月光が導く   作:メンシス学徒

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前回の更新から約七ヶ月……平身低頭してお詫びします。
構想はほぼほぼ出来上がり、イメージも湧いてくるのですが、それがうまく文章に出力できないと言いますか。
端的に、スランプ真っ只中です。
なんとかして脱出すべく引き続き努力致しますので、どうかお付き合い下さいませ。


※竜船の描写は漫画版準拠で参ります。




09

 

 

 

「古語に曰く、金を散ずるは易く、金を用いるは難し、と。まあ要するに、生き金と死に金の違いさね」

 

 異様な光景が現出していた。

 竜船の甲板上に於いて、である。竣工したてのこの超巨大豪華客船は、それだけに塗料のぬり跡も真新しく、未だ濡れているようで、足元の板敷すら覗き込めば顔を映さんばかりに輝いていた。

 乗り合わせている面々も、それに引けを取らない華やかさである。

 彼らが纏う着物ときたら、その美しさはどうであろう。染み、皺無きは当然のこと、僅かな動作にもいちいち付随する衣擦れの、幽けき音色の心地よさ。これを一聴しただけで、どんな文盲無学の輩でも生地の上質さを自然と察し、我知らず溜息を洩らすに違いない。

 大量生産された粗製品には到底期待し得ない典雅な格調。明らかに一流の職人の手により仕上げられたその服を、殆どの者が指輪、宝石、首飾りにより重ねて装飾しているのである。それも決して全体の調和を乱さぬよう、選りに選った上でのことだ。

 ただ光らせればいいのではない。高価なものをなるたけ多くぶら下げれば良いというのは畢竟成金の発想で、そうした浅慮は物笑いの種として終わらざるを得ないだろう。

 

 ――見よ、あのごてごてしい様を。中身がないゆえ、せめて外観を取り繕おうとする必死さが透けて見えるではないか。

 ――まったくですな、如何に金を掴もうが所詮は重みのない泡銭。気品までは購えませぬ。

 

 およそあらゆる成り上がり者にとって、由緒正しい正当な権力からの承認ほど胸を焦がすものは他にない。

 そんな彼らに対し、この種の侮蔑の囁きはどんなナイフより鋭く刺さった。他愛もないが、しかし人が後生大事に抱えているものなど、傍から見ればいつだって他愛のない、下らぬものであるだろう。心中の秤が個々人によって異なる以上、それは当然のことなのだ。

 

「こうして眺めると、いや、流石は皇帝陛下の御巡幸艦に招かれただけの皆様だ。よく用い方を心得てらっしゃる」

 

 幸いにしてこの竜船上の式典では、斯様に惨酷な光景は生じなかった。出席者は皆、血統に恵まれた面々で、社交界には慣れている。いまさら極彩色の成金趣味をひけらかすほど幼稚ではない。TPOを弁えていた。

 ……まあ、別の方面で趣味を爆発させている輩は居たが。奇行と突飛な物言いで知られるアクアビット水運の社長などは、なんと全身を艶のある甲殻で包んで出席していた。

 左様、繋ぎ合わされた甲殻(・・)である。全体を通して鋭角的で、特に胸部に於いてその特徴が甚だしく、思い切って前へせりだし、これだけでも異様なのに、極めつけはその色彩(いろ)だ。

 眼も醒めんばかりに鮮やかな、水色なのである。

 

 ――それは何でございます。

 

 たまりかねた婦人が訊くと、彼は鷹揚に頷いて、

 

「さる特級危険種の甲羅ですよ」

 

 と答えた。

 

「まあ、危険種の」

「ええ、水底に潜み劫を経て、船を一息に転覆させるほどの力を培った奴でしてな。あと百年も生かしておけば、若しくは超級(・・)に届いたやもと専らの評です。我が縁故が討伐したのを幸い、これは是非ともその生命力にあずからばや、と」

「ああ、聞いたことがあります」

 

 確かそいつは、この大運河を掘削する際、しばしば出没して作業を滞らせた札付きの悪獣ではなかったか。

 水という天然の防弾装甲に守られているため兵卒の装備程度では有効打を与えにくく、手を拱いている間にも人が喰われるわ堤を切られるわで被害が嵩み、とうとう全体の工事予定にすら影響を及ぼすに至ったという。

 が、それが怪物の寿命を縮めた。業を煮やした上層部が多額の懸賞金をかけた結果、たちまち名も無き傭兵達が集結し、やがてその内の一人が見事退治てのけたのだ。

 未来の超級危険種は、未萌のままその芽を摘まれた。

 

「まあ、お上手なこと。――」

 

 かつて帝国を悩ませた怪物が、いまや物言わぬ装束として加工され、帝国の象徴にして最高権力者たる皇帝陛下の船に在る。その御稜威に傅いている。なんという構成の妙であろう、まるで古代の服属儀礼ではないか。

 

 ――ただの変人ではない。

 

 大胆にして繊細、奇抜でありながら同時に大道を踏んでいるこの所作に、多くの賞讃が寄せられた。

 和気藹々としたその雰囲気こそ斯様な祝典には相応しかろうに、

 

(わしの置かれた、この場はどうじゃ)

 

 と、彼――はげあたまの老文官は嘆かずにはいられない。

 彼の立ち位置を中心として、半径十メートル弱の円を描く。その内側に、敢えて立ち入ろうとする出席者は誰一人としていなかった。

 まるでそこに、見えない断崖が口を開けているかのように。うっかり直視すれば自分も引き摺り込まれかねないと恐れてでもいるかのように、ちらちらと、横目で覗き見るような視線を時折送ってくるばかりであった。

