【完結】Fate/Epic of Gilgamesh   作:kaizer

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4.願いと想い

 

 予想通り、と言うべきか。

 礼拝堂の内部は、見た目に違わず荘厳だった。

 何列にも及ぶ長椅子。中央に控える祭壇。それらが絶妙に調和し、神に祈る為の神聖な空間を作り上げている。

 

 だが──おかしい。

 

 教会というからには、そこに漂う空気は純然なものであるべきだ。神に仕え、神に祈りを捧げる人々が集うならば、そこは自然と清涼な空間になるはずだ。にも関わらず──ここの空気は、これ以上ないほどに淀んでいた。

 物理的に汚れている、というわけではない。外見も中身も、この教会は清潔さが保たれている。しかし……この空間は、それ自体が禍々しかった。

 純粋でありながら、邪悪。壮麗でありながら、醜穢。内清外濁ならぬ、内濁外清とでも言うのだろうか。この教会は、存在そのものが歪んでいる──。

 

「──綺礼。そこにいるんでしょう、出てきなさい」

 

 益体のない直感を、遠坂の声が振り払った。

 見たところ、この礼拝堂に人はいない。だが遠坂は、確信を持って中央の祭壇を見据えていた。

 

「──やれやれ。相変わらず、師を敬わぬ弟子だ」

 

 響く足音。

 一体、いつからそこに現れていたのか。祭壇の裏から、長身の人物がこちらに歩み寄って来ていた。

 よく鍛え上げられた痩身を包む僧衣。胸に下げられた十字架。そして──どこか威圧的な、その空気。

 一目で判った。この男こそが、この教会の神父。遠坂の言っていた、聖杯戦争の監督役に他ならない。

 

「ふむ。呼び出しに応じぬかと思えば、また変わった客を連れてきたものだ。ということは……そうか。彼が最後のマスターか、凛」

 

「そ。一応は魔術師だけど、ほとんど素人だから見てられなくって。マスターになった人間は、ここに届けを出すのが決まりでしょ? そのついでに、アンタから聖杯戦争について教えてやって」

 

「なるほど。では、その少年に感謝しなくてはな」

 

 そう言うと、長身の神父はゆっくりと俺に視線を向けた。その目に、背筋が強張るのを感じる。

 どこまでも昏い、地獄のような双眸。

 アーチャーの、人のモノではない血の双眸とは違う。人間でありながら、同時に非人間的なモノを感じさせる、薄暗く歪んだ汚泥。能面のような無表情と相まって、それは重厚な威圧感を醸し出していた。

 

 直感する。コイツは──きっと、危険なヤツだ。

 

「ようこそ、言峰教会へ。私は、この教会を任されている言峰綺礼という者だ。君の名前はなんというのかな、少年」

 

 鷹揚に、右手を広げながら歓待の意を示す神父。

 だが……その動作にすら、俺は危険を感じてしまう。重圧に負けまいと、腹に力を込めて男を睨みながら口を開く。

 

「──衛宮士郎だ」

 

「衛宮────士郎」

 

 鳥肌が立った。

 何の事はない。言峰という神父は、ただ確認するように俺の名を繰り返しただけだ。

 だが──その笑み。静かに口元を歪ませたその微笑が、例えようもない悪寒を感じさせた。

 まるで、何か喜ばしいモノに出会ったとでも言うような。しかし、その喜びは……猫が鼠を見つけた時のように、微かな嗜虐を宿していた。

 

「礼を言おう、衛宮。よく凛をここに連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここに訪れなかっただろう」

 

 慇懃な神父の声。その言葉に、遠坂が憤然と肩を竦める。

 

「ふん。わたしだって、ここに来る気なんかなかったわよ。だけど、素人をほっとくわけにも行かないでしょ。その辺りの対処、アンタなら得意でしょうし、一からしつけてやって」

 

「──ほう。これはこれは、そういうことか。良かろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。衛宮士郎には、感謝をしてもし足りないな」

 

 クク、と低く笑う言峰神父。

 ……なんだろう。言葉とは裏腹に、この男が俺に感謝しているとは少しも思えない。

 表層では笑顔を見せながら、内心ではこちらを嘲笑しているような──そんな、薄気味悪い想像すら浮かんでしまう。

 内心の怯えを抑え、顔に表情を出さないよう強張っている俺を……神父は、再び悠然と見下ろした。

 

「では、始めよう。衛宮、君は聖杯戦争についてどの程度の知識を持っている?」

 

「遠坂から聞いた話だけど……聖杯戦争は、願いを叶える聖杯を奪い合う魔術師たちの儀式。魔術師たちはマスターと呼ばれ、それぞれ使い魔(サーヴァント)を召喚して戦う……ってことは、一応。

 だけど俺は、そんなことを言われてもてんで分からない。マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他に選びなおした方がいい」

 

「……なるほど。君は、本当に何も知らないのだな」

 

 ふむ、とこちらを吟味するように見つめる神父。気のせいか、その目には哀れみすら浮かんでいるように感じる。

 

「それでは、その辺りの説明からしていくとしよう」

 

 そう言うと。言峰神父は、訥々と言葉を紡ぎ始めた。

 

 ──曰く。

 

 俺に宿った令呪は聖痕であり、聖杯を手に入れるまでは消えることはない。マスターを辞めたいのなら、聖杯を手に入れる他はない。

 聖杯は自らを所有するに相応しい者たちを選び、彼らを競い合わせ、唯一人の持ち主を選定する。

 聖杯は霊体である為、マスターでは触れることが叶わない。聖杯戦争にサーヴァントが必要な原因の一つがこれだ。

 そして、自分のサーヴァント以外に聖杯に触れられる者……即ち、他のサーヴァントを全て排除するという行為がこの儀式の要になる。

 しかし、サーヴァントは『英霊』だ。ヒトを超えた存在である以上、如何な魔術師であれサーヴァントを真っ向から倒すのは不可能に近い。

 故に、聖杯戦争に於いては、サーヴァントのみならずマスターの命も狙われる。マスターが存在しなければ、サーヴァントは現世に留まる力を失うからだ。

 だが仮に自分のサーヴァントが倒されてしまったとしても、令呪さえ残っていればマスターは他のサーヴァントと契約することもできる。だから、マスターを殺しておくことこそが、最も効率の良い戦い方なのだ──。

 

 と、ここまで語り終えた神父。事前にある程度遠坂が説明してくれていたおかげか、その話はすんなり理解できた。

 ……が、ここで一つ疑問がある。

 神父は、令呪こそがマスターの資格だと説明した。ならば、令呪を使い切ってしまえば、それはマスターではなくなるという意味なのではないだろうか?

