【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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29.英雄王

(オレ)は絶対にして始まりの王。英雄の中の英雄王──ギルガメッシュ。故に、貴様もそう呼ぶがよい」

 

 ギルガメッシュ。

 それは確か、人類史上最も古い伝説──『ギルガメシュ叙事詩』を起源とする英雄の名だ。

 バビロニアに君臨した、半神半人の魔人。あらゆる財宝を集め、数々の神獣と戦い、文明のルーツの一つにも数えられる都市国家を繁栄させた古代の王。

 果ては、無二の親友を失ったことを契機に、不老不死の秘密までもを求めるようになったというが──。

 

「記憶が、戻ったのか──」

 

 愕然とする俺に、口角を吊り上げて答えるアーチャー──ギルガメッシュ。

 天地に我在りと知らしめる、堂々たる佇まいは今までと何ら変わっていない。しかし、そこに宿る力の違いは、素人目に見ても歴然だった。感じられる威圧感の程は、さながら大山の質量か深海の重圧か。

 セイバーやイリヤがあれほど警戒していたのも頷ける。空間そのものを従えるように揺らぎ出る黄金の波紋、あれから覗く刃はただ一つであっても死の運命を確定させる。それが数十も並ぶとあれば、脅威を通り越して絶望しかあり得まい。

 

「ふん──この身は本来忘却の出来ぬ体だが、よもや不出来な()()()のツケがこう巡ってくるとはな。

 まあよい。無の境地から始めるというのも、存外新鮮な体験であった。これはこれで愉しめたが──」

 

 紅蓮の瞳が、殺意を湛えて細められる。その鋭さが射抜くのは、半ば死に体となった赤い弓兵。

 

「穢らわしい偽物めが──せめて散り様を以て我を愉しませよ、雑種」

 

 聖剣、宝槍、大槌、巨斧──数々の宝具が、時空を超えて顕現する。

 後ろから見ている俺ですら、身の毛がよだつような恐るべき力の具現。そんなものの照準を向けられては、生きた心地など到底するまい。

 守護者となった英霊の顔には焦燥が浮かぶ。魔力を失い、傷を負い、対抗する武具を生み出す余力さえない。絶体絶命を通り越して、死刑執行を待つ罪人の境地だろう。

 現れた無数の凶器はそれぞれ形が違い、一つとして同じ物などない。一人の英霊につき宝具は一つ、多くても数個──その法則をまるで無視するかのように、黄金の騎士が()び出した武器は、その一本一本が『宝具』だった。そこに宿る神秘、充溢した魔力は、推し量ることさえ叶わない。

 

「ッ──!」

 

 状況は既に詰んでいる。処刑を執行すべく、王の手が振り下ろされ────

 

 

「■■■■■■■■■■────!!!」

 

 

 その、寸前。ありえぬ咆哮に、全員の動きが固まった。

 数百メートルほど離れた、公園の一角。夜の暗がりに沈んだその場所で、誰一人知らぬ間に、闇より尚黒い影が漂っていた。

 靄のように広がった影は、際限なく膨らむのかと思えば、やがて一点に収束し──その中から。尋常ならざる巨体が、足音を響かせて現れる。

 巌のような巨躯は、万夫不当を誇るが如く。山さえ裂かんという筋肉は、それだけで凄まじい力を感じさせた。手にした斧剣は、人間では持ち上げることすら出来はすまい。

 

「馬鹿な──バーサーカーが、なんで……!?」

 

 あれほどの存在感を見間違えるはずがない。突如として現れたサーヴァントは、イリヤを守って散ったはずのヘラクレスに相違なかった。

 ……しかし。特徴が一致しているから分かるだけで、その姿形は、かの大英雄からはあまりにも変質していた。

 灰色に近かった体は、全身が赤く変色し、無数の黒い靄が血管のように張り巡らされている。そればかりかその体格さえ、一回り以上、下手をすれば倍近い大きさになっている。最早人の範疇ではありえぬ巨人──巨英雄ヘラクレス(ヘラクレス・メガロス)とでも言えばいいだろうか。

 加えて、狂化して尚感じられていた、高潔さや知性──そういったものが、あのサーヴァントからは微塵も感じられない。底知れぬ凶暴性だけを纏うその様は、英霊というより神話に語られる怪物だった。最後にはあれだけ理性的に言葉を交わせていた武人に、いったい何があったのか。

 

「……なるほど。アレが来たということは、あちらも()()()()()のか。

 では、私の役目もここまでだ。敗者は潔く退くとしよう」

 

 そう(うそぶ)いた男の体が、粒子となって見えなくなる。霊体化したのだと悟り、逃走を許す前に宝具を放とうとしたアーチャーだったが──ギロリ、と。その刹那、狂戦士がこちらを向いた。

 

「■■■■■■■■■■────!!!」

 

 巨人の絶叫。理性が消し飛んでいようと、怪物の本能は、この場で最も脅威となる者を感知したのか。ヤツがこちらに狙いを定めたのが、はっきりと感じられた。

 敵サーヴァントを消滅寸前まで追い込んだ矢先に、最悪のタイミングだ。敗残兵などに拘っている場合ではないと、舌打ちしたアーチャーが目標を切り替える。その時にはもう、怪物が全力で走り出し──。

 

「────痴れ者が」

 

 次の瞬間。

 剣が、槍が、槌が、斧が──赤い弓兵を刺し貫くはずだった無数の武具が、赤黒い巨躯に殺到した。

 ただ敵を掃討するだけの獣に、その脅威を避ける術などない。いや、そもそもそれだけの知性さえ残っていたかどうか。無慈悲な鋼は、一片の容赦すら宿さず、狂戦士の肉体を蹂躙する。

 剣が腕を斬り、槍が足を縫い、槌が頭を割り、斧が腹を裂き、矢が目を抜き、鉾が首を刎ね、刀が背を断つ。数十もの刃の嵐は、人の数倍の巨影を余すところなく斬殺し、かつての大英雄はもはや奇怪な前衛芸術としか取れぬ肉塊となって沈黙した。

 生存の余地など存在しない、過剰なまでの暴力。しかし……バーサーカーを尻目に、本来その運命を辿るはずだったサーヴァントは、とうにこの場を離脱していた。

 

「ち、逃したか。運の良い……いや、()()()()()()()()()()か。とすれば、あの影めが毎度都合よく現れるのにも得心がいく──ふん、我の目も衰えたものよ」

 

 いったい何に気づいたのか。狂戦士を粉砕したことなど視野にさえ入れていないのか、またぞろよく分からないことを言い始めたアーチャーは、独り納得したように頷いている。

 見ていた俺はとはいえば、ただただ唖然とする他なかった。明らかに異常な状態にあったとはいえ、あのセイバーすら一蹴し、キャスターたちに至っては三騎がかりで挑まねば勝負にさえならないと考えたヘラクレスを──この英霊は、虫を潰すかのように薙ぎ払った。異常と呼ぶことさえ憚られる、途方もない戦闘能力。

 これが、アーチャーの本来の力なのか。戦慄に唾を飲み込みながら、粉微塵になったバーサーカーを見て──そこで、有り得ぬ光景に再び目を見開く。

 

「な……! アーチャー、あいつ……!」

 

 解体されたはずの狂戦士。しかし死亡したにも関わらず、消滅する様子が見られない。そればかりか、砕けた肉片がひとりでに集まる、吐き気を催すような異様さが広がっていた。

 

「蘇生能力……!? あの宝具は、狂化が解けた時になくなったはずじゃ──」

 

「ふん、あの影めに汚染されているようだな。あれこそは聖杯そのもの、一旦は狂化の枠組みから外れたヘラクレスを、再びバーサーカーのクラスにねじ込んだのだろうよ。

 十二の試練(ゴッド・ハンド)の貯蔵は、魔力を注ぎ込んで蘇らせたのだろうが──それほどまでに霊基を弄ばれて、無事で済む道理はない。

 その果てがあの姿だ。同じ半神ともあろうものが、醜い姿になったものよ……あれでは最早英霊とは呼べまい」

 

 ホラー映画のような光景に焦る様子もなく、腕組みして淡々と解説してみせるアーチャー。

 どれだけ肝が座っているのか知らないが、こちらは生きた心地がしない。途方もない怪物が、現在進行系で死から蘇り、狂気の唸りを上げているのだ──自分の数倍はある化け物相手に平然としていられる人間がいたら、正気を疑う。

 数十秒もしないうちに、巨人が姿を取り戻す。あれほど巨大に見えた斧剣ですら、今のバーサーカーの体躯からはナイフ程度にしか感じられない。正気など欠片も見えない、視力さえ宿しているのか怪しい瞳が、不気味に赤く輝いた。

 

「まずい、アーチャー……!」

 

「たわけ。此度の弓兵(アーチャー)はあの贋作者(フェイカー)よ。

 ──なに、そう焦るな。リハビリにはちょうど良い肩慣らしだ」

 

