Plains Walker -次元世界遊歩道中- 作:sasandra
アイシャの先導に従って、俺達は樹海の中を進む。アイシャは俺達が迷い込んだこの場所を『深樹界』と言っていた。その名にふさわしく、アイシャに従って進むようになってからも、見える景色は木々ばかりで全く変わり映えしない。俺には自分達がどの方向に進んでいるのか全く見当がつかない。一体、アイシャはどんな方法でもって、自分が進んでいる方向を見分けているのだろうか? 今は急いだ方が良い状況だが、かといって道中の会話ができないほど切羽詰まってるわけでもなった。気を紛らわすついでに彼女に疑問を訪ねてみると、
「うーん。森の中の所々に、『魔力の澱』のたまり場があるのよ。場所によって感じられる魔力の質が違うから、私達はその差を感じ取って、今どこにいるのか判断してるのよ」
アイシャの言葉の中に、聞き逃すには少々不安な言葉が混じっていた。
「『魔力の澱』!? それって体に悪影響があるんじゃ?」
「女王様が言うには、私達、妖精の祖は、女神様と一緒に流れてきた種族ではなくて、もともとここ『深樹界』のような場所に住み着いていた祖霊の流れを汲んでいるそうよ。そのおかげか、私達には特に害もないみたいね」
というようだった。『魔力の澱』の事を聞いたときは、以前、アルノーゴ樹海に分け入る時に聞いた事を思い出して、少し背筋がヒヤりとした。だが、まだ何週間も入り浸っているわけでもないし、目下の安全を確保できるまでは気にしても仕様がない問題だろう。
時折言葉を交わしつつも、方向を完全に把握しているであろうアイシャに続くこと約十数分。生える木々に少し変化がみられるようになった頃、アイシャが俺達に警戒を呼び掛ける。
「もうそろそろ私達の『森』につくわ。どこに『魔物』が居るかわからないから、みんな気を付けて!」
「『妖精の森』はまだ無事なのか?」
「ええ。まだ女王様の魔力が感じられるわ。もうしばらくは持ちそう」
がさがさと茂みを掻き分けて進むと、何やら目の前に薄い幕のようなものが広がる場所へと出た。その『幕のようなもの』は、俺達が今いる『深樹界』へと迷い込む前に見た、ドミトリが『次元』がなんとか、と言っていた現象のものと似ているように見えた。あの時は青い色をしたベールのようなものが、辺りを万遍なく覆い隠す現象だった。だが、今目の前に見える光景は、それよりかは静かな現象のようであった。『幕のようなもの』は濃い緑色の光を出しながら、弱いながらも波打っていて、さながらオーロラのようであった。
「主、近づくのは……」
近づいていく俺を、ヴァンが静止するも、その時の俺には耳にはいらなかった。ゆっくりと緑の幕に近づいて、手でなぞる。手で触った場所から波が広がり、周りへ伝わっていく。アイシャが言うこの結界は、幕のようでもあったが、触ってみると水面を想起させた。不思議と安心感がわいてくる。
その時。
――トクン
何かが俺の中の《声》に響いたような気がした。手を胸に当て、自らの内に思いを馳せる。
「ワタル、どうしたの?」
アイシャが俺の様子を不思議に思ったのか、そばに近づいて尋ねてくる。
「ワンワン!」
「主、どうやら敵が現れたようですぞ」
アイシャに、さきほどのつかみどころのない感覚を説明しようとしたが、相応しい言葉を手繰り寄せられずにいる間に、ロウとヴァンからの警告で注意がそれてしまった。
