【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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37.この世全ての悪

 

 ──巨影が迫る。

 

 十メートルを一息で無にする箭疾歩。極め抜かれた体術と、身に纏う鮮烈な殺気が、神父を実体以上に巨大な敵に見せていた。

 三秒後の死を幻視する。岩をも穿つ剛拳が、この身を粉砕する確実な未来。拭えぬ恐怖を感じながら、それでも俺の右手は冷静に、重い銃把を握りしめていた。初手の必殺には、初手の必殺を以て応えるのみ。

 人差し指を引金に、迫る敵を照星に。まるでそこだけ誰かが乗り移りでもしたかのような正確さで、死を運ぶ担い手を打ち破るべく、流れるように人差し指に力を込める。瞬間、膨大なエネルギーが銃口から溢れ出した。

 

 発砲。

 

 人間を葬るには十分すぎる威力を持つ、9×19mmパラベラム弾。言峰がどれだけ速かろうと、秒間1290フィート(約400メートル)を飛ぶ運動エネルギー弾に及ぶ筈がない。バラ撒かれた死の弾丸に、男の肉体は正面から激突し──。

 

「な──!」

 

「──む?」

 

 その声は同時だった。

 銃弾を浴びた言峰は、まともに直撃したにも関わらず、その場から横っ飛びに跳躍した。最短ルートでの接近戦を諦め、一足で数メートルも移動してみせた男の顔には驚き。

 一方の俺も、驚愕に口が開いていた。予想より強い反動のせいで、銃弾はやや雑に飛び散ったが、それでも間違いなく命中したはずなのだ。胴体に複数発当たれば、制圧どころか即死もあり得るだろうに、まるで無傷とはいったいどういうカラクリなのか。

 ……いや、無傷ではない。言峰の足元には、ほんの僅かだが血が滴り落ちている。だが、あんなものは掠り傷に過ぎまい。魔術を使った様子もないのに、銃弾のダメージをほとんど受けていない理由は。

 

「防弾チョッキか……! 神父のクセに、なんだってそんなもん着てやがる」

 

「女の髪と呪符を練り込んだ特注品なのだがな。それを上回ってくるとは──徹甲(AP)弾か。衛宮切嗣め、癪な置き土産を残してくれる」

 

 迂闊だった。考えてみれば、言峰は切嗣の戦術を知っている。銃を使う相手となれば、防弾装備の一つや二つ持ち込むのは当然だ。

 だが、ヤツの目論見も完全とはいかなかった。切嗣が用意した銃弾は、防弾衣を想定して貫通力を強化したモデル。言峰の防御を完全に無効化はできなかったが、その衝撃だけでも正面からの突撃を断念させ、血を流す程度のダメージは与えたと見える。

 銃弾は必殺の手段になり得ず、防弾衣は想定の性能を発揮しない。予想外の事態が発生した硬直は、しかし言峰が走り出したことで崩された。

 

「シッ──!」

 

 戦闘経験において、言峰は俺より上だ。反応が遅れた俺が射撃するより早く、立ち並ぶ岩影に飛び込んだヤツの手が光る。その直後、空間を裂いて飛来する刃!

 

「……ッ!」

 

 短機関銃(キャリコ)を乱射。弾幕を張り、死の刃の射線を阻んで撃ち落とす。ギルガメッシュの宝具掃射、あの呆れるほどの速度と威力を見慣れていたからこそ成せた曲芸。

 五十発分の大容量マガジンは、その恩恵を十分に発揮した。だが、刃を迎撃しきった直後、引金から伝わる鈍い空音。

 しまった、速射(フルオート)だとこんなに早く弾切れに……!

 

「フ──!」

 

 最初からそれが狙いだったのだろう。銃からカチンと虚しい音が響いた刹那、身を守る岩から飛び出した言峰は、疾風の勢いで飛び出した。その両手には、先程投擲してきた刃が握られている。

 黒鍵。千年以上もの間、聖堂教会に伝わる概念礼装。聖典の頁で編まれた刃は、対霊対魔に特化し、一部の代行者が用いるソレは吸血鬼の王たる死徒にさえ通用するという。人間相手に適した武器ではないが、あんなものを食らって無事で済むはずがない。

 こちらの右手の銃は弾切れ。リロードする隙は無し。捨てて投影宝具による迎撃を狙うか──いや、それは悪手だ。言峰の動きは対人格闘術を極めた達人のもの。銃の有利を捨てて白兵戦を挑めばたちまちのうちに手詰まりになる。

 考えろ。自分の手札と相手の動き。そうだ、まだ俺には左手が空いている……!

 

同調(トレース)開始(オン)──」

 

 銃に染み付いた衛宮切嗣(魔術師殺し)の記憶。利き手と逆の手だろうと、その力量は些かも揺るがない。圧倒的な速度で疾駆する代行者相手に、左腰のホルスターから銃を引き抜く。

 短機関銃(メインウェポン)のバックアップとして、拳銃(サブウェポン)を装備しておくのは常識。当然読んでいたのだろう、言峰は両手に握る黒鍵を交差させ、ウィークポイントである頭部と胸部を守りつつ走るが──。

 

「狙いはそこじゃない」

 

 照準、発砲。一度上で試射をしていたおかげで、グロック17を扱う流れは完璧だった。

 小刻みに引金を絞り、狙い撃つのは、走っている言峰の()()。切嗣の腕を模倣しただけに過ぎない俺では、細いターゲットへ必中させることは不可能だが、豊富な装弾数がそれをカバーする。数撃ちゃ当たる、の具現だ。全力疾走中の体、その重心を支える足に、一発でも銃撃を受ければどうなるか。

 

「ぐ──!」

 

 言峰がよろめく。その瞬間に突進を諦め、防御ではなく攻撃に切り替えて黒鍵を投擲してきた言峰は、そのまま転がるように近くの岩陰に滑り込んだ。拳銃を連射して牽制しながら、身を竦めて悪質な置き土産を躱し、鏡合わせのように俺も手近な岩の後ろに身を隠す。

 ここは概ね平坦な地形だが、地下洞窟という立地のせいか、そこかしこに隆起した柱やら岩やらが並んでいる。これは俺にとってもヤツにとっても有効に使える武器だ。

 稼いだ時間のうちに、銃の弾倉を交換しながら、こちらの手札と敵の性能を分析。

 

 俺が持つ装備は、短機関銃、拳銃、破片手榴弾(フラググレネード)閃光音響手榴弾(スタングレネード)、投影魔術、そして最後の切り札。

 言峰が持つのは防弾装備と黒鍵、対人格闘術。遠坂の父に師事していたというのなら、一定程度の魔術も使えるだろう。

 

 体格、戦闘経験、格闘技術、いずれにおいても俺は劣る。ああいう相手は狙撃か暗殺で仕留めるのが一番だ。こうして正面からやりあっている時点でこちらが不利であり、近づかれれば負けると直感する。

 9mm弾では有効打にならない。アサルトライフルの7.62mm弾か、対物狙撃銃の12.7mm弾でないと言峰の防御は抜けないが……それだけの火力を出せるのは、切嗣が残してくれた最後の切り札のみ。投影魔術を組み合わせて、なんとかやっていくしかない。

 

「どうした。来ないのならばこちらから行くが」

 

 洞窟に声が響く。そこには、優位に立っていることへの驕りも油断も感じられない。言峰は代行者として、淡々と獲物を仕留めようとしている。

 そう。これは狩るか狩られるかの殺し合いだ。サーヴァントではない、人間相手の戦い。だが、現代社会では禁忌とされる行為に、今の俺は何ら嫌悪感を抱いていない。そんな余分を容れる隙などなく、精神を鋼に変えたかのように、思考を冴え渡らせて敵を討つ術を模索する。あるいはこれが、衛宮切嗣の日常だったのか。

 ならば教えてやる。魔術師殺し(エミヤキリツグ)の前に、狩られる獲物は()()()()()()ということを──!

 

「待たせたな。今行ってやるから待ってろ……!」

 

 岩陰から飛び出す。両手に握るのは、ピンを外した破片手榴弾(フラググレネード)

 言峰が隠れる場所を左右から挟み込むように、山なりに手榴弾を投擲。爆発まであと二秒、車両さえ吹き飛ばす現代火器の力を思い知れ……!

 

 ──爆裂。

 

 トリメチレントリニトロアミン(RDX)トリニトロトルエン(TNT)を混合させた軍用爆薬が牙を向いた。半径5メートル以内の人間を即死させる爆風と、半径15メートルを蹂躙する鉄片が吹き荒れ、人が辛うじて身を隠せる程度の岩が砕け散る。ならば当然、そこに潜んでいた言峰も木っ端微塵になっているはずで──。

 

「……!」

 

 上空に殺気。見れば、何メートルも飛び上がっていた言峰が、猛禽類のように降下しているところだった。人外の跳躍力によって、ヤツは手榴弾の殺傷範囲から逃れたのだ。

 ……そうだ。逃げ場はそこにしかない。言峰の身体能力であれば、そう出ることは分かっていた。一手先の死を避けるために、ヤツは自ら、逃げ場のない空中という()()へ飛び込んだ……!

 手榴弾(M67)を投擲した直後、引き抜いていた短機関銃(キャレコ)を右手で構える。胴体にはほとんど効果がないが、無防備な頭部であればどうか。50発分の徹甲(AP)弾、防げるものなら防いでみろ!

 

「喰らえ──!」

 

 連射、連射、連射。

 硝煙と薬莢が舞い、大量の弾丸が暗殺者へと殺到する。暴力の具現は、躱しようのない敵へ過たず収束し──

 

「な……っ!?」

 

 ()()()()()

 まるで悪質な手品のように、弾丸は言峰の体を通り抜けていった。目を疑った直後、銃弾に貫かれた男の体は霞のように消えていく。これはまさか。

 

「幻影魔術か!」

 

 視覚に作用するものか、それとも空間に作用するものか。カラクリに気づいた瞬間、透明なベールを剥がしたかのように、空間に無傷の言峰が現れる。距離は至近、銃による迎撃は間に合わない──!

 

「フッ──!」

 

投影(トレース)開始(オン)……!」

 

 振りかざされる黒鍵。刹那の判断でキャレコを手放し、空いた手に黄金の剣を投影。神速の刺突に、辛うじて防御が間に合った。

 が、安堵したのも束の間。渾身の力で握りしめている双剣が、見る見るうちに押し込まれていく。こいつ、どんな馬鹿力してやがる……!