 一度は殺したとはいえ、あと最大で十一回倒さなければ消滅しないというヘラクレス。

 かつての姿でさえ恐ろしかったのに、今の狂戦士はどう見ても脅威度が跳ね上がっている。寒気がするような死の気配に、全身に鳥肌が立ち、本能はもう今すぐ逃げろという大合唱。

 この聖杯戦争で、それなりに修羅場を潜ってきたはずの──今し方、未来の英霊などという存在に殺されかかった俺でさえ、あれはもう別格だと感じてしまっている。だというのにアーチャーは、身動ぎ一つしていない。

 その決して揺らがぬ存在感に、恐慌に駆られかけた精神が落ち着きを取り戻してくる。どれほどの窮地だろうと、どれほどの絶望だろうと──この男は決して屈しないと、自ら道を切り開くのだと、俺は知っていたはずではなかったか。

 浮き足立った腰に力を入れ、震えていた足で大地を踏みしめ、一度大きく息を吸う。負けるものかと拳を握り、信頼を込めてアーチャーを見つめると、黄金の英霊は愉快そうに唇を吊り上げてみせた。

 

「堕ちた半神といえど、大英雄が相手とあらば不足はあるまい。王の財宝、その一端を見せてやろう」

 

 パチン。 

 それが、指を鳴らした音だと気づいた時には──再生を果たした狂戦士に、無数の宝具群が殺到していた。

 

「■■■■■、■■■■■────!」

 

 獣に堕ちたといえ、学習能力は残っているのか。斧剣を片手一本で振り回し、バーサーカーは降り注ぐ宝具を防ぎにかかる。

 豪腕が唸る。縦横無尽に振るわれる轟剣は、暴力の傘となり、降り注ぐ宝具の雨を片端から弾いていく。本能で振るっているだけだとしても、その質量と風圧は、五本や十本の剣など物ともしない。

 

 ──だが。繰り出される宝具は、そんな生易しいものではなかった。

 

 聖剣が舞う。魔剣が迸る。

 あらゆる時代、あらゆる場所で名を刻んだ武器の群れ。バーサーカーが直面しているのは、古今東西、人が手にしてきた伝説の武具そのものだった。

 俺が投影したような贋作ではない。次々と繰り出されている無数の宝具は、その全てが本物だ。

 いや……厳密に言えば、あれは宝具の原典(オリジナル)。伝説になる前の原初の一、最も神秘が強かった時代の究極の(きっさき)。それを数限りなく保有し、湯水のように放ち続ける英霊──騎士王が語った、数万のサーヴァントの軍勢さえ圧倒したという言葉の意味が、ようやく理解できた。

 

「────」

 

 武を誇った技量さえなく、ただの石塊ごときで、伝説の具現を防げる道理がない。

 最初の十数発を弾いたバーサーカーだったが、遂に一発が胸板に着弾。それを皮切りに、次々と宝具が防御を貫き、五秒とせぬうちに剣山のような有様となって沈黙した。狂牛は距離を詰めることさえ叶わず、逆に衝撃で数十メートルも吹き飛ばされている。

 

 ──これが、ギルガメッシュ。

 

 人類史に名を残す、最古の伝承の主人公。

 単なる物語であれば、より古いものは存在するというが、人間が英雄となった伝説としてはこれが世界最古の文学だ。中世のアーサー王伝説、二千年前のケルト神話、三千年前のギリシャ神話──それらより遥かに古い、五千年以上前の話。

 一説によれば、ギルガメシュ叙事詩に描かれたテーマは後世の物語に影響を及ぼしたという。逆に言えば、後の時代の物語の原典ということであり──そうだとすれば、後世の伝説を内包していてもおかしくはない。今飛び交っている宝具は、まさにその証明だ。

 あらゆる伝説の原型を有し、あらゆる英霊の頂点に立つ絶対王者──人類最古の英雄王。それが、俺が契約したサーヴァントの正体だった。

 

「どうした大英雄。貴様の力はその程度か!」

 

 炎上し、感電し、水没し、凍結し、風化する。

 浄化され、呪殺され、毒殺され、溶解され、粉砕される。

 英雄たちの宝具は、単に鋭い刃というだけではない。『攻撃』という概念が具現化した武具たちは、その一つ一つに異なる効果や属性が宿っている。十二の試練とて、それを超える数十種類、何百倍という死を押し付けられては到底及びはすまい。

 

 ──既に五つ。

 

 それだけの命を落としておきながら、バーサーカーは愚直に前進する。

 容赦のない掃射の前では、こちらに迫ることさえ叶うまい。このままではたちまちのうちに、残りの生命も使い切ろう。

 知性の欠片もない猪突ぶりに、ギルガメッシュが鼻白む。既に勝敗は決したかと、俺も気を抜きかけた矢先────唐突に、狂戦士が咆哮した。

 

「■■■■■■■■■■────!」

 

 消えた。

 そう錯覚したのは、途方もない速度でバーサーカーが横に動いたからだった。今までの猛進とはまるで違う、巨体からは信じられぬほどの俊敏さで、四足獣の姿勢となった怪物が疾走する。

 突然の変化に、射出中だった魔剣が軌道を変えきれずに空振りする。その隙を見逃さず、狂戦士は埒外の速度で肉薄し──

 

「────(ぬる)い」

 

 地から天を射抜くように現れた、無数の槍たちに串刺しにされた。

 足から頭までを貫かれ、ゆらり、と岩の体が倒れていく。ギルガメッシュの宝具は、背後から飛んでいくだけではなかったのか。空中に揺蕩う黄金の砲門は、上方から、左右から、側面から、後方から、あらゆる方向から巨人を撃ち抜こうと牙を剥いていた。

 

「獣とはいえ、その程度の学習能力は持ち合わせていたか。

 ──下手に動くなよ、雑種。死に急ぎたいというなら別だがな」

 

 立ち所に死から蘇り、宝具を振り払って飛び退る狂戦士。再び獣の姿勢となったバーサーカーは、何を考えたかギルガメッシュを中心に円を描くような軌道で走り始めた。

 圧倒的な面制圧能力と射撃性能で巨人を寄せ付けない弓兵だが、アレに近づかれてはひとたまりもない。今のヘラクレスとは、騎士王でさえ打ち合えるかどうか。

 これは最早、人間がどうにかできるような領域ではない。既に英霊同士の決闘ではなく、怪物退治のそれに等しい戦いとなっている。

 不用意に動けば殴殺されるのが明白である以上、俺はおとなしくアーチャーの背後に控えておくしかない。後はただ、己がサーヴァントを信じるだけだ。

 

 ──疾走。

 

 ただ突き進むだけだった今までとは異なり、バーサーカーはまるで様子を伺うように、百メートルほどの距離をおいてぐるぐると周囲を回り続ける。

 何故か手出しをして来ぬ異様さに、ギルガメッシュが射撃の手を止める。狂える巨人はここに来て突然、俺たちではなく何か別のものに意識を向けているようだった。見えているのかも判らぬ目をしきりに動かし、低い唸り声を響かせるサーヴァントは。

 

「──あいつ、イリヤを探してるのか」

 

 それに気づいて、息を呑んだ。

 知性も理性も奪われ、この世全ての悪(アンリ・マユ)に汚染され、大英雄としての肉体も魂も変わり果ててしまっているのに──ああなってまで、誇り高き英霊は仕えた少女を探しているのだ。

 醜い怪物と成り果てても。目も耳も、正気さえ狂ってしまっていても。それでもあの男は、大切なものを守り続けている。黄金の英霊が容易に打倒できぬと判ったから、敵を倒すのではなく、少女を保護しようとしているのか。

 その姿に、胸を打たれてしまう。あんな偉大な人物は、二人といないに違いない────その畏敬の念と同時。あんな高潔な武人を、あそこまで貶める悪意に、途轍もないほどの怒りが湧いた。

 

「ギルガメッシュ」

 

「ふん──聖杯の泥を以てしても、ヤツの誇りとやらは染めきれなかったと見える。大英雄を名乗るだけはある信念よ。

 せめてもの慈悲だ。奴隷と化したその末路、我が手ずから幕を引いてやろう」

 

 俺が気づいたようなことを、この男が把握できぬはずがない。不愉快そうに鼻を鳴らしたギルガメッシュは、再び指を鳴らし──主を探す狂戦士に、幾重もの宝剣が降り注いだ。

 

「■■、■■■■■■■──!?」

 

 獣そのものの反応速度で、音速を超える弾丸に対応する巨人だったが──遅い。ほんの僅かでも意識を外していた事自体が、このサーヴァントの前では致命的な愚かさ。

 大剣が数本の宝具を弾き飛ばすが、そこまで。ただでさえ巨大化して被弾面積の大きくなった肉体は、殺到する死の刃を躱し切れず、瞬く間に粉砕された。

 

 ──これで七つ。

 

 だが、ヘラクレスの有する宝具が消滅を阻む。肉片と化した体は瞬く間に修復され、空間ごと叩き割る勢いで振るわれる斧剣が、残りの掃射を防ぎきった。

 半分以上の命を使い切った狂戦士は、優先順位を切り替えたのか、低い唸り声を上げて黄金の騎士を睨み据える。魔弾の射手を前にしては、少女を探すことなど到底能わぬ……どうあってもこの障害を倒さねばならぬと、本能で理解したのだろう。

 理性も知性も何もかも失った今の巨人にとって、守るべき少女以外は全てが排除するべき敵。狂える英雄は、七度もその命を奪われていながら、なお八度目の試練に挑みかかる。

 しかし。幾度突き進もうと、魔弾の雨は突破できない。なまじ体が大きくなったことで、自分から宝具の的を増やしているような有様のせいだ。黒い巨体は、またも体を穿たれようとした矢先──地面を叩きつけ、大量の土砂を捲り上げた!