 

「──ああ、一つ忘れていた。マスターであるのならば、令呪は大切にしておくことだ」

 

 俺の疑問を見透かしたように、言峰が付け加えた。

 

「……なんでだよ。令呪を使い切ってしまえば、そいつはもうマスターじゃないし、契約がなくなったサーヴァントは他のマスターを探すだろ」

 

「その通りだ。令呪がなくては、その者は最早マスターではない。だが、令呪はそれ自体が強力な魔術だ。それを使い潰す者がいるとすれば──それは、救いようのない愚か者だろうよ」

 

 むっとして語調を荒げた俺を見下すように、言峰が鼻で笑う。

 ……こいつ、やっぱり気に食わない。

 俺の無知を嘲笑っているのか、或いはこの状況を楽しんでいるのか。どちらにせよ、コイツの性根が善であるはずがない。

 

「衛宮士郎。令呪とは、それ自体がサーヴァントを繋ぎ止める楔でもある。

 ──時に。君は、自分のサーヴァントと戦って勝てると思うか?」

 

「?」

 

 そんなの、できるわけがない。

 神父の質問の意図が読めないが……あの黄金のサーヴァントは、俺なんかとは比べ物にならないほど強い。

 未来が読めているとしか思えない先読みの力に、ランサーの魔槍すら防いだ黄金の鎧。例えアーチャーが無防備だとしても、傷付けることすらできるかどうか。

 

「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ仮定だが──仮に、君がサーヴァントとして召喚されたとしよう。君は聖杯に託す望みを持ち、聖杯を勝ち取る覚悟を持ってこの地に現界した。

 ──ところが。君のマスターは、契約を打ち切ると言い出した。

 マスターとの繋がりが断たれたところで、サーヴァントはある程度現世に留まることができる。しかし、そう都合よく新たなマスターが見つかるとは思えない。

 君の目の前には、君の望みを切り捨て、君を裏切った元マスター。放っておけば、もしかすると敵として立ち塞がる相手になるかもしれない。

 既に、自分を縛る令呪はない。そんな状況で──君ならどう動くかね?」

 

「──あ」

 

 絶句する。

 令呪さえなければ……マスターとは、サーヴァントに劣る存在でしかない。つまり、簡単に殺されてしまうのだ。

 契約を打ち切った時点で、サーヴァントとの関係もなくなる。契約を断たれたサーヴァントが、まだ聖杯を掴むつもりだったとしたら……使い魔(サーヴァント)を裏切った(マスター)は、復讐を受けてもおかしくはない。

 

 ──アーチャーの、紅蓮の瞳を思い出す。

 

 アイツは、聖杯に興味などないと言い切った。だが同時に……アイツは、この上なく冷酷だった。

 マスターでなくなった俺は、アイツにとって何の価値もない。そうなれば、即座に俺は殺されるだろうという確信がある。

 

「それでもマスターを放棄したいというのなら、それも良かろう。

 その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は保証する──私とて、おまえに構うほど暇ではないが、これも決まりでな」

 

「決まり? 一体、誰がそんな事を決めたんだ」

 

「無論、聖堂教会だ。そうでなければ、神に仕える私が監督役として派遣されると思うか?」

 

 聖堂教会。

 世界に広がる一大宗教の裏側、普通に生きていれば関わり合いにならなくて済む組織。

 その役割は様々だが、その内の一つには『聖遺物』の回収というものが含まれる。

 つまり──この冬木市で確認された聖杯。魔術師たちが関わっているモノだとしても、それが聖遺物絡みとあれば教会は黙っていることなどできない。

 それで、納得がいった。監督役と言ったが、この神父は聖杯戦争の監視役も兼ねているのだろう。

 

「聖堂教会は、三度目の聖杯戦争から監督役を派遣している。

 此度の聖杯戦争は、通算五度目だな。前回が十年前であるから、これは今までで最短のサイクルになるが」

 

 そう呟くと。何かを思い出したように、言峰は唐突に笑みを浮かべた。

 

「前回といえば──君は、十年前の出来事を覚えているかね?」

 

「え──」

 

 その微笑。

 十年前という、その単語。

 ただそれだけで、直感した。コイツは何か──良くないことを口にしようとしている。

 

「前回の聖杯戦争の最後、聖杯に触れたマスターがいた。その者が何を望んでいたのかは知らん。だがその結果、あの出来事が起きた。

 ──死傷者約五百名、焼け落ちた建物は百棟以上。未だ原因不明とされるあの大火災こそ、聖杯戦争の爪痕だ」

 

「────」

 

 言葉を、失う。

 それは。

 それは、つまり。

 

 ──悶え苦しむ人々。

 ──崩れ落ちる建物。

 ──荒れ果てた大地。

 

 延々と続く──死体。シタイ。したい。

 

 そう、その地獄こそ。

 あの惨状こそが、聖杯戦争の現実。

 聖杯を手にした者が、ただ願っただけで──五百もの人命が、ボロ雑巾のように棄てられた。

 そんな非道すらも、この聖杯戦争では罷り通ってしまう。

 問題だったのは、この儀式に召喚されるサーヴァントたちだけではない。聖杯とはそれ自体が、これ以上なく危険な兵器に成り得るのだ。

 

