【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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一年以上、大変お待たせいたしました。更新再開です。


23.誘いの森

 ―――黄金の夢を見る。

 

 いつか見た大きな城。玉座に座っている人物は、あの黄金の王―――アーチャーだった。以前の戦いから月日が経過したのか、傷を負っていた形跡など欠片も無く、砕け割れていた黄金の鎧も綺麗に修復されている。ただ在るだけで世界を軋ませる圧倒的な覇気、この世の全てを射抜くかのような紅の瞳。命を燃やす激戦などまるで無かったかのように、男の姿は何一つ変わっていない。

 ……いや。正確には、彼では無く、周囲の光景の方が変わっていた。男に恐怖し、畏怖し、傅いていた何人もの臣下たち。王の絶対的な王気(オーラ)に支配され、後ろに控えていた彼らの姿が見当たらない。代わって彼の横に佇むのは、質素な衣装を纏った人物だった。

 その人物こそは、この世界でただ一人、王に真っ向から刃向かった戦士。天地を揺るがす程の激闘を繰り広げ、比肩し得る者のない力を持つ王と、遂には引き分けに持ち込んで見せた男―――いや、男なのかどうかは定かでは無い。更に言うならば、人間なのか否かすら判然としない。端麗な美貌と、どこか作りものめいた雰囲気は、精巧な人形のようにも感じられる。

 

「―――。今日は…………に……か?」

 

 王の遠方ではなく、後方でもなく、『隣』。彼と対等であると示すかのように、真横に並んだ人物―――「彼」とも「彼女」とも「人間」ともとれぬ人物故、以後は「人形」と呼称する―――は、まるで友人に接するような気楽さで、王に何かを問いかけた。

 王である自分に逆らった大逆者。それも、自らに匹敵する力を持つ敵がこのような振舞いをするなど、今までのアーチャーなら激昂しても不思議はなかったのだが……驚くべきことに、彼が見せた表情は苦笑。そればかりか、呆れたように肩を竦め、人形に対して自然体のまま答えを返す。何らかの冗談を口にしたのか、今度は人形の方がくすくすと笑みを零した。

 信じがたいことに……そこにあったのは、敵同士でも、王と臣下でもなく、対等な友人同士の姿だった。恐らくはあの激戦を通して、二人の間には何らかの絆が結ばれたのだろう。今までは、笑みといえば嘲笑や哄笑しか見せなかったアーチャーは、心から楽しそうに笑っている。やがて一しきり笑い終えると、アーチャーは玉座から徐に立ち上がった。どこかに出かけようというのか、玉座の間から出て行く彼の後を、軽やかな足取りで友が追いかけて行く。

 

 ―――そこからの光景は、流れるように過ぎて行った。

 

 たった数日に過ぎなかったのか、それとも何年にも亘っていたのか。一瞬だったような気もすれば、永遠だったような感覚もある。王と人形という二人の超越者は、そのどれを取っても伝説を築けるような、数々の冒険に飛び込んで行った。彼らの旅路が余りにも鮮烈で、躍動感に溢れていたから、見ている側はいつの間にか時間の感覚を喪失していた程。

 絶対王者として君臨しながら、どこか退屈さのようなものを纏わせていたアーチャーは、友と共に歩む間はその呪縛から解き放たれていたようだった。未知なる愉悦の前では、飽きなど来よう筈も無い。

 

 魔獣が跋扈する秘境を踏破したことがあった。熱風の荒野で、死の淵を彷徨ったことがあった。

 洞窟の奥で、財宝を手に入れたことがあった。未知の呪いを受け、窮地に陥ったことがあった。

 怪物と戦い、死闘の末勝利したことがあった。神の試練の前に、敗北を覚悟したことがあった。

 迷宮と化した塔を完全制覇したことがあった。異界に踏み込み、背筋を凍らせたことがあった。

 

 勝利と敗北。栄光と名声。成功と挫折。歓喜と苦痛。彼ら二人の冒険は、人間離れした偉業ではあったが、同時に誰よりも人間らしい彩りに満ち満ちていた。その輝きは、地上どころか天界の果てにまで届き、民衆の噂によれば、偉大なる神々ですら彼らから目を逸らすことが出来ぬ程だった。

 

「貴様が来てからというもの、我の蔵には落ち着きが無い。財宝を投げ撃つなぞ、頭の悪い癖をつけさせてくれたな」

 

 幾多の苦難を踏み越え、数多の難敵と戦う中で、アーチャーはいつしか戦い方を変えるようになっていた。一本の剣を手に取って戦うのではなく、どこか異なる空間から、幾本もの武具を雨霰と射出する。無茶苦茶な戦い方だが、無数の剣の軍勢を王者として率いるその姿は、どこか彼らしいと納得出来るものでもあった。彼が弓兵(アーチャー)である所以は、友となった人形との戦いで身に着けたものと思われる、その特異な戦闘方法によるものなのだろう。

 コレクター気質があるのか、財宝の蒐集に拘る彼は、次々と蔵に宝を収めていく。そしてその財は、次なる宝を手にする為の戦いで使われる。こうして、彼の宝物庫に蓄蔵される財宝は、加速度的に数を増していった。探検に夢中になり過ぎて臣下の女性に苦言を呈されたり、冒険からの帰還を祝う宴の席でうっかり宝物を落としてしまったりと、財宝に関するエピソードには事欠かないほどだった。

 ……しかし、彼が冒険や宝探しにだけ現を抜かしていたかといえば、決してそんなことは無かった。友の存在故か、苛烈なまでの冷酷さや残忍さは多少なりを潜めたものの、彼は変わらず王として君臨し、城下町である都市国家を発展させ、強固な防壁を作り上げるなど、治世面でもその慧眼が曇りなきことを示した。

 冒険者として数え切れぬ程の伝説を築いた英雄にして、為政者として計り知れぬ程の功績を残した王。他の如何なる英雄ですら一歩譲らざるを得ぬカリスマを備えた彼は、"全ての英雄たちの王"と言えるだろう。事実、いつしか人間たちは、彼のことを『英雄王』と呼ぶようになっていた。

 

 王と人形が倒した敵の中でも、一際強大な存在が居た。森の神であり、恐怖の具現と謳われる怪物。目には石化の力があり、吼えれば洪水を引き起こし、口からは劫火を撒き散らす巨大な魔物。それを倒すと決めたアーチャーは、友と二人でこの難敵と戦い、遂にその首級を挙げることに成功した。止めを刺したのは、何時の間にか修復していたのか、友との戦いで破損した筈の黄金の剣だった。

 自然の番人という役割を担っていた怪物が倒されたことで、王は彼が守っていた貴重な材木を手に入れることが出来た。しかし、人形は勝利したというのに、どこか釈然としない顔をしていた。友である王に、人形は静かに告げた。あの敵と自分は、友だったことがあったのだと。

 

「どうして君は、―――を倒すと決めたんだい? 神々はこんなことを命じなかった。彼を倒して得た材木は、―――の発展には役立つかもしれない。けれど、君が―――の民の為に戦っていたとは思えない」