 

「ぐ……教会じゃ魔術はご法度のはずだろ! 神父のくせに、妙な手口を使いやがって……!」

 

「毒を以て毒を制すという言葉があるだろう。埋葬機関の面々には、魔術を極めた者もいる。

 私のこれは所詮猿真似。師に及第点をもらった程度に過ぎぬが──未熟者相手には、これでも十分なようだ」

 

 言峰の口元には笑み。直後、足元に地震のような揺れが走り──途方もない剛力が、握った双剣を弾き飛ばした!

 

「──ッ!?」

 

 震脚。

 足を踏み鳴らした反動によって推進力を発生させ、打撃の威力を底上げする八極拳の技の一つ。言峰はそれを鍔競り合う黒鍵へと応用し、こちらの防御を打ち砕いたのか。

 想定外の使用をしたためか、言峰の力に耐えられなかったのか、ヤツの黒鍵はへし折れてしまっている。しかし、八極拳使いにとってそれが如何程の問題になろうか。武器を捨てた言峰の拳は、こちらの肺腑を打ち砕くべく握り込まれている……!

 

「──投影(トレース)

 

 判断が速い。動きが速い。俺が一手読む間に、言峰は二手目を放っている。これが聖堂教会代行者、死徒さえ屠る怪物の疾さか。

 アーチャーと対峙した際は、相手の思考が、動きが読めるという優位があった。だが、この男にそんなものは望めない。俺にできるのはただ一つ、少ない手札を組み合わせることのみ──。

 

開始(オン)……!」

 

 黄金剣の再投影。間一髪間に合った宝具に、戦車砲めいた秘拳が炸裂する。金剛八式、衝捶の一撃。

 腕ごと弾け飛んだのではないかという衝撃で、後方に体が薙ぐ。手から剣が吹き飛ばなかったのは、ほとんど奇跡の領域だ。なんとか踏み留まってカウンターを放とうとするが、その瞬間にはもう、言峰の擺脚(はいきゃく)が右手の剣を弾き飛ばしていた。

 蹴りを放った直後に軸足を入れ替え、渾身の右踹脚(たんきゃく)が受けに回った左手の剣を粉砕する。急造の投影品とはいえ、たった数撃で宝具を砕くなど、なんて馬鹿げた戦闘能力……!

 

「こなくそ──!」

 

 髪の毛を数本持っていかれながら、放たれた川掌をギリギリ躱し、黄金より貴重な一秒で双剣を再投影。続けざまに繰り出された頂肘を凌ぐが、もう余裕なんて一ミリも残っていない。圧倒的なまでの近接戦闘能力、このままでは一分と保たずジリ貧になって押し負ける。

 タイプは違うが、この男の拳術であれば葛木とも五分に戦えるだろう。つまり言峰は、サーヴァントとさえ殴り合えるほど桁外れの技量の持ち主だ。接近戦に持ち込まれた時点で勝機がない。

 俺の勝ち筋は遠距離戦だ。言峰が黒鍵の投擲以外に手札を持たないのに対し、こちらには銃も手榴弾も投影宝具もある。なんとしても、この絶望的な距離から逃げ出さなければいけないが──機関銃のような連続攻撃に、こちらの対処が間に合わない!

 

「噴ッ──!」

 

 右の剣が弾かれた途端、伸び切った腕に言峰の左手が添えられ、動きを封じると共に右手の突きが稲妻の速度で迫った。左手の剣を合わせて凌ぐが、コンクリートさえ砕きそうな力に押し負け、後ろに二歩退かされる。これ幸いと距離を取ろうとするも、それより早く言峰の活歩がヤツの体をゼロ距離に保つ……!

 ダメだ、言峰の攻撃範囲から逃れる隙がない。近づかれれば負けるという当初の予測は正しく、間合いの差こそが俺とヤツの勝負を決める。だというのに、ランサーのような機動力も、ライダーのような移動宝具も持たない俺には切れる手札が──待てよ、宝具?

 

「ええい、一か八か!」

 

 何度目になるかもわからない言峰の魔拳を、双剣を重ねて防御。攻撃がヒットした瞬間に目を瞑り──直後、拳を受けた宝具を()()()()()

 

 ──轟音。

 

 途轍もない爆風と衝撃波に、俺と言峰の体が、それぞれ真逆の方向に吹き飛ばされた。十メートル以上吹き飛んだ体は、岩の大地を無様に転がり、受け身を取ることさえ叶わず肺から息が押し出される。

 宝具に込められた魔力を暴走させて自爆させる禁じ手の中の禁じ手、アーチャーの必殺技の一つである『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。手榴弾で自爆するに等しい暴挙に、地に伏せた全身が悲鳴を上げていた。

 頭はぐらぐらと揺れ、耳にはキーンという嫌な音。全身は擦り傷で血だらけだし、この分だと骨に罅が入っていてもおかしくない。せっかく治療してもらったばかりなのに、俺の体はあっという間にボロボロになってしまった。

 だが、言峰の攻撃をまともに受けていれば、こんなものでは済まなかっただろう。体中の苦痛信号を無視し、ゆっくりとその場に立ち上がる。今の一撃で、ヤツにどれだけの手傷を負わせたか、一刻も早く確認しないと。

 

「ぐ、っ──よもや己が武具を自壊させるとはな。殺されるよりも早く死に急ぐとは、おまえは自殺志願者かね、衛宮士郎」

 

 二十メートル以上は先だろう。ふらつく視界でどうにか伺うと、林立する岩柱の一つに叩きつけられていた言峰が、よろよろと立ち上がるところだった。傍目に見ても俺に負けず劣らずボロボロの男は、大きく肩で息をしている。

 『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』は、半ば博打ではあったものの、何の勝算もなしに使ったわけではない。あんな至近距離で炸裂させる以上、どうあってもこちらの反動ダメージは防げないが、爆発の指向性はある程度操作できる。ヤツの意識が攻撃に向いていたところに、まともに奇襲を喰らわせながら、自分の被害は最小限に抑えたのだ。あれで決着がついていてくれれば幸いだったが──歴戦の代行者は、そこまで生ぬるい敵ではなかった。

 

「冗談。人類全てを巻き添えに自殺しようとしてるヤツなんかに言われたくないね」

 

 怪我を負い、まだ聴覚が少しおかしいが、両手も両足も動く。この体はまだ戦えると、自身の機能を再確認。

 一方の言峰は、爆発をまともに受けた右手がほとんどちぎれかかっていた。頭部からも流血していて、右目は流れる血で塞がれている。防弾装衣も焼け焦げ擦り切れていて、当初ほどの防御能力は見込めまい。事実上、言峰の戦闘能力はここに来て半減した。

 しかし、こちらも短機関銃(キャレコ)を失い、拳銃(グロック)の残弾も残り少ない。破片手榴弾(フラググレネード)も使い切り、残った武器は閃光音響手榴弾(スタングレネード)が一つと文字通りの切り札だけ。あとは投影魔術でやりくりするしかない。

 これでヤツとの戦力差はようやく五分か──いや、それでもまだこちらが不利だろう。ヤツは右手一本と右の視界を代償に、両足をほぼ無傷で耐え凌いだ。機動力が奪えなかった以上、再び距離を詰められれば一巻の終わりだ。同じ手札は二度も通用しまい。

 無表情に血と肉の塊になった右手を見下ろすと、激痛を感じさせない冷徹さで残った左腕を握り、突進の構えを取る言峰。それに合わせるようにホルスターからグロックを引き抜き、弾倉に異常がないことを確認。遊底を引くのと、ヤツが走り出すのは同時であり──第三ラウンドは、またも遠距離から始まった。

 

「喰らいやがれ……!」

 

 右手でグロックを連射、連射、連射。9mmパラベラム弾の豪雨を、残った左腕を掲げて盾にした言峰が突っ込んでくる。人間を制圧するには十分すぎる火力でも、代行者の肉体と防弾装衣は物ともしない。全身を釣瓶打つ衝撃も何のその、言峰は足さばきすら読めぬ挙動でたちまちに五メートルを詰めてみせた。

 これが効かないことは先刻承知だ。腕一本を削がれようと、代行者の能力は攻防ともに遥か格上。本命はそちらではなく、左手に握った筒状の物体にある。

 拳銃の狙いを上半身と頭部に集中させ、左腕にそこを防御させることで、もともと半減していた視界をさらに制限。残り十五メートルまで言峰が迫ったところで、ヤツの視界外から左手に握った物を投げつける。どういう感覚器官をしているのか、大きく跳躍して投擲物を回避した言峰だったが、次の瞬間。

 

 ──バァンッ!

 

 太陽が炸裂したような光と音が、宙に跳んだ言峰の体を打ち据えた。防弾装衣を掲げて攻撃に備えていた言峰だったが、光と音を防ぎ切ることは叶わず、着地に失敗して大きく体勢を崩した。

 閃光音響手榴弾(スタングレネード)が生み出す、100万カンデラの閃光と170デシベルを超える轟音。本来は閉鎖空間で人員の制圧に用いられる非致死性兵器だが、これを受けた人間はしばらくの間視聴覚を完全に封じられる。

 安全圏であるはずのこの位置で、備えていても頭がぐらつくほどの衝撃だ。よろめき、片膝をついた今の言峰は、まともに周囲を知覚することさえ叶うまい。いかに代行者とはいえ、復帰に数秒は要するはず。

 

 ──ここだ。千載一遇の好機。ヤツを仕留めるならここしかない。

 

 拳銃を戻す暇さえもどかしい。右手を離してグロックを捨て、コートの内側に提げていた、最後の一挺に手を伸ばす。切嗣が残した最後の遺産、その一撃を以て、無防備な神父に引導を渡そうと──。

 

「──え?」

 

 ふと、視界の端になにか白いものが見えた。こちらに迫ってくるそれに、反射的に左腕を掲げた直後、肉を抉られる強烈な痛み!

 腕を貫く赤い衝撃に、切り札を引き抜こうとした動作が強制中断される。見れば左手の中央、骨の合間を縫うようにして、深々と刃が突き刺さっていた。

 

「が、ぁ──!?」

 

 鮮血が流れる光景を直接見たことで、受けた傷の実感が強まったのか。目の前が真っ赤になったが、歯を砕けそうなほど食いしばって耐え凌ぐ。あの野郎、いつ黒鍵を投擲していやがった!?