 

(さもあろう)

 

 その気持ちはよくわかる。彼自身、叶うのならば今すぐ此処から逃げ出したくてたまらない。空間の緊張が臨界に迫り、今にも血飛沫を噴き上げそうな、こんな場所に留まりたいと願う者など余程の狂人を除いて皆無であろう。

 

「しかしながら、金銭などより更に、更に。運用が難しいものが世にはある」

 

 そして、他ならぬ彼が招いたコジマ・アーレルスマイヤーという人間は、不幸にも「余程の狂人」としてカテゴライズされるべき人種であった。

 この、雪をも欺きかねない真っ白な皮膚の持ち主は、場に蕭殺とした雰囲気が醸し出され、寒風吹き荒ぶが如き景況になればなるほど、却って生き生きするらしい。諸君、それが何かお分かりかな、と問う姿は、仕入れたばかりの新知識を父親に披露したがる童女のようにあどけなかった。

 しかし、彼女がじゃれつく相手は温和な父親などでは決してない。

 

「どうなされた、先刻から(おし)のように黙りこくって。貴公らに訊ねているのだがなあ、何処ぞに声帯を置き忘れて来たのかね。それとも舌が液状化でもしたのかな、」

 

 ――三獣士のお歴々、と。

 焦燥、呵責、慙愧、赫怒。あらゆる憤懣怨恨が丹田下にて発動機(モーター)さながらに急旋し、ために血液の逆流を呼び、誰であろうと直視する勇気を失くすほど凄まじい顔色を呈している帝国軍きっての修羅連に向かい、コジマは天使のように微笑んだ。

 

 

 

 

 何故斯様な、情けない仕儀と相成ったか。暗殺対象を目前に控えながら一指も触れることが許されず、間抜け面を天日に干され、ひたすらに歯を軋らせるだけが能の無為無能な置き物然たる立場にまで追い込まれたか。

 

(決まっている)

 

 コジマだ、すべてコジマが悪いのだ。開幕一番、先天性白皮症(アルビノ)めいたこの狂女が彼らを暗がりから摘出したのがあらゆる過誤の元凶だ。

 なんでこんな処にいると、叫べるならば叫びたい。お前の趣味は犯罪者の摘発と内部粛清の二つだろう? 酒より血に酔うのだと、かつて言っていたではないか。大人しく街路に死体を吊るしていろよ頼むから。

 

(こいつさえ乗っていなければ――)

 

 今頃ニャウの吹き鳴らす優雅な旋律を愉しみながら、この禿頭を熟れた西瓜さながらに、あっさりかち割れていたろうに。それが彼らの共通認識に他ならず、つい先ほどまでその未来図に疑いを差し挟む余地など寸土たりとて見出せなかった。

 ところが現実はこうである。のっけから完全に躓いた。いつもの軍装の上からローブを着込み、フードを被って顔を隠して竜船に乗り込もうとしたところ、

 

「いよう――」

 

 だしぬけに、頭上から大音響が降ってきた。

 三獣士は、あとあとこのときのことを振り返ってみると、どうにもおかしい。面妖である。まず、あれだけの――鼓膜が吹き飛び脳を攪拌されんばかりの声量を叩きつけられたにも拘らず、周囲にあった群集どもの無反応ぶりはなんであろう。自分達以外の誰もが知らぬ顔の半兵衛をきめこみ、少しも視線を泳がせなかった。

 むろん、耳を塞ぐ気振りも見せない。

 

「――三獣士の御三方。妙なところで出会うじゃないか、なんだ、どうしたその格好は。黒魔術の儀式に誘われでもしたのかね? 水盆の上で不吉な鐘でも鳴らすのか?」

 

 声は、更なる異常性を孕んでいた。

 二方向(・・・)から聴こえるのである。天そのものが一個の巨大な拡声器と化し、霹靂のように凛々と打ちつけてくる一方で、その正反対、背後から耳の産毛をくすぐる程度にそっと囁かれている実感がある。触れれば、耳殻がわずかに濡れていた。湿り気のある熱い吐息を間近で受けたとしか思われない。それはもう、唇が触れるほどの近さで、だ。

 

「ンだおい、なんだよこりゃあ――!」

 

 白昼夢としか思われないこの倒錯した感覚に、激しく反応したのはダイダラだった。目力もいっぱいに、地面に焦げ跡が生じるほどの勢いで反転し、運悪く背後を歩いていた水夫に腰を抜かさせた。

 たちどころに股ぐらが濡れ、湯気が立ち、アンモニア臭が漂った。ダイダラは露骨に顔を顰めた。どう見ても無害な一般人である。

 

「むごいことをする」

 

 この時点で隠匿性などずたずたに切り裂かれていたといっていい。脈絡もなく突然虚空に向かって叫び上げ、血走った眼でわけのわからぬ運動を披露した彼らは必然周囲の耳目の的であり、穴が開くほど見られている。景観に溶け込むべき暗殺者が、これ以上ないほど景観から浮いてしまった。こうなればもう、暗殺など痴れた戯言でしかない。

 

(なんという失態、主の任務を――)

 

 血が、氷水と入れ換えられたようだった。

 エスデスに心からの忠誠を誓う彼らにとって、最大の恐怖とは死にあらず。絶対と信じ、至高と奉じた彼女から失望され、路傍の石と扱われることに他ならない。

 同じ任務失敗にしても、このしくじり方は致命的だ。敵と刃を交えるでもなく、正体不明の声によって惑わされ、狼狽のあまり自滅したなど報告出来るものではない。愛想を尽かされないと考える方がどうかしていた。

