神楽坂茉莉の緊急弟子育成計画   作:魔人ボルボックス

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第一章 藍野英助の決意①

「おい藍野ォ! ちょっとこっち来いやぁ!」

 

 昼休みに入った教室に、そんな乱暴な声が響き渡る。

 

 我関せずとばかりに無視を決め込むクラスメイト達を羨ましく思いながら、僕は陰鬱な気分で席を立った。

 

 スタスタと覇気のない足取りで、声の主のいる席の前へ歩み寄る。

 

 机の上に尻を乗せてふんぞり返っているその男子は、優越感に満ちた目で僕を見下ろしてくる。

 

 身長は一八〇センチほどだろう。細身だが凝縮感のある引き締まった体を包んでいるのは、僕と同じ都立砂城(さじょう)高校の黒いブレザー制服。イケメンと形容できる顔立ちはアジア人離れした整い方をしており、よくスタイリングされた毛髪は生え際まで全て金色だ。

 小室智司(こむろ さとし)。アメリカ人と日本人のハーフで、僕のクラスメイトだ。

 

 小室は僕の肩口にポンと手を乗せ、ニヤけ面で言ってきた。

 

「喜べ、テメーに仕事だ。カレーパンとメロンパンと焼きそばパン、それとコーヒー牛乳を俺たち全員分買ってこい。制限時間は十分。それ以上待たせたらぶっ殺すから。あと、ちゃんと言ったモン買えなかったとしても同じく殺すからね。頑張って走りなさいよ」

 

 奴の後ろにタムロしている仲間四人が一斉にゲラゲラと笑う。

 

 僕は胸中にこの上ない怒りと屈辱の火を灯す。だが、そんな気持ちを抱いたってもどうしようもないだろう、と自分に言い聞かせて、すぐにその火を消した。

 

「うん……分かった」

 

 沈んだ声と表情で、小室の要求に応じた。

 

 そして、右掌を上向きにして前に差し出す。

 

 「なんだ、この手は?」と訝しげな顔で問うてきた小室に対し、僕はおずおずと答えた。

 

「そ、その、僕、今月はお金ピンチだから……だからみんなの昼代を渡してもらえると嬉し――」

 

 その言葉は続かなかった。

 

 小室の爪先蹴りが、僕の土手っ腹を的確に捉えていた。

 

 激痛と微かな吐き気を同時に感じながら真後ろへ吹っ飛び、机を巻き込んで盛大にぶっ倒れた。

 

 胃液が少し出たことでいがらっぽさを感じて咳き込んでいると、小室が僕の胸ぐらを掴んで無理矢理起こし、至近距離で睨みを効かせながらがなり立ててきた。

 

「バカかテメーは!! 何で俺らが昼代出さなきゃなんねぇんだ!! テメーの金で買えっつってんだよボケナス!! もし金ねぇなら購買からギってでも俺らのメシ用意しろやぁ!!」

 

 咳き込む事などすっかり忘れ、小室の迫力にすくみ上がる。きっと今の僕は、歯の根が合っていない情けない顔になっていることだろう。

 

 周囲のクラスメイトたちは気の毒そうにこちらを見ている。だが、誰一人として助けに入ることはない。巻き込まれるのが怖いのだろう。

 

 小室は掴んだ僕を強引に立たせ、

 

「オラ、とっとと行けや! よーい、スタート!」

 

 パンッ、と手を叩いて出発を促す。その顔はひどく愉快そうだった。

 

 心の底から情けない思いでいっぱいになるが、購買は込むのが早く、急がないとタイムリミットの十分まで時間がない。遅れたらまた寄ってたかって殴られる。そんなのは嫌だ。

 

 仕方なしに走り出し、教室を後にした。

 

 ギャハハハハほらほらフルスロットルー、とはやし立てる小室たち五人の声を背中に浴びる。

 

 僕は切歯し、そんな声から少しでも遠ざかろうと走るスピードを早めた。

 

 

 

 

 

 

「危なかったぁー……」

 

 体が溶けるような安堵の声を上げながら、僕は購買を後にした。

 

 右手にはカサカサと音を立てて揺れるビニール袋。中身の多さで大きく膨張していた。

 

 乏しい体力を使って頑張ったのが功を奏したのか、購買がまだ空いているタイミングで並ぶことに成功し、なんとか要求された品を購入できた。まだ小室の指定した十分まで余裕で時間が余っている。ひとまず安心だ。

 

 今日は乗り切った。これで今日は小室の必殺パンチの実験台にならずに済むし、五人がかりで踏みつけられることもない。予算の都合上、僕の分はパンの耳しか買えなかったけど、それでも殴られるよりはずっといいはず。

 

「……はぁ」

 

 そこまで考えて、僕は自分がすっかり奴らの下僕として定着していることを感じ、情けない気分になった。

 

 そう。僕はあの小室とその仲間から、手酷いいじめを受けている。

 

 きっかけを説明するには、これまで僕が歩んできた惨めな学校生活についてから先に話さなければならない。

 

 僕がいじめられるのは今回が初めてではない。小学校時代でも中学時代でも、必ず誰かからいじめや嫌がらせを受けていた時期があった。

 