 こんな──こんなふざけたモノを放っておくなんて、できるものか。

 

「衛宮くん? ……ちょっと、貴方大丈夫? 顔色が真っ白だし──その、なんなら休んだりする?」

 

 立ち尽くす俺を心配したのか、遠坂が声を掛けてくれる。その一声で、何とか吐き気を抑えられた。

 

「サンキュ、遠坂。もう大丈夫だ」

 

 こちらを不安そうに見つめる遠坂に手を振り、問題ないと告げる。

 そんな俺を、言峰は愉快げに見下ろしている。

 ……確信する。コイツは、俺の苦悩を楽しんでいる。

 それに気付いて、臓腑が怒りで煮えわたった。こんな男が、聖杯戦争の監督だって? ──ふざけやがって。俺は、おまえなんかの世話になるものか。

 おまえが俺を見て楽しむというのなら、俺はおまえを利用してやる。せめて、俺の質問くらいには答えやがれってんだ。

 

「なあ。アンタ、聖杯に触れたマスターがいる、って言ったけど……それって、過去に願いを叶えたヤツがいたってことか?」

 

「……いや」

 

 その瞬間、初めてこの神父の顔から余裕が消えた。

 遠い昔を思い出すかのように、その視線は上方に向けられている。余りに真剣なその表情に、一瞬毒気を抜かれてしまう。

 

「聖杯を勝ち取った者は、確かにいた。いや──勝ち取ることができた者、と言うべきか。

 だが、最後の最後でその男は心変わりした。

 その者が何を考えていたのかは知らん。だが事実として……聖杯は完成せず、残されたモノはあの災害だけだった」

 

 朗々と語る言峰。

 だが、その口調には……隠しきれない悔恨と、僅かな自嘲が滲んでいた。

 まるでそれを直に見て来たかのような、遠い目。俺の方を見ていながら、この男は俺を見ていない。

 黙り込んだ神父に何を感じたのか、遠坂はふん、と不満そうに吐き捨てた。

 

「そりゃあ詳しいわよね、アンタ。なにせ、前回のマスターの一人だったんだから」

 

「え──!?」

 

 驚きで、声が漏れる。

 それはおかしい。この男は、自分が聖杯戦争の監督役だと言った。だというのなら、それがマスターであってはならない。

 審判自身が、ゲームに加わっているようなものなのだ。それでは、ゲーム自体が成り立たなくなってしまう。

 俺の疑問に感づいたのか、言峰は両手を後ろで組むと、再び説明を始めた。

 

「──ああ、前回の監督役は私ではなく、私の父だった。

 監督役の息子がマスターになるなど、それ自体があってはならぬことだったのだろう。私は真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護された。

 父は、その折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会を任されている」

 

 そう言うと。言峰は、静かに俺の目を見つめてきた。

 その昏い瞳には、何の感情も宿っていない。あるのはただ、衛宮士郎という人間を鑑定する冷静さだけ。

 

「話はここまでだ、衛宮士郎。これ以上、説明の必要はあるまい。

 この戦い──聖杯戦争に参加するかの意思を、ここで決めよ」

 

 重圧すら感じさせる、神父の詰問。

 ……わかっている。今の俺が取るべき道は、ただ一つだけだ。

 未だに実感はないが、俺はマスターとして選ばれた。逃げ道など、もう残っていないのだから──俺は、立ち向かうまでだ。

 それに……今はもう、戦う目的も意思も生まれている。俺は魔術師だ。ならば俺は、他の魔術師やサーヴァントたちの脅威を止めなければならない。

 

 それこそが──正義の味方の、あるべき姿だ。

 

 深呼吸をする。

 もう、俺には迷いはない。後はただ、この覚悟を口にするだけ。

 

 

「──戦う。俺はもう、十年前のような出来事を起こさせるわけにはいかない」

 

 

 その俺の宣言を、どう受け取ったのか。言峰綺礼は、満足げな笑みを浮かべて頷いた。

 

「結構。それでは君を、七人目のマスターと認めよう。

 この瞬間に、今回の聖杯戦争は受理された。

 ──これより最後の一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自分の誇りに従い、存分に競い合え」

 

 重々しく、その言葉が教会に響く。

 その瞬間に、理解した。俺はもう、後戻りをする道は残されていない。

 自分の記憶を持たない、あの傲慢なサーヴァント。俺は今この時から、アイツと共に聖杯戦争を勝ち抜く他なくなった。

 小刻みに、身体が震えているのを感じる。

 だけど、俺は決めたのだ。一度決めたのなら、もう怯えているわけにはいかない。

 

「──そう。それじゃ、これで聖杯戦争が始まったわけね。行くわよ、衛宮くん」

 

 それだけ言うと、遠坂はくるりと神父に背を向けた。その呆気なさに、思わず神父の顔を見てしまう。

 言峰神父の方も、あっさり去って行った弟子を無感情に見つめている。この男も、遠坂に向ける言葉は残っていないのだろう。

 ふう、とため息をついて、遠坂の後を追う。短い時間だったが、とても疲れた。

 ……この、言峰綺礼と名乗った神父。

 俺はどうも、コイツとは相性が悪いらしい。なんというか、無性に癇に障るのだ。そのくせ、コイツの言葉は妙に耳に残る。

 神父の威圧感から逃れようと、遠坂に続いて出口に向かう。いつの間にか、遠坂は外に出てしまっていた。

 教会の扉を潜り、外界に足を踏み出す。もう、この場所に用はない。後はただ、夜の街を帰るだけ。

 

 ──その、瞬間。

 

 

「──喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」

 

 

 そう、祝う(のろう)ように神父は告げた。

 

 

 

***

 

 

 

 時間は僅かに遡る。

 衛宮士郎と、遠坂凛。第五次聖杯戦争に於ける二人のマスターが、教会の内へと消えていった後──残されたのは、その二人が従えるサーヴァントだった。

 

