【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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35.決戦の地

 ──ノイズが走る。

 

 過去が消える。記憶が消える。目的が消える。理念が消える。黒い泥が、何もかもを飲み込んでいく。

 痛みを感じる。怒りを感じる。怨念を感じる。呪詛を感じる。黒い影が、何もかもを上書きしていく。

 

 それは罪であり、それは悪であり、それは呪であった。抗いようのない力に、エ■■シ■ウという存在が塗り潰されていく。

 人格が腐る。自我が溶ける。呪え、殺せ、償え、死ねという負の衝動が渦を巻く。いつまでも、終わりなく、ぐるぐると。

 

 この世全ての悪(アンリ・マユ)。人類全てを覆い尽くす呪いの前には、英霊であろうと魂が保たない。神話の豪傑たるヘラクレスも、伝説の王者たるアーサー王も、霊基が歪められ汚染され、元の在り方を見失った。彼らほどの大英雄でさえそうなのだ、無銘の英霊ごときが耐えうる道理がない。

 弓兵(アーチャー)として召喚されたサーヴァントは、そうして何もかもを失った。正当な英霊ではない彼は、この極大呪詛へも一定の耐性を有していたが、限度というものがある。圧倒的な呪いの力に、己の中身さえ黒く染められた男は、真実無銘の英霊となったのだ。

 

『──ここに来るサーヴァントを殺せ』

 

 黒化した男には、悲願も目標もない。奴隷(サーヴァント)として命令を実行し、際限なく溢れ出る負の力をぶつけるのみ。

 視界は生きている。下半身のみを鎧で覆った黄金の英霊、殺せと命じられた相手は見えている。

 しかし、男の目は完全に死んでいた。先ほど通した少年のことさえ、もう彼は正しく認識できていない。あの少年はサーヴァントではない、つまり殺す対象ではないと判断したから手を出さなかっただけ。その行動規則は、人形というより機械のそれだ。

 理想も思想も、無心の執行者にはもはや残されていない。純粋な暴力装置が持つのは、戦うための技術だけ。呪いの果てに堕ちきっても、かつての戦闘能力は十全に発揮できる。

 嗤う鉄心──聖杯によって押し付けられた呪い、精神汚染の一種。自らの意思では彼の霊基を解体できなかったこの世全ての悪(アンリ・マユ)は、聖杯戦争を速やかに完遂させて自身を()()させるべく、『サーヴァントとして戦え』という絶対命令を彼へ押し付けた。ここまで霊基を歪められ、反転を通り越して損壊している彼は、この技能(スキル)によって元の力を維持しているのだ。

 

「無様よな。理念も執念も、己さえ見失ったか。セイバーはまだ自我を残していたが、貴様はもはや見るに堪えぬ。所詮は贋作者(フェイカー)、魂まで偽物に堕ちたか」

 

 敵が何かを言っている。あの敵は何者か、その答えを男は承知していた。

 ギルガメッシュ。人類最古にして最強の英雄王。もうどこで出会ったのかも思い出せないが、その真名と能力は把握している。およそほとんどの英霊はまともに戦うことさえ叶うまいが、男の性能であれば戦う術はある。何も恐れる必要はない。

 

「──そうだな、英雄王。オレにはもう何もない。残ったものは、人殺しが得意という事実だけだ」

 

 嗤う。その機能だけは、まだ辛うじて残されていた。

 他にはもう何もない。戦う力以外に、残っているものを探す方が難しい。戦闘機械は、ただその役割のままに、命じられた敵と戦うだけ──。

 

『──先輩。私のこと、助けてくれますか?』

 

 剣を握ろうとした、その瞬間。何も見えない目で、自分を見上げる少女を思い出した。

 記憶が割れる。情報が壊れている。全体像は把握できない。容姿も朧気だ。名前すら、もはや思い出すことは叶わない。

 それでも。あの少女が、何か大切なものだったことは覚えている。呪いに侵されても、自分がなくなっても、それだけは守らなければならない。もう消え去ったはずの何かが、あの子を助けろと言っていた。

 どこにいるのか、どんな状態だったのか、細かいことは何もわからない。敵の名前は覚えているのに、どうしていちばん大事なものを覚えていないのか。怒りという感情の残滓が残っていたことに、微かな驚きを抱く。

 動けない。すぐ近くにいたはずだが、探しに行くことはできない。サーヴァントに対する命令が、聖杯の呪いが、この霊基を縛っている。あの英霊を打倒せねば、自分は動くことさえ儘ならない。戦い以外で可能なことといえば、この役立たずの体に刃を突き刺すぐらい……待て。

 

「英雄王。貴様は、あの……少女をどうするつもりだ」

 

 直感だった。このサーヴァントとあの少女には、何か関わりがあるのではないか。その誰何は、黄金の英霊に心当たりがあってほしいという懇願にも近い。

 知らないならばそれでいい。一刻も早く、敵をこの場で打倒するだけ。しかし、もし知っているのなら。彼女を救おうという意志があるのなら、その時は。

 

「……うん? ああ、聖杯の器どものことか。おかしなことよ、既に壊れた貴様が、壊れゆくモノを気にするとはな」

 

 知っていた。黄金の英霊が口にしているのは、間違いなくあの少女のことだ。男の祈りは、奇跡に似た形で叶えられ──。

 

()()()()()なら、殺してやるのが慈悲であろうに」

 

 ──酷薄な嘲笑に、木っ端微塵に砕かれた。

 

 感情が消える。胸にわずかに灯っていた、蝋燭の火が見えなくなる。

 代わって男の目に浮かんだのは、執念めいた敵意だった。死んでいたはずの瞳に力が宿る。命令されたからではなく、辛うじて残った自分の意志で、この男は戦うことを決断した。

 何もかも塗り潰された自分に、唯一残ったもの。あの少女を助けなければならないという強迫観念。ここで黄金のサーヴァントを通せば、その最後の願いさえ塵になると確信したが故だった。

 

「…………」

 

 無詠唱で干将・莫耶を投影。負担が少なく、魔力を通しやすく、一番手に馴染む武器。愛剣ともいえるこの二振りならば、どのような戦術にも対応できる。

 意識がクリアになる。ノイズがかかっていた思考が、急速に鮮明になっていく。戦えという呪いのせいか、少女を救うという誓いのせいか、剣を執った男は弓兵(アーチャー)のサーヴァントへと戻っていた。

 

「──ほう? どういうカラクリかは知らぬが、死に体が少しはマシになったか。セイバーを下した今、貴様は所詮()()()に過ぎぬわけだが……。

 よいぞ。歯向かうことを許す、贋作者(フェイカー)。その薄汚い手品で、精々我を興じさせるのだな」

 

 パチン、と指が鳴る。ギルガメッシュの周囲に現れる黄金の門、その数は十二。

 舐めている、と弓兵は嗤う。英雄王の代名詞たる宝具掃射、その火力を本気で向けられれば危ういが、たったこれだけでは何の脅威にもならない。リクエスト通り、手品を見せてやるとしよう。

 

 ──長剣、大斧、馬上槍、鎌、短刀。

 

 門から放たれる原初宝具。着弾するまでのコンマ数秒の間に、その全てを分析し終える。武具の解析と投影だけに特化した英霊にとっては、あまりに容易い作業。

 分析した情報を元に、()()()()()()()()を精製。二十七の魔術回路が唸りを上げ、アーチャーを取り巻くように十二本の武器が現れる。瞬きの間に複製、投影された贋作たちは、疾風のように飛ぶと親たる真作と激突する!