 一五六センチしかない華奢な体躯に、三歳ほど幼く見える童顔、色素の薄さゆえの茶色がかった髪。これらの身体的特徴は、嫌がらせが大好きな連中にとっては格好のカモに見えるのだろう。僕は「ホビット」だの「コロポックル」だのとあだ名を付けられ、随分といじめられた。

 

 でも、高校に入ったらそんな悲惨な学校生活とはオサラバしたい! そんな思いで僕は砂城高校合格通知を貰うと同時に「高校デビュー」することを決意した。

 

 僕はできる限りの努力をした。色素が抜けて貧弱そうな髪色をまばゆいばかりの金に染め上げ、雑誌を熟読してファッションや知っておくべき情報を勉強した。それと……女の子と深い仲になった時のテクニックとかも。

 

 準備が整い、僕は万全の状態で意気揚々と入学式を迎えた。これから先にはいじめられることのない、輝かしい高校生活が待っているんだ――そう信じて疑わなかった。

 

 しかし、この世界はどうしても僕をいじめられっ子にしたいらしい。

 

 二日目のホームルーム前、ある男に目を付けられたのだ。

 そう、その男こそあの小室だった。

 

 小室は向かい合うなりすごい剣幕で睨めつけてきたかと思うと、突然僕の染めたての金髪を引っ張りこんでこう吐き捨てた。「このニセ金髪が。生意気なんだよ。死なすぞクソチビ」。

 

 ハーフゆえに天然の金髪を持つ小室は、人工金髪の僕がひどく生意気に映り、気に入らなかったらしい。僕は校舎裏に連れ込まれ、小室とその仲間たちにボコボコにされた。その後に金髪もやめるように命令され、やむを得ず元の髪色に戻した。

 

 言われた通りに金髪をやめた後もズルズルと小室との上下関係が続き、そして現在――四月半ばに至る。

 

 廊下を歩く僕の歩調が我知らず頼りないものになる。思い出すだけでも情けない記憶だ。

 

 「反撃すればいいじゃん」と言うクラスメイトもいたが、簡単に言うなよと思う。小室は『東流七星術(あずまりゅうしちせいじゅつ)』という武術を身につけているため、ケンカが僕なんかよりずっと強い。立ち向かったって勝負になんかならないだろう。

 

 いじめの証拠を突きつけて、学校にいられなくしてしまうという手も当然考えた。だが僕は、その後に小室からこれまで以上の暴力をもって報復を受ける可能性を恐れ、その案を懐にしまった。それに少子化が進行傾向にある今の時代、廃校になる学校法人だって少なくない。ゆえに教師陣はどうにも生徒の処分に消極的だ。

 

 僕が武術を習ってさえいれば、あんな奴らコテンパンなのに――ふとそんな考えが浮かんだ。

 

 だがそれは叶わぬ夢だと自分を戒める。僕はこう見えて、現在は仕事で海外を飛んでいる父から武術の手ほどきを受けたことがある。だが生来の虚弱体質ゆえに練習に耐えかね、一週間と待たずに断念してしまった。そんな根性なしが小室より強くなるなど、夢のまた夢だと思う。

 

 小室を倒すなどという夢は、妄想の中だけで実現させることにした。

 

 妄想の中の僕はめちゃくちゃ強い。パンチやキックが効かないどころか銃弾さえ通さない肉体を持ち、デコピン一発で人が飛んでいく。その必殺デコピンで小室を弾いて遊んでいた。奴はしきりに謝るが聞き入れず、何度も何度もデコピンを食らわす。

 

 小室が動かなくなったところで妄想は終わるが、現実に返った途端、とてつもない虚しさがこみ上げてきた。

 現実の僕は、なんと儚く、矮小な存在なのだろう。

 そう思い、深いため息をついた時だった。

 

 

 

「――神楽坂(かぐらざか)(しき)骨法(こっぽう)研究会です。もしよかったら、入部しませんか?」

 

 

 

 そんな清涼感を持った女声とともに、視界の右側から一枚の紙切れを持った白い手がにゅっと伸びてきた。

 

 僕は思わず立ち止まり、手の現れた方向へ目を向け、そして思わず見開いた。

 

 そこには、とてつもなく美しい女性がいた。

 

 着ているものは黒いブレザーと、それと同色のスカート――砂城高校の女子の制服だ。身長は女子にしては高く一七〇センチ弱ほどで、ほっそりとしていながら出るところはしっかりと形良く出た、砂時計のような芸術的プロポーション。枝毛一つない漆黒のロングヘアをうなじの辺りで一つ結びにしており、その髪の下には華やかさと快活さを同時に感じさせる美貌があった。

 

 僕は今まで、これほど綺麗な女性を見たことがない。

 

 そのためだろうか、しばらくの間惚けたように彼女を見つめていた。

 

「あ、あのー? どーしたのー?」

 

 その女子はバツの悪そうな笑みを浮かべながら、持っている紙切れをひらひらさせて呼びかけてくる。

 

 僕はようやく我に返り、女性をジロジロ見るという無礼を働いた事を素直に謝った。

 

「す、すみませんっ。それで、あの、何か僕に用でしょうか?」

 

 悔しいことにこの女子は僕より背が高く、少し見上げる形で要件を聞く事になった。

 

 彼女のブレザーの襟についた校章の色は赤――僕の一つ上の二年生だった。ちなみに僕ら一年生の校章は緑、三年生は空色だ。

 

「あ、そうだった! はい、これ」

 

 女子は思い出したようにパッと表情を明るくすると、持っていた紙切れを差し出してきた。

 

 僕は黙ってそれを受け取り、紙面に目を通す。

 

 

 

《老若男女関係なく強くなれる武術、『神楽坂式骨法』!! 学習希望者随時募集中!! 詳しくは部室棟三階、神楽坂式骨法研究会の部室まで!! 

