神楽坂茉莉の緊急弟子育成計画   作:魔人ボルボックス

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第五章 憶病者の拳②

 影宮との戦いの日の前日、午前中、茉莉さんの携帯に一通のメールが届いた。

 差出人は智宏さん。明日の戦いの場所と、待ち合わせ時間が記載されたメールだった。

 

 待ち合わせ時間は午後五時。指定した場所は豊島区の総合体育館。砂城高校から一時間もかからない場所にある。その日は平日で普通に授業があるが、それでも余裕をもって行ける距離だった。

 驚いたのは、智宏さんがその体育館を、わざわざ丸一日貸切状態にしていたことだ。お金持ちの恐ろしさの片鱗を見た気がした。

 

 そうしてあっという間に時間は過ぎていき、そして――運命のその時が訪れた。

 

 長方形状に広がった広大なアリーナの中央で、僕はその男、影宮彰一と向かい合って立っていた。

 

「よく逃げずに来たねぇ。それだけでも十分名誉なことだ。だから、これから床を舐める結果になっても、落ち込むことはない。それを先に言っておこうかな」

 

 影宮は空々しい笑みを浮かべながらそう言い、僕を見下ろして来る。奴は縦並びのチャイナボタンで真ん中を留めてある長袖と、同色の長ズボンを身につけている。上下ともにサイズがゆったりとしており、セレナイトのような純白の光沢を放っていた。茉莉さんから聞いたことがある。「唐装(とうそう)」と呼ばれる中国の伝統衣装だ。柔らかい生地を用い、なおかつサイズに余裕を持たせることで、腕や足を動かしやすくし、大きく伸びやかな運動が窮屈なくできる。武術を使う上では最適な格好だった。

 

 そんな影宮の皮肉に、僕は無言で睨み返す。僕の服装はTシャツに運動ズボンという、修行の時と変わらないシンプルなものだ。でもそれでいい。シンプルとは無駄がないことを言う。間違いなく、これが僕にとってベストな格好だ。

 

 アリーナの周囲上部には多くの客席があり、茉莉さんと智宏さんはそれらの一角で隣り合わせに座って僕らを俯瞰していた。

 見ると、茉莉さんがやや不安そうに僕を見つめていた。

 それに対して僕が手を振ると、一応笑って返してはくれる。だがそんな笑顔にも無理矢理感のようなものがあり、どこか曇りが混じっていた。

 

 茉莉さんの言いたいことは、訊かずとも分かる。

 

 僕は結局――『固有形』に目覚めることはなかったのだ。

 

 昨日までの一週間、必死で修行した。それによってさらに膨大な数の技をインプットし、対人戦にもだいぶ慣れた。しかし、願っていた『固有形』を手に入れることは、とうとう叶わなかった。

 でも、それで万策尽きたわけじゃない。あなただって、それで諦めたつもりはないんでしょう? 茉莉さん。

 だからこそ、あんな「荒療治」を施してくれた。

 一週間、頑張ったのは僕だけじゃない。あなたも、持てる限りの全力で僕を育ててくれた。

 そんなあなたの期待を、僕は絶対に裏切らない。勝って見せます。

 

「俺と茉莉の結婚が決まったら、金輪際そんな風に馴れ馴れしい態度は取らないでくれよ。はっきり言って不愉快なんだ。本来、君と俺達では住む世界が違う。分相応という言葉を知りたまえ」

 

 影宮が冷たい侮蔑の表情で発したその言葉に、僕は真っ直ぐ見つめて言い返した。

 

「それは茉莉さんが決めることだ。あんたが決めることじゃない」

「……はてさて、この『組手』が終わった後にも、そんな生意気が吐かせるかな」

 

 吐かしてみせる――そんな強い決意を眼光に乗せて影宮へ放つ。

 

 この戦いは、双方合意の上の『組手』だ。だからどちらが怪我をしようと、それは自己責任で片がつく。そこへ権力や金銭の入り込む余地はない。武術の前では良くも悪くも皆、平等なのだから。

 ならば話は簡単だ。

 僕はただ、この男をぶちのめすことだけを考えればいい。

 それ以外は全てゴミだ。一顧だにも値しない。

 余計なことは考えず、ただ戦うことに集中するのみ。

 影宮を叩き潰して、茉莉さんが笑っていられる未来を守るんだ。

 

 客席に座る智宏さんが、電子ホイッスルを上部へ掲げる。あれから音が発せられた時が『組手』のスタートだ。

 

「――『太極蛇勢砲捶』、影宮彰一」

「――神楽坂式骨法、藍野英助」

 

