【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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あけましておめでとうございます。本年中の完結を目指していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

お年玉代わりに、2話分更新したいと思います。こちらはその1話目です。


30.悪意

 黎明の街を走り抜けるバイクは、法定速度を遥かに逸脱していた。

 まだ辛うじて朝というより夜の領域だから他の車は少ないが、通勤時間帯とかち合う羽目になっていたら間違いなく通報されていただろう。巡回のパトカーとすれ違う気配がなかったのは、紛れもなく幸運の賜物だ。

 改造された大出力エンジンとギルガメッシュの操縦テクニックの組み合わせは、家までの距離をいとも簡単に縮めていく。一分一秒が惜しい今、このバイクに乗る以外の選択肢はなかったが……乗り始めて数分もする頃には、俺は後悔し始めていた。

 

「痛、っ……!」

 

 後部座席に備え付けられた固定用のバーを握り込むたびに、体中に痛みが走る。

 アドレナリンでぶっ飛んでたせいか薄れていたが、俺の体はあのアーチャーとの激闘でボロボロだった。脂汗が滲むほどの脇腹の痛さは、肋骨か何かが折れているのだろうし、バーを握るのは左手一本。右手の方はほとんど折れかけの有様だ。

 打ち身、擦り傷、出血箇所、細かな骨のヒビまで入れればどれほど怪我をしているのかわかったものではない。無理な投影を連発した魔術回路は、痛みを通り越して凍えるような不気味な悪寒を伝えてくる。バイクにしがみつくだけで重労働、本当なら俺を運ぶべき乗り物は救急車に違いない。

 ……それでも。

 

「みんな、無事でいてくれ……!」

 

 俺はまだ生きているからいい。そんなことより問題なのは、現在進行系で窮地に陥っているであろう三人だ。

 桜は動ける状態ではないが、遠坂とイリヤは俺なんか足元にも及ばない強力な魔術師だ。二人揃えば、並の敵には引けを取るまいが──この状況を作り上げた相手は、聖杯戦争の最終盤まで生き抜いてきたヤツだ。侮れるはずがない。

 臓硯か、それとも他にマスターがいるのかは分からないが、俺の家にあのアーチャーを送り込んできたヤツは間違いなくこちらの陣容を知っている。わざわざギルガメッシュと、ついでに俺を誘い出したのは、残りの人員だけなら確実に制圧できるという確証があってのことだろう。

 家にあの男が現れた時点で、俺たちの選択肢は制限されていた。町中だから、結界があるから、サーヴァントがいるから、慣れ親しんだ家だから──いくらでも言い訳は立つが、俺たちが家を拠点にし続けたのは戦略上誤りだったのかもしれない。今更言っても詮無いことだが、ただ皆の無事を祈ることしかできないのがもどかしい。

 

「見えてきたか。気を緩めるなよ、雑種」

 

 しがみつくのに必死で景色を見る余裕などない俺に、ギルガメッシュが言い放つ。五秒後にはバイクが減速を始め、急制動して路肩に停車したが、その衝撃だけでも危うくバイクから転がり落ちそうになってしまった。

 悲鳴を上げる体をなんとか宥めすかし、老人のような遅さでゆっくりと座席を降りる。余力を振り絞って顔を上げると、三歩先で黄金の青年が腕を組んでおり……その視線の先には、門が開けっ放しになっている我が家が見える。

 

「下手人はとうに去っているようだが──やはり襲われていたか。血の臭いが鼻につくわ」

 

「ッ……!」

 

 どこにそんな力が残っていたのか。言葉の意味を理解した瞬間、考えるより先に体が走り出していた。

 敷居を飛び越えると、門とは対象的に閉められたままの玄関が目に入る。家に押し入ったのだとすれば、何故こちらは開け放たれていないのか……?

 玄関ではなく周囲に目を向ける。するとすぐ左手に、昨日までは何の変哲もなかった細い木がへし折れているのを発見。何かがぶつかっていったような痕跡に、警戒しつつ進んでいくと──。

 

「これは……」

 

 南側の庭。セイバーがかつて使っていた部屋に面した空間が、滅茶苦茶な有様になっていた。

 未舗装とはいえ、整っていたはずの地面には大穴が空いている。(そび)えていた木々は見る影もなくへし折れ、倒れ込んだ何本かが屋根を直撃して瓦を破壊していた。家の方も、ガラスから木張りの床から尽くが吹き飛ばされ、言葉を失ってしまうほどの凄惨な様相。

 愕然として破壊の跡を見渡していると、違和感。家の壁際、隅の方に転がっているのは、赤い服を着た人影のようで──っ!?

 

「遠坂──!」

 

「──たわけ。無闇に先走るな、雑種」

 

 色を失って走り寄ろうとした瞬間、首根っこを強い力で掴まれた。逆方向に引っ張られたせいで瞬間的に首が絞まり、ぐえ、と苦鳴が零れてしまう。

 

「お、まえ、何を…………」

 

 左手で俺を捕まえたギルガメッシュは、抗議の声に耳も貸さず、指揮者のように右手を振るう。途端、空間に浮かぶ黄金の波紋から、鈍色の短剣が放たれ──

 

 ──バチンッ!

 

「見え透いた罠だ。死体や怪我人を餌に、食いついた者を屠るやり口よ。

 魔術師というより、狙撃手の手口だが──フフン、いつぞやの意趣返しのつもりか。半端な魔術の腕といい、これを敷いたのは()()()だろうな」

 

 地面に魔法陣が浮かび上がったかと思うと、稲妻のようなものが吹き出し、短剣を直撃して軌道を斜め四十五度に弾いてしまった。

 俺があのまま突っ込んでいたら、よくて気絶、運が悪ければ感電死していただろう。地雷のような魔術の罠は、ぞっとするほど悪辣だった。

 ギルガメッシュはまた思わせぶりに何かを言っているが、今のは助かった。一歩間違えれば死んでいた事実に、血が上っていた頭にもさすがに冷静さが戻ってくる。

 

「助かった、アーチャー。……まだ他にも罠が残ってたりするか?」

 

「……いや、今ので終いのようだ。この術は単なる嫌がらせよ、二つ三つと重ねる意味もあるまい」

 

 庭中を睥睨するギルガメッシュが、問題ないと鷹揚に手を振る。それを見て取ると、今度こそ俺は倒れ伏す人影の許に走り出した。

 

「無事か、遠坂!?」

 

 ほんの十数メートル。たったそれだけの距離を走る間に、胸の悪寒が増大していく。

 もうここまで来ればわかる。建物や地面が焦げた中に交じる、頭が痛くなるほどの血の臭い。その中央にいるのは、壁に背を預けるようにして倒れ込む少女だ。

 服の赤は血の紅で上書きされ、漆喰の壁はペンキでもぶち撒けたように朱色に染まっている。まだ乾いていないところからして、この惨状が引き起こされてからは、ほんの半時間と経っていまい。

 

「っ────」

 

 そんな、どうでもいい周囲の情報ばかりが入ってくる。

 僅か数時間前まで、元気に会話していた遠坂凛という少女。彼女がいったいどんな状態なのか──もう手の届くところにあるのに、それを確かめるのが、どんなことより怖かった。

 素人にだって分かる。どこかを切ったなどという生易しい話ではなく、この血溜まりの量は命に関わる。少女の体は自ら流した血液でしとどに濡れ、どこが傷ついているのかさえ分からない。

 生きているのか。傷つくところなんて想像さえできなかった魔術師は、まだ息があるのか。今すぐそれを確かめるべきだというのに、恐怖と絶望が、喉元まで出かかってきた刹那。

 

「……よかった……。あんたは、無事だったのね……士郎……」

 

 今にも消えてしまいそうなほど、か細い声で。苦しげに目を開けた遠坂が、薄っすらと笑みを浮かべていた。

 

「遠坂……! 生きてた、よかった……! 待ってろ、今救急車を──」

 

「……ストップ。わたしのことは、いいから……。桜と、イリヤが……」

 

 息をすることさえ苦しいのだろう。一言一言絞り出すようにして、遠坂が言葉を連ねる。唇から一筋血が垂れていく様に、俺の血の気が引いていくが──命を零れ落とそうとしながらも、遠坂は俺に何かを伝えようとしていた。必死の訴えを聞き逃してはならないと、懸命に耳をそばだてる。

 

「……ごめん。しくじった……わたし、二人のこと、守れなくてっ……! あいつに、連れてかれて……」

 

「あいつ……? 誰だ、これをやったのは臓硯か?」

 

「否。貴様を打ち倒したのは────言峰綺礼。そうであろう、遠坂の娘」

 

 いつの間にか横にいたギルガメッシュが、突然口を挟んでくる。あまりにも突拍子のない発言に、混乱して間抜けな声を出してしまうが──それを聞いた遠坂は、こくん、と確かに頷いた。二人の顔は、間違いなく俺の知らない何かを確信している。

 馬鹿な……この局面で何故、監督役の神父の名が出てくるのか。確かに胡散臭い、信用ならないと思っていたヤツではあるが、あの男は多大な労力を割いてまで桜を助けてくれた。責務に忠実でなければ、そんなことをする理由がない。