クレスが俺達を遮るように進み出る。彼の進み出た方向、そのさらに奥を見ると、ちょうど茂みから、小学生くらいの背丈の人間が2人出てきたところだった。その2人は、大きさはそれほどではなかったが、人間の子供と評するにはいささか醜い人相をしていた。肌は苔がびっしり生えているかのように薄い緑色をしていて、顔面には顔のパーツが不恰好に配置されていて皺が寄っている。頭には髪の毛が一本も生えておらず、禿げあがっている。側面には、顔面の大きさには不釣り合いなほど大きい耳が、斜め上方向に突き出ていた。口は大きく裂けていて、尖った不揃いな歯がむき出しで、薄汚れてるのが遠目からでもわかる。そいつらは上には何も羽織っておらず、せいぜい布のぼろきれと呼べるようなものを腰に巻いているだけだった。手には、先端に動物の骨らしき尖ったものをくくりつけた、粗末な木の槍を持っている。空いているもう片方の手で俺達の方を指差して、俺には全く理解できない言葉を早口で互いにまくし立てている。見るからに嫌悪感を想起させる醜悪な魔物であった。だが、以前アルン村でヴァンが倒した《魔物》に似たようなヤツがいたはずだ。
「もしかして、ゴブリンってやつか?」
俺が値踏みしている間に、茂みから、さらに帽子を被った似たような個体が現れた。そして、3人揃ってさらに激しく俺達の方を指して騒ぎはじめた。最後にゲラゲラと笑ったあとに、ゆっくりと俺達の方へ寄ってきた。
「やだ、何なのコイツラ。気持ち悪い……」
見た目がいかにも汚らわしいゴブリンに対して、アイシャも俺が感じた同様の嫌悪感を抱いたようだ。今はヴァン達――クリーチャー達――が居るので、危機感は感じない。だが、それでもあまり長く見たいとは思えない魔物だった。
「クレス」
「あんな貧相で汚い奴ら、相手にしたくないんだが」
俺が言わずとも命令を理解しているのか、クレスはぶつぶつ言いながらゆっくりした足取りで迎え討ちに行く。彼は左手を小刻みに振ると、彼の周りを浮いていた【神聖なる好意】の3枚の盾が放射状に並んで広がった。そのまま3枚の盾はゴブリンに向かって、宙を音もなく移動する。対するゴブリンは、当初のへらへらしていた呑気さはどこにいったのか、急に迫る盾に慌てだした。そして、あっという間に3匹とも同じタイミングで盾に地面に押さえつけられてしまった。小柄なゴブリンでは、盾は彼らの半身に相当する大きさで、ジタバタしても逃れることは適わない。クレスはギャーギャー喚き散らすゴブリンの1匹に近づき、足を振り上げて思い切りゴブリンの顔を踏み砕く。
「うえっ」
アイシャから、その可憐さには似合わないうめき声が漏れる。クレスは、仲間を倒されて余計に騒ぎだすゴブリン達を気にも止めず、淡々とトドメをさしていった。既に踏み砕かれたゴブリンの死体は黒い泡に包まれて、縮みだしていた。3人とも黒い泡に変わって消え去り、跡に残ったのは、2枚の濃い色をした札だ。クレスはその札を拾い上げると俺の方へ戻ってくる。
「マスター、こんなのが出てきたが」
「ああ、まさかとは思ったけど、ううん……」
俺は煮えきらない返事を返さざる得なかった。それは、いくつかの推測が短い間に頭の中に湧き上がっては消えていったからだ。まず、ゴブリンのやられた後の変化が、アルン村での浄化の儀式で見た《災厄の流星》の魔物、いや、クリーチャーのものと全く同じだったこと。次に、やられた後に2枚の呪札――マジックのカードのことだ――が残ったこと。このことから、あの3人のゴブリンの正体が何であったのか、という問いに対する回答は言うまでもないだろう。だが、何故、《浄化の儀式》が行われていないはずのこの地で、マジックのカードを見る事となったのか? 『深樹界』と呼ばれるこの場所について、俺が知る事はまだほとんど無い。俺達の先導人――アイシャならば、何か知っているのかもしれないが……
「ねぇ、アイシャ。これ……」
「ん? 何その札? 見たことないわねぇ……」
「そう……」
アイシャの答えを聞いて、俺の口から出かけていた質問はしりすぼみとなった。今はこの疑問は捨て置くしかないか。
「マスター。新手が来たぞ」