 

「無礼者めが──」

 

 射出した宝具、その尽くを偽物に迎撃されたギルガメッシュは舌打ちして目を細めた。

 アーチャーが複製した宝具は、どこまでも偽物に過ぎない。英雄王が保有する本物の財に、質では及ぶべくもない。しかし、同等の質量と近しい神秘を有するのであれば、迎撃に使うには十分すぎる。

 殺到する刃を撃ち落としたことで、アーチャーの身はフリーな状態だ。次の宝具が繰り出されるより早く、黒白の双剣が王に迫る──。

 

「ハッ。我へ刃を向けようとは、雑種風情が度し難い」

 

 刹那。弓兵の動きを読んでいたのか、ギルガメッシュは黄金の双剣を振り抜いた。怪魔を屠る神秘の剣同士が鍔競り合い、飛び散る火花越しに二騎のサーヴァントが睨み合う。

 だが、全力でのぶつかり合いは、次第に英雄王の優勢に傾いた。剣技であればアーチャーが圧倒するが、剣を振り抜こうとした時には、強烈な力で体勢が崩されている。身体能力で勝るギルガメッシュは、その優位を十全に理解しているのだ。単純に近づけば勝てるものでもないと、男が認識を改めた時。

 

「頭が高いわ、跪け!」

 

 咄嗟に飛び退いたアーチャーを掠めるように、空間を刃が蹂躙した。正面からの力押しに意識を誘導しておきながら、背後から死角を突く形での宝具射出。双剣で切り払い、身を守りながら、アーチャーは初歩的な罠に陥りかけたことを自嘲する。相手を油断させ、誘導し、罠に嵌めて始末するのは自分の戦術ではなかったか。

 対峙する英雄王に浮かぶのは嘲笑。あのサーヴァントは、恐るべき鑑識眼でアーチャーの性質を、ともすればその経験すらも見抜いている。今の攻防は彼にとっては遊び、アーチャーに対する()()()()だ。

 

 ──舐められているうちに攻め切らねば危うい。

 

 『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』による宝具射出は相殺できる。あの恐るべき面制圧能力が封じられれば、純粋な個人対個人の戦いとなる。身体能力ではギルガメッシュが上回るが、アーチャーはその差を容易に覆す技量を持つ。英雄王を相手に、正面きっての正規戦で対抗可能なのがこの無銘の英霊だ。

 そう。ギルガメッシュが()()()()()間に限っては。

 

投影(トレース)開始(オン)

 

 激突で刃こぼれしていた夫婦剣を破棄、再投影。頑丈さに定評のある愛剣だが、わずか一度の鍔競り合いで、その摩耗度は無視できない領域に到達していた。二合、三合は持つだろうが、それ以上砕けぬ確証はない。英雄王が振るう剣は、それほど古代の神秘を含有している。

 武器の精度では勝ち目がない。ならば勝てる土俵で勝負をするまで。慢心する絶対王者を、自分のフィールドに引きずり下ろす──!

 

「──I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 

 宝具が放たれる。その数は二十四、先ほどのちょうど二倍。視るだけで解析を終えた弓兵は、複製品を投影、鏡合わせのように撃ち放った。その光景は一度目の焼き直し、この程度の数であれば贋作者の投影は優に間に合う。

 金属音が響き、火花が舞い、衝撃が連続する。刃による舞踏会の中、意に介さず踏み込む黒い騎士。ギルガメッシュまでの距離を零にすると同時、双剣を鎧に叩き込む!

 

「ふん──」

 

 英雄王が取り出したのは、紅の魔剣だった。明らかに振り抜いた動きとは異なる挙動を見せた剣に、虚を突かれたアーチャーの剣が揺れる。攻守が瞬時に入れ替わり、蛇のような軌道で迫る剣を、陰陽剣が上から叩き落として受けに回る。

 『赤原猟犬(フルンディング)』。英文学最古の叙事詩の主人公、ベオウルフが愛用した魔剣。そして、以前の戦いでアーチャーが使用した剣。それらの原典にあたる宝具は、血の匂いを嗅ぎつけ、独自に最適な軌道を判断して斬撃を調整する能力を持つ。英雄王自身の剣技に依らない、剣そのものから繰り出される魔技に、弓兵はたまらずたたらを踏んだ。

 その隙を見逃すギルガメッシュではない。空いていた左手には、既に鋼の棍棒が握られている。横薙ぎに振るわれた鉄塊を、陰剣・莫耶が防御するが……。

 

「ぐ──!?」

 

 『鉄鎚蛇潰(ネイリング)』。打撃に特化した武具の破壊力は、硝子のように投影剣を打ち砕いた。手首から伝わる衝撃にアーチャーの顔が歪む。技量で圧倒しようという目論見を、武具の性能が先んじて潰しているのだ。

 たまらず飛び退る弓兵。その後を追うように、刀剣槍斧が殺到する。武器の多彩さで主導権を握り、数を以て自由を奪う戦術は、アインツベルンの森でアーチャーが見せた展開そのものだ。つまり、ここまでの攻防すら()()()()()()

 それを理解したアーチャーは、心中で薄い笑みを浮かべた。侮られているのならそれこそ好機。盤面を覆す準備は、水面下で進んでいる。

 

「──Steel is my body(血潮は鉄で), and fire is my blood(心は硝子).」

 

 宝具掃射に投影宝具を併せて凌ぎ、複製が追いつかないものは双剣で弾く。それでも防御を抜けてきた刃が頬を掠め、黒い肌に朱線が走った。

 アーチャーにとっては予想内のことだが、通常空間における戦闘では、地力でギルガメッシュが大きく勝る。宝具の射出攻撃を防ぐ手段があるという時点で、他の英霊よりはアーチャーの方が有利だが、宝具を視認・解析してから投影・射出するという受け身のプロセスを経るため、主導権は常に相手側に譲ってしまう。加えて、数十程度の宝具数であれば問題はないが、それが百、二百と増大した場合には処理が追いつかない。撃ち合いではいずれジリ貧になって圧殺されるだろう。

 圧倒的な弾幕によって近づくことができず、仮に距離を詰められたとしても、罠に嵌められるか多彩な宝具で切り返される。英雄王に本腰を入れられればアーチャーの敗北は必至であり、その未来を変えるためには、もう少し時間を稼ぐ必要があった。

 

「──I have created over a thousand blades.(幾度の戦場を越えて不敗)

 

 その場から大きく退却。ホール状の空間、その端まで距離を取ることで、ギルガメッシュの宝具が着弾するまでの猶予をわずかに伸ばす。そうして生まれた一手の余裕で、迎撃宝具を投影し続ける間に、アーチャーは一つの大弓を用意した。

 弓兵が剣を遣うことこそ、本来は邪道。剣の才能に恵まれず、弛まぬ努力で剣技を磨いたアーチャーだが、彼は弓術に於いて才を発揮する。狙撃手として戦うための武器が、この大弓だった。

 番えるべきは、矢ではなく剣。螺旋のように捻じくれたそれは、ケルト神話の英雄フェルグス・マック・ロイが用いた『虹霓剣(カラドボルグ)』。飛来する宝具に投影宝具をぶつけ、あるいは躱しながら、アーチャーは弓の照準を黄金の英霊に向けた。

 

「偽物に更に手を加えているな。武具への敬意を持ち合わせぬ愚か者めが──よかろう。それほど贋作に自信があるのなら、採点をしてやろう」

 

