翌日、俺が奉仕部の扉を開けると、雪ノ下が読書をしていた。真っ直ぐここに来た俺よりも早く来ていたということになる。
「......誰?」
「いや、1日で忘れるなよ」
「ごめんなさい。記憶力には自信があるのに、不思議とあなたのことは覚えていないの。話は変わるのだけれど、人間って嫌なことを忘れることで脳を整理するみたいね」
「それ、話変わってないから」
どうやら、俺のことや昨日のことは記憶から消し去りたいらしい。ちなみに、俺も昨日のことは忘れたい。忘れて下校できたらどれだけ楽か。しかし、どうしても職員室で顔の横を通り抜けた、平塚先生の右ストレートが脳裏をよぎる。
「それにしても驚いたわ、比企谷くん。あなたはもう来ないと思っていたから」
「それは、まぁ、あれだ。平塚先生に逆らうとあとが怖いからな」
「つまり、平塚先生に殴られるか私に窘(たしな)められるの二択で、後者を選んだということね」
「いや、お前のは窘めるじゃなくて罵(ののし)るっつーんだよ」
「では、あなたは罵られることに喜びを感じる、特殊な嗜好の持ち主ということね。控えめに言って気持ち悪いわ」
「いや、ちげーから」
あと、全然控えめにいってねーから。
こいつ、絶対に分かってて言ってるよな。俺にそんな性癖があると本気で思っていたら、恐らくこいつは罵ってこないだろう。もしくは全力で罵って心を折りに来る。
そんなことより、と言って俺は反撃を試みる。
「なんでおまえは、こんなに早く部活に来ているんだ? 俺だって授業が終わってすぐ来たぞ?」
「私のクラスの方が部室に近いのよ。あなた、2年生にもなって、まだ学校の見取り図を覚えていないのね」
いや、確かに見取り図という形式では覚えていないけど。必要な教室がどこにあるのかは分かるし、雪ノ下のクラスがどの辺にあるかもおおよそ分かる。
というか、なんでこいつは教室の位置関係が分かるというだけで、こんな自慢げな表情を浮かべているんだ? まさかこいつ、実は方向音痴とか。
......ないな。友達から聞いたわけではない噂によると、やたらと高スペックな訳だし。俺、誰から聞いたんだよ。
「そうじゃなくて。教室で友達と喋ったりしないのか?」
友達がいると少しだべってから解散するらしい。ソースは俺ではなく、クラスのリア充ども。あいつら、平気で30分とか喋ってたりするもんな。話すネタも尽きるだろうに。
「友達、ね。まずは友達の定義から教えてもらいましょうか」
「いや、もういい。友達がいないのは分かったから」
その返しは友達がいない奴のものだ。ソースは今度こそ俺。
でも、そんな友達のいない俺と雪ノ下なら、もしかしたら--
「......雪ノ下。俺と--」
「ごめんなさい。お断りします」
「いや、なんで言い切る前に断ってんの」
「だって、告白よね? もしかして私が受け入れると思っていたの? 嫌に決まってるじゃない」
どうやら、俺が告白すると思ったらしい。たしかに、いくら性格が悪いと言っても俺に話しかけた女子だ。中学の時なら、勘違いして告白して振られるかもしれない。
......いや、ないな。なにせ中学生の俺はガラスのハートの持ち主だ。雪ノ下では、出会って10秒で砕いてしまうだろう。大魔王ゆきのん。ゆきのんってなんだ、語呂がいいな。絶対に呼ばないけど。
それにしても、告白したと勘違いされて振られるのは想定外だ。
「告白じゃない。俺は、暴言を吐かれて惚れるほどマゾではないからな」
雪ノ下がひどく驚いているように見える。まさかこいつ、本気で俺が惚れていると思っていたのか? ......そうだろうな。美人だし、自信満々に断ってきたし。
「それなら、どういう用件かしら? 私と比企谷くんですることなんて、奉仕部の活動以外、何一つないと思うのだけれど」
「俺と、友達に--」
「お断りします」
どうやら、友達でもダメだったようだ。
べ、べ、別に、俺が友達になりたかったわけじゃないんだからねっ。雪ノ下に友達がいなさそうで、かわいそうだと思っただけなんだからねっ。
......別に、友達がいないイコールかわいそうというわけではないことは、知ってるけどな。俺、友達いないけど超充実してるし。特に、日曜の朝とか。小町の作った夕食を食べてる時とか。
それでも、友達になるのさえ拒否されれば、言い訳の一つもしたくなる。
中学時代に俺の告白を断った、あの子ですら友達だしな。友達からお願いしますって言ってたし。なお、その告白以降は1回も話していない模様。あれ、友達ってなんだっけ?
俺が断られたショックのついでに黒歴史を思い出して暗くなっていると、ドアをノックする音がした。ついに平塚先生もノックをするようになったのか。
「はい、どうぞ」
「しつれいしまーす」
その声は、平塚先生ではなかった。え、まじで?
