「誰もいない所で相談したい事があります」
そう大井さんに言われて、私は急いで個室の飲食店を押さえた。
「こんないい所じゃなくても……」
「いえ、私も一度、ここに来てみたくて」
「すみません……」
料理と飲み物を注文し、しばらく世間話をした。
注文した料理が全て届いたところで、大井さんは切り出した。
「あの……実は……鳳翔さんに相談したい事がありまして……」
その真剣な表情に、私も箸を置いて向き合った。
「鳳翔さんにしか相談できない事なんです……」
「言ってみて……」
大井さんは少し戸惑った後、吹っ切れたかのように話し始めた。
「鳳翔さんって、もう相手の方とシたんですか!?」
「え? 何をですか?」
「だから……あの……その……」
徐々に顔が赤くなってゆく。
私にはその意味が分からなかった。
「大井さん?」
「セッ……――え、え、え……っち……というか……夜の……営み……?」
「夜の……営み……って……」
場の空気が凍る。
それと同時に、変な汗が一気に噴き出る。
「な……あの……えと……それはその……夜の営みというのは、夜の営みと言う意味ですよね(?)」
大井さんが頷く。
「そそそ、それは……その……」
「や、やっぱり一緒に住んでるし……その……いずれはそう言うことも起こると思うんです……! 相手は提督とは言え……男ですし……やっぱり……た、溜まる……? って言うんですか……? 溜まる……と思うんです……。そしたら……きっと私が慰めなきゃいけないと言うか……その……うぅ……何言ってるんだろう私……」
グラスの中の氷が解けて、カランと音を鳴らした。
「ど、どうなんですか……? やっぱり……シたんですか……?」
私が答えられないでいると、それを答えと受け取ったのか、大井さんは身を乗り出して私の顔を見た。
「お、お願いします! 失礼とは分かっていますが、詳しく聞かせてください!」
「えぇ!?」
「鳳翔さんしか頼れる人がいないんです!」
う……そんな事言われたら……。
「わ、分かりました……。その……絶対に誰にも言わないでくださいね……?」
大井さんは黙って何回も頷いた。
「うぅ……」
「じゃあ……初めてシたのって……いつですか……?」
「初めて……は……あの家にお世話になった日……です……」
「同棲したその日に!?」
「はい……」
「それは、響ちゃんがいない時ですよね……?」
「も、もちろんです。引っ越し業者が荷物を置いて帰ってからすぐ……あっ……」
「すぐって……そんな急に……」
「や、やっぱり無理です……! もう話せません……!」
「そんな事言わずに! せめて、どちらから誘ったとか……」
「誘った方……!?」
誘った方……誘った方……。
あの時は、とても暑くて、汗ばんでいて、それから……あ……そうだ……思い出が欲しいと言って……私だけの思い出が欲しいって……。
それを言ったのは私で……つまり私が……。
「鳳翔さん……?」
「わわわ、忘れました……」
「じゃあ……相手から誘ってきたことってあるんですか……?」
提督からのお誘い……。
初めてした時は私だし……その次の温泉も私だし……あの時も私……あの時も――。
「…………」
そう言えば、私から誘った事はあるけれど、提督から求められたことってないかもしれない……。
「無い……」
「え!? じゃあ、全部鳳翔さんが!?」
「え……あ、ああああああああ……! ちちち、違います違います! いえ、違くはないんですけど……そうじゃなくて……あああああ……」
恥ずかし過ぎて思わず床に伏せてしまった。
そして、それから大井さんの顔を見ることが出来ず、そのまま解散となった。
「はぁ……」
上着は必要ないくらい、ぐっしょりと汗をかいていた。
「うぅ……なんであんな事になったのかしら……」
けど、大井さんと話してみて、改めて提督との関係を考えると、思う所が色々出てきた。
その中でも、営みに誘う方の話は特に……。
「私って……」
自分の思っている以上に……欲求不満なのかしら……。
「あはははは! この番組面白いな」
「司令官、笑いすぎ。ちょっとうるさいよ」
『男の人って、溜まるって言うじゃないですか……』
提督も男だし……やっぱりそういう事もあるはず……。
でも、提督から求めてきたことは無いし……じ、自分でしているような様子もないし……。
「鳳翔さん、司令官うるさいよね」
「え? え、えぇ……そうね……」
「ん? どうした鳳翔? なんか顔が赤いぞ」
「そ、そうでしょうか……? ちょっと部屋の温度が高いのかもしれませんね……」
「確かにちょっと暑いな。一旦ストーブ消すぞ」
「すみません……」
駄目駄目……変な事考えちゃ……。