 相当の距離が空き、無数の宝具が飛び交っている中でも、恐るべき鑑識眼はひと目で異様な剣の詳細を見抜いたのか。ふん、と鼻で笑ったギルガメッシュは、間断なく数十の宝具を撃ち続ける傍ら、黄金の空間から一振りの刃を取り出す。それは、アーチャーが投影したものによく酷似した形をしていた。

 

「"偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)"──!」

 

 先制攻撃とばかりに、捻れた矢を撃ち放つアーチャー。膨大な魔力を秘めた螺旋が、空間を引き裂きながら突き進む。対人に用いるには過剰すぎる威力は、本来軍勢に対して向けられるもの。

 飛来する一矢は、人体に当たれば跡形もなく消滅させるに違いない。しかし、盾を取り出すでもなく矢をぶつけるでもなく、ギルガメッシュは手にした剣を大地に突き刺し──。

 

「──見るがいい。そして思い知れ。これが真作の重みというものだ」

 

 矢が炸裂する、その直前。莫大なエネルギーが、噴火のように大地を破壊し尽くした。

 地面が割れるどころか岩盤がめくれ上がり、土砂と瓦礫と魔力が空間そのものを蹂躙していく。地震と津波が混ざったような天変地異の力に、軍勢をも吹き飛ばす一撃はあっさりと押し潰された。それどころか、巨大な広間の端々に至るまで亀裂が広がり、次々と大地が爆裂して岩石を散弾として飛び散らせていく。それは、矢を打ち放ったアーチャーの場所も例外ではない。

 

「なに──!?」

 

 驚愕した弓兵が、恥も外聞もなく弓を捨てて疾駆する。大断層が隆起し、あるいは奈落へ続く地割れを生む猛威の中では、人もサーヴァントもさしたる違いはない。防御など考えるまでもない、全力で逃げ回らねば瞬時に押し潰されてしまう。

 これほどの攻撃範囲、これほどの凄まじい破壊力は、対城ないし対地攻撃に用いられる地形破壊武器に等しい。大地にできた罅割れから、虹色の魔力が吹き出しているのが、より一層アーチャーに脅威を覚えさせた。

 アーチャーが放った武器、『虹霓剣(カラドボルグ)』の原典。丘を三つ切り裂いたという伝承の真実がここにある。この魔剣は対人ではなく、敵ごと大地を打ち砕く対地上宝具なのだ。洞窟ごと崩落するのではないかという一撃でさえ全力ではなく、最大火力で放てばこの円蔵山ごと更地に変える埒外の威力を秘めている。

 

「──Unknown to Death,(ただの一度も敗走はなく、)Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)

 

 だが、好機。

 岩石の間を縫うように走りながら、アーチャーは意識を切り替えた。圧倒的な大破壊力は彼を窮地に陥らせたが、空間が土砂や飛礫で埋め尽くされている現状、ギルガメッシュの宝具投射は意味をなさない。視界も遮られているが、おかげでギルガメッシュがアーチャーの現在位置を把握することは不可能だろう。それに対し、アーチャーは破壊の基点から動いていないであろう英雄王に奇襲を仕掛けることが可能だ。

 走り、跳び、時には断層の側面を走り抜ける。すると弓兵の視界に、仁王立ちする男の後ろ姿が現れた。計算通り、ギルガメッシュの後方を取ることに成功。

 

「──Have withstood pain to create many weapons.(彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う)

 

 縦横無尽に岩石を回避しつつ、偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)を再投影。弓兵はこのまま相手が気づかぬうちに狙撃し、勝利を掴む心算だった。狙撃手とは、元より相手の意識外から狙い撃つもの。

 隆起し、砕け、割れ続ける大地。二人の間を一瞬、飛んできた巨岩が遮断する。障害物が飛んでいき、再び相手が見えるようになった刹那──笑うギルガメッシュの視線に、アーチャーが凍りついた。

 ()()()()()()

 

「闇の中で敵の背を討つのは暗殺者の常道。貴様の考えなぞ読めるはずがないとでも思ったか、たわけ」

 

 その硬直が、致命的な遅れを生んだ。

 一矢を放つより早く、英雄王が白銀に煌めく剣を振るう。直後、岩石さえ溶かし尽して放たれる、膨大な熱量!

 

「『転輪する勝利の剣(ガラティーン)』か──!」

 

 武具の正体を解析したアーチャーが戦慄する。ギルガメッシュが握った武器は、かの太陽の騎士(ガウェイン)が振るったとされるもう一振りの聖剣。『虹霓剣(カラドボルグ)』に源流を持つとも、縁があるとも言われている宝具である。

 原典であるのか、あるいは源流のどこかにあたる類似宝具であるのかは定かではないが、日輪を封じたとされるその火力は本物だった。灼熱の閃光は未だ乱れる大地ごと空間を焼灼し、アーチャーへ向けて迫っている。コンマ一秒で対策を取らねば、瞬時に消し炭になるだろう。

 弓兵の思考が加速。回避は不可能。攻性宝具の真名開放は間に合わない。決断は一瞬、今ある最強の守りで耐えきる他はない──!

 

「──Yet, those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなく)

 

 咲き乱れる炎の華。迫る熱線に重ねるように、アーチャーが大きく右手を突き出す。

 

「"熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)"!」

 

 七つの花弁が、聖剣の一閃と激突した。

 かつてトロイア戦争で猛威を振るった、神の一撃に比する投槍さえ防ぎきったアイアスの盾。投擲宝具に対しては無類の防御性能を発揮する宝具ではあるが、太陽表面と同等の熱量を前に、花弁のうち三枚がたちまちのうちに蒸発した。

 残りの盾に魔力を込め、アーチャーは全力で灼熱に抗う。現代の英霊であるため保有魔力に乏しい彼だが、聖杯からの供給によってその弱点は解消されている。膨大な魔力の下支えがなければ、残りの盾ごととうに溶けてしまっていたことだろう。

 また一枚、花弁が炎に消えていく。残りは三枚だが、聖剣の攻勢にも終わりが見えてきた。これならば凌ぎきって切り返せると、アーチャーが次の手を考え始めた瞬間──。

 

 ──爆裂。

 

「ぐ、ぉ……ッ!?」

 

 爆風と衝撃波に、アーチャーの体がよろめく。その一撃は、まったく予想しない背後からのものだった。サーヴァントでなければ、これだけで命を落としていたに違いない。

 吹き飛ばされなかったのは、盾を支えるために両足に全力を込めていたから。それでも痛みと驚きで集中が切れ、残り三枚の花弁のうち二枚が炎に負けて消滅した。血相を変えたアーチャーが、焦げて血を流す体など後回しと、有り余る魔力を最後の一枚に集中させる……!

