らくは誰に向けた言葉でもないのだろう、ぼそりとした呟きが俺まで聞こえてきた。

 

「違うな。その娘、魔力を内から食い漁られているぞ」

 

「……ちょっと。それどういうことかしら、アーチャー」

 

 このタイミングで水汲みから戻った遠坂が血相を変え、聞き捨てならぬとアーチャーを睨み据える。さすがにそれは無視できなかったのか、青年は腕を組んだまま遠坂に向き直った。

 

「聞いたままの意味だ。この娘の体内には()()がいる。こやつの異常は病ではなく、その()()に魔力──即ち、生命力を食い漁られているが故のものだ。

 これは、そこらの医者では手に負えまい。診せるなら魔道の心得がある雑種にせよ。()()()()()()、魔術師にな」

 

「は!? アーチャー、それって……」

 

 ちょっと待て。この男は、最後に何と言った。魔術師? 桜が魔術師だって?

 現状を理解できず、困惑混じりに遠坂の方を振り返る。だが、彼女の顔に浮かんでいたのは驚きではなく……『言って欲しくないことを言われた』と、そう示すかのような不快感だった。

 

「遠坂。桜が魔術師って、どういうことだ」

 

「…………」

 

 問い詰める俺の目線に耐えきれなかったのか、遠坂が目を逸らして唇を噛む。その反応で、アーチャーが言っていることは真実なのだと、そして遠坂はそれを最初から知っていたのだと……そう、分かってしまった。

 どうなっている。結局最後の戦いでは姿を見せなかったとはいえ、確かに慎二はライダーのマスターだったが、その妹である桜は、聖杯戦争とは無関係だったはずだ。そうでなければ、今までの慎二や桜の行動には矛盾が生じる。

 だが。聖杯戦争に関わることと、魔術師であることとは別問題だ。俺は全く知らなかったが、桜はこれまでずっと自らが魔術師であることを隠し続けており、遠坂やアーチャーはその事実を知りながら黙っていた──それが、事の真相なのだろう。しかし、桜が魔術師だとして、どうしてこんな事態になっているのか。

 

「──だが、それにしても妙だ。内に潜むモノが寄生木(やどりぎ)ならば、ここまで宿主を痛めつけるはずがない。外の手が加わったにしても、目的が掴めぬ。

 つまりこの娘、それ以外にも()()があるな。今の状態も、恐らくはそれが関与しているのだろうが……ち、そこまでは読み解けぬか。前提となる記憶か知識があれば、話は違ったやもしれぬが」

 

「……アーチャー。つまり、どういうことなんだよ」

 

 何ことか、ぼそぼそと独り言を呟くアーチャーに詰め寄る。遠坂の方は、俯いて難しい顔をしたまま動く気配がない。状況を打開するための鍵は、この黄金の英霊しか持ち得なかった。

 

「ふん。まだ解らぬか、小僧。放っておけば、その娘は死ぬということだ」

 

「な──」

 

 絶句する。

 桜が魔術師だという事実だけでも驚きなのに、放っておけば死ぬ、だって……? そんな、そんなふざけた話があってたまるか。

 アーチャーは言った。桜は、何者かに魔力を奪われているのだと。人間から魔力を奪う存在──サーヴァントがいるならば、その話にも納得がいく。しかし、他人から魔力を集めようとしていたライダーとキャスターは、今し方倒されたばかり。セイバーを倒した黒い影も、今はその片鱗さえ見当たらない。ならば今、何故桜がこんな状態に陥っている……?

 わからない。原因も解決法も、半人前の俺では想像さえできない。俺にできることと言えば、たった一つ。打開策を知っている人間を問い詰めることだけだ──!

 

「どうすればいいんだ、遠坂? おまえなら、どうすればいいか知ってるだろ!?」

 

 俯いたままの遠坂の肩を掴み、間近で問いかける。桜が魔術師だと知っていた遠坂ならば、この事態を解決する術も知っているはずだ。

 俺に詰め寄られながらも、何か考え込んでいた様子の遠坂だったが……やがて結論が出たのか、若干の迷いを孕んだ瞳で、俺のことを静かに見上げてきた。

 

「……桜を、教会に連れて行くわ。綺礼なら、この子のことも何とかしてくれるかもしれない……あいつ、治癒魔術は得意中の得意だもの。

 アーチャー。悪いけど、桜を運ぶのに手を貸して。わたしと士郎だけじゃ、この子を教会まで連れて行くのは無理だから」

 

 

 

***

 

 

 

 教会に着いた時には、すっかり太陽は昇りきっていた。

 遠坂が敷いた認識阻害の魔術のお陰で、気を失った少女とそれを抱えた金髪の青年、という異様な組み合わせは、誰にも見咎められずにすんだ。何の妨害を受けることもなく、俺たちは教会まで辿り着くことができた。

 桜を抱えて教会の中に入り──アーチャーは何故か教会の外で待つと主張した──、言峰に事情を説明すると、余裕を漂わせていた神父の顔は見る見るうちに真剣なものへと変貌した。治療を施すと一言告げただけで、言峰は桜を抱えるとあっという間に奥の部屋へ消えて行った。桜の状態は、本当に一刻を争うものだったらしい。

 ……そうして、言峰が桜を治療する間、俺たちは礼拝堂で待たされることになった。以前来た時と同じく、神聖さを感じさせながらも、どこか仄暗い何かを孕んだ場所。そんな部屋で、俺と遠坂は、二人して長椅子に背中を預け、ただ黙って言峰のことを待っていた。

 そのまま、どれほど経ったのだろう。十分しか経っていないのか、それとも一時間は待っただろうか。疲れ切った俺は、半ば眠ったような状態で座っていたため、時間の感覚が消え失せていた。ここに椅子が無ければ、床に横臥していたことだろう。

 寝たり起きたりを繰り返しながら、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つ。そのうち、沈黙に耐えきれなくなったのか。隣に座る遠坂が、唐突にこちらに声をかけてきた。

 

「……士郎。何か、わたしに訊きたいことがあるんじゃない?」

 

「ああ。──桜のこと。遠坂、おまえ、初めから全部知ってたのか」

 

 と問うと。どこか心苦しそうな表情で、遠坂は重々しく頷いた。桜について話してくれるよう促すと、最早隠しきれないと諦めたのか、彼女は淡々と真相について語り出した。

 

 ──事の発端は、十一年前に遡る。

 

