目が覚めると、見慣れた天井が何故かいつもと違って見えた。
窓の外はうっすら雲がかかっていたけど、雪はもう止んでいた。
積もらなかった事に、ほっと安堵の息を吐く。電車が止まったら、今日の予定が全て崩れるところだった。
隣に目を向けると、昨晩の事が嘘のように、ことりは可愛らしい寝顔ですやすや眠ったままだ。
そっと、その陶器のように滑らかな白い頬を撫でる。
そこには昨日の熱が、まだじんと残っているような気がした。
そこで、彼女の瞼が微かに震える。
「……ん」
「悪い、起こしたか?」
「ん~?……ふふっ、大丈夫だよ。おはよ~」
まだ寝ぼけ眼のことりは、とろけるような甘い声で、朝のぼんやりした部屋を彩る。
俺は頬に添えた手を、彼女の頭の上に移動させ、さらさらと柔らかな髪を撫でる。
「……おはよう」
「ねえ……」
彼女の眠たげな瞳に、誘惑するような挑発的な色が宿った。
薄紅色の小さな唇は、何かを欲しがるようにこちらへ向けられる。
「キス、して?」
「……ああ」
まだ明けきれない空の鈍い色みたいにゆったりしたキス。
どちらも離れるタイミングがわからず、しばらくそのままでいた。
「ふふっ、八幡君……昨日より積極的だね」
「……昨日はお前の方が積極的だったから、な」
「も、もう!恥ずかしいから止めて!」
「恥ずかしくねえよ……可愛かった」
「……ありがとう」
その春の陽射しのような笑顔に心が温かくなるのを感じながら、しばらくぼんやりした幸せに、二人で笑い合った。
*******
秋葉原の街に着いた途端、再び雪が降り始めた。積もるかどうかは分からないが、今はどうでもいい。こうして、ことりの手を握って歩いていられるのなら。
「海に行くのもよかったかも」
「……人がいないからな」
「そうじゃなくて。でも、またずぶ濡れになっちゃいそう」
「この時期にあんなことしたら凍死するぞ……」
「その時は温めあえばいいんじゃないかな。人肌で」
「……聞こえなかったから、もう一回言ってくれ。頼む。お願いします」
「言~わない♪」
「…………」
「そこまで切なそうな顔しなくても……」
「いきなりそんなこと言うからだろうが……」
「ふふっ、じゃあそろそろ御飯食べよ」
そう言って、彼女は俺の手を引き、歩き出した。
*******
ことりが同級生から聞いたカフェに入ると、聞き覚えのある声で「いらっしゃいませ!」と声をかけられる。
「あれっ、ミナリンスキーさんだ!」
「マユミちゃん!どうしたの?」
そこには、ことりがメイド喫茶に務めていた時の同僚のマユミさんがいた。
彼女はこの店の制服に身を包んでいる。
「あー、実は私……メイド止めたんですよ」
「どうして?」
「メイドは大切な人のためだけにすることにしたんです」
「え?」
「じ、実は私……義輝く……剣豪将軍さんとお付き合いしていまして……」
「「…………」」
何……だと……。
あ、あいつ……そんなこと一言も……いや、別に興味ないし、言っても信じないけどね。
とりあえず頬をつねってみる。うん、誠に遺憾ながら現実だ。
俺達は、幸せそうに働くマユミさんを横目に、のんびりと食事した。
*******
「あー、びっくりした。結局、ドッキリの札持った奴出てこなかったな」
「そ、それは仕方ないよ。ずっと前から好きだったんだし」
「ああ、そういやそうだったな……」
「そう言いながらも、八幡君嬉しそうだよ。やっぱり友達の幸せなニュースだもんね」
「いや、友達とかじゃないから止めてくんない?」
「ふふっ、私に嘘ついても無駄だと思うよ?」
「……かもな」
お互いに全て曝け出したわけだし……。
ことりは悪戯っぽく笑いながら、何か思いついたように掌をポンと打った。
「ねえ八幡君、クリスマスプレゼント交換しない?」
「別にいいけど、どんなのがいいんだ?」
「……ん~、今から決めよ?」
一瞬だけ……。
ほんの一瞬だけ彼女の笑顔が曇ったのに気づいてしまった。
きっと気のせいなんかじゃない。
でも、今は……今だけは……。
「どうかしたの、八幡君?」
「……いや、行こう」
*******
そうこうしている内に、やがて夜の帳が下り、街はクリスマスの灯りに満たされていく。
俺とことりは、昨晩からライトアップされている大きなクリスマスツリーの前にいた。
「わあ……」
「…………」
その大きなクリスマスツリーは、色とりどりの灯りで周囲を彩っていた。
幾つもの幸せそうな笑顔も、寂しそうな横顔も、疲れた背中も、等しく照らし出し、この街をクリスマスに染め上げていた。
ことりの横顔にちらりと目を向けると、儚げな微笑みが、これまでのどの彼女よりも切なく、哀しく、美しく彼女を飾っていた。
ただ、その横顔に涙はなかった。そのことに、少しだけほっとする。
彼女はツリーの頂点の星を見上げたまま、ゆっくりと口を開く。
「ねえ、どうだった?」
「……何がだ?」
「この1年くらいのこと」
「……俺らしくない言い方かもしれんが、魔法みたいだった。まあ、その……楽しかった……」
「ふふっ、本当に八幡君らしくないね。でも、そう思ってくれて嬉しいよ」
「……そっか」
「私達、友達に戻れるのかなぁ」
「……さあ、な」
「受験結果くらいは教えてね」
「ああ、当たり前だろ……友達になるんだから」
「そう、だね。大丈夫……だよね」
自然と向かい合い、じっと見つめ合う。
二人の間に流れる空気が変わるのを感じた。
彼女の瞳は僅かに潤み、俺の心の奥の方を濡らした。
「ねえ、八幡君…………思いきり、抱きしめて……」
「ああ……」
彼女の体をそっと抱き寄せる。
甘い香りが冬の冷たい風と絡み合い、ふわふわと俺達を包み込む。
そして、ゆっくりと唇を重ねた。
「…………」
「…………ん」
最後のキスは、甘やかな熱を心に灯し、あとはそのまま抱きしめ合った。
一つになりそうなくらいに抱きしめ合うと、やわらかな感触が胸を締めつけた。
やがて、お互いの温もりを心にしっかりと焼き付けながら、まだ足りぬという想いを何とか引き剥がし、二人の体は離れていった。
そのまま二人は振り返らなかった。
一歩一歩彼女の足音が遠ざかる。
その音は人混みの中でもはっきり聞き分けられた。
振り返るな。
約束したから……。
俺は歯を食いしばり、視線を前に固定する。行き交う人波も、白く染まる街並みも、さっきとは別物に見えた。
それでも俺は進む。ただ前へと。
やがて、彼女の足音は聞こえなくなった。
*******
立ち止まり、辺りを見回す。駅に向かう筈が、何も考えずに歩いていたら、知らない場所まで来てしまったみたいだ。
さっきよりどんよりした夜空を見上げ、はらはら舞い落ちる雪を眺めていると、誰かが足早に傍を通り過ぎた。
その顔は、溢れる喜びを堪えきれないようだった。
今から大切な誰かに会うのかもしれない。
多分、俺もさっきまで似たような表情をしていたはずなのだ。
だからこそ涙は流さない。
今日までのことをずっと忘れない。
俺は……俺達は間違いなく幸せだったのだから……。