「あらイヴ、起きたのね!」
イヴが目覚めると、それに気がついたギャリーは持っていた本を棚に戻し、嬉しそうにイヴに近づいた。気分はどうだ、具合は悪くないか、等とイヴを本当に心配して言葉を掛けている彼の姿は、イヴから見ても少しおかしかった。故に、くすっと笑みを漏らすと、ギャリーは少し意表を突かれた様に眼を丸くした後、ふっと破顔した。
そんな二人を見て、珱嗄も苦笑する。
「さて、それじゃイヴちゃんこっち向いて」
「?」
珱嗄はそう言ってイヴの身体を自分の方へと向かせると、第一ボタンを閉めて預かっていた赤いネクタイを手慣れた風に首に締めてあげた。イヴも先程まで少し呼吸が楽だったことに気がついたようで、締め終わった後に珱嗄に一つ礼を言った。
そして、イヴの無事が確認出来た珱嗄とギャリーは立ち上がる。イヴも十分回復出来たのか、自分が布団代わりにしていたギャリーのコートや珱嗄の着物、腰布を持って立ち上がった。
「二人とも、これ……ありがとう」
「ん、ああ」
「いいのよ」
ギャリーは微笑みながらコートを受け取って着る。珱嗄も着物を羽織り、しゅるっという布切れの音と共に腰布を締めた。
すると、ギャリーはポケットの中に何が異物感を感じたようで、その中から黄色い包み紙に包まれた飴玉を取りだした。
「そうだ。イヴ、これあげるわ」
「いいの?」
「良いのよ、そんなキャンディでも食べれば少しは気が楽になると思うわ」
「随分と優しいな、ギャリー」
「あら、優しい男はモテるのよ?」
どうやら、ギャリーは女性的な話し方ではあるがオネェ系の趣味がある訳ではないらしい。珱嗄とギャリーはそんな会話をしながら楽しそうに笑い合う。こんな状況下ではあるが、こんな風に話して笑い合う事が出来るというのは、なんとなく気楽になれた。
イヴも、二人が笑い合っているのを見て、自然と笑みを浮かべる事が出来た。
「さて……それじゃギャリー、そろそろ本題に戻ろうか。何か情報はあったか?」
「いいえ……大雑把にそこの本を読んでみたけど、美術館の注意事項とか……ここから出てはいけないとか……なんだかおかしなことしか書いて無かったわ。進展なしね……」
「そうか……まぁこの先に何かあるかもしれないし、気落ちせずに行こう」
珱嗄はそう言うと、ギャリーの肩にポンと手を置いた。ギャリーは珱嗄のその言葉で、申し訳なさそうに笑みを浮かべたものの、そうねと気を取り直して切り替えることにした様だ。
さて、と珱嗄が重苦しくなった空気を払拭する様に言う。こんな部屋に何時までもいた所でそれこそ進展が無い。珱嗄は扉が開くことを確認する。先程はそれでピンチになったのだ、警戒はしなければならない。どうやら、今回はちゃんと開く様だ。
「二人とも、そろそろ進もうと思うが……大丈夫か?」
「私は大丈夫よ、イヴは?」
「私も大丈夫」
「怖くなったら言うのよ? 無理しなくていいんだからね?」
「大丈夫だよ。珱嗄とギャリーがいるから」
イヴは本当に怖くない、とばかりにむんっと胸の前で両拳を握った。その様子に、珱嗄もギャリーも大丈夫そうだと判断し、励まされる。こんな小さな少女が平気なのに、自分達も負けていられないなと思った。
「それじゃ行こうか」
「ええ」
「うん」
珱嗄が扉を開けて、外へ出る。ギャリーもイヴも、それに続いて部屋を出た。その足取りに、迷いや恐怖といった感情は無かった。
◇ ◇ ◇
部屋を出た先に、作品はいなかった。少し安心しながらも、警戒は緩めない。そして、そのまま三人で向かいにあった階段を下りる。
下りた先、そこは今までの血の様に真っ赤だった廊下とは打って変わって、青紫の少し不気味な色で包まれた廊下だった。全体的に薄暗く、一定間で壁に設置された蝋燭が無ければ、目が慣れるまで下手に動けなかっただろう。
「……ふむ、どうやら作品は……いないみたいだ」
「本当に不気味な所ね……」
「うん……」
珱嗄とギャリーがイヴの両手を片方ずつ握って、三人横並びに進む。階段の直ぐ近くに扉を見つけたが、鍵が掛かっていたのでひとまず放置しておくことにする。珱嗄が蹴り壊しても良かったのだが、先程まで倒れていたイヴがいる前で乱暴な行動をとるのは気が引けた。
「!」
「これは……」