                   神楽坂式骨法研究会部長 神楽坂茉莉》

 

 

 

 可愛らしいクマさんの絵が挿入された紙切れには、派手な書体でそう書かれていた。見ると、彼女の左脇にも同じ紙切れが束になって抱えられている。どうやら部員を募集するビラのようだ。今は各部活動が新入部員の獲得に躍起になっている時期であるため、さほど珍しい光景ではない。

 

「――神楽坂式骨法?」

 

 聞いた事のない門派名に、僕は首をかしげる。

 

「あたしの大伯父様が創始した門派だよっ。すっごいんだから」

 

 女子は腰に手を当て、「ふふんっ」と誇らしげに笑う。浮世離れしたような華やかさに反して、案外フランクで親しみやすい性格なのかもしれない。

 

 僕はそんな彼女の態度にほだされ、自然とさらに追求してしまう。

 

「もしかして……『新派(しんぱ)』ですか?」

「そうねぇ、五年前に亡くなった大伯父様が晩年期にお創りになって、その時期はちょうど武術が流行り出してた頃だったから、それに分類するわね」

 

 『新派』とは、十数年前の武術ブーム到来以降に生まれた、新しい武術門派の俗称だ。

 

 日本で武術ブームが起きていると知るや、自分の技で一儲けしようと世界中のあらゆる国の武術家が次々と日本、特に東京――日本一人口が多い場所なので、入門者もたくさん取れると思ったからだ――へやってきて、伝承を広めた。それによって途方も無い数の武術が日本に集中することとなった。

 日本、中国、タイ、インドネシア、ロシア……それらの多くの国の武術が互いに混ざり合い、影響を受け合い、そして新たな武術が生まれていった。それが『新派』の基本的な成り立ちだ。

 

「紹介が遅れたわね。あたしは二年B組の神楽坂茉莉(かぐらざか まつり)。よろしくね、えーっと……」

「一年C組の藍野英助です。よろしくお願いします」

「英助くんね……縮めて「英くん」でいいかしら?」

「へっ? い、いいですけど」

 

 僕は戸惑いながら頷いた。初対面で愛称を付けられたのは初めてだったのだ。

 

「オッケ。んじゃあたしのことも「茉莉さん」でいいわ。それで英くん、どう? あたしに神楽坂式骨法を習う気はない? 君みたいな背丈の低い子でも十分に強くなれるわよ? ね、どう? やってみない?」

 

 女子もとい――茉莉さんがずいっと間近に迫りつつ、挑むような笑みで勧誘してくる。何やら奇妙な必死さを感じた。

 

 近くから見てもやはり彼女はとてつもなく美人で、女の人特有のいい匂いも込みで僕の心臓をドギマギさせてきた。

 

 こんな綺麗な人と一緒の部活になるのもいいかも、と一瞬思いかけるが、慌てて自分を律する。

 

 こんな貧弱な僕に武術は向いていない。小さくても強くなれるとは言っていたが、そこまでに至るまでにはかなりの苦痛と努力を強いられることになる。それに耐えられる自信はとてもじゃないが僕にはなかった。

 

「ごめんなさい、えっと、茉莉さん。僕、武術は苦手で……」

 

 消え入りそうな声で、そう断った。

 

「そう…………わかった。しょうがないね、強制しても身につかないし」

 

 茉莉さんはシュンと落ち込んだ仕草を見せる。なんだか悪いことをしちゃった気分だな……。

 

 どうしていいか分からずに腕をぶらつかせると、それによって手指に引っかけていた袋の重みを思い出し、そして大事なことを連鎖的に追想した。

 

 そう。小室が指定したタイムリミットが迫っていたのだ。

 

 背筋が寒くなった。

 

「ご、ごめんなさい茉莉さん! 僕、もう行かなきゃ!!」

 

 僕はもらったビラをブレザーのポケットに押し込み、焦燥に駆られて駆け出した。

 

「もし気が向いたら、いつでも来てねーー!!」

 

 茉莉さんのそんな呼びかけを背に、僕は廊下を走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、僕は小室たちに昼食を渡した。ギリギリ一分前でタイムリミットには間に合ったため、制裁は受けずに済んだ。

 

 それから授業もすべて切り抜け、あっという間に放課後となる。

 

 昇降口へと流れていく廊下の生徒たちの中を、僕は力なくトボトボと歩いていた。

 意思とは関係なくため息が漏れる。

 今日も疲れた。主に小室のせいで。

 あいつの存在が、僕の学校生活をめちゃくちゃにしているのは明白だ。本来昼休みは友達と仲良くお昼を食べながら談笑するものだろう。だが小室のせいで時間を奪われ、なおかついじめに巻き込まれる事を恐れているせいか僕の周囲に友達は寄り付かない。未だに一人で昼食を食べている。