 

「いや、―――を守る為だが? 地上の全悪を倒しておかねば、民どもが飢え死のう」

 

 その答えに、人形は疑問の表情で首を傾げた。その疑問は、傍から見ていても把握出来るものだった。アーチャーは賢君であるのかもしれないが、その在り方は明らかに暴君だ。彼が敷く圧政は、結果的に正の方向に作用するのかもしれないが、民たちにとっては苦痛すら感じられるものだ。人間たちの上に君臨しながら、人間への思いやりなど欠片も持たないこの男が、今更民の心配をするなど、一体どういう風の吹き回しなのか。

 問いを発したのが友だったからなのか。不躾な内容に怒ることもなく、アーチャーは静かに上を見上げた。その先には、どこまでも続く青空が広がっている。しかし、彼の眼差しはその遥か彼方……空を超え、星を超え、更にその先にある、遠い何処かに向けられていた。

 

「不思議ではないだろう。我は人間の守護者として生まれたものだからな。この星の文明(みらい)を築くのが、王の役目だ」

 

 人ならざる紅の慧眼は、距離だけでなく、時間さえ隔てた遥かな先を見通しているのか。その瞳には、一切の濁りが無い。人間の守護者という言葉と、民衆を搾取する暴君という在り方は正反対であるというのに、アーチャーの中では、その二つは矛盾しないものとして両立していた。

 

「守護にも種類があろう。守ることだけが守護では無い。時には北風も必要だろうよ」

 

 その一言で、人形がはっとした表情を浮かべた。整った容貌に映るのは、何かに気付いた、何かを掴んだという衝撃。この瞬間、友の本質を完全に理解したとでも言うように―――数秒の空白の後、その顔は、晴れやかな表情に彩られた。

 

「そうか。つまり君は―――」

 

 口にした言葉の後半は、ノイズが混じって聞き取ることが出来なかった。しかし、アーチャーの耳には届いていたのだろう。彼はその言葉を聞き届けると、満足げに笑みを浮かべて見せた。今までに見たこともないような、爽やかな喜びを宿した笑み。それは英雄としてでも、王としてでもなく、一人の人間として、一個人としての理解者が現れたことへの、どこかこそばゆいものを含んだ感情の表れだった。

 

 

 

***

 

 

 

「……ん。もう朝か」

 

 ふと気が付くと。目の前に広がっていた筈の青空は消えてなくなり、代わりに見慣れた天井が視界を埋め尽くしていた。視線をずらせば、今度は布団と床が目に映る。それで漸く、ここが自室であることを把握出来た。

 まるで何年も経った後のような気がするが、実際には一晩眠っていただけだった。時間の感覚を狂わせた原因は、莫大な情報が濃縮された夢。聖杯戦争が始まってから、何度も見ているこの光景の正体は―――

 

「アーチャーの記憶だ」

 

 疑う余地はない。本人は記憶を失っているというが、それは箱の蓋が開かなくなったようなものであり、中身が消えてしまった訳ではないのだろう。その中身の一部が、サーヴァントとマスターの間に繋がる経路を通じて、アーチャーの過去を夢という形で映し出したに違いない。

 この夢からアーチャーの正体が判るかと思ったが……時折映像にノイズが混じる上に、耳にする会話も、肝心の人名や地名に限って聞き取れない。これでは特定のしようがない。

 内容を振り返るにしても、余りの情報量に混乱して来る。繰り広げた冒険や乗り越えた試練、手に入れた財宝の数が多すぎるのだ。そのどこか一つを取ってみれば、思い当たる逸話を持つ英霊が居ない訳ではないが、これら全てに該当する人物など聞いたことが無い。

 ……いや、待てよ。俺が「知らない」のではなく、「知られていない」という可能性も考えられる。アーチャーがかなり古い時代の英霊だということは既に判っている。だとするならば、忘れられたり失われたりして、現代まで情報が伝わっていないとしても不思議はない。ギリシャ神話やケルト神話よりも更に古い、記録に欠落があるような時代の英雄……。

 

「もうちょっとで判りそうなんだけどなぁ……」

 

 アーチャーの正体が判れば、記憶を取り戻したり、宝具を使えるようにする切欠に繋がるかもしれない。前回の聖杯戦争で無敵を誇ったというあのサーヴァントが、本来の力を発揮出来れば、これほど心強いことは無いのだが。

 まあ、判らないものはしょうがない。今はそれより、皆が起きてくる前に朝食を作って、今日の計画を話し合わなくちゃいけない。

 教会で桜の治療が済んだ後、俺は遠坂に、アインツベルンなら何か有効な手段を持っているかもしれないという考えを話した。バーサーカーを擁する陣営に頼ることに難色を示した遠坂だったが、意外にも言峰が賛意を表したことで風向きが変わった。しかし、キャスター戦の疲労が抜けていなかったこともあり、まずは家に戻って一晩休息を取ることにしたのだ。疲弊した状態で、他のサーヴァントやあの影に襲われたら元も子もない。

 未だ意識の戻らぬ桜は、「教会に置いていても出来ることは無い」と言峰に言われたこともあって、遠坂が暗示で捕まえたタクシーでここまで運び、今は客間で寝かせている。危篤状態からは脱したものの、言峰の治療はその場凌ぎに過ぎない。桜を助ける為に、アインツベルンの城に急がなくては……。

 

「……って、あれ?」

 

 と。布団から起き上がり、部屋から出ようとした瞬間。突然左足がもつれ、元いた布団へと倒れ込んでしまった。

 寝起きで呆けていたのかと、気を取り直してもう一度立ち上がるも、やはり左足に……というか、左半身に違和感がある。いくら力を籠めようとしても、感覚が虚ろで、上手く動かすことが出来ないのだ。自分の体だというのに、まるで血が通っていないような気がしてしまう。

 原因はおそらく、キャスター陣営との戦いでしでかした無茶だ。少し時間は空いたが、今になって反動が出てきたのだろう。魔術の知識が薄い俺でも、英霊の武具を模倣するというのは只ことではないと理解出来る。半身が麻痺した程度なのは、むしろ幸運だ。

 

「まあ、動くといえば動くし……遠坂に相談してみるか」

 

 右足に重心を寄せる形で何とか立ち上がり、今度は倒れずに廊下に出る。ところどころでふら付きながらも、居間まで移動すると……珍しいことに、遠坂が既に座布団に座っていた。その反対側で、アーチャーがいつもの無表情でお茶を飲んでいる。

 

「今日は早起きなんだな、遠坂」

 

 そう声を掛けると。怪訝そうに、遠坂が半眼でこちらを見上げてきた。

 

「逆。士郎が遅いのよ。いつもは早起きって聞いてたんだけど……やっぱり、昨日までの疲れが出てる?」

 

 慌てて、時計に目を向ける。短針は八に差し掛かったところで……確かにいつもより、大分起床時間が遅れている。自分が寝坊したことよりも、時間の感覚が麻痺していて、それに気付かなかったことが驚きだった。