 監督役とは、中立の立場で聖杯戦争を運営する役割のはずだ。それが参加者を攻撃するなど、言語道断にも程がある。第一、そんなことをすれば魔術協会も聖堂教会も、それ以前に他のマスターが黙ってはいない────待てよ。

 

「言峰……まさかあいつが、最後のマスターだったのか!?」

 

 もう、首を動かすことさえ億劫なのか。先ほどよりも弱々しく、遠坂が微かに首肯する。苦しげな呼吸は、ほとんど喘鳴になっていた。

 言峰綺礼……あの男は遠坂の後見人であり、兄弟子であったとも聞いている。その上、公平中立であるはずの監督役──そんな人間が、よりにもよって裏ではマスターとして参加していたのだ。遠坂にとっては、不意打ちだったに違いない。

 この破壊痕から見て、遠坂もイリヤも激しく戦ったのだろう。ヤツのサーヴァントは、俺たちと矛を交えていたわけだから……あの男は単体で、一流の魔術師を二人相手取って圧倒するだけの戦闘能力を持っているのか。最悪な事態が、ますますどん底に向かっていく。

 

「気を、付けなさいよ……あいつ、臓硯と組んでる。士郎じゃ、あいつらには──」

 

 ごぽ、と血を吐く遠坂。どれほど内臓を傷つけたのか、その顔色は青を通り越して蒼白だった。

 

「わかった。もういいから、少し休んでくれ。今救急車を呼んでやるから。そうしたら──二人を助けて、言峰も臓硯もぶちのめしてくる」

 

「っ──止めても、無駄、か。そうね、あんたは最初から、そういう人間だった……無理だって分かってても、認められないものがあると、向かっていけちゃうやつ……。あの放課後から、何も変わってないんだから……」

 

 後半の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。もう遠坂は、口を利けるような状態ではないのだ。

 これ以上は限界だった。玄関の近くにある電話機は、きっと無事なままだろう。今すぐに救急通報をしようと、踵を返して走ろうとした矢先──死に体とは思えぬ力で、遠坂が俺の腕をぐっと掴む。

 

「いい、士郎。あんたが戦う気なのは分かってる。だけど──戦うからには、絶対に勝ちなさいよ。一度決めたことを押し通せなかったら、地獄まで追っかけてってやるんだから」

 

 そう告げる遠坂の瞳は、尋常ならざる気迫を宿していた。言峰に裏切られ、敗北を喫し、二人を攫われたことがどれだけ悔しいのか、目を見るだけで伝わってくる。

 きっと本当なら、今すぐにだって言峰を追いかけたいに違いない。それが叶わないから……遠坂は、俺に託したのだ。俺ならそれをやり遂げると、いや、やり遂げなければ許さないと、燃えるような眼差しが命じている。

 

「────わかった。大丈夫だ、遠坂。俺が、おまえの分まで借りを返してやる」

 

 決意を籠めて、強く頷く。答えなんて、考えるまでもないことだった。

 それを見た遠坂は、睨み据えるようだった表情をふっと緩めると……掴んでいた手を離し、そのまま瞳を閉じて俯いた。意識を保っていることすら、今のが限界だったのだろう。

 まだ息はある。だが、もう一刻だって放っておける猶予はない。今すぐに救急車を呼ばなければと、電話機目掛けて走り出すが──二歩踏み出したところで、がくん、と体が沈んだ。

 

「な、に……?」

 

 電池の切れたロボットのように、地面にばたんと倒れ込む。何かに躓いたわけでもないのに、どうして──その疑問の答えは、数秒ほど遅れて襲ってきた、全身を蝕む痛みだった。

 

「ッ────が、っ……!?」

 

 右腕の罅。左手小指の骨折。肋骨二本の骨折。脇腹に走る裂傷。右太ももの刃傷。打ち身、擦り傷、細かな骨の罅、出血箇所に至っては数え切れず、魔術回路は焼け焦げかけている。

 今まで動けていたのが奇跡に思えるような、ボロボロの状態だった。赤いアーチャーにあれほど嬲られ続けた後、無理を押してバイクに搭乗し、痛みなど忘れてここまで走ってきたが……火事場の馬鹿力は、遂にここに来て尽きてしまったのか。

 くそっ、せめてあと二分、通報を終えるまで保ちさえすればいいのに、なんでここで動けなくなるんだこのポンコツ……! ふざけるな、俺が起き上がらないと遠坂が──!

 

「──やれやれ。まこと、世話の焼ける雑種よな」

 

 呆れたような溜息が、頭上を通り過ぎていく。なんとか顔を上げると、そこには肩を竦める金髪の青年の姿があった。

 

「至らぬ契約者をもり立てるのも仕事のうちか。我が財の使用許可を与えた手前もある──特に許す。ありがたく拝領せよ、雑種」

 

 ひょい、と。黄金の波紋から、無造作に何かが投げ渡される。頭にぶつかる軌道のそれを、比較的無事な左手でなんとかキャッチすると……ちょうど手のひらに収まるぐらいの、透明な液体の入った瓶があった。

 やたら装飾の施された小瓶は、それだけでも美術館に陳列されていそうな高貴さを放っている。とんでもなく値の張る代物なのだろうが、それよりもこの中の液体は……?

 

「治癒の霊薬だ。外傷であれば、大凡のものは立ち所に癒えよう。

 見たところ、貴様の傷はまだ浅い。三割も飲めば十分だ。残りはあの娘にでもくれてやるがよかろう」

 

 その解説を聞いた瞬間、俺は這うようにして向きを変え、遠坂のところへ戻りだした。

 飲んだだけで外傷が癒える薬など、現代医学では及びもつかぬ領域だろう。治癒魔術でさえ、簡単に再現できるものとは思えない。ギルガメッシュが持っているのは、宝具だけではなかったのか──礼を言いたいのは山々だが、今はそれより遠坂だ。

 ひゅー、ひゅー、と息を繰り返す遠坂の唇に、なんとか封を空けた小瓶を押し当て、中身を少しずつ流し込んでいく。地面に溜まった血溜まりを見て、全部飲ませたほうがいいのではないかと一瞬思うが……英雄王が見立てを誤ることはない。俺に三割、遠坂に七割という割当は、意味のあるものなのだろう。

 目分量だが、だいたい七割ほどの中身を飲ませたところで、一旦瓶を水平に戻す。効いてくれという願いを籠めて、力なく垂れ下がった手を握りしめていると……あれほど苦しげだった呼吸が、少しずつ穏やかなものに変わり始めた。見れば、真っ白だった顔色も、徐々に赤みが戻り始めている。

 

「っ……! すごい、ほんとに効いてるのか……!」

 

「たわけ。我の財に贋作などない。傷を癒やすという伝承が、いったい幾つあると思っている? 一晩もすれば、減らず口を叩ける体に戻っていよう」

 

「遠坂は助かるんだな? ありがとう、ギルガメッシュ……!」

 

「ふん──大いに我を崇め、感謝しひれ伏すがいい。我が財を下賜してやるなど、滅多なことではないからな。

 ──当然、対価は払ってもらうが」

 

 にやり、と露悪的に笑う黄金の王。

 致命傷すら治癒するような、特級の霊薬の対価……以前に見た、米国で手術を受けたら数千万円の請求を受けたというニュースが脳裏を過る。英雄王の薬に医療保険など適用されまい、いったいどんな無茶振りを要求されるのか──浮かべた笑みが、瞬時に凍りつくのを感じる。

 

「そう固まるな、我は貴様に不可能なものは求めん。そも、人を見極め裁定するのが我の責務でもあるからな。

 まあ話は後だ。折角くれてやったのだ、疾く薬を飲むがいい。貴様の傷が癒え次第────聖杯戦争の幕引きに向かうぞ」

 

 

***

 

 

 驚いた。

 傲岸不遜、唯我独尊を地で行く男が他人の怪我に配慮を示したのもさることながら、傍観者というスタンスをここまで貫いてきたのに、自分から聖杯戦争に片を付けようと言いだしたのも意外だった。

 問いたいことは山ほどある。けれど、それより優先しなければならないのは遠坂の容態だ。冬の空に野晒しにしておくなど論外であり、ギルガメッシュの薬を飲んで回復した俺は、どうにか動けるようになると無事な部屋まで遠坂を運び込んだ。

 いったいどういう効能なのか、口を開くのがやっとだった体は十分もすれば立ち上がれるようになり、一時間もすればスムーズに動けるぐらいには復活していた。軽い打ち身や擦り傷はもう消えており、折れていた骨さえ痛みが和らいで元に戻りかけている。酷使しすぎた魔術回路すらも回復してきていて、この分では夜には完全な健康体に戻っているだろう。神代の霊薬は、恐ろしいほどの効き目だった。

 しかし、比較的すぐ動けるようになった俺と違って、遠坂が目を覚ます気配はない。医学なんてこれっぽっちも分からない俺から見ても、遠坂は明らかに複数の臓器を損傷していた。ギルガメッシュによると、彼女の持つ魔術刻印が瀬戸際で辛うじて命を繋いでいたらしい。それほどの重症でさえ、一日休めば大方は回復するというのだから恐れ入る……遠坂が助かってくれて本当に良かった。俺はこの聖杯戦争の始めから、ずっとあのサーヴァントに借りを作りっぱなしだ。

 

「こんなもんでいいか……。緊急事態だったけど、起きたら怒られそうだよな」

 

