頬の痛みに目が覚めると、目の前に響の顔があった。
「……何してるんだ?」
「司令官の顔を叩いて遊んでる」
「だろうな……」
重い体を起こす。
ここ最近は仕事が忙しく、遅い時間に帰って来ては倒れるようにして眠り、二人の目が覚める前の早朝に出勤していた。
そんな多忙な日々も終わりを迎え、長い連休を貰えることとなった。
今日はその初日だ。
「朝だよ、司令官」
時計は7時を指していた。
「響……ちょっと疲れてるんだ……。もう少し眠らせてくれないか?」
「もう少しって、どれくらい?」
「お昼くらいまでかな……」
「それは寝すぎだよ。せめて10分とか……」
「厳しいな……」
そんなことで話していると、鳳翔がとんできた。
「響ちゃん、提督はとてもお疲れのようだから、休ませてあげましょう? ね?」
響は少し不満そうな顔をして、居間の方へと向かっていった。
「すまん……」
「いえ。響ちゃん、提督が家に居るからはしゃいでるんですよ」
「そうか……。最近構ってやれてなかったからな……」
「お休みして、元気になったら父親してくださいね?」
「ああ、分かった」
「それと……夫もしてもらわないと困りますから……ね……?」
そう言うと、鳳翔は拗ねるように口を尖らせた。
「分かってるよ」
鳳翔は響がいない事を確認すると、軽く口づけをした。
「お休みなさい、提督」
「お休み」
再び眠りについて、次に目を覚ましたのは10時頃であった。
「おはよう……」
「おはようございます。もうよろしいのですか?」
「ああ……。眠気より、腹が減ってな……」
「もうすぐお昼ですけど……我慢できないようであれば、軽くおにぎりでも食べますか?」
「頼むよ」
居間に響の姿は無かった。
「響はどうした?」
「明石さんの工房へ遊びに行っちゃいましたよ。提督が構ってくないから、拗ねちゃって……」
「そりゃ悪いことしたな……」
「でも、お昼には帰ってくるって言ってました。フフ、なんやかんや言っても、提督と遊びたいんですよ。お味噌汁も出しましょうか? 朝の残り物ですけど……」
「ああ、頂こう」
なんやかんや言っても……か。
まだ構ってほしいと思ってくれてる内はいいが、いつか愛想尽かされると思うとな……。
今の内にたくさん接してやらないと、思い出が薄くなってしまいそうだ……。
お昼になると、響が帰って来た。
「それでね、明石さんのところの司令官はとても優しくて、どこかの誰かさんとは違うんだ」
昼飯を食いながら、響は俺に対して嫌味ばかり言っていた。
「そ、そうなのね」
鳳翔がチラリと俺を見る。
「そのどこかの誰かって誰だよ?」
「さあね。自分の胸に聞いてみたらいいよ」
響の奴、結構怒ってるな……。
いつもの俺ならご機嫌を取って何か言おうとするだろうが、こうも露骨に機嫌の悪い態度を取られると、ちょっとな……。
「ああそうかよ」
「そうだよ」
響はじっと俺を見つめた。
少しムッとした顔で。
「そんなに明石のところの司令官がいいなら、そっちの子になってしまえばいいじゃないか」
「そうだね。是非なってみたいものだ」
これには俺も少しムッとした。
「そうかよ。なら、さっさと出ていけばいいさ。全く……そんな気もない癖に。もうちょっと素直になれよな」
「お二人とも、そろそろその辺りで……」
流石にまずいと思ったのか、鳳翔は少し焦りを見せながら会話を止めた。
「提督は大人げないですし、響ちゃんも提督の言う通り、もうちょっと素直になった方が良いわ」
大人げない、か。
確かにそうだったかもしれないな。
子供との喧嘩に、俺としたことが……。
「そうだな。悪かったな、鳳翔」
「響ちゃんに言ってください」
「……悪かったよ響――」
響は持っていた箸を机に叩きつけた。
明らかに怒っているその態度は、響らしくなくて、俺も鳳翔も驚いて何も言えなかった。
「別に素直じゃないわけじゃないよ……! 本当の気持ちだよ……!」
「ひ、響ちゃん……?」
「分かったよ……。この家を出る……。他所の子になるから……!」
響は居間を飛び出すと、自室へと向かっていった。
「て、提督!」
唖然とする俺を、鳳翔は激しく揺らした。
「どうするんですか!? あんなに怒った響ちゃん、初めて見ましたよ!? 本当に出て行っちゃいますよ!?」
「……はっ!? ひ、響!」
急いで後を追うと、リュックを背負った響が玄関から飛び出していった。
「響! 待て!」