「────」

 

 傲然と腕を組む長身の青年。

 

 現代の衣服に身を包んでいても、その金色の煌きは隠しきれるものではない。

 真紅の双眸は伏せられ、天を衝くように逆立っていた黄金の髪は、端整な容貌を彩るように下ろされている。

 しかし、様相に多少の変化があろうとも、強大な威圧感は微塵も損なわれていない。夜の闇すら寄せ付けぬ圧倒的な輝きは、教会という場所と相まって威厳に満ちた神聖さすら漂わせていた。

 その鮮烈なまでの存在感は、ただそれだけでこの青年が破格の英霊なのだと知らしめる。一身でありながら誇る大山の如き威容は、並の英霊では有り得まい。

 

 だが、このサーヴァントが異様だと言うのなら──もう一人のサーヴァントも、また尋常では有り得なかった。

 

「────」

 

 凛と佇む、小柄な少女。

 

 白銀の甲冑の上から黄色の合羽を羽織るという風体でありながら、身に纏う緊張感はどこまでも鋭い。

 翡翠色の眼差しは、一片の淀みも無く澄み渡っている。最高級の宝石ですら、この瞳の前には曇るだろう。

 絹糸のような柔らかさを感じさせる、結われた美しい金髪。瑞々しく整った面持ちは、黄金の青年に劣らぬ美貌を見せていた。

 しかしその美しさは、妖艶なそれとは位相が異なる。どこまでも清涼なその雰囲気は、寧ろ名剣のような純粋ささえ感じさせる。

 まるで神代の彫像のような、希代の美少女。その視線は、刃となって黄金の英霊を鋭く貫いていた。

 

「…………アーチャー」

 

 ぽつり、と可憐な唇から言葉が漏れる。その声音は、紛れも無く敵意の色を含んでいた。

 何も、不思議な話ではない。この地に現界したサーヴァントは、須く互いを殺し合う宿命にある。故にサーヴァントは、互いを敵視こそすれ友好視などするべくもない。

 しかし──聖杯戦争に於いては、戦略こそが物を言う。状況によっては、サーヴァント同士・マスター同士が手を組むことすら起こり得る。

 それも道理だろう。サーヴァントは、その一人一人が災害にも匹敵する脅威。一人のサーヴァントを打倒出来ぬのなら、複数の力を束ねれば良いのだ。 

今のセイバーの状況は、それと似て非なるものと言える。

 セイバーの主とアーチャーの主は、厳密には手を結んでいるわけではない。暗黙の裡に休戦状態になってはいるが、誰一人としてそれを明言してはいないのだ。

 だが、アーチャーのマスター……衛宮士郎という少年は、偶然この聖杯戦争に巻き込まれたという、異端中の異端。

 通常の魔術師ならば、これを好機と見做し、何も解らぬ少年を打ち倒すことで聖杯戦争の一角を潰しにかかるだろう。

 

 だが──彼女の主、遠坂凛はそうしなかった。

 

 戦う覚悟のある者ならば、凛とて容赦はすまい。年齢こそ若いが、彼女は希代の才能を秘めた一流の魔術師。聖杯戦争への覚悟など、とうの昔に終えている。

 にも関わらず──凛には、ただの素人を無慈悲に刈り取るような真似はできなかった。

 表面を取り繕ってこそいるが、遠坂凛という少女は善人だ。相手がマスターであれ公明正大に接する気性は、セイバーとて好ましく思っている。

 サーヴァントとして現界しているが、その前にセイバーは一人の騎士だ。彼女が守るべきは無辜の民であり、それは例えマスターとなった少年であっても例外ではない。聖杯戦争について最低限の知識を与え、自らと平等のステージに立たせるという凛の決断は、彼女の騎士道に照らし合わせても正しいものだった。

 

 しかし──あのサーヴァント。黄金の英霊だけは、彼女の矜持とは相容れない。

 

 セイバーという英霊が聖杯戦争に加わったのは、実はこれが最初ではない。この時代より十年前、第四次聖杯戦争の際にも、彼女は剣士(セイバー)のクラスとして現世に召喚されている。

 その際に、敵対するサーヴァントの一人。弓兵(アーチャー)として立ち塞がったのが、彼女の視線の先に立つ黄金の青年だった。

 前回の聖杯戦争に於いて、セイバーは数多のサーヴァントと戦った。アーチャーの気質や戦法も、ある程度は心得ている。

 だが、その在り方は常識の埒外。思想、行動、宝具に至るまで、その全てがセイバーの想像を超えていた。

 彼女が思い出すのは、アーチャーの戦闘方法。英霊にとって最終兵器であるはずの宝具を、まるで石礫の如く擲つ異様。彼女の記憶が正しければ、飛行宝具すら所有していた。

 視認出来ただけでも、彼の英雄の用いた武具は数十を超える。前回の最後の戦いでは、セイバーは膨大な物量の前に一方的に嬲られるだけだった。

 そして何より……あの英雄の思考、思想。自分以外の全てを見下すその在り方は、セイバーには決して受け入れられない。

 今剣を交えたところで、セイバーは今度こそ負けぬという自負がある。今回のマスターは、前回と異なり相性が良い。供給される魔力すら、以前の主を上回る。

 だが、それでも。セイバーは、あの男に対して必勝を確信出来なかった。

 正体すら未だ判然とせぬ異端の英霊。最上級の英霊である自分にすら、底の掴めぬその力。故にセイバーは──この男こそを、最大限に警戒していた。

 

「──フン。また随分と猛々しい面構えではないか、セイバー」

 

 そんな彼女の感情を見通したのか。昂然と胸を張るアーチャーは、僅かに目を細めてセイバーの動向を観察していた。

 揶揄するようなアーチャーの口調に、白銀の籠手に力が入る。この英霊の前に於いて、セイバーには僅かな油断もない。

 

「……やれやれ、そう怖い顔をするな。同じサーヴァントの誼だ、言葉を交わしたところで問題はあるまい」

 