 聖杯戦争は、始まりの御三家と呼ばれる一族たちによって執り行われる儀式だという。御三家とは、アインツベルン、マキリ、遠坂の三家を示す。

 マキリはやがて、その拠点を聖杯戦争が行われる日本へと移した。名前をマキリから間桐(マトウ)へと変え、冬木市に根を下ろす一家となったのだ。

 ……だが、それがマキリの衰退の始まりだった。冬木の地と相性が悪かったのか、間桐の血に宿る力は、時代を経るごとに急激に失われていった。如何なる方策を講じようとも意味はなく、最後の最後、今代の後継者となるはずだった間桐慎二に至っては、魔術回路そのものが消え失せてしまった。

 しかし、それでもマキリは諦めなかった。自分の手で足りないのならば、他の物の力を使う。魔術師のセオリー通り、マキリは解決策を内部ではなく外部に求めた。余所から力のある養子を得ることで、自分たちの延命を図ろうとしたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが──同じく聖杯を作り出した一家、遠坂家だった。

 

「なんだって!? それじゃあ、まさか……」

 

「察しがいいわね。……わたしね、一つ下の妹がいたの。でも、魔術師の家系は一子相伝でしょ? ()のわたしを後継者にするなら、()の方は普通に育てるか、他の家に養子に出すしかない。遠坂家にとっても、マキリの申し出は都合がよかったのよ」

 

 つまり。間桐桜という少女は──元々は、遠坂桜という名前であり。目の前に立つ遠坂凛の、実の妹だったのだ。

 ……そう言われてみれば、腑に落ちる節もあった。ただの後輩でしかないはずなのに、あれだけ桜に目を掛けていたわけ。桜が倒れた時に、あれほど取り乱していた理由。遠坂が桜の姉だというのなら、今までの言動はむしろ当たり前のことだった。

 

「そういうわけで、桜は間桐の後継者として養子に出されたのよ。それ以来、あの子とはまともに会えてなかったけど」

 

「そうだったのか……」

 

 何ということだろう。桜とあれだけ長い時間接していたにも関わらず……俺は大事な後輩のことを、その実何も理解していなかったのだ。おそらく桜の方でも、こんな形で自分の事情が暴露されるとは思わなかったに違いない。こんなことが起きなければ、俺と桜は、ただの先輩と後輩の関係でいられたはずなのだから。

 真相を知ってしまった以上、桜本人に黙っているわけにもいかない。桜が言わなかったということは、彼女はおそらく、自分が魔術師だという事実を知られたくはなかったのだろう。いや、そもそも、俺が魔術師の端くれだということさえ知らなかった可能性もある。いずれにせよ、今後桜にどうやって接するべきか、一度考える必要がありそうだった。

 

「──ふむ。存外大人しく待っていたようだな、おまえたち。まだ取り乱しているかと思ったが、杞憂だったようだ」

 

 と。桜のことを考えていると、奥の部屋から、長身の神父が姿を現した。鋼のような冷徹さは先刻と変わらないが、桜への治療の影響か、その額には僅かに汗が滲んでいた。

 

「言峰。桜の容体はどうなんだ」

 

「間桐桜への治療は、まだ終わったわけではない。今は応急処置を施したに過ぎん。

 事態は少々複雑だ。おまえたちへの説明も長くなる、座って話を聞くがいい」

 

 疲れを微塵も感じさせぬ口調で、言峰は淡々とそう告げる。だが、その口ぶりには何やら只ならぬものがあり、俺は遠坂と共に、まずは言峰の話を聞くことにした。

 

 ──曰く。間桐桜の体内には、寄生虫が棲んでいる。

 

 その正体は、刻印虫と呼ばれる虫だ。通常は宿主から魔力を食らい、ただ宿主の存命を発信するだけで、魔術師が用いる使い魔としては最低級のもの。そのままならば、何の害も及ぼさない存在だ。

 しかし、桜の中に棲みついた虫は少々事情が異なっている。刻印虫はただの寄生虫ではなく、魔術回路と酷似した、一種の神経めいた状態へと変質し、彼女の全身を隈なく覆い尽くしていた。桜が倒れたのは、何らかの要因によって、この刻印虫たちが暴走した結果なのだという。

 刻印虫は暴走することで、桜の体中から魔力を……生命力を奪っていった。生命力が奪われれば、ライダーに襲われた女子生徒のように、意識を失うのは当たり前だ。加えてこの刻印虫は、餌となる魔力がなくなれば、今度は肉体を食い漁っていく。ここに運び込んでいなければ、アーチャーの見立て通り、桜は本当に死んでいたかもしれないのだ。

 

「──おい」

 

 沸騰しそうな怒りを堪えて、言峰を正面から睨み据える。冷静に言葉を紡ぐこの神父には、何の咎もない。にも拘らず、今の俺は、激昂のあまり視界がぐらぐらと揺らいでいた。

 

「その刻印虫ってヤツが、自然発生するわけがない。それが寄生虫だっていうなら、寄生させたヤツがいるはずだ。……そいつは誰だ」

 

「……あのクソ爺」

 

 ぎり、と真横で歯を軋ませる音が響く。俺の問いに答えたのは言峰ではなく、激情を湛えた遠坂だった。

 

「間桐臓硯。間桐家の当主、何百年も生きてるっていう怪物よ。桜に何かできるとしたら、そいつ以外には有り得ないわ」

 

 間桐臓硯。そいつか。そいつが、桜をこんな目に遭わせたのか。

 怒りで拳が砕けそうだが、まだ疑問は残る。刻印虫は、そのままでは無害な存在だ。アーチャーの言葉も、言峰の説明を聞いた今なら分かる。桜の『内に潜むモノが寄生木ならば、ここまで宿主を痛めつけるはずがない』のだ。宿主を殺してしまっては、寄生虫としては本末転倒。ならば、桜でも刻印虫でもない第三の要因が、必ずそこに絡んでいる。

 再び顔を上げ、言峰と相対する。痩身の神父は、遠坂の言葉に頷くと、俺に感情の宿らぬ瞳を向けた。

 

「その通りだ。間桐慎二では刻印虫は扱えん。間桐桜に異物(むし)を仕込んだのは、間違いなく間桐臓硯だ。──刻印虫を暴走させたのも、あの妖怪の差し金だろう」

 

 身体と一体化した刻印虫の暴走。それは即ち、身体中の神経を焼き尽くされることに等しい。魔術回路を一から組み直していた時の俺でさえ、毎回激しい痛みを感じていたのだ。ただ一本神経を使うだけでそれなのに、全身の神経が異物に蝕まれる。その苦痛がどれほどのものなのか、俺如きには想像さえも許されまい。

 