靴は外へと放られており、俺はそのまま裸足で外へと飛び出した。
「響――」
しかし、もう響の姿はそこに無くて、いくら名前を叫ぼうと、戻ってくることは無かった。
「どうしましょう……。響ちゃん……本当に帰ってこないつもりでしょうか……?」
「そうだな……」
「そうだなって……!」
「夕方には帰ってくるだろ。そうじゃなかったとしても、少し頭を冷やさせてやれ」
「本当に大丈夫でしょうか……」
しかし、日が暮れても、響が帰ってくることは無かった。
「どうするんですか!? もし誘拐でもされていたら……! 警察に電話しましょうか!?」
「落ち着け。とりあえず、明石のところに電話だ……」
ダイヤルしようとすると、電話が鳴った。
「はい、もしもし」
『「アトリエ明石」です』
「ちょうどよかった。響……行ってるよな……?」
『はい、来てますよ。今、提督……じゃなかった……えーっと……う、うちの人……えへっ……うちの人と一緒に買い物へ出てます』
「そうか……」
『話は聞いてますよ。もっと早く連絡しようと思っていたんですけど……中々電話させてくれなくて……』
「迷惑かけたな……。今から迎えに行く」
『問題ないなら、今日はうちで預かりますよ。響ちゃん、まだ怒ってますから』
「いや、しかし……」
『島風ちゃんも泊まりに来てて、仲良く遊んでいますし』
「……ちょっと待っててくれ」
鳳翔に伝えると、安心して腰を抜かしていた。
そして、とりあえず預かってもらうことで話が付いた。
「すまない……」
『いえ、鳳翔さんには大変お世話になってますし。また美味しいごはん、ご馳走してくださいね』
「ああ、もちろんだ」
『あ……帰って来たみたい……。ではまた』
電話を切ると、鳳翔がこちらをじとーっとした目で見つめていた。
「な、なんだ……?」
「無事だったからいいものの……」
「……悪かったって。明日、帰ってきたらちゃんと謝るよ……」
「ちゃんと、ですよ?」
「ああ、分かってる。とにかく無事だったんだ。今日は久々に二人で過ごすとしようじゃないか」
そう言ってやると、鳳翔はフイとそっぽを向いてしまった。
「そんな気分じゃありません……」
「今朝とは言ってることが違うぞ」
「もう冷めちゃいました……」
鳳翔もこんな感じか……。
まあでも、そりゃそうか……。
最近は一緒に居ることが当たり前になりつつあって、二人に対して少しドライな態度をとってしまっていたのかもしれない……。
反省しなければな……。
・
・
・
明石さんのお家には、夕張さんや青葉、島風も来ていた。
「そっか。響ちゃん、家出してきちゃったんだ」
「うん……」
「しかし、響さんのところの司令官はとても優しい方ですよねぇ? 何故喧嘩を?」
何故……か……。
よく考えると、自分でもどうしてあんなに怒ったのかよく分かってないのかもしれない。
ただ、司令官にあんなことを言われて……ついカッとなって……。
「まあそう言うこともあるよねー。島風と提督も、そう言うところあるもん。ねー提督?」
「島風ちゃんは我が儘なだけでしょ」
夕張さんがそう言うと、皆おかしそうに笑った。
賑やかだな。
いつもこうなのかな。
「響ちゃん、ちょっと手伝ってほしいことがあるの。一緒に来てくれる?」
「私に?」
「うん。駄目かな?」
「ううん。お世話になる身だ。何でもするよ」
「ありがとう。それじゃあ、一階のお店に行こうか」
閉まったお店は、いつもの雰囲気と違って、何だかドキドキした。
「新しい商品を置こうと思って。お客さんとしての意見を聞きたいの」
「私の意見なんかでいいの?」
「うん。ほら、上にいる三人はいつもここに居るから、お客さんの気持ちになれないんだって」
「分かった。私で良ければ」
「ありがとう」
それから明石さんとああでもないこうでもない言いながら、商品を並べた。
お店を始めた時に比べて、本当に素敵な商品が増えたなって思う。
「お店を出した初日も、こんな感じだったよね。響ちゃんの提督がたくさん買ってくれて、嬉しかったなぁ」
「…………」
「……あの時は、とっても仲が良かったのにね」
「昔の話だよ……」
「ついこの前の事だよね……?」
明石さんは商品を並べつつ、司令官の話ばかりしていた。
多分、仲直りさせるために言ってくれてるのだろうけれど、今の私にはあまり響かなかった。
「明石さん、司令官の話はもういいよ」
「そ、そっか……。ごめんね……」
「いや……」
