治療で使う道具の在庫確認をするため地下へ向かう途中で聞こえたヒールの音。階段を降りた時に聞こえた音の主は長い髪を揺らして風のように走り去る。
資料室付近で消えた気がするが、横目に一瞬見ただけだったためきちんと確認できていない。そのため一緒にいた同僚からは幻扱いを受けてしまった。あげく疲れているんだと同情までされたが、あの音は幻聴ではない。それだけは確信できる。
ハロウィン前日に半休を取ったはずの光秀は朝から疲れきった雰囲気を抱えていた。月末には必ず背負う哀愁も健在なまま職員室で書類に囲まれている。
そんな光秀の隣に立った真琴は同情を含んだ目で机の上を眺めた。
「光秀、昨日はあれから仕事してないよな」
「してねぇから、ここまで溜まってんだろ」
「休んだのに疲れが取れてないのは、年齢のせいか?」
若くないからなのかと、真琴は真剣な顔で問いかける。するとややあって光秀が真琴の顔を見上げた。その赤い顔を目にした真琴は反射的に額へ手を当てている。
「熱い。風邪か?」
「……昨日の気温がどんだけ低かったか知ってるか」
光秀の言葉は昨日が風邪を引くほど寒かったことを言っているのだろう。しかし昨日はまともな服を着ていればそれほど寒さを感じるほどではなかった。
そして真琴は、光秀が昨日着ていただろう仮装の実態を知らない。とんがり帽子は見ているが、その下は三成の白衣をまとっていたため見えなかったのだ。
「薄着だったから、白衣を上に着てたのか」
「ああ…なんか肩にかけられたな。見苦しいって意味かと思ってたわ。つーかあの後すぐに……」
何か言いかけた光秀だが、途中で口を閉ざして真琴を見つめた。顔だけでなく耳まで赤くなっていることに気付いた真琴は首をかしげる。
そこへマスクと薬を手にした慶次がやってきて光秀にふたつを差し出した。
「明紫波さん、マスクと薬です。あと、今河先生がさっき廊下で話してたんですけど…」
慶次はなぜか困ったような顔で真琴と光秀とを見る。
「幽霊の噂のことなんですけど、今河先生が見たらしいです。でも幽霊じゃないって言ってて……」
慶次の話を聞いた真琴は何の話なのかと問い返す。そのそばで光秀は説明書を読みながら薬を飲みマスクを装着していた。徹夜による体調不良は放置しても病は放置しないらしい。
「真琴は知らない? なんか、地下に幽霊が出るとか出たとか噂があるんだよ。おれもさっき聞いて驚いたんだけどさ。長い髪の幽霊でハロウィンだから出てきたとか。それ聞いておれもうひとりで地下に行けなくてさ」
みっちゃんのところに行きたいのにと慶次は困った顔でつぶやく。
話を聞いた真琴は昨日政宗から聞いた話を思い出した。
「その噂の発端は慶次じゃないのか?」
「へ?」
「噂の最初は研究室に絶世の美女がいる、というものだったらしい。だから慶次が誰かに話した内容がねじ曲げられたんだと思っていた」
真琴の指摘に昨日の事を思い出したらしい慶次が赤面する。だがそんな慶次から出たのは真琴の予想していないものだった。
「おれじゃないよ! そっ、そりゃみっちゃんが女の人とキっ…キスしてたのは驚いたけどさ! けど違うよ。それ見たのは今河先生なんだ!」
「今河が?」
再び出てきた名前に真琴は眉をひそめてうっすらと禿げた頭を思い浮かべた。
「今河先生が仕事で地下に行った時に見たんだって。長い髪の女の人」
「研究室で?」
「階段を降りたところだったらしいよ。一瞬しか見てないし、研究室近くで消えたって言ってた。一緒にいた別所先生は見てなくて、幻か幽霊だって言ってたよ」
具体的な話を聞いた真琴は自然とその目を光秀に向けた。そしてマスクを装着している光秀の殺気すら感じさせるような眼光を目の当たりにする。
真琴と同時にその目を見た慶次は顔を青ざめて仕事があるからと逃げ出してしまう。
さらに真琴は近くで仕事をしていた職員たちがいっせいに散っていくのを眺めた。近くにいたからと噛み付かれるわけでもあるまいし、みな大袈裟だと真琴は思う。
「今の会話で怒るところがあったか?」
「そんなもんねぇよ。ようはどこの誰か知らない女が地下にいたって話だろ」
「……ん?」
「まあ、石黒が誰と研究室で会ってよーが俺には関係ねぇ話だし?」
「え?」
認識の差がどこで生じたのか、光秀の発言は真琴の認識とかなり食い違っていた。だが光秀が書類を手に立ち上がったため会話は中断してしまう。
書類を手ににぎやかな院内を歩く。ハロウィン当日ということもあり仮装した職員を見ることもあった。
そんな中で階段を下り地下へ降りるととたんに空気が変わる。人の立ち入らない地下は静まり返りハロウィンの雰囲気もない。さらに研究室に入ればいつもと同じ沈黙に包まれた。
そして研究室の主である石黒は相変わらず顕微鏡を見つめたまま微動だにしない。光秀はそんな石黒の向かい側の椅子に座り机に書類を置いた。
「機材購入の申請、上の許可を取ってきたぞ」