そうして進んだ先、そこには柵で作られた迷路のような場所があった。迷路の奥にある壁には三枚の作品、そして所々には『無個性』が配置されていた。この中を進むのは少し、抵抗がある。
「どうする?」
「うーん……あの彫刻がある中でこの中を進むのは……危険を感じるわねぇ……でも、あそこに置かれた本棚……気になるわ」
「……こっち側にあるから手を伸ばしたら届かないかな?」
迷路の中には、ここぞとばかりに本棚が一つあった。珱嗄達が危険を感じる迷路の中にあるだけあって、そこには何かヒントがありそうな気がしてくる。だが、だからといって危険を冒すのは少しリスクが高すぎる。
イヴの言葉を聞いて、ギャリーと珱嗄が試してみるも、やはり少し遠かった。
「柵を飛び越えていくのはどうだ?」
「……出来るっちゃ出来そうだけど……それであの彫刻達が動きだしたらどうするの?」
「俺だけなら、多分なんとか出来る」
「……それじゃそれで行きましょ」
「ああ」
ギャリーは少し悩んだが、それでも何かヒントがあることの可能性を捨て切れなかった。珱嗄がそういうのなら、とその提案を承諾する。
そして、珱嗄は柵を飛び越えて本棚の前に素早く移動する。そして手近にあった本を数冊手に取り、パラパラと読む。特典によって速読の技術を持つ珱嗄は、数冊の本を次々と読んで行く。
「珱嗄! 彫刻が!」
だが、予想通り『無個性』達が動きだし、珱嗄へと迫っていた。ギャリーが呼びかけると、珱嗄もそれに気付く。だが、後少し。珱嗄はパラパラとページを捲る。そして、珱嗄まで一直線という所まで『無個性』達が近づいた所で珱嗄は本を読み終えた。素早く本を棚へ戻す。
そして、そのまま飛び越えた柵まで駆けだした。ギャリーが手を伸ばしている。『無個性』達もかなり近くまで迫っている。
「っ……!」
珱嗄は手を伸ばし、ギャリーの手を掴んだ。ギャリーが珱嗄を引っ張るのと、珱嗄が地面を蹴ったのはほぼ同時、ぐんと速度が上がり、珱嗄は柵を飛び越えた。
「っはぁ……ひやひやしたわよ……」
「ははは……ま、無事だから良しとしよう」
「大丈夫?」
「大丈夫だよイヴちゃん、ありがとう」
切迫した状況を切りぬけた安心感からか、珱嗄は零れた様に笑ってそう言った。ギャリーはそんな珱嗄に呆れたように脱力し、イヴはイヴで珱嗄らしいなと苦笑した。
「つっても、大した情報は無かったよ。だが、ゲルテナはどうやら作品に魂を込められないかと考えていたらしい。もしかしたら、この世界はゲルテナの作品に込められた想いが作りあげたのかもしれない」
「そんなロマンチックな話ならもう少し素敵に作ってくれればいいのに……」
「わはは、芸術家の頭の中なんて、総じて奇妙なものだよ」
緊張感からか、少し乱れた呼吸を落ち付かせ、三人は先に進む。曲がり角が多く、壁には幾つか作品が飾られていたが、三人はそれを気にせずに先に進んだ。そして、付き辺りには扉があり、暗号による鍵が掛けられていた。一つの絵のタイトルを打ち込む事で扉を開けられるらしい。
その絵とは、イヴと珱嗄がこの空間に入る時に飛び込んだ、床に描かれたあの絵だ。骨の様な不気味な魚と、薄暗い闇の様な水の底。
タイトルは、
「深海の世……だな」
「あ、そうそう。それよ!」
ギャリーはうんうんと思い出そうとしていたが、珱嗄はちゃんと覚えていた。元々記憶力は良い方だったし、自分が飛び込んだ絵の名前だ。印象的には十分インパクトがあったし、なんとなく覚えていたのだ。イヴは作品のタイトルが読めなかったらしい。少ししゅんとしていたが、ギャリーが大丈夫よと慰めると、気を取り直した様だ。
珱嗄はタイトルを打ち込むと、扉の鍵が開いた音がした。試しにドアノブを捻ると、ガチャリと音を立てて扉が開いた。
「! 開いたな……というかパスワード式の扉なんて、この世界の世界観が分からなくなってきた……」
「ちょっと色んな要素があり過ぎよね……」
「私の家にもこういう扉あるよ」
「………ギャリー、イヴちゃんってもしかして良い所のお嬢様だったり?」
「かもしれないわね……着ている服とか佇まいとか変に綺麗だもの……」
珱嗄とギャリーはイヴの家を想像して、少し引き攣った笑みを浮かべた。イヴの家はもしかしたらかなりお金持ちな家なのかもしれない、という可能性が少し大きくなってきた。