しかし、考えないようにしようとすればするほど、その事は頭から離れようとはしなかった。
次の日。
時間があったので、一人本屋へと立ち寄ってみた。
「わぁ……結構あるのね……」
女性の性欲についての本はいくつか置いてあった。
その中の一つを読んでみる。
「女性と男性の性欲の湧き上がり方の違い……か……」
本によると、男性は視覚から興奮を感じ、女性は接触による興奮を感じるらしい。
そう言えば、提督とそういうことをする時って、必ず寄り添ったりしている時だったような。
「でも……ちょっと触れただけで興奮しているって……やっぱり私って……」
その時、近くの店員が小さくせき込んだ。
私は慌ててその本を持って、レジへと向かい、思わず買ってしまった。
「はぁ……なるほどねぇ……」
家で一人、買った本を読んだ。
正直、こういった知識はあまりなかったし、必要だと思った事も無かったから、何もかもが新鮮だった。
「そう言えば、最近は……」
私は「姫始め」という言葉を思い出していた。
艦隊にいた頃、秋雲さんが誰かに話しているのを聞いたことがある。
年が明けて初めてする営みの事……。
私たちはまだ……。
それどころか、年末ですら……。
「……だからどうだというの。あぁ……駄目だわ……」
営みの事が頭から離れない。
提督の大きな手、息遣い、匂い、熱、舌が伝うこそばゆさ。
下へ、下へ――もどかしくて――意地悪で――優しくて――暑くて――熱くて――指先まで――体の中まで――全てがあの人に染まってゆくかのような感覚に落ちて――。
「あっ……嘘……」
体を伝う、小さな小さな痺れ。
マッサージでツボを押された時の痛みを、何百倍にも薄めた感覚。
疼きという表現が正しいのかもしれない。
「どうしましょう……。私……こんな……」
手が自然と、求める場所へと向かおうとした時、玄関で扉の開く音がした。
「ただいま」
急いで本をしまい、居間へと向かい、響ちゃんを迎えた。
このままだと、ずっと提督に求める生活が続いてしまう。
みだらな女だと思われたくないし、それで嫌われてしまうかもしれない……。
「…………」
私は、提督と少し距離を取るようにした。
「響ちゃん、テレビ面白い?」
「面白いよ。一緒に観よう」
普段の生活では、響ちゃんと会話して、何とか提督を見ないようにした。
仕事もなるべく提督の休みの日に集中して入れてもらったし、休日は図書館に行って読書をするなど、なるべく家にいないようにした。
すると、提督の事を考える時間は自然と少なくなり、やがて気持ちも落ち着いて来た。
「このままいけば大丈夫そうね……」
そんな日が続いたある日の事。
「鳳翔さん、提督さんと何かあったの?」
瑞鶴さんは真剣な顔をして私を見た。
「どうしてですか?」
「提督さんに相談されたんだ……。鳳翔さんに避けられてるって……」
流石に露骨だったかしら……。
「何もないですよ。最近、ちょっと忙しかったから……」
「ふぅん……」
何か疑う様に私を見た。
「響ちゃんも何か感じてたみたい。鳳翔さんが提督を避けているように見えるって……」
「…………」
「本当に何もないんですよね?」
「え、えぇ……」
「……鳳翔さん、嘘をつく時に俯く癖がありますよね」
「え!?」
「……何かあるって事は分かりました。言いたくないから言わなくていいんですけど……」
「…………」
「おっと……こんな時間……。じゃあ、また」
そう言って、瑞鶴さんは帰っていった。
提督、響ちゃんですら、避けていると感じてたのね……。
そろそろ気持ちも落ち着いて来たし、大丈夫かな……。
「ただいま」
「お帰りなさい、提督」
避け始めてからは玄関まで迎え無かったけれど、流石にそろそろ……。
「……あぁ」
提督は私を見ず、そのまま部屋へと向かった。
なんだか、機嫌が悪そう……?
「司令官、宿題見てくれないか?」
「ああ、いいよ」
「ここなんだけど……」
いつも通り。
いつも通りの筈なのだけれど、提督って、こんなに私の事見てなかったかしら……。
それほどに、目が合わない。
「提督、お風呂どうします?」
提督は返事をしなかった。
代わりに響ちゃんが返事をした。
「今日は司令官と入るから、鳳翔さんは先に入っていいよ」
疑われているから、そうじゃないって証明しようと思ったのだけれど、これじゃあ提督の方が私を避けているような……。
「…………」
湯船に浸かり、一人考える。
提督は、私が避けてるのを知っていて、それに理由がある事も、瑞鶴さんから聞いているだろう。
私が提督だったら、それを私に直接聞こうとするか、遠回しにでも探ろうとするはず。
少なくとも、あんな態度は取らない。
もしかして……私が避けている事に対して怒っている……?