 

「な────に?」

 

 本能なのか、知性の欠片が残っていたのか。岩盤ごと掘り返すのではないかという一撃はアーチャーの虚を突き、即席の煙幕となって巨人を覆い隠してしまう。そればかりか、下手をしなくてもトン単位の土砂が、宝具を阻む即席の壁となる。

 あれほどの巨体が、物理的に見えなくなった。舌打ちしたギルガメッシュは、奇襲を警戒してか、前方に集中させていた砲門を全周囲に再展開し──

 

「──上だっ!」

 

 後ろにいた俺だから、一瞬先に気がついた。狂戦士は正面から突き進むのではなく、跳躍して上から迫っていたのだ!

 

「まず──」

 

 い、と続けようとした刹那。ギルガメッシュの手に、武器が握られていることに気がついた。

 手にしたそれは大弓。しかし、黄金の双剣を連結させた、あの見慣れた弓ではない。握の部分に、捻じれた刃のような──和弓というより、アーチェリーで用いる安定化装置(スタビライザー)に近いか。そんな異物が備わった、身の丈ほどもある奇妙な武器。

 だが、そこに宿る神秘は尋常なものではなかった。並の人間など触れただけで焼き尽くされそうなほどの神威を、英雄王は軽々と従える。隕石のごとく来襲する狂戦士に、青い炎を纏った弦が絞られ──

 

「────墜ちよ」

 

 獄炎の一撃が、(さかしま)の彗星となって空を駆けた。

 榴弾砲、否、弾道弾(BM)もかくやという神罰の矢は、触れただけで巨人の体を焼き尽くした。防御など端から無意味、あれほどの一矢を以てすれば、この世に撃ち落とせぬものなどあるまい。

 天を貫く炎の矢は、尾を引いて遥か彼方へ消えていく。成層圏まで届くのではという爆炎は、瞬時にバーサーカーを炭化させただけでなく、この公園中を焼き尽くし……って、まずい!

 

「お、おいアーチャー!? このままじゃ大火事になるぞ!」

 

 意図的に調整したのか、俺とギルガメッシュを中心とした半径数メートルには被害は及んでいない。しかし炎の弓の余波は、大面積の公園を一面の火の海に変え、さながら十年前の再来のような地獄を作り出していた。

 あっという間に体感温度が上がり、月明かりが煙に閉ざされていく。サーヴァントにとっては平気だろうが、このまま放っておけば周辺に燃え移る──いや、それ以前に警察や消防が殺到してしまう!

 

「些事に一々騒ぐでない。この一円には、元より雑種避けの魔術が敷かれている。どれほど燃えようが、魔術を知らぬ雑種どもでは異常を察知することすら叶うまい」

 

 残心のまま、平然とそう嘯く放火魔のサーヴァント。

 人避けの魔術……この空間全体にやや違和感を感じていたことから、もしかしたらと思ってはいたが、やはり貼られていたのか。ギルガメッシュの見立てからすれば、それもかなり強力なもの。人間を近づけないだけでなく、この中で起きた異常に対する認識阻害まで含まれているのか。

 だとすれば、これだけ派手に炎上しようと、今のうちは騒ぎが起きる心配も誰かを巻き込む杞憂もない。後のことを考えると心苦しいが、遠坂が言うには、補償費用はアインツベルンが出すというから────待てよ。

 

「──ちょっと待て。そんな魔術を使ったやつは……」 

 

「ふん。大方、どこぞで高みの見物を決めているのだろうよ。

 小癪な蛆虫風情が、王の威容を覗き見ようなど不敬にも程がある。いかに我とて、虫の居所も悪くなるというもの。あの狂牛めを焼き払うついでに、蟲どもも一掃してくれたわ」

 

 赤い弓兵には、ここまでの魔術を使う技量はない。ヤツの実力については、先の一戦である程度見えている。

 だとすれば、これを貼ったのはヤツのマスターかそれに近い魔術師。今この場にいないということは、サーヴァントに戦闘を任せて、遠くから状況を見ていたのだろう。蟲使いとなれば、十中八九それは間桐臓硯に相違ない。

 今になって、先ほどアーチャーが発した言葉の意味が分かった。あの弓兵を倒し得る絶好の機会で、影の中から唐突に現れたバーサーカー。あれは偶然の産物などではなく、この場を監視していた魔術師が機を見て送り込んできたものだ。

 もしかすると、今までもそうだったのか。最初にあの影が現れたのは、セイバーとランサーの雌雄がまさに決しようとしていた瞬間。そこで勝負が有耶無耶になったセイバーは、最終的にあの影に飲み込まれ、敵に使役されている──間桐臓硯という老怪の手は、どこまで深く伸びているのか。

 ならば、あの男のマスターもまた臓硯だというのか……? それにしては何かがおかしい。アサシン、セイバー、バーサーカー……いくら臓硯が御三家の魔術師といえ、そこにあの弓兵まで使役するなど、あまりに条理を外れている。アインツベルンの森で、あのサーヴァントは明らかに別の立場から動いていたし、やはり裏にはまだ見ぬ黒幕が──。

 

「どうした? 笑ってもよいのだぞ、雑種」

 

「…………はい?」

 

 思考を巡らせていると、黄金の英霊が意味の分からないことを言い出した。いや、こいつが理解不能なことを言うのはいつものことだが、この状況のどこに笑える要素があったのか。

 

「虫の居所、だ! 蟲とかけたAUOジョークがなぜ分からぬ、たわけめ! 貴様、それでも我のマスターか!」

 

「…………」

 

 ごめんなさい。この空気でそんなことを言い出せる神経がわかりません。

 記憶が戻ったことで上機嫌になっているのかとも疑ったが、そもそもこの男はしょっちゅう空気を読まない発言をして場をぶち壊し、遠坂やセイバーの顰蹙を買っていたので今更感もある。

 いやそんな戯言はどうでもいい。冗談では済まない、早急に解決しなければならない問題が、まだ炎の海に潜んでいる。

 

「────。神の弓といえど、神の試練を乗り越えた男は殺しきれぬか。二つ削るのが限度とは、つくづく硬い肉達磨よ」

 

 響く唸り声。

 原子一つに至るまで焼灼されながらも、刻まれた蘇生魔術は大英雄の死を許さない。十の命を奪われながら、なお立ち上がる狂戦士は、地獄の中で黄金の覇王を睨み据えていた。

 

 ──『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』。

 

 ギルガメッシュが用いた弓は、生半なものではない。

 解析を終えた今なら分かる。あれは炎の神(アグニ)が有し、インド神話の大英雄(アルジュナ)に授けたとされる神の弓。常世全ての存在を焼き尽くし、撃ち落とす、定命の者たる人間には扱うことさえ能わぬ一挺。その原典たる原初宝具は、ヘラクレスの巨体を微塵に破砕した。

 しかし、今この公園を埋め尽くしている炎は、あの肉体に届いている気配はない。もしやあの英霊は、一度受けた攻撃に対する耐性を有するのだろうか。怒声を上げる狂戦士は、炎の海を猛進し、無作為に軌道を変えながら迫ってくる……!

 

「では、そろそろ引導を渡してやろう。これ以上暑苦しくなっては面倒だ」

 

 号令一下、無数の矢が放たれる。

 灼熱など物ともしない宝具群が、大英雄の巨体に殺到する。だが、尋常ならざる速力で跳ね回る巨人はその大半を避けきり、残る少数を叩き落とすと、広大な敷地を疾走していく。

 周囲一帯が炎に飲まれているのが、ヤツの優位に働いた。揺らめく炎と高熱による蜃気楼が、こちらの視界を遮っているのだ。

 無論、アーチャーはそんなものに惑わされはすまい。しかし、ほんの僅かに生ずる遅延で、ランサーさえ凌駕するヘラクレスの速力は宝具の照準から逃れてしまう。獣めいて飛び回る狂戦士に宝具の矢は追いつけず、追尾機能や命中補正を有する宝具たちでさえ、剛剣と肉体に阻まれている。

 

「■■■■■■■■■■────!」

 

 そればかりか、先の応酬で学習したのか。

 雄叫びを上げたバーサーカーは、斧剣を一閃すると、再び岩盤を捲り上げる。大地から削り出された飛礫は、その大質量で宝具の矢さえ強引に突破し、数トンもの炎弾となって降り注ぐ!

