【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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8/24(月)にもお話を投稿しております。そちらをまだ読まれていない方は、前話からお読み頂けますと幸いです。

併せて本編の改稿作業(読みやすい表現への変更、描写の追加、最新設定の反映等)もプロローグから順次行っております。劇場版HFに沿った内容がちょっと増えていたり。


27.正義の在処

 ──教会。

 

 それは、キリスト教における信者の団体を示す語である。転じてそれは、彼らが祈りを捧げる宗教施設としての意味合いを持つようになり、単に教会といえば後者を連想する者がほとんどだろう。 

 古来より神道、仏教といった宗教を信仰してきた日本にキリスト教の洗礼が訪れたのは、戦国時代の最中。以来、弾圧や排除の歴史に見舞われながらも五百年、彼らは一定の勢力を保ち続けてきた。現代では神社や寺社ほどではないにしろ、各自治体に一つくらいは教会が存在している。

 ここ冬木市でも、郊外の丘の上に教会が設けられている。広大な敷地を持つここには、平素は礼拝を目的とする信者や冠婚葬祭に関わる市民がぽつぽつと訪れていたものだが、聖杯戦争の影響による異常事件の多発を警戒してか、虫の飛ぶ音すら聞こえぬ静寂が広がっている。 

 唯一礼拝堂に佇んでいるのは、僧衣姿の長身の男。聖杯戦争の運営に携わる監督役でありながら、自らがマスターとして介入するという反則に手を染めた神父──言峰綺礼は、感情の見えぬ瞳で神の子の像を見上げていた。

 

「──戻ったぞ、マスター」

 

 悪徳の棲家と化した教会に、霞が湧き出るように現れた男が一人。霊体化を解いた弓兵のサーヴァントは、僅かに疲れを滲ませた顔で、得体の知れぬマスターに声をかけた。 

 ランサーとの戦闘後、郊外にあるアインツベルンの森へ向かったアーチャー。前回召喚された弓兵だというサーヴァントと戦い、これを圧倒した彼だったが、問題はその後にあった。人も英霊も何もかもを喰らう怪物──間桐臓硯の手によって解き放たれた、制御さえ望めぬ物の怪は、事もあろうにこのアーチャーを付け狙ったのだ。

 同じ場にいた黄金の弓兵を狙わなかった理由は定かではない。単なる不運か気紛れかは判らぬが、アーチャーは血相を変えて森から遁走する他なかった。逃げ切りこそしたものの、化け物に追われ続けるという状況は、如何に英霊であるとはいえ気疲れを覚えざるを得ない。

 

「ふむ。ご苦労、アーチャー。それで、首尾はどうかね」

 

「どうもこうもない。一体全体、今回の聖杯戦争はどうなっている?」

 

 報告を求める言峰に対し、アーチャーは質問で返した。通常、聖杯戦争に召喚されるサーヴァントは、その基礎知識について聖杯からの加護――有り体に言ってしまえばインストールを受ける。しかし、その知識から見ても、彼だけが独自に持つ()()()の知識から見ても、この戦争は完全に狂っていた。

 

「バーサーカーとアサシンは、おそらく消滅した。残ったのはセイバーと、あの前回のアーチャーという男だが……それはまだいい。あの黒い影、アレは一体どこから来た?」

 

「ほう。正体ではなく来歴を問うとは、君はアレに心当たりがあるのかね?」

 

「さてね。あれが捨て置いて良い類の、無害な小動物でないことだけは保証できる」

 

 礼拝用の椅子に腰掛けると、そうはぐらかしてみせたアーチャーだったが、彼はこの主に早くも不信感を抱き始めていた。 

 サーヴァントは七騎しか召喚されぬはずなのに、此度の聖杯戦争には既に八騎の英霊が参加している。うち一騎は今回召喚されたものではないようだが、それを差し引いても異常な有様である。正規のサーヴァントが揃う前──つまり、このアーチャーが召喚される前の時点でほぼ半数のサーヴァントが消滅しているというのも驚嘆すべき異様さだ。 

 それらの異常さを是正し、場合によっては聖杯戦争の中断、各陣営への掣肘を行うのが監督役の役割である。だというのに、あろうことかこの神父は、その責務を果たすどころか自らがマスターとして介入し始めている。

 挙句、自分が最初に戦ったあの槍兵は、この男が他者のマスター権を簒奪して使役したサーヴァントだというではないか。自分に英霊としての矜持や誇りがあるとは到底言えないが、それにしても、サーヴァントとして召喚されてまで汚れ仕事の「後始末」を命じられるのは愉快な気分ではなかった。

 

「アレは魔術師に制御できる手合いではない。放っておけば、聖杯戦争などという枠組みを超えて際限なく人を喰らう怪物だ。

 だというのに、君はアレを使おうという愚か者に肩入れしろと命じる。どういう考えなのか、少しぐらい話してくれてもいいのではないかね」

 

「ふむ──」

 

 皮肉を含ませたサーヴァントの問いに、後ろで手を組んだ言峰は暫し考え込んだ。

 必要があったとはいえ、聖杯戦争のルールに真っ向から喧嘩を売るような指示の数々は、確かに反発を招いて然るべきである。このまま不和の種を撒き続けるのは、誰がどう見ても悪手だ。マスターとサーヴァント間の信頼関係が消滅すればどうなるか──それは彼自身が第四次聖杯戦争で目の当たりにし、また利用してきた光景でもあった。 

 彼の最終目標について今明かすわけにはいかない。それに手を貸そうというのはあの英雄王ぐらいなもので、下手に表に出せば最悪サーヴァントの反逆を招く。

 かといって、予備令呪の残存数も心許ない現状では、強硬手段に出る選択肢もない。適度に情報を開示し、自分の命令に従う程度の信頼関係は築いておく必要がある──。

 

「確かに、何も知らせぬまま、一方的に命令を続けるというのは悪しき振る舞いだった。不快感を覚えたというのであれば謝罪しよう」

 

「なに、マスターにも考えがあってのことだろう。私はあくまでもサーヴァント、指示には従うさ。

 もっとも、その考えが見えなければ、こちらとしても打つ手が限られてくるわけだが」

 

「真っ当な意見だな。では、胸襟を開いて話すとしよう──と、その前に一つ確認しておくべきことがあった。

 サーヴァント・アーチャー。君はこの聖杯戦争に於いて、聖杯に託す願いはないと口にしていたが……それは、本当かね?」

 

 何気ない口調だが、その質問には嘘を許さぬ重みが混じっていた。聖職者としての重厚な声音と、代行者としての鋭い瞳が、歴戦の戦士であるアーチャーをして僅かに姿勢を正させる。

 

「その通りだ。私の願いは、聖杯に託すようなものではない。私が召喚された理由は他にある──が、それがマスターの目的を阻害するものでないことだけは保証しよう」

 

 赤い弓兵の言葉に嘘はなかった。ある人物の目的を見定め、抹殺する──それこそが、彼が聖杯の招きに応じた理由。その対象が他のマスターである以上、魔術師同士の殺し合いを本質とする聖杯戦争に於いては何ら問題とされるものではない。言峰神父同様、彼もまた自分の胸中をさらけ出したわけではないが、これは最低限伝えておかねばならない要項である。