 固まる俺を不審に思ったのか、アーチャーが湯飲みを置くと紅蓮の瞳を向けてきた。細められた双眸が俺の全身を射抜き、鋭く観察してくる。重心のずれに気が付いたのか、左手と左足に視線が注がれる。僅か数秒で俺を観察し終えると、アーチャーはふむ、と頷いて見せた。

 

「―――本調子でないというのは真のようだな、雑種。その様子では、体の半分は感覚があるまい」

 

「えっ……? 感覚が無いって……ちょっと士郎、アンタ大丈夫なの!?」

 

 目を見開く遠坂に、大丈夫だと腕を振ってみせるが……上手く行かずに、手ばかりか足がよろめいてしまう。倒れそうになるのを何とか凌いで座り込むと、心配そうな表情を浮かべる遠坂と目が合った。黙っている訳にも行かず、現状を説明する。

 

「なんか、自分の体だって実感が無いんだ。動くには動くんだけど、痺れてるっていうか……多分キャスターたちと戦った時に、アーチャーの剣を投影したせいだと思う」

 

「……は?」

 

 遠坂の表情が凍る。異界の言語を聞かされたかのように、ぽかんとした、意味を理解出来ないといった顔。

 数秒の自失の後、今度は怒りと困惑が入り混じったような、理解出来ないというよりは理解したくないという表情を浮かべてぎろりと俺を睨んでくる遠坂。百面相を見ているのは中々面白いのだが、口に出すと確実に酷い目に遭うので黙っておく。

 

「ちょっと訳が分からないから、順番に訊いていくわね。まず、投影ってどういうこと? 衛宮くん、使えるのは強化だけって言ってなかったかしら?」

 

 ……あ、これは怒ってる。すごく怒ってる。呼び方が『士郎』じゃなくなってるあたりが本気だ。慌てて、弁明の為の言葉を探す。

 

「投影はてんで使い物にならないから、強化しか使えないっていうのは嘘じゃないぞ。キャスター……というか葛木と戦った時もぶっつけ本番で、何で成功出来たのかわからないし。

 何かを投影しようとしても、俺は外側しか似せられないんだ。土蔵にも失敗作が()()()()()()()()()から、見てもらえると解ると思うけど」

 

「…………衛宮くん。その失敗作っていうのは、いつ作ったもの?」

 

「ここ最近は作ってないから、多分一番新しいのでも何年か前になるかな……って、どうしたんだ遠坂。物凄い顔になってるぞ、おまえ」

 

 怒りという段階を通り越して殺意さえ向け始めた遠坂に恐怖を感じ、座ったまま後退する。一体何が彼女の逆鱗に触れたのかは判らないが、このままでは冗談抜きで宝石を叩き付けられる。

 呪詛が宿っているのかという視線を暫く叩き付けてきた後で、遠坂が大きく深呼吸する。あまりの剣幕に口すら利けずに様子を伺っていると、時計の長針が二周したところで、やっと遠坂が口を開いた。

 

「……あのね、衛宮くん。あなた、自分の言ってることの意味解ってる? 投影したものが()()()()()()ですって? 冗談じゃないわ。それが本当なら―――話した相手が私以外の魔術師なら、ホルマリン漬けにされてるわよ」

 

 そんな理科の実験みたいな……という考えが一瞬脳裏を過ったが。遠坂の恐ろしい程真剣な瞳が、その言葉が冗談などでは無いことを雄弁に語っていた。

 

 ―――遠坂曰く。投影魔術で創ったモノが、残り続けることは有り得ない。

 

 そもそも投影とは、偽物を創り出す魔術である。本来存在しない筈のモノが在るという矛盾を、世界は許さない。故に投影品は世界からの強い修正を受け、長時間姿を保つことは出来ない。あくまでごく短時間の間に、代用品を創り出す魔術なのだ。

 しかし。俺が投影した作品は、自然消滅したことが無い。俺がイメージを維持できなくなった時か、自ら消そうと思った時か、物理的に壊れた時か……少なくとも、それ以外の要因で勝手に消えたという記憶はない。今までは他に比較対象もいなかったから、何も異常を感じていなかったが……遠坂が話してくれた投影魔術の基礎知識と、俺が行使している投影魔術の間には明らかな乖離がある。

 

 では―――俺が使っている魔術は、一体何なのか?

 

「そう。やっと何がおかしいのか気付いたようね……永続する投影魔術なんか、原理上有り得ない。しかもあなた、アーチャーの剣を投影したって言ってなかった?

 何から何までデタラメよ。英霊の武具なんて、超級の神秘の塊じゃない。そんなのを再現するなんて出来る訳がないし、出来たとしてもとんでもない代償を払うことになる。なのに、あなたは体がちょっと麻痺したぐらいでピンピンしてる。魔術協会に知られたら、下手をすれば封印指定ものよ」

 

 いや、確かに無茶をしたとは思ったが……俺は、そんなに異常なことをしていたのか。キャスター戦の直前、アーチャーが俺の投影品を見て考え込んでいた意味と、遠坂に相談しろと言った言葉の真意が、今になって理解出来た。

 

「今まで他の魔術師に知られなかったのは幸運だわ……。それにしても、息子に何も教えないなんて……衛宮くんのお父様、一体何を考えてたのかしら。まともじゃないわよ」

 

「ちょっと待て、遠坂。親父は、投影魔術はやめておけって言ってくれたぞ? 確かに、魔術については気乗りしなかったみたいだけど……それでも、色んなことを教えてくれたんだ。変わってたのは認めるけど、俺はともかく、親父のことは悪く言わないでほしい」

 

「……ごめんなさい。少し言い過ぎたわ」

 

 気まずそうな顔で遠坂が謝って来る。口が滑ったと言わんばかりに、僅かに顔を逸らしてくるが……遠坂がここまで言うとは、俺は余程おかしいのだろう。我ながら、自分で自分が怖くなってきた。

 何の意図もなかったのに、サーヴァントを召喚してしまった事実。体を両断される程の傷を負っても、死なずに再生する回復力。通常考えられない、理を覆す投影魔術。どれもこれも、何一つ自分では原因が掴めないのだ。自分の知らないところで自分が変質していくようで、思わずぶるりと身震いする。

 

「ふん。その口ぶりでは……貴様の異常には、父親とやらが絡んでいるようだな。魔術ではなく、より根本的な部分にだ」

 

 ここで。それまで黙って俺たちを観察していたアーチャーが、静かにそう呟いた。何やら意味ありげな物言い……それも、切嗣を引き合いに出されたとあっては無視することも出来ず、アーチャーの顔を睨みつける。

 だが、その紅い瞳と目が合った途端、吐き出そうとした文句が霧消した。怒りでも嘲りでもなく、こちらの内面を見定めようとするかのような無感情な眼差し。言峰神父と対峙した時にも、自分が解体され分析されているような感覚があったが、アーチャーの視線はまた質が違っている。何か理解の及ばぬ、高次の存在に見下ろされているような威圧感。

 