 あと、少し機嫌が悪いからといっていちいち蹴っ飛ばされるのも理不尽だ。ストレスは武術の稽古で解消すればいいだろうに、どうしてわざわざ僕を巻き込むんだ。それを問うたら「お前を蹴った方が楽しいからだよ。面白いリアクションするしよ」だそうだ。エゴイストの鑑だと思った。

 

 辛いし、つまらない――それが僕の高校生活に対する感想だ。

 

 だが、そんな高校生活にも、一粒の清涼剤があった。

 

 僕は階段を下りる直前、そんな癒しの存在である彼女と嬉しい遭遇を果たした。

 

「あ、あのっ! こ、こんにちは」

 

 心臓が高鳴るのを我慢しながら、その女の子に声をかけた。

 

 体つきは全体的に細い感じで、身長は僕よりもちょっとだけ低い程度。くりっとした大きな二重まぶたと茶色いボブカットが特徴の、とても可愛らしい女の子だった。

 桜乃優奈(さくらの ゆうな)。僕と同じ一年生の女子だ。

 

 桜乃さんは声に気づいて僕の方を振り向くと、

 

「こんにちは、藍野くんっ」

 

 花が咲くような笑みを浮かべて返してくれた。

 

 それだけで僕の心臓は天井知らずにビートし、嬉しい気持ちがあふれてくる。

 

「どうしたの藍野くん? なんだか嬉しそうだね」

「ええ? そ、そうかなー?」

「うん、顔がにやけてるもん。何かあったの?」

「……が、学校がやっと終わったから、かな?」

「やだー、藍野くん変な人―」

 

 そんな他愛ない話でもクスクスと笑いかけてくれる桜乃さんに、僕の心はますますときめいた。

 

 ……はっきり言おう。僕はこの娘のことが好きだ。

 

 きっかけは入学式の時、廊下で偶然正面からぶつかってしまったことからだ。漫画のような話だが、その時に僕は彼女に一目惚れしてしまい、謝罪すると同時に勢いでクラスと名前を訪ねてしまった。

 それから頻繁にとは言わないが、多すぎず少なすぎずの交流を重ね、今ではすっかりこうして談笑できるまでになれた。敬語ばかりだった初期に比べれば目覚ましい進歩だ。

 

 桜乃さんが僕を好いているなんて自惚れたことは言わない。だが以前よりも距離はそれなりに縮められたと思う。このまま順調に仲を深めていって、最終的には恋人同士に……なんて甘美な妄想を何度したかは自分でも覚えていない。

 

 ちなみに、彼女にはいじめられている事を教えていないし、知られないよう努力している。幻滅されたくないからだ。

 

 普通、好きな娘とは同じクラスになりたがるものだが、僕の場合は彼女がE組で本当によかったと思っていた。いじめられている所を見られずに済むからだ。あんなみっともない姿を見られた日には……想像するだけで死にたくなってくる。

 

「今度はなんだか青っぽい顔になったけど……藍野くん、平気?」

「え? ああ、いや! 大丈夫! 気にしないで」

「うーん?」

 

 小動物のように小首をかしげる桜乃さん。

 

 ああ、やっぱり可愛い……! 僕は心の中でこの上なく萌え萌えしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから僕ら二人は下校し始めた。

 

 二人とも電車通学だった。僕はそれを口実にすることで、桜乃さんと一緒に帰るという夢のようなシチュエーションを獲得するに至ったのだ。僕はガッツポーズしたい衝動を必死に我慢していた。

 

 下校の最中、とりとめのない話に花を咲かせた。昨日見たテレビのこと、中学時代のこと、歌やアイドルのこと……色々な事を話題にした。

 

 途中、フェンスで囲われたバスケットコートの前を通りかかる。

 

 そこで行われていたのはバスケではなく、何かの武術の練習だった。

 一人の指導者の前に数人の門下生が並び、型を練習している。

 一喝と踏み込みを合わせた鋭い正拳突きを見て最初は空手かと思ったが、突き手を引っ込めると、いきなり独楽よろしく素早く回転移動しながら低い払い蹴りを連発するという、インドネシアのペンチャックシラットのような動作も見せた。

 彼らの動きには、重心のおぼつかなさや体軸のブレがほとんど見られなかった。きっと結構な熟練者に違いない。

 

「すっごーい……」

 

 桜乃さんが感嘆の声をもらす。

 

 おそらく、あれは『新派』だろう。

 

 『新派』は日本中に存在するが、この豊島区を含む東京では特に多い。というか新派だらけと言ってもいいくらいだ。

 

 そうなってしまった原因は東京に来た武術家たちの、他門派への対抗意識にある。

 東京に道場を構えた武術家たちの多くは、少しでも多くの門下生を獲得しようと必死になっていた。だが空手やボクシングなどの既存の武術では、他の道場とジャンルがダブってしまう事がある。そうなると「他の場所でも習えるじゃん。じゃあここじゃなくてあっちに行こう。あっちの方が家から近いし、月謝安いし」という話にたまになってしまう。ゆえに彼らは差別化と独自性を求め、自分が持つ武術以外の武術も研究し、独自に新しい武術を創った。それが『新派』である。「ここでしか習えない」という唯一性を武器に、入門者集めを行ったのだ。