「でも、おかしいわね。桜に刻印虫を仕込んだのは、何年も前の話でしょう。……あの子、髪も瞳も、とっくに遠坂の(もの)じゃなくなってるもの。何で今更になって、虫を暴走させるような真似をしたのかしら」

 

「その理由については、おまえたちの方が詳しかろう。──此度の聖杯戦争、間桐に属するサーヴァントがあったはずだが」

 

 ライダーのサーヴァント。そのマスターは、魔術の素養を持たぬはずの間桐慎二だった。

 考えてみれば、それがそもそもおかしかった。魔術師でないのなら、マスターになることも、サーヴァントと契約することも不可能だ。にも関わらず、間桐慎二はライダーを使役していた。……もっと他に、マスターに適した人材が居るというのに。

 間桐桜という魔術師。間桐慎二というマスター。間桐臓硯という黒幕。聖杯戦争を始めた家系であるマキリ。ライダーのサーヴァント。個々の点が線となり、次々と繋がっていく。パチリ、パチリと、パズルのピースが嵌っていくような感覚。

 

「つい先刻、教会の霊基盤で、ライダーの消滅を確認した。そしてライダーの消滅に前後して、間桐桜はこの状態に陥った──両者の間に関連があるのは確実だ」

 

 そうだ。俺とアーチャーが特別なだけで、サーヴァントの使役にはマスターの魔力供給が欠かせない。そして間桐慎二は、それだけの能力を持たなかった。ならば、その代わりを担う存在が居たとしても不思議はない。

 

「そもそもマキリは、サーヴァントとの契約の証──令呪そのものを考案した家系だ。()()()()()など、彼らにとっては容易いこと。実際、過去の聖杯戦争では、サーヴァントとマスターを繋ぐラインを分割した者も存在した。

 つまり。指揮者としてのマスターは間桐慎二だったが、実質的に魔力供給を担っていたマスターは、間桐桜だったのだろう。

 消滅したということは、戦いの末に敗れたということだ。戦闘を行うライダーへ魔力供給を続けた結果、彼女からは魔力が奪われ──餌のなくなった刻印虫は、こうして暴れ出したに違いない。もっとも、原因はそれだけではないようだが」

 

「桜が、マスターだって……?」

 

 それでは。聖杯戦争と関係ないといった慎二の言葉は、最初から嘘だったのか。あいつは平気な顔で、自分の妹から魔力を奪い取って苦しめ、その挙句、ライダーを使って人殺しをしようとしたのか。

 かつての友人への怒りで、拳が勝手に震え出す。ライダーが消滅しても、ついぞ姿を現さなかった慎二。……次に再会した時、果たして俺は、あいつを生かしておいたままでいられるのか。少なくとも、今この場にヤツがいたならば、俺は確実に慎二の首を斬り落としていただろう。

 

「迂闊……! 桜に令呪がないから、関係ないとばっかり思い込んでたわ。臓硯がどんな手を使って慎二をマスターに仕立て上げたのか疑問だったけど、そういう裏があったわけね」

 

 俺と同様、意表を突かれた様子の遠坂が舌打ちする。魔術師として一流の遠坂でさえ、桜がマスターである事実には今まで気付いていなかったのだ。

 ……だが、ここでふっと黄金のサーヴァントの横顔が過る。思えば最初から、あいつは桜のことを何処か注視している節があった。もしかしたら、アーチャーは最初から、桜の正体に気付いていたのかもしれない。俺たちに問われなかったから、答えを口にしなかっただけで。

 臓硯や慎二のみならず、アーチャーへの怒りも湧いてくるが、気合でそれを押さえつける。あの英霊は、そもそもそういう存在だ。気紛れで助言を与えることはあっても、積極的に関与することはなく、上から全てを見下ろしている。元々アーチャーはそういう立場を取っていたし、桜とライダーの繋がりに気付かなかった俺たちの落ち度でもあるのだから、あいつを責めるのはお門違いだ。

 

「納得がいったか。ならば話を続けよう。

 刻印虫が暴走した原因は他にもある。この虫は、ある条件を満たした時に限り、暴走するように仕組まれている。状況から鑑みるに、その条件とは──おそらく、『聖杯戦争の継続』だろう。サーヴァントであったライダーを失い、マスターとしての役割を遂行できなくなったことで、この虫は活動を開始したのだ」

 

 ──吐き気がする。言峰の言葉を聞いているだけで、どうしようもない不快感が身を震わす。

 

 桜は、誰よりも争い事を嫌う性格だ。彼女に虫を寄生させているというだけでもおぞましいのに、よりにもよって、間桐臓硯という怪物は、彼女が一番嫌う行為を強要しているのだ。魔術師の最も醜い側面を、俺は今まさに見せつけられていた。

 自らは手を汚さず、しかし裏で糸を操っている黒幕。マスターとサーヴァントを擁するからには、その狙いは聖杯という奇蹟に相違ない。ライダーが倒された以上、その目論見は潰えたと思いたいが、ここまで用意周到な魔術師が、手を(こまね)くとは思えない。いずれ何らかの形で関与してくるのは、火を見るより明らかだ。

 

「……待って。マスターじゃなくなったから活動を始めた、って言ったわよね。それじゃあ、このままだと桜は──」

 

「今のままではそう保つまい。新たにサーヴァントと契約を結ぶのでもない限り、刻印虫の侵食は進んでいく。結論から言ってしまえば、このままでは間桐桜は助からん」

 

 なんだそれは。そんな馬鹿な話があってたまるか。

 桜が死ぬ? つい数日前まで元気に食事を作ってくれていた後輩が、聖杯戦争とは関係ないはずだった彼女が、どうしてそんな目に遭わなくちゃいけない──!