机の上に腕をのせてそこに突っ伏す。そうして頭を伏せているとややあって書類をめくる音が聞こえた。そのため光秀は痛む頭を持ち上げて石黒を眺める。
「おまえここに女連れ込んでるのか」
光秀が質問を向けた瞬間、二枚目の書類をめくろうとした手が止まった。そして石黒の怪訝な目がゆっくりと光秀へ向けられる。
「何の話ですか?」
「おまえが研究室に美女連れ込んでて、その女を見かけた今河が惚れたって話だ」
「なんですかそれは」
「知らねぇよ」
なぜか不機嫌な顔を見せる石黒から目を背けた光秀はマスクを引き上げた。口と鼻をすっぽりおおうマスクは表情を完璧に隠してくれていることだろう。
「おまえが誰と会おうがキスしようが関係ねぇし」
「それを誰から聞いたんですか?」
「女のことか? 前木と…真琴も知ってるっぽかったな。つーか結構な噂になってるんじゃねぇか? 絶世の美女がなんとか言ってたし。今河が惚れただのなんだの騒いでるらしいからな」
そう言いながら立ち上がった光秀は大きく息を吐き出した。
「書類、届けたからな。見積もりの会社との話し合いにはおまえも出ろよ」
必要な話を済ませた光秀は研究室を出るべく歩き出す。しかし扉に手をかけたところで反対側の腕を捕まれた。
捕まれた腕を眺めた光秀はそのまま視線を持ち上げ石黒を見上げる。
「手ぇ放せ」
「嫌です」
「俺は仕事が溜まってんだ。てめぇと遊んでるヒマはねぇんだよ」
まっすぐににらみ付けながら忙しい旨を告げる。しかし腕をつかむ手は放されず、石黒もまっすぐに光秀を見つめていた。
ふたりのにらみ合いはしばらく続いたが、根負けしたのは光秀だった。視線を落とすように顔を背けるとため息を吐き出す。
「…用があるなら早く言えよ」
「おそらくその話に出ていたのはあなたですよ」
石黒はいつもと変わらない口調で言い放つ。しかし光秀はそんな石黒の言葉が理解できなかった。
目を丸めて石黒を見上げるとそのまましばし硬直する。
「……何の話だ」
「ですから、その噂になっている女性、ですか? その人物の話です」
かなりの間をあけて放たれた光秀の言葉に石黒は速やかに返してくる。
「昨日の俺がなぜあなたを仕事に戻さなかったのか、理由をわかっていますか?」
「欲求不満が溜まってたんだろ」
「あなたは風邪で思考力が死んでいるようですね」
「ケンカ売ってんのか」
やはりここで会話をしていても苛立ちが募るばかりだ。そう結論付けた光秀は腕をつかむ手を振り払うと扉を開ける。
「あなたが可愛かったからですよ」
しかし石黒の告白が耳に届いた瞬間、光秀は勢いよく扉を閉めていた。マスクの中で顔を赤く染めながら勢いよく振り返る。
すると石黒は珍しく少しすねた様子で、横に顔を背けて眼鏡を押し上げていた。
午前の仕事を片付けて食堂へ向かう途中で信長と遭遇した。出くわして早々に手をつかまれた真琴は真顔で信長を見つめる。
「何か用か?」
「用がなければ手を握ってはいけないなんてルールはないよ。あったとしても僕が認めないけどね」
「いや、俺は今から昼食を…」
そう言いかけた真琴だが、ふと信長の後ろでこちらをにらむ薄ら禿げ頭を見つけた。
「そういえば今河は地下で幽霊を見たそうだな」
「真琴も幽霊に興味があるのかい?」
「ある」
幽霊に興味があると返せば今河の目付きがさらに鋭くなる。そんな今河に顔を向けた真琴は幽霊ではないんだろうと告げてやった。
すると今河は驚いたように目を見開き真琴を凝視する。
「おれの話を信じるのか」
「ああ、おそらく同じ女性だと思うが、俺も見たから」
真琴の発言を聞いたとたんに今河は慌てた様子で近づいてきた。あげく血走った目で真琴に顔を近づける。
「どこで見たんだ!」
「研究室で三成と一緒だった」
「なんで石黒と……ひっ」
再び向けられようとした質問は眼前に飛び込んだ銀色の切っ先によって阻まれた。メスの切っ先を向けられた今河は悲鳴をあげながら引き下がる。
そのそばで真琴は信長が殺意の目で今河を凝視するのを眺めた。
「僕の真琴に馴れ馴れしく質問するなんて命知らずがいたとはね!」
「信長、メスをしまってくれ。話が進まない」
今にも殺人事件が起きそうな空間で真琴は冷静な言葉を向けた。すると信長はなぜかショックを受けた顔で真琴へ振り向く。
「君はあれの味方をするのかい?」
「今河と話してるからな」
「だったら僕と話せば良いじゃないか」
「おまえに昨日の話をしても仕方ないだろ」
ショックを受けて固まる信長を放置して真琴は再び今河へ視線を向けた。
「詳しいことは知らないが、その女性のことは諦めたほうが良い」
「おまえに何がわかる! 生意気ばかり言いやがって!」
唐突に憤った今河は天才だからってと叫びながら走り出してしまう。そのため真琴は自然と後を追おうとするが、別所に阻まれ足を止める。
「悪いが徳川には緋田先生の介抱をしてもらう」
堂々と頼るようなことを言い出した別所に真琴はそういうことかとため息を吐き出した。真琴が目を向けた先では信長が顔を伏せた状態で動かなくなっている。