 その戦慄が、老練なリヴァの脚をしてさえ硬直せしめ、三獣士はついに逃げ出す機まで失った。

 

「北で満喫した戦の火照りが、まださめやらないでいるのかね? だとしても、いたずらに無辜の民草を驚かせるのは感心しないな」

 

 甲板上から、わっと悲鳴が迸る。

 

 ――落ちた、落ちたぞ。

 ――焦るない、身を躍らせたのは長官だ。

 

 乗客達が盛んに咆えていたのだが、三獣士の耳にはぶ厚い水の層を隔てたようにくぐもってしか聴こえなかった。それに対し、どういう反応も示せないのである。

 彼らを包む茫然自失という名の液膜。神経の麻痺効果を含んだそれはしかし、とん、と、重力に反して羽毛の如く軽やかな着地を果たした女の姿で、いっぺんに弾き飛ばされた。

 

「貴様――」

 

 合点がいったのである。

 なるほど、こいつならば納得だ。この女郎(めろう)ならやれる(・・・)やる(・・)。自分達に不様を晒させた主犯と見て相違なく、動機も能力に関しても、心当たりがあり過ぎた。

 

「そうだ、私だ」

 

 彼らの直感を、あたかも承認するかのように。

 コジマ・アーレルスマイヤーは、滴るような愉悦の相を突きつけた。

 

 

 

 

 そこから先は、なし崩しである。コジマは背を押すような強引さを発揮して、三獣士の身柄を一挙に甲板上まで運び上げてしまったのだ。

 

「やあやあ、申し訳ない。勝手な中座の無礼を詫びます。なにぶん馴染みの顔を見つけたもので、つい居ても立ってもいられなくなり」

 

 そうして引き合わされた相手を見て、三獣士は思わず声を上げかけた。やや腰の曲がりかけたこの老人は、間違いない。彼らが抹殺するよう仰せつかったターゲットではあるまいか。

 

(こいつ、こいつ、こいつ、こいつ、こいつ!)

 

 この瞬間、コジマの意中はすべて読めた。なんと悪辣な計画であろう、よりにもよって三獣士というエスデス軍きっての猛獣をして、犬神(・・)の儀式に具する気なのだ。首から下を地面に埋められ、その前に餌を置かれた犬と、暗殺対象を目前に控えながら一指も触れられない今の彼らの状況は、驚くほどに符合する。

 これほどまでに虚仮にされ、誇りを傷付けられたことはかつてない。思わず視界が真っ赤に染まり、帝具に指をかけようとしたニャウであったが、寸前でリヴァに手首を掴まれ、止められた。

 

(よせ。手遅れだ)

 

 体温を通して重厚な、渋味がかった彼の声が伝わってくるようである。

 

(わかってるよ、そんなこと!)

 

 既に前提は崩壊した。ただ命を奪えばいいのではない。暗殺の罪をナイトレイドに擦り付けるのが本任務の欠くべからざる要点であり、ここからそれを達成しようとするならば、前回までと同様に目撃者を全員始末する以外に術がなく、しかしそれはあまりに無理な相談だ。

 元大臣や文官にくっついていた護衛兵どもを始末するのとはわけが違う。目下竜船に乗り合わせている客達は、例外なく富豪であり、資本家であり、或いは貴族階級の出身だ。帝国の経済に寄与するところ巨大な彼らを一時に消そうものならば、大混乱は避けられまい。大臣の懐に流れ込む金穀も、間違いなく滞る。そのまま二度と回復しない可能性とて多分にあろう。

 そも、商人どもが手を擦り合わせてオネストの前に進み出て、せっせと袖の下を通すのは、彼に人間的愛着を感じているからでは全然ない。身の安全を図り、あわよくば仕事が円滑に運ぶよう、あれこれ融通を利かせて貰いたいがためである。

 これまでオネストは、その要求におおむねよく応え続けた。彼の政治思想の骨子は、上流階級を堕落させ、放蕩に溺れきった腑抜けとし、下層階級を無智無識の畜獣ならしめる、ということにある。

 

 ――快楽の湯に浸かりきり、骨までふやけた人間は、夢寐にも叛逆を思いません。帝都はもっと、徹底的に艶彩迷酒(えんさいめいしゅ)の歓楽郷と化すべきです。

 ――土を耕すのに文字は必要ありません。すべて習慣で事足ります。敵を殺すに至っては、倫理の源たる学識など却って有害。原始人的な獣の暴威さえあればよろしい。

 

 おそるべき信念といっていい。

 なるほど庶民が畜獣ならば、これを如何にこき使おうが生きたまま皮を剥いで上がる悲鳴を愉しもうが、まるで問題はないだろう。様々な伝手を通じてオネストの「信念」に触れた権勢家達は、これに憤り、対抗しようとするよりも、むしろ彼の望む人間像に近付くべく積極的に堕落した。

 そして実際、そのように振舞っている限り、オネストが彼らに危害を加えることはなかったのである。

 

(これはいい)

 

 ここに一つの信頼関係が成立した。醜悪で、腐敗臭芬々たることこの上ないが、それは確かに信頼だった。無辜の民草を面白半分に痛めつけ、彼らの汗と努力の結晶を容赦なく搾取し、奢侈に耽っている限り、自分達は安泰であろう。少なくとも、大臣(うえ)から攻撃されることは有り得ない。――…