 

「……ふざけるな。何で今更になって、桜がこんなことになってるんだ」

 

「私が見た所、間桐桜は戦闘用の調整を施されていない。もともと臓硯は、此度の戦いで彼女を利用する気はなかったのだろう。

 それが何らかの理由で、突如彼女を使う必要に迫られた。それが何かは知らんが──間桐桜をこのように扱ったのは、何らかの狙いがあると見て然るべきだろう」

 

 間桐臓硯の目的。そんなものはどうでもいい。今重要なのは……このままでは、桜が助からないということ。どうにかして、彼女が助かる方法を見つけなければ。

 

「そうだ。寄生虫が巣食ってるっていうなら、駆除はできないのか?」

 

「……それは難しいな。既に刻印虫は間桐桜と同化し、彼女の一部となっている。これを取り除くということは、身体中の神経を引き抜くことと同義だ。

 だが、私もみすみすあの老人の思い通りにさせるのは腹立たしい。絶望的ではあるが、これから刻印虫の摘出に取り掛かろう」

 

「えっ……!?」

 

 遠坂の驚愕。その驚きも当然だろう。この、およそ人情味を感じさせない神父は──この瞬間、本気で『間桐桜を助ける』と宣言していたのだ。

 冗談かとも思ったが、言峰の瞳は真剣だ。これまでの、どこか得体の知れない嫌悪感を考慮に入れたとしても、今の言峰綺礼は信じるに値する人間だった。

 

「これからの手術は、濁流で木々を薙ぎ払うようなものだ。魔力による力づくで、間桐桜に巣食った刻印虫を押し流す。──なに、私の魔術刻印は消費型でな。大半を使い尽くすことになるだろうが、この場合は都合がいい」

 

 その言葉で、遠坂が再び愕然とした。恐らく今の俺も、遠坂と同じ顔をしているのだろう。先祖代々伝わってきた魔術刻印を──この男は、たった一人のために使い潰すと言ったのだ。それが魔術師にとってどれほど重い決断なのかは、正当な魔術刻印を受け継がなかった俺には想像もつかない。魔術刻印とは、魔術師にとっては命よりも重いモノなのだ。

 

「ちょ──アンタ、それ本気で言ってるわけ!?」

 

「無論だ。これでもこの身は神父でな、救いを求める命があるというならば、見捨てるわけにもいかん。この身を賭して、間桐桜の命を救ってみせよう。

 ──だが、私が持つ魔術刻印だけでは、彼女を救うには一手足りん。何しろ、十一年にも及ぶ汚泥を汲み出すのだ。この身一つの魔力では限りがある。

 凛。おまえは確か、魔力を込めた宝石を持っていたな。間桐桜を救いたいのなら、それを私に渡せ。宝石を魔力タンクとして用いる術は、時臣師から教わっている」

 

「っ……! 今持ってるのはこれだけよ。これで足りる、綺礼?」

 

 一瞬躊躇ったものの、言峰の言葉に応じ、懐から赤いペンダントのようなものを取り出す遠坂。その瞬間、強烈な既視感に襲われた。俺は以前、あの宝石を、どこかで見たことがあるような──?

 ほんの僅かな間、覚えても居ない何かを思い出そうと、俺の思考が途切れる。その間に、宝石は遠坂から言峰に投げ渡されていた。危なげなく宝石を掴みとった言峰は、ふむ、と感心したように呟く。

 

「これは──百年物の宝石と見たが、大半の魔力が失われているな。何に使ったのかは知らぬが、随分と大盤振る舞いをしたものだな、凛」

 

「今はアンタの批評を聞いてる場合じゃないのよ。それで桜を救うのには十分かって訊いてるの」

 

「無論だ。我が主の御名において誓おう。──私は全身全霊を以て、間桐桜の命を救ってみせると」

 

 いけ好かない、どこか陰のある嫌味な神父。それが、言峰綺礼という男の印象だった。だがしかし、今この瞬間──この男は、他の何よりも敬虔な神父へと変身していた。

 いや──変わったのではなく、元々あるべき立ち位置に戻ったのか。いずれにしても、桜を救うと誓った神父は、まぎれもなく本気だった。絶望的だと口にしつつも、それでもやり遂げてしまうだろうという確信さえ持てるほど、言峰の全身には気迫が満ちていた。

 

「これより手術を執り行う。居座られては施術の邪魔だ。おまえたちは、どこぞで時間を潰してくるがいい」

 

 疾く立ち去れ、と手を振る言峰。そんな神父を一瞥すると、遠坂は。

 

「そう。じゃ、悪いけど、後は任せるわ。──手術が成功したとしても、それが無駄になる可能性は高いでしょうけどね」

 

「ちょっと待て。無駄になるって、どういう意味だ、遠坂」

 

 立ち去ろうとした遠坂の肩を掴んで止める。今の言葉は、流石に聞き過ごせなかった。

 桜の体には、刻印虫が棲み付いている。それを駆除すれば、問題は解決する。その為の手段は困難だが、遠坂と言峰の協力で、漸く実現可能なところまで漕ぎ着けた。ならば後は、手術の成功を祈るばかりだというのに──彼女は何故、そんなことを口にしたのか。

 

「……刻印虫は桜の神経と一体化してる、って言ったわよね。多分それ、あの子の内臓──心臓まで侵食してるわ。いくら綺礼でも、心臓を引き抜くような真似は無理よ。どうしても、その部分の虫は取り除けない。せいぜい、今までの状態を維持するのが限界でしょうね。

 これがどういう意味か分かる、士郎? 桜の心臓に蟲がいる限り、間桐臓硯はあの子を自由に操れる。桜を解放したいのなら、臓硯を倒すしかないでしょうけど……わたしたちが臓硯を倒そうとしても、臓硯は必ず桜を盾に使う。臓硯を倒したいのなら、桜を先に倒すしかない。

 それを差し引いても、今の桜は危険だわ。魔力を奪われているだけならまだいいけど、最悪、このままだと足りない魔力を求めて暴走する可能性もある。自分を制御できなくなった魔術師なんて、導火線に火が付いた爆弾と同じよ」

 

 それは、つまり。どうあっても、間桐桜は助からないということではないのか。

 虫を放置すれば、桜の体は刻印虫に蝕まれていく。虫の暴走を止めるため、新たなサーヴァントを宛がえば、桜は新たなマスターとして俺たちに敵対する。どの道を選ぼうと、桜が臓硯の操り人形であることに変わりはない。例え言峰の手術が成功しても、今日死ぬか、明日死ぬかという違いしかないのだ。

 見たこともない、間桐臓硯という老怪。何処かで糸を引いているであろう魔術師の悪辣さに、心底から吐き気がした。俺たちが桜を手に掛けるという選択肢を選べないことまで見透かしてこのような手段を採ったのだとすれば、そんな邪悪は生かしておいて良い道理がない。

 

「桜のことを思うなら、ここで()()()()()()()のが一番よ。

 これが桜だけの問題ならまだ話は違っていたんでしょうけどね。あの子が臓硯の手駒だっていうなら、どう転んでもあの子は救われない。綺礼の手術だって、一時凌ぎの手段に過ぎないわ。ちょっと臓硯がその気になれば、桜はまた今の状態に逆戻りよ。結局、あの子は苦しみ続けることになる。

 覚悟を決めなさい、衛宮くん。貴方(セイギノミカタ)が救えるのは──」

 