クレスの警告を聞いて、彼が指差す方向を見ると、茂みから馬に乗った騎士が姿を現した所だった。騎士が乗る馬は、真っ白で、鬣が何本も三つ編みに結えられていた。明かりに乏しく、木々の深緑色と土の茶色しか見えるものが無いこの樹海の中では、その白さは一層際立って見える。上に乗る騎士は、聖石騎士団の騎士達が着込んでいたものと比べると、かなり厚手で頑丈な鎧を身に纏っている。その鎧は白馬と同じく、白く輝いていて、背中には鐙に届くほど大きく広がる、白い外套がたれさがっている。手には細くて長い、白いポールウェポンが握られていた。まさに、全身まっしろしろだ。俺の中の騎士っぽい存在ランキング1位が更新されるほどの『THE 騎士』と言った様相だ。最後に白馬に乗っている点が、騎士っぽさにダメ押しをしている。
その白い騎士は、馬の手綱を引き絞って馬を「ヒヒン」と嘶かせてから、一直線に俺達の方向へ駆けてくる。
「少しは歯ごたえがありそうだ。だが、今の俺には適うまい!」
クレスは、手を振って【神聖なる好意】の盾を移動させる。白い騎士にぶつけて、インターセプトしようという腹積もりだ。
だが、白い騎士は、馬の手綱を思いきり引っ張り、勢いを減じつつも馬の駆ける方向を逸らす。急な制動に馬がまた「ヒヒン」と嘶く。騎士は、一旦俺達から離れる方向へ転じる。
「逃すか!」
「なっ、クレス殿」
すると、クレスが突然走り出した。俺達から離れていった白い騎士の後を追いに駆けてゆく。そのスピードたるや、白い騎士が載っていた白馬に勝るとも劣らない。あっという間に、茂みの奥に消えてしまった。ヴァンの静止も届かず、一瞬の出来事だった。
クレスの姿が見えなくなったのと時をほぼ同じくして、ロウが「ワンワン」と激しく吠え立て始めた。ロウの向いている方向からさらに新手がやってきたのだ。
それは、地面を這ってやってきた。クレスが追っていった白い騎士と同じく、体は白一色であり、その姿は、周りから際立って見える。体は蛇の様だったが、俺の世界でいう『蛇』とは大きさがかなり違っていて、目の前のコレは俺の世界の『蛇』よりもかなり大きく見える。例えとして、俺の世界のアマゾンにいるニシキ蛇は、時に人の腕以上の太さの個体がいたりするが、コイツの大きさはそういう次元の話ではなかった。オチにもならないが、唯一の救いである点は、【甲鱗のワーム】ほどの見上げる高さではないという点ただ1つだけだ。【甲鱗のワーム】とは違い、この白蛇の先端は槍のように鋭く尖っている。体も、『鱗』というよりかは、岩の表面を思わせるようにゴツゴツしていて、とても固そうだ。頭部の外縁には、中空に向かって、円錐形の形をしたでっぱりが植物の根を思わせるように、何本も突き出ている。
その『白蛇』は、手近な木の幹に自らの身を巻きつけてから、俺達の方を睥睨する。体を巻きつけ終わって、ようやく見えるようになった『白蛇』の尾の部分は、頭頂部ほどは見た目が荒々しくは無かった。『白蛇』の体は、尾に向かう途中から2本に分かれていて、その形はアザラシの尾のようだった。だが、体が2本に別れてからも、まだまだ胴体は伸び続けていて、やがて次第に細くなってゆき、終端は植物の弦のようにくるくる巻いた弧を成していた。
この大きな『白蛇』…… どこか俺の記憶にひっかかる。なんとなくだが……
「スリヴァー?」
「キシャアアー」
俺のつぶやきが聞こえたのか『白蛇』、もとい【スリヴァー】は威嚇で返してきた。
「あの長いの知ってるの!?」
アイシャが驚いた様子で俺に聞いてくるが、理由を含めて答えるとなると少々説明しづらい。『白蛇』もとい、【白スリヴァー】と俺達の間にロウが陣取って牽制してくれてるおかげか、【白スリヴァー】はその場から動く様子はない。だが、状況は俺達を安穏とさせておくつもりはないらしい。さらに新しい敵が姿を現す。
「主、あちらにも……」
【白スリヴァー】が居る方向の反対側、クレスが去ってしまった方向から少しだけずれた方から、2人の人間が姿を現した。一人は黄色の衣をまとった、禿げ頭の青年だ。両手に握り拳を作って構えをとったまま、じりじりとにじり寄って来ようとしている。額の部分に何かの文字か、マークのようなものが文様として描かれていて、見た目が某有名バトル漫画の『ク○リン』のように見える。武闘家か何かだろうか?