 人間のあさましさと言うべきか、一旦堕ちると決めたなら底なしである。最初は保身目的の、いわば擬態として享楽していた者でさえ、気付けばすっかり染まりきり、小オネストと呼ぶべきモノに変身していた。この類の肉塊が群をなして台閣に蔓延り、人間性を退廃させる方法について朝から晩まで語り合い、結果現出したのが例の落首の世界である。

 もしコジマの長官就任があと一週間も遅かったなら、近親姦とそれに纏わる行為の全面的な合法化、及び国を挙げての奨励という、耳を疑ぐる政策が堂々発布されていただろう。

 ついでながらその後は、十八歳以上の童貞・処女の存在を刑罰化する心算であった。

 

(沙汰の限りだ)

 

 ゆくゆくは全帝国民の頭蓋に啓蒙を植えつけたいと念願しているコジマにとって、こんな風潮は到底肯んぜられるものでない。

 

(仮にも一行政機関の長たる私が、立法府にまで首を突っ込むということは、あまり好ましからざる行為だが)

 

 既にそんな、原理原則に拘泥していられる状況ではない。権力の分立などは、泰平の世が成立してからのんびり図ればよいであろう。むしろ全権を掌握した独裁者たるべしと意を決し、コジマは敢然、政争の渦へと身を投じ、以来こんにちにまで続いている。決着は未だ定まらず、一進一退、三歩進んで二歩下がるを繰り返している。

 ところがここで、三獣士による上流階級の大量虐殺などが起きてしまえばどうなるか。

 ビラを撒く程度の偽装工作は通用しない。連続文官横死事件の真犯人が誰かなど、多少なりとも消息に通じていれば容易く察し得るものだ。大臣が営々築き上げてきた信頼などは積み木細工より容易く崩れる。損得の帳尻が合わないどころの騒ぎではなく、支離滅裂の極みであった。

 第一、鏖殺自体がそう上手くいくか、どうか。

 

(もし敗れ、死体を改められようものならば――)

 

 暗殺をナイトレイドの仕業に見せかけるための、偽作した斬奸状が懐にごっそり詰め込まれたままである。

 陰謀の、決定的な証拠であった。

 これがコジマの手に渡れば、彼女のことだ、えたり(・・・)とばかりに膝を打ち、喜悦しながら大攻勢をかけるだろう。必ず主を煩わせる。その未来だけは、何が何でも、どんな代償を支払ってでも防がねばならない。

 

「…………人、でしょうな。金を用いるは易く、人を用いるは難し」

 

 例えそれが、コジマの衒学趣味に付き合わされるという屈辱的なことであっても。

 火を噛むような思いで耐え忍び、リヴァは答えざるを得なかった。

 

「如何にも然り、その通りだとも。流石は元将軍閣下、腕のみならず頭も回る。部隊の指揮を任されるのも納得だよ」

「勿体なきお言葉」

 

 態度だけは恭謙に、よくできた執事のように繕ってみせて、しかしこみ上げる不快感をどうしようもない。

 この男はかつてその高潔さゆえに、政争に勝利し大臣の位に就いたばかりのオネストに対して賄賂を送らなかった過去がある。

 

(あんな男の機嫌奉仕など、出来るものか)

 

 そういう腹であった。

 が、それが彼を没落させた。オネストを中核とする新政権下にあっては、腐敗を拒むこと、高潔で在り続けようとする以上の罪科はない。

 たちまち身に覚えのない罪を着せられ、法廷とは名ばかりの蛇の巣に引き据えられてふくろだたきに処せられた。こうなるともう、名誉も功績もあったものではないだろう。万軍を指揮した将軍は、なんという運命の変転か、あらゆる誇りを切り刻まれて薄汚い獄へと叩き込まれた。

 そのとき芽生えた怨嗟の念は、そう易々と消えたりしない。

 官僚嫌いが骨髄に徹するのも無理はなく、そんなリヴァからすればコジマの迂遠な物言いは、正しく嫌悪するところの官僚的お役所言葉でしかないのだろう。

 

「人を用いるは難し、而してまた、圧するは易く、服するは難し。――」

(さっさと本題に入れ)

 

 朗々と吟ずる女に向かって、そう怒鳴りたくてたまらない。長大な迂回路を取りながら、どうせ最後は自分達への厭味に行き着くに決まっているのだ。

 そう信じて疑わなかったからこそ、続く言葉は以外であり、不意討ちだった。

 

「この点、私はエスデスが羨ましい」

 

 と、言うのである。

 

「あいつはこの、本来最も難しいはずの人をして服さしめる(・・・・・)ということを、いとも容易くやってのける。それも、金も言葉も必要とせずに、だ。ただ同じ釜のめしを喰えばいい。三日も続けば充分だ、もう彼女の号令一下、喜んで死に就く命知らずが出来上がる。死兵化(・・・)する(・・)。そういう理屈を超えた人間的魅力に富んでいる」

 

 なんというずるだ、英雄め――と、コジマはどこか喜ばしげに、夢見るような表情で毒づいた。

 しかもどうやらその不一致に、本人だけが気付いていない。

 

(これは、なんたることか)

 

 三獣士が愕然としたのはその有り様があまりにも、コジマについて語る主人に酷似していたためである。エスデスもまた、矯正(・・)という彼女にしては穏当すぎる単語を用いた違和感を、毛ほども自覚出来ていなかった。

 やはりこの二人の精神には、どこか深い部分で相通ずるものがあるらしい。

 

「いやいや、長官の部下とても」

 