 ──貴方(セイギノミカタ)が選んだ人間だけなんだってことを。

 

 そんな、いつか聞いたような台詞を最後に残すと。遠坂凛は、教会から立ち去った。

 

 

 

***

 

 

 

「──なんだ。随分と不景気な顔をしているな、雑種」

 

 ふらつくように、教会の外に出て行くと。頭上から、傲岸な声が降り注いだ。

 半ば反射的に、声が聞こえた後方を仰ぎ見る。すると、教会の屋根の上に、まるでそこが玉座であるかの如く、足を組んで座り込んだアーチャーの姿があった。

 俺を見下ろす紅い双眸には、こちらの懊悩を楽しむかのような色が見えた。他人の不幸を嗤うかのようなその視線に、むっとした怒りを覚える。

 

「そういうアンタは機嫌が良さそうだな、アーチャー」

 

「なに、貴様らが慌てふためく様は些か以上に滑稽でな。道化の芸も、ここまでいけば一つの極みよ」

 

 余りの暴言に、開いた口が塞がらない。途方もない暴君ぶりに怒りさえも湧かず、呆然とアーチャーを見上げていると、俺を睥睨していたサーヴァントが、唐突にこちらに飛び降りてきた。建物数階分の高さから着地したというのに、平然としたままのアーチャーを見ていると、改めてサーヴァントという存在の規格外ぶりを感じる。

 教会の入り口から数歩手前、俺の正面に降り立った黄金のサーヴァント。偉そうに腕を組んだアーチャーは、再びその人ならざる瞳を俺に向けてきた。

 

「で、あの娘は結局どうなったのだ」

 

「……アーチャー。アンタ、桜のこと心配してくれてたのか」

 

「たわけ」

 

 この男にしては珍しい、他者を気に掛けるという行為に驚くと、アーチャーは退屈そうに鼻で笑ってそう言い捨てた。一瞬でも、この英霊に人並みの情を期待した俺が馬鹿だったらしい。黄金のサーヴァントは、およそ人情というものを解さない悪鬼に等しいのだ。

 

「あの娘は珍しいモノであったからな。些かばかり興味が湧いたに過ぎん。──それで、どうだ。我の見立てでは、あと二日も保たぬといったところだが。何か策は見つかったか」

 

「ああ。この教会の神父が、桜を助けてくれるらしい。……でも」

 

 ギリ、と無力さに歯を噛み締める。そこから先は、半ば勝手に口を動かしていた。

 桜の体に、刻印虫が巣食っていること。その刻印虫が、彼女の体を蝕んでいること。言峰の手術は、一時凌ぎにしかならないこと。そして、桜の命は臓硯に握られており──このままではどうあっても、桜は助からないということ。

 一通り話し終えたことで、改めて自分の無力さを思い知らされた。言峰は、桜を救うのに全力を尽くしてくれる。遠坂は、桜を苦しませないよう覚悟を固めている。それに対して、俺のこの様は何なのか。力も覚悟も持たない俺は、ただの半端者ではないのか。

 

「ふん、やはりこうなったか。あの娘、早めに死んでおけば楽であったろうに」

 

 どこか遠くを見つめ、ぼそりと低く呟くアーチャー。何と言ったかまでは聞き取れなかったが、その横顔には、不快な感情が混じっているように思えた。

 

「それでどうする、雑種。このままあの娘を殺すか」

 

「ッ……! そんなこと、できるわけないだろう!」

 

 冷酷なアーチャーの言葉に、反射的にそう反発してしまう。昨日まで元気だった後輩が、あんなに苦しんで死にかけていて、しかもそこから逃れる術がないという。そんなふざけた話を突然持ち込まれて、はいそうですかと頷けるわけがない。

 ……だが、今の俺が感情に突き動かされているだけだということも、心の隅では理解できていた。現実はどこまでも冷たい。桜は、間桐臓硯という怪物の操り人形だ。加えて彼女のサーヴァントだった、ライダーがやってみせたように、桜は魔力を求めて他者を襲うような可能性さえ持っているのだ。否、彼女が望まずとも、臓硯がそのように命令を下すかもしれない。無関係な他の人間にまで被害を出す──正義の味方として。それだけは、断じてあってはならないことだ。

 遠坂も言っていた。切嗣も言っていた。正義の味方(エミヤシロウ)が救えるのは、正義の味方(エミヤシロウ)が選んだ人間だけなのだと。犠牲を最小限に抑えようとするならば、俺は桜を──

 

「──殺すしか、ないのか。他の人を巻き込まないためには、それしか……」

 

「たわけ。それは自ずから導き出した答えではなく、他者の借り物だ。我が聞きたいのはそのような妄言ではない。正論などどうでも良い。我は、()()()()()()()()()を訊いているのだ」

 

 と。悠然とした態度を崩さぬまま、黄金のサーヴァントは、俺の言葉をそう一蹴した。その言葉の意味するところが分からず、目を白黒させる。

 動転する俺をどう思ったのか、アーチャーの瞳孔がすっと細まる。その奥には、この英霊が常に漂わす愉悦の色だけでなく、どこか賢者を思わせるような深遠さが宿されていた。

 

「他者の知恵を借りるのは構わぬ。だが、それを盲信はするな。最終的な結論を出すのは、他ならぬお前自身なのだ。

 ──ふむ。雑種どもが言う通り、確かにその女は助からぬのかもしれぬ。しかし、為すべきこととやりたいことは全くの別物だ。改めて問うぞ、衛宮士郎。お前は、あの娘をどうしたいのだ」

 

「俺は──」

 

 その言葉に、凍りつく。俺が何をするべきなのか。何をやりたいのか。そんなこと、とうの昔に分かっていた。

 俺は、余分な犠牲を出さないため。戦いを止めるために、聖杯戦争に参戦した。他人に被害を及ぼすモノと戦う──それならば。間桐桜という魔術師は、排除されなければならない存在だ。慎二を生かしておいたがために、学校がどんな惨状になったか忘れたのか。

 けど、違う。それは為さねばならないことではあっても、俺がやりたいことでは断じてない。それが不可能なことだと分かり切っていたとしても、俺は──

 

「──桜を、助けたい。だけど、余計な犠牲は出したくない。欲張りだって言われるかもしれないけど、俺には、どっちも見捨てられない」

 