 互いに名乗りを終えて約一秒後、「ピリリィィィッ!」という甲高い電子音がアリーナ全体へと響いた。

 

 転瞬、だらんと下がっていた影宮の右手がその像をブレさせた。

 蛇が食らいつきに行くような俊敏さを持つ右掌の向かう先は、僕の顎先。それを咄嗟に視認できた僕は、顎を頭部ごとスウェーの要領で引っ込め、ギリギリで回避する。

 

 慌てて数歩下がり、中心線を守るように構えを取りながら、影宮をジッと見る。少し見直したと言わんばかりの顔で僕に視線を送っていた。

 

「へぇ? 今のを躱すとは少々驚いた。たいていの武術家は今のを食らって脳震盪を起こして、立っていられなくなるんだけどな。なるほど、大きな口を叩くに値する程度には鍛えてきたみたいだね」

 

 そんな賞賛か皮肉か分からない影宮の言葉を聞き流し、僕は出方を待つ。むやみに突っ込むのは自殺行為である事を、悔しいことにこいつから一度学んでしまっている。なので付け入る隙を見つけるまでカウンターに徹し続ける。これが僕の行うべき戦い方だ。

 

「だけど、その特訓の成果とやらが――どこまで俺に通用するかな?」

 

 その発言とともに、影宮は両掌を左右へ広げる。そのままダンスを踊るように回転しながら、僕との距離を急激に狭めてきた。

 

 振り向きざま、腰の回転による遠心力を得たプロペラのような右手刀を、僕の顔面めがけてスイングしてきた。風を鋭く切る音が鳴る。

 僕は、奴の腕のリーチ内にすっぽり収まってしまっていた。これじゃバックステップでは躱しきれない。なので、迅速にしゃがみ込んで回避した。手刀が頭上を通過する。

 しかしそこで、僕は誘導された事を知る。目の前の影宮は足底を時計回りに捻りながら腰を落としつつ、左腕による腕刀を円弧の軌道で僕へ振り出してきていた。

 

 僕は自分を律して高速で考えた。しゃがんでいる状態である今の僕は、上手く動けない。なので避けることは難しい。なら、防ぐしかない。

 迫り来る左手刀の到達点を瞬時に目算した僕は、素早く仰向けに寝転がり、そこへ足を出す。

 刹那、履いていた体育館シューズの裏に手刀が激しく到達。防いだは良いが、その一撃のあまりの重さに、勢い余って僕の体が手刀の向かう方向へ大きく転がされた。

 

 五メートルほど切り離された所で、僕は素早く起き上がる。

 

 しかし、その時すでに、影宮が猿のように軽快なステップで差を縮めて来ていた。茉莉さんには及ばないが、なかなか速い!

 

 体の正面を僕へ向けている影宮は、シャクトリムシよろしく背中を丸めた。そして、息を腹の奥へと引き寄せるように大きく、深く吸い込む。

 そのまま右足を大きく踏み込む。着地とともにその足に反時計回りのねじりを加え、全身を鋭く展開。

 

()ッッ!!!」

 同時に、アリーナ全体に響き渡るほどの一喝とともに、丸めていた背筋を一気にピンと伸ばす。

 影宮はそれらの動作とともに、右正拳を矢のごとく突き放ってきた。

 

 一直線に迫る拳という名の弾丸を、僕は体軸の捻りによって紙一重で躱す。拳はTシャツの胸部に擦過。

 驚くべき事に、その突きがかすった部位から――Tシャツの生地がパックリと切り開かれた。中にある素肌が見え隠れする。

 

 僕はゾッとした。なんだ、今の突きは……!?

 

 慌てて大きく退き、影宮に目を向ける。

 

 奴は右手を得意げに開閉させながらうそぶいた。

 

「驚いているようだね。これは「体重の衝突」「足底の螺旋運動」「脊椎の張り」の三つの力を統合させて放つ『太極蛇勢砲捶』の絶招(ぜっしょう)黒虎(こっこ)偸心(とうしん)』さ。この技はそのまま用いても強力だが、そこへさらに『雷声(らいせい)』を加えることで、その威力はさらに凶悪なものとなる」