明石さんは優しいから、きっと私を説得してから司令官のところに帰そうと思ってるのだろう。
司令官からの電話が無いところを見ると、もう連絡済みなのかもしれない。
「…………」
空気を悪くしちゃうし……ここに私の居場所は無いのかな……。
・
・
・
翌日の朝早くに、明石から電話があった。
『響ちゃんが居ないんです!』
それを聞いた鳳翔は、膝から崩れ落ちた。
「アトリエ明石」に着くと、明石が顔を真っ青にしてこちらへ向かってきた。
「本当にごめんなさい……」
「いや、こちらこそ迷惑をかけたな……」
「朝起きたらいなくなっていて……みんなで探したんですけど……」
「暁ちゃんたちにも聞いてみたけど、来てないみたいよ……」
そうなると……一体どこへ……。
「あの……鳳翔さんは……?」
「家にいる。もしかしたら、響の奴が帰ってくるかもしれないからな……」
「私が預かるなんて言わなかったら……。うぅ……ごめんなさい……」
「そんなことは無い。悪いのは俺だ……。責任を感じさせてごめんな……。後はこっちで何とかする。お店、開けないといけないだろ?」
「でも……」
その時、鳳翔から連絡が入った。
「もしもし? 帰って来たか!?」
「いえ……でも、居場所が分かりました」
「何処だ!?」
「それが……」
・
・
・
皆がまだ寝ている内に、お店を出た。
空はまだ藍色をしていて、東の方が少しだけ明るくなっていた。
「ごめんなさい……」
小さく謝ってから、私は小走りで西へと向かった。
街はとても静かで、まるで別の世界に迷い込んだようだった。
「フフッ……」
私は、少しだけワクワクしていた。
しばらくすると、大きな川に着いた。
遠くに伸びる橋の向こうにどんな町があるのか、私は知らない。
「はぁー……」
息が白い。
朝はやっぱり冷えるな……。
何の準備もなく家出したから、薄着のままだし……。
お腹も減って来た……。
「…………」
帰ろうかな……。
……いや、今更帰れない。
みんなにたくさん迷惑かけちゃったし……。
それに――。
『他所の子になるから……!』
あんなことを言って出て行った手前、自分から戻ることなんてできない……。
司令官もすごく怒ってた……。
でも……これからどうしよう……。
暁たちの家にはいけないし……。
「あれ? 響ちゃん?」
声の方を向くと、大和さんが立っていた。
ジャージ姿で、少し息を切らしている。
「どうしたの、こんな朝早くから……」
「……何でもないよ。ちょっと……散歩してただけ」
「散歩……ねぇ……」
大和さんは私の担いでいるリュックを見て、何かを察したようだった。
「そっか……。大和はジョギングしてたところなの」
「それは精が出るね」
「うん。それじゃあ行くね」
「え……?」
「バイバイ」
大和さんはジョギングを再開した。
何かを察してたようだから、てっきり気にかけてくれると思ってたけど……。
「…………」
『気にかけてくれる』?
私は心配して欲しかった……?
「……はぁ」
ため息と共に、お腹が鳴った。
このまま飢えて死んじゃうのかな……。
急に不安な気持ちが押し寄せて来る。
そんな気分とは裏腹に、お腹だけはいつまでもぐうぐうと能天気に鳴っている。
「お腹空いてるんだ」
振り返ると、大和さんがこちらを覗き込んでいた。
「な、なに……?」
「別に。この辺りを往復してるだけよ。お腹空いてるなら、帰ったら?」
私が黙っていると、大和さんはクスッと笑った。
「そう言えば、さっき提督から連絡があって、しばらく旅行に行くんだって?」
「え?」
「いいなぁ。海外旅行でしょ? 大和も行ってみたいなぁ」
「海外旅行……? 司令官と鳳翔さんが……?」
「あれ? 聞いて無いの? どうして?」
司令官と鳳翔さんが海外旅行……?
そんな馬鹿な……。
私を置いて……?
「響ちゃん?」
「嘘だよ……。だって……そんな事……」
「うん。嘘だよ」
大和さんは悪戯に笑って見せた。
ああそうだった。
大和さんはこういう人だった。
鳳翔さんや司令官の前ではあんなにいい人を演じてるのに、私にだけはこうしてからかって……。
「…………」
「怒った?」
私は大和さんを無視して川を離れた。
途方もなく街を歩く。
その間、大和さんはずーっと私の後をつけていた。
「……なんだい?」
「何が?」
「どうしてついてくるの……?」
「たまたま道が一緒なだけよ。自意識過剰なんじゃない?」
この人は……!