 

「そうか……君の言葉を信じよう。しかし、これから君に話すことは些か以上に重大だ。故に、一つ保険をかけさせてもらう。

 令呪を以て命じる──『サーヴァント契約の破棄並びにそれに準ずる行為を禁ずる』」

 

「なに──!?」

 

 発動された令呪は、赤い燐光を放って消え失せ、サーヴァントの霊体に抗い得ぬ束縛を加えた。特級の霊格や対抗宝具でも持たぬ限り、単純な命令に限っては絶対権限として作用するそれは、正しく弓兵を縛る鎖となった。

 馬鹿な、と眼を見張るアーチャー。言峰が行使した令呪の内容は、あまりにも愚かしい。ありとあらゆる命令に従えなどという無茶な要求ならまだしも、これはひたすらに無意味なのだ。わざわざ契約を破棄しようなど、マスターの存在がなくては現界を保てぬサーヴァントが、そんな愚行に及ぶ理由がない──。

 

「これから私の言葉を聞けば、この令呪を使わざるを得なかった理由にも理解が及ぼう。

 なにせ──冬木の聖杯は、正しく『願いを叶える』という機能をとうに失っているのだから」

 

「なんだと──」

 

 今度こそアーチャーは驚愕した。この戦況の異常さや、彼にごく僅かに残る()()から見るに、確かに聖杯については疑いの目を向けていい有様だが……それにしても、願いを叶えるという謳い文句すら偽りなのであれば、聖杯に託す願いを持つサーヴァントは激昂していよう。なるほど、これは先の令呪を切らねばならない理由も理解できる。

 

「ことの始まりは二つ前──第三次の聖杯戦争に遡る。アインツベルンが召喚したサーヴァント、あれがそもそもの始まりだった」

 

 当時、既に二度の聖杯戦争を無益に費やしたアインツベルンは焦りを抱えていた。

 来たるべき三度目に於いては、何としても門への道を開かねばならぬ──その妄執の果てにアインツベルンは一部のルールを破り、殺戮に特化した英霊……ゾロアスター教にてあらゆる悪性を司ると謳われる神霊『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の召喚を試みた。

 しかし、それは冬木の聖杯の限度を超えた存在。実際に召喚されたのは、ただこの世全ての悪であれと願われただけの、元はどこぞの農民に過ぎぬ何の力も持たぬ弱小の英霊だった。最強の存在を召喚しようとしてとんだハズレ籤を掴む羽目になったアインツベルンは、一瞬にして敗北し、その愚行のツケを払うこととなった。

 ……が、そこからが問題だった。このアンリ・マユには確たる伝説も功績も存在せず、英霊とすらも言えるか怪しい、「悪であれ」という願いの具現化のようなモノ。それが聖杯に取り込まれてしまった折、願望機としての機能が作動し、聖杯はアンリ・マユの「悪性」で汚染されてしまったのだ。

 

「異常が明らかになったのは四度目の折だ。私はその時、監督役ではなく正規のマスターとして参加していた。そして、最後の最後になって──聖杯の汚染を目の当たりにした」

 

 本来ならばその時点で、聖杯戦争そのものが見直されてもおかしくはなかった。真っ当な良識を備えた人間であれば、奇しくも遠坂凛が唱えたように、即座の中止と調査を行うだろうが──魔術師という生き物は、良識という言葉から最も遠いところにいた。 

 マキリとアインツベルンは、そのような()()など見向きもしていない。どちらも、聖杯に至ることさえできるなら後など知ったことではなく、アインツベルンに至っては遠い本国に引きこもっているが故、事の重大性に気づいていたかさえ怪しい。

 最後の御三家である遠坂時臣は、真相を知れば良識的な対応を取ったであろうが、彼は答えに至る前に落命するという悲劇に見舞われた。 

 監督役を派遣している聖堂教会は──その言峰が意図的に事実を歪めた報告をしたという裏があるが──基本的に不干渉。

 そして魔術協会は、第四次聖杯戦争に巻き込まれた航空自衛隊(JASDF)F-15J(イーグル)やパイロットの損失隠蔽という凄まじい労力を強いられたことに物申しはしたものの、アインツベルンの膨大な資産がその埋め合わせをし、最終的に神秘の秘匿が守られたことでそれ以上介入の手を伸ばすことはなかった。 

 そうした積み重ねの果てに、僅か十年で第五次聖杯戦争が開かれることになったわけだが……言峰は、それらの事実のうち、都合のよい部分だけを抜粋して語っていた。

 

「──かくして、汚染された聖杯は捨て置かれ、此度の第五次が開かれた。しかし上の決定がどうあれ、監督役として、そのような危険性を持つ聖杯を世に放つわけにはいかん。故に、私はこの戦争に介入することを決意した。

 君に始末を押し付けることになったランサー、彼はもともと魔術協会から派遣されたマスターのサーヴァントでね。マスターとは知己であった故、この状況を糺すことに理解が得られると思ったのだが……やはり、魔術師というものは民衆の被害など眼中にないらしい。交渉は決裂し、最終的に隙を突いた私がランサーを使役するに至ったわけだ。

 だが残念なことに、クランの猛犬は非協力的でな。終盤に至って私に令呪が齎され、話のわかるサーヴァントが召喚に応じてくれたことは、主の采配に感謝せねばなるまい」

 

「……なるほど。確かに、納得のいく話ではある」

 

 朗々とカバーストーリーを語る言峰には、一切後ろめたい色がない。悪辣なのは、彼が語る内容は九割がたが嘘のない事実だということだ。唯一自分の動機だけを偽っているが、それは余人に図り知れるところではない。

 アーチャーとて、神父の話を全て鵜呑みにするわけではなかったが、確かに筋は通っている。汚染された聖杯召喚の影響なのか定かではないが、朧げになってしまっている記憶と照合しても大筋で矛盾点はなさそうだ。しかし──。

 

「だが、それならば何故あのマキリという魔術師を支援する? あの尋常ではない妖物、あれの悪性は聖杯に連なるものだろう。どんな手品か知らないが、それを利用している者と──」

 

「そう。まさにそこが問題なのだ。アーチャー、君は『敵の敵は味方』という諺に聞き覚えはあるだろうな」

 

「あんなものと手を組んでまで、優先して戦わねばならぬ相手がいると?」

 

 然り、と頷く言峰。相手のペースに乗せられていることはわかっているが、圧倒的に情報が不足している以上、今のアーチャーは聞き手に回るほかはない。続きを促すと、神父は光が差し込むステンドグラスの方に目を向け、再び唇を開いた。

 

「時に──君は、前回のアーチャーを間近で見たようだな。君の目には、あの英霊はどう映る?」

 

「────」

 