 口を挟んだのは、禿頭の文官である。

 広闊な額いっぱいに、玉のような脂汗が浮いている。日は天頂に差しかかり燦々と降り注いでいるものの、汗ばむような陽気ではなかった。

 気温ではなく、心理的圧迫から出た汗であろう。目の前に立つ男どもが、どうやら自分を殺す目的でやってきたらしいことは彼にも察しがついている。

 

(とすれば、こんな護衛どもは紙屑じゃ。何の役にも立ちはせぬ)

 

 頼みの綱はコジマ・アーレルスマイヤーただ一人であり、彼女の機嫌を取るためならば、どんな媚でも売ろうという気になっていた。

 

「その指揮の高さ、一糸乱れぬ統率された振る舞いは、まことに名高いではありませんか。帝都警備隊かエスデス軍か、これは甲乙付け難しと我らの間でも専らの評ですぞ」

「私が生きている限りはそうでしょう」

「えっ、生きて――」

「はい。死ねばどうなるかわかりません」

 

 十中八九――身内の贔屓目を入れても四分六で崩れるのではあるまいか、とコジマは正直な観測を口にした。

 コジマを押し上げることによって自らの運をも切り拓き、以って栄光に浴せんと望む健康な野心こそ帝都警備隊の原動力に他ならず、言ってしまえば契約的・功利主義的なにおいが強い。

 こういう組織はどんなに精強であったとしても、報酬を約束した首領株が斃されれば脆いものだ。途端に夢も酔いも醒め果てて、蜘蛛の子を散らすように去ってしまう。

 背中に突きつけられた銃口の冷たさが消えたなら、督戦隊など逃げ散るに決まっているではないか。

 

「だが、エスデスの士卒は違う」

 

 万が一、億が一にも征途半ばで彼女が斃されたとしても、意気阻喪など有り得まい。残された者達はわれ死に遅れたりと痛憤し、大将亡き後の世界に何の楽しみが残れりやと咆哮し、後を追うべく敵陣へ突っ込んで行くだろう。自殺的どころではない、完全に死ぬための突撃を、一つの軍団が塊になって行うのである。

 心魂を貫く歓喜の中で逝くだろう。相対する側にとって、これほどの悪夢も他にない。

 

「忠誠心と言うより、もはや個人崇拝の域ですな。妬けますよ、私の部下でそれだけのことをやってくれる者はせいぜい五十人にも届かない。あとは皆、」

 

 そこまで言うと、コジマはぱっと拳を開いてみせた。逃げます、ということだろう。

 

(わかっているではないか)

 

 気をよくしたのは三獣士である。人間、危害を加えられると信じていた相手から思いもかけず手厚く遇されたりすると、必要以上に恩義を感じてしまうものだ。彼らのような男でさえもコジマの薄い唇から紡ぎ出される主人に対する賞讃に、胸が膨らむのをどうしようもない。

 

 

 

 

 常のコジマ・アーレルスマイヤーであったなら、ここで矛を収めていたろう。式典が終わるまでなし崩し的なこの雰囲気を持続させることに注力し、悠々帰途に着いていた。

 

(別段、私が力を揮うまでもなく)

 

 三獣士は始末されるに決まっているのだ。ナイトレイドがそれをする。彼女の瞳は最初から、透明化して竜船に乗り込んで来たブラートの巨躯を捉えていた。

 重ね合わされた次元の彼方、超深奥を透かし視る神秘の探求に比べれば、たかだか光学迷彩を見破る程度児戯にも等しい。それを承知で見逃したのは、そうした方が我に利である、と判断したからに他ならない。

 

(勝手に名を使われた報復に来たか。そら、貴様らの狙っている連中は曝け出してやったぞ感謝しろ)

 

 都合のいいことにナイトレイドは二人組み。ブラートの他に、手配書の出回っていない少年がいる。

 ならば岸に下り次第、一人が三獣士の尾行を続け、もう一人が急行し、増援を引き連れて来ればいい。自分ならまずそうするし、彼らもきっとそうだろう。後の話は簡単だ、数で劣る上に奇襲を受ければ如何な三獣士とてどうにもなるまい。必ず、死ぬ。全滅する。

 

(出来ればナイトレイドにもそれなりの被害を与えてから死んで欲しいが。まあ、そこは彼らの根性に期待だな)

 

 斯くしてコジマは何の労力も支払うことなく三獣士を片付けて、憐れなはげあたまの文官も命が助かり、万々歳で終わる――はず、だったのだ。

 

「で、だ」

 

 少なくとも、続く言葉をコジマが口に出さない限り。

 

「そんなエスデスに服すること厚き兵士の中でも飛び抜けて熱烈な貴公らが、揃いも揃って此処に居る。――当然、独断ではないのだろう?」

 

 三獣士の顔筋が、にわかに緊張を取り戻した。

 それだけでもう、自分の発言が如何に有害無益な代物か、わかりそうなものである。

 しかしコジマは、エスデスについて語り過ぎた。

 喋れば喋るほど、彼女の意識下で玲瓏としたあの美貌がはっきり像を成して行き、いまや三獣士の背の向こうで佇む姿が見えている。いつものように傲然と、胸を反らして腕を組み、微風(そよかぜ)に髪を靡かせている。

 

(なんぞ、きさま。――)

 

 お定まりの幻覚だと承知しながら、灼熱するはらわたをどうしようもない。鎮静剤の用意を怠ったのがいけなかった。後悔しても、既に後の祭りである。高まる熱に憑かれたあまり、つい、無用なあてこすり(・・・・・)を続けてしまった。

 