 

「ふん──」

 

 やばい、と青くなって身を屈める俺を尻目に、ギルガメッシュは小揺るぎさえしていない。

 黄金の籠手が掲げられたかと思うと、大岩の軌道上に大きな盾が出現。『冷やすもの(スヴェル)』という意を持つ神話の盾は、太陽や神にさえ立ちはだかるという逸話通り、炎の岩を苦もなく弾き飛ばした。

 バーサーカーは、走り回るついでに投擲を繰り返しているのか、地盤を吹き飛ばした岩や元は電柱であったと思われるものが次から次に飛んでくる。盾の宝具はその尽くを容易く防ぎ、本家の面目躍如とばかりに迸る刀剣宝具が余波を消し飛ばして狂戦士を襲撃するが、その命を削り切るには至らない。

 予期せぬ膠着状態に、ギルガメッシュの瞳が鋭く細まる。掲げられたままの腕が僅かに動いたのは、更に宝具の投射数を増やそうかと逡巡したのか。英雄王が有する宝具はそれこそ底なし、その気になれば数千を超える数さえ掃射できようが……黄金の波紋から現れたのはただ一つ、シンプルな形状の大槍だった。

 

「燃える大地が仇となったか。ならば、場を海に変えるとしよう」

 

 穂に紫の(ライン)が刻まれた笹穂槍。柄の部分に巻き付いた紋様は、どこかあのランサーが用いた魔槍に酷似している。

 それもそのはず、あの槍はケルト神話に縁を持つ宝具。邪悪な妖精へ堕ちた神霊を討ち果たしたとされる、伝説の業物に違いあるまい。

 クー・フーリンの後輩筋に当たる、アイルランドの大英雄──フィン・マックールが有する宝具、『無敗の紫靫草(マク・ア・ルイン)』。これがその原典なのだと、持ち得ないはずの知識だというのに、解析した槍が教えてくれる。いや、もしかするとこれは、所有者である英雄王の知識なのか。

 この空間に現れるや否や、自動攻撃機能を有する槍は、独りでに動いて炎の岩を叩き落としている。それに加えて、先ほどまで狂戦士が吼えるたびに感じていた恐怖……それさえもが軽減されているのが分かる。あの宝具は、精神干渉を防ぐ効能を有しているのだろう。

 

「ひれ伏すがいい、不敬!」

 

 長柄を掴み取ったギルガメッシュが、無造作に大槍を振るう。

 須臾の後、どこからともなく膨大な水が呼び出され──何メートルという大津波となって、炎も大地も諸共に押し流していく!

 

「■■■■■■■■■■……!?」

 

 巨人の体躯すら容易に飲み込む、天災に等しい大波。陸に現れた大海嘯に、獣ごときがどうして逃れられようか。指向性を持って放たれた水流は、神気ともいうべき独特の気配を宿し、波濤となって公園中を覆い尽くしていく。

 埒外の俊敏さで鉄砲水から逃れようとしたバーサーカーだったが、水流の攻撃範囲は俺たちを除くこの公園全ての大地。軍勢さえ薙ぎ払う災害は、炎を飲み込み地を泥濘に変え、狂戦士を溺れるように倒れ込ませた。

 泳ぎ方さえ亡失したのか、その体勢の崩れは致命的だ。手首の返しで振るわれた二度目の大槍は、次いで超高圧の水流を呼び出し、ウォーターカッターのような切れ味で容易く大英雄を両断した。戦神(ヌアザ)の一撃は、ヘラクレスの護りなど歯牙にもかけていない。

 

「これで十一。いよいよ後がなくなったな、ヘラクレス!」

 

 上半身と下半身が泣き別れとなった狂える戦士に、英雄王が哄笑する。既に次の宝具群が、海に倒れたままの敵を囲むように展開され、バーサーカーは蘇生すると同時に最後の命を失うことだろう。

 されど、他に術のない巨人は立ち上がる。当然のように、無数の剣が降り注ぐが──十一の死を経て学んだのか、それとも蝋燭の最後の輝きか。幾つかの宝具が突き刺さるも、致命傷となる尽くを弾き返した巨影は、大上段から大海に一閃。莫大な量の水が、煙幕となって展張される……!

 

「二度も同じ手を──」

 

 海を叩き割った一撃は、そのまま凄まじい衝撃波となってギルガメッシュに迫るが、鼻で笑った男は三度槍の水流を放って相殺する。同時、空間を埋め尽くすほどの黄金の波紋から、同数の宝具が放たれるが──滝の紗幕が払われた時。刃に貫かれているべき狂戦士が、忽然と姿を消していた。

 あのような巨躯を見失うはずがない。どこに逃れたかと視線を彷徨わせるが……数秒と経たぬうち、地響きを伴って大地が揺れ出した。

 

「地震……? 違う、まさか──!」

 

 はっと気づき、ギルガメッシュに目を向ける。その瞬間、濡れた大地を突き破り、黒い弾丸が放たれた──!

 

「下郎──!」

 

 信じられない。

 理性も知性も奪われて、尚も残る直感が道を切り開いたのか。バーサーカーが大海原に叩き込んだ一斬は、煙幕としての宝具掃射の妨害、ギルガメッシュへの牽制攻撃のみならず……その下の大地さえ掘り返し、地中に深い穴を空けていたのだ。

 重機が束になろうと叶わない、超常の膂力が成し遂げたのか。狂戦士はそのまま大地を掘り進み、何らかの力によって守られた、唯一水の届かぬ聖域──つまり、俺とギルガメッシュを中心とした半径数メートルまで地中伝いに侵攻してきたに違いない。

 このあたりは、元は市民会館の跡地だという。少し掘り返せば、当時の土台が残っているはず。防水性を持つコンクリートであれば水など容易に弾ききり、その硬さ故、泥濘と化した地表より遥かに砕きやすかったことだろう。

 ヤツが空けた大穴は瞬時に水で塞がるため、煙幕による瞬間的な目眩ましがあれば十分。経路を見抜くのが遅れた俺たちは、かけていたはずの王手を突き返されている……!

 

「■■■■■■■■■■────!!!」

 

 地面から飛び出しざまに、斧剣が跳ね上げられる。その奇襲は、展開したままだった神話の盾が防いだが──甲高い金属音を立てると、あらぬ方向に弾き飛ばされてしまった。

 奇襲から、流れるような強襲へ。空中まで跳ね上がったバーサーカーは、その勢いのままに、大上段からの斬撃を叩き落とす。英雄王が手にした槍がどれほどの逸品であろうと、あれほどの質量、あれほどの打撃は防御不能!

 

「チ──でかいだけの的が、小賢しい真似を……!」

 

 全方位展開していた宝具のうち、即応可能だった数挺が対空砲火となって飛翔する。

 空中では逃げ場もなく、黒い巨体は幾つもの光に肉を削がれ、胴を穿たれるが──足りない。当初展開していた宝具だけでは、狂戦士を退けるにはあまりに火力不足。足を引っ張っていたあの巨体が、ここに来て驚異的なタフネスを発揮している……!

 

「おのれ……!」

 

 次弾の射出が間に合わないと瞬時に判断。跳躍したギルガメッシュが直前までいた場所に、大瀑布の如き斬撃が炸裂。途方もない轟音が響き、巻き上がった土砂や草木が礫となって飛び散っていく。

 ここは、既に弓兵の間合いではない。飛び退る黄金の騎士に、即座に狂戦士が追撃。遂に距離を詰めた巨人は、魔弾の返礼とばかりに剛剣を一閃しようと──

 

「────天の鎖よ────」

 

 

 ──寸前。現れた鎖が、その腕を縛り上げた。

 

 

「■■■■■■■■■■────?」

 

 先に、赤い弓兵が繰り出した宝具。あれは、その原典(オリジナル)なのか。

 空中から現れた無数の鎖は、先程の戦闘の蒔き直しのように、狂戦士の巨体を容赦なく締め上げた。その拘束力は投影された贋作など比較にさえならず、見上げるような黒い巨人は際限なく鎖に絡め取られ、己を引きちぎろうとする力に必死に抗っていた。

 二度も見れば分かる。あれは空間そのものすら制する、神でさえ抗えぬ絶対の鎖。どれほどの神霊であろうと、否、神性が高ければ高いほど餌食となる拘束宝具。半神であるヘラクレスが、その縛りを逃れうる道理がない。

 だが、それも永遠ではない。あの巨人の膂力であれば、時間をかければその鎖さえ断ち切ろう。その程度のことは、ギルガメッシュも理解していようが──そんな時間を与えてやるほど、この男は慈悲深くなどなかった。

 

「思い知ったか。これが真作の重みというものだ、先の贋作とは質が違う。

 ──しかし、リハビリと思って些か遊びすぎたか。よもや肝を冷やされるとはな……さすがはヘラクレス。腐っても大英雄ということか」

 