 これは、二重の意味で容易に答えられぬ質問であった。

 赤い弓兵は、ある特殊な事情により、あの黄金の英霊を知っている。記憶の損耗や混濁のせいで、その全てを思い出すことは叶わないが……とにかく油断ならぬ相手であり、尋常ならざる武具を用いる破格の英雄であることだけは確信できた。しかし、それを口にするということは、自身の正体に触れるということでもあり──今その手札を切るべきではないと、彼の直感は判断した。

 そしてもう一つの理由は、その記憶と現実との差である。はっきり言ってしまえば、アーチャーが直に戦った感覚からすれば、あの男はそう脅威となる存在ではない。単に剣を交えて戦うだけであれば、ほとんどの確率で勝利を得られよう。しかしそれは、薄れた記憶の中にあるあの英霊の強大さからはまるでかけ離れているのだ。

 数秒の思考の末……結局青年は、当たり障りのない答えを口にする他なかった。

 

「そうだな……今の時点では、そこまで恐れるべき戦闘能力ではない。私なら問題なく勝てるだろう。だが──どうも、あれはまだ奥の手を持っているように感じられる」

 

「ほう? なるほど、やはり何かしら問題が起きていたか──。

 ……ああ、今のは独り言だ。実はあの男は、第四次における私のサーヴァントでな。その真名をギルガメッシュという」

 

 その言葉が出た途端、アーチャーの記憶が僅かに繋がった。彼の魂の底で、その強大さがどこかに焼き付いていたのだろう。

 古代ウルクに君臨した、人類最古の英雄王。それほど破格の存在とあれば、前回の聖杯戦争から生き残っているという理由にも納得がいく。古さと力がほぼ等しい魔術世界において、物語となった最古の英雄とは、即ち最強の英霊と言い換えることが可能だからだ。実際はそう単純ではないのだろうが、どうあれ尋常でないサーヴァントであることに疑いの余地はない。

 

「彼と私は手を結んでいたはずなのだが、この第五次に先立って、あの男は急遽鞍替えを試みた。どのような目的かは知らんが、マスターを変えて聖杯戦争に加わった以上、彼は私の言葉などに耳を貸すまい。あれはそういう性質の英霊だ。

 ギルガメッシュを倒さぬ限り、聖杯に届く手立てはない。どうも不具合が生じているようだが、本来の力ならば、あれは一騎や二騎のサーヴァントなど歯牙にもかけまい」

 

「それで、他の魔術師と手を組むことにしたわけか」

 

「ふむ──マキリの老翁は、自分の目的さえ果たせればいいという御仁だ。その後であれば、条件次第ではあるが聖杯の調査や、ことによれば解体という手にも頷いてくれよう。

 問題は、その目的が果たされる際に聖杯がどう動くかということ。君はそこで発生する問題への切り札でもある──先の令呪はその意味でも保険だ。マキリは令呪を作り上げた家系、サーヴァント契約に介入されるという事態も考えられるからな」

 

「…………」

 

 自分の目的は、あくまでも汚染された聖杯の調査及び被害抑止──そう語る言峰の話は、聞くだけならば納得できるものだ。神職のすべてが善良でないことぐらいアーチャーは知っているが、聖職者や監督役としての矜持から見た上でも、彼の話に矛盾はない。

 よく注意して神父の様子を観察していた弓兵だったが、そこには嘘を吐く人間特有の焦りや汗などが微塵も見受けられなかった──単に事実を隠しているだけなのだから当然ではあるが、ここは言峰綺礼が持つ情報量や演技力の差が、アーチャーの観察眼を上回ったというべきだろう。

 

 ──だが、一点。

 

 ただ一点、言峰が言及しなかったことがある。

 聖杯戦争の被害を防ぎたいと口にしながら、おそらくはその何らかの機能を悪用していると思われる、間桐臓硯が使役した謎の怪物。あれの存在と被害について、この男は結局ぼかしたままだ。副次的な被害(コラテラル・ダメージ)として許容しているのか、それとも他に理由があるのか──その疑念は、アーチャーの思考の片隅にずっと漂っていたこの神父への名状しがたい不信感と重なり、僅かな警戒心を抱かせた。

 このマスターが、本当に聖杯戦争の被害を抑えたいと考えているのであれば、それはアーチャーが自身に課した役割と一致する。アーチャーには彼自身の目的があるが、事態が看過できぬものになった場合は、役割の方を優先させると決意している。

 彼の話が真実であれば、どちらを選ぶにせよこのままサーヴァントを務めることが最適だが……言峰が赤い弓兵に保険をかけたのと同様、青年もまた彼の話を聞く裏で、一つ保険を備えておくことにした──。

 

「──しかし、間桐臓硯は油断できる相手ではない。虫にいつ寝首をかかれるかという不安もある。ここはもう一つばかり、保険をかけておきたいところだ。

 アーチャー。そのために、君はまず──」

 

 

***

 

 

「随分と思い詰めた顔をしているな、雑種」

 

 縁側で独り夜空を見上げていると、もう聞き慣れた傲慢な声が背中から投げかけられた。なんとなく、こいつが来るんじゃないかとは思っていたが。

 

「後ろからだってのに、よく顔が見えるな」

 

「たわけ、背を見ればあたりはつく。目に見えるものでしか物事を解せぬのであれば、盲人の方がマシだろうよ」

 

 そのとんでもない分析能力をナチュラルに他人に求めないで欲しいのだが、言い返す余力のない今は肩を竦めるに留めておく。遠坂とイリヤが暴いた現実は、そんな余裕など消えてしまうほどに残酷だった。

 

 ――黒い影の正体は、間桐桜だった。

 

 間桐臓硯が使役していた、あの魔物。セイバーを倒し、おそらくはバーサーカーさえ滅ぼした、多発する行方不明事件の犯人であろう異形の存在。聖杯戦争のシステムを狂わせたそれは、大聖杯の中に潜む『この世全ての悪(アンリ・マユ)』だった。

 といっても、高度な魔術によって構成された聖杯には何重ものフェイルセーフが存在する。そのため悪の権化は、深い繋がりを持つ聖杯の器――桜を通じて現実に干渉し始めた。この裏技によって器が持つサーヴァントの回収機能や桜の魔術特性などが組み合わさり、あのような黒い影として顕現しているのだという。臓硯がどんな手でそれを利用しているのかは分からないが、およそ生半なものではないだろう。

 桜自身の意志ではなく、ただ端末として利用されている……つまり彼女は被害者なのだが、そこから生み出された影は既に幾人もの人間を死に追いやっている。そしてこの暴虐は、サーヴァントの魂が桜に集まり、彼女の魂や人格が押し潰されるほど加速していく。むしろ桜が必死に抵抗しているから、未だこの程度で済んでいると言ってもいい。

 聖杯の中に潜むモノに乗っ取られるのか、汚染されるのか、同化するのか――いずれにせよ、このまま手を拱いていれば破滅的な未来が待っているのは確実だ。無差別に人を襲う怪物など、捨て置いていい道理がない。となれば――。

 

「――あの娘を殺してしまえば早かろう。端末が消えれば、復讐者(アヴェンジャー)は表に出る力を失う。後は聖杯を直すなり壊すなり、どうとでもやりようはあるだろうよ。

 ただ見過ごせば、あの娘は()()()()()()()()()()()。殺してやるのも慈悲というものだ」

 

