息も凍るような朝だった。
「おはよう鳳翔。うー……寒いな……」
「おはようございます、提督」
石油ストーブの上には、湯気を出すやかんが置いてあった。
「加湿器を買ってもいいんだぞ」
「探したのですけど、良いのが無くて……。超音波? ですと、逆に菌を増やしてしまうそうですし、こっちの方が一石二鳥です」
確かに。
それに、鳳翔のイメージ的に、こっちの方が合うしな。
なんて、言ったら怒るだろうか。
「そう言えば、響はまだ起きてないのか」
「えぇ」
珍しい。
いつもなら、暖房の前を陣取ってるのに。
「起こしてくれますか?」
「分かった」
居間と違い、廊下はひんやりとしていた。
「響ー、起きろ」
返事は無い。
「響ー。早くしてくれないと、俺が冷えちまうよ」
応答なし。
「響……?」
部屋をノックしても、返事は無かった。
「入るぞ」
扉を開けると、布団の中で蠢いていた。
「響、起きてるなら出て来い。朝飯、出来るぞ」
「すごく寒いんだ……」
あたかも布団が喋ったかのように、もぞもぞと動く。
「学校にも遅れるぞ。そら!」
布団を引っぺがすと、胎児のように丸くなった響が出てきた。
「さ、寒い……寒いよ……」
ガタガタと震える響。
「鳳翔の飯を食ったら幾分か温まるだろうよ。ほら、起きろ」
そう言っても、響は起きようとしない。
ずっとガタガタと震えているだけだ。
「おいおい、そんなに寒いのか?」
「寒い……う……うぅぅぅ……」
次第に震えが大きくなってゆき、嗚咽を一つ。
「響……?」
額に手をやると、とても熱かった。
「ほ、鳳翔!」
「熱、ありますね」
体温計を見て、鳳翔はそう言った。
「学校は休んだ方がいいですね。私、連絡してきます」
そう言って、鳳翔は部屋を出た。
「うぅ……」
「スマン、響……」
「ううん……。体調管理が出来てなかった私が悪いんだ……。けほっ……」
響のつらそうな顔に、心が痛んだ。
同時に、親としての責任を感じた。
「学校……行きたかったな……。今日……家庭科でお菓子を作る予定だったんだ……」
「そうだったのか……」
「司令官にも食べて欲しくて……でも……」
「その気持ちだけで嬉しいよ。今日はゆっくり休め。何か欲しいものはあるか?」
「ゼリー……。今はそれくらいしか食べられないよ……」
「よし、分かった」
部屋を出ると、鳳翔が電話を終えたようで、こちらに近づいて来た。
「学校には連絡しました」
「ありがとう。ちょっと買い物に行ってくる。響がゼリーを食べたいらしいんだ」
「なら、私が……」
「お前は今日、仕事だろ。俺が行く」
「今日は休みます。お店に事情を説明すれば……」
「小さい店だ。お前が抜けるだけでも大変だろう。行ってやれ。大丈夫、俺は一人でもあいつを見てやれるさ。お前が仕事に行く前には帰ってくる」
「分かりました。私もなるべく早めに仕事を切り上げてもらえるように話します」
「助かる。じゃあ、ちょっと行ってくる」
「氷枕などもあれば、買ってきてくださいますか?」
「分かった」
最低限の身支度を済ませ、家を飛び出た。
そして、機関車のように白い息を吐きながら、店へと走った。
「ただいま」
帰ってくるのと同じタイミングで、鳳翔が家を出ようとしていた。
「すみません。行ってきちゃいますね。一応、メモを残しておきましたので、後はよろしくお願いいたします」
「ああ、行ってらっしゃい」
鳳翔を見送り、響の元へと急いだ。
「響、買って来たぞ」
「ありがとう……司令官……」
先ほどよりも辛そうな顔。
「ゼリーと、果物も買って来たから、ちょっとは食え。薬飲まないといけないからな」
「うん……」
起こすのも悪いので、そのまま食べさせてやった。
小さい口でモムモムと、ゆっくり味わっていた。
「美味いか?」
「うん。食べさせてもらうの……ちょっと恥ずかしいかな……」
「自分で食うか?」
響はそのまま口を開けた。
「誰も見てないさ」
果物を小さくして、響の口に運んだ。
「誰にも言わないでね……」
「分かってるよ」
薬を飲ませた後、タオルで包んだ氷枕を用意し、熱冷ましシートを額に貼った。
「冷たいよ……」
「我慢しろ」
後は寝かせて、昼頃におかゆでも食べさせてやるか。
「じゃ、後は安静にしてろよ。何かあったら呼んでくれ」
「行っちゃうの……?」
「俺がいたら寝られないだろ」
そう言うと、響は悲しそうな顔をした。
「司令官が傍に居てくれないと寝られないよ……。咳をしても一人、だよ……」
「渋い俳句知ってるな……」
「学校で習ったんだ……」
そんな早くから習ったものだろうか……?