「『雷声』……?」

「呼吸法の一種さ。この新派には、丸めた脊椎を一気に真っ直ぐに突っ張らせることで、張り詰めた弓弦を解き放つのに似た原理で運動エネルギーを生み出す身体操作が存在する。それこそがさっき言った「脊椎の張り」の力だ。そして、その脊椎は横隔膜と繋がっている。『雷声』とは、体内に溜め込んだ大量の空気を一気に吐き出すことで、横隔膜を激しく引き上げ、強い上向きの張力を脊椎に与える呼吸法。それを「脊椎の張り」とともに用いることで、さらに打撃力を強化できる。今のを避けて正解だったね。当たったら君、この戦いの最中は間違いなく立てなくなっていたよ?」

 

 なるほど。じゃあ踏み込みと同時にした一喝が、その呼吸法だったってことか。

 

「そんなにぺらぺら種明かししていいのか? 対策を練られるかもしれないぞ」

「構いやしないよ。知られて不利になるような情報は漏らしてないからね。つまり君がコレを聞いたところで、毒にも薬にもなりはしないのさ。そんな甘い考えは抱かない方がいいよ」

 

 言うや、影宮は両掌を構えて僕を見据える。

 やっぱり、こいつは並じゃない。掛け値なしに強敵だ。

 でも、僕だってこの一週間、何も手に入れられなかったわけじゃない。

 『固有形』は手に入らなかったが、もう一つ、僕は奴を倒せる可能性を持っている。

 

 やがて、影宮がくわっと視界の中で大きく映る。雪崩のような猛然さと、刀の一振りを思わせる鋭さが同居した疾走ぶりで、腕の届く位置まで接近してきた。

 

 前足の母趾球辺りをキュッ、と擦り付けた鋭敏な踏み込みとともに、掌打が真っ直ぐ顔面に迫る。僕は頭部を左に傾けるだけでそれを回避。

 しかし影宮は伸ばしきったその手首を左へスナップさせ、爪で僕のまぶたを切ろうとしてきた。今度は頭を後ろへ引っ込めることでなんとか避け、事なきを得る。

 程なくして回し蹴りがやって来るが、僕は寸前のところでガードしたため、クリーンヒットはまぬがれた。

 

 その後も、何度も攻撃をいなし続けた。

 

 柔軟性に長けたしなやかな肉体から発せられる、爆竹のような猛攻。手刀、腕刀、掌打、拳打、蹴り、全てが重々しかった。

 特筆すべきは、腕による攻撃だった。

 脱力させて遠心力で振り回す奴の腕は、まさに極太の鞭に同じ。筋肉隆々な男のパンチよりもはるかに恐ろしい。風のように疾く、そして鎚のように重いのだ。おまけに脱力させているゆえ、力任せな打撃と違って動きも多彩に変化させられるため、攻撃がワンパターン化しにくい。

 スピードがあり、なおかつ変幻自在なその腕の動きは、蛇を彷彿とさせる。新派名に「蛇勢」という語を付ける所以はおそらくこれだろう。

 

 並の動体視力では、高速で飛び交うこの腕鞭を目で追うことは難しい。

 

 しかし、今の僕には――しっかりとそれらが見え、そして適切に対処できていた。

 

 元々、こんな優れた動体視力を持っていたわけではない。短期間で「慣らした」のだ。

 

 これが、影宮に勝つためのもう一つの手段。

 実は、僕は『固有形』の覚醒が望めなかった時に備えて、一昨日辺りから茉莉さんとある特訓をしていた。

 

 それは、手っ取り早く動体視力を鍛える修行だった。

 

 『太極蛇勢砲捶』のスピーディーな手法をあしらうには、その手の動きを目で追えるだけの動体視力が必要だった。なので茉莉さんは僕の体のあちこちに、何度も突きを寸止めさせた。影宮をはるかに超える、武術界に「閃電手」と言わしめた茉莉さんの神速の手法に目を慣れさせることで、無理矢理動体視力を上げたのだ。

 だが、これは言うは易しだった。恐ろしい速度で動く物体を無理に見ようとするのは、想像以上に目に負担をかける行為であり、何度も神経をすり減らせてバテた。ひどい時には、吐き戻しもした。

 

 結局、何度試しても、茉莉さんの手の動きを目で追うことは叶わなかった。

 

 しかし、その修行の成果はきちんと出ていた。影宮の手の動きが、はっきりと視認できるのだ。確かに速いが、茉莉さんには遠く及ばない。ゆえに目で追え、そして比較的冷静に対処できる。

 茉莉さんは不安がっていた様子だったけど、相手の動きが見えるというのは大きなアドバンテージだ。

 

 これなら『固有形』がなくても十分に勝てる見込みがある!