「―――衛宮士郎、貴様は空虚な人間だ。後天的に失われたのであろうが、貴様には他の雑種どもにあるモノが欠けている。内から湧き出る夢、野望、熱意、欲求―――そうさな、端的に言えば『やりたいこと』が存在しておらぬ。貴様の行動には、何ら愉悦の光が感じられぬからな」

 

「え? いや、そんなことはないぞ。俺にだって、目指しているものぐらい―――」

 

「それは『やりたいこと』ではない。『やらなければならないこと』だ。少なくとも、貴様にとってはな」

 

 会話を遮る男の断言。反論しようとするが、夢で見た武器投射のように、アーチャーは俺の本質を貫く言葉を止めない。

 

「それが何であれ、人が自ずから目指す物事を達成した時には、正の感情が伴うものだ。伴わぬならば、それは外から強制された行為、単なる義務に過ぎん。

 人を救いたいと言ったな、小僧。だが貴様は、いくら雑種どもの命を救ったところで己の快楽には繋がらん。それを心底『嬉しい』『楽しい』と実感したことはない筈だ。違うか?」

 

「…………っ」

 

 違わない。俺は正義の味方にならなくちゃいけない。だけど……そこに喜びなど、感じたことはあっただろうか。楽しさなど、感じてしまっていいのだろうか。

 俺は十年前のあの日、一人だけ生き残った。生き残ってしまった。そんな俺を救ってくれたのが、この上なく嬉しそうな表情をした切嗣で……その笑顔が、俺の心に残ったから。だから俺は、切嗣の夢を継ごうと決めたんだ。

 強制された義務なんかじゃない。これは、俺が自分で選んだことだ。だというのにアーチャーは、何故それは違うと言うのか。

 

「喜びも楽しみも感じず、愉悦の何たるかも弁えず、課された義務のみを果たさんと己を磨り潰す―――つまらん。修行僧でさえ今少し面白みがあろう。仮にも我のマスターを名乗るならば、それ相応の見所を用意しておけ」

 

「面白みって……」

 

 人を指して面白くないとは、こいつは他人を何だと思っているんだ。前々から思っていたが、傍若無人なこの男、正体はどこかの暴君に違いない。

 しかし……アーチャーは結局、何を言いたかったのだろうか。以前にも俺は、アーチャーから歪さを指摘されている。だが奇妙なことに、この男は俺が目指す方向そのものは否定しないのだ。

 今言われたことを解釈してみると、どうもこの英霊は、俺が楽しんでいないことが気に喰わないらしい。どうしてそんなことに執着するのか、全く意味が解らないのだが……この英霊の言葉は妙に重く、聞き流すことは出来ない。何か俺にとって、重要な意味が隠されているような気もするのだが……。

 

「衛宮くん。あなたが『人助けをしよう』と思った理由って、なに?」

 

 そこで。言いたいことは言ったとばかりにお茶を飲みだしたアーチャーに代わって、遠坂がこちらに訊ねてきた。弓兵の言葉の意味が咀嚼出来たのか、碧の瞳には何かに気付いたような悟りの色と、形容できない複雑な感情が浮かんでいる。

 俺が人を助けたいと思う理由。その原点を紐解くとなると……どうしても、十年前のことに触れる必要がある。そここそが、衛宮士郎の始まりだからだ。

 アーチャーの話を聞いて、ちょうどそのことを考えていたところだ。記憶を遡って、一番最初の炎の地獄まで辿り着くと。前置きしてから、話したことのない自分の過去について、ゆっくりと語ることにする。

 

「あまり面白い話じゃないと思うんだけど、それでもいいなら」

 

 十年前、冬木を襲った大火災……第四次聖杯戦争の余波に巻き込まれ、そこで何もかもを失い、それ以前の記憶は殆ど残ってさえいないこと。

 誰も助けられず、無数の死体と、死体になりかけた人間たちの中で一人だけ生き残って。それでももう終わりだと思った時に、親父に助けられて。その時の切嗣の表情を見て、助けられるというのは尊い奇跡なんだと心に残ったこと。

 自分だけが救われたのに、他の誰も救えなかったから。だからこれからは、その分の償いをしなければならないと思ったこと。

 切嗣の最期に、正義の味方になりたかったという夢と後悔を聞いて。親父に救われた時に、人を助けるということがどれだけ尊いかを知っていたから。だからその願いを、俺が代わりに叶えようと決意して……そして今まで、人を助けようと動いてきたこと。

 

「―――なに、それ」

 

 話し終えると。遠坂が、激情がごちゃ混ぜになった表情を浮かべていた。怒りと、悲しみと、やるせなさと……光の当たった宝石のように、瞳に宿る感情が次々と移り変わっていく。

 

「歪んでるとは思ってたけど、こんなに酷いなんて……。前にも言ったかもしれないけどね。士郎の中では、自分の命より他人の命の方が重いのよ。どうしてそうなってしまったのか、不思議だったんだけど―――今、やっとわかったわ。

 あなた、歪みを通り越して……もう、壊れちゃってる。なんで、なんでそんなに―――ッ」

 

 遠坂は、今にも泣きそうな瞳だった。無表情のアーチャーとは対照的に、握り締めた拳はふるふると震えている。

 俺の事情は、遠坂には関係のない話のはずだ。マスターとしても、魔術師としても、遠坂が俺の過去に執着する理由はない。だというのに……何故彼女は、これほど真剣な眼差しで俺を案じてくれているのか。

 激情を鎮めるように、遠坂は大きく深呼吸する。重々しく息を吐いたところで、幾分か冷静さを取り戻したのか、再び強い眼光がこちらに向けられた。

 

「身を挺して他人を助ける、っていう話は珍しくもないわ。そういう職業だってたくさんある。でもそれは仕事であって、報酬があるから成立していることよ。

 でも、士郎の場合はそうじゃない。自分の命を投げ出して、見返りもなしにどうでもいい他人を助ける。あなたは、それを贖罪だと思っているのかもしれないけど……そもそも、士郎に罪なんてないじゃない。生き残ったのが罪? 誰も助けられなかったのは悪いこと?