「しかし、いつになく我が儘だな」
「熱出てるんだよ……?」
「ふふ、分かったよ」
座椅子を持って来て、傍に座った。
「司令官……もし私が死んじゃったらどうする……?」
「熱で、か?」
「あり得ない話じゃないと思うんだ……」
「そんな事考えてると、本当に死んじゃうかもしれないぞ」
「いいから……どうする……?」
響が死んだら……か……。
考えたこともなかったな。
けど、そう言われると、今の状況がとても深刻なものに見えてくる。
「あまり考えたくないな。お前だって、俺や鳳翔が死んだらって、考えたくないだろ?」
「考えたくないよ……。でも、考えちゃうんだ……」
熱が出てると、そういう考えが出てくるのだろうか。
俺が子供の頃にかかった時は、そういう考えはしなかったように思う。
「司令官……死んだらどうなるの……? 私……怖いよ……。暗いところにずっと一人ぼっちになるんじゃないかって……」
そう言うと、響は今にも泣きそうな顔をした。
「死んだら……か。それは死んだ奴にしかわからないだろ。天国や地獄があるかもしれないし、お前の言うようになるかもしれん」
「…………」
「でも、そんな事は死ぬ直前に考えればいい。今は早く、熱を治して、学校に行くことを考えておけ」
そう言って頭を撫でてやると、響はそっと目を瞑った。
「司令官……」
「なんだ?」
「手、握ってくれないかな……? 私が寝付くまででいいから……」
「ああ、分かった」
響の手はとても熱かった。
「これで寝られるか?」
「うん……」
しばらくすると、すうすうと寝息をたて始めた。
そっと手を放し、居間へと向かった。
鳳翔の残したメモに従い、家事などをこなした。
なるべく音をたてずに。
「静かだな」
空は曇っていて、とても寒そうに見えた。
鳳翔の奴、急いでいたからか、薄着のように見えたけれど、大丈夫だろうか。
ふと、窓の外を見ると、囲いの外でぴょこぴょこと動くツインテールが見えた。
何度も何度も。
「何してるんだ?」
玄関の扉を開けると、冷たい風と共に、瑞鶴が入って来た。
「うー……寒かったー……」
瑞鶴には珍しく、小さな声でそう言った。
「鳳翔さんから聞いたよ。響ちゃん、熱出してるんでしょ? 私にも何か出来ないかなって思って、来ちゃった」
「それはありがたいが、外で何してたんだ?」
「響ちゃんが寝ているだろうから、チャイム鳴らせなくて。提督さんに気付いてもらおうと」
それであんなに跳ねてたのか。
「気づいたから良かったが、もっと他の方法があっただろうに。ほら、寒かっただろ。居間、暖かいぞ」
「お邪魔します」
居間に着くと、瑞鶴はすぐに暖房の前に座り込んだ。
「外、そんなに寒いのか」
「うん。今年一番じゃないかな?」
そう言うと、瑞鶴は立ち上がり、持ってきた袋の中身を出し始めた。
「何だ?」
「おかゆの材料と、提督さんのご飯」
「作ってくれるのか? と言うよりも、作れるのか?」
「この前、加賀さんに教わったんだ」
そう言えば、時々加賀と会っていると聞く。
「手伝ってくれる?」
ツインテールをといて、髪を後ろに縛った。
「もちろんだ」
そう言ってやると、瑞鶴はニッと笑った。
出来るだけ静かに材料を切ってゆく。
瑞鶴は手慣れてるのか、材料がスイスイ切れていった。
「上手いな」
「鳳翔さんには敵わないけどね」
「いや、負けず劣らずだよ」
「本当? 私、いいお嫁さんになれるかな?」
「ああ、うるさいのを除けばな」
「なにそれ、ひどくない?」
そんな話をしていると、響が起きてしまったようで、俺を呼ぶ声がした。
「行ってあげて。ここは私がやるから」
「すまん」
廊下に出ると、響がフラフラと部屋から出てきた。
「司令官……」