 血まみれの服を着替えさせ、なるべく肌を見ないようにして血を拭き取ってやるという思わぬ超高難易度の試練。どうにかこうにか潜り抜け、こんこんと眠る遠坂をベッドに寝かせたところで、やっと一息つくことができた。

 夜を徹しての激闘に、二転三転する戦局。ずっしりと、肩に重い疲労がのしかかっているのを感じる。本音を言えば、このまま一眠りしたいところだったが──その前に、積もる話をしなければならない男がいる。

 どの道、決戦は夜になる。聖杯戦争の道理から言っても、敵の状況から見ても、ギルガメッシュの見立てでも、即座に挑みかかるのは悪手でしかない。敵に襲われる前に書いたのか、イリヤが残してくれたメモ書きによると、桜は『この世全ての悪(アンリ・マユ)』をあと一日は確実に抑え込めるという。

 敵から見ても、むざむざ聖杯の器を壊すのは愚行中の愚行であり、来ると分かっている俺たちを始末すれば聖杯戦争に決着がつくのだから選択肢は一つしかない。ならば、夜までの時間を最大限有効に活用して、勝利の確率を上げておくべきだろう。

 

「なんだ。随分と手間取ったではないか、雑種」

 

「……あんたが手伝ってくれたらもう少し楽だったんだけどな、ギルガメッシュ」

 

「ハッ。我が霊薬をくれてやった時点で、貴様らには過ぎた恩寵よ。雑事は貴様ら俗人が担うもの、王たる我を顎で使おうなど兆年早いわ」

 

 遠坂の部屋から居間に戻ると。勝手に持ち出したペットボトルのお茶を飲みながら、呑気にテレビを見ているサーヴァントがいた。記憶が戻る前と一ミリたりとも変わっていない偉そうな態度は、呆れるべきなのか苦笑いするべきなのか。

 半分ほど減っているお茶を見て、そういえば昨夜以降まったく飲み食いをしていなかったことに気づく。普段なら何か軽く作るのだが、さすがに今は疲労感が強く、文明の利器である冷凍食品に頼ることに決定。

 幸い、派手に壊されていたのは南側の庭周囲だけで、電気や水道といったインフラは無傷だったようだ。あれだけ壊せば近所の人が気づきそうなものだが、あの公園のように認識阻害の結界でも貼られていたのか──首を傾げつつもお湯を沸かし、食品をレンジで温めていく。

 

「よし、これで全部終わりか……今日は冷凍のものだけど許してくれ。ギルガメッシュ、あんたも食うだろ?」

 

「昼餉か? 安物というのが気に障るが、まあよい。献上を許す」

 

 なんだかんだで腹が減っていたのか、勝手にみかんを食っていたギルガメッシュの前に、チンしたばかりのお好み焼きの袋一式を置いてやる。

 その直後、何気なく隣の席に目を向けて……ふと、居間が空虚なほど寂しいことに気がついた。結構な人数が入っても余裕のある広さなのに、つい数日前まであんなに人がいたのに……今ここにいるのは、俺とギルガメッシュの二人だけになってしまった。

 

 遠坂は、傷を癒やすために眠っている。

 セイバーは、臓硯の手先に成り果てた。

 桜とイリヤは、言峰に拉致されたまま。

 藤ねえは、来る余裕さえないのだろう。

 

 最後に残ったのは俺たちだけ。この先の、おそらくは最後の戦いは、俺とギルガメッシュの二人だけで挑まなければならない。

 夢で見た英雄王と朋友の冒険とは違う。彼らは時に窮地に陥り、辛酸を舐めることがあれど、最後には勝利と栄光を掴んできた。だが、今は配役が違う。黄金の王に比肩し、神をも恐れぬ力を持った人形はここにはおらず、いるのはただの魔術師見習いだけ。それでいて、敵は途方もなく強大なのだ。

 あの森で見たセイバーの戦闘能力は常軌を逸していた。あの箍の外れたヘラクレスさえ、彼女の聖剣は圧倒しただろう。加えて、赤い弓兵……未来の衛宮士郎だという英霊も容易い敵ではない。公園での戦いぶりを見て理解したが、あの男はギルガメッシュに対して相性が良い。

 難敵であるサーヴァントが二体。更に、底の知れぬ間桐臓硯と、遠坂とイリヤさえ圧倒した言峰綺礼もいる。極めつけは、セイバーもバーサーカーもその尽くを飲み干した黒い影──桜を利用して顕現しているというおぞましい怪物。笑えてしまうほどの、絶望的な陣営の差である。

 ギルガメッシュは最強最古の英霊だ。その事実に疑いはない。しかし、その力を以てさえこの盤面は覆せるのか──肝心の本人はどう思っているのだろうと目を向けた瞬間、俺はその奇妙さを見逃さなかった。この男の記憶が戻って以降、もしかしたらと疑ってはいたのだが……今のほんの僅かな点から、全体の線が繋がってくる。この事態の打開に繋がることだ、まずこれを確かめなければ話にならない。

 

「──ギルガメッシュ。あんた、今回召喚されたサーヴァントじゃないんだろ?」

 

 何の前置きもない、唐突な質問。

 この家に来て以降食べたことのないはずの冷凍お好み焼きを、前々から知っていたかのような自然さで、封を切り順番に調味料をかけていたサーヴァントは──確信を以て言い放った俺の問いに、愉快げに唇を吊り上げてみせた。

 

「ほう。ヒントは随分与えてやったつもりだが、ようやく答えにたどり着いたと見える」

 

「……おかしいとは思ってたんだ。遠坂もイリヤも、召喚されたサーヴァントが最初から受肉しているような機能は、聖杯には存在しないって言ってた。なのにあんたは現実の肉体を持って現れている。

 他のことだってそうだ。あんたが朝飯を作ってくれたことがあったけど、あれは初心者が作った出来具合じゃない。テレビの操作とか、細かいところはいろいろあるけど……あのバイクだってそうだし、今だってそうだ。なんで五千年も前の人間が、冷凍のお好み焼きの作り方なんて知ってるんだ?」

 

 これが決定打だった。単に温めればいいピラフ系統とは違い、お好み焼きやたこ焼きは少々手間がかかる。添付品のソースやマヨネーズ、青のりや鰹節は解凍方法やかける順番がメーカーごとに実は違っていたりする。もちろんパッケージに調理方法は書いてあるのだが、この男は見ることさえせずに躊躇なく正しい順番で薬味をかけていく。いかにギルガメッシュがキレ者だろうと、そんなもの、サーヴァントが知っているはずがないのだ。

 そう訊ねると。この男にしては珍しく、ほんの僅かだけ、きょとんとした表情が浮かんだ。

 

「ク──ふははは、よもや決め手になったのがこれとはな! 我ともあろう者が、その解は想定外であったぞ。なるほど、貴様は調理人の端くれか、存外に目敏いではないか」

 

 俺の答えに意表を突かれたのか。今封を切っていた青のりを一瞥すると、ギルガメッシュが肩を揺らして笑い出す。何かがツボに入ったのか、バンバンとテーブルを叩きながら爆笑しているのだが、そのたびに青のりと鰹節が飛び散るので正直やめてほしい。

 ひととおり笑い終えると、ぐいとお茶を飲み干して、こちらに視線を向ける英雄王。愉しそうな笑みは口元に浮かんだままだが……その上機嫌さの内訳は、少し前のそれとは明確に異なっていた。

 

「いかにも。我は貴様と契約したサーヴァントであると同時に、此度喚び出された英霊ではない。この身は今より十年前──第四次聖杯戦争に於いて召喚された、アーチャーのサーヴァントよ」

 

「やっぱりそうか……そうだよな。でなきゃ、どれだけ聖杯がおかしくなってるとしても、二人目のアーチャーなんか出てくるわけがない」

 

「然り。フフン、今の我は機嫌が良い。我を興じさせた解への褒美だ、問いがあるのであれば答えてやるぞ」

 

 笑みの残滓を纏わせながら、出来上がったお好み焼きをつつくギルガメッシュ。何の気なしに語っているようで、その双眸はじっと俺のことを観察している。俺がどういう意図でその質問をしたのか、何を考えて次の言葉を口にしようとしているのか──最初から見抜かれているのか、それとも分析しているのか。いずれにしてもこの男は、俺の動き方を愉しむというスタンスは変えないようだ。

 

「それじゃあ……まずは、最初(Zero)からだ。十年前、一体何があったのか。その話を聞かせてほしい」

 

「ほう。現状の解ではなく過去に目を向けるか。意図を語り聞かせてみよ」

 

「言峰は、前の聖杯戦争のマスターだって言ってた。臓硯だって、何百年も生きてるんだろ? 前回と無関係なわけがない。

 あんたはもちろん、セイバーだって前回の聖杯戦争の参加者だ。それにあのアーチャーだって、元はといえば俺……つまり、第四次聖杯戦争の関係者。

 イリヤは、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』が召喚されたのは第三次の時だって話してた。なら、そいつの影響が出てくるのは第四次以降のはず。そして前回の最後には大災害が起きて、今回の第五次聖杯戦争は何から何までめちゃくちゃだ。

 ──ここまで揃ってるんだ、偶然なんかあるもんか。言峰と臓硯が何を企んでるのかも、今回の聖杯戦争だけがなんでおかしくなったのかも、元を辿れば十年前に行き着く。違うか?」