 

「粉塵爆発とはな。英雄王め、どこでそんな知識を得た」

 

 空気中に可燃性の粉塵が漂い、それが一定濃度になった時、引火すると爆発を起こす現象。工場や炭鉱などでたまに発生し、ニュースでも報じられることがある。

 ただの土煙では発生しないはずだが、『虹霓剣(カラドボルグ)』が抉り返した大地には、石炭か金属片でも含まれていたのか。そこに『転輪する勝利の剣(ガラティーン)』の炎が着火したことで粉塵爆発が起き、盾で守られていない後方から衝撃が抜けてきたのだ。

 熱線と爆炎の二重奏。だがそれでも、最後の一枚は抜かせない。花弁に罅が入り、魔術回路の酷使で弓兵の右腕が軋んでいたが、ひたすら粘りに粘る。そうして、破滅の波を防ぎきり……炎と盾が同時に消え去った瞬間、アーチャーは煙を上げる大地に片膝をついた。

 

「盾を敷いて防いだか。人形の分際で生き汚いではないか、雑種」

 

 各所が焦げ、血を流し、満身創痍といった様子の弓兵。対する英雄王は、滅茶苦茶になった大地の中央で、聖剣を握ったまま嗤っている。どちらが優勢かなど語るまでもなく、自然災害に等しい宝具を受けた洞穴は、崩壊していないのが奇跡的だった。

 

「どうした贋作者(フェイカー)。自慢の贋作は品切れか? 隠し玉がないのであれば、執着する無念ごとそこで灰になるがいい」

 

 人ならざる赤い瞳。口では笑っていても、蛇のようなその目だけは笑っていない。王者が放つ死の宣告は、熱の残滓が息吹くこの空間にあって尚絶対零度の冷たさを有していた。

 勝ち目がない。それは最初から分かっていたことだ。アーチャーには豊富な戦術経験と現代戦の知識があるが、そんなものがなくても、英霊である時点でこの結果は見えている。あらゆる英霊の頂点たる英雄王に、並のサーヴァントでは及ぶべくもない。

 では、何故挑んだのか。それは呪いに自我を飲まれつつも、消えない想いがあったからだ。なんとしてもあの王を打倒し、少女を助けねばならないと、最後の心が叫んでいる。ここで諦めたが最後、エ■■シ■ウの存在価値は完全に消え失せると。

 しかし、未だ冴え渡る戦術家としての知見は別にある。そのためにアーチャーはギルガメッシュの宝具攻撃に耐え、手を変え品を変えて彼の王の首を狙ってみせた。

 その目的は、勝利ではなく時間稼ぎ。戦いを演じることによって、男は千金にも勝る時間を稼ぎきった。通常空間で勝てないことを知りながら、ギリギリで死の淵を乗り越えきったのは──アーチャーは、()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「──あるとも。隠し玉はある。お望みと言うなら、我が錬鉄の秘奥、その眼に焼き付けていくといい」

 

 立ち上がる。

 傷だらけでも、体中が軋んでいても、関係ないと男は立ち上がった。連動するように、黒い呪いが靄のように溢れ、彼の体を取り囲んで傷ついた部分を強引に修復していく。

 呪詛に染まった膨大な魔力によって、霊基を治療するという荒業。それだけでも耐え難い痛みを感じるはずだが、男は微動だにしない。灰色を越え、白くなった瞳には、決意の炎が燃えていた。

 

「ほう──」

 

 笑みが消える。

 英雄王の目の光が変わった。滑稽な弱者を嘲弄する笑みは既にない。アーチャーの瞳を見たギルガメッシュは、宝物庫へ聖剣を放り投げると、その視線を鋭くした。この敵は侮れない何かを秘めていると、星の秘奥さえ見通す目は確信しているのだ。

 

「偽の宝具を生み出すことだけが()の特技──違うな。私の本質、英霊としての宝具は別にある」

 

 中空に右手を翳すアーチャー。酷使し、血を吹き出していた腕は、聖杯の力で既に修復されていた。

 大半の英霊がそうであるのと同様、彼もまた切り札の行使には莫大な魔力を必要とする。バックアップがある現状、それを躊躇する理由はないが、彼は今の今までカードを切ろうとしなかった。

 その理由は詠唱時間。単純な真名解放とは異なり、本質的には大魔術であるそれは、長い詠唱を必要とする。それと悟られないようにしながら、裏で時間を稼いでいた理由はそこだ。英雄王の宝具を凌ぎ、合間合間に攻め手の武器を投影していたせいで、処理能力の圧迫により本来以上の時間を要したが──今ここに、全ての準備が整った。

 膨大な魔力が溢れ出す。炎の如き奔流が、アーチャーを中心に迸り──。

 

「──So as I pray, (その体は、)"UNLIMITED BLADE WORKS"(きっと剣で出来ていた).」

 

 ──そして、世界が書き換えられた。

 

 果てのない荒野。血を思わせる赤い夕暮れの中、墓標のように剣が立ち並んでいる。空には歯車が犇めき、巨人めいた存在感を放つ。

 崩落寸前だった地下洞窟は、まったく別の空間……いや、別の世界に変わっていた。名剣名刀から無銘の鈍らまで、無数の剣が乱立する剣の丘。この世界の住人は、鈍色に輝く剣たちだけ。

 

 固有結界『無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)』。それが、英霊エミヤの宝具だった。

 

 本来は悪魔や精霊が持つとされる、現実を侵食する異能。術者の心象風景をカタチにし、一つの法則(ルール)を持った世界を創造する大禁呪。魔法に最も近いとされる、魔術師が到達する頂点の一つである。

 剣を形成する要素で満たされたこの世界は、アーチャーが視認した武器を複製して保存する機能を持つ。彼が投影した武器は、全てここから持ち出したものに過ぎず、厳密な投影魔術の原則とは異なっている。

 聖杯から強制された技能(スキル)によってか、それとも最後に残った願いのためか。魂を汚染され、霊基を歪められて尚、アーチャーはこの世界の展開を可能とした。世界の奴隷と化し、聖杯の人形となっても消えぬ意志を示すように、空に浮く歯車がギシギシと音を立てている。

 

「……なるほど。前回はあの男、そして此度は貴様が固有結界の使い手というわけか。万象の王たる我の前で、別の世界を作り出そうなど笑わせてくれる。

 それで? どこを見ても贋作ばかりではないか。この貧相な蔵で貴様に何ができる」

 

 不快げに表情を歪めたギルガメッシュ。右手を掲げた彼に従い、空間から宝具が出現したところで──それが放たれるより早く、激突した刃に宝具が押し戻された。

 

「……!?」

 

「そう驚くことはない。私にできるのは、ちょっとした()()だけだ。ご理解いただけたかな」

 

 自分だけの世界を展開したことで、人格の一部を取り戻したのか。ニヒルに笑うアーチャーが、驚愕する英雄王に嘯いた。

 今までのように、射出された宝具を投影して相殺したのではない。宝物庫から鋒が現れた瞬間、どこからか飛んできた剣が、頭を押さえるように宝具を弾き飛ばしたのだ。その形状は、宝物庫から現れた武器とまったく同じ。

 視ただけで武器を複製し、貯蔵する──それが、この固有結界の本質だ。通常空間のように投影によって召喚するのとは違い、術者であるアーチャーが視認した瞬間、この世界にはその武器が用意されている。宝物庫からの召喚・発射というプロセスを経る『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』よりも、固有結界が複製宝具を準備する方が一手早いのだ。

 つまり。先ほどまでとは逆に、アーチャーはギルガメッシュの宝具を相殺しながら、常に先手を取り続けることが可能になる。何も相手の宝具召喚に合わせなくても、既に展開されている武器を投射すればいいだけなのだから。

 

「なに、お代は自慢の宝具で十分だ。披露してくれればその分、私は相応しい()()()()を提供しよう。錬鉄の極地、心ゆくまでご堪能あれ」

 

 アーチャーの背後に、無数の剣たちが浮かび上がる。剣の丘から引き抜かれたそれらは、その全てが贋作。しかしながら、そこに宿る力は全てが本物だった。

 立ち尽くすギルガメッシュと、偽物の武器たちを従えるアーチャー。その様子は、先ほどまでとはまるで真逆。驚愕から憤怒へと表情を変えていく英雄王に、贋作の主は口の端を吊り上げ──。

 

「行くぞ英雄王──武器の貯蔵は十分か」

 