 ギチギチと、空間が軋む音が響く。天の鎖の拘束力と、束縛に抗う巨人の怪力が拮抗しているのか。

 空中に捕らえられた狂戦士は、さながら磔刑を課された罪人のようだった。断頭の刃が落ちるまで、逃げ出すことなど叶うまい。

 もっとも、並の剣ではその肉体は断ち切れないが──ここに立つのは、全ての伝説を束ねる最古の王。巨人を貫く刃など、那由多の如く保有している。抵抗さえ叶わぬ狂戦士の命は、既に風前の灯であり。

 

「さらばだ、ヘラクレス。我に挑むのなら、万全の備えで来るがいい」

 

 ──そうして、英雄王は終わりを告げた。

 

 不死を殺す鎌(ハルペー)魔性を穿つ刃(ブラフマーストラ)怪魔を討つ剣(干将・莫耶)防護を貫く槍(ゲイ・ジャルグ)

 それに留まらず、英雄を暗殺した逸話を持つ短剣、男を呪い殺すとされる魔道具、魔術の守りを奪い取る呪具──極めつけは、ヘラクレスの直接の死因となった英雄殺し(ヒュドラ)の毒。

 バーサーカーの特性、弱点に効力を持つありとあらゆる宝具が、過剰なまでの暴力をその肉体に叩きつける。たとえ十二の試練(ゴッド・ハンド)が全て残っていようと、そんなものは全くの無意味。誇り高き英霊の成れの果ては、ここにその役目を終えた。

 

「────」

 

 これこそが、英雄王。

 リハビリと口にしていたとおり、最後の一撃以外は手を抜いていたのか。無差別に放たれる何十という宝具は、その一挺でさえ壊滅的な破壊力だというのに──この英霊にとって、そんなものは児戯にも過ぎない。

 この男は、ありとあらゆる時代・国家・民族、古今東西全ての神話・伝承・物語の宝具……無限に等しい攻撃手段を持っている。今バーサーカーに繰り出したように、どのような状況であれ、どのような盤面であれ、この男は対応できてしまう。

 いかなる相手であれ対抗でき、あらゆる敵対者の弱点を突くことができる英霊。ヘラクレスがどれだけ破格の英雄であれ、英雄である以上、この男にはどう足掻いても勝ち目がない──故に、英雄王。世に数多の王はあれど、あらゆる英雄たちの王の名を冠するのは、この男を措いて他にはあるまい。

 

 確信する────俺と契約したこのサーヴァントは、全英霊中最強だ。

 

「──悪夢から覚めたか、大英雄」

 

 誇るでもなく、笑うでもなく。

 いっそ静かなまでの雰囲気で、鎖に縛られ、全身が串刺しとなった狂戦士を見上げるギルガメッシュ。

 宝具の効果の一つなのか、それとも命を使い切り、サーヴァントとしての枷から離れたからか。禍々しく歪んでいたバーサーカーの体躯が、元あるそれへと戻っていく。体の末端部から、粒子となって消えかけているが──それよりも早く、狂気の靄が晴れていく。

 

「…………これ、は……そうか。私は、囚われていたのだな……」

 

 消滅の寸前で、理性の光を取り戻したヘラクレス。狂化している時の記憶が残っていたのか、状況から察したのか。自身を見るサーヴァントに気づいた大英雄は、ふっと苦笑のようなものを浮かべた。

 

「感謝する、英雄王。つまらぬ手間をかけさせたな」

 

「ふん──まったくだ。戦うだけの狂牛が相手など、面白みの欠片もない。そんなものは、あの天の牡牛(グガランナ)で飽いている。

 我を愉しませようというなら、姿()()()()()くるのだな。知性のない獣では話にならぬ」

 

 そうして短く会話するうちにも、バーサーカーの体は薄れていく。既に半分以上が消えかかりながらも、ヘラクレスは辛うじて首から上を動かし、何かを探すように視線を彷徨わせた。

 

「あの子は……我が主は、どうなっている……?」

 

「イリヤなら、俺の家で保護してる。今は遠坂が……いや、仲間がついててくれるから大丈夫だ」

 

「そう、か……」

 

 このような有様になってもなお、イリヤの身を案じ続けるヘラクレス。黙っていられずに口を挟むと、心優しき巨人は初めて俺の方を向いた。

 深い知性を伺わせる瞳に浮かんでいるのは、安堵感。本来は敵対するマスターである俺の言葉を、この英霊は信用しきっている。神話に語られる英雄の眼差しは、どこまでも真摯で重かった。

 

「礼を言う、少年。私が言えた立場ではないが、どうか──」

 

 ──あの子を守ってやってほしい。

 

 それだけを、最後に言い残して。偉大なる英雄は、霞のように消えていった。

 

「…………っ」

 

 ヘラクレスが消滅するのと同時、突き刺さっていた宝具や縛り付けていた鎖も、黄金の粒子となって見えなくなる。おそらくは、ギルガメッシュが回収したのだろう。

 ここに恐るべき、そして尊敬すべき男がいたのだという痕跡は、焦土と化した泥の大地しか残されていない。元より稀人である英霊は、血の一滴さえ残さずに現世から立ち消えてしまう。だが、それでも──大英雄から託されたものは、確かにこの胸に残っていた。

 誓いの代わりに、敬意を込めて頭を下げる。あれほどボロボロになってまで、幾度殺されようと、ただ一人の少女を守るために戦い抜いた英雄。それはまさしく、正義の味方というべき在り方だった。

 

「──さて。我はあの人形めなぞどうでも良いが……ヘラクレスの頼みを聞き届けようというなら、急いだ方が良いぞ」

 

 赤い弓兵と、ヘラクレスとの二連戦。短期間で激闘を繰り返したにも関わらず、ギルガメッシュは何ら消耗した様子を見せない。サーヴァントのタフさ加減に改めて驚かされ……その言葉に宿る不穏さに、眉根に皺が寄る。

 

「どういう意味だ? まさか、イリヤが──」

 

「あの贋作者(フェイカー)めは、事が済んだと口にしていた。ともすれば、手遅れになっているやもしれぬな──敵戦力の分散は戦術の初歩であろう?」

 

 愕然とする。

 考えてみれば、最初からおかしかった。敵のアーチャーは、明らかに俺たちをここに誘導していたし、事実公園には結界が張られていた。それが、単に戦いやすい場所を作るためだけであるはずがない。

 他に選択肢がなかったとはいえ、俺とギルガメッシュは釣り出されたのだ。こんなに遠くまで誘い出される時点で、違和感は抱いていた。家を出る直前に、遠坂は備えをするようなことを言っていたが──あの男が間桐臓硯と協力関係にあることはもはや明らかだ。そして向こうには奪われたセイバーがいる以上、魔術師では束になっても勝ち目がない……!

 

「まずい! でも、ここから走っていったんじゃ時間が……!」

 

「慌てるな、たわけめ。焦りに囚われては見えるものも見えなくなる。

 屋敷には敵の手勢が迫っているだろうが、あの女たちの命に別状はあるまい。聖杯の器を壊してしまえば、この儀式は成り立たぬからな。利用価値がある間は生かしておくだろうさ」

 

 青くなった俺を制し、落ち着いたままのアーチャーが淡々と言葉を続ける。その泰然とした様子に、パニック状態だった思考も少し冷えてきた。

 相手は聖杯戦争のマスターだ。臓硯、もしくはその協力者だというなら、聖杯の器に関する知識は当然あるはず。万一イリヤと桜に手が伸びていたとしても、拿捕がいいところで殺してしまうことはありえない。しかし、うちには遠坂も──。

 

「その点で言えば、敵からすれば遠坂の娘を殺しておいた方が面倒がなかろうが──小僧。あの娘が、そうそう死ぬような雑種だと思うか?」

 

「……思わない。遠坂は、最後には必ず勝つタイプだ。相手が臓硯だろうとセイバーだろうと、殺されてやるようなヤツじゃない」

 

「そういうことだ。とはいえ、ここでまんじりとしている訳にもいくまい」

 

 唇を吊り上げたアーチャーが、パチンと指を鳴らす。何が出てくるのかと身構えるが、黄金の波紋から零れ落ちたのは力の具現たる宝具ではなく、むしろ神秘とは対局に位置するものだった。

 

 ──シューティングスターXL2003 1200Cカスタムモデル。

 

 バイク雑誌で見たことがある。『流星』の名を持つ、超有名自動二輪企業の限定モデルだ。

 1200CCを超える排気量に、メッキで覆われた各種の専用パーツ。大容量の燃料タンクと相まって、クイックでスポーティな動きを長時間に亘って続けることが可能だと言われている。

 そして、素人とはいえ、機械いじりをよくやる俺が見た限り……これはメーカーがカスタムした仕様に、更に独自のチューンナップを施している。確かこれは、二十数台しか生産されていない超限定仕様で──本体価格だけでも、数百万は下らないマシンのはず。そんな、クラスの男子が将来乗りたいと騒いでいた超高級バイクが、なんでこんなところから出てくるのか……?