「咆えろと言われた時に咆え、噛めと命ぜられた相手に脇目もふらさず跳びかかる。その代わり、指示がなければ微動だにせず黙って頭を伏せておくのがよく調教された犬としての習性だ。あいつの指示なく、勝手に膝下を離れるなど有り得まい。はてさて今日は、ご主人様からいったい何を言いつかったのかな?」

「てめえ!」

「控えろ、無礼者がァ!」

 

 噴火した。

 三獣士が、である。噴火としか表現の仕様がないほどに、彼らの怒気は凄まじかった。この瞬間、コジマの構想も音を立てて崩れたとみて構わない。

 

「はン」

 

 が、彼女は落胆もせず、更に言った。

 

「態々てめえらで獣と名乗っておきながら、犬呼ばわりされた途端に激昂かね。滑稽だ。むしろ犬の(サガ)あると言われたことを喜べよ、尻尾の一つも振ってみせろい」

 

 西方、アーレルスマイヤー領の訛りが出ているあたり、平常心をなくしている証拠であろう。

 とまれ、ここまで虚仮にされてしまった以上、三獣士としてはコジマを殺すより外に道がない。

 即座におっぱ(・・・)じめ(・・)なかったのは、やはり懐に感じる書類の重みと、圧迫感に耐え切れず老文官が上げた悲鳴に因っている。

 

「ひいぃーっ」

 

 精神のどのあたりが破れたものか、首を絞められた鶏のように一叫すると、この老人はよちよち(・・・・)と、正に鳥そのものの足取りで以って駆け出して、そのまま船外に身を躍らせようと試みた。

 船は都市部を離れ、緩やかに波を切りつつ航行している。

 落ちれば当然、死ぬであろう。しかし彼にとっては船上よりも、水底の方がまだ安全と判断されたに違いない。

 結果的に護衛の黒服に取り押さえられ、彼の「脱出行」は失敗したが、この狂態がコジマの昂りをにわかに醒ました。幻影は銀の霞となって消え、たちまち現実がやって来た。

 

(やりすぎた)

 

 と、思わざるを得ない。

 見れば、三獣士の目が完全に座りきっている。

 一線を越えた目であった。こういう輩が仕出かす行為はいったい何か、コジマはようく心得ている。

 

「我々が何故此処に居るか。そう訊かれましたな」

 

 ()の意識から復活した文官が元の位置に戻るなり――医務室に行かれますか、と訊ねられたが頭を振った。針の莚どころの騒ぎでないが、コジマから離れるのはもっと怖い。こうなればいっそ、シャコ貝よろしく張り付いていたい――、リヴァが重々しく口を開いた。

 

「ご推察の通り、主命によるものでございます」

「ほう」

「この佳き日の式典を、台無しにせんと企む叛徒どもの動きを察知しまして」

(ああ、そう来たか)

 

 にじり寄り、押し殺した声でリヴァは続けた。敵は既に、この船の何処かに潜んでいる可能性があります。是非とも調査を許可していただかねばなりません。――…

 

「よろしいですな」

 

 要請ではない。

 脅迫である。眉宇に、殺意がみなぎっている。これを認めなければ、おれは何を仕出かすかわからんぞ、と全身で表明しながらこの式典の責任者、憐れな禿頭に迫ったのだ。

 既に腰砕けになりかけている老人に、これを突っ撥ねろと頼むほうが酷であろう。そんな気力は何処にもなく、強いて求めれば外部に頼る他ないが、コジマもまた、此処に至ればいっそ彼には頷いて貰いたいと思いつつある。

 

(嘴を突っ込み、不審な点をほじくり返し、反論するのは容易だが)

 

 しかし、つい今しがたあれだけ真っ向から侮辱を加え、喧嘩を売りつけた彼女である。

 その手前、いざ三獣士が無理矢理にでも決起せんと立った矢先に今度は火消しを試みるというのは、どうにも筋が通っていないように思われた。

 

(認めよう、私は一線を越えたのだ。取り返しはつかない。戦争の覚悟もなしに、言っちゃあいけない台詞だよ、あれは)

 

 にも拘らず、いまさらおたおた芯のぶれた振る舞いをして、臆病者の謗りを受けるくらいなら、いっそ気狂いと看做された方がましであろう。

 失態を取り戻すべく炎に水を撒くよりも、一旦崩れた構想などはガラクタよと蹴り飛ばし、馬鹿めその発火すら思い通り、私の掌の上なのだふはははは、と悪辣に嗤うべきだった。

 禿頭が、激しく何度も上下した。

 

「せいぜい気張ることだな、諸君。犬の爪牙は鋭利なりと、せめて証明してみせるがいいさ」

 

 すれ違いざま、葡萄酒を傾けながらコジマは言った。

 三獣士は、返事もしない。完全に黙殺してゆきすぎた。

 船内に向かう彼らのために、人垣が音を立ててざっと割れ、一筋の道が形成される。

 やがてその背が見えなくなると、そこかしこから安堵の溜め息が上がると共に、残念そうな呟きも、種々漏れた。

 

「これで終いですかな? やりとりの内容は、正直よく聴こえませんでしたが、随分あっさり退いたものです」

「然り然り。てっきり骨が軋み、血が流れるに違いないと予期していたのに、なにやら肩透かしを喰らった気分ですよ」

「三獣士も存外大人しい、ケモノというのは名ばかりか」

「いやさ、そうではあるまい。彼らをしてさえ噛みつくのを躊躇うほどに、アーレルスマイヤー卿が隔絶しておられるのよ」

 