「でも……提督に限ってそんな事は……」
もっと別の何かがあるのだとすれば、提督から避けてくれているのはむしろ好都合なのかもしれない。
提督の機嫌が直る頃には、私のみだらな性格も完璧に正されているだろうし……。
今は様子を見るのが正解かしら……。
「私は私で……みだらな性格を正す努力を続けましょう……」
そう決意したものの、どこか心の奥底に不安があった。
そして、その不安が大きくなるのと同じように、時間だけが過ぎていった。
「…………」
「…………」
「…………」
朝食。
いつもなら賑やかな食卓も、ここ最近はほとんど会話がない。
今日に限っては、誰も一言もしゃべらないでいる。
「ごちそうさま……」
提督はそそくさと食器を片付け、そのまま仕事へと向かっていった。
「行ってきます」すらない。
「提督……」
何かがおかしい。
こんなにも長く提督の機嫌が悪かった事なんて一度だってない。
悪くたって、一日寝ればケロッとしているのが提督なのに……。
「やっぱり……怒ってるのかしら……」
私が避けている理由を話さないといけないかしら……。
でも……そんな事話したら……。
「……嘘でもいいから、何かしら理由をつけて説明しないといけないわね」
避けなければいけないとは言え、流石にここまで来ると、響ちゃんにも申し訳ないし、取り返しのつかない事になりそうだと思った。
その夜。
響ちゃんが眠ったのを確認し、提督に話しかけた。
「あの……提督……」
「何だ?」
「その……最近……機嫌が悪いようにみえますけど……」
「…………」
「それって……」
「別に……機嫌は悪くないさ」
やはり提督は私の目を見てはくれなかった。
こっちの方へ首を回しすらしない。
「もし……私のせいなら謝ります……」
一応探りだから、避けているという事は言わなかった。
「…………」
提督は答えなかった。
「あの――」
「鳳翔」
やっと提督は私を見た。
でも、その目はとても冷ややかだった。
「別れよう」
「――え?」
時が止まったかのように感じた。
「最近の空気は悪くなる一方だ……。このままだと、響が可哀想だ」
「あ……の……」
言葉が上手く出てこない。
別れる……?
それって……。
「お前が俺を避けている理由は分からないが、それを知ったところでもう関係の修復は難しいだろう」
「え……?」
何……?
何が起きて……。
「あ、あの! 私が避けている理由は……その……」
思わず言葉に詰まった。
そして、俯いた。
「いいよ。嘘までついて答えなくても。もう理由なんてどうでもいいんだ」
そんな……。
「響にはもう話してある。あいつは俺についてきてくれると言った。もしかしたら、一緒にロシアへ行くかもしれない。どちらにせよ、この家はお前にやるよ」
「提督……待って下さい……!」
「短い間だったが、楽しかったよ、鳳翔」
それを聞いて、私の中で何かが崩れた。
「ぢがうんでずぅぅ……!」
滝のような涙という表現は正しいと思った。
畳に落ちた涙が、ぼとぼとと音をたてた。
「私がっ……みだらな女だがらぁぁ……う゛あ゛ぁぁぁぁ……」
もう滅茶苦茶だった。
涙も鼻水は止まらないし、聞いたこともない声が出るし……。
「おおお、落ち着けよ鳳翔……。うぅ……あああああ……ひ、響!」
提督が響ちゃんを呼ぶと、待っていましたと言わんばかりに、響ちゃんが居間へと飛び出してきた。
「だから言ったのに……やりすぎだよ司令官!」
「こ、こんなに泣くなんて思ってなかったんだよ……」
「鳳翔さん、泣き止んで……今のは全部司令官の演技だから……」
そう励まされても、何の事だか訳も分からず、ただただ泣いていた。
「ひっ……うぅ……」
どれだけ泣いたか分からないけれど、やっとの事で涙が止まった。
「わ、悪かった鳳翔……。まさかそんなに泣くとは思わなくて……」
「い……いえ……。どういう……ひっ……事ですか……?」
「実は……お前が何故か俺を避けているのに気が付いて、瑞鶴に相談してみたんだ。そしたら、瑞鶴にも話せないほどの理由があると聞かされて……」
「それで司令官、同じように鳳翔さんを避けてみたんだ。そしたら、きっと鳳翔さんが察して、理由を話してくれると思ったんだって」
「だが、そこまでしても話してくれない所を見て、最終手段を取ってみたんだが……やりすぎたようだな……」
