カッカッカッ
――――別にどこかの納豆の国から飛び出て諸国漫遊している御隠居様の笑い声じゃなく。
黒板が音をたてて、英語を書きつけられていく。そして先生は書き終えると教壇に寄り掛かりながら私たちが手を上げるのを待っている。
そういえば、いつも教会の帰りに遊びに行くお祖母ちゃんが昔日本に行っていたと言ってたわね。今度、お話聞いてみようかな……などと考えながらノートをめくると、まだ白紙のはずのページに大きな文字が書かれていた。
きみはだれ?
……え?
なにこれ?周囲の音が、この文字に吸い込まれるようにすーっと遠ざかる。これ、私の字じゃないし日本語よね?このノートを誰かに貸した記憶も無ければ、私の周りで日本語を書けるのはツッチーか愛ちゃんくらいしかいないはず。そもそも君は誰って、どういうことなの?
「……さん……シマダさん」
「あ、はいっ!……私はシマダミナミです」
私は慌てて立ち上がり、そう答えた。……なんで私、ノートの質問に答えているのよ!?
一瞬、クラス中が静まり返り……先生が私の顔を見ながら、おかしそうに話しかける。
「シマダさん、今日は自分の名前、覚えているんですね」
そしてクラス中がどっと笑う。もぅ、なんなのよ、これっ!?
「……覚えてないの?」
「……うん」
「本当に?」
「だから、そうだってば」
そう答えて、キャップを開けてペットボトルの紅茶を一飲み。ごくん。愛ちゃんは不思議なものを見るような目で私を見ている。
「だって美波ちゃん、昨日は自分の机もロッカーも忘れたって。髪は寝癖ついてたし、結んでなかったし。それになんかずっとキョロキョロしてたよ」
私はその姿を想像してみる。……え?
「ええええ!うそっ、ほんとっ!?……うそぉ?ほんとぅ?……うそっ、ほんっ「はい、ストップ」痛っ」
ていっと愛ちゃんに頭をチョップされる。
「それ、本当?」
「うん。昨日の美波ちゃん、まるで記憶喪失みたいだったよ?」
慌てて昨日のことを思い返してみる。……あれ?おかしいな、昨日のことが思い出せない。いや、ちょっとずつだけど切れぎれに覚えていることがある……気がする。
あれは……どこかの知らない街?
鏡に映った……男の子?
私は記憶をなんとか辿ろうと右手を額に当てて考えている。昼休み、私たちは校庭のすみっこのベンチに座りながらペットボトルを手にだべっている。
「うーん……なにか、ずっと変な夢を見ていた気がするんだけど……別のヒトの人生の夢?……うーん、よく覚えてないなぁ……」
「…………分かった」
突然ツッチーが立ち上がって私にビッと指をさしたので、私はびくっとしてしまう。そしてツッチーはフッと口角を上げ、勝ち誇ったように
「…………ロダンの悩む人」
「違うわよっ」
めきっと言う音が聞こえるくらい指を反対側へ曲げた。
「ツッチー、ポーズも違うし、それを言うなら考える人だよ……」
愛ちゃんは口の端をひくつかせながら笑顔を取り繕っていた。
「あっ、もしかしてアンタが私のノートに落書きを……」私は言いかけて
「…………落書き?なんのことだ?」ツッチーは目に涙をためながら指を押さえている。
いや、違うわね。ツッチーは動機もなしにそんなツマラナイいたずらをするタイプじゃない。そして動機なんてあるとは思えないし。
「あ、ううん。なんでもない」と私は取り消す。
「…………もしかして、俺を疑っているのか」
「だから、なんでもないってば」
「…………愛子、聞いたか。冤罪だ。弁護士を要求する」
「ツッチーも少し落ち着こうね(チラッ)」愛ちゃんがヒラッとスカートの裾をめくる。
「…………(ツツゥ)」ツッチーが鼻を押さえて上を向く。
愛ちゃんいわく、スパッツをはいているからパンツは見えないよ、と言うことらしいけど、年頃の女の子がそれでいいのかしら?
「でも美波ちゃん、昨日はかなり変だったよ?」愛ちゃんが心配そうな顔で続けて言う。
「もしかして、どこか身体の具合が悪いんじゃ……」
「んー、おかしいなぁ……どこも痛くないんだけど……ストレスが溜まってるのかなぁ」
私もあらためて、ここまでの数々の証言を考えてみる。今度はツッチーが勘違いしないように、愛ちゃんが的を絞りにくいように頭を左右に振ってみる。
「それとも……なにか悩み事でもあるの?」
愛ちゃんをこんなに心配させるなんて、何やってるのよ、昨日の私。それに悩み事なんて、今の私には胸のことくらいしか……ちょっ、今のなしっ!
