お口に合えば何より。
煌々と燃える家。ぼやける視界。朦朧とする意識。
それはそれは、一瞬の出来事だった。錬金術士という以外には何の変哲も無い一家を襲った悪意は、そこにあった平穏の尽くを奪い去り、蹂躙し、踏み躙った。という、言わば非日常を常とするならば極ありふれた惨状がそこにはあった。
「欲に染まり……地に堕ちた、堕天使よ………貴様等は、我々の錬金術を欲して……いる様だがな……この技術をおいそれと、くれてやるわけ……にはいかん………世界に、無用な混乱を……齎す前に、ここで……っ、俺達と共に……果ててもらうぞ…………」
少年の父親は腹部にぽっかりと穴を空け、そこから夥しい量の血を流しながらガクガクと震える足元に大きな血溜まりを作っている。凡そ常人なれば失血死していても何ら不思議ではないのだが、しかしながら父親は刻一刻と迫り来る死に抗いながら、この惨劇を引き起こした欲に塗れた翼を持つ者。即ち堕天使を睨みつけた。
そして件の堕天使はというと、この惨状を引き起こした事にも特に悪びれた様子も無く、地を這う虫を眺めるかのように侮蔑を含んだ視線を向ける。
「ハッ! 馬鹿も休み休み言え人間風情が。死に体となったその身で一体何が出来ると言うのだ?」
「ふ……ふふふふ……確かに俺は……後、1分と保たずに…死ぬだろう……だがな………それでも、それでも出来る事はあるんだよ堕天使!」
失血により全身が弛緩する中、残る命を燃やし尽くす勢いで叫ぶ。そしてその手には一本の試験管が握られていた。
「■■■■…………お父さんとお母さんは……ここで、死んじゃうけど…………この命に替えても、貴方、だけは……死なせないわ……」
「父さん………母さん…………死んじゃやだよ……僕を、僕をひとりにしないで…………」
そして死に体の父親と同じく満身創痍の母親が部屋の物陰に息子と共に身を潜めていた。しかし右肩から先を失った母親の命もまた、風前の灯火に他ならず。父親と母親が息絶えれば次は自身の子が死に絶える事になる事は容易に想像出来た。
母親は我が子を災禍から逃がす為に震える指で転移用の魔法陣を描きながら、愛する我が子に対し、別離の言葉を掛けていた。
「これは……お父さんとお母さんからの……最後の、贈り物よ…………」
母親は我が子の頭を優しく撫でると紅い石のついた首飾りをそっと掛けると、転移の術式を行使した。
「父さん! 母さん!」
涙を流しながら手を伸ばす息子を見送った母親は最後の役割をやり遂げたと満足そうに笑うとその身をゆっくりと横たえた。
堕天使と相対する父親は懐から取り出した紅い液体の詰まった一本の試験管を残る力を振り絞って床に叩きつけた。
試験管がカシャンと音を立てて砕け散り、中に詰まっていた液体が床に飛び散った。
そして周囲に異変が起こり始めた。
「ぐっ!? なんだこれはっ………何をした人間!! これは、この炎はッ!!」
まず、影響が出始めたのは下手人である堕天使。先程までは己を害する事を出来るものなど何も存在しなかった筈だったが、目の前の男が試験管を叩き割って程なくして己の魂から焼き焦がすかのような激痛が襲い掛かった。
元々堕天使の組織「神の子をを見張る者」に所属していた事で神器に関する知識もそれなり以上に備えたかの堕天使は周囲を包む
「バカな! 聖十字架の紫炎だと!? 神滅具がよりにもよって何故今出てくるのだ!!」
「安心しろ……これは、神滅具の炎等では無い…………先程の液体は、貴様が……我々を、殺してでも奪おうと……していたものだ……ここまで言えば、分かるな?」
「『賢者の石』…………!」
「その通りだ……私が……作り上げた『賢者の石』は、僅かばかりの……生命の力を……用いて、対価に……見合わぬ錬成を行う、この世の、天上物質だ………これを使えば……貴様を屠る事など、児戯に、等しい事だ………」
「この私が、死ぬ……? 認めん……認めんぞッ!! この私が人間などに滅ぼされるなどと!!認めてなるものかぁああああああああああああッ!!」
「…………賢者の石よ、俺の命を啜り………この堕天使を屠れぇええええええええッ!!!!」
父親の最後の言霊を受けて周囲の炎を悪しき者を滅する紫炎はより激しく燃え上がった。それを最後に父親は支えを失ったかのように倒れ伏し、動かなくなった。
「この、人間風情がぁあああああああああああああああああああッ!!!!」
そしてとある錬金術士の一家を襲った悲劇は誰にも知られる事は無く、ひっそりと闇に消えていった。
━━━━━知っているのは生き延びた少年のみである。
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