 獰猛に笑う剣製の英霊。戦場の形勢は、ここに逆転した。

 

 

***

 

 

 奥へ進む。

 生暖かい風が、徐々に強くなってきた。この気持ちの悪い息吹の元凶へ近づいていることの証拠だ。

 もうどれぐらい進んだだろうか。先ほどまで後ろで響いていた剣戟の音も、すっかり聞こえなくなった。ギルガメッシュは、果たしてあの男に勝利できただろうか──いや、あのサーヴァントが負けるはずがない。

 どんな強敵が相手でも、どんな窮地に立たされても、ギルガメッシュは必ず壁を乗り越えてきた。俺のサーヴァントは最強の英雄王であり、そうである以上は案じる必要などどこにもない。

 俺の役割は一つだけ。あいつが追いついてきて、いつもの憎まれ口を叩いてくる前に。全ての敵を打ち倒し、桜とイリヤを助けること。

 

「……出口か?」

 

 その時、ふっと空間が開けた。

 先ほどの広間とはまた違う、更に大きく開けた空間。天井は高く、遥か上まで続いている。ビルがまるっと入りそうなほどの高さは、山をくり抜いているかのよう。

 否、比喩ではなく事実として、ここは山をくり抜いて作られた空間なのだろう。元からあったものを利用したのか、人の手を加えたものなのかは定かではないが、その目的はただ一つ。

 ちょうど正面。この空間の中央、祭壇のような崖に設けられた巨大なオブジェ。黒々と脈打ち、おぞましい存在感を放つそれこそが。

 

「大聖杯──」

 

 どくん、と何かが脈打った気がした。

 気のせいか。いや、直感は違うと言っている。この空間に満ち満ちる生命力、生まれようとする意志を持つモノがここにいる。この聖杯戦争を狂わせ、多くの人間を巻き込んだ諸悪の根源。

 この世全ての悪(アンリ・マユ)。アレを滅ぼすことこそが、俺たちの最終目的だ。

 だがその前に、桜とイリヤを救出しなくては。洞穴はここで行き止まりのようだし、敵は二人を利用して聖杯戦争を完遂させる気なのだから、この空間のどこかにいなくてはおかしい。目を皿のようにして、周囲を見渡すと──。

 

「っ、いた……!」

 

 洞窟のあちこちにある、高台めいた岩場。そのうちの一つに、二人の少女が横たわっているのを発見した。

 見違えるはずもない。桜とイリヤだ。二人の安否を確かめようと、一も二もなく駆け寄ろうとして、そこで。

 

「──待っていたぞ、衛宮士郎。そろそろ来ると思っていた」

 

 岩場の前。祝福のように、大聖杯の仄暗い光を受けて。その男は、悠然とそこに立っていた。

 漆黒の僧衣に包まれた長身。鍛え上げられた肉体と、厳めしい風貌。胸元に輝く十字架は、聖職者としての荘厳さを与えているが、この場に於いてそれは一種の威圧にも等しかった。

 

「言峰、綺礼──」

 

「ふむ。ここに来たのはおまえだけか。首尾通り、アーチャーはギルガメッシュを抑えているようだな」 

 

 今日の天気でも語るような口調で、淡々と語る黒衣の神父。その口ぶりがあまりにも平然としているものだから、束の間敵意を忘れてしまった。

 顔をヤツに向けたまま、視線だけを左右に走らせる。サーヴァントを除いて、予測される敵は二名。言峰綺礼の他に、あの虫を操っていたマキリの老翁がいるはずだが──。

 

「ああ、案ずることはない。間桐の老人ならば既に始末した。アレがこの場に現れることはあるまい。

 正真正銘──この空間には、私とおまえしかいないということだ」

 

 どういうことだ。言峰と臓硯は、手を組んでいたはずではなかったか。それを裏切ったということか……?

 神父の言葉に嘘はない。否、元より嘘を付く理由がない。代行者だったという言峰と、数百年を生きる臓硯は、単体でも戦闘能力に於いて俺より優れているだろう。まどろっこしい嘘など吐かずとも、二人がかりで攻めてくればいいだけの話だ。

 教会の監督役という立場を裏切り、後見人であった遠坂を裏切り、今度は臓硯まで裏切った。この神父は、いったい何を考えている。十年前の戦いにも挑んだという男は、いったい何を目的としているのか。まさか本当に、世界を壊すことが願いだとでも言うのか。

 

「──言峰。俺にはおまえがわからない。何もかもを裏切って、おまえは結局何がしたいんだ。おまえは、そんなに聖杯が欲しかったのか」

 

「いいや。私は聖杯に用はない。おまえの父親のように、聖杯に託す願いなど端から持ち合わせていない」

 

「……なに?」

 

 聞き捨てならない言葉が出てきた。この男は、何故切嗣のことを知っている。こっちはこの神父のことを何も知らないのに、どうしてヤツは、訳知り顔で親父の願いを語るのか。

 

「おまえが、切嗣の何を知ってるっていうんだ」

 

「知っているとも。ヤツのことはよく知っている。十年前、私はギルガメッシュのマスターであり──セイバーのマスターであった衛宮切嗣と、聖杯を競った仲なのだから」

 

 そう言うと、言峰は体の後ろで手を組み、聳える大聖杯に目を向けた。その様子は、教会にいた時と何も変わらない、まるで信徒に向けて説教をするが如き平然さだった。この死地にあっても、この男が余裕を崩すことはないのか──いや。この死地こそが、言峰綺礼にとっての日常なのだろう。

 

「衛宮切嗣は、『正義の味方』とやらを目指していた。聖杯を求めたのは、恒久的世界平和を実現するためだという。全くもって、愚かしい冗談だ」

 

『……ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ』

 

 月の綺麗な夜を思い出す。

 抜け殻のような姿で、ぼんやりとそう呟いた切嗣。その姿を、今でも鮮明に思い出せる。言峰の語りと、切嗣の思い出──そして、ギルガメッシュやセイバーから語られた魔術師殺しの姿、第四次聖杯戦争の顛末が、一つの像を結ぶ。

 やっぱりそうだ。切嗣は、正義の味方になることを諦めてなんかいなかったのだ。だから銃を取り、命を賭けて聖杯戦争に臨んだのだろう。聖杯の力で、この世に正義をもたらすために。

 ……だけど、その理想は裏切られた。聖杯は呪いに汚染され、正しく願いを叶える機能をとうに失っていた。真実を知った切嗣は、絶望したに違いない。どうして親父があんな風になってしまったのか、ようやく確証が持てた。

 

「……そうだな。切嗣が聖杯に願おうとしていたことは、確かに間違ってたのかもしれない。『正義の味方』を目指すのなら、聖杯に縋るべきじゃなかったんだ」

 

 切嗣の理想は、決して間違ったものではなかった。ただ、その実現手段を誤ってしまっただけ。

 俺の言葉のどこかに驚いたのか、言峰が怪訝そうな顔をする。まるで、俺が切嗣を──『正義の味方』を否定するのはありえない、とでも言うように。

 神父と初めて会った日、聖杯戦争について触れた夜を思い出す。初対面のはずの男が、俺の願いをどうして知った風に語るのかが不気味だったものだが、切嗣の願いを知っていたならそれも腑に落ちる。言峰はきっと、俺は切嗣の理想を継承する者だと最初から確信していたのだろう。

 その読みは正しい。衛宮士郎が目指すものは『正義の味方』だ。ただその定義は、衛宮切嗣が目指したものとも、赤い弓兵が求めたものとも異なるだけ。何故なら彼らは、理想へ至るための道を間違えていたのだから。