 ―――それは違うわ。アンタは偶々生き残っただけ。他人を助ける責任も、抱え込む義務もないわ。そんなに自分を責めて、自分を殺していたら―――アーチャーの言う通り。喜びも楽しみも、生まれるはずがないわ」

 

「……それは」

 

「違うって言える?」

 

 否定しようとした俺を、鋭い言葉が遮る。反応を先読みされ、俺が絶句する様子を見て、遠坂は何故か悲痛な表情を浮かべた。

 

「言えるはずがないわ。だって士郎は、一度だって―――心から笑ったことがないもの。

 そんなの、生きづらいだけでしょう。これ以上ないってくらい酷い目に遭ったんだから、後は幸せにならなくちゃ嘘じゃない……っ!」

 

 ―――幸せ。そんなもの、考えたこともない。そんなことを考える機能は、とうの昔に欠落していた。

 そんな余分を考える時間があるなら、どうやって他人を助けるかを。自分のことを考える余裕があるなら、どうしたら他人を救えるかを。それだけを考えて、今までずっと走り続けてきた。

 何かがおかしいと、自分でも理解していた。お前は変だと、面と向かって言われたこともある。一体何が違っているのか、心の隅でずっと疑問に感じていたそれが……遠坂の言葉で、朧げにわかってきた。……けれど。

 

「遠坂の言うことは間違ってない。だけど俺は、これ以外に何も知らないんだ。

 でも、それでいい。俺が間違えているとしても、誰かを助けたいっていう願いが、間違っているとは思えない」

 

「士郎、アンタ―――」

 

「―――つくづく察しの悪い雑種よな、貴様は」

 

 俺たちのやり取りを眺めていたアーチャーが、見かねた様子で再び口を挟んできた。本当なら黙っているつもりだったのか、俺と遠坂の視線が向かうと忌々しげに目を細めたアーチャーだったが、頭を振ると、言い出したものは仕方がないとでもいうのか、億劫そうに続きを語りだした。

 

「誰も貴様の目的は揶揄しておらん。貴様の問題はそこではなく、動機と実現手段にある。雑種、おまえはそれらを混同しているようだが、この三者は区別するべきものだ。

 動機については―――いや、これは我が口を出すことではない。現代には、この手の類の専門家がいたはずだ。その導き手は我ではなく、小娘の方が適任であろう。

 故に、我が語る口を持つのは実現手段についてのみだ」

 

 面倒くさそうな態度を取りながらも、饒舌にそう語るアーチャー。この男は意図的に干渉を控えているのか、黙って物事を眺めていることが多いが、一度語り始めると意外に詳らかに説明してくれる節がある。視点が違い過ぎる上にやたら難解で、肝心な部分は飛ばしたり話さなかったりするから、結局こちらとしてはよくわからないままのことが大半なのだが。

 

「貴様は自分の手で直接命を救うことに拘る。自らが救わねばならぬ、そうでなければ自分が人を助けたことにはならぬというその頑なな思い込みが矛盾の根本よ。

 刃物を使って人を殺めれば、その責は使われた刃物に帰結するか? ―――人を救うも同じこと。使われたものが他の人間だろうと道具だろうとサーヴァントだろうと、貴様が他人を助けたという結果は同じだ」

 

 その言葉で、愕然とした。

 以前、同じことを言われた。結果を出したいのなら、手段に拘るのは愚かだと。その時の俺は、思考が停止した状態だった。どうして自分の手で人を助けることに執着するのか、それすら自分ではわからずに、ただその考えに固執していた。

 けれど、遠坂との会話で気付かされた。これは俺の贖罪行為だ。他人の為と言いながら、視野を広げもせず自分の為に間違った手段を選んでいるのなら―――それは、自己満足に過ぎない。

 目的を達成するために、自分以外の何かを用いるという選択肢が、俺の中からは欠如していた。追い詰められた時に他人を頼ることはあったが……そうでもない限り、俺はその道を選ぼうとしていなかった。

 

「貴様たち人間は脆弱だ。権能を持つ神でもあるまいに、一個体で為し得ることなど高が知れている。故に貴様らは徒党を組み、道具を駆使することで成果を生み出してきた。他の人間や道具を用いた方が、遥かに効率が良いからな。

 小僧、おまえが改めるべきはそこからだ。我というサーヴァント(武器)を使うのならば、まずはマスター(担い手)である貴様が使い方を覚えるべきだ。素手で壁を砕こうなど、阿呆のやることよ。今少し見識を広めれば、愉悦を学ぶ余裕も出来よう」

 

 ……アーチャーの言うことは、正しい。

 道具を使ったとしても、途中で他人の力を借りたとしても、俺が自分で誰かを助けたという結果は変わらない。より多くの人を救いたい、俺の手で人を助けたい―――この二つを矛盾なく両立させる道はあったのだ。

 顔に冷水をかけられて、意識が覚醒したような思いだった。意識してそう考えていたわけではないが、自分自身だけで人を助けなければという思い込みは、確かに俺の根底にあった。アーチャーに他者を頼らない矛盾を指摘された時に、素直に認めることが出来なかったのはそれが事実だったからだ。しかし今、改めて説明されたことで、少し視点を変えるだけで物事は全く違う姿を見せるのだとようやく腑に落ちるものがあった。

 

「―――だが。如何な手段を用いるにしろ、目的をよく吟味してからにすることだ。

 先人を模倣すること、賢者に学ぶことは悪ではない。しかし、目的も動機も手段も、悉くが贋作というのは見苦しい。そのようなもの、真作の価値を貶める汚物に過ぎん。

 何にせよ、自らだけが持ち得る芯を宿さぬモノには価値などない。この意味が最後まで理解出来ぬのなら、その時が我と貴様との契約の切れ目となろう。―――覚えておくのだな、雑種」

 

 言葉の途中で、俺を射抜いた双眸。向けられた強烈な殺気に、呼吸をすることすら忘れた。

 緊張の余りに瞳孔が開く。断頭台の刃が、首筋に当てられているような緊張感。間違いなく……この英霊は今、衛宮士郎という人間を生かすか殺すか秤にかけていた。今までに何度もあった、俺の存在そのものを裁定するような気配。

 アーチャーの言葉は、これまでにないほど重かった。これは警告だ。衛宮切嗣という他人の理想を追い、英霊という他人の武具を模倣する、継ぎ接ぎだらけの俺に対しての。悪鬼に等しい殺気と、賢者の如く深い忠告に、心身双方が威圧されて背中がじっとりと汗ばむ。

 俺だけが持つもの。特異な投影魔術のこと、ではない。この男はもっと深いもの、衛宮士郎という人間の骨子そのものは何かと問うている。俺に道を示した上で、その道を選んだ理由を、道の先にあるはずの目的を考えろと……借り物ではない、本物の何かを見つけろと。

 あの大火災の時に、衛宮士郎は一度死んだ。俺を構成していたであろう要素は、その瞬間に消えたのだ。残った空虚な穴には、余所の模倣品と借り物で詰められた。いくら俺だけの芯を宿せと言われても、無いものはどうしようもないはずなのに―――何故俺の心は、"ある"と告げているのか。俺自身にすら、そんなものは思い当たらないというのに。

 

「……些か喋り過ぎたな。貴様はどうもあの女に似ている。我ではなく、セイバーが貴様のサーヴァントである方が似合いだったろうよ」

 

 と。アーチャーが視線を逸らしたことで、凄まじいまでの重圧はようやく霧散した。ほっと息を吐いて、そこで初めて、全身の筋肉が固まっていたことに気付く。

 サーヴァントとしての立場からマスターの方針に意見するなら、二言三言で済んだだろう。この男が珍しくも仔細に亘って助言をしてくれた理由は、俺ではなく、今はいないセイバーにあったらしい。

 何故かアーチャーが気に入っていたサーヴァント。名高き騎士の王……アーサー王だった彼女は、一体何を思って戦っていたのだろうか。俺とセイバーの間にどのような共通項があったのかは定かではないが、アーチャーがこう言うということは、何かしら通じる部分があったのだろう。彼女と妙にウマがあったのは、そんな事情があったからなのか。