 

 僕は喉元を狙って一閃された右手刀突きを首の動きのみで躱し、そのままその右腕の外側を沿う形で一気に直進。力強い踏み込みと同時に影宮の右脇腹へ右拳を打ち込んだ。中国拳法、形意拳の一手『崩拳(ほうけん)』。後足の蹴り出しで作った力を背筋の運用で拳に伝え、それを重心移動とともに叩き込む強力な正拳突きだ。

 

「……っ」

 

 影宮が初めて苦々しい顔を見せ、足をもたつかせながら数歩下がる。

 そこを隙と睨んだ僕は、遠ざかる影宮めがけて一直線にダッシュし、途中で跳躍。その勢いを右膝に乗せてぶつけようと試みた。ムエタイの飛び膝蹴り(カウ・ローイ)だ。

 

 しかし、当たる寸前に影宮は身をよじらせ、膝蹴りを流す。

 空振らせた僕は奴を通り過ぎ、二メートルほど離れた位置に着地。この状況で避けるなんて。

 

 迅速に振り向くと、すでに右手刀を大きく振りかぶった影宮が僕の懐に立っていた。

 前足の踏み込みとともに一気に腰を沈下させ、ギロチンのごとく右腕を振り下ろした。あらかじめ腰の回転によって作っておいた遠心力へ、さらに重心を沈める力も加算したため、その腕は凶器同然となる。当たれば大きなダメージは避けられない。

 

 しかし、当たればの話だ。

 

 振り下ろされた場所に僕はいなかった。『三才歩』ですでに斜め左――影宮の右脇腹の近く――に移動していたのだから。

 

 僕の位置に気づく暇さえ与えず、奴の脇腹めがけて空手の『逆突き』をねじ込んだ。『順突き』と違い、前足と違う側の拳で打つ突き技で、腰の捻りを力の源とする。

 

「ぐっ……!?」

 

 確かな手応えを拳に感じるとともに、影宮はくぐもった呻きを微かにもらす。

 傍らに立つ僕を睨み、それを振り払おうと右腕で薙いできた。

 僕はソレをしゃがんで避けつつ、影宮の懐へと移動。そして、上体を大きく起こすと同時に、下から上へ弧を描く軌道の拳を土手っ腹へ重々しくぶち込んだ。心意六合拳の『横拳(おうけん)』。後足の伸びの力と上体を起こす勢い、これらの力を一拳に込めて放つ技だ。

 

 影宮は苦しそうに表情を歪め、重心の不安定な足取りで後退。まだ倒れてはいない。しかしバランスは順調に崩れており、奴の額にも少し汗が浮かんでいる。僕の攻撃が効いている証拠だ。

 

 ――ここで一気に決めてやる。

 

 僕はアリーナの床を渾身の力で蹴り、弾丸よろしく影宮に突っ込む。

 そして、右足でブレーキをかけるのと同時に、その足と同じ右側の拳で真っ直ぐ腹を突いた。中国拳法の『順歩捶(じゅんぽすい)』。名前こそ違うが、力を出す理屈は空手の『順突き』と一緒だ。

 

 全体重の乗った正拳を受けて、影宮はさらに苦痛を顔に表し、よろけながら退歩する。

 

 しかし、まだ僕の攻撃は続く。

 

 後ろ足を瞬発させ、下がる影宮の胸前へ再び迫った。

 右足を踏みとどまらせると同時に、そこへ反時計回りの捻りを加える。足底から生じた螺旋力で全身を鋭く左右に開く。重心の衝突力、全身の螺旋力という二つの運動エネルギーのこもった右肘打を、影宮の土手っ腹めがけて突き刺した。

 

 『猛虎(もうこ)(こう)()(ざん)』。牽制の正拳突きから、すぐさま必殺の肘打ちへ転じて二重のダメージを与える、八極拳の虎の子の技だ。

 

「ぐはっ…………!?」

 

 腹の中の空気を出し尽くすように唸った影宮は、肘の入った箇所から体をひん曲げ、大きく後方へ吹っ飛んだ。倒れた後も床を滑り、僕から十メートルほど離れてようやく止まった。

 

 胎児のようにうずくまる奴の姿を見て、僕は心の中で歓喜した。

 僕が圧倒している。させることができている。

 以前は手も足も出なかったが、今は違う。一週間必死に培った僕の力が、あいつに通用している!