「ッ……!」

 

 今日の天気を語るのと同じ口調で、桜を殺せと宣うアーチャー。その言葉に激昂しかけたところで……それが現実的な手段の一つであることを、どうしても否定できなかった。

 

「わかってる。わかってるけど、それは……」

 

 承服できない。これ以上の犠牲を防ぐために、罪もない後輩を犠牲にする……その矛盾を是とするには、桜はあまりにも近すぎる存在だった。桜を助けたいと願ったはずなのに、何故俺はすぐにこんな選択肢を突きつけられているのか。

 慎二の時とは違う。あいつは自分のために、なんの関係もない学校の人たちを鏖殺しようとした。犯人に明確な悪意があり、犠牲が出ることが確実なのであれば、元凶を排除することは現実的な選択肢だ。

 だけど桜は、誰かを傷つけることを望んだわけじゃない。虐待を受けて、心も体も蝕まれて、それでも誰かを思いやれる優しい子だ。被害者であり続けた彼女が、「迷惑だから」と殺される……それは、決して許してはならないことのはずだ。

 

 予感がある――害になる可能性があるからと、被害者である少数を殺す。その道を進んだ時、衛宮士郎はもう二度と後戻りすることはできないだろう。

 

「雑種。貴様の望みはなんだ?」

 

 ふと。アーチャーがそうやって、唐突に話題を変えてきた。もういい加減慣れてしまったが、その意図を読むには至らず、困惑のまま背後に目を向ける。

 

「あの桜という娘を救うことか? この街の雑種どもを救うことか? 悪漢を滅ぼすことか? 聖杯を砕くことか? それとも――何もかもを守りたいという、救いがたい戯れ言か?

 正義の味方などという愚論も然り、貴様には己が目指すべき道が見えておらぬ。それだから惑うのだ、おまえは」

 

 廊下の柱に背を預け、滔々と語る青年。晴れた夜空を見上げるアーチャーの目には、道筋が見えているのだろうか。

 正義の味方。俺はずっと、そうあるべき、そうなるべきだと考えていた。だけどこの聖杯戦争で向かい続けてきた現実は、理想からあまりにかけ離れていた。

 

 ――罪のない犠牲者を出さないために、桜という被害者を殺すことが正義なのか。

 ――桜という被害者を守るために、罪のない犠牲者たちを生むことが正義なのか。

 

『ヒーローは期間限定でね。大人になると、名乗るのが難しくなるんだ。――そんな事、もっと早くに気付けばよかった』

 

 切嗣が口にした言葉の意味。俺にとっての英雄が見せた、挫折と諦め。切嗣もまた、この矛盾に苦しんだのだろうか。

 今更ながら、セイバーにもっと詳しく親父のことを聞いておくんだったと後悔する。十年前、聖杯戦争に挑んだ切嗣は、どんな思いで戦っていたのだろう。その理想を継ぐと誓ったはずなのに、俺はただ迷うばかりで。そんな情けない自分に、無性に腹が立つ。

 

「……アーチャー。アンタには、その『道』っていうのが見えているのか?」

 

「ふむ? 言ったであろう。我は貴様の思想、価値観に毛ほどの興味も無い。単に、貴様という人間を観賞する――そうだな、それが今のところ我の道と言えるだろうよ」

 

「俺なんか見て、アンタは面白いのか?」

 

「まあ、赤点はつけずにおいてやろう。飽きていれば、貴様などとうに切り捨てている。

 この下らぬ茶番劇も幕引きは近い――此処に至ってまだ命があるとは驚きだが、生き汚さが貴様の取り柄というわけか。喜べ小僧、おまえの足掻きは存外愉しめたぞ」

 

 本人を前にして、臆面もなく生き様を愉しむと言い放つとんでもないサーヴァント。にやりと邪悪に笑うこの男に、さすがの俺も不快感を覚える。どれだけの人間が悩もうが死のうが苦しもうが、この男にとっては楽しみの種でしかないのだろう。よくもまあ、そこまで率直に愉悦を求められるものだ――。

 

「――故に。貴様も愉しむがいい、衛宮士郎」

 

 嫌味を言ってやろうとしたところで。予想だにしない話の振りに、俺は今度こそ絶句した。楽しむ? 桜や、街の人たちの命がかかったこの状況で、こいつは何を言っているんだ……?

 

「ふざけるな、アーチャー。今がどういう状況か分かってるだろう? 楽しむなんて、できるわけがない」

 

「そう決めつけるのは尚早だぞ、雑種。人の魂とは、すべからく悦を求めるもの。楽しみ、喜び、幸せ――人間とはつまるところ、悦を目的とする生命に他ならぬ」

 

 何を考えているのかさっぱり分からないが、アーチャーの今の言葉には確かに頷けるところがある。手近なところでは、ゲームであったりスポーツであったり。勉強が好きで研究家になったとか、模型作りが好きでプロのモデラーになったとか、そういう事例も同じだろう。

 だが、俺自身には今ひとつピンとこない。楽しもうとか喜ぼうとか――何も感じないわけではないが、深く考えようとすると、十年前の灼熱の夜を思い出すのだ。あの晩に、そういう感情も焼き尽くされてしまったのか。それともあそこで見捨ててしまった人々の、怨念が焼き付いているのか……。

 

「ふむ。解せぬ、という顔をしているな。では言い方を変えるとしよう。

 悦を求めるということは、即ち苦を逃れることに等しい。苦しみ、痛み、悲しみ――許せぬもの、認められぬものとも言えるか。悦と苦は表裏一体、悦が見えぬことがあろうと苦を解せぬ道理はない。苦こそが悦を開く鍵となる場合もあり、あるいは()()()()()()()()()もおろう。

 さて、思い出せ雑種。おまえは、いったい何が許せぬのだ?」

 

 少し、話が見えてきた。アーチャーの言う悦が理解できないから迷っているというのであれば、逆説的に悦を見つけることさえできれば道が見えてくるということか。そして悦と苦はコインの裏表であり、裏側からアプローチする手立てもあると。

 この僅か二週間やそこらの期間で、俺は許せないものを山ほど目にしてきた。学校の人間を虐殺しようとした間桐慎二、町中の命を吸い上げたキャスター、サーヴァントも人間も見境なく襲う黒い影、桜を利用して裏でほくそ笑んでいる間桐臓硯――いや、許せないのはそいつらじゃない。もっと深いところにあるものだ。

 

「自らの命を省みずに他者の命を救おうだと? 救世主とやらでもなく、見返りや快楽を求めているわけでもない。ここまで鑑賞してきたが、貴様の源泉はその真逆――何かを許せぬところにある。

 今こそ、苦の源流に向き合うがいい。それが見えれば、自ずと悦の在処も、至るべき道も見えてこよう」

 

 これまでずっと悩んで、迷ってきた。どうすればいいのか、何が正しいのか。アーチャーや遠坂に解決策を提示してもらったり、自分で気づきを得たりして、ここまではどうにか進んでこれた。けれどそれは目先の選択肢を示されただけで、根本的な解決策にはなっていなかったのだ。

 最終的な道が見えないから迷う。道を見いだすためには、自分の原点に向き合う必要がある……なるほど。確かに、アーチャーの言葉には重みがある。果たして、衛宮士郎という人間は何が許せなかったのか。

 目を瞑ると浮かんでくるのは――やはり、十年前の炎の夜。ただひたすらに、熱くて、痛くて。その感情さえも、徐々に分からなくなっていって。空には怨嗟と、憎悪を煮詰めたような真っ黒な孔が浮かんでいて。この苦しみが、俺は許せなかったのか?