 

「……そう。なんか放っとけないと思ったのは、アンタがあの子に似てたからなのね」

 

 弓兵の言葉に頷く遠坂は、何か感じるものがあったらしく、落ち着いた表情を取り戻していたが……その瞳には、重い色が宿っていた。―――まるで。ここにはいない、誰かの辿った足跡を惜しむように。

 

「―――さて、頃合いか。回らぬ頭も少しはマシになっただろう」

 

 しんみりした空気が流れたところで、お茶を飲み干してついでに蜜柑まで食べ終えていたアーチャーが、おもむろにそう立ち上がった。

 時計に目を向ければ、正午まで三時間を切っていた。日が昇りきらないうちに森の中へ行くのは危険だということで、急ぎとはいえ元々このぐらいの時間までは待機している予定だったが、そろそろアインツベルンの領地へ向かう刻限だ。

 桜を助ける為に、イリヤの力を借りる……誰かを救う為に人を頼る、その結果自分が誰かを助けることになるという、アーチャーが今まさに語ってくれた展開。あの英霊は、これも見越していたのかもしれない。自分では桜を助けてやれないという無力感に苛まれていた昨日と、何かに縋ってでも自分が桜を助けるのだと考えを改めた今では、心境が全く違ってくる。

 

「そうね。そろそろ出発しようかしら。士郎がイリヤスフィールと接触してたっていうのはもういいとして……アンタの情報とわたしの調査結果があれば、数時間もかからないはずよ」

 

 ぎろりと、途中で睨まれる。アインツベルンの森へ向かうにあたり、イリヤの本拠地について隠しているわけにもいかず、彼女と会ったことを話した結果散々叱られたのだ。それはまあ当然なので、俺が何か言い返すことは出来ないのだが。

 ともあれ、俺たちはこれからその城を目指さなければならない。魔術師の棲家とあれば要塞化されているだろうし、それに加えてイリヤにはヘラクレスという最強の戦力がいる。あの大英雄と戦えるサーヴァントだったセイバーがいない今、俺たちがそこに踏み込むリスクは限りなく増大していた。

 

「…………」

 

 特に気負う気配もなく、いつものライダースーツ姿で―――他にもどこからか服を手に入れてはいるのだが、この男は何故かこのタイプの服を好んで着ている―――佇むアーチャー。噂に聞く第四次聖杯戦争の時のような、夢の中で見た古代の時のような、彼本来の力が揮えるのなら絶大な戦力と成りうるのだが。

 ないものねだりをしても仕方がない。こうなっては、後はイリヤスフィールとの交渉が上手く行くことを願うのみだった。

 

「行くわよ、士郎。わたしたちが生きて帰れるかどうか、桜を助けられるかどうかは、アンタにかかってるんだからね」

 

 

 

***

 

 

 

 ―――その異変に気付いたのは、イリヤスフィールだった。

 

 アインツベルンの森は彼女の領地。魔術師の工房となれば、外敵に対して考え得る限りの防備が成されている。十年前の聖杯戦争で、敵サーヴァントに強行突破された経験から、ただでさえ堅牢だった護りは偏執的なまでに強化されていた。何か森に異常があれば、その結果はたちどころにイリヤスフィールの知るところとなる。

 今回彼女が感知したのは、結界を踏み越えてきた侵入者の存在だった。時折迷い込んでくる一般人がいないわけではないが、この時期に複数の反応があるとなれば確実に聖杯戦争絡みの相手である。二日前にランサーと交戦して以降は城に籠っていたイリヤスフィールだったが、こうも度々土足で踏み込んでくる無礼者が多いとあっては、不機嫌さを隠し切ることは出来なかった。

 

「ランサーの次は誰かしら。キャスター、ライダー、セイバーは消えた()()()だし……まあ、誰が来ようと同じなんだけど」

 

 彼女が従えるのは、最強の一角たるヘラクレス。例え聖杯戦争に異常が起きていようと、この英霊に抗える者は存在しない。サーヴァントへの自信と信頼を胸に、侍従たちに戦闘区域からの退去命令を出すと、イリヤスフィールはバーサーカーが眠る部屋へと足を運んだ。

 特別に鋳造された個体であるイリヤスフィールは、マスターとしては通常の魔術師など及びもつかぬ域にある。その彼女を以てしても、ただでさえ現界の維持に莫大な魔力を消費するヘラクレスを、バーサーカーとして運用するのは無理があった。魔力供給用にホムンクルスを鋳造する、大気に満ちるマナを物質化して保存する、と幾つかの案はあったが、自身の能力に誇りを持つイリヤスフィールはそれらを拒否。単体でヘラクレスを維持することを決めていた。

 とはいえ、常時バーサーカーを稼働させ続けるのは難しい。解決策として、非戦闘時は彼を城の一角で休眠状態にし、魔力の消耗を抑えることにしたのだが―――

 

「―――バーサーカー?」

 

 イリヤスフィールが部屋に辿り着いた時。彼が既に起きていたことに、彼女は驚きを隠せなかった。

 理性を奪われた英霊であるバーサーカーは、主の命令に逆らうことはない。いや、仮に理性があったとしても、誇り高いヘラクレスがマスターを無視することなど考えにくかった。だというのに、眠れと命令したはずのサーヴァントは、既に意識を覚醒させ……それどころか、準戦闘状態に入っていた。

 主が近付いたことで、彼女を認識して小さく唸るバーサーカー。しかし、狂化して尚熟練の戦士の鋭さを失わない瞳は、彼女ではなく、城の壁の更に向こう―――外から襲来する"なにか"を、最大の警戒心を持って睨み据えていた。

 

「…………」

 

 ヘラクレスは、世に名高い無数の英雄豪傑の中でも、最上位と言って過言ではない英霊だ。彼に比肩し得る者など、各神話体系でも頂点に位置する英霊か、或いはその上の神霊以外には有り得ない。少なくとも今回現界しているサーヴァントの中で、彼を一対一で打倒し得る者は、現時点では存在しないはずだ。

 その彼が、未だ敵の姿は遠いにも関わらず主に背いて警戒態勢を取っている。尋常ではないと、只ならぬものを感じたイリヤスフィールは、森に展開している感知魔術の一つを起動させると、視覚を直結させて侵入してきた敵の姿を確認しようと試みた。

 少女の視界が暗転し、一拍置いて城ではなく森の中へと切り替わる。何度か視点を変更し、侵入してきた人影を捕捉したイリヤスフィールだったが……その異様さに、思わず眉を顰めた。

 

「……なに、これ」

 

 確認出来た影は二つ。

 一つは、無数の黒い点が集合したような異形。よく拡大してみれば、それは何千という蟲たちの群れであることが見て取れる。おぞましく蟲が這い回る姿は、吐き気を催すようなものではあるが、イリヤスフィールはこの手の魔術を駆使する人物に心当たりがあった。虫使いといえば、まずマキリの家に連なる者と見て間違いはあるまい。