もう一人は、これまで現れた敵と違い、深緑色をした防具を身に纏った女性だった。肌はやや白く、しなやかな体つきから素早く動きそうな印象を受ける。防具は、ビキニアーマーと言えばいいのだろうか? かなり露出部分が多い防具をつけていて、いやらしい言い方だが、そのセクシーな体を十分堪能する事ができた。肢体の側面には、青い豹柄のような斑点が上から下まで走っていて、顔の外縁にも同じような柄が見られる。耳はとがっていて、黒い髪は短めに切りそろえられていた。手には先端がそった曲刀あり、それを腹にズブリとやりさえすれば、人ひとりなぞ簡単に殺せそうである。注意深く見れば、際立つ特徴が揃った女性だったが、不思議な事に姿全体を視界にとらえようとすると、ぼやけてしまう感覚を覚えた。まるで姿が周りの木々の景色に埋没してしまいそうな『あいまいさ』が全身からにじみ出ているような奇妙な印象を受けた。
2人は微妙に間をあけて、俺達の方へ向かってくる。
「くっ、一度に来られては抑えきれん!」
ヴァンが剣を抜き放って、俺の前に出てくる。ロウは【白スリヴァー】を牽制しているので、その場を動く事ができない。
「主、迎え撃つ準備を!」
ヴァンの警告に、自分が棒立ちだった事に気づく。腰に差した剣を抜こうとするが、こういう時に限って中々抜き出すことができない。
「クソッ……剣が抜けない!」
「主、女の方を【呪文】で……」
剣を抜くのに夢中で、今度は【呪文】で足止めする手段もとれる事が、頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。やはりまだ慣れないか、と内心自身に毒づきながら、手を女性にかざす。
俺にとっては、もう【呪文】を唱えるためのプロセスは簡単なものになっていた。自らの内の《声》に意識を集中し、《声》を選択して、土地へつながるリンクをたどってマナを呼び起こす……っ!?
これまで当たり前のようにできた事だからか、その時の今まで味わったことのない感覚に、俺は意表を突かれた。
「主?」
ヴァン声もどこかにすり抜けて、焦りの中でひたすら同じプロセスを繰り返す。だが、何故か、最後の最後で止まってしまう。
「どうして!? なんで!?」
何故だ? 何故、
「主っ! クソっ!」
ヴァンが、俺が呪文を掛けようとしていた女を迎撃しに飛び出す。だが、『武闘家』の男はヴァンの横をすり抜けて、俺の方へ来てしまった。
直前の時よりも、さらに激しく自分自身を罵倒しながら剣を抜く。今度は意外にも簡単に抜き放つことができた。心臓がバクバク激しく鼓動しているのを感じる。躊躇している余裕など微塵もない。俺は右手に持った剣を、向かってくる『武闘家』にたたきつける。
「っ!」
右腕に強い衝撃を感じる。俺の振り下ろした剣は、『武闘家』の片手で遮られてしまった。刃先が当たっているはずなのに、『武闘家』の腕は固く、傷がついている様子は見られない。
「ってぇ!」
右手を振り払われると同時に、握っていた剣はどこかに飛ばされてしまう。そして刹那の間に、腹に強烈な衝撃を受け、景色が反転する。俺は地面の石や木の根の凸凹に体を打ち付けて、地面を転がる。
やがて勢いがおさまってから、鈍痛で重たい体を必死に動かして、上体を起こす。
世界から音が無くなったかのような錯覚に陥る。アイシャが全身をピカピカ光らせながら、必死に何かを俺に言ってるようだが、今、目に見える光景を認識するだけで精一杯で、彼女の言葉をとらえる事ができない。
俺を吹き飛ばした『武闘家』は…… 居た! 少し離れた所で、構えを解かないまま俺を睨みつけている。再び、俺に狙いを定めて近づいてくる。だが、『武闘家』は視線を俺の後ろの方に移した。