「…………」
そうこうしていると、いつの間にか鈴蘭寮の前に着いていた。
「ほらね?」
「…………」
「じゃあ、大和はここで」
大和さんは門の中に入ると、もう一度私の方を見た。
「帰らないの?」
「……帰るよ」
「帰る家もないのに?」
そう言うと、大和さんはくすくすと笑った。
「家出したんでしょう?」
「!」
「恰好を見れば分かるわ。その様子だと、提督と喧嘩したのね」
「…………」
「図星。それで、これからどうするつもり?」
「……遠くに行くよ」
「ざっくりしてるのね。食料も無くて、そんな薄着で、お金もなさそうだし。そんなことで生きていけるのかな?」
「生きていけるよ……!」
「絶対に無理。断言してもいいわ」
「根拠がないじゃないか……!」
「それは響ちゃんも同じでしょう? どうやって生きていくつもりなの?」
私は、大和さんに対する怒りと、自分が置かれた状況にこみ上げるものがあって、とうとう泣いてしまった。
「……ぅ……っ……」
泣く私に、大和さんは近づいて、顔を覗き込んだ。
「素直じゃないのね」
司令官と同じことを……。
「助けて欲しい時は、助けて欲しいって言わないとダメよ」
「……べ……別に……助けて欲しい……なんて……ぅ……」
強がる私を大和さんは優しく抱きしめた。
「ずっとそうして生きて来たじゃないの。何をいまさら」
羞恥心と、大和さんの優しい抱擁に、私はたかが外れたように大声で泣いてしまった。
「昨日の残りだけど、どうぞ」
「……いただきます」
鈴蘭寮の食堂は、とっても静かだった。
「美味しい?」
「……うん」
「そう。良かった」
食事をとっている間、大和さんは私をじっと、優しい目で見つめていた。
「後で提督に連絡させてもらうからね」
「え……」
「でも、来ないでっていう電話だから。鈴蘭寮は、基本的に住人以外はいれちゃいけないことになってるの。響ちゃんは特別」
「……どうしてそんな電話を」
「心配しているだろうから、一応元気ですってね。警察呼ばれても困るし」
「……私はどうなるの?」
「その食事がすんだら、すぐに出て行ってもらう。ここには長く置けないの。ごめんね」
「……ううん。食事を出してくれただけでも感謝してるよ……」
「やっと素直になったわね。けど、まだなり切れてない。どうせ、家には帰らないんでしょう?」
「…………」
「……何をしようと勝手だけれど、甘えられるうちに甘えておかないと、大人になった時に苦しむことになるわ」
そう言うと、大和さんはどこか悲しい顔を見せた。
「……これからどうするの?」
「……遠くに行く」
「遠くねぇ……。……分かった。けど、この町を出る前に、寄ってほしいところがあるの。そこで貴女の気持ちが変わらないのなら、遠くでもどこでも行ったらいいわ」
・
・
・
鳳翔によると、響は鈴蘭寮に向かったようだ。
しかし、帰りたくないと、本人が駄々をこねているらしい。
迎えに行くと言っても、鈴蘭寮に部外者は入れないようだから、大和の方で説得してくれるとのことであった。
「大和ちゃんのところにいるならひとまず安心ですけど……。頭を冷やすどころか、ますます帰りたくないと言っているような……」
「…………」
「提督……」
響……お前、そこまで怒っていたなんてな……。
俺は少し甘く見ていたよ……。
「……響を迎えに行く」
「え……でも……」
「例え鈴蘭寮に入れなくても、外から呼びかけてやる……」
鳳翔は止めようとした手を引いた。
「鳳翔……お前にも謝らないといけないな……。お前たちの存在を疎かにしてしまった。すまない……」
「い、いえ……。提督はお忙しいですから……しかたないですよ……」
「この際だ……。お前の本当の気持ちをちゃんと教えて欲しい……」
「そんな……私は……」
「頼む……」
鳳翔は少し躊躇った後、小さな声で零した。
「……もっと……愛してほしいです……。忙しいのは分かっていますけど……帰ってきても……響ちゃんに構ってばかりですから……」
「鳳翔……」
「ひ……人肌が……て、提督が恋しくて……。何度も……貴方に言おうと思っていたけれど……迷惑かけちゃいけないって思って……。響ちゃんとの時間をとってはいけないと思って……」
俺は鳳翔を抱き寄せた。
「……そうか。気づいてやれなくて悪かった……」
「提督……」
「これからは何でも言ってくれ……。俺も気を付けるようにするから……」
そう言うと、鳳翔は顔を真っ赤にして俯いた。
「鳳翔……?」
「じゃあ……あの……」
二人以外誰も居ないのに、鳳翔は耳元で小さく呟いた。
「――……」
「……ああ、分かった」
鳳翔は「任せる」といったように、着物を緩め、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