 不可解なのは、もう一つの影だった。魔力反応から見て、サーヴァントであるはずなのだが、何か靄のようなものに覆われていて姿が確認出来ない。認識阻害の能力を持つ英霊かとも勘ぐったが、それにしては風体が異常に過ぎる。ヒトガタの上から、コールタールで出来た布を被せたような外見。

 アインツベルンの目とて節穴ではない。マキリの陣営にアサシンのサーヴァントが属していることはとうに掴んでいた。しかし、あの存在がアサシンであるとは到底思えない。そもそも暗殺者のクラスに該当するサーヴァントであれば、こうして存在を視認することなど不可能な筈だ。

 何かイレギュラーが起きている。ここまでの異常を従えるとなれば、あの蟲の群れはおそらく間桐臓硯―――マキリ・ゾォルケン本人であろう。陽の下に姿を晒せぬ彼が、かくも堂々と現れたならば、必殺の策を持ち合わせていることなど火を見るより明らかだった。

 

「敵よ、バーサーカー。迎え撃ちなさい」

 

 背筋に冷たいものが走る。それを意図的に無視し、彼女は従者に号令を下した。客観的な戦闘能力を見ても、主観的な信頼でも、このサーヴァントは最強だ。彼の存在がある限り、如何な手を尽くしたとしてもマキリの謀略など粉微塵に粉砕出来よう。

 同時に、城の警戒レベルを最大まで引き上げる。各種の迎撃魔術、防御魔術は、ある程度であればサーヴァントにさえ効果を発揮する。十年前には、衛宮切嗣によって近代兵器によるトラップが仕掛けられていた城だが、何重にも重ね掛けされた魔術の護りは、決してそれらに劣るものではない。

 最強のサーヴァントと、無敵の護り。これだけあれば何の心配もないと自分に言い聞かせ、バーサーカーに出陣の命を下したイリヤスフィールだったが……不可解なことに、大英雄はその場から動かない。

 

「バーサーカー? どうしたの?」

 

 不審に思ったイリヤスフィールが問いかける。一度ならず、二度までもの命令無視。これ以上は罰が必要だと、癇癪を起こしそうになった彼女だったが……狂戦士の表情を見て、続く言葉を失った。

 理性を奪われ、思考能力を失い、言語能力さえ持たないバーサーカー。その彼が苦悩するような色を浮かべるなど、想定にないことだった。狂化によって染まっていても、僅かに残る知性の片鱗が、彼に辛うじてごく単純な判断の余地を残させていた。―――即ち、逃げるか戦うか。

 

「…………」

 

 僅かな逡巡の後、狂戦士は決断した。―――勝てない。自分では、あの"なにか"に勝つことは能わぬ。

 理性を持たぬ彼には、敵の戦力を測ることなど出来ぬし、何故その選択肢を選んだのかを説明することも出来ない。しかし、凄まじい程の試練を潜り抜けてきたヘラクレスが有する戦場の勘は、並のものでは有り得ない。直感に従った彼は、小さな主の体を傷つけぬように肩に乗せると、そのまま部屋から走り出した。

 

「えっ……ちょっと! 戻りなさい、バーサーカー! そっちは……」

 

 敵を迎え撃つ為の正門ではなく、逃亡する為の裏門へと向けて一目散に駆け出したバーサーカー。彼の肩に乗りながら、慌てて静止の声をかけるイリヤスフィールだったが……言葉にならぬバーサーカーの声に、続く言葉を飲み込んだ。言語にはならずとも、彼は確かに―――"逃げろ"と、そう口にしたのだ。

 その瞬間。城の防御魔術と接続していた彼女に、電流が流れるような鋭い痛みが走った。遠見の魔術で確認した時は、まだ遠くにいた筈なのに……城の防壁を、"なにか"が這い上がってくる。

 駆け登って来るのでも、打ち砕くのでもない。じわじわと、毒のように広がってくるソレは、壁に仕掛けられた無数の防御魔術を悉く破壊……いや、飲み込んでいった。魔術師でもサーヴァントでもない、得体の知れぬ異形の敵。アレには抗えぬと、少女はそう直感する。単純な強い弱いの次元では無い。強さとは別の要素によって、バーサーカーではあの敵には敵わない―――。

 

「っ……! 逃げなさい、バーサーカー!」

 

 少女が命令を変えるまでもなく、バーサーカーは裏口から飛び出していた。ヘラクレスの(はや)さは最速の英霊たるランサーにさえ匹敵する。その彼が全力で逃げに回った今、敵の手が届く前に退避することなど造作もない筈だった。

 森の木々など障害物にさえならない。少女を肩から移動させ、片手で抱きかかえながら、バーサーカーは眼前を遮る物全てを粉砕して疾駆する。彼の前に立ちはだかれば撃滅され、さりとて後から追い付く事など出来ない。―――だというのに、イリヤスフィールの悪寒は消えない。城から遠ざかれば遠ざかる程、彼女の恐怖は増大する。そして、それが限界に差し掛かった……その時。

 

「■■■■■■■■■■―――!!!」

 

 怒声を上げるバーサーカー。少女が認識するより早く剛腕が振るわれ、木の影より飛来した三本の刃を薙ぎ払った。視認すら困難な黒塗りの凶器は、しかし狂戦士によっては物の数にも入らない。

 敵の存在を認識し、サーヴァントが急停止する。圧倒的な殺意を振りまき、ヘラクレスが斧剣を掲げてみせると―――木陰の闇がもぞもぞと蠢き、枯れ枝を寄り合わせたように痩せ細った老人が、邪悪な笑みを浮かべて現れた。

 

「呵々―――尻尾を巻いて逃げ出すか。その判断は間違っておらぬが……少しばかり、頭が足りなかったようじゃのう」

 

「……マトウゾウケン」

 

 何故この老人が先回りをしているのか。感知魔術と遠見の魔術は確かに―――と少女が記憶を辿ったところで、老人が口にした言葉の意味に気付く。

 間桐臓硯は、数百年の妄執が積み重なった存在。アインツベルンの執念は千年を超えるが、それは家全体でのこと。個人レベルに於いて、潜り抜けた経験、積み重ねた年月は到底臓硯に届くものではない。遠隔式の魔術を誤魔化し、イリヤスフィールの動きを読むことなぞ、この老人にとっては造作もない。……しかし。

 

「ルールを破ってまで、マスターになりたかったの。間桐に属するサーヴァント―――ライダーは消えたと()()()()。なのに、貴方は別のサーヴァントを従えている。

 けれど、残念ね。ライダーが生きていたとしても、私のバーサーカーには敵わない。そこのアサシンだけで勝てると思っているなら、貴方はとうとう脳まで腐り果てたみたいね」

 