「おいおい、起きてちゃまずいだろ」
「トイレに行きたくて……。あと、喉が渇いたんだ……」
「分かった。ほら、トイレ行って来い。飲み物用意してやるから」
「うん……」
急いで居間に戻る。
「響ちゃん、起こしちゃったかな?」
「トイレだと。あと、喉が渇いたみたいだ」
「スポーツドリンク買って来てあるよ」
「ありがとう」
飲み物を持って、響の部屋へと向かった。
「ん……」
コップのスポーツドリンクを、響は一気に飲み干した。
「体調はどうだ?」
「少しだけ楽になったよ。まだ頭が痛いけど……」
「そうか」
「誰か来てるの?」
「瑞鶴だ。今、おかゆを作ってくれてる。それを食って、また薬を飲もうな」
「食欲ないよ……」
「ちょっとでもいいから食え。治るもんも治らないぞ」
そんな話をしていると、瑞鶴がおかゆと飲み物を一緒に持ってきた。
「響ちゃん、大丈夫?」
「うん、ありがとう瑞鶴」
「食欲ないかもしれないけど、少しでも食べようね」
そう言うと、瑞鶴は響におかゆを食べさせた。
食べやすいように、ふうふうと冷ましてやっている。
その光景は、まるで妹を看病する姉の姿に見えた。
「美味しい?」
「美味しいよ。瑞鶴、料理の才能があったんだね」
「まぁね。にひひ」
瑞鶴の笑顔に、響の顔にも自然と笑みが零れた。
皿洗いを終えると、瑞鶴が響の部屋から帰って来た。
「響ちゃん、寝かしつけて来たよ」
「ありがとう。すまんな、何から何まで」
「ううん」
本当、鳳翔に負けず劣らずだ。
「さっきは冗談だったけど、お前、本当にいいお嫁さんになるよ」
「冗談だったの!?」
瑞鶴はムッとした顔を見せた。
「悪い悪い。でも、本当にありがとうな。響も喜んでたみたいだ」
「そう? なら良かった」
そう言うと、瑞鶴はズイズイと距離を詰めてきた。
「なんだ?」
「これだけ頑張ったんだから、もちろん、ご褒美があるんだよね?」
「ああ、そうだな。ちょっと待ってろ」
とりあえず、財布からいくらか出して、瑞鶴に渡した。
「これでいいか?」
「えー?」
「なんだ、足りないか?」
「そうじゃなくて……」
そう言うと、瑞鶴は後ろで縛ってた髪を解いて、背中を向けた。
「昔みたいに、髪、やってほしいな」
そう言えば、戦時中はよくこいつの髪をといてやってたっけ。
ツインテールにしたのも、俺が遊んでやった事だった。
本人は気に入ったようで、それからずっとツインテールでいた。
「こんなのでいいのか?」
「うん」
櫛を借りて、髪をすいてやる。
「昔よりも髪、綺麗になったでしょ。海風でゴワゴワしてたし、シャンプーもあまり良くなかったもんね」
「そうだったな」
静かな時が流れる。
やかんのシュンシュンという音だけが、部屋に響いていた。
「提督さんにこうしてもらうの、好きだったんだ」
「そうなのか?」
「うん。騒がしい鎮守府で、一番静かな時間だったし、提督さんを独り占め出来たし」
「確かにな」
そう言うと、瑞鶴は俺の方へと凭れ掛かった。
「おい、とけないだろ」
「にひひー」
あの時と同じように、やんちゃな顔をして笑っていた。
「全く、髪をやって欲しいのか困らせたいのか、どっちなんだ」
「どっちもかな?」
「やめるぞ」
「ご褒美なんだから、好きにさせてよ」
「なら、大人しくしてろ。ゆっくりやってやるから」
「はーい」
ちょっとは成長したかな……なんて、感心したけれど、こいつは昔から変わらないな。
だけど、それに安心している自分がいた。
「提督さん、何か笑ってない?」
「気のせいだろ」
髪を結った後、二人で昼食を取っていると、鳳翔が帰ってきた。
それに代わる様に瑞鶴は帰っていった。
「瑞鶴さん、心配で来てくれたんですね」
「お陰で助かったよ。いつの間にか、あんなに頼りになる奴になってたなんてな」