 黙して口を開かぬセイバーに呆れたのか、アーチャーが鼻を鳴らした。

 

「──貴方に語ることなど何もない。我らはサーヴァント、交わすべきは言葉ではなく剣だ、アーチャー」

 

「ほう──ならばその剣で我と遊ぶか、セイバー」

 

 す、とアーチャーの瞳が妖しい色を帯びる。その血の輝きが放つのは、紛れも無く殺意の色。

 どれほど気に入った相手であれ、必要と断ずれば殺す。黄金の英霊の仮借無さは、ただその絶大な殺気のみで十二分に伝わった。

 全身が凍えるような、空間すら捻じ曲げる殺意。常人ならば、その空気に中てられただけでも正気を失うだろう。

 だが、セイバーは凡百の人間とは程遠い。殺意や憎悪の視線など、数え切れぬほど受けている。騎士の王たる彼女は、アーチャーの視線にも身動ぎ一つしなかった。

 息の詰まるような、僅かな静寂。ややしばらくして、セイバーは静かに首を振った。

 

「……いいえ。私の主は、貴方のマスターと戦うことを望んでいない。そちらが手を出すというのなら容赦はしませんが、マスターの命令がない限り、私は貴方がたに剣を向けるつもりはありません」

 

「──違うな。間違っているぞ、セイバー」

 

 その否定に、虚を突かれるセイバー。

 アーチャーの予想外の返答に、刹那の間思考が止まる。その間隙を縫うように、黄金の青年は表情を変えた。

 嗤うように。

 嬲るように。

 邪悪な、しかし確信に満ちた微笑を浮かべて……アーチャーは、セイバーを見下ろした。

 

 

「お前は、我が怖いのだろう?」

 

 

 途端。アーチャーの眼前の床に、鋭い亀裂が走った。

 地を割った要因は一目瞭然。セイバーが、憤怒を以て剣を叩き付けたまでのこと。

 挑発とも取れるアーチャーの暴言に、翡翠の瞳が怒りに染まる。空間を支配する殺意は、今やセイバーのものとなっていた。

 

「戯れ言を。私を侮辱するつもりか、アーチャー」

 

「そう思うのなら、その剣で挑み掛かって来れば良かろう。サーヴァントが交えるべきは剣だと、今その口で述べたばかりではないか」

 

「…………」

 

 武器すら構えず、腕を組んだまま立つアーチャー。

 だが、無防備な姿を取っていたとしても……セイバーは、この仇敵に挑みかかることはできなかった。

 前回の聖杯戦争を思い出す。この英雄は、宝具を弾丸として撃ち出すという規格外の戦い方を見せていた。

 宝具を自ら手放すなど正気の沙汰とは思えないが、脅威である事は疑いようもない。宝具の弾丸は音速を超え、ただの一撃で山すら崩す。

 しかし、アーチャーの真の脅威はそんな物ではない。この英霊は、宝具と思われるその武器を無数に所持しているのだ。

 宝具の射出攻撃とて、一本や二本では恐れるには能わない。セイバーの聖剣と身体能力を以てすれば、ただ弾くだけで事足りる。それが五本、十本と増えようとも、彼女の自信は揺らがない。

 

 では──二十本、三十本になればどうか。

 

 セイバーが記憶している限り、前回の戦いで、アーチャーは三十二本もの宝具を同時展開していた。それが彼の限界だと思えるほど、楽観視ができるはずもない。

 それ程の宝具の攻撃を受ければ、如何にセイバーとて無事では済まない。今この瞬間にも、頭上から、側面から、足元から、背後から、アーチャーの宝具が向けられているかもしれないのだ。

 セイバーの首筋に、緊張感で汗が流れる。極限まで高まった警戒心は、無暗にアーチャーに挑む選択を愚策と断言していた。

 

「やはり、か──。セイバー、お前は我を知っているな?」

 

 冷たく、確信と共に放たれたその一言。

 ただ雰囲気のみで場を塗り潰す青年は、紅い瞳でセイバーを射抜いていた。

 

「だが、それにしては奇妙だ。記憶が失われているとはいえ、生前の知己ならば、貴様と見えて何かを感じぬ道理はない。

 それに、貴様は我を真名ではなく『アーチャー』と呼んだ。知己であるならば、我を真名で呼ぶはず。つまり──」

 

 冷静に、冷徹に。

 尋常ならざる鑑識眼を以て、アーチャーはセイバーを分析する。

 自らと初めて合見えた時の、セイバーの反応。

 幾ら隙を見せても、自らの命を奪いに来ない警戒心。

 明らかに「何かが来る」と知っているような、不自然な足運び。

 言葉の節々から漏れる、過剰なまでの敵意。

 幾つもの点は線となって、アーチャーの中で一つに纏まる。自らの記憶を持たずとも、この英霊はその頭脳と鑑識眼のみを以て、セイバーの状態を看破していく。数瞬の内に、アーチャーは結論を導いた。

 

 

「──セイバー。お前は、何度聖杯戦争に参加している?」

 

 

 青年の問いに、少女は沈黙を以て応じる。その反応こそが、何よりも雄弁に真実を語っていた。

 黙り込むセイバー。それを嘲弄するように、黄金の青年は辛辣に笑った。

 

「これは面白い。同じ英雄が、幾度も斯様な遊戯に興じていようとはな。貴様に縁の品が、それ程現世に散逸しているのか。或いは、貴様はそれだけ高名な英霊なのか。それとも──」

 

 アーチャーの視線が、セイバーの体を撫でる。

 舐め回すような、淫靡で卑猥な瞳。それを向けられる不快感に、セイバーの体が強張る。

 そのセイバーの反応すら愉快なのか、アーチャーの笑みは一層深まっていく。最早嘲笑を隠そうともせず、アーチャーは笑みに歪んだ口を開いた。

 

「──それほどまでに、聖杯に託したい願いがあるのか」

 