 

 ある一人が最初に『新派』を創ると、すぐにそれに対抗するような形で異なる特徴を持った『新派』が別の場所で生まれ、さらにそれに負けじとばかりにまた違う『新派』が立ち上がり……といったことを何度も繰り返していくうちに、気がつくと東京は『新派』だらけとなってしまった。『新派』という呼称を使うようになったのも、ちょうどその頃からである。

 

 無論、空手やボクシングといった、昔からある武術も東京には伝わっている。そして、そういった武術ブーム以前から存在する武術は、『新派』と区別する形で『旧派(きゅうは)』と呼ばれている。その呼び方を嫌う人もいるが。

 

 『新派』というキーワードによって、僕はある人を連想した。

 

「ねえ桜乃さん、神楽坂茉莉っていう先輩、知ってる?」

 

 僕がそう切り出した途端、桜乃さんは歓喜の表情で言った。

 

「知ってる! 神楽坂先輩でしょ!? すっごく美人だよね。それに強いし!」

「強いの?」

 

 あんな綺麗な人が?

 

 僕が半信半疑といった表情を浮かべていると、桜乃さんは得意げにまくし立ててきた。

 

「うそ!? 藍野くん知らないの!? すごく有名な人だよ! この豊島区どころか、隣の新宿区と文京区でも敵無しって言われてるほどの武術家で、通り名は「閃電手(せんでんしゅ)」! 実際見たことはないけど、その名前の通りスピードが桁外れに速くって、普通の人が一回の突きを出す時間で、神楽坂先輩は五回出せるらしいの! おまけにあんなに美人だから男の人にもすごくモテて、何回も告白されてるんだって! みんな振られてるけど!」

 

 熱弁を振るう桜乃さんの勢いに圧されながらも、僕はなんとか言葉を返せた。

 

「く、詳しいんだね」

「うん、まあね。はぁ……とにかくすごいよねぇ神楽坂先輩。あんなに綺麗な上に強いなんて。同じ女として憧れちゃうなぁ」

「何言ってるのさ! 桜乃さんだって十分可愛いよ!」

 

 ……などと言える勇気は今の僕にはなく、その言葉は心にしまっておくこととなった。

 

 そうして歩いているうちに、歩道側に軒を連ねる店がブティックなどの派手なものになり、人通りも多くなってきた。駅に近づいているためだ。

 

 脇道の前に差し掛かった時、桜乃さんが僕の裾をちまちま摘んできた。

 

「ねぇ藍野くん、私この脇道から行きたいんだけど、いいかな……?」

「いいけど、どうして?」

「接客の人が、その……ちょっと怖くて」

 

 「ああ、なるほど」と僕は納得した。この通りは店の接客に熱心な人が多いのだ。彼らのパワフルな接客が嫌だという人も少なくない。実際僕も入学して間もない頃、黒人のお兄さんの口車に乗せられて店内へ連れて行かれ、サイズの合わないジーンズを半ば無理矢理買わされた事があった。今ではそれはお父さんが代わりに履いている。

 

 僕は快く頷いた。少し遠回りになるが、この脇道からでも駅には行ける。むしろ、桜乃さんと一緒にいられる時間が増えるんだと思うとラッキーにすら感じる。

 

「やったぁ! アリガト、藍野くん」

 

 桜乃さんがぴょんぴょん跳ねながら喜んだ。めちゃくちゃ可愛い。桜乃さんの笑顔があれば、小室に百回殴られても全回復しそうだよ。

 

 僕らはその道に入り、路地裏へと足を踏み入れた。

 

 そこは何もかもがさっきの表通りとは対照的な場所だった。影が差して薄暗く、道幅もワンボックスカー一台しか通れなさそうなほど狭い。端っこの建物に設置された室外機の音のみが響き渡っていた。

 

 正直言うと、こういう陰気な場所は少し怖い。全盛期より多少は下がったとはいえ、日本の犯罪率はまだ高いままだ。このような人気のない所に来ると後ろから刺されるんじゃないかと不安になってしまう。

 

 だが、それを桜乃さんに悟られるわけにはいかない。あまりにもカッコ悪いからだ。なので必死にポーカーフェイスを貫く。

 

 隣を歩く桜乃さんは普段通りといった表情。それは僕のように平静を装ったものではなく、全くの自然体に見えた。

 

「こういう所、怖くないの?」

 

 僕はあくまで平静の仮面を被りながら、桜乃さんに訊いた。

 

「うん? ダイジョブだよ。普段からここ通ってるし。ここで襲われたりしたこともないし」

「そうなんだ」

「うん。それに襲われたとしても投げ飛ばしちゃうよ。こう見えて合気道二級だからね私」

 

 可愛らしく力こぶを作るポーズをしてみせる桜乃さん。

 

 そんな仕草に幾度目かのときめきを抱きながら、駅までの道を真っ直ぐ進んでいる時だった。

 

 右前方にある二つの建物の間から、三つの人影が飛び出した。

 

「「「バァー!」」」

 