 それが、ただの我儘だと分かっていても。両方を選ぶことなど、できないと知っていても。どちらか片方を切り捨てることなど、俺にはできやしない。

 間桐桜を見捨てれば、俺は俺でいられなくなる。その道を選べば、正義の味方という名の機械に成り果てる。本当はそれが正しいのかもしれないが……俺は今まで、"正義の味方"という言葉に囚われ過ぎてはいなかっただろうか。アーチャーが指摘した通り、その答えの源流にあるモノは、衛宮切嗣が遺していった言葉──即ち、他者の借り物だ。それにきちんと向き合わず、ただ額面通りに受け入れるだけでは、切嗣への誓いを果たしたことにはならないのではないだろうか。俺は俺自身の中でさえ、"正義の味方"というモノを定義できていないのだから。

 かと言って、他の大勢の人間を見捨てることなどできるはずもない。根底にあるモノが切嗣への誓いだったとしても、この想いは本物だ。魔術師同士の聖杯戦争で、無関係な他人に犠牲が出るなど、絶対にあってはならないことだ。それを放置した結果が、十年前の大災害であり、その被災者である俺なのだから。こんな人間を、これ以上生み出すわけにはいかない。

 

「──なんだ。心得ているではないか、雑種。欲などいくらでも張れば良い。お前は、お前が思うままの道を進めば良いのだ」

 

 だが。俺を嘲笑するかと思われたアーチャーは、何処か満足そうな笑みを浮かべて見せた。そこには俺を見下す色はなく、ただ謎の上機嫌さだけが残る。俺の言葉の何かが興に乗ったのか、血色の瞳は、妖しげな輝きを放って俺を見下ろしていた。

 

「……だけど、それは無理なんだ。どうやっても、桜は助からない。桜を助けようとすれば、他の人が犠牲になる」

 

「それは早計だな、雑種。貴様は思い切りは良いが、視野が狭すぎる。今少し眼を見開いてみよ。貴様の言う二つの条件──女を救い、同時に雑種どもの命も救う。それは果たして、本当に不可能なのか?」

 

「──なんだって?」

 

 思わぬアーチャーの言葉に、半ば怒鳴るようにしてそう訊き返す。人ならざる慧眼を持つこの英霊は、この事態に際しても、取るべき道が見えているというのだろうか。

 驚く俺を余所に、アーチャーは平然としたままだ。俺も遠坂も、言峰さえもが打つ手を持たなかったというのに、このサーヴァントだけは違う何かを見据えている。その恐ろしいほどの視野の広さが、今ばかりは頼もしかった。

 

「やはり思い至らなんだか。道があることにすら気付いていないというのなら、選択肢程度は示してやろう。

 聖杯戦争を始めた家系は三つあると言ったな、雑種。マキリはあの娘を傀儡として用い、遠坂の娘は打つ手がない。──では、残りの一つはどうだ」

 

「──あ」

 

 アインツベルン。

 遠坂からの受け売りになるが、聖杯戦争を始めるにあたり、三家の中でも中心となった特別な一家。莫大な財力と、千年を超える並外れた歴史を誇る彼らは、魔術の中でも錬金術に特化した家系だという。彼らの手にかかれば、人間以上の性能を誇るホムンクルスさえもを生み出すことが可能らしい。

 確かに……確かにそうだ。それだけの歴史と技術を持つ家ならば、この事態に対しても、何か打開策を持ち合わせているかもしれない。桜の異常は、魔術によって引き起こされたもの。同じ魔術であれば、それに抗し得る手段がないとは言い切れない。

 

「……でも、イリヤが協力してくれるかどうか。俺には、差し出せるものなんかない」

 

 問題はそこだ。魔術の規則は等価交換。何かを欲するのならば、それに等しい何かを捧げなければならない。通常の魔術師同士でさえそうだというのに、相手は聖杯戦争のマスターだ。イリヤスフィールにとっては、俺も桜も、敵のマスターの一人でしかない。そんな俺たちを、どうして助ける理由があるだろうか。

 

「ふん。財ならば、貴様は既に持っていよう」

 

「財だって? ……うちに金なんかないぞ、アーチャー。それに、アインツベルンは大富豪だ。金なんかで動くわけがない」

 

「たわけ。だから視野が狭いというのだ、貴様は。財とは、貨幣のみを示すモノではない。貴様ら人間にとって、()()()()()()を齎すモノを財というのだ。

 よく考えるがいい、雑種。アインツベルンとやらは、聖杯を求めているのだろう? ならば話が早い。此度の聖杯戦争で何が起きているか──貴様は昨晩、その眼で見たばかりではないか」

 

「──セイバー」

 

 そうだ。今回の聖杯戦争では、明らかな異常が起こっている。最優のサーヴァントを飲み込むほどの力を持った、謎の黒い影。以前会った時、イリヤはその存在についてまったく知らないと言っていた。ならばこの情報──あの影とアサシンは連携しており、昨晩セイバーが倒されたという事実は、イリヤにとって利益になるのではないか。聖杯を求めるのであれば、あの存在は明らかなイレギュラーなのだから。

 アーチャーの言葉で、立ち込めていた暗雲が、俄かに晴れたような気がした。まだ解決したと決まったわけではないが、誰一人犠牲を出さずに済む可能性が見えてきたことで、絶望の中に一筋の光明が差しこんだのだ。この規格外のサーヴァントは、いつも思いがけない道を示してくれる。こと助言者という立場に限っては、アーチャーという男は、どこまでも頼りになる人物だった。

 

「サンキュー、アーチャー。後で遠坂にも話してみるよ。イリヤの居場所ならもう知ってるから──明日、アインツベルンの森に行く」

 

 

***

 

 

「────」

 

 石造りの広い部屋。その中央にある台の上で、女が寝かされていた。

 横たわる女の上には、一切れの布がかけられている。あるものは、ただそれだけ。女は、一糸纏わぬ裸身だった。眠っているのか、布に包まれた胸部は規則正しく隆起を繰り返している。

 女の側には、黒い僧衣服(カソック)に身を包んだ男の姿。一見すれば、男が女を襲おうとしているような情景だったが、神父の纏う雰囲気が、そのような想像を抱かせる余地を与えない。長身の神父は、どこまでも真剣な瞳で、眠る少女を──間桐桜という名の魔術師を、静かに見下ろしていた。

 峻厳たる面持ちとは裏腹に、その額には大粒の汗が流れ落ちる。それもそのはず、彼はたった今、全身全霊を賭した大手術を成し遂げたばかり。十一年もの間、間桐桜という少女を犯し抜いてきた刻印虫。彼女とほぼ一体化したそれを、言峰は見事に排除してみせたのだ。彼の成果は、それ自体が一つの奇蹟でもあった。