 表情と相反する冷徹な声音に、セイバーは顔を伏せる。その小柄な体は小刻みに震え、剣を握る手には一層力が込められる。

 それを見下ろす青年は、凍て付いた眼差しを向けたまま。どこまでも冷たいその瞳は、一切の感情を宿さない。

 アーチャーは口を開かず、セイバーもまた顔を髪で覆い隠したまま動かない。僅かに吹く風だけが、空間に響く音だった。

 やがて……俯いたまま、少女は微かに首を振った。

 

「……貴方には解らないだろう。私の願いは、貴方には永劫解らない」

 

 少女の言葉に、先程までの力強さはない。零れるように弱々しい声色に宿るのは、紛れもない苦渋。

 その声を聞き、青年の眉が吊り上る。セイバーを嘲笑う笑みを掻き消し、アーチャーはやれやれとばかりに首を振った。

 

「それは早計だなセイバー。願望には種類がある。余りに小さすぎる願い、身の程を超えた望み、自己を顧みぬ悲願。人の数だけ願望はあるが、その本質はどれも変わらぬ。それは即ち──『こうあって欲しい』という、人間の希望だ。善悪や大小の差こそあれ、そこに貴賤などあるまい」

 

 アーチャーの語りに、セイバーが驚いたように顔を上げる。

 人を嘲笑い、他者を見下すことしかしなかった黄金の青年。この男が他人を認めるような発言をするなど、それだけで驚きだった。

 だが……同時に、違和感もある。つい先ほど。マスターであるあの少年の家で、この男は何と言った。

 

「アーチャー。貴方は、私たち英霊の願いを嘲笑ったばかりではないですか」

 

 それにも関わらず、何故今度は願いを認めるようなことを言うのか──。セイバーの非難の瞳に、アーチャーの顔が不快げに歪んだ。

 

「たわけ。我が嗤ったのは、願望ではなくその実現手段だ。願いを()()()()()()聖杯だと? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 よいかセイバー。夢とは己の力で掴み取るものであり、願いとは己の力で叶えるもの。然したる代償も払わずに、結果だけを享受しようなど虫が良すぎると思わぬか。

 第一──望んだだけで物事を好き勝手に変えようなど、それは人の道ではない。それこそ、そこに祀られている下らん神どもと同じではないか。

 世を乱し、世を正すは人の役割。神の紛い物など、それだけで虫唾が走る」

 

 そう言い捨て、黄金の青年は忌々しげに横に聳える教会を見やった。その態度に、神に対する畏敬の念など微塵も感じられない。

 あるのはただ、嫌悪感のみ。神が気に食わぬ、と。アーチャーは、全身でそう物語っていた。

 またも意表を突かれ、翡翠の瞳に驚きを浮かべるセイバー。まじまじと自分の顔を見つめてくる少女に、アーチャーは肩を竦めてみせた。

 

「なんだセイバー。我の話はそこまで意外だったか?」

 

「……いえ。貴方の言うことは正しい、と思います」

 

 十年前。

 かつての聖杯戦争で、セイバーはこの男の言動を、一片たりとも理解できなかった。

 ただ只管に傲慢で、常軌を逸しているとしか思えぬその思考。聖杯を己の物と断言し、自らの願いを嘲笑い、挙句には自らに求婚すらしてみせた黄金の英霊。この男と対峙して、不快以外の感情を覚えたことなどない。

 だが──今この男が語った言葉は、不思議な程にセイバーの胸に響いた。それを正しいと感じている自分に、セイバーは何より驚いていた。

 願いは、自分の力で叶えるもの。

 ああ、確かにそうだろう。結果を出すには、努力をしなければならない。利益を得たいのなら、代償を払わなければならない。それは至極当たり前のルールだ。

 

 しかし──努力をしても。代償を払っても。それでも対価を得られなかった者は、一体何に縋れば良いのか。

 

「……それでも、私は聖杯に託す願いがある」

 

 セイバーの唇から、ぽつりと言葉が漏れる。

 以前のアーチャーは、自分の願いを嘲笑った。だが、このアーチャーは以前の彼と同じではない。

 聖杯戦争のシステム。全容は解せずとも、召喚された英雄としてセイバーはある程度の知識を持っている。聖杯によって召喚されたサーヴァントは『本体』の現身であり、当然ながら聖杯戦争が起きるたびにサーヴァントは『本体』から複製され直す。記憶を維持し続けているセイバーこそが、サーヴァントとしての特例なのだ。

 ならば。願いに貴賤はないと語った今のアーチャーなら、以前とは別の答えを返してくれるかもしれない。

 あの戦いを越えて、セイバーの願いは変わった。アーチャーに嗤われ、ライダーに諭され、バーサーカーに砕かれた彼女は、かつての願いだけでなく、自分自身にすら自信を持てなくなってしまった。

 そんな余裕のなさが、彼女を突き動かしたのか。今度こそ、自分の願いは正しいという確証を望んでいたのか。

 気付けばセイバーは、自分を嘲笑った男に再び自分の願いを語ろうとしていた。

 

「……私はかつて、王として国を守っていました。しかし──私は、王に相応しい人間ではなかった。私の過ちの結果、その国は滅びてしまった。

 だから私は──あの選定をやり直したい。聖杯が万能だと言うのなら、私より相応しい王を選び直すことも可能でしょう」

 

 再び、あの嘲笑を向けられるかもしれない。

 その恐れは、確かにセイバーの裡にあった。だが……それ以上に、セイバーの心には渇望があった。

 どこまでも自分を貫く、自信と余裕に満ち溢れた英霊。この青年なら、或いは自分とは違う答えを持っているかもしれない。

 自分を見下し、嗤うというのならそれで良い。誰に笑われようとも、誰に解って貰えずとも、セイバーはただ自分の悲願を貫く心積もりだった。

 しかし──それでも尚。セイバーは、アーチャーの言葉に僅かな期待を寄せていた。

 