 

「言峰、てめえ……!」

 

「軽率に抜かぬ方が身のためだぞ、衛宮。下手に黒鍵を引き剥がせば、一気に血を失うことになる。失血死が好みであれば止めはせんがな」

 

 ふてぶてしく笑い、言峰がゆるりと立ち上がる。ほんの数秒で、ヤツはもう衝撃から回復していた。

 罠に嵌めて確殺するはずが、逆にこちらの片手を奪われた。あまつさえ、言峰にはわざわざこちらに助言する余裕まであるときた。俺とヤツの間にある、途方もない戦闘経験値の壁を感じる──宝具の爆破で深手を負わせられたのは奇跡に近いだろう。

 と。なんの感情もなくこちらを睥睨していた虚無の瞳が、唐突に俺から視線を逸らした。何を見つけたのかと、痛みを堪えて警戒を深めると。

 

「ふむ。失血を待つのも一興とは思ったが──どうやら、悠長に事を構える時間はないようだ」

 

 何を、と問い質そうとした刹那、地面が大きく鳴動した。洞窟全体が軋むような揺れに、足がもつれて転びそうになる。

 地震ではないと直感する。では何者かの介入か。だが、この場には俺と言峰しかおらず、他にあるのは大きくそびえた大聖杯だけ──まさか。

 はっと気づいて振り仰ぐ。洞穴の最奥にそびえる構造物が視界に入った瞬間、それと()()()()()

 

「────」

 

 何かが、俺を見ている。

 広大な洞窟にあってなお、存在感を主張する大聖杯。その内側に、どす黒く染まった強烈な悪意を感じる。内にいる何者かは、明らかに外を凝視していた。

 ぞっとするような感覚。ただ見られているという()()()()()というだけでこの異様だ。あの中に潜むモノが外に出れば、見るだけで狂死しかねない。その前にあれを滅ぼさなければという焦りに、背筋に冷たい汗が滴ったのがわかった。

 だが、そんな俺を嘲笑うかのように。

 

「──え?」

 

 ぴしり、と空間に罅が入る。

 まるで子供が紙に描いた落書きのように、大聖杯の手前、洞窟の中空に歪な円状の何かが現れた。ブラックホールめいて黒いそれは、球というよりは穴に近いか。呼吸さえ忘れて異様さに見入っていると、穴の内側がうねるように動き──そこから、漆黒の泥が溢れ出した!

 

「な──何だよ、あれ……!」

 

「ほう。残るサーヴァントが少なくなったからか? 正式な儀式もまだだというのに、もう門が開きかけるとはな。『この世すべての悪(アンリ・マユ)』は、よほど急いで生まれたがっていると見える」

 

 どくん。どくん。どくん。

 幻聴か、それとも実際に音が響いているのか。大聖杯が、脈打つように揺らいでいる。その鼓動に応じるように、見上げるような高さの穴から、どす黒い泥が地面に落ちていく様子は──

 

 ──十年前の、炎の夜と同じだった。

 

()()は溢れた泥が街を焼き払ったものだが、此度はそこまでの勢いは見られんな。手順を踏まねば、やはりこぼれ落ちるのは断片程度か」

 

 吐き気を堪える俺を一顧だにせず、自らの流血にさえ無頓着に、異常な光景を眺める言峰。その間にも滴る黒泥は洞窟に滴り続け、侵食された地面は、まるで酸でも浴びたかのように嫌な煙を上げていた。あれに生物が触れればどうなるかは想像に難くない。

 見ている間にも溢れた泥は増えていく。あっという間に黒く禍々しい池が出来上がり、それに留まらず、四方へ川のように泥が流れていく。って、呑気に見ていられる状況じゃない、このままだとじきに俺たちまで飲み込まれる……!

 

「アレは私にとっては福音だが、おまえたちにとっては呪いとなる。一度外へと溢れ出せば、この星を地獄が覆うだろう。『この世すべての悪(アンリ・マユ)』の誕生は近い、止めたければ急ぐといい」

 

「おまえ、他人事みたいに言いやがって……!」

 

「実際、私にとっては他人事だ。私は『この世すべての悪(アンリ・マユ)』の誕生を見届け、その果てにある答えが知りたい。その過程でどれほどの()()()が生じようと、私の知りうるところではない──いや、より多くの悲劇が生じれば、心が満たされる糧にはなるか。

 十年前の火災は悪くなかった。無念のまま朽ちる人間の叫び、苦痛に泣き喚く人間の絶望──あれほど心を躍らせるものはない」

 

 言葉を失う。口元に笑みを浮かべ、朗々とそう語る神父の姿はあまりにも異様だった。

 教会で説法を解くのと同じように、いっそ神聖ささえ感じる素振りで、言峰は地獄を愉しいと語っている。自分の行動でどれだけの犠牲が生じようと、こいつは本心から何の痛痒も感じていないのだ。相互理解など望みようもない、人類社会に対する侵略者。

 一刻も早く息の根を止め、聖杯を破壊するしかない。しかし、どうやって。短機関銃(キャリコ)も、拳銃(グロック)も、手榴弾も使い果たした。俺に切れる手札といえば、他には。

 

「さて。まだ私と戦うか、衛宮士郎。おまえと私の間には、未だ埋めがたい差が横たわっている。渾身の隠し玉は、私を葬るには一手不足だった。状況を覆す手立てが、おまえには残っているのかな」

 

 皮肉げに笑う言峰。ほとんど嘲弄に近いそれを、殺意を以て睨み返す。

 俺と言峰を隔てる壁。その高さを埋めるための手札。かつての切嗣にはあったはずのものが、今の俺には届かない。貫かれた左手を庇いながら、俺は窮地に立たされていることを認めざるを得なかった──。

 

 

***

 

 

「ここが一番奥ね。あれが冬木の大聖杯か……なんて言うか、見るからにやばいっていう雰囲気出してるわね」

 

 山の地下とは思えぬほど広大な空間、そして中央で禍々しく聳える大聖杯の威容を見て、凛はふんと鼻を鳴らした。遠坂家が作成に関わったというアーティファクトだが、おそらく直に目にした人間はかなり前の先祖まで遡らねば見当たるまい。普段であれば、魔術史に残るであろう偉大な功績を垣間見て感慨の一つでも抱いたかもしれないが、今の凛にそんな殊勝な気持ちはなかった。

 

「遠巻きに見てるだけでも危険物の臭いがぷんぷんするわ。これ、何百年もこのままだったのかしら。この有様を見たら、父さんでも聖杯戦争を止めに動いたでしょうね」

 

「かつて戦った魔竜、ヴォーティガーンを思い出します。昼でありながら夜の帳に覆われ、光を食らう影の化身。ここまで悪の気配が強まっているということは、『この世すべての悪(アンリ・マユ)』の力が増しているのでしょう」

 

 凛に続き、洞穴から姿を現したのはセイバーだった。ギルガメッシュとの死闘でずたずたになっていた傷や服装は、強力な自己再生能力によって修復されている。凛よりも一回り高い、大人の体格になった彼女は、その腕に一人の少女を抱えていた。

 

「いよいよラスボスってわけね。もう悠長に調査するなんて言ってられる段階じゃないわ、こんなの。

 ご先祖様に怒られそうだけど、セイバーが言ったとおりなら、あれを放っておくわけにはいかない。セイバー、あなたの宝具で大聖杯を破壊できそう?」

 

「万全の状態であれば造作もありませんが、先の戦いの傷が重く、当面の戦闘は難しいかと。申し訳ありません、凛」

 

「しょうがないわよ、相手が相手だもの。まさか、アーチャーの正体が人類最古の英雄王だったなんて……士郎のやつ、またとんでもないサーヴァントを呼び出したわね。暴君で有名な英霊だもの、そりゃああれだけ偉そうなはずだわ」

 

 地下洞窟を抜けてくるまで、セイバーは凛にこれまでの経緯を説明していた。言峰の攻撃で人事不省に陥っていた凛はそれ以降の状況を知らず、セイバーの話と状況からの推察でようやく何が起きているのかを理解したのだった。

 

「わたしが綺礼と戦ってる間に、士郎とギルガメッシュは敵のアーチャーを撃退。わたしを助けに戻ってきた後、そのまま柳洞寺に殴りこんでセイバーと交戦、そして今に至ると。

 それにしても、ここに来るまで静かすぎたのは変よね。途中で倒れてた桜を助け出せただけで、士郎たちも綺礼たちも見当たらないし、罠の一つも置いてないんだもの」

 

「広場らしい場所で激しい戦闘の痕跡がありましたが、サーヴァントの姿はありませんでした。状況から見て、戦闘が起きてからは時間が経っていないようですが……なにか、私たちの予想できない事態になっているのかもしれません」

 

 道中、大聖杯があるこの終着点に近い広さのホールがあったのだが、そこは怪獣でも現れたのかというような凄惨な有様に成り果てていた。明らかにサーヴァントの力が振るわれたと思しき空間は歩くことすら困難で、洞窟全体が崩落しかけており、埋もれていた奥へ続く道はセイバーの力がなければ切り開けなかっただろう。

 凛たちは知る由もないが、ギルガメッシュとアーチャーの激闘が現実世界ではなく固有結界に推移したことで、彼女たちは二人と遭遇せずに移動することができていた。凛とセイバーが塞がれていた道を進もうと奮闘している間に、固有結界の解除場所がずれたことで、広間ではなく奥へ続く道の途中で決着がついていたのだが、その後に現れた二人は何故か桜一人が倒れている光景に首を傾げるだけだった。

 

「こういう時は闇雲に動くよりも、まず味方を探して合流しましょうか。セイバー、ここからなにか見えたりしない?」

 

「──! 凛、あちらを」

 

 セイバーが洞窟の一角を示す。凛がそちらを見ると、洞窟内に隆起している岩場の上に、白い人影が横たわっていた。

 

「イリヤスフィール? なんであんなところに……助けに行くわよ、セイバー」

 

 そう言うが早いが、魔術で強化された脚力で走り出す凛。片手に気を失ったままの桜を抱え、不測の事態に備えてもう片手に聖剣を召喚すると、セイバーも彼女の後に続く。

 誰にでもよく見えるような位置に、小聖杯であるイリヤスフィールが一人だけぽつんと寝かされている。明らかに罠臭い状況に、セイバーは警戒心を最大限に高めていたが、何の妨害も受けずたどり着けてしまったことに肩透かしを受けた気分だった。