 

 指折り数えて、おかしな点を挙げていく。一つ二つなら偶然だろうが、三つ四つとなれば必然。五つを超えるとなれば、それはもう確定に近いと見ていいだろう。

 現状では敵の戦力も目的も、ほとんど何も分かっていない。聖杯戦争に於いて情報や戦略がどれだけ重要なのかは、文字通り身に沁みて理解している。こんな状態で戦いに挑むなど、博打を通り越して自殺だろう。

 暗闇だらけの現在を紐解く鍵は、十年前の過去にあるに違いない。そしてその鍵を持っているのは、第四次聖杯戦争の生き証人である、アーチャーのサーヴァント以外にはありえない。

 

「──なるほど。少しは視野を広げる事を覚えたと見える」

 

 にやり、とアーチャーが笑う。その表情は、俺の推測が正解だと雄弁に物語っていた。

 

「よかろう、暇潰しにはちょうど良い。四度目の下らぬ茶番、王自らが語り聞かせてやろう。ありがたく拝聴せよ、雑種。

 ──我を喚び出したのは、遠坂時臣という男だ」

 

「遠坂? それって、もしかして……」

 

「然り。あの娘どもの父親よ。娘は見所があったが、父親の方はまったくもって面白味のない輩であった」

 

 十年前に行われ、冬木市を火の海に変えた第四次聖杯戦争。その当事者の語り口に、俺は解凍したばかりの昼食を食べるのも忘れて聞き入ってしまっていた。

 

 剣士(セイバー)のサーヴァントは、言わずと知れた騎士王、アルトリア・ペンドラゴン。

 槍兵(ランサー)のサーヴァントは、クー・フーリンの後輩筋にあたるケルト神話の英霊、輝く貌のディルムッド・オディナ。

 騎兵(ライダー)のサーヴァントは、アレキサンダー大王の名でも知られる、征服王イスカンダル。

 魔術師(キャスター)のサーヴァントは、『青髭』の童話のモデルとされる堕ちた英雄、元帥ジル・ド・レェ。

 暗殺者(アサシン)のサーヴァントは、中東における暗殺教団の頭目の一人、百貌のハサン・サッバーハ。

 狂戦士(バーサーカー)のサーヴァントは、アーサー王伝説において最優の騎士と謳われた、湖の騎士ランスロット。

 

 ──そして弓兵(アーチャー)のサーヴァントとして召喚されたのが、人類史上最古にして最強の英霊、英雄王ギルガメッシュ。

 

 幾人か俺の知らない人物も混じっているが、聞き覚えのある名前だけでも、今回の第五次聖杯戦争に劣らない錚々たる面々だ。これらの英霊と、それを従える魔術師たちの戦いは、緒戦から混迷を極めたらしい。

 王の宴、というよくわからない単語が混じったが、アーチャーを含めた三騎の英霊が集う場に押し寄せたアサシンをライダーが一蹴。日を置かず、何をトチ狂ったのか民間人の無差別大量虐殺に及ぼうとしたキャスターをセイバーが撃破。続いてランサーもセイバーが打ち倒した。

 キャスターとランサーについては、倒されたのはサーヴァントだけではない。それぞれのマスターも、ほぼ時を同じくして殺されていた。それを為した魔術師が──。

 

「──衛宮切嗣。貴様の養父は、裏の世界では名の知れた傭兵であった。言峰は、随分とあの男に執着していたものよ」

 

 淡々と語るギルガメッシュの口から出てくるのは、冷酷に冷徹に、銃火を以て敵対者を殺戮する『魔術師殺し(メイガス・マーダー)』の姿。

 温和でどこか頼りなかった、俺の知る切嗣からはまったく想像がつかないが……実際に切嗣のサーヴァントだったセイバーも、やや言葉を濁してはいたが、今のアーチャーに近い印象を語っていた。この二人が揃って同じことを言うのだから、親父が手練れの暗殺者だったという信じがたい過去は、やはり事実なのだろう。

 

「ランサーのマスターは優れた魔術師という話だったが、衛宮切嗣は中々に悪辣な手を使って協力者ともども惨殺したようだ。ただ勝利という解のみを追い求め、あらゆる手管を用いる──かつてのセイバーのマスターは、よほど願望機に執着する理由があったと見える」

 

『──僕は子供の頃、正義の味方に憧れてた』

 

 敵対する魔術師をビルごと爆砕する。

 公衆の面前で、狙撃銃でマスターの頭を吹き飛ばす。

 人質を用いて敵マスターを脅迫し、その間隙につけこんで協力者に射殺させる。

 

 サーヴァントの口から語られる切嗣の振る舞いは、テロリストにも近い残忍さと、何をしても勝ち抜くという執念を感じさせる。しかし、最期に遠くの星を見上げていた切嗣は、そんな凄惨さを微塵も感じさせない、まるで抜け殻のような姿だった。

 だからきっと、何かがあったのだ。正義の味方という憧れからは程遠い有様になってまで、聖杯に何かを願おうとしていた切嗣を、どうしようもなく壊してしまうほどの何かが──。

 

「その男は、万能の願望機に縋らねば到底叶わぬ悲願──個人の在り方ではなく、世界そのものに希う大望を持っていたのだろうよ。

 だが、人の世を変革させるほどの原動力など、人間の悪意をおいて他にない。故に、その手段は自滅となる。最後の最後に、衛宮切嗣はそれに気づいたのであろう──なにせあの男は、求めていた聖杯を自らのサーヴァントに砕かせたのだから」

 

 英雄王の嘲笑は、果たして誰に向けられたものなのか。紅蓮の深い双眸は、特定の個人というより、より広い範囲の人への怒りを滲ませているような──。

 ともあれ。悪意でしか世界が変わらない、というギルガメッシュの言葉には頷けない部分がある。だがそれと同じくらい、頷けてしまうだけの根拠を歴史が示している。近現代だけでも、ナチスドイツのホロコースト、共産主義国家の大粛清、米国を激震させた航空機テロ──人間の悪意によって引き起こされた社会変動は枚挙に暇がない。

 この聖杯戦争は、最悪の場合その極めつけになる。なにせ、とうの聖杯が人類の悪性そのものに変じているのだ。セイバーは、切嗣が何を以て聖杯を壊したのかを知らないと言ったが……今の俺のように、聖杯戦争のどこかで真相に気づいてしまったのかもしれない。何人もの人間を殺し尽くして手に入れようとした願望機が、悪意によって染められている──聖杯に託す願いが大きければ大きいほど、その裏切りは深い絶望を招いたはずだ。俺の知る切嗣と、十年前の当事者たちが語る魔術師殺しの違いの理由は、きっとそこにあるのだろう。

 一人の人間をそこまで変えてしまうほどの絶望──それをもたらした聖杯で、間桐臓硯は、言峰綺礼は、何をしでかそうとしているのか。俺の疑問をよそに、ギルガメッシュは話を続けていく。

 

「この世はつくづく皮肉に満ちているな。願望機によって願いを砕かれる者がいれば、願望機によって願いを見出す者もいる──衛宮切嗣という人間は、どこまでも言峰とは相容れぬ性質だったようだ」

 

「……随分あの神父のことを知ってるんだな。協力関係だったってのは聞いたけど、アンタのマスターは遠坂のお父さんだったんだろう?」

 

 そう口にして、ふと違和感を覚える。遠坂の父は、第四次聖杯戦争の時に亡くなったと聞いた。しかしここまで聞いた話では、彼と協力関係を結んでいた言峰は真っ先にサーヴァントを失い、一方の遠坂時臣はギルガメッシュ──それも記憶と力を失っていた状態ではなく、万全の状態の英雄王を従えて中盤戦まで生き残っている。言峰が死亡して遠坂の父が生きているなら順当な結果だが、現状はその逆だ。

 ……待てよ。逆なのは結果だけじゃない。もしかすると、マスター同士の関係がそもそも──。

 

「思い当たったようだな。然り、我を召喚したのは時臣であった──が、我のマスターを務めるには時臣めはあまりに凡俗過ぎた。

 言峰は存外面白い男でな、ヤツが時臣に牙を剥いた折に、契約を変えてやったのさ。ま、多少は我が仕向けたきらいもあるが」

 

 とんでもない真実だった。

 あの腐れ神父は、師事していた遠坂の父を裏切って殺したばかりか、その事実を隠匿して平然と今まで遠坂の保護者面をしていたのだ。どれだけ面の皮が厚く、性根が腐っているのかまるで想像ができない。

 だが、その反逆を良しとするこの男は何を考えているのか。そもそも、その裏切りを仕向けたって、こいつはやはり平然とマスターを見捨てるヤツなのか──。

 

「おいおい、勘違いをするな。時臣はつまらん男ではあったが、我とてマスターへの義理立てぐらいは果たすさ。ヤツが我に見せた忠義が、真であったのならな」

 

「どういう意味だ……? 遠坂の父さんが、先に裏切ったっていうのか」

 

「裏切りとは、同じ道を志しながらも背中を討つことを言う。端から道が違うのであれば、何処かで衝突するのは必然だ。

 あやつは王である我に供物として魔力を捧げ、我は臣下である時臣に力を貸す──我の認識はそうであったが、時臣めは()()()()()()()()()我を見ていた。魔術師どもがサーヴァントをどのような目的で呼び出すか、貴様はあの人形から聞いたばかりであろう」