 

「だけど、切嗣は正しいことをした。十年前、親父が聖杯を壊してなければ、あの大火災よりももっと酷いことが起こってたはずだ。親父は間違えていたのかもしれないけど、最後は正しい道を選んだんだ」

 

 そう。それだけは、絶対に間違っていないこと。切嗣が最後にその道を選んだから、衛宮士郎は今ここで立っていられる。事実は、それで十分だ。

 

「言峰。切嗣を否定するって言うなら、願いを持たないおまえにはいったい何があるっていうんだ」

 

「──何もない」

 

 ここで初めて。どこか遠くを見ていた言峰が、はっきりと俺の方を向いた。

 その目に、思わず気圧される。男の瞳の中央にあるのは、虚無に等しい穴だった。そこを取り巻くように、怒りと苦悩の色が見え隠れする。俺は言峰と、ここに来てようやく対峙したのだが──こんな目をした人間とは、ただの一度も会ったことがない。

 切嗣のように、理想を失った抜け殻ではない。赤い弓兵のように、理想に絶望したのでもない。何かを後天的に失ったのではなく、ただただ虚無がある。そういう、真っ暗に沈んだ瞳。

 

「私には、おまえたちが尊ぶ理想、何を犠牲にしても叶えたい願いなど存在しない。いや──それ以前に。犠牲を払うに値する『大切なもの』、おまえたちの呼ぶ幸福とやらが、私の裡には存在しなかった」

 

 ──それは、一体どれほどの空虚か。

 

「幼い頃から、私にはどのような概念も熱を与えなかった。目的もなく、理念もなく、幸福もなく、快楽もなく、安息もない。私には真実、何もなかったのだ。

 故に、私は神の愛に縋った。人の世は私に福音を与えられない。しかし主の導きを以てすれば、世の価値観のどれ一つとして共感できぬ魂であっても、救われる道があると私は信じた。

 ──それが無意味だと解るまで、私は二十余年を無駄にした」

 

 疑問があった。

 この男はガタイがいい割に、どうにもどこか胡散臭い。どこかで武器商人をやっていると言われれば信じてしまいそうなほど、初対面の時から、こいつは絶対に俺とは合わないやつだという確信があった。神父様という文字面から想像される姿とはまるで違っている。

 しかしながら、それでいて、この男には神父という役柄が()()()()()()()()のだ。修身のための苦行を重ね、何年にも亘って神学を修め、聖職者として研鑽を積んだという雰囲気。容姿ではなく、より奥底から滲み出ているそれは、言峰綺礼が真摯に己を鍛え抜いたことの証拠。その相反する性質が、この人物への理解を容易ならざるものにしている。

 かつての言峰は、本当に敬虔な聖職者だったのだろう。ではどこで、この神父は道を違えたのか。

 

「十年前、ふとした縁から聖杯戦争に関わることとなった。その段に至っても、私は自らの魂の在り処を見つけられずにいた。聖杯戦争の中に道が見つかるかもしれぬと、師を切り捨ててまで彷徨ったが、結局蒙を啓かれたのは最後の夜──衛宮切嗣が聖杯を破壊し、こぼれ落ちた泥が町を焼き払った折のことだ」

 

 終わりにして、始まりの夜。

 五百余名に亘る焼死者を出し、甚大な経済的損失を与えた、戦後最悪の大火災。聖杯という呪いによって引き起こされた災害に、衛宮士郎は巻き込まれ、その時それまでの人生のほとんどを焼き尽くされた。

 言峰が最後の戦いまで生き残ったということは、当然そこにも深い関わりがある。切嗣と戦い、敗北して一度殺された男は、まさに災害の中心点にいたはずだ。そこでこの男は、一体何を目にしたのか。

 

「セイバーは消滅し、衛宮切嗣は聖杯を放棄した。最後に残ったのはアーチャーと、そのマスターである私だけ。聖杯が勝者の願望を聞き届けるというのであれば──あの光景こそが、私の求めていたものだった」

 

「な──」

 

 両手を広げ、昂揚したように語る言峰。ヤツの目に映るあの夜の炎に、言葉を失う。地上に現出した地獄を思い出して──この男は、愉快で仕方がないというように笑っているのだ。

 終わらない阿鼻叫喚。炎に巻かれた人の絶叫。悶え苦しみ、死んでいく人の断末魔。炭化し、捻じくれた遺体。ゴミのように消されていく無数の命。かつてヒトであった肉体の数々。

 そんな酸鼻を極めた煉獄を、この男は。

 

「あれほど鮮やかな喜びを知ったのは、生まれて初めてだった。この時私は、真の意味で愉悦の感情を知ることが叶ったのだ。

 まったく、それまでの人生のなんと無駄であったことか! 善なることこそ尊いと、聖なるものこそ美しいと、そんな神の道を信じていたが故に、私はいつになっても満たされなかったのだ。

 神の愛とは真逆の道、絶望と苦痛、邪悪と惨劇こそ、唯一私が生を実感できる世界だった。……あの瞬間、酒を飲めなかったことだけが唯一の心残りだな」

 

「…………」

 

 理解する。

 この男は、衛宮士郎の敵──いや、()()()()だ。ここで殺しておかなければならない。

 魔術的な目的のために一般人を犠牲にする魔術師の方が、まだ理解できる。だが、人が苦しむ光景こそが楽しいと、人の死こそが愉快であると、心底から思えるばかりかそれを実現してしまえる人間。大量殺人者(シリアルキラー)であり、精神病質者(サイコパス)。あの地獄をまた顕現させようというのなら、言峰綺礼を生かしておいてはならない。

 

「……それで。あの夜をもう一度見たいからって、おまえは聖杯を獲りに来たのか」

 

「いいや、違う。あれは単なる『答え』に過ぎない。言峰綺礼は、邪悪でこそ満たされる人間である──その解答が真実であるならば、何故神の摂理に反する人間がこうして存在している? 悪魔によってそうなったのではなく、生まれながらにして『悪』である存在が。

 私のような怪異を生み出した方程式、初めから悪として生まれたモノが存在する意味が、必ずどこかにあるはずだ。そう……この世全ての悪(アンリ・マユ)のように」

 

 どくん、と。大聖杯が、応えた音がした。

 

「誰にも望まれなかったモノが生まれ落ちる意味。最初から悪であったモノがこの世に存在する価値。そして──悪として生まれ落ちたモノが、悪として生き続けることに、果たして罪があるのかどうか。悪である本人は、果たして何を感じるのか。

 私はそれが知りたい。私の望みは、聖杯に願うものではなく、聖杯から生まれ落ちるモノによってこそ叶えられる」

 

「馬鹿な……まさかおまえ、この世全ての悪(アンリ・マユ)()()しようっていうのか!? そいつをこの世に呼び出すこと自体が──」

 

「間違っている、と? 何を言う。生まれてもいないモノに罪は問えない。悪であることが確定しているとしても、まだ罪を犯す前の無垢なる赤子は守ってやるべきではないかな」

 

 手を広げたままの言峰が、黒い聖杯を背にする。それはまるで、この世全ての悪(アンリ・マユ)を庇うような仕草だった。

 ヤツの言うことは詭弁だ。生まれれば必ず死を撒き散らす存在を、捨て置くことこそが罪だろう。言峰個人の欲望を充足させるために、呪いが溢れ出ることを許し、何万何億という人間の命が奪われるのを見過ごせというのか。