 

「イリヤスフィール、大丈夫? 怪我はない?」

 

 セイバーが周囲を警戒する間、凛がイリヤスフィールを抱き起こす。桜の方は未だ意識不明だが、こちらは単に寝かされていただけのようで、凛が体を数度揺すると薄っすらと白い瞼が開いた。

 

「ん……リン……? 無事、だったの……?」

 

「それはこっちの台詞よ。大丈夫? あの後、何があったの?」

 

「コトミネに捕まった後、ヘンな薬を嗅がされて……その後から、ずーっとぼんやりした感じが続いてて……。ごめんなさい、よくわからないの。コトミネと、誰か……おじいちゃんみたいな人が言い争ってるみたいな音は、ちょっとだけ聞こえたんだけど」

 

「おじいちゃん? それって、臓硯のことかしら。綺礼と言い争ってた……?」

 

 言い争う言峰と臓硯。予想されていた敵の妨害や迎撃がまったくなかった理由。小聖杯という聖杯戦争を左右するキーカードが、一人は洞窟の途中、一人は高台の上に何の魔術的な意図もなく放置されていた状況。加えて──。

 

「凛。少し先にですが、虫の死骸のようなものが散らばっています。あれは……?」

 

 背後に控え、周囲を見渡していたセイバーが声をかけてくる。諸々の状況を鑑みた凛は、今までに得た情報を集約し、この不可解な様相にひとまずの仮定を導き出した。

 

「なんとなく、状況が見えてきたわ。手を組んでいた綺礼と臓硯は、たぶん仲間割れを起こしたのよ。こんなに簡単にここまでたどり着けたのも、防衛体制が整っていないのも、そう考えれば納得がいくわ。

 もし臓硯が無事なら、気持ち悪い蟲や罠がうじゃうじゃあったはず。それがまったくないっていうことは、綺礼が臓硯を不意打ちで始末したってことでしょうね」

 

 元より師事していた凛の父や、凛本人、そればかりか聖杯戦争の審判役という立場さえ裏切った男である。むしろ臓硯と仲良くしている方が不自然だ。

 問題なのは、未だ以て言峰の目的が見えてこないこと。セイバーから聞いた、十年前最後に残っていたマスターが言峰だったという証言からして、言峰が聖杯を狙っているのは明白だ。だが、聖杯がとうにまともに機能しない呪いの塊になっている事実を知らないはずがない。兄弟子が何を考えているのか、凛にはさっぱり分からなかったが、ろくでもないことに違いないという確信はあった。

 

「敵は一人減ったし、桜とイリヤも助け出せた。向こうが勝手に内輪揉めで自滅してくれたんだからラッキーね。となると、残った問題は」

 

「シロウたちとコトミネ、そしてあの大聖杯ですね。凛が言ったとおり、シロウと合流し、然る後に敵を叩くのが常道でしょう。まずは──」

 

 ぴしり、と何かが割れる音がした。

 凛もセイバーも、意識が朦朧としているイリヤスフィールすらも、一斉に音がした方向を振り仰ぐ。すると大聖杯の正面に暗黒の穴が開き、みるみるうちに、そこから毒々しい汚泥が溢れ始めた。赤黒く、人間の断片めいた色合いの泥は、たちまちのうちに容積を増やしておぞましい池を作っていく。

 仏教に語られる血の池地獄。血にかかわる罪を犯した者が堕とされるという伝承は、あるいはこの光景だったのか。洞窟に現れたそれは、常世全ての生命を殺したいという悪意に満ちていた。

 

 ──■■。

 ──■ね。

 ──死■。

 ──死ね。

 ──死ね!

 ──死ね!!!

 

 見るだけで正気を蝕まれるような呪いに、凛の表情がひきつる。魔術師の知識としてではなく人間の本能として、アレは触れてはいけないものだと直感した。アインツベルンの森で見た黒い泥は、この呪いのほんの一部に過ぎなかったのだろう。

 

「っ……! 下がってください、凛。あれに触れれば英霊とて身を蝕まれる。人間であればひとたまりもありません」

 

「なに、あの気持ち悪いの……。もしかして、アレが『この世すべての悪(アンリ・マユ)』だっていうの……?」

 

 じゅうじゅうと湯気を立てる黒い泥。悲鳴を上げて逃げ出さずに堪えているのは、凛に魔術師としての矜持があったからだ。みっともない姿を見せるわけにはいかない、余裕を持って優雅たれと、内なる恐怖を押さえつける。並の人間であれば、この時点で発狂していてもおかしくはなかった。

 

「冗談。いろいろ罠は予想してたけど、あんなのが出てくるなんて聞いてないっての……! ここまで楽できてラッキーなんて思ってたら、とんでもないしっぺ返しを食らわされたわね。

 さっさと逃げたいところだけど、アレが聖杯の中身だっていうなら、放っておいても止まらないわよね。街まで溢れ出したりなんてしたら──」

 

 想像した凛が戦慄する。あの泥が洞窟から溢れ出し、際限なく冬木の地を侵していく光景。十年前の大火災すら比較にならない、恐ろしい地獄が顕現することだろう。

 臓硯や言峰が聖杯を使えば、そのような未来が待っていることは想像していた。しかしセイバーが未だ健在な今、聖杯を使う条件は満たされていない──いや。もしギルガメッシュとあの謎のサーヴァントが、既に諸共に斃れているとしたら。

 

「そのパターンだったらゲームオーバーだけど……それなら、綺礼がこそこそ隠れてる理由はないわね。だとすると、綺礼は衛宮くんとまだ戦ってる……?

 セイバー、『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』はまだ使えない?」

 

「申し訳ありません。私がギルガメッシュに受けた宝具の中には、回復阻害の呪詛も多く含まれていたようで、動ける程度まで回復はしましたがそれ以上は……叶うならば、あの泥ごと聖杯を破壊していたのですが」

 

「やっぱりダメか。あの金ピカ、女の子相手にちょっとは手加減しなさいっての……!」

 

 舌打ちする。セイバーの宝具が使用できれば、ここに辿り着いた時点で勝負は決まっていた。

 だが、セイバーの存在はそもそもが想定外。単独でこの場所に乗り込むつもりだった凛は、自分一人で決着をつけることを考え、十年間溜め込んだ秘蔵の宝石を全て使い切るつもりで持ち込んでいる。しかし、あの泥をどうにかできたとしても、大聖杯を吹き飛ばすには火力が足りなかった。この状況を打開できるとすれば、それは──

 

「士郎!?」

 

 藁にもすがる思いで、使えるものがないかと周囲を見渡した時だった。洞窟の反対側に、見慣れた人影が飛び込んでくる。立ち並ぶ岩場の関係で、ちょうど凛の位置からしか見えない場所だった。

 周囲を警戒していたセイバーが、驚いたように凛を振り返る。一瞬前まで渋面を浮かべていた顔には、代わって希望の色が見えている。

 

「っ──! シロウがいたのですか!?」

 

「うん、あっちの方。よく見えないけど、綺礼と戦ってるみたいね。セイバー、今すぐ士郎を助けに……」

 

 ここから駆け出そうと、凛が前傾姿勢になった時。

 

「──、──、──!」

 

 洞窟が振動した。

 ごおん、と何かが砕ける音。凛が振り向くと、わずか二十メートルほど先にあった、岩の柱が崩れ去るところだった。いつの間にそこまで侵食していたのか、その根本には黒い泥が巻き付いている。

 際限なく孔から溢れ続ける泥は、池になり、次いで川になり、洞窟のそこかしこを無遠慮に汚染し続けていた。それだけでなく、広がっていく呪いの川からは、うねうねと触手のような影が無数に生えている。よく見ればその影の先端は、まるで死体のような人間の腕の形をしていた。

 その川が、腕が、明らかに指向性を持って凛たちが立つ岩場に迫ってきている。何かを求めるように伸ばされたどす黒い腕は、さながら悪質なホラー映画めいていた。

 

「やっば……ちょっとよそ見してる間に何よこれ! イリヤスフィール、ちょっとまずいことになってるわよ。立てる? 走れる?」

 

「っ、ん……ごめんなさい、リン……。まだ、頭がふらふらしてて……立ち上がるのはちょっと、無理、かも……」

 

 呪いの川が迫ってくるおぞましい光景に、イリヤスフィールの顔から血の気が引く。必死に立ち上がろうとする少女だったが、体に力が入らないのかその場に倒れてしまい、慌ててセイバーがその腕を支えた。

 その、一瞬。僅かな隙を見計らったように、泥から生えた呪いの腕が急に伸長し、触手のように岩場の上へ迫っていた。蛇を思わせるそれは、するするとイリヤスフィールに伸び、その細首を掴み上げようと──!