 

「――違う」

 

 そんなものじゃない。俺が許せなかったのは、自分の苦しみなんかじゃない。

 大勢の人が、死んでいった。炎に焼かれ、煙に呑まれ、苦しみ抜いて死んでいった。ただそこにいたというだけで、聖杯戦争のことなんか何も知らないのに、罪のない人々が魔術師たちの欲望の犠牲になった。

 戦後の日本で、火事が原因で五百人を超える犠牲者が発生するなどという事例は他に類を見ない。生き残りこそすれど、後遺症が残った者や親族を失った者、焼失による経済的な要因で苦しんだ者まで含めれば、おそらくは万に届く被害者が出たことだろう。どうして彼らが苦しまなければならなかったのか? 一体、何が悪かったというのか?

 

「俺が許せないのは──」

 

 犠牲者には何の咎もない。罰を受けるべきは、間桐臓硯のような魔術師──邪道に堕ちた強大な「悪」。奴らが作り出すその犠牲、強者が弱者を蹂躙するという行為そのものが、俺が看過できない「苦の源流」だ。

 自分が傷つくのは良い。でも、他人が傷つくのは嫌だ。恐怖に屈して、我が身惜しさに人々を見捨てる……その結末は、炎の夜の再現だ。そんなことを繰り返すなど、到底許されるものではない。

 魔道の暴虐によって血を流す、力を持たない人々。彼らを守ること、犠牲を生じさせぬこと。そして、その理不尽な原因を排除することが、アーチャーの言う「苦」に向き合う道であり……ひいては、正義の味方と言えるのではないか。

 

『喜べ少年──君の願いはようやく叶う』

 

 あの神父の笑みが、やっと理解できた。何も知らない人々を守ることは、魔の手を伸ばす悪を滅ぼすことと表裏一体。ただの学生、ただの魔術使いに過ぎなかった俺が、聖杯戦争というフィールドに乗ることで、そのコインを掴むに至る……なるほど、正義の味方になりたいという願いは確かに叶えられた。

 

 誰を守ればいいのか? 

 何を討てばいいのか? 

 どうすればいいのか? 

 どこを目指すべきか? 

 

 それは、あの始まりの夜からずっと続いていた問いだった。大勢の人を助ける正義の味方になりたいと言いながら、俺は靄の中に取り残されたままだった。靄を晴らす方法はきっと簡単なことで──そして、選んでしまえば取り返しのつかない道で。俺は今、そのうちの一つを選択した。

 

「求めるところを為すがいい。それこそが娯楽の本道であり、愉悦へ繋がる糸となる。そしてその愉悦こそが、貴様にとっての幸福(正義)の在処を指し示す──故に雑種、貴様はまず『喜び』を知るべきだ。それこそが始まりの道となろう」

 

 人同士の殺し合いなら、警察や法律が対応する。

 大国同士の戦争でさえ、条約や国連が存在する。

 

 しかし──魔術師同士の争いは、それに巻き込まれた人たちは、一体誰がどうするのだろう。桜のことを今まで、誰が助けてくれたというのだろう?

 

 自分が魔術の贄となったことすら、知らずに傷つき、あるいは死んでいった人たち。その数は、前回の聖杯戦争だけでも数百人……国や時代を広げれば、どれほどおぞましい人数に上るかわかったものではない。

 俺が守るべきものはそれだ。俺が討つべきものは、国にも法にも裁かれぬ、理不尽を強いる魔術師だ。この聖杯戦争が、大勢の人間を殺し続ける原因なのであれば──そんなものは、木っ端微塵に吹き飛ばしてやる。私怨だと、独善だと詰られようとも、その果てにみんなが笑っていられる世界が待っているなら……俺は、それに『喜び』を抱くことができるだろうか?

 

「──決めたよ、アーチャー。愉悦ってやつはまだわからないけど、俺が許せないものと、俺がやりたいことは見つけた」

 

「ほう──」

 

 超然と構えていたアーチャーの雰囲気が変わる。振り仰げば、どこか遠くの星を見ていた青年は、緋色の瞳で俺を見下ろしていた。そこに宿る怜悧な気配は、この男が幾度となく見せてきたもの──黄金の英霊は、衛宮士郎という人間の解を裁定しようとしていた。

 

「十年前から、ずっと考えてた。俺は何をするべきなのか。どうしたら正義の味方になれるのか。根っこにあったのは、たぶんすごく単純なことで……結局俺は、あの夜を繰り返したくないだけなんだ。

 関係のない、何も知らない人たちを傷つけて……自分のためだけに利用して殺すような魔術師。それを当たり前にしてしまっている、聖杯戦争みたいな狂ったシステム。俺が一番許せないのは、俺が戦わなくちゃいけないのは、たぶんそいつらだ。

 俺が守りたいのは、桜か、街の人かっていう二択じゃない。桜も、街の人も……あんな奴らの犠牲になる人を、できる限り助けたい」

 

「良いのか、雑種。それを決める前に、よく考えたほうがいい。

 道は一つではない。この世の全てを救おうと足掻く道も、ただ一人だけを守り通す道も、はたまた少数の弱者を救うために強者と戦う道も──それがどれほど愚かしいものであれ、貴様には選択の自由がある」

 

 この男らしからぬ真摯な忠告に、怪訝な目を向けてしまう。先程まで人を煽るようなことを言っておきながら、今度は何を言い出すのか。

 そんな疑念が顔に出ていたのだろう。鼻を鳴らしたアーチャーは、腕を組むと傲岸に俺を見下ろしてきた。

 

「これでも貴様はマスターだからな。サーヴァントとして、忠告ぐらいはくれてやるさ。

 ──後戻りはできんぞ、雑種。この戦も既に大詰め、あの小娘の猶予は幾許もない。悠長な手段を選ぶ暇はなく、貴様が手を下さねばならぬ局面も訪れよう。

 一度手を汚せば、つまらぬ罪罰で悩み惑うのが人というもの。その苦しみを良しとするだけの決意が、貴様の大義には宿っているか?」

 

 義理立てからとはいえ、この自己本位な男がここまで訊ねてくるとは。それほどまでに重い選択が、ずっしり背にのしかかる。

 この世の全てを救おうと足掻く道──そんなことは不可能だと、頭ではわかっている。それでも俺は、がむしゃらにその道を目指していたのだろう……この聖杯戦争を経験しなければ、きっとそうしていた。なぜなら俺は、人を救えない自分も許せなかったからだ。

