◇番外 Ibにお気楽転生者が転生《完結》   作:こいし

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脱出と虚な夢

 駆ける。迫りくる無数の冷たく黒い、無機質な腕から、逃げる為に駆ける。大きな額縁から飛び出した、這って追って来る狂ったような女性の上半身から、逃げる為に駆ける。

 

 追い付かれたら死ぬ。無数の腕に命の薔薇を引き千切られ、そして同時に己の命も引き裂かれる。

 

 故に、駆ける。駆けなければならない。

 

「ギャリー、あそこだ!」

「っ……! 分かった……!」

 

 珱嗄達は周囲で蠢く『無個性』と女性の絵を押しのけて、たった一つ開いていた扉へと飛び込んだ。他の扉は白い顔の石膏で塞がれていて、ただ一つだけ扉が開いていたというのは罠の可能性を感じざるを得なかったが、それでもこの状況下に居続けるよりはマシだった。

 飛びこんで、扉を閉める。鍵を掛けることは出来なかったが、追ってくる様子は無い。長く続く廊下をしばらく走り、荒い息を整える様に少しずつスピードを落とし、やがてその足を止めた。

 

 ギャリーは膝に手を付けて、前屈みになりながら懸命に呼吸をし、酸素を取り込んでいた。どうやら長身でそこそこがっしりした体格ではあるものの、運動が得意という訳ではないらしい。美術館に芸術鑑賞をしにくるくらいだ、典型的な芸術家タイプなのだろう。

 

「はぁ……はぁ……っ……はぁ~……何なのよ、もう……」

「間一髪、ってトコか」

「なんで息切れすらしてないのよ……アンタ?」

「身体能力なら誰にも負けないさ」

「なるほどね……アタシは運動はどうも苦手ね……あはは、イヴはどうかしら?」

「……私も、走るのは苦手」

 

 そうよねぇ、とギャリーは苦笑しながら息づく。そして彼はそのまま額に滲む汗を袖で拭い、周囲を見渡し始めた。

 逃げて来た廊下はレッドカーペットで、こんな状況でなければ歩くのも気が引ける絢爛豪華な雰囲気を感じさせる。そして壁には一枚ごとに少しずつ目鼻から血を垂れ流すように、順番に張られた人の絵がある。一本道で、奥は薄暗くて良く見えない。

 

「さて……どうする?」

「そうだな……さっきのソファの部屋で休憩出来なかったし、そろそろ精神的にも肉体的にも休息が必要だろう……どこか気の休められる場所を探そう」

「そうね………って……あれ? イヴ?」

 

 ギャリーと今後の方針を定めると、ギャリーが珱嗄の背中にいるイヴの様子がおかしいことに気がついた。なんだかぐったりしているし、顔色の悪い。というよりも、意識すらまともに定まっていないように思える。

 珱嗄はイヴを一旦床に下ろし、具合を確認する。

 

「心音……呼吸……は、大丈夫か。熱も無いようだし、多分精神的にストレスが溜まってたんだろう……ここまでの疲労も合わされば、肉体の方が急遽回復の為に意識を絶つのも無理は無い」

「アンタ……医療の知識があるの?」

「まぁ……多少はね。知っておいて損は無いしな」

 

 珱嗄はとりあえずイヴの首に巻かれているネクタイを外す。こういう場合、ネクタイやリボンといった呼吸を少しでも邪魔するものは取り除いておいた方が良い。念の為にブラウスの第一ボタンも外しておいた。

 珱嗄は赤い子供用のネクタイを一旦懐に仕舞って、イヴをおんぶして立ち上がる。

 

「とりあえずはこれで大丈夫だ。後は落ち付ける場所で休めば直に眼を覚ますだろう」

「そう……ならいいけど……とりあえず、此処にいたらさっきの作品達が来るかもしれないわ。イヴには少し無理させちゃうけど、先に進んで休憩出来る場所を探しましょう」

「そうだな……」

 

 珱嗄とギャリーは、気を失ったイヴを連れて先に進む。珱嗄はあまりイヴの身体を揺らさないように、振動を殺して歩く。気配を殺す為の歩法が、こんなところで役に立つとはな、と珱嗄は正直苦笑した。まぁ、足音を消す歩法なだけ故に、珱嗄の気配は完全に消えてはいない。消す必要も無いので、それでいいのだが。

 

「んー……そういえば、アンタはどうしてイヴと一緒にいたの? もしかして家族かなにかなの?」

「いや、俺とイヴちゃんは美術館で同じ絵を見ている時にこの世界に巻き込まれたんだ。だから、この変な空間に入った時には一緒に居たんだ。それからは一緒に脱出口を探して歩いてきたって訳だ」

「なるほどねぇ……大人が一緒だったことは幸運だったわね。イヴ一人だったら、今頃あの作品達にやられてたかもしれないわ……」

「まぁな……でもまぁ、無かった可能性はどうでもいいよ。この先の事を考えた方が得策だ」

「そうね……っと、こんなところに部屋が」

 

 少し歩いて、突き当たりに辿り着くと、そこには一つの扉と下へ降りる階段があった。部屋に入ってみると、そこは丁度休憩に適しているこじんまりとしているが作品も窓も何も無い部屋だった。珱嗄が一応動くモノの気配を探って見たが、どうやら危険はないようだ。

 珱嗄とギャリーは部屋の床にイヴを寝かせる。珱嗄の着物を敷き布団にし、ギャリーのコートを掛け布団にして、珱嗄の腰布を折りたたんで枕にする。すると、イヴの表情が少しだけ楽になったように思えた。

 