「私は反対したんだ。逆に司令官が泣いて、理由を聞く作戦はどうだって提案したのに……」
「プライドが邪魔してしまってな……」
そう言う事だったのね……。
「その……そこまでして話したくないならいいんだ……。それだけ強い決心があったということなのだろうからな……。ただ聞かせて欲しい……お前は俺の事が嫌いになったのか……?」
「ち、違います……!」
「ならいいんだ。本当、ごめんなさい……」
そう言って、提督は土下座をした。
こんな事になるなんて……。
「……理由、話します。けど……その……響ちゃんには教育上悪いことかもしれませんので……」
そう言うと、響ちゃんは気を聞かせて、自室へ戻ってくれた。
「それで、理由とは……?」
「実は……」
私は、全て赤裸々に話した。
みだらな女だと思われてもいい。
別れるよりは何倍もマシだと、気が付いたから。
「――という事なんです。どうしても提督に嫌われたくなくて……ごめんなさい……」
提督の方を見ると、明らかに笑いを堪えていた。
「……提督?」
「だ、駄目だ……あははははは!」
「わ、笑いごとなんかじゃ……」
「笑いごとだよ。ったく、そんな事か」
そんな事……。
私はあんなに悩んだのに……。
「だって……提督から求めてくることは無いし……。私の体は提督を求めてて……」
「鳳翔」
提督は私を抱きしめて、耳元でそっと話し始めた。
「お前が求めて来るタイミングは、何時だって俺が求めようとした時と同じだったよ……」
「……!」
「お前が言わなかったら、俺が言っていた。それだけだ。お前はみだらな女なんかじゃない」
そうだったんだ……。
「なら……そうと言ってくださればよかったのに……」
「そんな事恥ずかしくて言えないだろう……。お前だって、俺がもし先に求めてたら、私も求めようと思ってたなんてわざわざ言わないだろう」
「そ、そうですけど……」
「それにもし……」
提督は声を殺して囁いた。
「もし……お前がそういう奴だとしても、俺は大歓迎だけどな……」
それを聞いて、私は顔から火が出そうだった。
「ば、ばかです……! 提督はやっぱりばかです……!」
「なら、別れるか?」
私が答えられないでいると、提督は悪戯に笑い、響を呼んだ。
「もう大丈夫かい?」
「ああ、迷惑かけたな」
「本当だよ……全く……」
そう言った響ちゃんの表情が、徐々に崩れていった。
「ばかは二人だよ……。ばか……」
そう言って、私たちに抱き着いた。
「ずっとピリピリした空気、怖かったよな……。ごめんな……」
「ごめんね響ちゃん……」
どうして私たちって、いつも壁にぶつかってばかりなんだろう。
不器用で、意地っ張りで、みだらで……。
「駄目駄目家族ですね……私たち……」
「そうだな……」
でも、悪い気はしない。
そうやってぶつかりながら、確実に一歩一歩進んでいるは分かっているから。
「また成長したと思えばいい。いつか、誰も泣かせないような家族にならなきゃな」
「はい」
とても小さな目標なのかもしれないけれど、今の私たちにはとても大きなものだと感じた。
次の日からは、食卓に会話が戻っていた。
やっぱり無理に避けるよりも、みだらな女だと思われても、愛が欲しいときは欲しいと言うべきなんだと思った。
少なくとも、この生活が無くなるよりはいい事。
「それじゃあ学校へ行ってくるね」
「おう、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい」
響ちゃんを見送り、朝食の片づけをしていると、提督が手伝ってくれた。
「提督、今日はお仕事があったのでは?」
「急きょ無くなったんだ。お前も今日は休みだろ?」
そう言えば、避けるために提督の仕事の日は休みにしてたっけ……。
「えぇ、休みです」
「そりゃよかった」
お皿を洗い終え、居間へ戻ろうとすると、提督に手を引かれた。
「提督?」
そのまま体を密着するようにして、私を抱きしめた。
「あっ……」
それで気が付いた。
「……提督」
提督の大きな手が、私の背中をなぞってゆく。
「いいか……?」
私は何も言わなかった。
そして、提督の手は――。
「……お互いに準備は出来てると言う訳だな」
そう言って提督は、私のそれを見せた。
「それが……私の答えですよ……。提督……」
それが私たちの姫始めとなった。
――続く。