 何を救うべきか、何を倒すべきかも定まらず、闇雲に戦い続けて。こうして今命があることがある種の奇跡であり、俺が今日まで死んでいた可能性は極めて高かった。幸運の積み重ねの果てに生き残ることができたとしても、きっと無事では済まなかっただろうし、その先も暗雲が立ち込めていたに違いない。ただ目に映った悲劇を無くそうと戦い、どこかの内乱に飛び込んで散るような未来ですら否定できない。

 けれどこの二週間ほどの激闘は、影響を受けるには十分すぎた。俺は幾度となく、この男に叱咤された──道は残されていると、おまえがやりたいことは何なのだと、より先を見据えろと。

 

 高く、遠くから俯瞰する、その考え方が。

 たとえ誰が相手だろうと、己を貫き通す矜持が。

 どれほど絶望的だろうと、未来を手繰り寄せる瞳が。

 

 俺には、暗闇を照らす黄金のように──(まばゆ)く、(まぶ)しく映ったのだ。

 

「戦うと決めた。──この道が、間違ってないって信じてる」

 

「──そうか」

 

 それは、ある種の羨望だったのかもしれない。衛宮切嗣への憧憬と、同質のものであったのかもしれない。

 

 ──夢を見た。

 遠い昔に、戦い抜いた英雄を見た。

 人を統べ、人を超えたその男は、暴君と畏れられながらも人を守った。

 大森林を支配する古き神であれ、天地を砕く災害の化身であれ、その英霊は決して屈しなかった。友と肩を並べて、彼はあらゆる試練を乗り越えたのだ。

 

 それを思い出して、ようやく理解した。理不尽を跳ね除ける姿に、やっと真実が見えた。自分が許せないものが、本当は何だったのか……それは、あの始まりの夜起きたことと、理不尽に何もできなかった自分自身で。

 在り方は最初から変わらなかった。道だけが見えていなかった。結局のところ──衛宮士郎は、正義の味方(えいゆう)になりたかったのだ。

 

「では、如何にして戦う? 貴様が挑むのは、魔道という世界そのもの。凡百の雑種に過ぎぬ貴様ごときが、どのようにして魔術師と戦い、どのようにして人間どもを守るというのだ?」

 

 淡々と続けられた問いに、肩透かしを食らった気分になる。てっきり、いつものように鼻で笑われるのかと思ったからだ。その程度には、この男の言葉を借りれば「身の程を弁えない」ことを口にしている自覚はある。なにせ俺は、一般人を巻き込む邪悪な魔術師や魔術的なシステム、その一切と戦うと言い放ったのだ。

 だが、アーチャーは笑わなかった。無理だとも、諦めろとも言わなかった。こちらを見下しきった、自分は世界で一番偉いとでも言うような態度だが、その言葉は実現性と覚悟を図る知性に満ちたもので。まったく、つくづくこの男ほど王様という役職が似合うヤツはいないだろう。

 

「ああ、わかってる。今の俺一人じゃ、たぶん無理だ。ろくに魔術も使えない俺じゃ、魔術師一人だって勝てっこない。サーヴァントみたいなヤツが出てきたら、すぐにお陀仏だろう。

 だけど、アーチャー。どんな状況でも道はあるって、上から見ろって教えてくれたのはアンタだ。だから俺は……道を作るところから始めることにした。

 一人じゃ勝てないなら、仲間に頼る。今勝てないなら、時期を待つ。物が必要なら、そいつを持ってくる。それでも、全部叶えるなんてことはできないだろうけど──道もわからないまま一人で突っ込むより、よっぽど勝率は上がるだろ?

 だからまずは……遠坂も、イリヤも、アーチャーも。みんなの力を借りることになるけど、桜と街の人、両方を助ける道を探す」

 

 そうだ。どちらかしか救えないなんて決めつけるのは尚早だ。このサーヴァントに、そう何度叱られたことか。大体、そうなると決まってもいないうちからどちらかを切り捨てようなんて、そんなのは正義の味方じゃないだろう。

 それでもいつか、どちらかを選ばざるを得ない場面が来るかもしれない。だけど、それは今じゃない。そんな事態を招かないためのやり方は、皮肉なことに、この英霊が教えてくれた。

 一人じゃ何もできない。けれど、信頼できる仲間がいるなら、活用できる道具があるなら、選択肢は何倍にも増えていく。孤高を貫くこの男だって、親友と一緒に戦っていた。魔の手を跳ね除けるという困難に挑むのなら、まずそこから始めるべきだったのだ。

 

「それだけか。貴様の言う信念とやらは、如何にして貫くというのだ?」

 

「総当たりだ。もう一回遠坂たちに掛け合って、片っ端から思いつく手段を潰していく。

 あとは並行して、他のサーヴァントの対策かな。時間が勝負になる――イリヤは、ランサーはもう倒されてるって言ってた。なら残ってるサーヴァントは、セイバーとよくわからない一騎だ。

 よく分からない方は森で俺たちを攻撃してきたけど、どうもそれにしては手緩かった……まるで、他に何か目的があって、俺たちのことはついでだったみたいに。もしかしたら、そいつの目的次第では手を結べるかも。そうなれば、セイバーと聖杯を速攻で――」

 

「たわけ。我は目先の話を聞いているのではない」

 

 どう動くべきか、どんな選択肢が残っているか、必死に検討している矢先にアーチャーがぴしゃりと遮ってきた。呆れを隠そうともせず、人ならざる眼差しがこちらを睥睨する。

 

「盤面は貴様らに不利だ。現状の我という戦力では、黒幕どもには分が悪かろう。

 しかし――いみじくも貴様が申したように、道は未だ定まっておらぬ。事によれば、貴様が生き残る道もあるやもしれぬ。そうなれば、この聖杯戦争(三文劇)は単なる序章に過ぎん。

 魔道と戦うと抜かしたな、小僧。当世には千年の長きに亘り魔術を練り上げる者もいるという。貴様ら只人にとって、それは神にも等しかろう。よもや貴様は、神に挑むというのか?」

 

 あの炎の夜。冬の街では、何百人もの人が死んだ。

 防火設備だってあったろうし、消防車だって出動したはずだ。だけど、そんな現代技術を嘲笑うかのように、あの炎は一瞬にして何もかもを焼き払った。

 人の手が届かぬ恐ろしい猛威は、確かに神話に於いて神罰と呼ばれたそれだろう。あれが聖杯によって引き起こされたのなら、それは即ち魔術で招かれたものと同義。あれに等しい事象を引き起こせる魔術師だって、きっといるに違いない。

 

 ──だけど。

 

「神様だろうが王様だろうが、どんな力を持ってようが、人を好き勝手に殺していいはずがないだろう。どんな人間だって、そんなヤツに理不尽に殺されていい理由なんかない。神様なんかに従って、自分で決められるはずだった人生をめちゃくちゃにされていいわけがないんだ。

 勝てないから、強いからって諦めて……そんなんじゃ、あの夜と変わらない。それで人が死ぬなんて、俺は絶対に許せない」

 