 

 サーヴァントは、聖杯を動かすための燃料に過ぎない。

 その事実を隠匿するためか、万能の願望機という側面を喧伝しているが、聖杯の主たる目的は根源への到達。遠坂凛はその事実を知らなかったようだが、その父である遠坂時臣がそれを知らないはずはない。

 面従腹背とはまさにこのことか。どこかのタイミングでギルガメッシュは聖杯戦争の裏事情に気づき、自らを使い潰そうとしたマスターを見限ったのだろう。

 

「…………」

 

 この事実を遠坂が聞いたらどう思うか。

 アーチャーは遠坂時臣のサーヴァントでありながら、彼に刃を向けた言峰綺礼を見逃し、あまつさえ鞍替えをしてのけた。これは裏切り行為に等しいし、遠坂凛にとってこの男は父の仇に与した敵に近い。

 しかし、アーチャーを最初から裏切る──いや、そもそも聖杯を動かす燃料として最後には使い捨てる算段を立てていた遠坂時臣は、英雄王にとっては逆臣だ。殺られる前に殺るという理屈は理解できるし、自ら手を下さなかっただけでもこの男の冷酷さからすれば驚きだ。

 誰の立場から見るかで、この話は善悪が変わってくる。この世に絶対的な正義などないのだと、胃が重くなるような真実。『正義』を信じた男がどのような末路を辿ったか知ってしまった今となっては、軽々に一方に肩入れすることはできそうにない。

 

「時臣めが見せた唯一の見所よな。奴が我に見せた忠義に偽りはなかったが、それはサーヴァントとしての我に向けたものではなかった。存外に優れた腹芸よ、我としたことがしてやられたわ」

 

 サーヴァントは、一種の英霊のコピーという話を思い出す。当のアーチャー自身が、現代の概念でいえばある種クローンにも近いと語っていた。

 遠坂の父は、英雄王ギルガメッシュという人物を確かに王と仰いでいたのだろう。しかし、サーヴァントであるアーチャーは、敬意を向ける相手であっても切り捨てることに躊躇はなかった。ある意味、しっぺ返しを受けた形とも言えるが……。

 

「あれ? 遠坂の父さんと協力してたってことは、言峰は聖杯戦争の裏側も知ってたはずだよな。だったらマスターを言峰に変えたところで、最後には令呪で退場させられて、聖杯の燃料にされるだけなんじゃないのか」

 

「たわけ。凡百の英霊どもならまだしも、この我を令呪ごときで縛れるものか。

 まあそれはよい。綺礼めには、元々聖杯を使おうという意志はなかった。奴が時臣に刃を向けたのは──いや、それは我が語るべきものではない。どの道、貴様と言峰は相容れぬ関係だ。あとは奴の口から聞くがよい」

 

 聖杯を使おうという意志がない……? だから言峰は、師事していた遠坂の父に力を貸し、自分のサーヴァントであったアサシンを特攻させるという命令にも諾々と従ったのか。自分が聖杯を手に入れることではなく、遠坂時臣を掩護することが目的だったから。

 それが、どこかで覆った。アーチャーの口ぶりでは、言峰の目的は根源への到達ではない。そうであるならアーチャーも含めた七騎全てのサーヴァントを燃料として焚べる必要があると聞いているし、遠坂時臣と条件が変わらないのならこの男も手を貸しはしまい。

 願望機に託す悲願……あの神父は、それを持っているというのか。だが、聖杯は汚染されていて十全な機能を発揮しないはず──俺の疑問をよそに、ギルガメッシュは話を続けていく。

 

「ここからの展開は早かった。我は征服王の挑戦を退け、その間に騎士王は狂犬めを打倒した。最後に残ったのは、我とセイバー。そして、言峰と貴様の養父だったわけだが──」

 

 ふん、と忌々しそうに鼻を鳴らすアーチャー。いよいよ前回の聖杯戦争の最終盤が見えてきたが、何か不愉快な記憶でもあったのだろうか。

 

「ここに至るまで、我と衛宮切嗣との接点はなかった。だが、最後に言峰を討ち果たしたヤツは、事もあろうに王たる我の婚儀を邪魔立てしおったのだ」

 

 …………はい?

 まるで理解不能な単語が聞こえた。今って確か、聖杯戦争の最終決戦の話をしているんじゃなかったか。

 

「悪い。婚儀って何の話だ? 誰と誰が? なんで?」

 

「我とセイバーに決まっておるだろう。アレの在り方は、前回の聖杯戦争を通して見定めた。あの儚くも眩しい輝きを愛でてやれるのは、天上天下に我ただ一人──故に、我のものとする。そこに何の不思議がある?」

 

 頭を抱える。当たり前のように語っているギルガメッシュだが、その中身は不思議しかない……価値観があまりにも違いすぎる。

 この男は常人の理解を超えた英霊だと思っていたが、もうこれはそんなレベルの話ではない。自分の感性を一ミリも疑っていないところがどうしようもないし、天才とナントカは紙一重というのはこのことか。

 見なくてもだいたい想像できる。パワハラとかセクハラとかいう表現が生温いようなやり方で、この男はセイバーに迫ったのだろう。敵対する相手がいきなり求婚してくるとか頭がおかしいとしか思えないし、前回の記憶を持つセイバーがアーチャーを見た時に激しく敵意を向け、警戒を解かなかった理由が今ようやく分かった。

 

「あの雑種めは、令呪によってセイバーに聖杯の器の破壊を命じた。おかげでその真下にいた我は、その中身を浴びる羽目になったのだ」

 

「聖杯の中身って……『この世全ての悪(アンリ・マユ)』ってヤツか? そんなの浴びたら──」

 

「呑まれる、か? ──下らぬ。呪詛ごときで我を染めようなど片腹痛いわ。

 愚かにも我を取り込もうと試み、王の威光に恐れをなした聖杯は、我を外界へと弾き出したのだ。霊体のサーヴァントではなく、生身の肉を持つ存在としてな。我が受肉しているのはそういうカラクリだ」

 

 先ほどとはまた違った形で、途方も無い発言が飛び出してきた。

 悪意と呪詛の塊と化した聖杯が、どれほど驚異的な存在なのかは身を以て知っている。その端末である黒い影に取り込まれたセイバーやバーサーカーは、名のある大英雄だというのに元の姿からは考えられないほど変わり果ててしまった。

 『この世全ての悪(アンリ・マユ)』ですら恐怖し、取り込むことも汚染することさえも叶わぬ存在とは一体何者か。英雄王とはどれだけ埒外な英霊なのか、唖然とする他はない。

 

「……それでも変だな。アンタが霊体じゃない理由は分かったけど、それならどうして俺に喚び出されたんだ? サーヴァントのシステム上、二人目のギルガメッシュが召喚されるならまだ分かるけど、現世に残りっぱなしだったアンタが飛んでくるのはおかしな話じゃないか」

 

 そこがずっと引っかかっていた。

 英霊の座から聖杯の力で喚び出されたモノがサーヴァントだ。ということはつまり、マスターがサーヴァントを召喚する際は、毎回英霊の座へアクセスしていることになる。その原理上、現世に留まっているサーヴァントが出てくることなどありえないはずだ。アクセスする先が、根っこから違ってしまっている。

 そう指摘すると、ギルガメッシュの眉根に皺が寄った。この規格外の頭脳をしても憶測を導くのが限度なのか、アーチャーはやや歯切れの悪い口調で言葉を続ける。

 

「……おそらくだが、聖杯の召喚機能には狂いが生じている。貴様は本来、別のサーヴァントを召喚するはずだった。しかし、それは既に召喚済だったか、何らかの事情で叶わなかった。

 その場合、本来であれば他の英霊が喚び出される。ところが聖杯は、通常の手順で英霊の座を参照するのではなく、現世に残留したままのサーヴァントを発見し、これを宛てがおうと考えたのだ。

 受肉したとはいえ、我と聖杯の間には繋がりがある。問題はなかろうと捨て置いていたものだが、その隙を突かれたと見える。気づいた時には、あの黒い穴がこの体を飲み込んでおったわ」

 

 『この世全ての悪(アンリ・マユ)』の影響で、聖杯がおかしくなっているというのは散々出た話だ。基本機能にバグのようなものが発生していたとしても、そこに何ら不思議はない。

 

「聖杯に一度回収された我だが、王を呼びつけようなぞ不敬にも程がある。誅伐代わりに内側から吹き飛ばしてくれようと抗ったが、その前に貴様の元へ放り出されてな。この身は本来忘却のできぬ体だが、記憶が飛んでいたのはその時の影響であろうよ。

 喜べよ雑種。凡百の英霊であれば、回収された時点でアレに溶かされるか染められていた。記憶を持つ本来の我であれば、貴様など初手で切り捨てておったかもしれん。ここに至った展開はまさに驚天動地、万に一つの幸運よ──運を使い果たしたな、雑種」

 

 ふはは、と笑うギルガメッシュ。俺はといえば、乾いた笑いを浮かべるしかない。今まで散々危ない橋を渡ってきた自覚はあるが、よりによって一番最初に渡った橋が、最大級の危険性を秘めていたのだ。