 

「……まさか、これも宝具だって言うんじゃないだろうな」

 

「たわけ。我が蔵には、移動宝具など掃いて捨てるほどに溢れているが──これは我が現世で見繕い、手を加えた逸品よ」

 

 ますます混乱してくる。え、この時代で買ったって……いったいいつの話だ? 俺に召喚されてからは、そんな素振りなど欠片も──。

 

「話は後だ。転移宝具では厄介な事態を招きかねん、屋敷に戻るならこれが手早かろう。特に許す、疾く後ろに乗るがいい」

 

 頭の上に特大の疑問符を浮かべていると、ギルガメッシュは手慣れた様子でバイクに跨り、キーを回すとエンジンを始動させていた。明るくなりかけてきた空に、ぶおん、と唸るようなエンジン音が響く。

 いつの間にか鎧を収納していたようで、普段着にしているライダースーツは、ようやくその本来の目的を果たそうとしていた。訊ねたいことが山ほど出てきてしまったが、今は一刻が惜しい。アーチャーに促されるまま、おそるおそる後部座席に腰掛ける──ノーヘルということに気づいたが、もう四の五の言ってはいられない。

 

「これに乗るのも久方ぶりよな──では行くぞ。振り落とされるなよ、雑種!」

 

 アクセルを吹かした瞬間、闇を裂くようにバイクが咆哮する。夜明けの太陽を背にしながら、俺たちは皆の救出に走り出した。

 

 

***

 

 

 ──時間は、少し遡る。

 

「切り札の宝石は残り半分……アゾット剣の準備もよし。できればうちから予備の礼装も取ってきたかったけど、そんな余裕はない、か」

 

 謎のサーヴァントを追い、走り去っていった衛宮士郎とアーチャー。残された遠坂凛は、今後の事態に備えて数々の装備の点検を行っていた。

 既に彼女はマスターではない。舞台を追いやられた魔術師は、聖堂教会に保護を求めるか、あるいは拠点なり市外なりに撤退するのが筋である。

 だが、それほど諦めが良いのであれば、端から聖杯戦争なぞに参加してはいない。姑息極まる外法で己がサーヴァントたる騎士王を奪われ、実の妹は聖杯の器として陵辱され、あまつさえ遠坂家が追い求めた聖杯はとうに狂っているときた。マスターとしても、姉としても、遠坂の魔術師としても、ここまで虚仮にされておめおめと引き下がれる道理がない。

 聖杯などもはや不要。セイバーを失い、尚も演者としてしがみつく理由はただ一つ──遠坂凛の誇りが、そのような敗北を許容できないからだ。

 

『だが、それならばセイバーと貴様は相容れぬな。あの小娘は貴様と異なり、聖杯に託す悲願を持っている。聖杯を求めぬマスターと、聖杯を求めるサーヴァント。どこかで胸襟を開かねば、いずれ歪みが生じるだろうよ』

 

 ふと、黄金の弓兵の言葉を思い出す。

 騎士王は、聖杯を勝ち取るための願いを持って召喚に応じたという。あのアーチャーはそれを見抜いたのか訊いたのか、どうにも知悉しているような口ぶりであったが……凛はついぞ、その望みを確かめることが叶わなかった。

 そんなことさえ見落としていたから、おめおめと彼女を奪われることになったのか──そんな、微かな後悔が胸に刺さる。

 思えば、いつでもそうだった。なんでもできると、それが当然なのだと思いながら、肝心なことには手が届かない。父を失い、妹を汚され、衛宮士郎を殺されかけ、今度は自分のサーヴァント。いつだって、気づいた時にはとっくに手遅れになっていた。

 

「……上等。これ以上、奪われてたまるもんですか」

 

 ぐ、と拳を握り込む。

 今回は違う。絶望的に不利な状況だが、まだ全てが失われたわけではない。

 残る敵を打ち倒せば、汚染された聖杯の状況も分かる。イリヤスフィールの助力があれば、桜の状況を改善する方策も見つかるだろう。

 それに、間桐臓硯に使役されているセイバー……自由があるのかは定かではないが、彼女に自意識があることは、あの森の戦いで判明している。となれば、騎士王にはその状況を是とするだけのものがあるはずだ。結局聞き損ねていた、彼女が抱く本当の願い──それが、ああなってまで戦い続ける理由なのだろうか。

 刻限に余裕はない。イリヤスフィールが対処療法を試みているとはいえ、桜が聖杯の悪意に汚染されきってしまえば崩壊が始まる。『この世全ての悪(アンリ・マユ)』がどんな惨事を引き起こすか、はたまた臓硯の悪意が成就するか……どう転ぼうと、ろくなことにならないのだけは確かだった。

 おそらくはあと一日。全ての決着はそこで成るだろう。取り零したものを取り返し、何もかもに片を付ける。そのために凛は、十年間蓄え続けてきた全てのリソースを注ぎ込む気でいた。

 

 ──ピンポーン。

 

「っ……!?」

 

 場違いに響いた電子音に、凛が鋭く反応する。すわ敵襲かと宝石を握り込み……一拍置いて、それが来客を知らせるチャイムだと思い至り、ほっと肩の力を抜いて──

 

「──ちょっと待った。今何時だと思ってるのよ」

 

 朝というにはまだ早すぎる。新聞配達のバイトですらまだ外を歩いてはいない時間だし、そうだとすればチャイムなど鳴らすまい。

 警戒心を跳ね上げながら、玄関の方に向かっていく。すると途中で、怪訝そうな顔をしたイリヤスフィールが顔を出した。

 

「リン、さっきの音はなに?」

 

「誰だか知らないけど、お客さんが来てるみたいね。イリヤスフィール、桜の様子はどう?」

 

「えっ? えっと、応急処置は終わったかな。わたしの方にサーヴァントの魂を一つ移したから、これで一日くらいは保つと思うけど……」

 

「ありがとう。それじゃ、念のために戦う準備をしておいて。玄関には私が出るけど、万が一の時は手伝ってもらうことになるかもしれない」

 

 目を白黒させている少女にそう告げ、手の内に宝石を携えた凛が通り過ぎる。

 まだ桜にかかりきりのようなら、最悪彼女独りでどうにか対処する必要があったが、一段落ついているなら戦闘なり逃走なりの支援が期待できる。サーヴァントも家の主もいないこの状況で訪れた来客を、凛は高確率で敵対勢力であると見なし、既に対処すべく思考を巡らせていた。

 一方のイリヤスフィールも、状況が飲み込めたのか、真剣に頷くと扉の内側に顔を引っ込める。玄関の内側には、インテリアに偽装した彼女の使い魔が配備されており、そこから伝わる情報によって援護する腹を固めたのだ。

 

「ったく、こんな時間にわざわざチャイム鳴らすなんて、律儀なんだか嫌がらせなんだか……」

 

 愚痴を零しながら、それでも警戒は緩めず、靴を履いて戸口に近寄る凛。少し隙間を開けて外の様子を伺うと、門の外には確かに人の影がある。

 サーヴァントの気配はないが、ちょうど門の影になる位置に立っているせいで来客の素性が分からない。何らかの事情で訪ねてきた近所の人であればいいがと希望的観測を抱きながら、先制攻撃を警戒しつつ近づいていくと……。

 

「こんな時間に申し訳ない。私は──む? なぜおまえが出てくるのだ、凛」

 

「それはこっちのセリフよ。なんだってあんたがこんなとこに出てくるのよ、綺礼」

 

 門の外に佇んでいたのは、僧衣服に身を包んだ長身の人物。胸元に十字架を下げた、独特な存在感を放つその男は、聖杯戦争の監督役にして遠坂凛の後見人──言峰綺礼に相違なかった。

 

「監督役である私が、ここまで来る理由など一つしかあるまい。この家の住人は、電話に出る気がなかったようだからな」

 

「電話……? そんなの、来た覚えはないけど」

 

 言峰の意図が読めず、怪訝な顔をする凛。その様子を見た神父の目が鋭く細まる。

 

「なに? ということは、もしや──凛。衛宮士郎は、ここにはいないのだな?」

 

 問いというより、それは断定だった。

 このタイミングで、監督役からの電話が届かない。機械には明るくない凛だが、物理的手段によっても魔術的手段によっても、通信妨害は戦術の常だという覚えはある。つい先ほど謎のサーヴァントが現れたことといい、この家は既に攻撃対象とされている。

 言峰が急遽足を運んだのは、そうまでして聖杯戦争の参加者に伝達せねばならない事項があったからに違いあるまい。士郎の存在を改めて確認するということは、それ以外に考えられない。今回の聖杯戦争がどれほど異常な背景の上に成り立っているか、その一端をイリヤスフィールから聞き及んだ今となっては、監督役が慌て出すことも納得がいく。遅まきながら、言峰も何かに勘付いたのか──聖堂教会の伝手があれば、自分たちの知らぬ情報を得ていても不思議はない。