とはいえ、扉が開いたので先に進む。
「ん?」
扉の先は、先の無い部屋だった。つまり、ここで行き止まりということになる。これは、少し不味いのではないか、と珱嗄は焦りを抑えて考える。ギャリーとイヴも部屋に入ってきて、各々で物色を開始している。大きな絵と本棚が幾つか置いてある部屋だ、ヒントがあるのかもしれない。
それを見て、珱嗄も一歩足を前に出した―――瞬間だった。
――――灯りが消え、辺りは暗闇に包まれた。
「っ!」
珱嗄は瞬時に警戒心を高め、ギャリーとイヴの気配があることを確認する。そして、暗闇の中だが気配だよりにイヴの下へと移動した。
「イヴちゃん、大丈夫か!?」
「あ、珱嗄……?」
「ああ、そうだ。怪我は無いか?」
「う、うん」
イヴは少し動揺していたが、珱嗄が肩に触れて抱き寄せると、動揺しながらもしっかりとした返事を返した。
珱嗄はそのままイヴを抱きかかえながらギャリーの下へと移動する。
「ギャリー、大丈夫か?」
「珱嗄? ええ、アタシは大丈夫よ……それよりイヴは一緒に居る?」
「ああ、大丈夫だ」
「そう……良かった……」
ギャリーがホッとした様にそう言うと、急に灯りが元に戻る。いきなり光が戻ったことで少し眩しかったが、光が戻った視界に飛び込んできたのは……部屋中がクレヨンで落書きされた様な光景だった。
『たすけて』『やめて』『いやだ』『こわい』『しにたくない』と言った言葉が汚い線で所々に大きく書かれている。ハッキリ言って、そんな文字よりもそんな文字を書いた者が暗闇の中に居たという事実の方が、珱嗄にとって気味が悪かった。
「……正直、キツイわね……精神的に」
「そうだな……」
「……」
三人して、顔を歪める。珱嗄も、普段ならこんな光景に恐怖等は感じないのだが、やはり『薔薇』という形に命が分割されている以上、命の危険を感じざるを得ない。やはり、少しだけ背筋に悪寒が走った。
そして、少し気持ち的にも落ち付いて来た頃、三人は本棚の物色を開始する。本の量が多いので、三人別々にそれぞれ本を手に取っているが、やはり新しい情報や事実は期待できないようだ。
「……めぼしい情報は無い……か」
珱嗄も、十冊目となる本を本棚に戻す。
すると、イヴが一冊の本を持って駆けよって来た。
「どうしたイヴちゃん」
「この本、なんて書いてあるの?」
「どれどれ……………あー……」
イヴが持ってきたのは、所謂官能小説だった。いかがわしい単語と台詞がふんだんに使われている。珱嗄は本をイヴの手から取りあげ、ぱたりと閉じた。正直、9歳の少女に教えるにはまだ早過ぎる。
「もう少し大人になったら読めるようになるよ」
「………そう?」
イヴは珱嗄の言葉に首を傾げながら、取り敢えず納得したようだ。
「珱嗄、イヴ、そっちはどうだった?」
「ああ、どうやら役立つ情報は無いな」
「……そう、こっちも大したことは分からなかったわね……」
「……それじゃあまぁ……此処を出るとしようか」
珱嗄の言葉にギャリーとイヴは頷き、入ってきた扉を開けて外へ出る。
さて、ここまで来て行き止まり。先へ進む道が無くなってしまった。どうしたものかと考える三人。やはり、ここは一度来た道を戻るしか選択肢が残されていないようだった。
「……戻るか」
「そう、ね」
珱嗄が一歩足を進めると、ギャリーとイヴもそれに続く。脱出の糸口が閉ざされた事で、かなり気落ちしてしまっている。このままでは不味いかもしれないと、珱嗄は歯噛みする。
だが、手かがりはまだ消えたわけでは無かった。扉を出て、少し進んだ先………そこには、
――――赤く、小さな足跡が続いていた。
「これは……?」
「随分小さな足跡ね………子供みたいな……」
「私と同じ位……」
イヴと同じ位の大きさの足跡。しかも、赤いペンキみたいな色をしている。もしかしたら、この足跡の主が先程の暗闇で落書きをした張本人なのかもしれない。珱嗄はそう考える。
そして三人、その足跡をたどっていくと、その足跡が途切れた所に、先程までは無かった新たな扉が出現していた。
「………行くか」
「……ええ」
「……うん」
まだ、道は途絶えていない。珱嗄とイヴとギャリー、お互いに目を合わせて頷くと、今まで通り、珱嗄が扉のドアノブに手を伸ばした。