 

Aufhören(砕けろ)!」

 

 間一髪、凛の魔術が閃いた。

 ガンドでは威力不足と見て放たれた紅の宝石が、触手の中心を爆裂で吹き飛ばす。砕け散った黒い腕は、べちゃりと地面に落下し、元いた呪いの泥へと還っていった。

 だが、その抵抗を嘲笑うかのようにして、川からは無数の腕が生えてくる。泥が垂れ流される孔は遠くにあったはずなのに、地上に溢れた地獄は、もう凛たちがいる岩場の根本まで広がっていた。このままぼうっとしていれば、あと五分もしないうちに、凛たちはあの腕の仲間入りをすることになるだろう。

 

「早すぎる……! イリヤを狙ったってことは、こいつら、聖杯の器を逃したくないのね」

 

 広がり続ける黒い川に、凛の頬に冷や汗が伝う。臓硯や言峰による罠、あるいはサーヴァントによる奇襲は想定していたが、こんな星そのものを染めていくような悪夢は彼女の想定を外れていた。

 しかし、今すぐ逃げたいという焦燥に呑まれそうになりつつも、凛の頭脳は高速で回転していた。明らかにイリヤスフィールを標的にしていたということは、『この世すべての悪(アンリ・マユ)』は彼女を必要としている。それはつまり、未だ聖杯戦争の最終儀式が完了しておらず、あの泥は小聖杯がなければ存在を保ち続けられないという証拠。

 

「そういうことか。なら、まだチャンスはある──! セイバー、悪いんだけど、桜とイリヤを連れて外まで逃げてちょうだい」

 

「な──凛、貴方はどうするのですか」

 

 桜を背負い、イリヤを支えていたセイバーが瞠目する。この状況でサーヴァントを矢面に立たせず魔術師が残るなど、正気の選択肢ではない。いかに凛が才ある魔術師であろうと、あの泥に抗いうるはずがなかった。

 

「士郎を助けるわ。アーチャー(ギルガメッシュ)がどこにいるのかわからないけど、アイツは一人で綺礼と戦ってる。このままだと綺礼には勝てないし、放っておくわけにはいかないでしょ。士郎を助けて、ついでに聖杯もぶっ壊してくるわ。

 だけど、桜とイリヤは『この世すべての悪(アンリ・マユ)』に狙われてる。わたし一人じゃ、二人を連れて逃げるのは無理。士郎を助ける役と、二人を逃がす役──その割り振りは、こうするしかないのよ」

 

「──ちょっと待って、リン」

 

 ここで、辛うじて上体を起こしたイリヤスフィールが声を上げた。先ほどよりも意識が鮮明になってきたのか、紅の瞳にはしっかりとした意志が宿っている。

 自らの服に手を当てた彼女が何事かを呟くと、紫のシャツの下半分が輝きを放ち、分離して何か別のものに変形していく。服の半分が消え、インナーの白地が見える寒そうな姿になってしまったのを代償に、イリヤスフィールの真上には小さな鳥が元気よく羽ばたいていた。

 

「これって、あのミニ魔術師みたいな使い魔……?」

 

「服に仕込んでおいた緊急用だから、あんまり強くはないんだけど。リンの指示に従うようにしておいたから、よければ使って。今のわたしには、これぐらいしかできないから。

 シロウをよろしくね、リン。無事に連れて帰ってこなかったら、承知しないんだから」

 

「ありがとう、イリヤスフィール。そういうことなら、ありがたく使わせてもらう。士郎は首根っこ捕まえて引っ張ってくるから、安心して待ってなさい。

 ──っと、もう無駄話をしてる余裕はないみたいね。セイバー、悪いんだけど、二人のことを頼んだわ」

 

「承知しました。ご武運を、マスター」

 

 凛との契約はとうに消えているはずだが、セイバーの中では、未だに彼女が主なのか。小さく頷いたセイバーは、二人を抱えあげると跳躍して崖から駆け下りていった。

 『この世すべての悪(アンリ・マユ)』が暴れている影響か、洞窟はみしみしと軋んでいて、岩の断片がセイバーの体へと降り注ぐ。しかしサーヴァントの身体能力は岩を触れさせることもせず、立ちふさがる黒い泥さえ一蹴して、セイバーは戦場を離れていった。

 

「──さてと」

 

 三人を見送り、凛が洞窟を見渡す。岩場の周囲は黒い腕が取り囲み、じわじわと水位を増し続ける呪いの川は、あと二分もせず凛のいる場所を飲み込むだろう。自然の暴威に等しい大軍を相手に、凛が頼みとするのは、自分自身と空を舞う小さな鋼の鳥のみ。

 

「いよいよ最終決戦ってわけね。士郎を助けて、綺礼をぶっ飛ばして、この泥も大聖杯もぶっ壊す。ここまでコケにされた礼、熨斗つけて返してやろうじゃない!」

 

 ばちん、と頬を叩いて活を入れる。戦意に溢れる双眸は、この窮地にあっても些かも怯んだ様子を見せない。実を言えば、傷の治療は未だ完全ではなく、動くたびに凛の腹部には鈍い痛みが走っているのだが、その程度で彼女を止めることが叶おうはずもない。

 懐から取り出したのは、十年魔力を溜め込み続けた秘蔵のトパーズ(黄玉)。家どころか戦車さえ吹き飛ばして余りある大火力を叩きつけ、泥の中に道を作ると、凛は一目散に走り出した!

 

Ein KÖrper(灰は灰に) ist ein KÖrper(塵は塵に)──!」

 

 

***

 

 

「──困っているようだね、ギル。助けが必要かい?」

 

 ふと目を見開くと、彼は戦場にいた。

 元は森だったのであろうその場所には、樹齢数百年はあるであろう巨木が何千とそびえ立っている。しかし今、その大半は焼かれ砕かれ、荘厳な自然は見るも無惨な姿に変わり果てていた。

 破壊の中心に在るのは、異形。小さな子供のようなシルエットをしているが、その輪郭はどす黒い何かに覆われてはっきりしない。黒い胴体や背中からは何千という細い腕が伸び、血のような液体を撒き散らしながら周囲に破壊を振りまいていた。

 腕の数本が矢のように迫る。持っていた剣で切りつけ、防御できないものは転がって躱すと、黄金の青年──ギルガメッシュは、混乱する頭を抑えて立ち上がった。

 

「なんだ──ここは」

 

「彼女の叫びに呑まれたのかな? しっかりしなよ、ギル。彼女を倒すと決めたのは、君だったじゃないか」

 

 世界の全てを憎むような怨嗟の咆哮。理性があるとは到底思えず、無数の腕を振り回して暴れている怪物は、どう見ても尋常ではない脅威だった。背が震えるような叫びに、ギルガメッシュの頭脳が急速に情報を思い出す。

 

 ──森の番人にして神々の実験体、フワワ。

 ──これを討伐し、森に眠る膨大な資源を得る。

 ──そのために自分は、森の奥まで潜入したのだ。

 

 そうだ。確か、そうだったはずだ。しかし、頭の片隅に響くこの違和感はなんだ?

 

「■■■■■、■■■■■──!」

 

 怪物が絶叫する。がむしゃらに腕を振り回し、木々を殴りつけて破壊し、地面を掘り返すその様は、まるで子供の癇癪を何万倍というスケールに広げたようだった。

 ギルガメッシュを認識しているかどうかも怪しい。近づけば無数の腕が殴りつけるように迫ってくるが、それはおそらく反射だろう。明らかに触れてはならない色の腕を切り払い、無闇な接近は悪手であると判断したギルガメッシュは、遠巻きに見ている緑の人影にふと気づいた。

 

「エルキドゥ? 貴様、何をやっている。この痴れ者を始末する、疾く手を貸すがいい!」

 

「残念だけど、それはできないんだ。今回、僕の役割は()()()だからね」

 

「なに──?」

 

 ギルガメッシュの目がつり上がる。共に怪物に挑みに来たはずの親友が何を言っているのか、彼の頭脳を以てしても即座には理解できなかった。

 長い緑の髪に白い貫頭衣姿のエルキドゥは、大木に背中を預けたまま、何ら動く様子を見せない。おかしい。この状況、()()のエルキドゥは、ギルガメッシュですら引くほど激烈な攻撃性を顕にしていたはずではなかったか──?

 

「おまえ──」

 

 もはや無視しきれない違和感に、ギルガメッシュの動きが止まる。しかし、その瞬間を見計らったように、それまで無秩序に暴れていた無数の腕が一斉にギルガメッシュへと襲いかかった!

 

「ぬぅ……!」

 

 まだ無事な木々や岩を盾にし、黄金の双剣を振るい、怪物の猛攻を躱し続ける。反撃の暇などない。腕を切り落とそうとも叩き潰そうともすぐに再生し、その間に他の腕が押し寄せてくる。

 圧倒的な物量差。だが、物量ならば自分が劣るはずがない──いや、自分は()()()()()()()? またも襲い来る違和感に、頭の一部が痛みを訴える。足がふらついたギルガメッシュに、赤黒い腕たちが手刀を作り、四方八方から殺到する!

 

「な────」

 

 間に合わない。わけがわからないまま、無数の腕たちが体を貫き、一瞬で意識が──

 

 ──暗転。

 

 

***

 

 

「──起きなよ、ギル。まだ戦いは終わっていない。このままだと、あの女神の思い通りだよ」

 

 その声で意識が戻る。体を確認するが、手足も胴も無事だ。

 周囲を見渡すと、今いるのは森ではなく、広大な平原だった。ぽつぽつと木や川が散在しているだけの、長閑で、いっそ寂しささえ覚えるような風景だったが、中央にいる異物が雰囲気を塗り替えていた。

 それは、巨大な竜巻だった。直径は街一つ分にも及ぶだろうか? 竜巻の内側には赤く光る目が二つあり、分厚い雲を突き破るようにして一対の角が生えている。雷と風を従えたそれは、単なる自然現象ではあり得ない。それを見た瞬間、ギルガメッシュは再び情報を思い出す。

 

 ──神々が使役する、最大最強の神獣、天の牡牛(グガランナ)

 ──女神イシュタルが、ウルクを滅ぼすために送り込んできた刺客。

 ──ウルクを守り、あれを滅ぼすために自分は戦わなければならない。

 

 腕を振り、無数の宝具を召喚する。人が敵を滅ぼすために生み出した、剣、槍、矛、槌、といった武具の数々。それらを従え、宙を駆ける黄金の船に飛び乗ったところで、ギルガメッシュは無視しきれない違和感に気づく。

 自分は先ほどまで、森の番人(フワワ)と戦っていたはずではなかったか。窮地を脱することができず、敗北した記憶もある。あれは悪夢か何かだったのか?