鈴蘭寮の前に着くと、掃除をしている大和と目が合った。
「遅いですよ」
「……分かっていたのか? 俺が来るって」
「はい。提督ならきっと来るって思っていました。予想より、ちょっと遅かったですけど」
俺が赤面すると、大和は何かを察したようにクスリと笑った。
「響はいるか?」
「残念ながら、もういません」
「何処に?」
「遠くへ行きました。私も行き先は知りません」
「……どういうことだ?」
「そのままの意味です」
大和はいつもと違い、恐ろしいほど平生を保っていて、謙虚さは無かった。
「提督、大和に任せてくれませんか?」
「響の行方も分らないのにか……?」
「お願いします」
掃除の手を止めて、大和は真剣な目で俺を見つめた。
「……分かったよ。お前を信じる。迷惑かけてすまない……」
「いえ。響ちゃんの事は、すぐに連絡します。それまで、お家で鳳翔さんと待っていてください」
「……ああ、分かった」
大和……。
最近見ない内に、逞しい目をするようになったな。
それもきっと――。
・
・
・
大和さんに紹介された場所は、大井さんの家だった。
「…………」
ここに寄る意味は何だろう。
どうして大井さんなんだろう。
そう思っていると、家の扉が開いた。
「待ってたわ。早速だけど、出発しましょう」
「え……?」
何も伝えられないまま、私は電車に乗せられた。
大井さんが買ってくれた切符には、聞いたこともない駅名が書かれていた。
「大和さんから聞いたわ。遠くへ行きたいんでしょう?」
「え……う、うん……」
「なら、途中まで一緒に行きましょう。私も遠くへ行く予定だったから……」
そう言えば、大井さんもリュックを背負っている。
「大井さんも家出……するの……?」
「えぇ……。あの人と喧嘩しちゃってね……。出ていくことにしたの。大和さんには言っていたから、貴女を途中まで一緒に連れて行ってくれって頼まれてね……」
そうか……。
ということは、本当に私はこの町を……。
車窓からは、朝見た川が見えていた。
「何も言わずに連れてきちゃったけれど、引き返すなら今の内よ」
「……ううん。大丈夫。ありがとう……心強いよ……」
「……そう」
見慣れた景色はもう無い。
車内には私達以外誰も乗っていなくて、線路を叩く音だけが響いていた。
車窓からの景色が自然豊かなものになって来た。
「……どんな喧嘩をしたの?」
今までだんまりしていた大井さんが急にしゃべったので、私は驚いて、しばらく返事が出来なかった。
それでも、大井さんは何も言わずに、私の返事を待ってくれているようだった。
「えっと……その……」
あれ……?
どうしてあんなに怒ってたんだっけ……?
司令官が構ってくれなくて……私が明石さんの司令官がいい人って言って……なら、そこの子供になればいいと司令官が言って……私が出ていくと言って……。
「…………」
どうしてあんなに怒ってしまったんだろう……。
司令官は忙しくて……やっと休みが取れて……。
なのに私は、司令官を休ませないどころか、嫌味まで言って……。
司令官……凄く怒ってた……。
そうだよね……。
せっかく私たちの為に頑張ったのに……あんなこと言われて……。
「響ちゃん……?」
「……あの……大井さん……私……」
「あら……もうすぐ着いてしまうわ。その話はまたあとにしましょう」
「あ……」
大井さんに手を引かれ、聞いたこともない駅へと降り立った。
駅からはバスに乗り、山を登ってゆく。
時刻はすでにお昼ごろになっていて、途中のバス停で降り、蕎麦屋さんで昼食を取った。
「……大井さん、何処まで行くつもり?」
「もう少しバスで行ったところ。私はそこで貴女と別れることになるから」
「え……?」
「言ったでしょう? 途中までって」
そう言う大井さんの目は、どこか冷たかった。
「遠くへ行きたいんでしょう。これから私たちが行く場所から、貴女は電車に乗るの。そしたら、お望み通り遠くへ行くことが出来るわ」
「…………」
「どうしたの? 食べておかないと。道のりはまだ長いわよ」
「うん……」
もう後戻りはできない。
そう思うと、急に心寂しくなって来て、私は何度も司令官と鳳翔さんの顔を思い出していた。
バスの最終地点で降りる。
空は夕焼けに染まっていて、山に囲まれているせいか、太陽の姿は無い。
「ここからは貴女一人よ。電車は三時間に一本くらいしか出ないみたいだから、それまでは一緒に居てあげる」
「……ありがとう」
無人の駅には待合室が設置されていて、電灯とストーブは自分たちでつけないといけないようだった。
「外は寒いから、今の内から暖まった方が良いわよ」