「ガルァアア!」
俺の頭上を飛び越して、ロウが『武闘家』にとびかかる。『武闘家』は不意を突かれたようだったが、上体を逸らしてロウの強襲を回避した。ロウは勢いのまま地面に着地し、四肢を器用に調節して、ブレーキを掛けてドリフトしながら、体の向きを『武闘家』のほうに向ける。
「ガルルゥ」
ロウのブロックのおかげで、『武闘家』の狙いは俺からロウに移ったようだ。ロウと『武闘家』は互いにじりじりと襲い掛かる隙を見計らっていたが、ロウが先に仕掛けた。
ロウは、『武闘家』の四肢のいずれかに噛みつこうとするが、『武闘家』は素早い身のこなしで、危なげにそれを回避していく。この『武闘家』、見切りの能力が優れているのだろうか。ロウは果敢に攻め続けているが、有効な一撃を与える事ができていない。
「主、後ろから【スリヴァー】が!」
慌てて後ろを見ると、ロウが牽制していた【白スリヴァー】が俺の方へすり寄ってきていた。ロウはまだ『武闘家』とやりあっていて、簡単には抜けられなさそうだ。クレスはまだ戻ってきては来ない。
「クソ、主。今すぐに……」
ヴァンは覚悟を決めたようで、女と競り合っていたが、女に急接近をして、相手の腹を剣で貫いた。だが、相手にとってもチャンスだったようで、ヴァンも女に曲刀で腹を貫かれてしまい、お互い差し違える結果となってしまった。だが、ヴァンには【蜘蛛の陰影】をつけてある。エンチャントははがれてしまうが、相手を倒した分、収支はプラスとなるはずだ。なんとか持ち直せそうか、と気分を持ち直していた所に、アイシャの悲鳴が辺りに響く。
「嫌っ。ワタル、血が……」
その言葉は、聞いたことが無いほど絶望にまみれてるような感じがした。『武闘家』にふっとばされて、地面を転がったから、どこかすりむいているかもしれないが、何もそこまでひどい様子で叫ばなくても、と思った矢先だった、
「コフッ」
俺は急に咽せて、口から何かを吐き出してしまった。続いて、えづきが何回も起きる。自然と手を口にあてる。咳き込みが収まって、手の平を見た時、俺は何が起きているのかわからず、我を忘れてしまった。
俺の手のひらに、
なんだ!? 一体何が起こった?
「ワタル…… お腹からも」
アイシャの言葉に下を向くと、俺の着ていたシャツに、赤いシミが広がっていた。手をあてると妙に生暖かい。
間違いない。
血に収まらず、自分からそれ以上の大切なものが失われてるかのように思えてしまい、恐怖に立ち尽くす。
何がなんだかわからない。『武闘家』に殴られはしたが、せいぜい殴打で、こんなに血が出てくるような傷を負うことはないはずだ。
「あ、主…… 逃げ……」
ガシャリ、とガラスが割れるような音がした。声のした方向見ると、ヴァンが俺に向かって苦しそうに叫んでいた。直後、俺の中の《声》に、弱々しい存在が戻ってきた感覚を覚えた。ヴァンにかけた【蜘蛛の陰影】だ。アルン村では、ヴァンがやられる瞬間は見ていない。あの時、彼の姿は家が崩れた残骸に隠れていて、俺のいた結界石の台座からは見えなかった。今、ヴァンは剣を片手で支えにして蹲っていて、大分苦しそうである。
マジックのルールだと、相手プレイヤーへ攻撃し、戦闘を行ったクリーチャーは、そのターンはもう行動する事ができない。この状態を示すために、実際のゲームだと、クリーチャーカードは『タップ』されて(カードを横にする行為の事を指す)、行動済みである事を示す事がルールで定められている。あのヴァンの苦しみは、彼はすぐ動きたいのだが、それができないが故の『もがき』のような印象を受けた。だが、それを抜きにしても、【蜘蛛の陰影】の効力は、通常は死んでいる現象を『無かったこと』にするのだ。何某かのデメリットが存在していてもおかしくは無い。