 

「■■■■■──!」

 

 天の牡牛(グガランナ)が咆哮する。雷が炸裂し、膨大なエネルギーが刃のようにギルガメッシュへと押し寄せる。

 颯爽と黄金帆船(ヴィマーナ)を飛翔させ、盾の宝具で雷撃を弾くと、召喚した宝具を撃ち出して猛反撃するギルガメッシュ。炎や風、雷や氷、毒や呪いが巨大な神獣に炸裂するが、あまりに質量がありすぎるせいかまるで効いている様子がない。一方、その間に放たれる暴風や雷撃は、こちらも数十の宝具を撃ち出さなければ相殺すら叶わない。

 埒が明かない、と舌打ちする。攻撃を防ぐことはできるが、怪物の侵攻を止められない。大火力宝具で盤面を変えようにも、怪物の攻撃一つ一つが絶大な射程範囲を誇るせいでまるで隙がない。

 この状況を打開するには、最低でももう一人、自身と同格の戦闘能力を持つ存在が必要だ。その考えに思い至った刹那、ギルガメッシュは自分の親友の存在を思い出した。いや、そもそもなぜこの瞬間まで忘れていたのだろう。

 

「手を貸せ、エルキドゥ! あの狂牛めを調伏し、恥知らずの女神に躾をくれてやる!」

 

 振り仰ぐと、離れた高空に緑の人影が浮いているのが見えた。どれほど強大な敵であろうと、エルキドゥがいれば物の数ではない。いつも通り、威勢の良い声を上げたギルガメッシュだが──普段ならば即座に呼応するはずの親友は、なぜか動く様子を見せなかった。

 

「……? どうした、エルキドゥ」

 

「残念だけど、それはできないんだ。今回、僕の役割は()()()だからね」

 

 いつも柔和な笑みを浮かべているエルキドゥの、奇妙な無表情。ギルガメッシュの優れた視覚は数百メートル離れた空中でもそれを捉え、彼らしからぬ口ぶりに動揺した。

 いや、表情だけではない。それ以前に、ヤツはなんと言った? 確かあの台詞は、悪夢の中、フワワと戦っている最中にも口にした言葉のような──。

 

「■■■■■■■──!!!」

 

 その困惑が、大きな隙だったのか。

 怪物が咆哮を上げると、空にまるでもう一つの太陽かと見紛うほどの光球が出現した。見るからに凄まじいエネルギー量を秘めたそれは、直撃すれば都市を一瞬で灰にしよう。

 それほどの火力が、宙を舞うギルガメッシュただ一人に向けられる。黄金帆船(ヴィマーナ)に指示を出し、即座に回避しようとしたギルガメッシュだったが──どういうわけか、黄金帆船(ヴィマーナ)が反応しない!

 

「な────」

 

 絶句するギルガメッシュを、膨大な光が飲み込む。体が蒸発する感覚と共に、意識が消し飛び──

 

 ──暗転。

 

 

***

 

 

「どこだ、ここは──?」

 

 ふと気づくと、そこは川の畔だった。

 穏やかな日差し。羽ばたく鳥の音。魚が跳ねる水しぶき。争いとは無縁の、瞼が重くなるような平和な光景が、そこには広がっていた。

 怪物も神獣もいない、平和そのものといった空間。自分が木陰にいることに気づいたギルガメッシュは、そのまま微睡んでしまいたい気持ちに駆られる。寝転がろうとした刹那、彼は自分が何かを持っていることに気づいた。

 

「む。これは──」

 

 一見して、何の変哲もない草。しかし、それが途方も無い価値を秘めた霊草であることを、ギルガメッシュは知っていた。この霊草を手に入れるためにどれほどの苦労を重ねてきたのか、記憶の洪水が一気に蘇る。

 

 ──何十年という月日を、これを探すために注ぎ込んだ。

 ──数え切れないほどの危機に晒され、窮地に追い込まれた。

 ──この世の果てまで訪ねてようやく、自分は勝利を手にしたのだ。

 

 地上の生命に遍く訪れる、寿命という制約。この霊草はその絶望を打ち払う、不老不死という効能を秘めているのだ。これほどの財宝を手に入れた存在は、天上天下にただ一人しかおるまい。

 ギルガメッシュの心を充実感が満たす。ウルクに凱旋すれば、民草は喝采の声で迎えることだろう。

 だが、今の自分は長い放浪の旅で汚れきっている。そもそもこの小川には、体を清める目的で立ち寄ったのではなかったか。一度荷物を置いて、清涼な流れに身を任せよう──。

 

「──ん?」

 

 そう独りごち、川の方を振り向いた時だった。せせらぎの中央に、いつの間にか人影が佇んでいる。その人物を見たギルガメッシュは、怪訝さに紅の瞳を細めた。

 

「エルキドゥ?」

 

「──やあ。ついに手に入れたんだね、ギル」

 

 両手を広げ、嬉しそうな表情を浮かべているのはエルキドゥだった。どうして彼がここにいるのか──違和感が過るが、それよりも今は高揚の方が勝る。勝利の証を、ギルガメッシュは高々と親友に掲げてみせた。

 

「いかにも。これこそが死を打ち破る、神どもが隠し続けた秘宝よ。これでおまえの()()を晴らすこともできよう──む?」

 

 傲然と語ったところで、何か致命的なおかしさに気づく。自分の発した言葉の意味を確かめたギルガメッシュは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 彼が不老不死を求めたのは、そもそもエルキドゥが呪いによって殺されたことがきっかけだった。ならばなぜ──

 

 ──死んだはずのエルキドゥが()()()()()()()()のか?

 

「ソれは嬉しイよ。やっト君ノ願いガ叶うんダね」

 

 どろり、とエルキドゥの輪郭が崩れる。親友の見た目をしていたのは、どす黒いナニカだった。

 黒く禍々しく、赤い血のようなものを滴らせるソレが腕を振るうと、世界が一瞬で変貌した。穏やかな日差しは冥夜に、羽ばたく鳥の音は悲鳴に、魚が跳ねる水しぶきは肉が破裂する血の音に。赤と黒で彩られた、吐き気を催すような地獄が顕現する。

 その中央で、エルキドゥらしいナニカがにぃっと笑った。半月状の笑みが、黒い影の中にはっきりと刻まれる。

 おぞましい異常さに、混乱した表情のギルガメッシュが一歩退く。周囲で風に揺らいでいた草木が、今や無数の骨や亡者の腕に変わっていることに気づき、秀麗な顔に険しさが宿る。

 

「サあ、そレを飲みナヨ。ボくの無念ヲ晴ラしテクれるンだロう? ソれを飲んデ、ボくと同じカラダになロウよ」

 

 真っ黒な異形が、指らしきものを向けてくる。それが指し示すのは、ギルガメッシュが握っていた霊草。

 ふと見下ろすと、神々しさを纏っていた緑の草は、赤黒い内臓めいた何かに変わり果てていた。どくんどくんと脈打つそれは、まるで心臓を思わせる。それに脚らしきものが無数に生え、手の中をかさかさと這い回り始めるに至っては、豪胆なギルガメッシュもさすがに放り捨てざるを得なかった。

 

「ドウして捨てルんダイ? そレハ君ガ欲しカッたモノだろウ?」

 

 かつて木や草だった腕や骨たちに目が生え、その目が一斉にギルガメッシュを凝視する。赤黒く染まった無数の目は、怒りと嘆きを訴えかけているようだった。

 もう一歩ギルガメッシュが退くが、背後に何者かの気配を感じる。はっと振り仰ぐと、先ほどまで大木があったはずの場所には、巨大な顔が浮かんでいた。エルキドゥのカタチをした顔だけの異形は、にこっと無垢な笑みを浮かべ──その顔が、まるで酸を浴びたように溶け始める。血と肉の塊になりながら、それでも人の顔らしき形を留めてケタケタと笑うそれは、まさしく悪夢の具現だった。

 しかし、常人ならばこれだけで発狂しかねない異常さに、ギルガメッシュは微かに表情を歪めたのみ。顔の化け物を一瞥した彼は、最初に現れたヒトガタの怪物に向き直ると、ぎろりと鋭く睨みつけた。

 

「──誰だ、貴様は」

 

「ヒどいナあ。ボクのこトヲ忘レてしマったノカい? ぼクはキみのトモだチだロウ?」

 

「痴れ者が。我が友がそのような口を利くものか」

 

 常軌を逸した世界にあっても、彼は冷静さを失わない。ギルガメッシュの眼は、エルキドゥを騙る存在は偽物であると断じていた。いや、偽物なのはそれだけではなく──。

 

「貴様だけではない。目に見えているものも、音も、匂いも──否、この世界そのものが偽物か。この我を謀ろうとは、思い上がったな!」

 

 状況が把握できない。情報が欠落している。記憶にノイズが混じっているようで、何がどうなっているのか正確には分からない。

 だが、そのような些事はどうでも良かった。戦うべき敵は目の前にいる。周囲を未知の怪物に囲まれていようと、ギルガメッシュの胸に恐れはない。あるのはただ、無二の朋友を騙り、友情を愚弄した罪人への怒りのみ。

 右手をかざす。魂の半身、英霊としての象徴は、異界めいた空間であろうと関係なく馳せ参じる。旋転する神の剣に、巨大な顔も、亡者たちの腕も、明らかに怯んだ様子を見せた。

 

「ギル、ぼクは──」

 

「薄汚い口を閉じよ、贋作がッ! 一掃せよ、エア! この偽物どもに、真実を知らしめてやるがいい!」

 

 赤い烈風が走る。地を薙ぐ一撃は、彼を取り巻く異形たちを粉微塵に吹き飛ばした。それだけでなく、赤黒く変わり果てていた世界そのものに、割れるように罅が刻まれていく。

 英雄王が執る乖離剣(エア)は、()()()()()()を破壊する宝具。ベールが剥がれるように、悪夢の光景は砕け散っていき、そして──。

 

 

***

 

 

「おいおい、マジかよ……。せっかくアンタ専用にわざわざステージを作ったってのに、ぶっ壊して出てきやがった……どういう精神(メンタル)してんだよ、アンタ」

 

 天も地もなく、ただ黒一色に染まった空間。その中心に立つ人物は、呆れたように首を振ってみせた。

 少年から青年になりかけている、という年の頃。茶色の肌を覆い尽くすように刻まれた黒い入れ墨。頭と腰部に赤い布を巻き、黄色く目をぎらつかせるその様は、およそ尋常な存在ではなかった。

 しかしながら、異彩を放つ外観であっても、ギルガメッシュはその顔貌に見覚えがあった。配色こそ違えど、その人物は、明らかに彼のマスターである衛宮士郎に酷似している。

 

「誰だ、貴様は」

 

「おいおい、誰だとはご挨拶だな。十年前にも一回アンタとは会ってるじゃねーか。もう記憶も思い出せてるだろう?」

 

 英霊でさえ怯むほどの威圧に、謎の人物はケタケタと笑ってみせる。その無礼さは不愉快だったが、今は現状を把握する方が先決と、ギルガメッシュはひとまず誅罰を後回しにした。

 先ほどまでどうにも不鮮明だった記憶が、今はすっきりとしている。アーチャーとの激闘の後、突如黒い影に飲み込まれたところから意識が消えているが、その後は先ほどまでの幻覚──いや、幻影を見せる結界の中に囚われていたのだろう。