 このままいけば、僕は勝つことができる。そして、茉莉さんを助けられる。

 

 そう思っていた時だった。

 

「くっくっくっくっ…………」

 

 今なお横になっている影宮が、そんな風に不気味に喉を鳴らして嗤ったのは。

 

 僕は薄気味悪さを感じたが、それを悟られまいと怒鳴り気味に問うた。

 

「な、何笑ってるんだっ?」

「くくくく……いや、面白いなぁと思って。ほんの一週間前まで尻の青い駆け出しでしかなかった君が、ここまで俺を追い詰めるほどに成長するなんてね。まったく、我が妻の指導力は実に素晴らしい。良き武術家は、同時に良き指導者でもあったようだ……じゃあ、俺もそろそろ――本気を出そうか」

 

 僕は顔では平静を装いつつも、内心では大きく揺らいだ。

 

 今までは……本気じゃなかったのか?

 

 影宮はゆらりと立ち上がると、

 

「ここまで俺を痛めつけてくれたご褒美だ。見せてあげるよ。『太極蛇勢砲捶』の真の姿を」

 

 そう言って挑戦的に破顔一笑し、両掌を構えた。

 

 そしてそのまま、ゆっくりと僕へ近づいてきた。

 

 恐る恐るといった足取りで、すさり、すさりと、緩やかな一定の速度で接近してくる影宮。ガラス上を流れる一筋の水を思わせる動きだった。

 今まで同様ハイスピードで近づいてくるかと思ったので、僕は少し戸惑った。だが、こいつが意味のない行動を取るとは思えない。なので気を引き締め、構えたまま警戒心をフルにする。

 

 やがて影宮は僕の二、三歩先まで到達したが、なおも攻めて来ない。それどころか、僕の周りをグルグルと円周し続ける。その速度は未だ少しも変わらず、ロースピードな等速歩行だった。

 

 僕は奴の姿を猜疑の目で追いながら、ただただ出方を待ち続ける。

 

 だが突如、今までスロー歩行を続けていた影宮の像がノイズのように横ブレした。

 気がつくと、奴は僕の懐まで接近していた。加速してきたのだ。

 そして、自重がしっかりと乗った掌打を、僕は甘んじて下腹部に受けることとなった。

 

「ぐっ――――!?」

 

 訪れる鈍痛、若干の気持ち悪さ。僕はそれに目を何度もパチパチ開閉しながら、後ろへ弾き飛ばされた。

 

 仰向けの状態に倒れた僕は、打撃の苦痛から目をそらし、素早く立ち上がる。

 

 見ると、影宮は再び、あのゆっくりとした等速歩行で僕の周囲を巡っていた。

 きっと、ずっとああいうスローペースな動きが続いていたから、僕は油断していた。だから反応が遅れてしまったんだ。

 でももう油断しない。急に加速される事も念頭に置いて、奴を徹底的に疑ってやる。僕は目を凝らし、流体よろしく周りを漂う影宮へ注意を向け続ける。

 

 やがて、影宮の姿にブレが生じ、一閃のごとく僕に迫ってくる。

 今だ。『三才歩』で奴の横合いに移動して避けて、すぐに反撃してやる。そう思った。

 

 

 

 だが――体が動かなかった。

 

 

 

 一秒にも満たない極少の時間の中、僕は考えた。そんなバカな。あいつの急加速は、初動からしっかり見えてた。僕がカウンターに移るまでには十分な時間があったはずだ。

 それなのに、体が石のように固まって動いてくれなかった。

 

 ようやく体の自由が戻ったのは、影宮の拳が約五センチ先まで迫った時だった。

 

「ごはっ――!!」

 

 重々しい拳打を受け、顔面を激痛が襲う。

 

 チカチカと明滅する世界を見ながら、僕は床を派手に転がり、やがてうつ伏せになって止まった。

 顔を起こすと、自分の側から真っ赤な雫が床に滴っていた。顔面を触ると、鼻腔から生暖かい血が流れていることが分かった。

 

 だが、僕は殴られた痛みよりも、影宮の動きに対する混乱の方が大きかった。

 

 足音がすさすさと近づいて来る。言うまでもなく、影宮のソレだ。

 

「君は今、きっとこう思っているはずだ。「初動からしっかりと動きが見えてるはずなのに、どうして反応が遅くなってしまうんだ?」ってね。違うか?」

 

 憐れむような静けさをもって聞こえてきた影宮の声に、僕は図星を突かれた。

 

「これが『太極蛇勢砲捶』の秘伝歩法――『陰陽歩(いんようほ)』。緩急自在な足さばきをもって、相手の脳に隙を作る歩法さ」

「脳の……隙?」

「そうさ。人間の脳は緩やかな動きをされた後に急激に加速されると、その動きに対してワンテンポ反応が遅れてしまうという悪癖があるんだ。この『陰陽歩』はそんな悪癖を相手の脳に引き出す歩法。「緩」と「急」を自在に切り替えることで相手の反応の遅れを誘い、無防備になったところを突く! この技は新派名に付く「太極」の意味を体現したものとも言えるね」