今まであまり考えていなかったが、奉仕をするということは大なり小なり依頼人とコミュニケーションをとる必要があるのか。え、なにそれ。嫌なんですけど。
とりあえず、風邪かなんかで声が著しく変化した平塚先生であることを願いつつ、目を閉じた。これで、シュレディンガーの猫的に、平塚先生である可能性はまだ残されている。現実逃避ともいう。
あら、と驚きの声を上げたのは雪ノ下だった。
「比企谷くんにしては気の利いた判断ね。確かにあなたが目を閉じていれば、依頼人があなたを恐れてそのまま引き返してしまうこともないもの。むしろ、ずっと目を閉じていてくれないかしら」
とりあえず現実逃避を諦め、目を開けた俺は反論してみる。
「ずっと目を閉じている男っていうのは怖くないのか? 」
「事情があるのかもしれないし、依頼人もそのまま引き返したりはしないでしょうね」
「俺の目を見て、事情を考えてくれる可能性は?」
「そんな低い事象を考慮する必要はないと思うのだけれど。あなたは一等が当たる確率と得をする確率を計算した上で、宝くじを買うのかしら?」
俺の目を見て引き返さない確率は、宝くじで一等を取る確率と大差ないようだ。つまり、俺たちのことをぽけーっと見ているこの依頼人らしき人は、相当珍しい人間に分類されるのだろう。
依頼人は知らない女子だった。残念、平塚先生じゃなかったか。というか、よりにもよって最初の依頼者がビッチっぽい女子かよ。
特徴としては、胸がでかい。それと、ピンク色の髪の毛にお団子を付けている。あと、胸がでかい。大事なことなので二回言いました。
どれだけ奉仕することができたか、という勝負の記念すべき1回戦は、雪ノ下の勝ちで確定したようだ。俺、多分こいつとちゃんと話せない。雪ノ下が依頼を達成出来なければイーブンとなるので、その方がいいかもしれない。一年くらい経って勝負自体があやふやになれば一番いい。
俺が依頼人の方に目をやると、雪ノ下も目線を依頼人へと向けた。あれ、今こいつ、一瞬驚いたような顔をしなかったか? まぁ、気のせいだろう。
「依頼ということでよろしいわね。とりあえず、そこの席へどうぞ」
「あ、はいっ。えーっと、ここは奉仕部で、あなたは雪ノ下さんだよね? 平塚先生に相談したらここを紹介されたんだけど......」
そう言いつつ、その女子は席に座った。ちなみに依頼人用の席は、机を挟んで雪ノ下の向かいに位置している。俺の席は雪ノ下から3mほど離れているので、依頼人が雪ノ下に1対1で依頼をしているように見える。
「ええ、そうよ」
「由比ヶ浜結衣です。よろしくっ」
雪ノ下に向けてそう言うと、依頼人改め由比ヶ浜は俺の方を見やった。
「それと、そっちの男の子は、えーっと......うちのクラスの子だよね?」
え、こんなやつ、クラスにいたっけ。俺は、クラスメイトの顔を思い出して照合しようと試みる。
しかし思い出せたのは、一番最初に隣の席だった子だけだった。あいつの顔はよく覚えている。名前は知らないけど。俺の隣がよほど気に食わなかったようで、心底嫌そうな顔をしていたのが印象的だったからな。
「名前は確か......そうだ、ヒキタニくんだっ」
「正答率50%といったところだな。俺は比企谷だ」
赤点は回避したようだ。褒めてやろう。何様だ、俺。
「てかお前、同じクラスにいたっけ?」
「人のこと採点しといて、自分は覚えてないんだ。サイテー。」
「い、いや、覚えてるぞ。名前は確か、由比ヶ浜だよな?」
「いやそれ、さっき名乗ったのを聞いてただけでしょ」
そう言った由比ヶ浜は、ジト目で俺を見てくる。雪ノ下も便乗して、批難するような目で俺を見る。いや、お前は関係ないだろ。
形勢不利と判断した俺に残された選択肢は、話題を逸らすことくらいだろう。
「え、えーっと、本題に入ろう。由比ヶ浜はどういう依頼でここに来たんだ? 平塚先生の紹介と言っていたが」
俺がそういうと、由比ヶ浜ははっとした表情をし、改めて雪ノ下を見た。
「雪ノ下さん、奉仕部は困っている人の問題を解決してくれるんだよね?」
「少し誤解しているわね。正しくは、困っている人のお手伝いをする、と言ったところかしら。だから、最終的に解決するかどうかは自分次第になるわね」
この部活は手伝いをするだけで解決はしないらしい。なにその活動理念。部員の俺も初めて聞いた。
由比ヶ浜はほへー、そうなんだーと呟き、遂に依頼の内容を口にした。ほへーってなんだ、ほへーって。こいつ、ちゃんと理解してるのか?
「じゃあ、お願い。雪ノ下さん。私がまた、犬を触れるように手伝ってっ」
......あくまで、雪ノ下に依頼するのな。俺、帰っていいのかな。
というわけで、由比ヶ浜の登場です。
思ったよりも登場するまでに時間がかかりました。