 見知らぬ三人の男たちが、おどけた声と態度で僕らの行く手を阻んだ。

 全員顔を覆面で覆っており、薄手のダウンジャケットにジーンズという悪の戦闘員よろしく統一されたファッション。

 

 怪しさは言うまでもなく満点だった。

 

 覆面男たちはこちらへ歩み寄って来た。僕は警戒心を携えて半歩退く。桜乃さんも同様のリアクションだった。

 

 連中は――桜乃さんを注視していた。

 

「ねえお嬢ちゃん、ちょっと俺らと遊んでくれねぇ? 楽しませてやっからよぉ」

 

 覆面男の一人がそう言ってくる。

 

 当然というべきか、桜乃さんはますます身構えていた。それはそうだ。覆面を被らないと誘えないような遊びなんて、どうせロクなことじゃない。だいいち桜乃さんを見る連中の目は、獲物を前にした狼よろしく血走っている。

 

「……お断りします。帰らないといけませんから」

 

 桜乃さんが緊張した声でそう断ずる。

 

 だが覆面男たちは聞く耳持たずとばかりにさらに詰め寄り、一斉に喋りかけてきた。

 

「えーいいじゃんかよ。ドリンクバーも付けるぜ?」

「一緒に仲良く腰振ってダンスしようぜ」

「いや、腰振るのは男の俺らだけじゃね?」

「フハハハハハハッ! ウマいっ! 座布団一枚!」

 

 連中が品無く盛り上がるたび、桜乃さんの顔が不安さを帯びていく。

 

 ……ここは、僕がなんとかしなければならない。そう思った。

 

 相手は僕よりもずっと体格が良く、歳だって上だろう。こんな連中に対して強気で出るなど、普段の僕ならとてもじゃないが怖くて無理だ。

 

 でも、隣には好きな女の子がいて、その娘がとても不安そうにしている。ここで立ち向かわなければ男じゃない。それに……桜乃さんに格好良い所を見せたいという邪な気持ちもあったのだ。

 

 僕は意を決し、一歩前に出た。

 

「――あの、すみません。僕たち急いでるんですけど」

 

 気丈な声色で、覆面男たちにはっきりと言い放つ。

 

 三人が一斉に僕へ視線を移動させた。覆面の下に落ち窪んだような昏い眼差しにさらされ、否応なしに総身が粟立つ。

 

 だがここで弱腰な態度を見せたらつけあがられる。なので僕は必死に自分を律して、再度気炎を吐いた。

 

「聞こえませんか? 僕たちは急いでるんです。あなたたちがそうやって道を塞いでると通れないので、道の端っこに引っ込んで僕たちを通してください。だいいち、そんな覆面着けて女の子を遊びに連れ出そうっていう時点で非常識なんじゃないですか? 遊びに誘いたいならその覆面を取ってから来て欲しいですね。これ以上ちょっかい出すなら警察を呼びま――」

 

 転瞬、頬骨に熾烈な衝撃を受け、発言をストップさせられた。

 

 後方へ勢いよく吹っ飛ばされ、アスファルトを数度転がった。

 

 横向きに寝転がった姿勢で止まった僕は、先ほどまで立っていた所を見る。そこでは覆面男の一人が拳を振り抜いたポーズをしていた。

 

 それを目にしたことで、殴られたという事実にようやく気がつく。そして思い出したかのようなタイミングで、頬の痛み、血の味が訪れた。

 

 全身には、まるで骨を抜き取られたかのような虚脱感。たったパンチ一発で、さっきまでの気力が嘘のように枯渇していた。

 

 覆面男たちはそんな僕の状態など知ったことかとばかりに歩み寄り、集団で足蹴にしてきた。

 

「調子こいてんなよ、このクソガキャァ!! いっぺんくたばってみっか!? えぇ!?」

警察(サツ)を、なんだって? おうコラ! 続き言ってみろやぁ!!」

「ワンパンでダウンするカスのくせに、お姫様守るナイト気取りですかぁ!? 身の程わきまえろタゴサクが!!」

 

 土砂降りのように次々と蹴りが放たれ、全身のあちこちに激痛が走る。

 

 最初のパンチ一発で気力をすべて削がれてしまったため、抵抗する気も生まれず、ただただ人間サンドバッグを演じ続け、僕の体はあっという間にボロボロの有様となっていった。

 

 無数に降ってくる足裏の間を縫って、桜乃さんへ視線を送る。四肢と唇を震わせながら、戦慄の表情で立ち尽くしていた。

 

 せめて、桜乃さんだけは逃がさないと。

 

 僕はほんの少しだけ気力を取り戻し、それを全て叫ぶ事に費やした。

 

「逃げてっ!! 桜乃さんっ!! 早くっ!!」

 

 心ここにあらずといった状態だった桜乃さんがハッと我に返る。よし、そのまま迷わず突っ走って逃げるんだ。酷い目にあうのは僕だけでいい。

 

「逃げないでよぉ、ウサギちゃぁん」

 

 だがその気力の投資は無駄に終わった。覆面男の一人が僕を蹴るのをやめるやいなや、桜乃さんを素早く抱きつくようにして捕まえた。

 

「嫌ぁっ! 離し――ムグッ!?」

 