 そう判断した凛は、気は進まぬものの、この異常極まる事態に兄弟子の手を借りる選択を考慮しだした。魔術協会と聖堂教会の政治的関係もあり、自分たちの側から助力を乞うことはできないが、相手側がこうして慌て始めたなら付け入る隙もある。監督役が訪れているなら、まだ見ぬ敵も、この家に妨害以上の攻撃を仕掛けることを躊躇するだろう。

 

「……ええ。今頃は、他のサーヴァントと戦ってるでしょうね」

 

 遠坂凛が有する情報を鑑みれば、彼女の思考は間違ってはいない。しかし──戦場では情報の欠落など当たり前であり、不足した情報から導かれる判断がしばしば致命的な事態を招くのだという実戦経験が、年若い魔術師には足りていなかった。

 

「やはりか。事は一刻を争う、この門を早く開け。これ以上、ここで詮議している余裕はない。

 監督役が()()()()()()()()()()などあってはならぬ事だが……おまえたちも既に知っているだろう。此度の歪んだ聖杯は、看過できる状態ではない。

 衛宮がいないのであれば、御三家のおまえでも構わん。早急に、話し合いの場を持ちたいのだが」

 

 言峰に頷き、門を解錠する凛。見えぬ敵を警戒しているのか、周囲の様子を伺うと、開かれた門から踏み入ろうとした神父だったが……足が敷居を踏み越える刹那、思い出したように直前で止まる。

 

「もう一つ確認だ。間桐桜とイリヤスフィールは健在かね?」

 

「なんとかね。二人とも、今は奥で休んでもらって──」

 

 神父に背を向け、先導して玄関に向かっていた凛にぞくりと鳥肌が立つ。桜のことはわかる。だが何故、この男がイリヤスフィールのことを知っている……?

 疑問を感じた凛が、向き直ろうとした矢先だった。カランコロン、と鳴子のような音が響く。それは確か、悪意を持った人間に対する、この屋敷が有する結界で────。

 

 

「シッ────!」

 

 

 迅雷のような冲捶。絶技の域に達した闖歩を以て繰り出される一閃は、咄嗟に飛び退った少女の胸元に突き刺さり、その体躯を遥か先まで吹き飛ばした。

 反射的な防御で軌道がそれ、玄関ではなく中庭へと、何度も地をバウンドしながら転がっていく凛。コンクリートさえ容易に砕く破城槌の一撃なぞ、人が受ければ五臓六腑を砕かれよう。

 不意打ちで必殺の一撃を叩き込んだ言峰は、地に伏せる妹弟子に向け悠然と歩く。あれを受けて息があるとは思えぬが、念を入れるに越したことはない──そうして近づいた刹那、神父の背を急襲する影があった。

 

「む──?」

 

 即座に放った裏拳が、その影に炸裂する。しかしその瞬間、影が姿を変えたかと思うと、言峰の拳を絡め取って縛り上げる。それが銀で構成された鳥であり、幾重にも分裂した鋼の糸に変じたのだと気づいた時には、神父の拳は庭の大木に括り付けられていた。

 この攻撃は初見のものではない。十年前の戦いで、言峰綺礼はこれと同じものを味わっている。貴金属の形質操作は、アインツベルンの誇る錬金術の秘奥。かつてこれを披露したのは、第四次聖杯戦争における聖杯の器――アイリスフィール・フォン・アインツベルンであり、それに連なる人物となればただ一人しか存在しまい。

 

「──おまえが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンか」

 

「無礼な男ね。レディに名前を尋ねる前に、自分から名乗るぐらいしたらどうなのかしら」

 

 縁側に現れていた少女の姿を認め、言峰は唇の端を釣り上げる。直接会うのは初めてだが、アインツベルンのホムンクルスの特徴を色濃く宿す相手を見間違えるはずがない。目的が向こうの方から出向いてくれたのだから、手間が省けたというものだ。

 しかし、十年前の個体よりは幾分か手応えがある──内心で独り呟く言峰は、縛られた両手に凄まじい力を籠めていた。かつて敵対したマスターである衛宮切嗣と邂逅する機会を阻み、彼の同盟者として相対したアイリスフィールはこの膂力に抗うだけで精一杯だったが、眼前の少女は何ら堪えた様子がない。

 

「おまえに礼儀を尽くす義理などない。まったく──十年前といい、アインツベルンの人形はどうも私の癇に障る」

 

「お母様を知ってるの……?」

 

 言葉を聞き逃さなかったイリヤスフィールが、思わず瞠目する。

 彼女の母親──アイリスフィールは、十年前の聖杯戦争で命を落としたと聞く。母親によく懐いていた彼女は、知己であることを示唆する神父の台詞を捨て置くことができなかった。

 

「──ほう」

 

 一方、その誰何で言峰も察した。てっきりこの娘は、アインツベルンが新たに鋳造したホムンクルスだと思ったが……今の発言からするに、どうもそうではないらしい。

 母親がかつて敵対したあの女ということは、父親も想像がつく。よもやかつての怨敵、衛宮切嗣に娘がいようとは──思わぬ僥倖に、言峰の表情が愉悦に歪む。此度の聖杯の器はこの娘とは、つくづく因果なものだ。

 己が目的のため、有無を言わさず拉致するつもりであったが、話が少々変わってきた。さてどうするかと言峰が考えていると、その視界の片隅で、命を失ったはずの凛の体がゆらりと起き上がった。

 

「まだ息があったか。やはり時臣師のようにはいかぬな──出来の良い弟子を持って、私は嬉しい限りだ」

 

「げほっ、っ、ぅ────」

 

 咳き込みながら起き上がった凛が、射抜くような鋭さで裏切り者を睨み据える。念の為に仕込んでおいた布石が、彼女の命脈を保っていたのだ。

 門に出る際、彼女が最も警戒していたのは敵魔術師の奇襲だった。殊に、五百年を生きる間桐臓硯が現れた場合など、どんな手を使ってくるか分かったものではない。どのような一撃であれ凌げるよう、彼女は躊躇なく切り札の宝石で防御障壁を築いており、それが驚異的な打撃をほとんど防ぎきっていた。

 しかし、言峰綺礼が積み上げた套路はその守りを僅かに超えていた。結果、凛は重要臓器は守り抜いたものの、衝撃を殺しきれずに吹き飛ばされて数秒ほど気を失っていたのだ。

 

「綺、礼……! アンタ、一体なんのつもり? 父さんのようにって、どういう意味かしら」

 

 意識を鮮明にするためか、頭を左右に振ると、忍ばせていた短剣と宝石を構える少女。既にこの男が味方ではないのは明白だ。かといって、監督役が武力を振るうその意味を詳らかにせぬ内に戦端を開くのは悪手である。言峰の口を、どうにか割らせる必要があった。

 

「なに。時臣師の際は、今ので片が付いていたのでな。親子揃って、私がマスターであることには思いも至らなかったようだが、おまえの方が幾分か周到なようだ」

 

「な────」

 

 あまりにも淡々と告げられたものだから、凛の理解が一瞬遅れてしまう。

 監督役であるこの男がマスター……消去法で行けば、先ほど現れた謎のサーヴァントの主が言峰綺礼ということになる。それはまだいい。驚愕すべき真相だが、まだ理解はできる。

 だが、前半の言葉は見過ごせない。自分の父は、聖杯戦争で命を落としたという。その仔細は、ついぞ今まで知り得ることができなかったが……まさか正々堂々とした戦いではなく、この男の卑劣な裏切りで────!

 

「綺礼ぃぃぃぃ──!!!」

 

 激発した凛が、縛られた言峰に宝石を叩きつける。その動きを見切っていた神父は、滴るような笑みを浮かべていた。

 十年の時を経たとはいえ、一度受けた攻撃を二度甘受する代行者ではない。覚えがある魔術だと判断した瞬間、言峰は手の中に柄だけの剣を忍び込ませていたのだ。

 黒鍵という名の礼装に魔力が走り、腕を戒める糸を刃が断ち切る。魔力で構成された刀身は、単純な物理攻撃力こそ低いものの霊体干渉に特化しているが故、仮初の命が変異した金属を容易に破砕した。

 その勢いのまま、十字架めいた剣を振り下ろす言峰。凛が放った宝石は、風の概念を宿した幾つもの真空刃となって押し寄せたが、男はその軌道を刃で逸らす形で防ぎきってしまう。

 

「…………ん?」

 

 脇腹に走る鈍い痛み。何事かと視線を落とすと、左の腹が浅く切り裂かれ、そこから血が滴り落ちていた。全て防いだと思っていた言峰だったが、どうやら一手弾き損ねていたらしい。

 ケブラー繊維に特殊な加工を施した防弾・防刃装衣は、現代戦で幅広く用いられる9x19mmパラベラム弾や軍用ナイフを防ぎ切る性能を持つ。しかし凛の魔術は、その防御能力を容易く凌駕していた。

 

「なるほど──些かばかり、私も腕が鈍ったと見える。良い錆落としとさせてもらおうか」

 

 苦笑した言峰が、得意とする治癒魔術を発動。元より軽傷だった脇腹は、あっという間に治療されてしまった。

 