「感慨深いですか?」
「そうだな。でも、それだけ時間も経ってるんだなと思ったよ」
鳳翔も何か思うようで、じっと窓の外を見た。
「外、寒かっただろ」
「えぇ。でも、急いで帰って来たので、あまり気になりませんでした」
「どれ」
手を取ると、とても冷たかった。
「今度、手袋でも買いに行くか」
そう言いながら手を揉んでやると、幾分か温かくなった。
「こうして頂けるのなら、手袋なんていりませんよ」
それに反応しないでいると、鳳翔は顔を赤くした。
「何か言ってください……」
「キザだな」
「もう……」
ムッとした表情は、どこか瑞鶴の面影を見せた。
負けず劣らず、か。
響の様子を見に行くと、表情は幾分か良くなっていた。
「だいぶ良くなったな」
「ずっと寝てたからね。薬も効いてるんだと思う」
「響ちゃん、熱、測ってみましょうね」
体温計を腋に挟んでやると、くすぐったそうに身をよじった。
「汗もだいぶかいたようですし、明日どうなるかですね」
「学校、行けるかな?」
「行けるように、十分にお休みしましょうね」
「分かった」
その時、家のチャイムが鳴って、外で暁の呼ぶ声がした。
「お見舞いかな?」
「出てくるよ」
玄関の扉を開けると、暁と雷、電が心配そうな顔をして響の部屋の方を見ていた。
「あ、司令官。響の様子はどう?」
「だいぶ良くなったよ。後は熱がどれだけ下がるかだな」
「そう、良かった……」
「良かったわね暁。ずーっと心配してたものね」
「暁ちゃん、心配し過ぎて、授業中に窓の外ばかり見てたから、先生に怒られちゃったのです」
「だって……」
「そうだったのか。でも大丈夫だ。俺も鳳翔もいるしな。だから、お前たちはちゃんと勉強するんだぞ」
「分かったわ」
「あの、これ……今日のプリントなのです」
「ありがとう」
「騒ぐといけないから、もう帰るわね。響によろしく」
「ああ。お前らも体調管理はしっかりとな」
そう言って、三人は帰っていった。
暁だけは、時折こちらを振り向いて、心配そうな顔を見せた。
「体調管理か。久しぶりに寒中行水でもして、気合をいれるとするか」
そう意気込んで、家へと戻った。
翌日には、響の熱もすっかり下がっていた。
大事を取ってその日も休ませたが、その次の日には登校できるほどに回復していた。
「行ってきます」
響はいそいそと学校へ向かっていった。
早く皆に会いたいのだろうな。
「すっかり良くなったみたいですね」
「その……ううんっ……ようだな」
「提督、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと喉がな。のど飴あったかな?」
それからしばらくして、俺は風邪をひいた。
「司令官、大丈夫かい?」
「ああ……」
「寒中行水なんかするからですよ……」
「昔はああやって気合を入れたんだよ……」
咳をすると、響は無言でマスクを付けた。
「提督、おかゆを鍋に作っておきましたので、お昼に温めて食べてくださいね」
そう言って、鳳翔は躊躇なく仕事に出ていった。
響の時と対応が違くないか?
「響……」
「ごめん司令官。私も学校なんだ」
「だよな……」
外で暁たちの声がした。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう……」
外で楽しそうな会話が、徐々に遠のいて行った。
「瑞鶴……」
メールを送ると、「うつるといけないから」という絵文字なしのドライなメールが返って来た。
「ゴホゴホ……」
シーンという擬音が聞こえるほど静かな部屋で、一人咳こむ。
「咳をしても一人……か……」
尾崎放哉も苦笑いするほどに、情けない俳句を一人読んだ。
――続く。