 おまけに、口まで塞がれた。

 

「騒ぐんじゃねぇって。表通りにバレんだろ」

 

 桜乃さんに抱きつく覆面男が、低く小さな声でそう凄む。彼女は必死に暴れるが、拘束は全く解けない様子。

 

 口元を塞がれた桜乃さんは何も喋れない。だが目尻にできた大粒の涙が、彼女の抱く恐怖心を言外に示していた。

 

 僕は彼女に手を伸ばすが、上から降りてきた靴にその前腕部を踏みつけられた。

 

「オラ、テメーも声上げんな。靴でも食ってろ」

 

 僕の腕を踏んだ覆面男の一人が、口の中にもう片方の靴の爪先を押し込んできた。人工合皮と土の味がミックスして、口の中が気持ち悪い。

 

「っ!!」

 

 桜乃さんの大きく息を呑む声が聞こえてきた。

 

 見ると、抱きついている覆面男が彼女の胸を鷲掴みにしていた。

 

 桜乃さんは目に溜めた涙の塊をさらに大きくし、体を激しく振る。だが覆面男の丸太のように太い腕からは逃れられない。

 

 ――僕は自分の無力さと浅はかさを呪った。

 

 こうなってしまったのは僕のせいだ。

 さっさと桜乃さんの手を引いて、元来た道へ走って逃げればよかったんだ。僕が変にカッコつけようとさえしなければ、こんな事にはならなかったんだ。

 僕はどうしてこうなんだろう。金髪に染めたことで小室に目を付けられた時だってそうだ。自信満々でやったことが、いつも裏目に出てしまうんだ。

 

 ちくしょう――ちくしょう――ちくしょう――――

 

 僕がそんな風に、ひたすら自分を責め立てている時だった。

 

「――がっ!?」

 

 突如、うめき声が聞こえた。男のものだ。

 

 僕ではない。ということは、覆面男の中の誰かということになる。

 

 次に聞こえて来たのは、ドサリと何かが倒れるような音。

 腕と口を押さえられているため、僕は必死に目玉だけを音のした方向へと向けた。

 そこには、桜乃さんを捉えていた覆面男が、鼻血を垂れ流して仰向けになっている姿があった。

 

 僕は瞠目する。

 

 もしかしてこれは、桜乃さんがやったのだろうか――その考えを一瞬抱くが、すぐに「それはないな」と思った。こんな事ができるほど武術の腕前に優れていたなら、最初からされるがままになんかなっていないはずだ。

 

 仲間割れの可能性も無い。倒れた覆面男を除いた二人のうち、一人は僕の片腕と口の中に足を乗せており、もう一人は僕のお腹を踏んでいたのだ。足を動かそうとすれば、現在進行形で足蹴にされている僕ならすぐにわかる。おまけに二人とも、倒れた覆面男との距離は手が届かない程度には離れていたため、僕を踏む片手間に殴りつけたことも考えにくい。

 

 考えられる可能性は一つに絞られた。それは――第三者の介入。

 

「だ、誰だテメーはごぶべぁ!?」

 

 顔面を潰されたような声が聞こえたと同時に、僕の腕と口の中から靴の重みと感触が消えた。ドサリ、という落下音がすぐ横から耳に入ってくる。

 

 目を向けると、それは僕の口の中に靴を押し込んでいた方の覆面男だった。さっきの奴と同じく鼻腔からは血が垂れ流れ、アスファルトの一部を赤く汚していた。

 

「――お前らみたいな連中に教える名前はない」

 

 聞いた事のない声が、頭上から響いてきた。

 

 僕は仰向けに倒れたまま、その声の主の姿を見上げた。

 

 着ているものは僕と同じ、砂城高校の男子の制服だった。ブレザーの襟に付いた校章の色は緑。つまり僕ら二人と同じ一年生ということ。

 しかし、それ以外の彼の特徴はすべて、僕とは一八〇度かけ離れていた。

 背丈が高く、それでいて無駄なく研ぎ澄まされた細身の体躯。細くこけった顔は人気アイドルグループのメンバー然とした端正な作り。パッと見、小室と似たようなタイプだが、あいつと違って目が腐っておらず、強い意志力を感じさせる切れ長の瞳が前髪の下にはあった。

 

 何もかもが自分と正反対であるその青年に、僕は初対面であるにもかかわらず羨望のようなものを抱いてしまった。

 

「てめぇ……いきなりしゃしゃり出てきやがって……マジ殺すぞ?」

 

 残りの覆面男一人が僕の腹から下り、その青年へドスの効いた声を出して睨めつける。

 

 そいつがおもむろに懐から取り出したモノを見て、僕は総毛立った。

 

 覆面男の手に握られていたのは、むき出しのサバイバルナイフ。

 

 僕ならそんなものを出された時点で弱腰になるだろう。

 

 だが青年はその鈍く輝く刃を前にしても一切怯えを見せず、臆面のない口調で言い放った。

 

「光り物を持たないと強気に出れないようなチンピラに俺は負けない。来いよ、刃物ちらつかせて威張ってるだけの奴と、自分を鍛える努力を怠ってない奴との差を見せてやる」

 