「主!」
思考が脇に逸れそうだった俺の意識を、ヴァンの叫びが繋ぎ止める。【白スリヴァー】はゆっくりとだが、俺の方ににじり寄ってくる。
「くそっ」
ロウと『武闘家』が激しく争うのを横に、ヴァンの居る方向へ駆けだす。今、ヴァンは動くことができないようだが、少しでも生き残れる可能性がある方に逃げるべきだ。今も腹からはじくじく出血が続いている。出血の熱い感覚を、なるべく気にしないように努めるが、吐血を伴なう咳がときどき起こる。『武闘家』にやられた時に喰らった打撲もあり、気を抜くとよろめいて倒れてしまいそうだ。だが、俺はヴァンの脇を見て、結局、倒れてしまった。ヴァンの横、ヴァンが相打ちにした女性が倒れていた場所で、何回か見た現象が起きていたせいだった。
女性の死体はとっくに無くなっていたが、その後にはカードが地面に落ちているわけではなく、緑色に輝いた2つの光が、双子星のようにゆっくりと回って浮いていたのだ。
この光景は、ロウが俺の《声》に戻ってきた時と全く同じだ! まさか、こんなタイミングで、この光景に出くわすとは! 意表を突かれて力が抜けて倒れてしまった。俺の内心に構わず、緑色に輝く2つの光は俺の方向へ飛来してくる。
「ワタル、危ない!」
アイシャもその光を察知して、警戒を促してくれたが、うつ伏せに地面に倒れてしまい、ダメージを負ってしまっている俺には、かわすような余力があるはずもない。
光が目前に迫る。だが、この後、俺に起きる事が今まで通りであるならば、俺にマイナスになるような事ではないはずだ。こちらに向かってくる光を注意深く観察し続ける。
「!」
だが、予想外の事がさらに起きた。2つの光のうち、1つは俺の方に向かって落ちてくるような軌道に変化したが、残りの1つは俺の頭を飛び越えていったのだ。俺の頭を、光が飛び越すのを見送るのと同時に、俺の中の《声》に、新たな《声》が加わった。歓喜にあふれる《声》に意識をやりつつ、俺は飛び越えていった光を目で追う。
俺の視線の先には、ロウが『武闘家』と争っている以外には1つしか存在しない。【白スリヴァー】だ。なんと、あろうことか、飛び去った光は【白スリヴァー】にぶつかって消えてしまったのだ。変化はすぐに【白スリヴァー】に現れた。【白スリヴァー】の体表に、緑色に輝くオーラがまとわりつき始めたのだ。【白スリヴァー】の目は、元々敵意に満ちた目だったが、それが、より一層、殺意にあふれるかのようにギラギラしだした。
「ギシャアアアアアアア!!」
再度、俺達に向かって咆哮するときに、【白スリヴァー】にまとわりついた緑色のオーラから、放電現象のような線がバチリと現れた。今まさに、【白スリヴァー】が纏っている、あのオーラ。単純に考えるのならば、ヴァンがとどめをさした『女』がもともと身に纏っていたと考えるのが自然だ。だが、マジックのエンチャント(オーラ)はクリーチャーが死んでしまうと、クリーチャー諸共、墓地送りになるのが普通だ。膨大な種類を誇るマジックのカードと言えど、その基本ルールを超越するカードは少なく、その正体は絞られてくる。
クリーチャーが死んでしまっても、別のクリーチャーにつける事ができる、普通のオーラとは異なる特徴。
次に、ヴァンがやられた手順をなぞるかのような、俺の腹にできた出血現象。
そして、【白スリヴァー】が咆哮した時に起きた、電気のような放電現象。
これらの特徴・光景は、俺にあるカードの絵柄を思い起こさせる。
「そういう…… ことか!?」