 だが、言峰の目には、罪悪感や後ろめたさのようなものは一切感じられない。自分には後悔も間違いもないという、この選択こそが唯一正しいのだという、そんな力の宿った瞳。

 

「……そうか。おまえは、俺とは逆なんだな。

 俺はこの世全ての悪(アンリ・マユ)を許せない。そいつは存在しているだけで、みんなの命を脅かす悪だ。俺はみんなのために──いや。俺自身が許せないから、そいつを始末する。だけど、おまえは」

 

「私は私の目的のために、この世全ての悪(アンリ・マユ)を誕生させる。その結果、幾多数多の命が失われようと、私にとっては福音となる。

 自身の欲のために、生まれ出ずる命を奪い、その果てに人々が救われるか。

 自身の欲のために、生まれ出ずる命を守り、その果てに人々が殺されるか。

 おまえと私は、つまるところ、対極でありながら同質の願望を抱いているということだ」

 

「守りたいものと殺したいものが逆なだけで、根は同じってわけか。そのためにおまえは十年前から動き続けて、そのために俺は十年前から戦い続けた。そのためだけに生きてきたんだ、今更譲る気なんかないよな」

 

 言峰綺礼。この男は、やはり俺の敵だった。おそらくは、十年前からずっと。

 自らの望みを叶えるために、遠坂の父さんを殺し、聖杯で街を焼き、桜とイリヤを傷つけ、遠坂を殺しかけ、世界を呪いで満たそうとしている悪党。衛宮士郎が正義の味方を目指すのであれば、裁かれぬ理不尽な暴力を許せないのであれば、民間人を傷つける魔術師を咎めるのであれば──是非もない。

 ゆっくりと、ホルスターから銃を抜く。切嗣が愛用した、キャリコM950。対人制圧用としては、十分すぎる力を秘めた短機関銃(サブマシンガン)

 

「ああ、よくわかった。なら、これ以上の問答に意味はない。

 聖杯は叩き壊す。桜とイリヤは返してもらう。おまえが、人間に危害を加える()()()だっていうなら──」

 

 ──この場で死んでもらうだけだ。

 

 銃口を向けて、冷たく告げる。すると、薄く笑った言峰は。

 

「十年ぶりだな、魔術師殺し(メイガス・マーダー)。結局、蛙の子は蛙というわけか──いいだろう。十年前の雪辱を、晴らしておくのも悪くない。

 だが、衛宮切嗣とおまえの間には、未だ以て大きな開きがある。何かで掛け算でもしない限り、埋められる数値ではあるまい。

 ──命を賭けろ。あるいは、この身に届くかもしれん──!」

 

 筋肉を漲らせ、己の敵に躍りかかった──!

 

 

***

 

 

 ぼんやりと、空を見上げていた。

 

 あれほどの激戦が嘘のように、周囲は静まり返っている。輝く月だけが、煌々と彼女を照らしていた。

 膨大な魔力と再生能力のおかげで、瀕死の重傷はほとんど癒えている。彼女を倒した英雄王も、とどめを刺すことなくこの場を去った以上、動こうと思えば動ける状況。それでも彼女が横たわったままなのは、肉体的な問題ではなく、精神的なエネルギーが枯渇していたことにあった。

 

『私は、何をすれば──』

 

 冬の風が頬を撫でる中、何度目になるかわからない問いを、彼女は自分自身に繰り返す。彼女にはもう、ここから動くべき理由が、動いたところで何をすればいいのかという目的が存在していなかった。

 滅びゆく故国をどうにか救おうと足掻き続け、炎と血に消えゆく様を最後に見た。それでも諦められず、聖杯という奇跡に縋ったが、それは何の意味もないことを思い知らされた。王として、騎士として、ただ一つの目的のため走り続けてきた彼女は──目指すべき星が消えた今、歩む道を見失ってしまっていたのだ。

 誰と戦えばいい? どこを目指せばいい? 握ったままの聖剣も、幾度となく身を救った直感も、何の導きも示してくれない。どこへ向かえばいいのかさえ分からないのだから、起き上がることなどできようはずもなかった。

 

『彼なら、どのような選択をするのでしょう』

 

 生前見知った者たちは、敵にしろ味方にしろ、彼女という王や国を目的の中心にしている。それが意味のないものとなった現状、彼らの姿は問題を解決するサンプルとはなりえない。

 ならば、と彼女が思い浮かべたのは、自分を打ち倒した黄金の王。一人の戦士として、彼に再戦を挑みたいという気持ちがないではなかったが、彼女の冷静な部分がそれは無意味だと断じている。性能や武器の違いではなく、人として、王として彼を上回らねば、幾度挑んだところで勝てる道理がない。そも、生きる目的さえ見失った今の彼女が、どうして剣を執れるというのか。

 彼の王であれば、このように悩むことなどあるまい。為政者としての役割を生前に終えており、願いも後悔も持たぬという彼は、しかし一切迷い悩む様子を見せたことはなかった。自分が直面している状況など、彼はとうの昔に打破しているのだろう。

 

『王としての勤めは終わった。サーヴァントとして召喚された目的は、意味のないものだった。ならば、私がここに存在する意味とは──』

 

「──あら。ちょっと見ない間に、ずいぶんいい女になったわね、セイバー」

 

 聞き覚えのある声に、ふと顔を上げる。そこに立っていた少女の姿を認め、彼女は黄玉の瞳を僅かに見開いた。

 遠坂凛。セイバーを召喚した魔術師にして、マスターであった少女。そして──黒い影により主従契約が破棄されて以後は、彼女にとっては敵対者となった人物でもある。事実、アインツベルンの森の激闘では、セイバーは戦っていたバーサーカーもろとも彼女を殺傷する選択を厭わなかった。

 不可抗力とはいえ、鞍替えをしたばかりか、かつての主の命を狙うなど騎士の風上にも置けぬ振る舞いである。悲願という呪いから解き放たれ、元の自分を取り戻したセイバーは、後ろめたさのあまり凛を見ることができずに目を逸らしてしまった。

 

「つれないこと。マスターじゃなくなったわたしはもう敵だから、話す必要もないってことかしら」

 

「……いいえ、そんなつもりは毛頭ない。ただ私は──あなたに合わせる顔がないのです」

 

 寝転がったままでは無礼にも程があると、その場から立ち上がる。霊基ごと肉体情報が書き換えられたことで大人の女性に変貌したセイバーは、身長差で凛を見下ろすような形になったが、それすら申し訳が立たないと感じてしまう。

 

「私欲のために聖杯を求め、あなたに剣を向けた裏切り者。それが、私というサーヴァントです。今の私に、あなたと話す資格はない」

 

「ふうん。それなら、どうしてこんなところでのんびりしているのかしら。このままじゃ、聖杯は臓硯か綺礼に取られるか、士郎に壊されるかのどっちかよ。聖杯がなくなったら、あなたの願いは叶わなくなると思うけど」

 

「──それは」

 

「『いつか蘇る王』、アーサー王。あなたの願いは、滅びの結末を変えることでしょう。母国を救いに行くんじゃなかったの?」

 

 凛の問いに、セイバーは思わずたじろいだ。召喚されて以降、彼女はギルガメッシュ以外に願いを語ったことはない。英雄王は所構わず言いふらすような性質ではないし、なぜかつてのマスターが、聖杯にかける彼女の願いを知っているのか。

 

「マスターとサーヴァントは、契約の経路(パス)を通して、相手の過去を夢に見ることがあるの。覗き見したみたいで申し訳ないけど……あなたのアーサー王としての過去を、わたしは見せてもらった。だからセイバーがどうして聖杯を求めてるのか、ちょっとはわかったつもり。