 そんな理由で諦めてしまったら。亡くなった人たちの無念は、残された人たちの苦しみは、どこに行ってしまうのだろう。

 無くさせやしない。無意味になんてさせない。その結果、たとえこの命が燃えてしまっても――あの夜燃え尽きなかった理由は、きっとそこにあるはずなのだ。

 

「ク────はは、ふははははははは……! 正気か貴様? 名誉でも利益でもなく、信仰でも復讐でもなく――ただ我を貫くためだけに、神に仇なすと謳うか! なるほど、貴様にとっての敵とは、端から己自身というわけか――!」

 

 何がツボに入ったのか、アーチャーが肩を揺らして笑い出す。人が真剣な話をしている時に笑い出す、まったく空気の読めないやつだが……口調とは裏腹に、その笑いは嘲笑ではなく、何か心底面白い言葉を聞いたという上機嫌なものだった。

 記憶こそ失おうとも、この男はかつて神々やその眷属と戦っていた。もしかすると、その失われた記憶や本質に、俺が口にした言葉とどこか通じるものがあったのだろうか。

 ひとしきりそうして高笑いをしたところで、息が切れてきたのか、アーチャーはようやく静かになった。唇をつり上げながら、男が再びこちらに目を向けてくる。

 

「だがよい。賢しいだけの雑種などそこらに掃いて捨てるほどにいる。凡俗な賢しさと希有な愚かさでは、まだ愚かしい方が見所があるというもの。この期に及んで、賢しらに人助けなどという偽善を掲げるなら、貴様に最早見るべき点などなかった。

 正義の味方? 誰も彼もを救いたいだと? ハッ――そうして借り物の鍍金(メッキ)を掲げるから、足下さえおぼつかぬのだ。夢ならば、そうして己が欲で語るがいい。偽物が作り上げる贋作など塵にも劣るわ。

 よいか。その根にある感情、貴様が抱いた怒りこそが、貴様自身の『本物』だ。努々それを忘れるな――喜べ雑種。貴様は今、愉悦の階に手をかけたのだ」

 

 そう言うと。黄金の青年は、そこでようやく笑いを収め──。

 

「――せいぜい足掻けよ、衛宮士郎。貴様のその在り方が、何かの運命を変えるかもしれん。

 我からの忠告はそれだけだ。最期まで、己の愚かさを貫くがいい」

 

 どこか蛇めいた、笑みの残滓を残しながら。アーチャーの放った言葉には、一縷の残忍さが宿っていた。

 幾度目かの、自分の首がかかった問答をしていたのだと遅まきながら気づき、その危うさに身体が強張る。息をするような自然さで、このサーヴァントは俺のことを切り捨てようとしていた。

 アーチャーは、俺の煩悶や顛末を愉しむと言っていた。マスターも聖杯も必要としないこの英霊が俺に手を貸すのは、ただ己が娯楽のためだと。

 俺が今までのように迷いを抱えたままただ戦うのではなく、自分の目的について一つの答えを得た時点で、この男の娯楽の質は切り替わる。それが気に食わないものであった場合、アーチャーはこれ以上俺に付き合う必要など感じなかっただろう。最悪の場合、この場で殺されていたかもしれない。

 おそらくアーチャーと出会わなければ、俺は違う選択肢を辿っていた。きっと欲望も感情も封じて、アーチャーの言う借り物の幻想を追い続け──人の欲を是とするこの男と、決定的な訣別を経ていたに違いない。

 しかし、俺はその道を選ばなかった。俺が見出した答えの、おそらくは無謀さが気に入ったから、この男はサーヴァントであり続けてくれる。

 

 なら──口にした誓いを裏切らないために、戦わないと。桜もこの街も、みんなで救ってみせるために。

 

「──黙って聞いてれば、とんでもないことを言い出すわね、士郎」

 

 と。今日二度目となる、背にかけられた声に目を向けると。そこにはやや疲れを滲ませた様子の遠坂が、呆れた顔で首を振っていた。

 

「なんだ。いたのか、遠坂」

 

「なんだとはご挨拶ね。そこの金ピカの声がこっちまで聞こえたわよ。今度は何を言い出すのかと思えば……アンタ、魔術世界に戦争吹っかける気? 人を助けたいからって、どうしたらそういう考えに行き着くわけ?」

 

「別に、誰彼構わず喧嘩を売ろうっていうんじゃないぞ? でも、この聖杯戦争みたいなものを引き起こしてるヤツが他にもいるっていうなら、そんなのはほっとけないだろ」

 

「……あっきれた。アンタ本気? 魔術師なんてのはね、多かれ少なかれ、誰だって人でなしなの。言っちゃえば、バレなければ何をしようがお咎めなしなのよ。聖杯戦争クラスの被害は滅多なことじゃありえないけど、一般人に被害や犠牲を与えてるケースはそこかしこにあるでしょうね。その全部と戦おうなんて、正気じゃない。

 結論から言えば、あなたのやろうとしてることは自殺と同じよ。士郎がへっぽこ魔術師じゃなくて、仮にサーヴァントクラスの力を持ってたとしてもそれは変わらないわ」

 

 頭が痛い、とでも言いたそうな顔で指を突きつけてくる遠坂だが、さすがに俺でもその程度はわかっている。今のまま独りで、後先考えず魑魅魍魎に突っ込もうなんて、それはもう狂気的な自爆だろう。

 

「だろうな。それは俺だってわかってる。だから、何も今のままどうこうしようなんては思ってない。

 悪いんだけどさ、遠坂。魔術を教えてくれるっていう約束、いろいろあって有耶無耶になったままだろ? あれって、この戦いが終わった後でも有効になったりしないか? もちろん、その分の対価は払う」

 

「──な」

 

 衛宮士郎には、何もかもが欠けている。

 才能もなければ知識もなく、技術もなければ伝手もない。この聖杯戦争を終わらせ、次の聖杯戦争を引き起こさないようにするためには、何がどれだけあろうと足りないだろう。だから、こうして一つ一つ拾い集めて、力に変えていく他はない。

 

「……あったまきた。魔術さえ覚えればいいっていう問題じゃないでしょう!? そんな考えのまま出ていったらとんでもないことになるわ──! 