 

 僕は自分の持つ知識との齟齬を感じ、唖然とした。

 

 バカな。確か、茉莉さんから聞いた「太極」の由来は――

 

「どうせ茉莉から聞いているんだろう? 「『太極蛇勢砲捶』の「太極」とは、しなやかな動きから強大な打撃力を生み出すという関係が、「陰陽の統一」を表していることから付けられた単語だ」って。ハハッ! まんまとフェイクを掴まされたね。それは表向きの意味に過ぎないんだよ。この新派における「太極」の真の由来は、「(いん)」と「(よう)」を合わせて使う『陰陽歩』の存在にあるのさ! この新派の創始者は典型的な中国武術家だ。だから伝承にはとても保守的な姿勢でね、優れた拳の本質を俗世に知られぬよう、ワザと偽の由来を作ったのさ。この話と『陰陽歩』の存在は、『太極蛇勢砲捶』の門弟の中でも、創始者から才能を認められた少数の人間しか知らない。俺も含めてね。茉莉がこの技の存在を知らなかった理由は、そんな偽の由来に騙されたことと、俺自身が技を使う場面を今日まで茉莉に見せていなかったからさ!」

 

 影宮はさも痛快といった表情を浮かべていた。

 

 まんまとしてやられた気分だった。

 影宮はそんな切り札を、今日という運命の日までずっと隠し持っていたんだ。

 存在を知らないのでは、茉莉さんも対策の打ちようがない。そして僕も、どうすればいいのか分からなくなる。

 

「言っておくけど、これも君にとっては、知ったところでどうにもならない話だよ? 『陰陽歩』は人間の脳が持つ癖を利用する技。相手が人間である限り、その効果は必ず現れる。どんなに抗おうが――避けられる道理はない」

 

 影宮は構えるや、やおら流体よろしく動き始めた。

 

 僕は鼻血を拭い、痛みをこらえて素早く立ち上がった。

 

 粘つくような足さばきで、規則性なく、僕の周囲を縦横無尽にゆるゆると流れ続ける影宮。

 どうすればいい!? どうすればいい!? ――穏やかな奴の動きとは対照的に、僕はこの上なく焦っていた。

 

 必死に頭をフル回転させる。

 奴の緩急自在の動きを見ないために、目を瞑るという手を考えた。だが視界を捨ててしまったら攻撃が見えなくなるため本末転倒だ。気配だけで敵の攻撃を読むなんて芸当、僕にはできっこない。

 いっそ、こっちから攻めるか。いやダメだ。リーチで負けていることはすでに学習している。下手に飛び込めばそれこそ返り討ちだ。

 

 ならどうすれば――そう考えているうち、影宮が白い残像を作って肉薄。

 

「がふっ……!」

 

 のびのびとした動作から放たれた正拳が腹に衝突。僕は体の芯まで響く衝撃に切歯しながら後方へたたらを踏む。

 

 反応できる速度なのに、反応できない。痛みとともにそんなもどかしさを強く感じていた。

 

 正面へ視線を送ると、影宮の姿がなかった。

 茉莉さんから教わった「視界を広く使え」というアドバイスを忠実に守っていた僕は、視界の左端に「白い何か」を見つける――影宮の服の白だった。

 

 それに気づいた時にはもう遅かった。

 影宮は僕の真横で鋭く足腰を旋回させ、一条鞭と化した腕打を僕の背中へ叩きつけた。

 

「――――っはっ!!」

 

 大鎚でぶっ叩かれたような強烈な重さに反し、かすれた声しか漏れなかった。衝撃が凄すぎて、一瞬、呼吸ができなくなったのだ。

 

 前に押し流され、僕はうずくまるような中腰姿勢で激しい咳を繰り返す。

 だがすぐに、左から人影が差した。

 激しい危機感を覚え、僕は右へと飛び込んで転がる。

 

 それからゼロコンマ数秒単位の極短の経過とともに、「バァンッ!!」という床をしたたかに打つ音と振動が響いた。

 起き上がって振り向くと、これでもかというくらい深く腰を落としながら、伸ばしきった右掌をべったり床に付いている影宮の姿。この動きと形は、以前教わったため知っていた。腰で作った遠心力に、重心を急降下させる力も加えて振り下ろす、劈掛拳の『烏龍(うりゅう)盤打(ばんだ)』という掌打だ。劈掛拳をベースにしている以上、その名残があるのだろう。