「──ふむ」

 

 予想外、と言うべきか。

 笑うことも、嘲ることもなく。ただ無表情に、アーチャーはセイバーを見下ろしていた。自然と、セイバーはそれを見上げる形になる。

 交錯する、紅と翠の瞳。数瞬の時の後、紅の瞳が微かに動いた。

 

「なるほど。己の過ちを、なかったことにしたいと願うか。それは、人ならば誰もが一度は持つ願い。『あの時、ああしておけば良かった』と、思わぬ者などおらぬだろう」

 

 肯定とも取れるその言葉に、セイバーの表情が驚きに染まる。

 それを冷然と見下ろして。だが、とアーチャーは言葉を続けた。

 

「だがな、セイバー。それは、歴史の改竄という神の奇跡だ。強大な力には、それ相応の責任が伴う。その意味を──お前は、本当に理解しているのか?」

 

「え──」

 

 再び絶句するセイバー。

 力に責任が伴う? そんなことは、言われずとも百も承知している。

 だから自分には、民を統治する責任があった。外敵を防ぎ、国土を守り、民衆を救う。その義務を果たそうと、その責任を果たそうと、セイバーはいつでも走り続けて来た。

 しかし──現実は、どこまでも非情だった。守ったはずの民草は彼女を詰り、轡を並べた戦友は彼女を裏切った。

 

 それでも。

 それでも良いと、思っていた。

 例え何があろうとも……笑っていた人たちが、確かにいた。それなら良いと、ただそれだけを思って彼女は剣を振るい続けた。

 けれど──最後に残ったのは、地獄だけ。

 悲嘆に暮れる人々。荒野に斃れる騎士。そして……息子()の血に塗れた、自分の体。

 こんな結果は。こんな結末は、間違っている。こんな終わりが、認められるはずがない。

 故に、やり直しを。今度こそ、正しい結末に。みんなが笑って暮らせるように、願うのだ。次は──自分のように、間違った者が王位に就かぬよう。

 

「王であったと言ったな、セイバー。暴君であったにしろ賢君であったにしろ、お前は英雄として歴史に名を残す功績を上げたはずだ。つまり、お前は数多くの人間どもを救い、そやつらに英雄として崇められたわけだ。でなければ、英霊として今此処に立っている道理がない」

 

 アーチャーの言葉に、少女の体が強張る。

 セイバーは、自分がそれに相応しい結果を出したとは思っていない。だが事実として、彼女は英霊として『世界』と契約する資格を持つ功績を打ち立てた。

 それこそが、何よりも間違っている。自分より優れた、自分より相応しい王が、必ずどこかにいたはずだ。それを考えると、彼女はいたたまれなくなる。

 ごめんなさい、と。

 私なんかが王になってしまって、ごめんなさい。

 貴方たちを死なせてしまって、ごめんなさい。

 何度も何度も、彼女は心の中で謝ってきた。時間の止まったあの丘でも、彼女は何度も謝った。

 けれど──それに応えてくれる者はもういない。許してくれる者など残っていない。彼女が守ろうとした人は、誰も彼も死んでしまった。

 だからこそ、自分はやり直したい。聖杯に縋ってでも、この身を焼き尽くしてでも、あんな結末は変えなければならない──。

 

 

「セイバー。お前の願いは、お前を信じた者たちへの裏切りではないのか?」

 

 

 ──故に。

 

 その言葉は、他の何よりも鋭く少女の心を穿った。

 

「な、にを……」

 

 打ちのめされ、呆然と目を見開くセイバー。

 侮蔑や嘲笑なら、とうに覚悟していた。自分の選んだ道と、この英霊の在り方は相容れぬと、初めから分かっていた。

 だけど。こんな形の否定は、予想もしていなかった。

 この英霊が。傲岸不遜な、この青年が……哀れむような、沈鬱な表情で自分を見つめているなど、考えることすらできなかった。

 怒りも憎しみもなく、ただ驚きのままにセイバーはアーチャーの瞳を見つめる。その態度も、その言葉も、今のセイバーには、到底理解が及ばなかった。

 あるのはただ、微かな胸の痛みだけ。けれど、一体自分が何故痛みを覚えているのか、彼女にはそれすら解らない。

 気付けば条件反射的に、セイバーは反発の言葉を紡いでいた。

 

「──貴方に、私の何が解るというのですか」

 

「馬鹿め、貴様の事情など知った事か。貴様の人生など知らぬし、背負ってきた重みも、犯した過ちも我の知るところではない。それを知るのは当人たる貴様のみだろうよ。

 ──だがな。貴様のみが知り、貴様のみが担う責を、貴様は自ら放擲すると宣言したのだぞ。

 これが、お前を王と崇めた民どもへの裏切りでなくて何だと言うのだ、セイバー」

 

 間髪を入れずに喝破するアーチャー。威厳に満ち燦然と輝くその姿は、言い放たれた言葉と相まって、セイバーの心を強かに打ちのめした。

 民への裏切り? 馬鹿な。そんなことこそ有り得ない。

 こんな間違った人間が王位に就き、国を統べ──その果てに、守るべき民も、国すらも滅ぼしてしまった事実こそが、何よりの裏切りではないのか。

 それを……その結末を変えるために。人々のために、国家のために、自分はこうして聖杯を求めている。それの何処が間違っていると言うのだ?