そう言うと、大井さんはストーブの近くに私を座らせた。
「…………」
チチチという小さな音を立てて、ストーブが真っ赤に染まってゆく。
「このストーブ……うちのと同じだ……」
「そう……」
大井さんはつまらなそうに、ストーブの明かりをじっと見つめていた。
「……大井さんは……これから一人で生きていくの……?」
「えぇ……」
「……本当に一人で生きていけると思う?」
「もちろんよ……。そう思ったから、出て来たんだし……。貴女もそうでしょう……?」
「…………」
「……今更怖気づいたって訳?」
私が黙っていると、大井さんは大きくため息をついた。
「中途半端な気持ちで出て来たって訳……」
「つい……カッとなっちゃったんだ……。本当は分かってるんだ……。自分が悪いんだって……」
「…………」
「でも……そう気が付いたときには……もう遅くて……。後戻りできなくて……」
「……戻りたいの?」
「…………」
「悪いけど……もう戻れないわよ……。腹を決めなさいな……」
そう聞いて、私は急に寂しくなって、また泣いてしまいそうになった。
「……私も、貴女と同じことを繰り返してきた」
溢れそうな涙を拭い、大井さんの方へ顔を向けた。
「彼とたくさん喧嘩して……と言っても、悪いのはいつも私だったけど……」
「…………」
「何度も嫌いになって……別れようと思って……家出もしたわ……。けど……その度に反省して……彼の元へと戻った……。不思議なものよね……。どんなに嫌いになっても……やっぱり一緒に居たいって想っちゃうんだもの……」
「……今はどうなの?」
「どうかしらね……。良く分かんなくなっちゃった……。私の場合……彼と喧嘩したのは確かだけど……これ以上一緒にいたら、彼を傷つけるだけだと思って……出ていくことにしたから……」
じゃあ……大井さん……本当は……。
「貴女はどうなの……?」
「え……?」
「素直な気持ち……。教えてよ」
「素直な……気持ち……」
「本当はどうしたいのよ……? ちゃんと言葉で言いなさいな」
私の本当の気持ち……。
「響ちゃん……」
「……本当は……司令官が大好きだよ……。お別れなんてしたくないよ……。家出しちゃったけど……私が……悪かったからぁ……」
抑えきれなくなった涙が、ぽたぽたと膝の上に落ちて行った。
「あんなこと言ったけど……司令官と一緒に居たいよ……。司令官じゃなきゃ……嫌だ……うぅぅ……」
「…………」
「司令官に謝りたいよ……。帰りたいよ……。寂しいよ……」
「……それが貴女の素直な気持ち?」
「うぅぅ……」
「はぁ……やれやれ……。やっと言えたわね」
そう言うと、大井さんは椅子に深く腰掛けた。
「もういいわよね?」
大井さんがそう言うと、待合室の扉が開いた。
そこには、司令官が立っていた。
「司令官……!?」
唖然とする私に、司令官は近づいて、私の頬を叩いた。
「みんなに心配かけやがって……!」
「……ごめんなさい」
「……大井、すまなかったな。外であいつが待っているよ」
「全く……。ちゃんと仲直りしなさいよ……?」
「ああ、分かってる」
大井さんが出てゆくと、再び静かな時間が流れ始めた。
・
・
・
大和からの連絡があり、俺は鈴蘭寮の近くへと向かった。
どうやら響は大井と一緒に居るらしい。
「大井はどこだ?」
「――というところに居ます」
「――って……そんな遠くに行ってるのか!? どうして……」
「響ちゃんが遠くに行きたいと言っていたので、大井さんに連れて行ってもらったんですよ。大井さん、彼と旅行でそこまで行くみたいだったので」
「どうしてそんなことを……!」
「……本当に離れてみないと、分からない事ってありますから」
そう言う大和の言葉には、どこか深みがあった。
「大井さんには一芝居打ってもらってます。きっと今頃、響ちゃんは戻りたいと思っているはずですよ」
「わざわざそこまでしてくれたって言うのか……?」
「えぇ。大井さん、思うところがあったみたいで……。連れて行ってくれるって。自分と重なるところがあったんだと思いますよ」
あの大井が響の為に……。
「車をお貸ししますので、行ってあげてください。大井さん、わざと遠回りしているみたいなので、今からなら間に合いますよ」
「いいのか……?」
「えぇ、うちの提督が是非って。あの人、駆逐艦の為なら何でもできるって人ですから」
「……そうか。すまない……お言葉に甘えさせてもらおう……」
「響ちゃんに会ったら、ついでに大和の分も謝っておいてくれませんか? 意地悪しちゃったので」
「何をしてるんだお前は……」
そう言うと、大和はくすくすと笑い、車のキーを放り投げた。
「ありがとう。お前の提督にもよろしく言っておいてくれ」
「分かりました」