「っ、ぅ……! よく分からないけど、こいつ、敵ってことでいいんだよね」

 

 破壊された使い魔の反動を受けたのか、表情を歪めたイリヤスフィールが、それでも言峰に敵意を叩きつける。彼女の横には、既に二体目の白銀の鳥が待機状態で羽ばたいている。

 必殺の宝石を防ぎ切られた凛は、やや冷静さを取り戻しながら、次の宝石を左手に番えて頷く。両者と言峰は、ちょうどそれぞれが三角形の頂点に位置するような形で対峙していた。

 

「──まったく、因果なものだ。私が殺めた者の娘たちが、揃って立ち塞がるとはな。計画に乱れは付き物だが、このような形になるとは私も予想できなかった。聖杯の器さえ手に入れば、後の用などなかったのだが」

 

 電話や話し合いなど、元より凛を油断させるための虚言である。言峰がここに現れた理由は、己がサーヴァントが英雄王を誘引している隙に、一挙に聖杯の器を掠め取るためだった。

 大聖杯が眠る円蔵山には、手を組んだ間桐臓硯が策を敷いている。後はイリヤスフィールと間桐桜を抑えれば、門を開くための準備が整う。言峰と臓硯の目的は、そこまでは一致していた。

 電撃戦で目標を奪取し、後は円蔵山でギルガメッシュを迎え撃つだけにするつもりだったが……初手で凛を仕留めきれなかったせいで、少しばかり言峰にとっては面倒な展開になった。だがこの二人の境遇を考えれば、その負担など帳消しにして余りある喜びが得られよう。

 

「娘たち──!? 待って。まさかあなた、お母様を……!」

 

「十年前、アイリスフィールという女がいた。まったく不愉快な女だったが──あの首を捻り折った時は、少しばかり溜飲が下がったものだ」

 

 悲鳴めいた息を漏らし、イリヤスフィールが口元を覆う。あまりのショックに、見開かれた赤い瞳には大粒の涙が浮かび──その様子を眺める言峰は、毒蛇を思わせる歪んだ笑みを浮かべている。幼い少女の悲哀は、彼に十年越しの甘美な愉悦をもたらしていた。

 衛宮切嗣の肩を持ち、最期まであの男を信じ続けた愚かな人形。あれの存在は実に不快であり、言峰の遠い記憶を呼び覚ます汚泥にも等しかったが、この悲哀を目にするための前座だったとすれば帳尻は十分に合う。その首をへし折れば果たして母親と同じ顔をするのか、是非とも確かめてみたいところだ──それは実に、至福のひとときとなり得るだろう。

 無言で嘲笑う言峰。堪えきれずに涙を零しながら、少女から放たれるものとは思えぬ殺意が悪魔に叩きつけられる。白銀の使い魔は猛禽の形となり、母の仇を討つべく今にも飛びかかろうとする寸前。

 

「許さない……! お母様の敵、ここで殺してやるわ──!」

 

「──同感。この裏切り者のクソ神父、楽に死ねると思わないことね!」

 

 雪の少女に劣らぬ敵意を、闘志に変えた凛が宣言する。いや、なまじ長年に亘り兄弟子として関わりがあった分、彼女の激怒はより深いものだ。

 その手に握られた短剣──柄に宝石の埋め込まれたアゾット剣を目にした言峰は、その絵面の滑稽さに、もはや堪えきれぬとばかりに大声で笑い始めた。

 よもやこのタイミングで、十年前に仕込んだ布石が一挙に実を結ぼうとは、神ならぬ身には想像もつかなかった。この場で秘蔵のワインを味わえないのだけは残念だったが、十年間煮込んだ愉悦の芳醇さは、長年寝かせた美酒に等しい。

 

「ク──はは、ふはははは……! 知らぬということは幸せなものだな! 凛よ、よもやその剣で私と戦うつもりかね?」

 

「当然。この剣は、弟子が卒業する時に師匠から渡されるものでしょう。アンタの腐れきった人生、今日この世から卒業させてやるわ」

 

「くく……! 同じ道を歩もうとは、やはりおまえは私の妹弟子のようだ。後見人としても兄弟子としても、おまえがこうも健やかに育つとは実に喜ばしい。時臣師もさぞお喜びになることだろう」

 

「同じ道──?」

 

 慄然とした凛が、握りしめた短剣に目を落とす。思い返せばこの剣は、遠坂の家督を継いだ折に、言峰から祝いの品として渡されたものだった。言峰はこれを、魔術の師であった凛の父、遠坂時臣から譲り受けたものだと言っていた。

 言峰綺礼は凛の後見人にして兄弟子であると同時に、格闘技術などにおける師でもある。この剣で師に挑むことが同じというのは、まさか──。

 

「いやなに──その剣は、おまえの父の血を吸ったものだというだけの話だ。かつて私が師の心臓を貫いた刃で、此度はおまえが私を狙う……クク、これほど愉快な展開もあるまい」

 

 その瞬間、遠坂凛が見せた表情は、言峰の心を昂らせる彩りに満ちていた。

 自らが信じていた、大切にしていたものに裏切られた時の絶望──その感情が抜け落ちていく刹那の移り変わりを見ただけで、言峰はかつてアゾット剣を凛に託す選択に思い至った自分に喝采を贈りたい心地だった。今この瞬間に飲める酒があったならば、それはまさしく至上の甘露に等しかっただろう。

 人の喜びこそが苦痛であり、他者の不幸こそが娯楽となる……そのような性質に生まれついてしまった破綻者にとって、眼前の少女たちが見せる苦痛ほど、喜びをもたらしてくれるものはない。あの英雄王がここにいたならば、十年前のように愉悦の味を分かち合うことができただろうが、彼がいないからこそ自分はこの絶望という蜜を味わえる──運命という名の神はつくづく計算高いと、言峰の笑みは深まるばかり。

 

「これでもおまえの兄弟子だ。その剣にどれだけ魔力が籠められているかは見れば分かる。この数年、さぞや大切に魔力を注ぎ込んできたのだな──父の血に濡れた刃は、おまえによく馴染んだことだろう」

 

 十年前の記憶が蘇る。第四次聖杯戦争に於いて、言峰綺礼と遠坂時臣は手を結んでいた。

 斥候役となるアサシンを召喚した綺礼と、最強の英霊であるアーチャーを召喚した時臣。綺礼とアサシン(百貌のハサン)から得た情報を元に、時臣とアーチャー(ギルガメッシュ)が力を奮い聖杯戦争を勝ち抜くという関係は、中盤まではそれなりに上手く運んでいた。これは、綺礼に聖杯を求めるための願望が見当たらず、ただ聖堂教会に属する己の職務──聖杯を手にしたとしても教会に影響が出ない人物を勝ち上がらせるために助力するという、その責任に忠実だったからこそ成り立っていた関係だ。

 しかしながら、英雄王ギルガメッシュという男の存在が運命を変えた。奇しくもこの第五次聖杯戦争に於いて、衛宮士郎を導いたのと同様、彼は言峰綺礼に着目し、その根底に隠されていたものを引きずり出したのだ。紆余曲折の末、遠坂時臣の弟子と彼のサーヴァントは、主を差し置いて手を組むという展開に至る。

 そんなこととは露知らず、聖杯戦争の終盤、時臣は自分が死した後を託せる人物として綺礼と顔を合わせていた。彼に遺言状を預け、遠坂家での見習い終了の証としてアゾット剣を手渡した時臣は、後顧の憂いなく次の戦いへと挑み──その直前、綺礼に背後から刺し殺されるという顛末を迎えた。 

 

『見よ、この間抜けた死に顔を。最後まで己の愚劣さに気付かなんだという面だ』

 

『すぐそこに霊体化したサーヴァントを侍らせていたのだ。油断したのも無理はあるまい』

 

 最期の最期まで、言峰綺礼という人間を理解できなかった男。生粋の破綻者である彼の本性を見抜けというのが土台困難な話だったが、裏切りの主従はこうして一人の魔術師の死に様を哄笑した。

 あの時、命を落とすまさにその瞬間の時臣の顔を見て抱いた喜びも得難いものであったが──あれがまさか、こうして極大の愉悦として芽吹くことになろうとは。真っ黒な嘲笑を浮かべて、神父が歓迎するように手を開く。

 

「時臣師の最期の顔を、おまえにも見せてやりたかった。よもや弟子に刃を向けられるなど、到底現実を信じられぬという、実に見応えのある死に顔だったぞ」

 

「綺礼ィィィィィィィィ────!!!!!」

 

 父を奪われた少女が爆発し、母を殺された少女が激昂する。その激情を祝福すべく、言峰綺礼は高々と黒鍵を掲げた。




ギルガメッシュが取り出したバイクは、某超有名企業の「スポーツスター」シリーズ(実際に第五次聖杯戦争が行われたとされる年の前年に発売されたもの)と、カーニバル・ファンタズムで登場したギルギルマシンのモデルと思われるバイクの設定を足して割ったものです。

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