 聖杯の悪性さえ物ともしない英雄王を、かつ記憶を持たないニュートラルな状態で召喚できたから、俺はあの夜を生きて切り抜けられたのだ。そもそも召喚などできなかったかもしれないし、出てきたサーヴァントに殺されていた可能性もある。そんなに運のいい自覚はなかったが、この男の言うとおり、一生分の幸運をそこに注ぎ込んでしまったのかもしれない。

 なんともいえない気持ちになるが、結果的にこうして命を繋いでいるのだから、感謝するべきなのだろう。謎も解けたことだしこれでいいのだと自分を納得させ、次の疑問点へ移る。

 

「とりあえず、アンタがとんでもない英雄だっていうのは分かった。でも、元のマスターの方はどうなったんだ? そもそも、さっき言峰は切嗣に倒されたって言ってなかったか?」

 

「ああ、ヤツとの契約なら聖杯に呼びつけられた時に消えている。故に、ヤツが今何をしているのかは我の知るところではない。

 言峰のことだ、今も謀略に精を出しているのだろうが……十年前の戦いの後、我が見つけた時は散々な有様でな。心臓を撃たれて瓦礫の底に埋まっておった。掘り出してやるのは手間であったぞ」

 

「心臓を……? なら、なんで今もあいつは生きてるんだ? さっきみたいな薬で、アンタが助けてやったのか?」

 

「いや。我が蘇生させるでもなく、奴は勝手に蘇った──いや、生きているというのは語弊があるな。言峰は()()()()()()()()()()

 アレが今も動いているのは、聖杯の恩寵によるものだ。当時繋がっていた我との経路を通じて、我が浴びた聖杯の中身と直接繋がったのだろうよ」

 

 ……それが、十年前の聖杯戦争の結末だった。

 衛宮切嗣は聖杯を破壊し、セイバーはその影響で消滅。言峰綺礼は半死人となり、アーチャーは稀人から現世の存在となった。

 強いて言えば、サーヴァントとマスターが揃って生き延びた言峰とアーチャー組が勝者と言えるかもしれないが、聖杯を手に入れることができたわけではない。こうして、第四次聖杯戦争は勝者のないまま終結──待てよ。

 

「ちょっと待て。あの大火災は、どうして起きたんだ」

 

「ああ、アレは聖杯の中身が零れ落ちたものだ。聖杯が『門』を開くモノであることは知っていよう? 五騎のサーヴァントが脱落した時点で、聖杯の機能は起動し始めていた。

 セイバーが器を壊した影響で中断させられたようだが、『門』から中身の一部は漏れ、それが街を焼き払った。しかし──あの程度の呪いで五百も死に絶えるなど、今の人間は弱すぎるな」

 

 平然と嘯くギルガメッシュ。しかし、聞かされた俺は平然となどしていられない。

 ほんの余波、一部が溢れただけであの有様。完全に儀式が成立していたら、冬木市が消えるどころの話じゃない。日本全体が、最悪の場合は世界中が滅んでいたかもしれない。世界大戦どころか、一夜にして世界が終わってしまう。

 切嗣が聖杯を破壊する決断を下したのは正解だ。聖杯の中に何が潜んでいるかを知り、それでも聖杯を使おうとする人間など正気ではない。こんな大量破壊兵器、とっとと始末してしまうに限る。

 

「なんてことだ……。臓硯も言峰も、それを知ってるくせに聖杯を使おうとしているのか」

 

「さて……今にして思えば、言峰は聖杯を使っていたのやもしれぬ。ヤツは前回の最後、聖杯に最も近づいた男だった。あの時点で、聖杯は願いの先約程度なら受け付けるのではないかと読んでいたが……その一部があの大火だったのかもしれんな」

 

 言峰の願いの結果が、あの大火災──。憶測に過ぎないが、恐ろしいことに、もしそうだとするならば筋が通ってしまう。

 聖杯は悪意によって汚染され、歪んだ形でしか願いを叶えないモノと成り果てた。そんなもの、普通の人間にとっては呪いの壺と変わらない。しかし、聖杯に託す願いが、悪意を元にしたものであるならどうか。大量破壊兵器としての用途であれば、こんなに恐ろしいものはない。この世全てを呪い尽くす悪性呪詛など、核兵器さえ比較にならないほどの脅威だ。

 言峰は、十年前にその威力を知っていた。にも関わらず、あの男は聖杯を求めている。街を焼いた大殺戮こそヤツが望んでいたもので、その悪意の具現化を、今度こそ完全な形で目論んでいるとすれば──そんな存在は、捨て置いていいはずがない。

 理不尽な力による大量虐殺。それを為そうとする者は、衛宮士郎にとって断じて許せない『敵』だ。切嗣がヤツの仇敵だったというのも当然の話だ……俺の知る切嗣であっても、十年前聖杯を求めた『正義の味方』であっても、言峰綺礼という男は必ず退けなければならない敵だっただろう。

 

「言峰の狙いは分かった。けど、臓硯はどうなんだ。あいつらに従ってるセイバーは……」

 

「フン。魔術師どもの目的は最初から一つだ。我は臓硯とやらを知らぬが、聖杯を作り上げた往時の志を捨てずにいるのであれば、奴らの狙いは根源への到達──即ち、世界の外側だ。少なくとも、時臣はそれを目論んでいた。

 外側に出てしまえば、内側が呪いの海と成り果てようが知ったことではあるまい。何を犠牲にしても根源とやらを目指すのが、魔術師どもの習性だ」

 

「……そうか。そりゃ分かりやすい。内側を壊すことが目的の言峰と、外側に出ることが目的の臓硯。こいつらが手を組んだ理由は、利害の一致か」

 

 二人がどこから手を結んでいたのかは知らない。だが、聖杯戦争の仕組みを敷いた御三家と、それを監督する神父が手を結んでいたなど趣味の悪い出来レースだ。これが表沙汰になれば、魔術協会も聖堂教会も黙ってはいまい。

 連中が公然と動き出したのは、最終目的である聖杯の起動に王手がかかったからか。最後のサーヴァントであるギルガメッシュさえ倒せば奴らの障害はなくなり、その果てにどのような惨事が待っているかなど想像さえできない──もしかすると、俺たちの双肩に世界の行く末がかかっているのか。あまりに途方も無い話に、まったく実感が湧いてこない。

 しかし、令呪の縛りがあるとはいえ、あの誇り高く正義感の強かったセイバーがそのような悪漢に手を貸すことを良しとするだろうか。あるいはその矜持さえ、『この世全ての悪(アンリ・マユ)』に汚染されてしまったのか──。

 

「セイバーが何を考えているのかは知らぬ。新たな主に忠を尽くすことを選んだのか、聖杯に毒され戦うだけのモノと成り果てたのか──それとも、聖杯への執着を未だ捨てきれぬのか。

 どの道、今の騎士王は貴様の敵だ。慈悲など不要、倒さねば命を落とすのは貴様だけではないぞ」

 

 その言葉が、俺の思考に冷水となって降り掛かった。

 アーチャーの言うとおり、セイバーを退けなければ言峰や臓硯には届かない。汚染された聖杯がどのように使われ、どのような惨禍を撒き散らすか予想さえできない以上、かつての仲間を慮っている余裕はない。どれだけ楽観視しても、連中が最終的に聖杯を使用した場合、その余波が前回の最後に起きた大火災を下回ることなどありえないだろう。

 

「──さて、このあたりでよかろう。結論から言えば、此度の戦は十年前……いや、それ以前からの歪みの集大成というわけだ。十年しか間が開いておらぬのは、前回の終盤でほとんど儀式が成功しかけていたからだろうな。

 戦うべき敵を理解したか、小僧。であれば、戦備を整えておくがいい。古来より戦の正着とは、始まる前に見えているものだ」

 

 喋りながら器用に食事を済ませていたギルガメッシュが、淡々とそう締めくくる。

 敵の狙いは分かった。十年前、何が起こっていたのかも知った。どれほど難易度が高かろうと、今俺が進むべき道は一つだけ。第四次聖杯戦争の裏側に、俺の決断を変える要素はなかった。

 変わったのは、悪意を持った敵と聖杯を、なんとしても撃破しなければならないという決意の強さ。決戦までの時間は残り半日、それまでに戦略を練っておかなければ──。

 

 

***

 

 

「そういえば、なんで料理なんかできたんだ? アンタ、料理人に作って持って来させる側の人間だろ?」

 

「…………貴様もあのマーボーとやらを食ってみるがいい。言峰のあれで原典より落ちるというのだから恐れ入る。あんなものを食らうぐらいであれば、王自ら調理する方がマシだ」

 

 

***

 

 

「──これはこれは。随分と手酷くやられたものだな、アーチャー」

 

 深山町の外れにある山寺、柳洞寺。

 懇意にしている檀家も多く、寺自体の関係者もかなりの人数に登る由緒正しい寺社であるが──古来より優れた霊地であるこの場所の地下に、巨大な洞穴が広がっている事実を知る者はほとんどいない。

 それを知る数少ない人物が、聖杯戦争の監督役を務める言峰綺礼である。この、知る人ぞ知る秘境で羽を休めていた神父は、暗がりから現れた己がサーヴァントの姿を認めると、無感情に唇を吊り上げてみせた。