 半神の英霊であるギルガメッシュは幾つかの特殊な能力を持つが、その中には『記憶を忘れることがない』というものがある。言い換えれば、彼の記憶が異常を来すのは外的要因しかない。そしてこの世界において、今だけでなく、ギルガメッシュの記憶に長らく蓋をし続けていた存在は。

 

「なるほど、貴様は聖杯──いや。『この世全ての悪(アンリ・マユ)』と呼ぶべきか」

 

「あったりー。最弱英霊アヴェンジャー、人呼んでアンリマユ。めでたく本邦初登場、ってね」

 

 人を喰ったような笑みを浮かべ、道化師のように一礼してみせる男──アンリマユ。聖杯の中に潜んでいた悪意は、悪神という伝承にはまるでそぐわない軽妙さを伴っていた。しばらくその姿を眺めていたギルガメッシュは、ふむと納得したように頷く。

 

「察するに、貴様の正体は虚無か。小僧の皮を被らねば、意思疎通すら叶わぬと見た。それで、貴様ごとき偽物が王たる我に何を望む」

 

「うっわ、一発で正体バラすのやめてくれませんかねえ……これだから王様ってのはおっかねえんだよ。あの女のコの方も、オレの呪いを弾いちゃうしさあ……」

 

 肩を竦めてヤダヤダ、と軽く語るアンリマユ。人間のように振る舞っているが、ギルガメッシュが見抜いたように、彼の内側には何もない。

 もともとアンリマユという英霊は、とある村に住んでいた青年だった。しかし、その村にあった宗教が原因で、人身御供としてありとあらゆる拷問の末に殺されることになる。結果として宗教を通じ、その村を救った「英雄」として、彼は英霊の座の末端に刻まれたのだ。

 人間としての名前は呪術的に剥奪され、人格は生前の苛烈極まる拷問の影響で精神ごと消滅している。誰かの「殻」を借り、その人格を模倣しなければ人間のように振る舞うことさえできない──それが、彼の歪な在り方だった。

 

「んで、何が望みって話だっけ。んー……()()()()んだけど、強いて言えばここでオレとお喋りしててもらうことかな」

 

「なに?」

 

「アンタがもっと弱ければ話は別だったんだけど、王様、アンタ強すぎるんだよ」

 

 アンリマユがぱちんと指を鳴らす。すると、黒一色だった世界に、モニターのようなものが現れた。

 モニターの中に映っているのは、ギルガメッシュとセイバー。しかし、それは先の戦いの光景ではない。ホールのような場所で、出現した聖杯を背後に向かい合う二人の姿は、第四次聖杯戦争のものだった。

 見ている間にセイバーが宝具を発動し、ギルガメッシュは間一髪聖剣の閃光から逃れる。しかしその直後、聖杯の内側から溢れ出した「泥」の中に、黄金のサーヴァントは飲み込まれてしまった。

 

「本来だったらここで終わりだった。英霊といっても人間である以上、オレの呪いからは逃れられない。そしてサーヴァントである以上、聖杯には逆らえない。アンタはどうやっても、ここで溶けて消えるはずだった。だけど」

 

 シーンが切り替わる。燃える夜の下、黒く濁った泥が破裂する。そこから現れたのは、黄金比の均整を備える完璧なる肉体──サーヴァント・アーチャーが、霊体ではなく肉の体を得て、英雄王ギルガメッシュとして再誕した光景だった。

 

「アンタは戻ってきた。どうやったのかは知らないが、アンタはオレの呪いに耐えた──いや、そもそも呪いを受け付けなかった。この時オレ(聖杯)は、アンタがヤバいやつだってことに気がついたのさ」

 

 再び指が鳴る。モニターを消したアンリマユは、さて、とギルガメッシュに振り返った。

 

「今回、アンタは序盤からいろいろあったみたいだけど、アレは残念ながらオレのせいじゃない。十年前の()()()()()()()()が仕掛けた爆薬が、地震で誤作動したせいで、召喚システムの一部がおかしくなっちまったのが原因さ。ほんとは何十年か後に、この聖杯ごとぶっ壊す予定だったんだろうけど、自然現象で計画が狂っちまったんだろうな。

 んでまあ今回も、アンタは終盤まで生き残った。アンタがヤバいってことはわかってたから、オレもどうにかしようって無い頭を捻ったわけさ」

 

 今度は二つのモニターが現れる。一つは柳洞寺跡、ギルガメッシュとセイバーが斬り合っている光景。もう一つは無限に剣が立ち並ぶ世界、ギルガメッシュとアーチャーが宝具を撃ち合っている光景。どちらも、すぐ直前の出来事だ。

 見ているうちに戦いは進み、画面の中で、ギルガメッシュと対決していたセイバーとアーチャーがそれぞれ黒い呪いに飲み込まれてしまう。

 

「聖杯的にはルール違反なんだけど、だいぶ贔屓したつもりだったんだぜ? だけど」

 

 セイバーを包み込んでいた黒い靄が吹き飛ばされる。中から現れたのは、呪いや悪意など微塵も残っていない、輝ける騎士王の威容。

 アーチャーを包む黒い呪いはどこまでも膨れ上がり、恐るべき巨人の姿となる。しかし赤い旋風が、その巨人を一刀両断してしまう。

 

「アーサー王の方はオレの呪いを弾いちまうし、赤いおっさんの方はあんだけリソース使わせてやったのにアンタに負けちまった。正直、もうこりゃ無理だと思ったよ」

 

 両手を上げてひらひらと振って見せるアンリマユ。どこから取り出したのか、右手にはわざわざ白い布のようなものを巻いていた。

 

「だけどまあ、捨てる神あれば拾う神あり、ってな。ま、巷だとオレが神サマってことになってるらしいが」

 

 モニターが消える。ぱちん、と柏手を打ってみせたアンリマユは、どこからともなく現れた椅子に腰掛けて。

 

「この山に来てからアンタ、オレ対策(メタ)にずっと宝具を用意してたみたいだけど、赤いおっさんとの戦いでそれも剥がれちまった。それでのこのこ、生身で奈落に落ちちまったんだから、もうさすがに打つ手なしだろ」

 

 白い布が放られる。すると、黒い空間からにゅっと触手のようなものが伸び、布を一瞬で飲み込んでしまった。後にはただ、虚無の静けさが響くのみ。囚われた布は、光を見ることなどできはしない。

 

「そう。アンタはもう、どうやってもここから抜け出せない。アンタを汚染するのは無理でも、体の方から溶かしちまえば話は別だ。おとなしく、オレが()()()()ための栄養になってくれ」

 

 パチン。

 今度指を鳴らしたのは、ギルガメッシュの方だった。本来ならば、即座に呼応した無数の宝具がアンリマユを串刺しにするはずだったのだが──何も起きない。その様子にギルガメッシュの目が細まり、アンリマユはにいっと滴るような笑みを浮かべてみせる。

 

「そいつは無駄だ。さっきの()()はちっとばかし特別だったけど、ここにあるのはアンタの精神だけ。自慢の宝具は出禁だし、そもそもアンタ、まともに動くこともできないだろ?」

 

 揶揄するようなアンリマユに、ギルガメッシュは沈黙で応える。彼の言う通りだった。口と、辛うじて上半身は動かせるが、腰から下は黒い鎖のようなもので縛り付けられていた。

 この場では誰が囚人で誰が看守なのか、その鎖を見れば一目瞭然だった。不快げに頬を歪ませるギルガメッシュ。

 

「アンタを相手にするのに、何十年も溜め込んだ魔力はだいぶなくなっちまったけど、ラッキーなことにアンタは特別みたいだ。英霊三騎分以上の魂なんてマジでバケモンだよ。

 ま、そういうわけで、アンタはここで自分の体が溶けてなくなるまで大人しくオレとお喋りしててくれればそれでいい。や、オレもヒトと話すのなんてもう覚えてないぐらい久々だからさ、冥土の土産に付き合ってよ。……あ、冥土に行くのはアンタの方だったか」

 

 アンリマユは、これはいけねえ、とふざけて額を叩く。そこには敵意も悪意もまったくない。アンリマユはただ彼の本能として、ただ()()()()()()()そうしている。彼は別段、ギルガメッシュに思うところがあるわけではなく、ただ自分が危険だから防衛行動を取り、また自分が生まれるために必要だから取り込もうとしているだけだった。

 

「ってことで、今回の聖杯戦争はこれにてゲームセット。めでたく俺が生まれて、あとは人間の皆さんがオレを(のろ)ってくれるっていうワケ。

 前回はもう少しってとこで邪魔が入ったけど、今回は対策もバッチリ。騎士王ちゃんは回復できてないし、アンタはここから出られない。前回と違ってアンタの魔力はすっからかんだし、アンタを取り込んだのは端末じゃなくて本体の方」

 

 各サーヴァントと繋がっている聖杯には、戦闘の情報が筒抜けなのだろう。激闘を続けたギルガメッシュには、確かにほとんど魔力が残っていなかった。

 本来ならば問題にはなり得ない。ギルガメッシュは半神として、騎士王の竜の心臓にも劣らぬ魔力生成能力があるし、それ以前に宝物庫には魔力回復・供給用の宝具など掃いて捨てるほど有り余っている。しかし、ギルガメッシュが影に飲み込まれたのは、回復する暇もない戦闘直後のタイミングだった。

 有り余る魔力で無理やり脱出することもできない。また、影の力自体も、今回は聖杯と直結しているため脅威度が段違いだ。何をどう見渡しても、八方塞がりの状態であり──。

 

「要するに。ゲームオーバーだよ、王様」

 

 首を掻き切る仕草をするアンリマユ。それは明らかな、勝者の余裕だった。

 

「さっきの幻覚で諦めてくれるかなーって思ったんだけど、アンタ全然へこたれない、っていうか幻覚破っちゃうしさあ……あれ、わざわざアンタ専用に一生懸命考えて作ったんだぜ?