 そもそも、人を嘲笑うばかりのこの傲慢な英霊に、自分のことが解るわけがない。人々に、国家に身命を捧げ、安寧と繁栄を約束するのが、彼女が王として在りたいと思った姿。ただ自分のみがあるだけのこの男の姿とは、相容れる道理がない。

 

 ──だというのに。セイバーは、この黄金の英雄に反論する言葉が浮かばなかった。

 

 色を失い、青ざめた顔で立ち尽くす少女に何を感じたのか。小刻みに震えるその肩を見下ろし、アーチャーは微かに鼻を鳴らした。

 

「解らぬか。ならば良い。どちらにせよ、そろそろ頃合いだ」

 

 その言葉に、セイバーが教会に向き直る。今まで貝殻のように閉じていたはずの扉が、いつの間にか大きく開け放たれていた。 

 興味を失ったように、再び腕を組むアーチャー。その視線の先には、歩いて来る二人の人影。

 向かってくる自分の主を見ても、セイバーの心には何も浮かばない。出迎えの言葉すら、今の彼女は思いつけなかった。

 彼女の心に渦巻くのは、アーチャーの言葉。

 暗い瞳とともに向けられた、「裏切り」という単語。その一言が、霧となって少女の心を覆っていた。

 

「──私は。間違ってなど、いない」

 

 ぽつりと弱々しく漏らしたのは、果たして彼女の本心だったのか。少女の言葉は風となって、夜の闇に消えていった。

 

 

***

 

 

 こつり、こつり。

 

 誰もいない空間に、静かな足音が響く。

 足音の主以外に、この静謐な礼拝堂にいる者は居ない。あるのはただ、像として安置された神の子だけ。

 堅い足音を立てて歩くその男は、やがて像の前まで歩み寄ると、ゆっくりとその顔を上げた。視線の先には、十字架に磔にされた救世主。

 昏い眼差しで、ぼんやりと像を見上げながら。僧衣姿の男は、歪に嗤って独語した。

 

「──衛宮士郎。あの男の息子がマスターとは、数奇な運命もあったものだ」

 

 能面のような表情に浮かぶのは、喜悦。

 その手は、祈りを捧げるように十字を切っているが……その愉悦に歪んだ笑みは、神に祈る者の態度とは程遠い。

 一体何が可笑しいのか。堪え切れぬとばかりに喉から笑い声を零しながら、抱擁するように男は両手を広げてみせた。

 

「ああ──やはり、私は答えを知らねばならぬらしい」

 

 改めて、自己の内心を確認するように発せられた声。

 事実、それは男にとっては目的の再確認であり──同時に、神への誓言でもあった。

 歪んだ笑みと、深淵を思わせる瞳を見せながら。この男はどこまでも敬虔に、神への感謝を捧げ続ける。

 善悪はどうあれ、この男は確かに神を信じていた。その信仰はまぎれもなく本物であり、この神父は聖職者として疑う余地などどこにもない。

 

For what profits is it to a man(もし人が世界の全てを得ているとしても、) if he gains the whole world,(その魂を失っているのならば)and loses his own soul?(一体何の利益になるのだろう)

 

 男の口から零れるのは、新約聖書に収められし福音書の一節。

 マタイ福音書、第16章。

 神の子がその弟子たちに説いた、数多ある教えの一欠片。この章で救世主は、弟子たちに命の価値について問うた。

 

Or(また、) what will a man(人はどんな代価を払って) give in exchange for his soul?(その魂を買い戻すことができるのだろう?)

 

 世界の全てを手にしたとしても、死ねばそれまで。

 是非もない。それは唯一不変の理であり、そうだからこそ世界は正しく回っている。命を購う術など、未だ嘗てこの星には在りはしない。故に、世界よりも命の方が価値がある。

 だが……それはあくまで、命にこそ価値があるという、一つの視点からの考え方だ。この神父は神に仕えながら、また別の視点、別の価値基準──即ち、命よりも重いと感じるモノを持っている。

 

 そう。それは例えば──世界の全てを犠牲にしてでも、その目で確かめたい答え。

 

 十年前。男は自らの答えを見極め、そして、その在り方を良しとした。

 しかし……それは、答えであって答えではなかった。方程式の解だけを手渡されても、そこに至る過程が見えねば、納得できるものではない。

 ならば、今度こそ答えを。結果だけでなく、それに至った道筋を。それを知るためならば──ああ。自分は、神すらこの手で問い殺そう。

 自らの道を確信し、己の目的を定めた時。神父が信仰を捧げた父なる神は現れなかったが──神に最も近い王は、この男の姿を見つめていた。

 人ではなく、神でもない。

 人であるには余りに歪み、神に仕えるには余りに穢れた聖職者。求道のため、世界すら代償にする心算を持つこの男を認めたのは、世界の総てを手にし、超越者として天地を統べた、ただ一人の王だけだった。

 

「これもまた、主のお導きということか」

 

 契約者として神父の道を見定め、裁定すると宣言した王。

 彼の王の思考は、この神父にも理解できなかったが……その在り方の一端は、十年の歳月を過ごす内に掴めていた。

 

 しかし──そんな彼をしても、今回の彼の行動は異常だった。

 

 数日前に、忽然と姿を消したあの男。

 気紛れなあの青年は、断りもなしに姿を消すなど日常茶飯事。一月ほど姿を見せなかったと思えば、ある日突然現れて旅から戻ったなどと嘯くこともしばしばだった。

 それにしても、このタイミングで彼が姿を消すなど有り得ない。何故ならば、彼の王がこの十年心待ちにしていたのはこの聖杯戦争だけだったからだ。

 異常なのはそれだけではなく……自分と彼の間に結ばれていたパスすらも、影すら残さず消えてしまっている。

 いつもの気紛れか、何らかの理由を持つ決断か、はたまた彼にすら想定外の事故か──。憶測は幾つかできるが、今神父に残されているのは結果だけ。

 

 あの男が、かつて戦いを共にした自分ではなく──仇敵の息子のサーヴァントになったという、ただそれだけの事実。

 

 そもそも、あの王の在り方は大嵐のそれだ。凡百の人には予想も対抗もできる物ではなく、ただ災害が過ぎ去るのを待つしかない。

 ならば、その災害すら飲み干し利用しよう。自分はただ、答えを追い求めると決めたのだから。

 

「それが私の道だ──英雄王(ギルガメッシュ)よ」

 

 くつくつと、哄笑を滲ませながら。言峰綺礼は、静かに神への祈りを捧げていた。


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