「……大和」
「はい」
「お前、いい人を見つけたな」
大和は大きく「はい!」と返事をすると、今まで見たことのないくらい、飛び切りな笑顔を見せてくれた。
車を飛ばし、聞いた場所へと向かうと、小さな駅があって、その待合室に大井と響はいた。
「響――」
声をかけようとすると、大井に睨まれた。
まだ出てくるなって事だろうか……。
「…………」
隠れながら耳を澄ますと、中から響の声が聞こえた。
「つい……カッとなっちゃったんだ……。本当は分かってるんだ……。自分が悪いんだって……」
「司令官に謝りたいよ……。帰りたいよ……。寂しいよ……」
響は、自分が悪いと気が付いていたようだが、後戻りできなかったらしい。
馬鹿……俺たちはそんな事を気にする仲じゃないだろう……。
「…………」
だが、そうまでしなければならないほど追い詰めたのは俺だったのかもしれない
響に謝らないといけないな……。
「もういいわよね?」
大井の合図と共に、俺は待合室の扉を開けた。
「――……」
俺は、響に謝ろうと、その瞬間まで思っていた。
しかし、涙でぐしゃぐしゃになった響の顔を――どこか疲れたようなその顔を見て、俺の気持ちは別のものへと変わっていった。
そして――。
「みんなに心配かけやがって……!」
『みんなに』
それは事実である。
しかし、思わず手が出たのは、心配から来るものであって、そこに別の理由を乗せてしまったのは、今にも泣いてしまいそうな自分を隠すためであった。
「……ごめんなさい」
「……大井、すまなかったな。外であいつが待っているよ」
「全く……。ちゃんと仲直りしなさいよ……?」
「ああ、分かってる」
大井は外で待っている俺の同期(大井の彼氏と言った方が良いか)の元へと向かっていった。
「…………」
再び響と向き合う。
しかし、お互いに何を話したらいいのか分からないといった様子で、沈黙が続いた。
「……響――」
俺が話始めるのと同時に、ぐぅぅ、という大きな音が鳴った。
それは、俺の腹の音だった。
「…………」
そう言えば、飯を食っていなかったな……。
ここぞという時に……恥ずかしい……。
「ごほん……」
仕切りなおそうとすると、響はリュックから包みを取り出した。
「……これ」
今にも消えてしまいそうな小さな声で、響はそれを俺に渡した。
受け取ってみると、中にはおにぎりが二つほど入っていた。
「……大和さんが……持たせてくれたんだ……」
大和……。
「そうか……。お前も……腹減ってるんじゃないのか……?」
響は何も返事をしなかった。
「……一緒に食べようか」
近くのベンチに座る。
響は少し距離を置いて、同じように座った。
「ほら」
おにぎりを渡してやると、響は少し躊躇った後、ゆっくりとおにぎりを食べ始めた。
「……美味いな」
昔、大和に作ってもらったおにぎりと同じ味だった。
「少ししょっぱいだろ。けど、俺はこの味が好きでな……」
響はおにぎりをじっと見つめたままで、返事をしなかった。
「鳳翔にもこの味で……って頼んだら、凄く怒られたよ。だが、気にしてくれたんだろうな。あいつの作るおにぎりも、最近は少ししょっぱいんだ」
響は黙ったままだ。
「……響」
「…………」
「ごめんな……」
そう言ってやると、響は耐え切れなくなったのか、大粒の涙を流した。
「響……」
「ごめんなさい……」
「俺こそごめんな……。怖かったな……。寂しかったな……」
「うぅぅ……」
響が泣き止むまで、俺たちは身を寄せ合って、お互いに思うことをすべて口に出した。
響は、俺が構ってくれなかったから、大事にされてないと思ったから、怒ってしまったと言って、何度も俺に謝り続けた。
そんな俺も、響の事を疎かにしてしまった事を謝った。
思えば、些細な事だったかもしれない。
しかし、そんな些細なことで喧嘩してしまうほど、俺たちはお互いに大切で、親密な関係になっていたのだと感じた。
「帰ろう……。俺たちの家に……」
「うん……」
家に帰ると、鳳翔が家から飛び出してきた。
そして、誰よりも大粒の涙を流して、響の無事を喜んでいた。
「ごめんね……鳳翔さん……」
「ううん……何事もなく帰ってきてくれて……良かったぁ……うぅぅ……」
それから鈴蘭寮に車を返すと共に、各世話になった人たちにお礼をしてまわった。
みんな心配していたようで、誰一人として怒る者はいなかった。
家に帰ると、響が居間で待っていた。
風呂上がりのようで、髪がしっとりとしていた。
「鳳翔は?」
「お風呂に入ってる」
「そうか」
たくさん泣いた響の目の下は、少し赤くなっていた。
「司令官……」
「なんだ?」
「甘えていいかい……?」
「……ああ、いいよ」
響は俺の膝の上に座ると、後ろから抱きしめるようにせがんだ。