 

 影宮は腰を上げると、緩やかな足さばきで数歩こちらへ近づいてから――すぐに速力を急上昇。「緩」から「急」へ転ずるその歩法に否応なく反応が遅れ、吐息のかかる距離までの侵入をあっさり許してしまう。

 そのまま、僕の鳩尾近くへ肘鉄を打ち込んできた。

 それに対して痛みを感じる間もなく、同じ肘で顎を打ち上げられる。

 脇腹に腕打。顔面に裏拳。腰部に回し蹴り。左胸に正拳。背中へ手刀……

 影宮はまるでポールダンスのように僕の周囲を華麗に巡りながら、体のあちこちに苦痛を浴びせかける。執拗に。念を押すように。これでもかというくらい。

 少し前までピンピンしていた僕が満身創痍の有り様となるまで、そう時間はかからなかった。

 

 そして――

 

()ッ!!!」

 

 爆ぜるような一声と同時に、影宮の正拳が腹のど真ん中へと食らいついた。

 深く食い込んでもなお、その奥へ進もうと強い指向性を働かせ続けるライフルのごとき一撃。呼吸法『雷声』とともに放つ『黒虎偸心』。

 今までで輪をかけた壮絶な痛覚、そして不快感が、総身を駆け巡った。

 

 僕は無茶苦茶な転がり方で遠くすっ飛んでいき、停止。

 

 床にしがみつくように倒れ伏していた。

 

「う……あ……」

 

 四肢をガタガタ震わせながら、僕は立ち上がろうとする。しかし力がうまく入らない。

 「このまま寝ていたい」という怠惰な気すら起き始める。

 『黒虎偸心』によるダメージは、想像以上に僕の体力と気力を削ぎ落としたようだ。

 

「終わったね。今の一撃をまともに食らって立っていられた奴はいない。ましてや、その前に何度も攻撃を食らっていたならなおのこと。この『組手』――君の負けだ」

 

 影宮が僕の傍らに歩み寄り、憐憫の口調で告げてくる。

 

 僕はその足元に手を伸ばし、

 

「ふざ、けるな。まだ僕は……」

「往生際が悪いよ藍野君。弱い奴が根性出して勝てるほど、武術の世界は甘くない。もうこれ以上痛い目にあいたくないだろう? 大人しくギブアップしたまえ。それが君のためにも、茉莉のためにもなる」

 

 その浮薄な態度と喋り方に神経を逆なでされた僕は、影宮を睨み目で見上げた。

 

 奴はひどく冷たい笑みを浮かべ、客席の二人には聞こえない声量で言った。

 

「茉莉から武術を奪うまいとして君は戦っているんだろうが、是非ともやめて貰いたいね。武術なんて野蛮なものを続けていたら――あの美しい体に傷がついてしまうじゃないか」

 

 僕は絶句した。

 奴の最後の一言は、恋人や妻を気遣うための言葉としてももちろん使えるものだ。

 しかし、奴の口調からは、愛情のような気持ちが少しも感じられなかった。

 

 いうなればそれは「お気に入りの壺が傷付いたらどうするんだ」みたいな、「物」を気遣うような口ぶりだった。

 

「俺は今まで色んな女性と関わり、そしてベッドの上で味わってきた。だから、こと女性を見る目に関しては長けていると自負できる。そんな俺が数秒間、間抜け面を晒して見惚れるような女性だったんだよ、神楽坂茉莉は。間違いなく、俺が今まで見てきた中で最高に美しい女性だった」

 

 影宮の態度、表情、眼差し、イントネーション、口にする言葉。すべてを合わせて考え、分かった。

 

「凄まじく欲しいと思ったよ。生まれたままの姿にして、この腕の中で存分に喘がせたいと思った。だが、相手は影宮家と双璧をなす家柄の娘。迂闊に手を出すことははばかられた。そんな超優良物件が手に入る絶好の機会なんだ。どうか邪魔しないでもらえるかな」

 

 分かってしまった。

 ――こいつは茉莉さんの事を、愛してなんかいないと。

 美術品や愛玩動物として、茉莉さんをそばに置きたいだけなのだと。

 

 それを悟った瞬間、腹の奥に焼け付くような怒りの熱が生まれた。

 