 そんなわけで、しょうがないから説明会にシフトすることにしました。どっちにしろアンタの負けは決まってるんだけど、ただ黙っただけってのも面白くないし、こういうシチュも面白いだろ? あれだよ、探偵もので犯人を追い詰める時の探偵みたいなさ。あなたを犯人です! ……いや、犯人はオレなんだけどね?」

 

 赤いバンダナを覆面のようにしておどけてみせるアンリマユ。おもむろに立ち上がった黒い英霊は、動けずに固まっているギルガメッシュに近づくと、馴れ馴れしくぽんと肩を叩いてきて。

 

「まあ王様、また次回頑張ってくれよ! アンタはここで負けても英霊の座にカムバーック、あとは高みの見物だ。もっとも、オレが生まれちまうとこの星は終わっちゃうだろうから、次回があるかどうかはわかんないけどな!」

 

「──次回だと?」

 

 黙って聞いていたギルガメッシュが、小さくそう呟く。そこには紛れもない、嘲弄の意志が混じっていた。

 

「やはり偽物は偽物だな。聖杯の中に溶け、そんなことさえ忘れたか英霊もどき。()()()()()()などと、そのような惰弱な考えでいるから、貴様はいつも敗者の側なのだ」

 

「敗者ねえ。オレが負け組なのはその通りなんだけど、アンタも大概人のことは言えないぜ、王様」

 

 指が鳴る。三度現れたモニターは、その数も三枚に増えていた。

 今度映っているのは、ギルガメッシュの記憶にない光景だった。記憶に存在しないにも関わらず自分が映っているという光景に一瞬驚くが、優れた頭脳はすぐに答えを導き出す。

 聖杯はサーヴァント召喚に関連して、英霊の座にアクセスする機能を持っている。そして英霊の座とは、時系列や並行世界の概念の上位にあたる、根源の渦に近い場所に存在するモノだ。そこには下位にあたる時系列や並行世界の情報も格納されている。今回の聖杯戦争で、まだ存在していない未来の英霊であるアーチャーが召喚されたのはそういうカラクリだ。

 つまり目の前に見えているものも、おそらくは英霊の座に存在する並行世界の情報なのだろう。そう結論付けたギルガメッシュは平然としていたが、その様子を見ていたアンリマユはつまらなそうに唇を突き出してみせた。

 

「いやアンタ、これ見ても驚きもしないのかよ……まあいいや、とりあえずVTRをどうぞ」

 

 アンリマユが、もったいぶったように腕を振る。三枚のモニターが若干近づき、大写しになる。そこに流れる映像は、数々の『敗北』の光景だった。

 

 ──月の聖杯(ムーンセル)と一体化し、神に等しい存在となった魔性菩薩。その埒外の権能によって、数千光年の彼方に消し飛ばされるギルガメッシュ。

 ──地上に現れたイシュタルの謀略で、黄金の宝物庫が封印されてしまう。武器を使えない状況下で、最強(ヒュドラ)の毒に倒されるギルガメッシュ。

 ──海を、大地を埋め尽くす創世神(ティアマト)。無限に溢れ出る魔獣に破壊しつくされる街と、神罰にも等しい攻撃に射抜かれるギルガメッシュ。

 

 全英霊中最強の英雄王が、追い詰められ、成す術なく倒されていく。ギルガメッシュという英霊を知る者からすれば信じがたい光景に、アンリマユはひゅーっと下手な口笛を吹いてみせた。

 

「今度は幻覚じゃないぜ? これは正真正銘、本当に起きた出来事だ。今回もそうだし、どの世界でもそうさ。王様、いつも倒される側の敗者なのはアンタなんだぜ」

 

「…………」

 

「アンタは最強で、オレは最弱。だけど、結局は同じってワケだ。オレたちは英雄だなんだと言われようとも、()()()()()()()()()()()()ようになってる、()()()()()()()なのさ」

 

 ここまで、へらへらと空虚な言葉を重ねてきたアンリマユが。その一言にだけは、微かな感情を籠めていた。自分を(わら)ったのか、それとも他人を嘲笑(わら)ったのか。空虚なガラス玉のようだった眼差しには、その一瞬、僅かに炎が宿っていて。

 

「だから、今回も残念でしたってコトで。もう諦めてくれていいんだぜ、そうすりゃオレの仕事もラクに──」

 

 

「──笑わせる」

 

 

 ザ、と。

 その瞬間、敗北の光景を流し続けていたモニターに、ちらつくようなノイズが走った。ん? とアンリマユが首を捻った刹那、もう一度、モニターの映像が歪に揺れる。

 

「次がある? 倒される側? 理不尽には勝てぬ? ──妄言も甚だしい。姿形を騙ろうとも、貴様のそれは上辺だけ。英雄の何たるかを、貴様は何も理解しておらん」

 

 空気が震える。

 この特殊な空間、現世と英霊の座を繋ぐ場所に、空気などあるはずがない。だというのに風が吹いたのを、アンリマユは確かに感じていた。

 知らず、アンリマユの足が一歩退く。そこで初めて、彼は自分に鳥肌が立っていることに気がついた。震えていたのは空気だけではなく、脅威を感じ取った彼自身もだったのだ。

 

「英雄とは、今の一瞬に命を賭けるものだ。たとえ詰られ謗られ、倒されるべき存在として石に打たれようとも諦めぬものだ。理不尽を超えるために、輝ける魂を燃やすものだ。英雄とは、それ故に奇跡を招き寄せ──それ故に、英雄として名を残すのだ」

 

 面を上げるギルガメッシュ。ろくに身動きもできず、逃げ出すことも叶わぬ虜囚だというのに、王の瞳には些かの諦観もない。

 敗北という現実を突きつけられているのに、何故この男の光は揺るがないのか。闇の中にあってなお輝く王気(オーラ)にアンリマユが一歩退いたと同時、モニターに走っていたノイズが強まり、砂嵐を映し出したかのように乱れ始めた。数秒後、突如としてノイズがなくなると、そこには。

 

「な──」

 

 アンリマユが絶句する。モニターに映し出されていたのは、先ほどまでと同じだったが──それは『敗北』ではなく、『勝利』の光景だった。

 

 ──遠い未来の宝具を使い、神の権能を打ち破ってみせたギルガメッシュ。マスターのバックアップを受けた神殺しの英霊は、ついに魔性菩薩に引導を渡す。

 ──どのような手段で復活したのか、エルキドゥと二人で進軍するギルガメッシュ。イシュタルを、森の番人(フワワ)を、天の牡牛(グガランナ)を相手取る英雄王の顔には笑み。

 ──絶叫する創世神(ティアマト)。花の魔術師が、冥界の女主人が、至高の暗殺者が、その威容を傷つけていく。皆の連携の末に、英雄王の執る乖離剣が、遂に未来を切り開いた。

 

 絶対的な窮地。圧倒的な敗北。そこにありえないはずの奇跡が起こり、希望が絶望を塗り替えていく。凄惨な悲劇は、いつしか輝ける神話へと生まれ変わっていた。

 

「貴様が()()とおり、人の世は斯くもおぞましい。裏切りが蔓延り、努力は踏み躙られ、生まれが、育ちが、環境が、運が、あらゆる要素が身を苛む。地獄とは伝承の中ではなく、この現実にこそ存在する。

 ──だが。地獄の中でも這い上がり、星を掴もうと足掻くものにこそ、真の英雄たる資格がある」

 

 朗々と語るギルガメッシュ。人ならざる神の瞳は、この聖杯戦争においてすら、人の価値を見定めていた。

 

 偽物から本物に成り代わった者がいた。

 理想を砕かれ、呪いに侵されても、諦めぬ者がいた。

 悲願を踏み躙られ、従者を失っても、それでも戦う者がいた。

 

 生まれの貴賤でもなく、能力の多寡でもなく、ただ意志を以て荒野を切り拓く者たち。英雄王はそういった人間こそを、尊ぶべき民と、価値ある宝だと認めている。

 彼らこそが英雄、彼らこそが英霊。ならば、英雄の中の英雄、王の中の王とは如何なる存在か。

 

「不可能とは凡俗が定義するもの。諦観とは弱者が抱くもの。限界とは偽物の言い訳に過ぎん」

 

 闇が揺れる。絶対者である『この世全ての悪(アンリ・マユ)』を除いて、何者も自由に動けぬはずの世界が軋む。ギルガメッシュを縛り付けていた鎖に、徐々に亀裂が入り始める。

 当然だ。彼こそは英雄王。神々の世界に終焉を齎し、人類の世界を照らした原初の王。人も神も星さえも、彼の道を阻むことはできなかった。いわんや──「この世全ての悪」など、いかほどの脅威になろうか。

 ぴし、と一本の鎖が割れる。連鎖するように、ギルガメッシュの半身を覆う鎖たちが、怯えたように砕けていく。そればかりか、闇一色だった世界までもが、圧力に耐えかねたかの如く罅割れ始めた。

 

「絶望など生温い。敗北など片腹痛い。全てを乗り越え、総てを掴み取ってこその王。故に──」

 

 目を見開くアンリマユ。最後の一本の鎖が弾ける。拘束を振り払った男は、傲慢極まりない仕草で腕を組み──。

 

「──この世の全てなど、とうの昔に背負っている」

 

 恒星すら眩むほど、燦然と輝く圧倒的な王気(オーラ)。これが、絶対王者の姿だった。

 世界そのものに対する宣戦布告、否、勝利宣言。決して折れず諦めず、欲望を極め抜き、万象一切を手に入れ、そして人類を裁定する男。人を呪い尽くす悪意さえ、彼には些かの痛痒も与えることは叶わない。

 

「なんなんだよ」

 

 アンリマユが戦慄する。立っていることすら忘れたのか、尻餅をついて見上げる悪神の顔には、畏怖。あらゆる悪意も絶望も跳ね除ける、想像を絶する存在を前に、星を呪い殺す怪物が震えていた。

 支配者が揺らげば、空間の安定は崩れるだけ。ぽろぽろと溢れるように、暗黒の世界が剥がれていく。外側から響き渡るのは、英雄王の名を呼ぶ声。懇願のようにも、喝采のようにも聞こえるそれに、アンリマユが怯えたように退く。

 王とは唯一にして絶対、それ故に孤高なる存在。しかし、如何なる時代であっても、英雄は人々に求められる。その圧倒的な煌めきに、かつて神々すら魅せられた。

 

「何者なんだよ、アンタ──」

 

 被っていた皮さえ維持できない。アンリマユの姿が揺らぎ、溶けていく。その最後の問いに、傲然と笑った英雄王は。

 

「我は絶対にして始まりの王。英雄の中の英雄王、ギルガメッシュ──故に、貴様もそう呼ぶがいい」

 

 世界が割れる。眩い光が、彼を呼ぶ声が、王の姿を包み込んだ──。


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