風呂上がりで温かくなった響を抱くと、外で冷えた俺の体もぽかぽかと温かくなっていった。
「司令官にこうして甘える事……私にとっては当たり前の事だったんだ……」
「…………」
「でも……離れてみて分かったよ……。こうしている事……司令官が一緒に居てくれることは……とっても特別な事だったんだって……。当たり前の事じゃないんだって……」
「響……」
「初めて一緒に住んだ頃は……そんなことは分かり切っていたのに……」
「それだけ一緒に居ることが当たり前になったということだろう。だからこそ、俺もお前を疎かにしてしまったんだ……」
響は俺の手をぎゅっと握った。
「でも……司令官はそのことに気が付いてくれた……。私を迎えに来てくれた……。とっても嬉しかったよ……。これからも……ずっと一緒にいようね……」
それを聞いて、俺はなんだか照れくさくなった。
「だが、いつかお前は俺が嫌になるだろうよ。思春期の娘みたいにさ」
「私はならないよ。司令官が大好きだから」
「今はそうだろうが……」
「ならないよ。絶対ならない」
「どうだかな」
そう言うと、響はムッとした顔を見せた。
何だかデジャヴだ……。
「絶対ならない!」
響は身を乗り出してそう言った。
「わ、分かった分かった……。悪かったよ」
「全く……」
あの時もこうしておけば良かったのだろうな。
でも、今回の事があったからこそ、お互いの存在がどんなものなのかを再確認できたのかもしれない。
「何を喧嘩してるんです?」
鳳翔は慌てて出て来たのか、髪を濡らしたまま居間へと戻って来た。
「いや、なんでもない。な、響?」
「何でもあるよ! 司令官ったら、私が司令官を嫌いになるなんて言ってるんだ! 絶対そんな訳ないのに!」
響が怒りながらそう言うと、鳳翔は大いに笑った。
「な、なに? 何か変なこと言ったかな……?」
「ウフフ、ごめんね。なら家出なんてしないのになぁって思っちゃったの」
「そ、それは……ついカッとなって……。それに……」
「それに?」
「……家出したら……気を引けると思って……。でも……今回は後戻りできなくなっちゃって……」
それを聞いて、再び鳳翔は大笑いした。
「鳳翔さん笑い過ぎだよ……」
「ご、ごめんね。でも……ウフフフフ」
「それくらいにしておけ。分かったよ響。嬉しいよ」
撫でてやると、響は恥ずかしそうにムッとした顔を見せた。
それから連休のほとんどを響と鳳翔との時間に使った。
それこそ、おはようからお休みまで、ずーっと一緒に居た。
と言うのも、響が離れることを許してくれなかったのだ。
「司令官、何処へ行くんだい?」
「トイレだよ」
俺が少しでも離れると、響はどこへ行くのかと聞いてきた。
いくら一緒に居ることが特別だと再認識したとはいえ、ちょっとしつこくないか?
「ふぅ……」
風呂で一息ついていると、響が入って来た。
「うお!?」
「一緒に入ろう、司令官」
響は返事を待たず、ずかすかと風呂に浸かった。
体を洗えよな。
って、そこじゃないか。
「お前、恥ずかしくないのか?」
「何が?」
「一緒に風呂に入ることだよ」
「恥ずかしくないよ。司令官の事が大好きだから」
そう言う響は、俺と目を合わせることをしなかった。
「……お前、本当は恥ずかしいんだろう?」
「恥ずかしくないよ……」
「……さては、鳳翔に笑われて無理してるな?」
そう言ってやると、響は目を泳がせた。
通りで最近、しつこいと思ったら……。
「別に無理に一緒に居ようとしなくてもいいよ。普通にいつものように振る舞ってくれ」
「でも……そうしないとまた特別な事を忘れちゃうような気がするんだ……。それに、嫌いになりたくないんだ……」
「そう思ってくれている内は大丈夫だ。俺も大げさに言い過ぎた」
ここまで意地になって好きでいてくれるのは嬉しいが、本当の本当に嫌いになられた時が辛いな……。
なんやかんや言って、やっぱりいつもの感じが一番いいのかもな。
「だから、無理にこうしてもらわなくていいよ。流石に一緒に風呂はちょっとやり過ぎだ。いくら親代わりとは言え、お前も成長してきているんだから……」
「……えっち」
「どっちがだよ……」
そう言ってやると、響は何故か嬉しそうに笑った。
いつも見せる笑顔と同じに。
多分、こいつも気づいたんだろうな。
いつもの感じが一番だって。
「まあ、たまにはいいかもな。本当にたまにだけど」
「フフ、そうだね」
いつか「いつもの感じ」が形を変えることは間違いないだろうけれど、またこうしてお互いに笑っていられればいいな。
だがまあ……とりあえず……「洗濯物は別にして!」に耐えられるようにはしておかなければな。
笑っていられるように……。
――続く