「……ふざけんなよ。あんたは――お前は、茉莉さんの事をなんだと思ってるんだ……!」

「おやおや、男の嫉妬は見苦しいよ。それともあれかい? 心や愛情がどうのとか、そういうエモーショナルな話に持っていきたいのかな? なら一顧だにもしてやる価値はないね。俺はいずれ父の跡を継ぎ、影宮グループという名の巨城を統べる身。その大役を果たすためには、表情一つ変えずに人を利用し、切り捨てられる非情さが必要だ。心や愛情など、その足かせにしかならないんだよ。まぁ、君のような子供には分からないだろうがね」

 

 影宮は僕から数歩離れると、声高に言い放った。

 

「さぁ、もう一度言うぞ――ギブアップしたまえ藍野英助。もしまだ立ち上がろうというのなら、俺はその回数だけ君を叩き伏せる。これはケンカや決闘ではない。『組手』だ。どちらがどちらを誤って殺害してしまっても、それは事故として処理されるだろう」

 

 きっと、影宮は遠回しにこう言っているのだ――死にたくなければ降参しろ、と。

 

 それを悟った瞬間、床下に吸い取られるように体から力が抜けた。

 

 まぶたもスッと閉じる。

 

 もう、手詰まりだ。

 あいつは逃れようのない歩法と、一撃必殺と呼べる技を併せ持っている。技を非常に多く知っているだけでどっちつかずな僕とは大違いだ。

 何より、僕はもうこれ以上痛い目を見たくないし、死にたくもない。

 

 ごめんなさい、茉莉さん。頑張ったけど、僕、ダメでした。

 やっぱり僕はダメな奴です。どんなにあがいたって、結局守りたいものを守れない。あなたを、守れなかった。

 

 ――そうだ。もう投げちゃえ。ここが潮時だぞ、英助。

 

 暗い視界の中に、意地悪なもう一人の僕が現れ、そう囁いてくる。

 

 その言葉に従いたくなるが、すんでの所でブレーキがかかる。

 

 なんと、こんな絶体絶命な状況であるにもかかわらず「諦めたくない」「立ち上がりたい」という思いが僕の中には残っていた。

 無謀極まる事だと、理屈では分かっている。だが、なぜか僕は、その気持ちにすがりたくなった。

 

 もう一人の僕が、そうはさせないとばかりに意地悪く言ってくる。

 

 ――もう諦めろよ英助。所詮お前はここまでの奴だったんだ。

 

 黙れ。

 

 ――お前じゃ何も守れない。結局、「守りたいものを、守りたい時に、守れるようになりたい」なんて、大風呂敷もいいところだったんだ。小室にいじめられて、弱々しく生きている方が、よっぽどお前らしかったんだ。

 

 黙れよ。

 

 ――茉莉さんが結婚? いいじゃないかさせてやれば。あんな素敵な人には、人並み以上の幸せがあってしかるべきだろう? お前が負けを認めれば、茉莉さんは武術を捨てる。でも代わりに、何不自由しない生活が待ってるんだ。所詮お前のやっていることは、ただの見苦しい自己満足だ。諦めろよ。諦めて笑顔で送り出してやれ。

 

 黙れって、言ってんだろっ!!

 ああそうだよ、お前の言うとおりだ! あんな素敵な人は必ず幸せになるべきだ! でもな! 影宮(あいつ)のそばにいても、茉莉さんはちっとも幸せじゃない! 僕はその理由を知っている! だから今、戦ってるんだろうが!!

 

 ――ここで立ち上がれば、お前は後悔するかもしれないぞ? 散々痛い目を見て、また桜乃さんの時のような無様を晒すかもしれない。最悪、それだけじゃ済まなくなるかもな。

 

 それでもいい!

 ここで余力を残して引き下がっても、僕は絶対後悔する!

 どっちも同じ「後悔」だ!

 

 なら僕は、誰かが救われるかもしれない後悔がしたい!!

 

 ――じゃあ、言ってみろ藍野英助。それを遂げるために、お前はどんな拳が欲しい? どんな戦い方をしたい? 聞くだけ聞いてやるぞ。

 

 欲しい拳? 欲しい戦い方?

 

 決まってる。

 僕の人生は、今まで誰かに殴られてばかりのものだった。

 だから――もう殴られたくない。

 殴られることもなく、蹴られることもなく、痛い思い一つせずに相手を倒せるようになりたい。

 

 ――それが、お前の欲しい拳か?

 

 そうだ。

 

 

 

 ――分かった。僕に任せてくれ。

 

 

 

 意地悪な僕は、最後の最後でにっこりと笑い、姿を消した。

 

 

 

 次の瞬間、体の奥に何かを埋め込まれるような、不思議な感覚がした。

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