 現下の帝国で富貴を誇れるような輩は、多かれ少なかれ血に酔っている。

 惨事を観賞できるものなら、是非したい。ましてやそれが、大量殺戮者同士の殺し合いなら尚更だ。実に稀少なみせもの(・・・・)であり、孫子の代まで自慢できよう。如何な惨事に巻き込まれても自分だけは大丈夫、きっと命は救かるに違いないという例の心理も手伝って、恐れの裏側に潜みつつも、コジマと三獣士の激突を期待する向きは強かった。

 が、もはや恐れる必要がなくなった今、その期待が前面に出たらしい。

 

「惜しかったのう」

 

 と、露骨に残念がるやつまでいる。

 コジマは欄干に寄りかかり、はあ、と天を仰いで嘆息した。

 

 

 

 

(サヨが、怒るだろうな)

 

 いやがらせ程度に留めると、今エスデスと全面的に事を構える心算はないとはっきり言っておきながら、この始末はなんであろう。なにもかも、彼女が危惧した通りになった。

 

(エスデスが絡むと、私はいつもこのざまだ)

 

 焼き尽くしたはずの獣性が、灰の中からむくりと頭を擡げるのをどうしようもない。差し伸べられる掌をつい受けて、気付けば野蛮な衝動の虜になっている。

 

(あいつを殺さない限り、私は真に私として完成しないのではあるまいか、などと――)

 

 こんな妄想的予兆が脳裏をかすめてしまう時点で、囚われている証明なのだ。

 愚かさの先は遥かに遠く、まだまだ見通しは立たないな、と、流石に自嘲したくもなろう。

 追いかけてきた老人が、その動作を目聡くみつけ、どうなされたと問い掛けた。

 

「いやさ、正直に告白致しますと。私はあまり、太陽が好きではないのです」

 

 咄嗟にそう誤魔化した。

 それはまた、風変わりな趣味ですなあ、と老人は変に引き攣った表情のまま言い返す。

 が、これが藪蛇だった。

 

「それよりも、やはり月明かりこそ好ましい。あの太陽というやつは、直視する者の眼を容赦なくたちどころに焼きますが、月にそんな心配は要りません。夜が続く限り、永遠の鑑賞に堪えるものです」

 

 これだけでも天体としてどちらが秀麗かおわかりでしょう、と、コジマは意味不明なことを口走った。

 

「しかもその光彩の妙ときたら飽く事を知らない。一秒毎に新たな興趣が湧き出して、痙攣にも似た感動が脳の髄を貫くのです。私はね、酒を呑むにも満月さえ頭上にあれば、他にどんな肴も無用でしてな。何杯でも盃をあけられる――…」

 

 コジマは、どうしてしまったのだろう。月への賞讃を語り出してとめどもない。

 しかもその口調ときたらかつてないほど熱っぽく、何かに憑かれているようで、聞く者の意識を不安定にするものだ。老文官はたまりかね、

 

「この国は、どうなってしまうのでしょうな」

 

 と、無理矢理話題を転換させた。

 

「我々が如何に苦心して手を打とうとも、国内の人心は離れる一方。遊離して、向かう先は反乱軍です。このままでは本当に戦争が起きてしまう」

「戦争なら」

 

 コジマは態と惚けてみせた。常に起きているではないか。長きに渡る帝国の歴史で、国境線が完全に静謐であった時期などそれこそ数えられる程度しかない。

 

「対外戦とは違います。今度のは内戦だ、その惨は比べるべくもない」

「五百年前は、凄まじかったようですな」

「人を殺す技術がまだまだ未発達だった当節でさえ、あれほどの地獄を招いたのです。爪痕は深く、大きく、しかも未だに癒えていない」

 

 散逸した帝具のことを言っているのだろう。

 

「規模も被害も、必ず膨れ上がりますぞ。その流血に、疲弊したこの帝国が耐え切れるとはわしにはとても信じられない。よしんば耐え切れたとしても、次に来るのは四方からの蚕食じゃ」

「同意します。異民族ども、寄って集って棒で叩きに参るでしょうな。失地回復を掲げ、鼓を打ち鳴らし、復讐の熱狂に衝き動かされて」

 

 要は金貸しと一緒です、と、政治活動の必要上から資金はいくらあっても足りないコジマは、忌々しげに吐き捨てた。

 

「あの連中はこっちの羽振りがいい時は是非御使用を頼みますと、バッタよろしくへいつくばるが、いざ落ち目と見るや豹変する。債鬼になる。首根っこを掴んで捻じ伏せて、ぺしゃんこにするほど強烈な取立てを開始する。その掌返しの鮮やかさたるや、雪が墨に化するが如しだ」

「全く以って。異民族の連中が叛徒に何を約束したか知らないが、本気にするなど馬鹿げておる。帝国の前途は、ああ、暗い、まっくらじゃ。このまま進めば待つのは奈落で、しかしお諌めしようにも、陛下に我らの誠意(こえ)は届かぬ。打つ手なしとは情けなくてたまりませんわい、いったいどうすればよいのやら」

「死んだら、いかがです」

「えっ」

 

 文官は、耳を疑った。いま、さらりと、自分は何を言われたのか。

 

「父から聞いておりませんか? 声が届かなければ血によって誠意を示すまで、それがアーレルスマイヤーの伝統ですよ」

「い、いや、わしは」

「陛下の御前に進み出て、貴方と、貴方と志を同じくする皆々様が、一斉に腹を切っては如何です? 蠕動する腸を掴み出して、思いの丈と一緒くたに投げつけたなら、これ以上ないショック療法として機能する。君側の奸が齎した花園の幻影、迷妄の霧など一瞬にして晴れましょう。仮に駄目であったとしても、そこまでやれば諦めがつきます」