 言い終えるや両脇を締め、顔面の前に両拳を付かず離れずの間隔で構え、リズミカルにステップを踏み始めた。おそらくボクシングか、あるいはその流れを汲む『新派』だろう。

 

 頭に来たのか、覆面男は眉間をピクピクと痙攣させ、体を震わせたかと思うと、

 

「っざけんなコラ!! ガチで殺したろぉかぁぁぁ!!」

 

 青年めがけて一直線にダッシュし、あっという間に距離を詰めた。

 

 禍々しいデザインのナイフが振りかぶられ、その凶刃の先端が真っ直ぐ青年(てき)へと狙いを定める。

 

 危ない――そう叫ぼうとした時だった。

 

 半秒にも満たぬ間、青年の片方の拳が一筋の閃光と化し、覆面男の鼻を捉えた。

 

「はごっ……!?」

 

 覆面男はくぐもった呻きを上げて数歩後ろへたたらを踏み、やがてベタンと尻餅を付いた。ナイフを持っていない方の手で鼻を押さえる。その手の指の隙間から渾々と漏れ出したのは真紅の液体、血。

 

 僕はポカンとしていた。まさか、今のはジャブなのか? あまりに速すぎてほとんど見えなかった。

 

 三人仲良く地べたに尻を乗せた覆面男たちは、まるで畏怖するような目で青年の顔を見上げる。

 

「……まだやるか?」

 

 青年は覆面男たちを睨み、脅すような低い声で言った。

 

 そこから先はまるでお約束のような展開だった。覆面男たちは恐怖の声を上げながら焦ったように立ち上がり、バタバタとおぼつかない足取りで、僕ら二人が元来た方向へと走り去っていった。

 

 裏通りに残されたのは僕と桜乃さん、そして謎の青年の三人。

 

「平気かい? 随分踏んづけられてただろう?」

 

 その青年は僕を見下ろし、ねぎらうような笑みでそう訊いてきた。

 

「え、あ……はい……」

 

 未だに気が動転しているせいで、上手く言葉が発せない。

 

 青年はそんな僕へもう一度笑いかけると、アスファルトにへたりこんでいた桜乃さんの元へも歩み寄り、

 

「君も大丈夫かい? 連中に変なことされてない?」

「は、はい……大丈夫です、大したことはされてない、です……」

「そうか。大事にならなくてよかったよ」

 

 青年にそう爽やかな微笑を見せられると、桜乃さんは顔を伏せ、こくんと控えめに頷いた。

 

 彼が何という名前で、そしてどこのクラスに所属しているのかは、まだ聞いていないので分からない。

 

 しかし現時点で一つだけはっきりしている事がある。この人は強い。刃物を向けられても余裕を持てるメンタル、そしてさっきのジャブのスピード、そこを鑑みるに、かなり腕が立ち、なおかつ場数を踏んでいることが伺える。

 

「あ、あの……ありがとう、ございます……」

 

 桜乃さんのそんな消え入りそうな感謝の言葉が耳に入ったことで、僕は我に返った。いけない、お礼を言うのを忘れてた。

 

「ありがとうございま――」

 

 僕はお礼を言おうとした。

 

 だが刹那、その言葉は途切れてしまった。

 

 僕の視線は、今なお青年と向かい合う桜乃さんの表情に真っ直ぐ向いていた。

 

 見てしまったのだ。

 

 桜乃さんが――頬を朱に染めて青年の顔を見つめているところを。

 

 瞳は水面(みなも)のように涙で潤んでいるが、それは先ほどまでとは違って恐怖心からのものではない。何か別の感情が生み出したような涙だった。そして、そんな熱病に冒されたような艶っぽい視線と表情は、青年へひたすら送られていた。

 

 ……僕はハンマーでぶん殴られたようなショックを受けた。

 

 あんな桜乃さんの顔、見たことがない。

 

 桜乃さんはその熱っぽい表情のまま、

 

「本当に、ありがとうございました……あなたが来なかったら、私どうなってたか…………」

「礼なんかいいさ。俺も君みたいな可愛らしい娘が乱暴されるのは耐えられなくて、気づいたら助けに行ってただけなんだから」

「か、可愛いだなんて、そんな……」

「それと、敬語はやめて欲しいな。俺ら同い年(タメ)なんだからさ」

「はい……じゃなかった。う、うん……」

 

 そう首肯してから、ほんのりと染まった頬を隠すようにうつむく桜乃さん。

 

 ――いい雰囲気だった。

 

 二人のそんなやり取りを見聞きする度、僕の心の中のどこかが激しく切り傷を付けられる。

 

 僕は無様に、そして惨めに袋叩きにあい、挙句の果てに桜乃さんに怖い思いをさせてしまった。

 だが彼はケンカに勝ち、桜乃さんを助けることに成功し、その上彼女の今まで見たことのない表情まで引き出した。

 

 彼女と関わってきた時間など超越するほどの、圧倒的な実力差を見せつけられた気がした。

 

 嫌だ、こんなの――見たくない。

 

 言い知れぬ惨めさに苛まれた僕は、気がつくと体の痛みも忘れて全力で走り出していた。

 

「あ、藍野くんっ?」

 

 遠ざかる桜乃さんの声からさらに逃げるように、路地裏を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

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