 こういう話、本当はもっと早くしておくべきだったんでしょうけどね。剣を向けられたことに思うところがないわけじゃないけど、サーヴァントの願いも知ろうとせずに戦わせてたなんて、わたしもマスターとして落ち度があったわ。

 ま、過去のことは置いておきましょ。それより未来のことが先よ。今のあなたはどうなの、セイバー? まだ聖杯を求めて、臓硯の命令で戦うつもり?」

 

「……いいえ。私のマスターは桜でした。あの老人の命令に従っていたのは、桜を盾にされたことと──凛の言う通り、聖杯を手に入れるには、その方が効率が良かったためです。

 ですが、もう私に聖杯に託す願いはない。先の戦いで契約破棄の宝具でも使われたのか、もうこの身に契約の縛りはない。今の私に、剣を取る理由は残っていないのです」

 

 今度は凛の方が怪訝な顔になった。騎士としての矜持を曲げ、間接的とはいえ剣を向けられるほど聖杯を求めていたセイバーが、もう願いはないと言い放ったのだ。妙な顔をされるのは当然だろうと、セイバーは内心苦笑する。

 

「あなたが今口にした通りです、凛。『過去のことより、未来のこと』。私は過去に執着する余り、私の時代から紡がれたこの時代という未来を見ていなかった。不覚にも、そのことを他の王に教えられました。私の治世は誤りだったのかもしれませんが、その果てにこの時代があるのなら、全てが失敗だったというわけでもないのでしょう」

 

「そう。それじゃ、もうサーヴァントとして戦う理由はないってわけね。あの金ピカがとどめを刺してないってことは、戦うことにはならないだろうと思ってはいたけど……。

 ……ま、いいわ。わたしは今から、綺礼と臓硯を叩き潰して、桜とイリヤを取り戻しに行く。あなたはどうするの、セイバー」

 

「……私は」

 

 答えられない。理想も命令も願いも消えた今、セイバーには行動の指針が存在しない。何がしたいかと問われても、答えなど出ようはずがなかった。

 言い淀む彼女を見て、一体何を感じたのか。考え込む仕草を見せた後、小さく頷いた凛は、セイバーへ向けて右手を差し出してきた。

 

「凛?」

 

「敵に回らないって言うなら、ちょっと手を貸してくれないかしら。もうわたしはマスターじゃないから、命令はできないけどね。

 士郎とアーチャーは、もう戦ってるのかもしれないけど……聖杯の中にいるヤツは、とんでもない怪物よ。あんなのが出てきた日には、最悪この世界が崩壊するわ。アレを止めるために、猫の手でも借りたいぐらい」

 

 セイバーの手が強張る。マスターを裏切った不忠者として、今の彼女はどんな罵声でも受け止める覚悟だった。だというのに、凛は気にした素振りを見せないどころか、かつてのように再びセイバーに手を差し伸べたのだ。

 震える手が、自然と胸元を押さえつける。生前裏切られ続けてきたセイバーは、その痛みも重みも十分に知っている。それでも尚声をかけてくれたことが彼女には嬉しく、そしてそれ以上にひどい申し訳無さと罪悪感があった。

 自分などに、今更凛の手を取る資格があるのか。どの面を下げて、彼女に手を貸そうと言えるのか。契約に縛られていたとはいえ、凛や士郎を巻き込んでもいいと宝具を使う決断をしたのは自分だ。そんな愚か者が、合わせる顔などあるはずがない。

 

「……無理に、とは言えない。あなたはもう、これ以上ないぐらい戦ってきたんだもの。わたしにできるのは、こうして手を差し出すことだけ。

 わたし、二十年も生きていないし、現代(いま)はあなたの時代とは全然違う。だから、セイバーが背負ってきたことがわかるなんて、口が裂けても言えない。それでも、自分があなたの立場だったら──もしかしたら、同じことをしてたかもしれない。

 日本には、お互い様っていう言葉があるわ。あなたはわたしに剣を向けたことに責任を感じてるのかもしれないけど、元はと言えばセイバーとの契約を奪われたのはわたしの落ち度。あなたが感じていることの一部は、わたしの責任でもあるの」

 

 俯いていた顔を上げる。セイバーを見る凛の瞳には、彼女を責め立てているような色はまるでなかった。むしろ凛は、自分自身の至らなさこそを責める、やや影のある表情を見せている。

 

「全部を全部許す、っていうのは軽すぎるし、気にするなとも言えない。でも──先へ進んで、改めてやり直すことはできる。わたしは、できればその道を選びたい。サーヴァントじゃなくなっても、わたし、あなたとは友達でいたいもの。

 ねえ、セイバー。あなたはどうしたいの? わたしが伸ばした手は、あくまでも選択肢の一つ。もうあなたには、義務も契約も命令もない。あなた自身がやりたいことを、好きに選んでいいのよ」

 

 最後の一言には、懇願のような響きが滲んでいた。それはセイバーの半生を、凛が追体験したことによるものだろうか。疑問を抱きつつも、セイバーは自分の心を振り返る。

 自分自身がやりたいこと──その視点は、セイバーの人生には決定的に欠けていたものだった。彼女は常に義務感、『これをやらなければならない』という想いのみで生きてきたからだ。責務、騎士道、契約、王道、幾つもの縛りが彼女には課せられていた。

 だけど、最初からそうだったのだろうか。いや、それはきっと違う。初めて剣を握ったのは、選定の剣を引き抜いたのは、自分がやりたいと思ったから。それは、彼女自身の願いから生まれた行為。

 

『思い出せ騎士王。おまえは一体、何が欲しかったのだ』

 

 皆が同じことを言うのだな、と思う。アルトリアという少女が本当にやりたかったこと、本当に望んでいたこと。それは──。

 

「……私は、皆が笑って暮らせる世界を築きたかった」

 

 その願いは、もう叶えられている。完璧ではないかもしれないが、かつての時代よりはよほど近い形で。

 悲願も義務もなくなったという自由。それを受け止めるには、今のセイバーではまだ足りない。あの英雄王ならば、大胆に笑って娯楽を謳歌するのだろうが、今の自分に軽々しく同じ道を選ぶことはできない。身の振り方は、時間をかけて慎重に考える必要があるだろう。

 だが、その贅沢はこの夜を乗り越えてからの話だ。臓硯と言峰が聖杯を手にすれば、自分を汚染したこの世全ての悪(アンリ・マユ)が溢れ出し、築かれた平和な時代を灰燼に帰す可能性が高い。まったく──自分はそんなことさえ思い至らず彼らに従い、そんなことさえ忘れてここでぼうっとしていたのかと、セイバーは自分に呆れて頭を横に振る。

 やりたいこととやるべきことは、初めから一致していた。セイバーがかつて願い、今や叶ったものを踏みにじろうとする敵。この聖剣は、人々を傷つけるモノに対してこそ振るわれるものではなかったか。

 

「今の私は、もう王ではない。貴方のサーヴァントに戻るという恥知らずなことは言えない。貴方の剣には、もう戻れないのです。──ですが」

 

 毅然と胸を張る。面を上げて、足を前に踏み出す。凛然とした美貌は、騎士としての誇りに満ちていて。

 

「貴方の敵は、私の願いの敵でもある。ですから──今一度、貴方の友として、私はこの剣を振るいましょう」

 

 そう言って、少女の手をそっと握ると。アルトリア・ペンドラゴンは、()()の瞳を細めて微笑んだ。


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