 

 昏君(ばかとの)、とでも遺言して自ら作った血の海に沈めばよいのである。

 むろん、コジマはこの老人にそんな大それた真似が出来るとは欠片も期待していない。

 人はそう簡単に捨て身になどなれぬ。仮にも権力者なら尚更だ。だからこの良識派という連中のやることは、たった今演じてみせたような、善意はあれども意味のないおしゃべり程度に終始せざるを得ないのだろう。

 彼らが開く「会議」とやらは畢竟現状が如何に悲惨であるかを再確認して泣くばかりが関の山な小田原評定に他ならず、いつか陰謀の刃にかかって殺されるまでの暇潰しの範囲を決して出ない。

 涙では、政治も時代も動かないというのに。

 もっと濃くて(なまぐさ)い――生き物の在り方を決定する、血液こそが必要なのだ。

 

「む、無茶な」

「無茶かなあ」

「よく考えられよ、謁見の場に腹を――」

 

 鉛玉を飲み込んだような顔つきで、老人は一旦言葉を切った。口にするのも厭なほど、その行為は彼にとって抵抗があるものらしい。

 

「――切るための凶器など、持ち込めるはずがありますまい。近衛に体を改められるのをお忘れか。必ず見付かり、見付かれば、その時点で破滅です。陛下に言上するどころか、わしは叛逆の容疑で連行される」

 

 現実的な困難を持ち出して安堵を強めているあたり、いよいよその気がない証拠であろう。武人はすぐ命を捨てたがり、文官はいざとなれば指の先の傷ほどの犠牲でさえ払いたがらず、過剰に恐れる。この国の宿痾といっていい。

 

「ああ、仰る通りです。お許し下さい、ついついその障碍を忘れていました」

「はっ、あは、あっはははははは、困ったものですなあ、長官閣下。あまり老人を驚かせないでいただきたい」

「では、近衛のほうは私がなんとかいたしましょう」

「――は?」

「道は必ず作ります。私はやると言ったらやる女だ、どうか信頼して任されよ。その日来る瞬間まで、くれぐれもご自愛下されますよう」

「…………」

 

 老人は、急に失語症を罹患したらしい。それ以上、彼の舌が音を紡ぐことはなかった。

 

 

 

 

(実際、そう的を外した考えでもなかろうさ)

 

 彼ら良識派が政治手腕でオネストを上回れる可能性など紙より薄く、ほとんど誤差の範囲であり、ならばいっそ思い切った盤外戦術に出るというのも有りなのだ。

 

(大臣とて、こればかりは読めまい)

 

 あの老文官本人には不可能でも、命惜しさが極まるあまり目眩(めくるめ)くような悪辣ぶりを発揮して、同僚の中からまだ血の熱い男どもを見つけ出し、そいつを煽って上手いこと殉死の役目を擦り付けることに成功したなら、さぞかし面白い展開が期待できることだろう。

 コジマとしても約束を口にした以上、どうあってもブドー大将軍を処さねばならず、悪謀の組み立てに一層熱が入るというものだ。

 なにしろああまで言った手前、もし彼らが覚悟を決めたにも拘らず、必要以上にぐずついて、いつまでも場を整えられない――水を腐らせてしまうようならば。

 

(そのときは、私が腹を掻っ捌かねばなるまいて)

 

 人に死を薦めた以上、当然のことだと彼女は無造作に認識していた。

 

(声で足らねば血によって、という誠意の示し方は本当にあるのだ。でまかせを言ったわけじゃない)

 

 それは真実、アーレルスマイヤーの血統に、古くから受け継がれてきた伝統なのだ。

 流される血もなしに、清算される呪いもない。

 要るというなら、容赦なくぶちまけてやるべきだろう。

 

(呪いは、解かれなければならないのだから)

 

 さもなくば、「焼け野」はずっと「焼け野」のままだ。悪夢が醒めることもない。

 

(それでは駄目だ。始まったものは終わらせねばならない。悪夢の終わり、夜と朝の狭間、最も暗いと謳われる、その刹那にこそ――)

 

 偉大なる上位者は待っている。

 青ざめた月は降りてくる。

 すべては準備だ、そのための。

 たった一夜の邂逅のため、我らは数百年の時を費やした。

 百万遍を超える祈りがあり、百億滴を超える血があった。

 それは宇宙的視座から俯瞰すれば笑ってしまいたくなるほどちっぽけで、しかし人間の尺度では膨大だ。

 決壊は近い。秘匿は必ず破られる。確固たる(・・・・)と無思慮に信じ込まれてきたあらゆる現実を打ち拉ぐ、夢の大氾濫がやってくる。

 押し寄せるその波濤にただ呑まれるか、それとも叡智と執念の限りを尽くして乗りこなし、ついには「突破」のための推進力たらしめるか。どちらが堕落で、どちらが貴い進化の道か。三歳児でも言い当てるに違いない。

 露払いは私が済まそう。赤血によって汚点を雪ぎ、いかなる密雲が立ちはだかろうと散らしてみせよう。

 だから、――だから。

 LUNAQVE SIVE NOTHO FERTUR LOCA LUMINE LUSTRANS......碧落を貫き地上へ注ぎ、遍く照らせよ月光よ。世界は蒙を啓かれる日を待っているのだ。

 

 

 

 

 笛の音色が聴こえはじめた。

 波が、高くなっている。

 

 

 

 

 


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