悩み事と言うほどではないんだけど、最近漠然と思っていることがあるにはあるのよね。
「んー、悩み事と言うほどでもないんだけど……」
――キーンコーンカーンコーン
私が言おうとしたらチャイムが鳴ってお昼休み終了。続きは帰りね、と言って愛ちゃんは立ち上がり校舎へ向かって歩き出す。私とツッチーも遅れないようにと慌てて立ち上がって歩き出したけど、ツッチーは少し顔が青くてふらついている気がするけど大丈夫なのかしらね。
その日の授業が全て終わり帰り支度をしている私のところへ愛ちゃんとツッチーがやってくる。
「美波ちゃん、帰ろ。さっきの話の続きも聞きたいし」
「…………それならカフェにでも寄っていくか」
「え……」「な……」「「カフェぇぇぇ!?」」
私と愛ちゃんは盛大にハモった。
「シマダ。また明日ねー」
手を振りながら帰っていくクラスメイトに手を上げて挨拶をしていると、“ピーピーピー”という無機質な電子音が鳴ったので小さい扉を開き、シナモンが
このカフェは、あのカフェではなかった。つまり、タリーズやどこかの県知事が砂場はあるけどスタバはないと言った場所ではなく、この世のどこかにあると言う、並ばないと食べられないパンケーキやジェラートを供する夢空間でもなく、ただの学校の食堂であった。たしかにカフェテリアとは言うけれど……。
――ドスン、という感じで座る私の顔色を伺っていたのか、ツッチーが
「…………お金を払って座ってコーヒーを飲むところ。カフェで間違いないだろ」
と言い、黄色っぽい炭酸飲料らしきものを飲んだ。私たちの気分に合わせてコーヒーとは言わないけど、せめて紅茶くらいにしときなさいよ。
そしてコーヒーの入っている紙コップを両手で持ちながら愛ちゃんが
「美波ちゃん。さっきの話なんだけど、女の子同士じゃないとダメなお話なのかな?」
「…………ぜひ聞こう」
目をキラキラさせながら首を突っ込んでくるツッチー。本当にそうなら、いくら幼馴染で親友だからってアンタの居るところで話す訳ないじゃない。
「ううん、違うわ。あのね……」
私がさっき言いたかったのは、この状況のことだったりする。別に最近の和食ブームにもかかわらず、この学校の食堂に日本食がないとか、パスタが少ししょっぱすぎるとか言うことではなく。
「ずっと……この町にいても良いのかなって」
そうなのよ。
この町は田舎過ぎるのよね。私がイメージしているお洒落なカフェとか、マックやサブウェイなどファーストフードとかないくせにパブは二軒あったり、コンビニもないけど代わりのこぢんまりとした商店は午後6時には閉まるし。電車は二時間に一本だし、バスは午前と午後に一本ずつ。
こういう素朴な雰囲気とか、のんびり生活できる環境とか、どこかすがすがしく感じられたり、
誇らしかったりもするのだけれど、最近はこのままでも良いのかなって思うことが
――心の片隅で何か欠けているような……それがなんなのか分からないけれど大切な何かが足りない気がする。
「でも美波ちゃん、大学に行くんでしょ?だったら、この町を出るんじゃ……」
「そのつもりだけど……」
愛ちゃんの言うとおり、今すぐではないにしろ高校を卒業したら、この町を出て行くことになる。この町には大学がないから。でも、この町から本当に出て行きたいのかと言うと、“そうだ”と言い切れない気持ちもある。
お父さんや葉月、愛ちゃんやツッチーたちと離れるのは想像できないし、何もない町だけど生活するのはすごく気持ちが落ち着く……生計を立てるのは大変そうだけれど。
「じゃあさ、高校卒業したらボクと一緒に町を出ようよ」
愛ちゃんがにこにこしながら、そう言ってくれる。うん、そうだよね。一人じゃ寂しくても二人なら。
「ありがとう」
申し出が嬉しくて、カップを持っている愛ちゃんの手に自分の手を重ねる。少しくすぐったそうに愛ちゃんは笑ってくれた。そして愛ちゃんと一緒にツッチーのほうを見て
「ツッチー。アンタもくるでしょ?」
幼馴染二人が行くと言うのなら一人だけ残るのも寂しいだろう、と思ったので声をかけてみる。すると……。
「…………(ぶぱぁっ)」
今日一番の出血量。この男は何を想像してるのよっ!?