 いいわよ。そんな甘い考えが出てこないように、魔術師がどういうものかってコトをみっちり仕込んであげる! 後でたっぷり取り立ててやるんだから、覚悟しておきなさい!」

 

 フン、と息も荒く遠坂がそっぽを向く。まっとうな魔術師であれば、こんなことを言い出すヤツの頼みを聞くどころか、邪魔になる可能性を考えて消してしまった方がいいと判断するだろうに……それを差し引いても、聖杯戦争が終われば俺に手を貸す理由なんてないはずなのに、結局了承してくれた。

 遠坂は俺の方向性を無茶だと言ったが、一般人を犠牲にするような魔術師やシステムを許せないという、その思想は否定しなかった。なんだかんだと言いながら、遠坂はそういうやり口を倦厭している。本当に、この同級生はいいやつだと思う。

 

「まったく……生身でサーヴァントに突っ込むわ、わけのわからない投影はするわ、聖杯戦争の後も戦うなんて言い出すわ、もう目を離すとほんっとめちゃくちゃなことするわね。こんなのほっといたら目も当てられないってば……。

 ってああもう、そんな先のことより、まずは今の話! そんな心の贅肉は生き残ってから考えること。いい?」

 

 正論である。アーチャーの話につられて、つい先走ってしまったが――目下の問題を乗り越えなければ、そもそも心配する未来さえ存在しなくなってしまう。

 

「桜のことだけど、イリヤスフィールと何かいい方法はないか相談してみたわ。時間稼ぎにしかならないけど……桜が持っているサーヴァントの魂を、正規の聖杯であるイリヤスフィールに移せるかもしれない。一部だけでも移送できれば、桜の負担はかなり減るはずよ」

 

「本当か? でも、イリヤがよく頷いてくれたな。そんなことしたら、桜は良くてもイリヤの方が――」

 

「まあ、あの子にもプライドがあるみたい。今のままだと、桜が偽の聖杯として完成して、アインツベルンはサーヴァントも聖杯も何もかもマキリに奪われたことになる。助けられた恩もあるし、臓硯に一泡吹かせられるならって、手を貸してくれるそうよ。

 今早速手を打ってもらってるけど……これは対処療法。イリヤスフィールの見立てだと、崩壊する体を一日か二日引き延ばすのが限度。それまでに聖杯そのものをどうにかできないなら――残念だけど、桜を犠牲にするしかなくなるわ」

 

 あと二日――いや、万全を期すならたった一日。一日だけでも道を切り開いてくれた二人には本当に頭が上がらないが、たったそれだけの間に、全ての決着を付ける必要がある。

 桜の問題が大聖杯に帰結しているであろうことはようやく掴んだが、そもそもこうなる原因を作ったのは間桐臓硯だ。それが聖杯の闇について知り得ない道理がない。どこかにあるという大聖杯本体を狙おうにも、あの老怪は必ず罠を張っているはずだ。

 つまり、桜を助けるためには、どうあっても間桐臓硯――そして、それに操られるセイバーとの対決は避け得ない。

 最悪、それにあの影の化け物が加わる可能性もある。あれが桜と深い関わりにあることは明白だが、桜がいる場所や意志とはまるで無関係にあの怪物は現れていた。どのようにして操られ、どのような基準で出現するのか、臓硯の手の内にはまるで想像がつかない。

 

「正直、バーサーカーが昨日倒されたのは痛いわ。セイバーと戦えるサーヴァントなんて、バーサーカーの他にはいなかった。アーチャーは、記憶が戻らない以上アテに出来ないでしょう?

 つまり――わたしたちだけでは、臓硯には勝てない。バーサーカーがどれだけセイバーに傷を負わせてたとしても、倒せなかったのなら今夜中には復活してくるでしょうね。この状況をどうにかできるとすれば――」

 

「昨日の、あのよくわからないサーヴァントか。アーチャー、そいつ、いったいどんなヤツだったんだ」

 

 少し離れ、壁に背を預けていたアーチャーに情報提供を求める。この男は、相手のサーヴァントと直接交戦していたはずだ。桜の問題が大きすぎてすっかり後回しになってしまっていたが、もっと早くに聞いておかなければならないことだった。

 その滑稽さを見下すように、青年が嘲笑を浮かべる。それでも答えない理由はなかったのだろう、俺の方を見て口を開いた矢先……その目線が、すっと細められた。俺ではなく、その後ろ。家の敷地の遙か外、住宅街の向こうを見つめていて――。

 

「――それならば、直接語らせるのが早かろう」

 

 ばっ、と遠坂と俺が瞬時に身構える。アーチャーの視線の先、この衛宮邸から二百メートルは離れた地点。小さなビルの頂点に、そいつは立っていた。

 月明かりにたなびく、赤い外套。鋭い鷹の目が、これほどの距離を置いても尚、鋭くこちらを睥睨している。

 携えられた洋弓に矢は番えられていないが、そんなものは安堵する理由にならない。俺を真っ直ぐに見据えるその瞳が、紛れもない敵意を宿しているからだ。

 

 ――いつでもオマエを狙い撃てるぞ、と。

 

「あれが八騎目のサーヴァント……あいつもアーチャーか?」

 

 顔立ちはアジア系のようだが、肌の色は褐色。白い髪に赤い外套……これだけの情報では、どんな英霊なのかさっぱりわからない。だが不思議と、あの謎のサーヴァントには、今までに感じたことのない何か――容易に言い表せない嫌悪感のようなものを覚えてしまう。

 まさか向こうの方から仕掛けてくるとは思わなかったが、このパターンは最悪だ。あそこから長距離狙撃されればその時点で圧倒的な不利――しかし、謎の男が仕掛けてくる様子はない。こんな市街地にサーヴァントの武具を撃ち込めば周囲がどうなるか、その程度の良識は持っているのだろうか。

 

「ふん。小生意気にも、我らを誘っているようだな。

 ――さて、どうする小僧。このまま穴蔵に籠もっていれば、燻り出されるのがオチだろうよ」

 

「やるしかないか……あいつは俺たちがどうにかする。遠坂、桜とイリヤを頼む」

 

 最悪の可能性として、あのサーヴァントのマスターが間桐臓硯と手を組んでいた場合……セイバーと同時に襲いかかられたら、もう完全に詰みだ。どうやったって勝ちようがない。

 だが、もしそうだとしたら、アインツベルンの森での戦いは些か手ぬるかった。確かにあの謎のサーヴァントは俺たちに攻撃を仕掛けてきたが、セイバーと連携していたわけではない。完全に連携を取られていたら、今ここに俺たちは生きていないだろう。

 現時点で同盟を結ばれていたらもうどうしようもないが、それなら二者の勢力は別だと割り切って行動するしかない。最終的に戦うにしろ交渉するにしろ、あのサーヴァントの誘いに乗る必要がある。

 

「嫌なタイミングで仕掛けてきたわね……わかったわ。こっちのことは任せておいて。もし二人が戻ってきた時にわたしたちがいなかったら、わたしの家で合流しましょう。

 ……無事で帰ってきなさいよ、士郎」

 

「ああ。ありがとな、遠坂」

 

 あのサーヴァントとマスターが別行動を取っていた場合、最悪俺とアーチャーが離れた隙に、この家が急襲される危険性もある。遠坂が示唆したのはそのパターンのことだろう。

 いったいどこから家の情報が漏れたのか、間桐臓硯なら当然知っていて然るべきだろうが――いや、最悪の可能性は割り切る。先手でこの盤面に持ち込まれてしまった以上、とにかくあのサーヴァントを抑えなければ、次の手の打ちようがない。市街地ということに胡座をかいて、この家に居座り続けたのが失敗だったのかもしれないが、もう今更言ってもどうしようもないことだ。

 

 行くしかない。鬼が出るか蛇が出るか、八騎目の英霊の誘いに乗ってやる……!




次話は8月28日(金)の0時に投稿いたします。

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