 

「……さすがは音に聞こえた英雄王だ。この首が繋がっているだけ、僥倖と言えるだろうな」

 

 主に飄々と答えるのは、激闘から今しがた帰還した赤い弓兵。しかしながら、満身創痍の身とあっては、声に覇気が宿るはずもなかった。

 右手と左足は骨折。腹部には深い刃傷が残り、全身に走る裂傷は数知れず。魔力の消耗は、現界に影響が出る一歩手前の状況。ボロボロというしかない、傷だらけの姿である。

 アーチャーが投影できる宝具の中には、治癒能力を発揮するものも存在する。しかしそれを使用したところで、セイバーのように高度な自己再生能力を持たない弓兵は、完全回復まで時間を要する状態だ。

 マスターに返事をすると、アーチャーは彼が腰掛ける平坦な岩から視線を外し、そのずっと奥──洞穴の最奥に位置する、巨大な構造体を注視する。それが巨大な魔法陣から赤い光を放っているおかげで、仄暗くはあるものの、この空間はそれなりの視界を確保できている。この尋常ならざるオブジェクトの正体こそが、聖杯戦争を司る、超抜級の魔術炉心。即ち、大聖杯と呼ばれるモノだった。

 

「それで、そちらの首尾はどうかね。私が戦っている間、『聖杯の器』とやらを確保していたのだろう?」

 

「ふむ──少々手こずらされたが、君がギルガメッシュを誘い出してくれたおかげで上手く事が運んだ。正規も予備も、双方が私たちの手中にある」

 

 陽動作戦は成功だと語る言峰に、当事者でありながら無表情を貫くアーチャー。実のところ、彼はこの後何を目的として聖杯戦争を戦えばいいのか、少々決めあぐねていた。

 彼が目的としていた、過去の自分との対峙。未熟な半端者が相手だったにも関わらず、先の戦いはアーチャー自身が敗北を悟っていた。英雄王という力を呼び込む一手を繋ぎきった衛宮士郎は、戦略に於いてアーチャーを凌駕した。物理的に彼を打ち倒そうと、戦上手を自認する弓兵にとっては本来の領分で遅れを取ったことになる。

 そればかりか、あの男は全てを救おうという道を選んだアーチャーにはならないと言い切った。今の自分に繋がる存在を自分自身の手で始末することがアーチャーの目的だったというのに、あの衛宮士郎は違う道を歩き始めている。これを喜ぶべきか悲しむべきか、アーチャーには判断がつかなかったが、これ以上あの自分と戦うことに意味はないという確信はあった。

 では本来の領分に戻り、マスターに忠を尽くすかというと、これもまた肯んじかねるところがある。生前幾度となく裏切りを受けたアーチャーは、きな臭い雰囲気に鼻が利く。その彼の嗅覚が、どうも好ましくないものを感じ取っているのだ。

 だいたい、言峰が手を組んでいるという間桐臓硯なる人物を自分は詳しく知らぬし、彼が使役しているというあの『影』は何なのか。先だっての戦場で突如現れたバーサーカーにしろ、尋常な様相ではあり得なかった。いかにあの英雄王が脅威であるとはいえ、彼らが用いようとしている手段は、おそらくはダーティと呼ぶことさえ憚られる。今は情報が足りないが、場合によっては『守護者』の端くれとして、このマスターたちを相手に戦う展開さえアーチャーは選択肢に入れていた。

 

「せっかくだ。確保してきた『聖杯の器』、君も一目見たいとは思わないかね」

 

 唐突に、思いついたように言峰がそんな提案をしてくる。虚を突かれたアーチャーはしばし黙るが、肩を竦めてそれに答える。

 

「噂の願望機というものか。生憎だが、私は聖杯に託す願いとやらを持たない身だ」

 

「そうかね。暇潰しぐらいにはなりそうなモノだが──どの道、決戦は夜になる。それまで、穴蔵でただ身を潜めているのも息が詰まるだろう」

 

 現時点では何の効果も発揮しないという聖杯の器。アーチャーとしては、その出処が衛宮邸というのが気にかかるものの、中身についてはさしたる興味がなかった。だがマスターの言うとおり、ただ傷を癒やすために夜まで控えているというのも芸がない。

 

「ふむ……では、万能の釜というものを拝ませてもらうとしようか。マスター、君が持っているのかね?」

 

「いや、アレは少々嵩張るのでね。物はあちらに転がしてある、好きに見てくるといい。退屈はしないだろう」

 

 言峰が顎でしゃくってみせた方向には、ちょうど長方形の台座になっているような岩がある。角度と光陰の関係上ここからは見えないが、その上に噂の願望機とやらが鎮座しているのだろうか。

 英霊とはいえ、話題に上がれば気になってくるのが人情というもの。折れたままの足で動くのは億劫なため、霊体化してそちらの方に向かうアーチャーだったが、その後ろで薄っすらと笑っている言峰に気づくことはなかった。

 言峰からすれば、これはささやかなサプライズのつもりだった。器といえば、普通は無機物を思い浮かべる。よもやそれがあんなモノとは、想像ができる方がおかしい。予想外の展開を目の当たりにしたサーヴァントを見て、反応を愉しもうという心積もりだったが……些細な邪心がこの英霊との間にどのような化学反応を引き起こすか、アーチャーのパーソナリティを知らぬ言峰には、さすがに想像できる範囲を超えていた。

 

「どれ、聖杯の器とやらを……な、に──!?」

 

 如何なる効能なのか、大聖杯のものとはまた異なる魔法陣が敷かれた台座。その上で実体化したアーチャーだったが、眼下にあるものを見て、束の間思考が真っ白になった。

 そこにあったのは、器物などではなかった。台座に横たわり、意識を失っているのは二人の少女──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと、間桐桜。その双方に生前見覚えがあることに気づいたアーチャーは、雷に打たれたように硬直してしまっていた。

 

「ただの『物』では破損する。故に、アインツベルンは器そのものに人格を持たせたというわけだ。所詮は使い捨てだというのに贅沢なことだ。

 もう一方は、間桐が作り上げた器だな。機能としては当然正規品の方が上だが、此度の戦で主となっているのは間桐の器の方らしい」

 

 絶句するアーチャーの反応がないことを訝しんだ言峰が、遠くからそう声をかけてくる。愕然としている弓兵は、その言葉の意味を理解するまで、暫しの時を必要とした。

 彼には聖杯から与えられた知識と、生前の僅かな断片を覗いて、聖杯戦争にまつわる知識はない。しかし、生前魔術師だった彼は、魔道に関する一定程度の知識を持つ。英霊の魂を集めて行われるという大儀式、その受け皿となる器が生体というのは、どう考えても消耗品だ。つまり、聖杯戦争が終結を迎える時、この少女たちの生命はない。

 魔術とは元より命を対価とするもの。その程度の前提は、アーチャーとて理解している。だが、今目の前に横たわっている二人は、摩耗しきった記憶の中でもまだ残っているくらい、彼にとっては特別な存在だった。

 

 姉を名乗る、雪のような少女。

 家族も同然の存在だった後輩。

 

 その二人が、聖杯の器であり、犠牲を前提とした存在──。事実を咀嚼できないアーチャーが固まっていると、紫がかった髪を持つ少女が、ぴくり、と身動ぎする。

 

「っ、あ────せん、ぱい?」

 

 今度こそ、男の顔が蒼白になった。

 幽霊を見たような顔で、一歩後ろに下がるアーチャー。ぼぅっとした様子の少女は、光のない瞳を足音に向けるが、その焦点は合っていなかった。意識が朦朧としているのか、あるいは目が見えていない状態なのだろう。

 

「ごめんなさい──わたし、よく分からないんですけど……怖い人に、捕まってしまって……」

 

「ッ……オレ、は……」

 

 違う、と口にしようとする。自分は君が知っている衛宮士郎ではない別人だ。ただのサーヴァントで、君を拉致した人間に与する、悪党に過ぎないのだと──。

 

「でも、助けに来てくれたんですね。先輩は、すごいな……。いつも迷惑ばかりかけてしまって、ごめんなさい」

 

 続く言葉が、アーチャーの口を封じた。明らかに、この少女は目が見えていない。そればかりか、熱に浮かされたような様子で途切れ途切れに言葉を発する様子は、尋常ではなく体調に問題があることを物語っている。意識とて、きちんと保てているかどうか怪しい。

 にも関わらず、妄想でも幻覚でもなく、間桐桜という少女は今ここに立っている人間が衛宮士郎だと確信していた。なまじ視界が定まっていないから、本能的に本質を見抜いてしまったのか。

 

「すみません。なんだか、目がよく見えなくて……ここがどこなのかも、正直分かっていないんです。今の私が、どんな状態なのかも……。

 もし私が、どうしようもなくなってしまっていたら、いっそのこと……って、こう言うとまた怒られちゃいますよね。こんな時どうすればいいのか、教えてもらったばかりなのに……」

 

 力なく微笑む少女の姿に、摩耗したはずの記憶が蘇る。生前、この少女とはどのような出会いをし、どのような別れ方をしたのか、もうアーチャーが思い出すことは叶わない。

 ただ、それでも。あの土蔵で、困ったように自分のことを起こしてくれて。朝に夜にと、競い合うように料理を作って。何気ない話で笑いあった、あの儚くも尊い時間だけは──。