「とりあえず、イヴちゃんが起きるまでは此処で待機……だな」

「ええ……幸い本も幾つかある様だし、情報を集めるわ。珱嗄はイヴを見ていて、情報収集くらいは私がやるわ」

 

 ギャリーがそう言う。珱嗄はその言葉に、ふむと頷き、それならばとその言葉に甘えることにした。戦闘の経験を持つのは珱嗄のみ、ならば此処で珱嗄が倒れるのはチームとしても避けたいところだろう。休息は出来るときにしておくべきだ。

 

「それじゃ、頼んだよ」

「ええ、任されたわ」

 

 そうして、珱嗄達は暫しの休息に入った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ――――無音だった。

 

 

 音が無い。まるで、時間が止まってしまったようだった。周囲には暗闇と、暗闇にクレヨンで塗りたくったような落書きしか見えない。足が地面の感触を感じているので、どうやら地面はあるようだが、方向感覚が狂ってしまいそうな場所に、少女………イヴはいた。

 

 

 ――――ずり……ずり……ずず……ずり……

 

 

 そんな中、何かが這いずって来る音がした。無音の空間であるが故に、その這いずりの音は余計に空間に響いた。しかも、隣には誰もいない。あの安心感を与えてくれる珱嗄も、此方を気に掛けて微笑むギャリーも、自分を愛してくれる両親も、誰もいない。

 それがどうしようもなく、怖かった。

 

「珱嗄……ギャリー……お父さん………お母さん………!」

 

 名前を呼ぶ、だが誰も現れはしない。すると、目の前に扉があった。這いずる音から逃げる様に、イヴはその扉を開けて飛びこむ。

 だが、その先にあったのは、また同じ様な真っ暗で落書きが施された空間。あるのはただ一枚の扉だけ。

 

「っ……!」

 

 

 ―――ずり……

 

 

「ひぅ……!」

 

 イヴは聞こえる這いずり音に悲鳴を上げ、また扉を潜った。そして、同じ空間がまた広がる。

 

 怖い、怖い、怖い、怖い………どうすればいいのか全く分からない。何処へ進めばいいのかも分からない。

 イヴは今、どうしようもなく自分を支えるくれる者が欲しかった。珱嗄の手が、ギャリーの微笑みが、両親の抱擁が、なんでもいい、何かに支えて欲しかった。

 

「どうしよう……」

 

 自然と、涙が流れた。

 

「え……! 扉、開かない……!?」

 

 次の扉を開こうとして、扉は開かなかった。ガチャガチャとドアノブを押し引きするが、それでも開かない。

 

 

 ―――ずり、ずり……ずりずり……! ずずずっ……!!

 

 

 さっきより、這いずりの音が近くなった。あの作品達が、自分の下へと近づいているという事実が、更に恐怖を感じさせた。呼吸が乱れながらも、イヴはドアノブを回す。だが、開かない。

 

「うっ……うう………! 開いて………!」

 

 そして、もうすぐそこに這いずる何かが迫ってきていると思ったその時に、不意に扉が開いた。躊躇する余地も無く逃げる様に扉へと飛び込んだ。少しでも、這いずりの音から遠ざかりたかった。

 

 

 なのに

 

 

 

「え……?」

 

 

 

 扉を開けた先、そこには這いずる何かが―――居た。

 『無個性』と『女性の絵』と『白い生首の石膏』が、いた。

 

 

 

 ――――イヴは、這いずる音に向かって進んでいたのだ。

 

 

 

 近寄って来る三体の作品達。一歩づつ、ゆっくりと、まるでイヴを追い詰める様に近づいてくる。

 

「ぁ………っ…………!」

 

 悲鳴すら上げられなかった。恐怖で声帯が固まってしまっている。身体も動かず、見開かれた瞳は見たくも無い恐怖の作品達を記憶へと刻みつける。

 

「た……すけて………!」

 

 辛うじて出たのは、助けを求める言葉。小さく、弱々しく、か細い言葉。

 そして、その言葉が最後。作品達の手がイヴへと伸びる。イヴは入ってきた扉を背後に、最早逃げ場は無い。終わった、と思った。

 

 

 

 しかし

 

 

 

 ―――イヴちゃん、こっちだ

 

 

 

 その瞬間、珱嗄の声が聞こえた。幻聴でも無く、確かに聞こえた。背後から、扉の向こうから。イヴはその言葉だけで身体が動くようになった。不思議と、恐怖を感じない。

 そして、動くようになった身体は勝手に扉へと振り向き、扉を開いた。

 

 白い光が視界を占めた。そして、その光の中へと躊躇なく飛びこむと、

 

 

 

「――――はっ……!?」

 

 

 

 イヴは眼を覚ました。先程までとは違う、こじんまりとしているが小さい少女であるイヴからすれば十分広い部屋が視界に入って来る。そして、じとっとした冷や汗が頬を伝い落ちるのを感じながら、ゆっくりと視線を動かす。

 すると、

 

「お、起きたか。おはよう、イヴちゃん」

 

 安心した様に微笑む珱嗄が、イヴの傍にいた。夢の中の映像がフラッシュバックし、心臓の鼓動が速くなっていたが、珱嗄の顔を見た瞬間に少しづつ鼓動が落ち着きを取り戻して行くのを感じた。

 そして、珱嗄がイヴの額に手を置いた。熱があるかを測っていたのが、イヴにとってはその手の温かさが夢での恐怖を忘れさせてくれた。

 

「うん……おはよう、珱嗄」

 

 イヴは零れた様に笑うと、そう言って身体を起こした。

 

 

 

 

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