 一歩、二歩、と後ろに下がると、壁に体を預ける言峰。歴戦の代行者であり、治癒魔術に長けた彼をしても、精神力を限界まで燃やし尽くす大手術。いや、尽きたのは精神力だけではない。彼が持つ魔術刻印──正確には、監督役に預けられる、使()()()()()()()令呪の数々。彼はこの手術のために、一つ一つが大魔術に等しいそれらの、大半を使い潰すこととなった。

 通常の魔術師ならば、まず考えられないような暴挙である。しかし、言峰綺礼という男にとっては、そんなものはただの些事に過ぎなかった。

 

「──ふん。ここまで力を注いだのだ、おまえには生きていてもらわねば困る。

 間桐桜という人間が生き残れば、苦悩する者が増えるだろう。衛宮士郎も遠坂凛も、おまえの処遇にはさぞや頭を抱えようからな。私にとっては、その方が好ましい」

 

 そうぼそりと呟いたところで、言峰は一人の青年を思い出した。

 

 ──英雄王ギルガメッシュ。

 

 第四次聖杯戦争の勝者であり、無限の財を持ち、半ば不老不死となった半神半人の大英霊。何の偶然か、今は言峰綺礼ではなく、衛宮士郎のサーヴァントとなっている彼の英雄。彼の財宝を以てすれば、このような事態など一瞬にして打開してのけるのだろうが……。

 

「……だが、奴らは英雄王ではなく教会を頼った。あの男の気分が乗らなかったという線も強いが……事によれば。あの男にも、何らかのイレギュラーが起きているのかもしれぬな」

 

 監督役である言峰の目からしても、今回の聖杯戦争は余りに異常だった。

 前回の聖杯戦争でも、イレギュラーな事態はあった。聖杯に興味を持たぬキャスター主従と、彼らが引き起こした惨劇の数々。加えて、最後に起きたのは日本全土でも稀に見る大災害。だがそれらは、あくまでも聖杯戦争の枠組みの中で起こった出来事だ。

 今回は違う。手始めに、言峰と契約していたギルガメッシュが、突如契約相手を変えたことからしておかしかった。今となっては、サーヴァントでもマスターでもない存在が出没し、町の人間から魔力を奪い取る有り様だ。世間では行方不明と報じられているが、犠牲者も少なくはない。寧ろ、日に日にその数を増やしつつある。これは明らかに、聖杯戦争の域を超えた異常である。

 

「──しかし、おおよその絡繰りは読めた。此度の聖杯戦争は、間桐桜が()だったか。中身を見てようやく分かったが、アレは間桐桜の影だ。この娘は、小聖杯として機能し始めている」

 

 それは、何の偶然か。

 聖杯戦争とは、サーヴァントを呼び出す「大聖杯」と、敗北した彼らの魂を留め置く「小聖杯」によって成り立つ儀式だ。六騎のサーヴァントが敗北し、彼らの魂という膨大な魔力が「小聖杯」に注がれることで、「小聖杯」は願望器としての役割を持つようになる。その器は、代々アインツベルンが鋳造することとなっていた。

 だが、今回の聖杯戦争は違う。どこで何が狂ったのか、「小聖杯」としての役割は間桐桜が担う結果になっている。それだけでなく、「小聖杯」となった桜を通して、聖杯の中に潜むモノが現れる気配さえ感じ取れた。今回の聖杯戦争を狂わせている、謎の黒い影──その原因は、眠っているこの少女にこそあったのだ。

 

「そうだろう、間桐臓硯。このような事態を招いたのは、貴様が裏で手を引いたが故だ」

 

 壁に肩を預けたまま、言峰がそう冷たく告げる。神父と少女の他には、誰もいないはずの部屋。にも関わらず、そこに見えぬ第三者がいるかのように、言峰はある方向を睨み据えていた。

 懐に手を伸ばす言峰。彼の手に握られるのは、黒鍵と呼ばれる投擲武装。霊体に対して圧倒的な干渉力を誇るそれは、サーヴァントにさえ通用する。三挺の黒鍵を油断なく引き抜きながら、言峰は一点に視線を注ぐ。すると、驚くべきことに、まるで闇が実体となったかのように、部屋に現れる姿があった。

 

「──呵々。流石は教会の狗よ、こうして気付かれるのはこれで二度目よな」

 

 部屋の片隅。ただ電灯の影だけがあったはずのそこから、突如として影が盛り上がると、痩せ細った小さな老人の姿へと変貌した。黒影を手にした言峰は、老人を威圧的に睨み据える。何故ならば、この老魔術師こそは間桐家の真の主。数百年にも亘って延命を繰り返し、既に人の身から逸脱した、それ自体が一種の死徒じみた存在である。十年前に一度、直接相対して以降、言峰はこの老人を危険な魔人であると認定していた。

 

「それで用件はなんだ、間桐臓硯。()()()()()()()()()であるお前がこの教会に訪れるとは、只事ではあるまい」

 

「ホホ、そこまで見抜いておったか。ランサーを簒奪した腕前は伊達ではないのぅ、代行者」

 

 嗄れた声で、人ならざる笑みを漏らす臓硯。英雄王とは違った意味で、人のものではないその表情に、言峰の雰囲気は鋭いものになる。手術の後の疲労など、既に言峰の意識にはない。彼はこの人外を敵と断じ、戦闘態勢に移行していた。握り締めた三挺の黒鍵は、コンマ一秒で投擲できる位置にある。

 だが、敵意を叩き付けられながらも、臓硯の顔に怯えはない。にたり、と再度滴るような笑みを零すと、老怪は代行者を制するように両手を上げた。

 

「待て待て。儂はお主と戦いに来たわけではない。可愛い孫を救ってくれたお主に、少しばかり礼をしようと思っての」

 

「何を白々しい。お前と愚論を交わす気はない」

 

 ギラリ、と示威するように黒鍵の刃が光る。十年前の邂逅で、言峰はこの老人を、いずれ滅ぼさねばならぬ存在だと確信していた。数百年を生きる大魔術師となれば、どのような術を用いてくるか分かったものではない。いかに言峰が歴戦の代行者とはいえ、油断のできる相手ではなかった。

 加えて、今の間桐臓硯は、アサシンのサーヴァントのマスターでもある。ランサーを伝って手に入れた情報と、教会の情報網とを加味した結果、言峰はその結論を既に導いていた。となれば、一対一で相対するのは愚行に他ならない。