 

「──先輩。私のこと、助けてくれますか?」

 

 その問いかけに。男の中で、ガキン、と撃鉄が起こされた。

 

「──わかった。待ってろ、桜。すぐに終わらせて、助けてやるから」

 

 『衛宮士郎』の言葉に、安心したように微笑む桜。それで限界だったのか、再び少女は意識を失い──無意識の内に膝を落としていたアーチャーは、ゆらり、と幽鬼のように立ち上がる。

 無言のまま、その両手に双剣が現れる。何をするべきかを完全に見失っていた彼を、かつての後輩の頼みがあるべき場所へと引き戻した。守護者としてでもサーヴァントとしてでもなく、衛宮士郎である彼に伸ばされた、救いを求める手。どれだけ摩耗しようと、どれだけ絶望しようと、それでも遠い日の記憶を捨てられない彼に、後輩を助けない選択肢などありはしなかった。

 桜もイリヤスフィールも、言峰綺礼と得体の知れぬ間桐臓硯は諸共に聖杯戦争の供物とする心算だ。彼らは既に敵、となれば先手を打って駆逐する他ない。裏切り者と謗られようが、人類への脅威である黒い影を利用し、明らかな外法で英霊の尊厳を踏み躙り、あまつさえこの少女たちを犠牲にしようとする奴儕に手を貸す理由は残されていない。

 こちらに興味を失ったのか、言峰綺礼は明後日の方向を向いている。サーヴァントの身体能力を以てすれば、一撃の奇襲でケリをつけるなど造作もない。如何に相手が歴戦の代行者であれ、戦闘兵器たるサーヴァントと比較すれば、生物としての限界が存在する。

 懸念事項としては、『サーヴァント契約の破棄に類する行為の禁止』という令呪の縛りが痛い。これがなければ、アーチャーは魔術契約を破棄する宝具(ルールブレイカー)を用い、一度場を退いて状況を整える選択肢を生み出せた。それが叶わぬ以上、速攻の不意打ちで決着をつけるしかなくなってくる。それとて令呪の禁則事項の範囲内ではあるが、抽象的な文言のせいか、主への攻撃にかかる抵抗は無視できる範囲だ。追加令呪を使われる前に首を断てば問題はない。

 片腕が折れている状況では、弓を用いた狙撃は不可能。だが、剣さえあれば十分。無事な片足で踏み込み、音速を超えた速度で突貫すれば、何が起きたかを把握されるより先に事は済む──

 

 

「──呵々々々々。これ、綺礼よ。飼い犬の躾がなっておらぬではないか」

 

 

 鏃となってアーチャーが飛び出した、まさにその瞬間。真っ黒な影が、彼の体を覆い尽くした。

 驚愕する弓兵が気づいた時には、彼の体はその過半が悪性の底なし沼に沈んでいる最中。前兆すら感じさせない急襲は、最初からこの空間全体に影が潜んでいた結果だと、遅まきながら真相に気づく。

 辛うじて自由の効く首を動かせば、いつの間にか洞穴に現れていたのは、背の曲がったひ弱そうな老人。邪悪な腐臭を漂わせるあの翁こそが間桐臓硯であり、この場にいないという前提そのものが間違いだったのだと、アーチャーは致命的な錯誤に歯噛みする。

 

「く、そ────悪い、桜……」

 

 ずぶずぶと、弓兵の姿が沈んでいく。最後に小さく謝罪の言葉を残したアーチャーは、幾多の英霊を呑み干した黒い影に吸い込まれ、ついに見えなくなってしまう。それは人理の守護者の幕切れとしては、あまりにも呆気ないものだった。

 ゆらゆらと洞穴を彷徨う、英霊を飲み込む恐るべき怪魔。それが勇気を振り絞り、助けを求めた桜を通じて顕現したものだというのは、皮肉にも程がある展開だろう。

 

「……よもや、この局面でアーチャーが裏切るとは。これはさすがに、私の予測を外れていた」

 

 ただ座して事態の推移を見守っていた言峰は、ここに来てようやく口を開く。淡々とした口調だが、彼は内心、この反逆を心底不思議に思っていた。これまでの経緯を振り返っても、自分とアーチャーは、そう悪くはない主従関係を築いていたはずだが……。

 首を捻る神父だが、彼の知識から正解が導き出せないのは当然だった。まさかあの英霊が衛宮士郎の成れの果てであり、間桐桜とイリヤスフィールの双方を知人としていたことなど、予測できる方がどうかしている。その二人を犠牲にするという示唆が、助けを求めた後輩が──ひいては、その決断を促すに至った自分自身(衛宮士郎)の声こそが反逆を決断する契機となったことなど、それこそ神でもなければ知り得ぬ話だった。

 

「なに、儂からすればお主とアーチャーが手を組んでいる方が腑に落ちぬ。腐れた悪党のお主と違って、アレは善なる側の英霊だ。何が呼び水となったかは知らぬが、いずれこうなるのは自明だったの」

 

「なるほど。同類にされるのは不名誉だが、私の何かが彼とは相容れなかったか。理解に苦しむが、実際に牙を向けられた以上は事実を受け入れるしかなかろうな。

 ……だが、ここに来てアーチャーの脱落は痛い。ギルガメッシュを相手に、セイバー一騎では荷が勝ちすぎるだろう」

 

 サーヴァントに裏切られたばかりだというのに、言峰の冷静さは崩れない。驚きはあったが、ギルガメッシュに対して用いる武力という以外に、彼がアーチャーに求める役割は残っていなかった。

 残る意義が薄いのであれば、拘泥する理由もない。元よりサーヴァントを駒として割り切っている言峰は、もう済んだことだと早々に意識を切り替え、次の手を模索する段階に移行している。裏切ったという事実はただの事実に過ぎず、その動機を深く掘り下げるだけの意義を、言峰は有してはいなかったのだ。

 

「アーチャーは既に影の中よ。やや時を要するが、マスターを桜に替え、セイバーと同様に用いればよい。戦端が開くまでに間に合うかは五分というところじゃが、今宵の内には間に合おう」

 

 臓硯の言葉を聞いて、言峰の脳裏に幾つかのプランが描かれていく。当初予定していた、前衛のセイバーと後衛のアーチャーという布陣、切り札の黒い影の三段構えでギルガメッシュを制するという戦略は裏切りによって崩壊した。弓兵を黒い影に取り込んだ現状、セイバーと同じように汚染した上で令呪を行使し、再使役するという臓硯の案は理に適ってはいるが……ギルガメッシュの襲来までに間に合わないのであれば、結局最初のプランは使えない。

 

「しかし、相手はあのギルガメッシュだ。戦力を逐次投入しては、各個撃破の憂き目に合う。セイバーとアーチャー、双方が敗れれば……」

 

「ほれ、それこそ好都合であろう。英雄王がどう動くか、賭けの要素は残っておるが──その時には、七騎全ての魂が焚べられておるではないか」

 

 滴るような笑みを浮かべる臓硯。彼の指摘に、言峰は意表を突かれる思いだった。

 今回の聖杯戦争を儀式として成就させるためには、ギルガメッシュの撃破は必須事項ではないのだ。七騎のサーヴァントという頭数さえ揃っていれば、聖杯を動かすには事足りる。

 実を言えば、このまま影に取り込んだアーチャーを吸収・分解し、残るセイバーを自害させれば、英雄王という存在を蚊帳の外に置いたまま儀式は完成してしまう。ところが、セイバーは最初に取り込んだサーヴァントであるせいか、汚染に成功し指示を聞いてこそいるものの、令呪の命令系統を構築することには失敗しているのだ。令呪なしに自害など命じようものなら、聖杯を求めている彼女は即座に叛逆してくるだろう。

 故に、彼らの目的のために最も手っ取り早い手段は使えない。次善の策はギルガメッシュを撃破し、残るセイバーかアーチャーの最低一人の魂を用いること。セイバーはともかくアーチャーに関しては、黒い影によって幾人かサーヴァントを吸収したノウハウがあるため、令呪による命令系統を再構築し──それによって自害を命じることも可能だ。

 つまり。ギルガメッシュを撃破すれば、その時点でセイバーとアーチャーの二騎がどうであろうとこちらの勝利。撃破することが叶わずとも、セイバーとアーチャーの双方が脱落すれば聖杯は動き出す。無論、英雄王の侵攻速度が常軌を逸して速く、聖杯が起動するまでのタイムラグを突かれ何もかも吹き飛ばされる懸念はあるが──サーヴァント戦で勝とうが負けようが、おおよそどのルートにおいても、言峰と臓硯の戦略目標は達成される目論見だった。

 

「アーチャーの調整が間に合えば、二騎でもって英雄王を迎え撃てば良い。間に合わぬのであれば、セイバーと英雄王を潰し合わせ、後からアーチャーをぶつければ良い。彼の王が全てを打ち倒したとしても、なに、その時には時間切れよ──どの道、我らの勝利は決まっておる」

 

 呵々、と悪意の宿る哄笑が響く。五百年を生きた老翁は、己が野望が成就する未来を確信し、ただひたすらに嗤っていた。

 

 ──何のために聖杯を求めたのか、その理由を忘れたまま。

 




次話は1月6日(水)の0時投稿予定です。

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