 音もなく老人の傍らに控える白面。姿を見せた暗殺者のサーヴァントは、しかし動きを見せずにいた。……いや。動くことなど出来ぬ、と言った方が正しいか。人を殺すことにかけては超一流の手練れであるアサシンだったが、人を超越したモノ相手では分が悪い。殊に相手が最強の一角とあっては、殺す以前に戦うことさえ不可能に近い。あの怪物を相手取るなど自分には……いや、他のどのハサン・サッバーハでも無謀なこと。アレを殺そうというなら、それこそ伝説の()()でもなければ―――。

 アサシンが凍えるほどの、絶望的なまでの戦力差。それを理解出来ぬはずもあるまいに、臓硯は嘲るように口元を歪ませる。それは何も知らぬ少女への、哀れみすら宿った笑みだった。

 

「そうか。その口ぶりではおぬし……倒れたサーヴァントの魂を取り込んでおらぬな?」

 

「――――っ」

 

 色を失う雪の少女に、老人がニタリと笑みを深める。彼の言葉は、この狂った聖杯戦争の異常を鋭く突くものだった。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、聖杯の器―――「小聖杯」として作られた少女である。母胎から出産されるという過程を経てはいるが、多種多様な呪的処理と、特殊な訓練・魔術的措置を施された彼女は、人間よりもホムンクルスに近い。

 彼女の役割は聖杯戦争に於いて最強のマスターであることと同時に、小聖杯として脱落したサーヴァントたちの魂を留めておくこと。そして、その膨大な魔力を集めて機能する願望器として、更には最大の目的である「門」を開き、維持することである。

 しかし今回、脱落したサーヴァントは既に三騎―――彼女は与り知らぬことだが、ランサーを含めれば四騎―――存在する。だというのに、小聖杯として正常に機能しているはずのイリヤスフィールの許には、一つたりとも魂が確認出来ていなかった。

 

 では―――死した英霊たちの魂は、一体どこへ行ったのか。

 

「ク、やはりそうであったか。これは重畳。これで我が悲願が成就する目算が立ったわ! まさか一騎たりともこちらに届いておらぬとは、儂の予想を超えておる。

 だが、何事にも保険は付き物でな。真の小聖杯たるおぬしを抑えておけば、()()()の小聖杯を使いやすい。万一こちらが使えずとも、その時はおぬしと挿げ替えれば済むことよ。

 故に―――アインツベルンの聖杯は、今ここで貰い受けよう」

 

 動けぬアサシンを余所に、どす黒い殺気が迸る。数百年の澱みは、生きる者全てを侵食するかの如く。だが老人が鬼気を宿したことで、イリヤスフィールは却って冷静さを取り戻した。

 

「そう。貴方の野望なんか知らないけど、敵との力の差も理解出来ないなんて―――耄碌したのね、ゾウケン」

 

「いやいや。如何に儂とて、アサシンのみでその英霊に勝てるとは思っておらぬ。……言ったであろう。何事にも保険は付き物、と」

 

 悪意の笑みが深まる。その途端、バーサーカーが絶叫し―――アサシンが佇む眼前ではなく。後ろに向かって、斧剣を叩き付けた。

 激しい金属音。振り向きざまとはいえ、大地を抉り返すほどの一撃は、しかし同等の膂力によって凌がれた。岩塊の如き剣を防いだモノを視認し、イリヤスフィールの目が驚きに見開かれる。

黒く変色し、暗い魔力を纏って変質していても、彼女がそれを見間違えることはない。アインツベルンには、かつて召喚したサーヴァントの記録が存在していたし……何より。他ならぬイリヤスフィール自身が、十年前にその目で見ていたものなのだから。

 

「―――あなた」

 

 数ある聖剣の中でも究極の一。星に鍛えられた、人の願いをカタチにした幻想。その担い手たる英霊は、ただ一人しか存在しない。

 即ち、誉れも高き騎士の王。此度の聖杯戦争に於いて、剣の英霊として召喚されたサーヴァント。しかし、既に彼女は敗退し、消滅の憂き目に遭っていたはず―――そこまで考えたイリヤスフィールは、剣を握る人物の姿に、またも驚愕を禁じ得なかった。

 

「本当に……セイバー?」

 

 黒い甲冑。黒い剣。目を覆う黒い眼帯。生気を感じさせぬ白い肌。桁外れな程の絶大な魔力。そして、殺意と絶望が滲み出るような鬼気。彼女の知るものとは余りにも違う……それでいて、紛れもなく本人だと断言できる容姿。変わり果てた騎士王の姿に、イリヤスフィールはしばし思考を停止させた。

 その間にも、二騎のサーヴァントは動いている。背後からの一撃を防がれたセイバーは、その場から大きく後退。一方のバーサーカーも、本能で明らかな異様さを感じ取ったのか、追撃することなく斧剣を構えて様子を伺っていた。騎士王の足元に、得体の知れぬ黒く淀んだ泥のような物質が広がっているとなれば、迂闊に近付くのは悪手に他ならない。

 

「……そう。どんな手を使ったのか知らないけど、セイバーを奪うだけじゃなく、汚染して使役しているのね。ルールを破るどころか、矜持さえ忘れてしまったの、ゾウケン」

 

「カ、これは異な事を。規則を侵したと言うのなら、三度目の折におぬしらがしでかした愚行こそ禁忌であろう。此度の……いや、前回からの戦の歪みは、元を辿ればそれに帰結する。儂は単に、おぬしらの所業に便乗させてもらったに過ぎん」

 

 そう語る魔人は、傍のアサシンに目配せすると一歩退いた。代わって、短刀を構えた髑髏の面が前に出る。

 二対一。単純な性能値ではヘラクレスに近いセイバーと、マスター殺しに特化しているアサシン。主を守りながら戦わねばならぬバーサーカーにとっては、至難を極める状況ではあったが―――彼こそは、十二の試練を潜り抜けた大英雄。この程度で後れを取るなど考えられぬことであり、それは彼の肩に乗る主が誰よりもよく理解していた。

 彼らが真に警戒しているのは、セイバーでもアサシンでも、臓硯でさえもない。セイバーの足元からじわじわと広がり、森を侵略していく汚泥。どのサーヴァントでもなく、その泥こそが、ヘラクレスをして即時の退却を決断させた脅威だった。

 アレに触れれば終わる。飲み込まれるか、騎士王のように見る影もなく汚染される。自らに迫る窮地ではなく、バーサーカーが己が従者ではなくなる可能性に、イリヤスフィールは恐怖すら抱いていた。

 

「さて、話はこれまでじゃ。儂の望み―――不老不死の器のため、おぬしには贄となってもらおう……!」

 

 魔術師の殺意。呼応するように、髑髏の面と黒い剣士が前進する。雪の少女は己が魔術を練り始め、唸る狂戦士は敵を破砕するべく前へと進む。

 

 

 ―――だが、この場に集う者たちは、誰も気づいていなかった。鷹の目で彼らを見つめる、赤い外套の英霊がいたことを。




アーチャーの生前の光景は、「こういう光景もあったのだろう」という憶測が一部ございます。財宝を手に入れるためには、それ相応の冒険を潜り抜けているはずですので。

また、大筋には変更はございませんが、感想での指摘に伴い前話の一部を変更しました。

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