 アサシンの奇襲にも対応できるよう、ランサーを召喚するための令呪にも気を配る。大半を使い潰したとはいえ、言峰の腕には未だ使われていない令呪が数個残る。臓硯が戦を仕掛けてくる心積もりなら、言峰は即座に応戦するだけの用意があった。未だランサーを呼び出していないのは、臓硯の目的が不明瞭であるからに過ぎない。

 

「愚論か。果たして儂の言葉を聞いた後でも、お主にはそう言い切れるかな?」

 

 好々爺めいた、しかし違和感の拭えぬ笑みを浮かべたままの臓硯に対し、言峰は無言。威圧するように掲げられた黒鍵にも臆せず、老魔術師は言葉を続ける。

 

「十年前にも儂は言うたはずよ。聖杯戦争のシステムは、何かが狂いだしておると。此度の五度目は、その中でも極めつけよ。十年で戦端が開かれただけでなく──()()()()()()()()既に戦が始まっておる。此度ばかりは、儂も手を拱くわけにはいかなんだ」

 

「なに……?」

 

 臓硯の言い放った内容が咀嚼できず、眉根を顰める言峰。聖杯戦争が正しい在り方から外れていることは、とうに知悉していることだが……七騎のサーヴァントなど、とっくに召喚が終わっているではないか。三騎のサーヴァントが倒れた今、戦いは中盤から終盤へと移行しつつある。だというのにこの老人は、一体何を言い出すのか。

 言峰の反応は予想の範疇だったのか、笑みを一層深める臓硯。思いがけない言葉によって、この場の主導権は、完全に彼へと移っていた。

 

「聖杯戦争は、七騎のサーヴァントが召喚されることで始まる。マスターなど、そもそもはサーヴァントのおまけに過ぎん。だというのに此度は、マスターは兎も角、サーヴァントの方は未だ()()()()揃っておらぬではないか」

 

「何を言う。セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー。七騎全てが召喚済みであることは、教会でも確認している」

 

「いやいや。お主とて、何かがおかしいと気付いておろう。衛宮の小倅のサーヴァント──あのアーチャーは、()()呼び出された英霊よ。()()の聖杯戦争における()()()()()()()()()。謂わば、イレギュラーの八騎目よ。アレのマスターだったお主なら、分かっているかと思ったのだがのぅ」

 

「────」

 

 言峰の思考が凍る。老人の言葉には、確かに思い当たる節があったからだ。

 五度目となる聖杯戦争。七騎のサーヴァントのうち、アーチャーと呼ばれる彼だけが、正しく召喚された英霊ではない。臓硯の言が正しいとすれば、現在のアーチャーの状態は、再召喚ではなく、単なる契約対象の変更。前回の戦いにおいて、言峰綺礼が、本来のアーチャーのマスターだった遠坂時臣に対して行った行為と相違ない。

 

「これでは、始まる物も始められん。器を満たすには、七騎の英霊が正しく呼び出され、その魂が注がれなければならんかのぅ。──どうじゃ。監督役のお主に、見過ごしておける事態ではあるまい?

 いやはや、このような事態は真っ先に監督役に伝えねばならぬことであったが、此度は何分狂いが大きすぎてな。儂とて、全容を掴むまでには時間がかかったのよ」

 

 臓硯が言葉を続けているが、既に言峰の意識はそちらにはなかった。彼は高速で、予想だにしなかった真実について思考を巡らせていた。

 今回の聖杯戦争では、サーヴァントが六騎しか召喚されていない。黄金のアーチャーは、あくまで前回のサーヴァントに過ぎず、今回の正式な参加者ではない。では、今回の聖杯には、()()()()サーヴァントを喚ぶ力が残っている──?

 

「というわけでな。間桐家の当主として、儂はお主に、休戦協定を申し込みに来たのじゃ。此度の異常は度を超えておる。儂はこの異常について、もう少々調べねばならん。

 なに、そう難しい話ではない。お主はただ、儂の行動に目を瞑っていてもらえば良い。その約定を違えぬ限り、儂は最後までお主には手を出さぬし──お主はお主で、その間は()()()()()が良い。儂の情報を生かすも殺すも、全てはお主次第よ」

 

「…………」

 

 沈黙し、構えていた黒鍵をゆっくりと下ろす言峰。少なくとも臓硯の言葉は、言峰に交戦を断念させるだけの重みを持っていた。

 異常を調べる、というのは方便に違いない。そのほど度は言峰にも読めている。おそらくこの老人は、聖杯戦争に何らかのアクションを起こすつもりであり……そこには監督役として、そしてランサーのマスターとして、言峰綺礼に介入されるとまずい事情があるのだろう。

 だが、老人の情報は確かに有用だった。七騎目のサーヴァントが召喚されておらず、その席が未だ空白であるという事実は、今の時点ではこの老魔術師と言峰以外の誰にも知られていまい。だとするならば──この戦争における言峰の立ち位置は、俄かに変わって来る。おそらくはそれすらも見越して、間桐臓硯はこの情報を渡してきたのだろう。

 

「クク、此度はこれで退いておくとしよう。ではな、綺礼よ。いずれまた見えようぞ──」

 

 そう言い残すと、現れた時とは逆に、臓硯の姿は闇に溶けるように消えていった。それをまるで蟲の群れのように錯覚し、言峰は目を瞬かせる。

 しかし、それも一瞬のこと。臓硯の気配は瞬きの間に消失し、後にはだらりと黒鍵を提げた言峰と、未だ眠りつづけたままの桜だけが残された。黒鍵を僧衣の内に仕舞い込み、言峰は静かに思索に耽る。

 今回の聖杯戦争。当初言峰は、前回の聖杯戦争と同様、序盤は斥候役となるサーヴァントを放ち、最後に最強の英雄王(ギルガメッシュ)を動かすことで、己が望みを果たす目算だった。だが、英雄王が謎の契約変更を遂げたことで、その目論見は儚く潰えた。言峰は隙を伺いつつ、捨て駒のつもりだったランサーを上手く使う必要に迫られた。キャスターと同盟を結んだのも、言峰にとっては聖杯戦争を()()()()戦略の一環だった。

 ところが。英雄王の代わりとなる、もう一騎のサーヴァントを召喚できるとなれば、状況は一変する。言峰綺礼は見習い程度とはいえ魔術師であり、令呪も有しているのだ。──聖杯戦争のマスターとしては、十分以上に資格がある。

 

「──フ。ハハハ、ハハハハハハ! そうか! これもまた、主のお導きと言うことか!」

 

 こうして。混迷を極める第五次聖杯戦争は、再び大きく動き出すことになる。嵐の中心にある言峰の顔は、かつてないほどの笑みを湛えていた──。


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