今回、かなり激しく悩みました。仮にも主人公がこんなことしていいのかと。
しかしながら何度書き直してもこれ以上に彼女らしい行動は有り得ず、こうなれば腹を括るしかありません。
ここにひとつの事実がある。
コジマはよく働いた。
血の医療によって変質した肉体は、彼女をして
世上に普く企業戦士にとって、垂涎の効果といっていい。もし、血の医療のこの面だけを聞きつけたなら、彼らはこぞって自らの、青く浮き出た静脈に輸血液を注ぎ込んだことだろう。
大いなる神秘の領域から持ち帰った成果物を俗事の処理に利用して何ら憚らないあたり、コジマの人間性が窺える。
とまれ、彼女は働いたのだ。身をすり減らし、常人ならとっくに過労死しているに違いない熱烈ぶりを発揮して。
甲斐はあった。帝都の治安は回復の一途を辿りつつあり、誰もがそれを実感している。
警備隊内部の洗浄も進み、組織としての体面、内実、共に充足の極みにあると評してよかろう。
一見、いいことずくめなように思える。
……が、しかし、コジマが多忙を極めるということは。
そのぶん、帝都の闇に立ち向かわんと奮い立った
とりもなおさず、その事実は、一人の少年から成長の機会を奪うことにも繋がっていて。
詰まる所、彼は未熟に過ぎたのだ。本来踏むべき仲間の喪失、箍の外れた狂人との遭遇、諸々経験していない。如何に伸び代の塊、将軍級の器といえど、こうした奈落の炎に炙られて、
中身の
とすれば何が起こるかなど、それこそ火を見るよりも明らかで。
結局、あの結末に至るのはどうしたって逃れ得ない――不可避の因果だったのだろう。
たおやかな旋律が船体の隅々にまで浸み透り、乗り合わせた人々からあらゆる気魄が抜けてゆく。
(心臓さえも、脈を打つのを止めそうな)
無気力白痴の群れに加工された甲板上の客どもを眺めて、コジマは胸に賛嘆の念がこみ上げて来るのを自覚した。
笛の帝具、「軍楽夢想」スクリーム。聴いた者の感情を自在に操作する帝具だが、これほど強烈な効果を発揮できるとは思わなかった。誰も彼もが倒れ伏し、四肢からは力が溶け落ちて、全身これ粘膜の軟体動物よろしくだらりと広がり、わずかに開いた口からは、涎が垂れ流されてとめどもない。
(帝具というより、使い手の集中力をこそ褒めてやるべきなのだろうか。ニャウ、残虐趣味の小僧めが、らしくもなく気合を入れやがって。私の顔も剥ぐ心算かね)
させるものかよと念じつつ、コジマは作業を開始した。
虚脱状態に陥った客どもの肉体を運搬し、適当な場所へ積み重ねて行くのである。しかもどうやら何らかの意図があるらしく、しっかり顔を確認し、こいつはここ、この女はこっちと配置に拘りをみせていた。
態々テーブルを引っ張ってきて、それに寄りかからせるやつもいる。
「あんた、何を……くっ、力、が……」
「見てわからんか? 場を整えているのだよ」
手を動かしながら肩越しに顔を向けてみると、案の定、先刻ブラートと連れ立って、時折何らかのやりとりをしていた少年だった。
片膝をつき、息も荒く、見るからに苦しそうなのに、視線だけは真剣に、未だ力を残している。コジマに対し、あからさまな猜疑と警戒を向けていた。
「……場、だって?」
「そう。もうすぐ此処は修羅の巷と化すからね。このまま放置しておけば、この連中、余波を浴びただけで死にかねん。阻止してやらねばならんだろうさ、人非人と怨まれるのが厭ならば」
コジマは、実に手際がいい。たったこれだけの会話の間に、もう全員を収集し終えた。
次いで彼女は最寄りのテーブルクロスを引っこ抜き――料理も酒も微動だにせず、さざ波ひとつ立っていない――びりびりと、音を立てながらそれを裂き、幾つもの細長い布切れを作っていった。
「にしても、まだ立っていられる者がいるとはね。感心したよ少年、若い世代もまだまだ捨てたもんじゃない。あまり見たことのない顔だが、どこの家の人だったかな?」
「えっ、あっ、その、俺、は――」
少年は、気の毒なまでに狼狽した。
事前に聞き及んでいた人物像とあまりに食い違うコジマの立ち居振る舞いと、何よりこの異常事態に際会し、でっち上げた背景に関する設定が、すっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていたのである。
(な、なんだったっけ?)
地方富豪のお坊っちゃま、という最低限度の概要だけは覚えている。
が、具体的にどの地方に根を張る富豪か、家名は、何代続く家柄かという詳細については、綺麗さっぱり思い出せない。まるで消しゴムで消されたように、いくら記憶を手繰ろうとしても一向手応えがないのである。
(やっべえ)
募る焦燥に、思わず胃がひっくり返りそうになる。
慧眼隼の如しと謳われた尋問の名手を前にして、とんでもない不様を晒している。即答出来なかった時点で顔色を失くすには十分なのだ。少年は、覚悟の臍を決めかけた。
「ん、答えられないか? わかるよ、脳が麻痺すると、舌を動かすのも億劫になるよな。海綿にでも化したみたく縺れてしまって、煩わしいことこの上ない。なあに焦るな、私はコツを知っている。まずはゆっくり深呼吸して、それから名前だけでも紡いでみようか」
が、不審に思うどころではない。意外にもコジマは助け舟を出してきた。
しかもその口調の優しさときたらどうであろう。厭味のない共感と同情が底にあり、少年の置かれた境遇、その苦しみを理解して、なんとか助けになってやりたいと願っているに違いないのだ。
でなくばこんな穏やかな声で、吸ってー、吐いてー、などと言えるわけがないであろう。
人は――特に男は――恐怖には立ち向かえても、安らぎには存外弱い。切り裂くのは容易でなく、そもそも警戒自体抱きにくい。少年は、不覚にもとびついた。――タツミ、と、呼気に紛れて本名をうっかり唇の隙間からこぼしてしまった。
(これで誤魔化せる)
という安堵がそうさせた。
「そうか、いい名だ。ああ、名乗られた以上は返さなければ失礼だよな。――アーレルスマイヤー家当主、コジマ・アーレルスマイヤーだ。よろしくタツミ君、前途有望な若人よ」
「コジマ……さん、あんたは、どうしてあんただけは」
「平気なのか、と? なあに、種を明かせば簡単だ。この現象は要するに、音を介して脳に作用しているのだろう? だったら効かんよ、この程度で揺らされるほどヤワな脳みそは詰めていない」
冒涜が足りん、汚濁が薄い。唾棄すべき音色には程遠い――と。
タツミの眼から見れば、答えるコジマの態度は如何にも高官らしく泰然として、落ち着き払っているように映ったが、これは彼女一流の演技であって真実ではない。
(まさか、だな。他人の空似であれかしと祈っていたが、儚い希望か。運命とやらはつくづく皮肉を好む性悪らしい)
内心、忸怩たる思いが渦巻いている。
タツミと言うその名には、随分前から聞き覚えがあったのだ。忘れもしない夜の底、酸鼻を極めた拷問蔵の只中で、サヨが確かに口にした。
医療行為というものは、施術だけでは完結しない。そして血の医療とは、最先端の科学技術と古い智慧の私生児である。少なくともコジマはコジマなりに、アフターケアの重要性を理解していた。その面で、心を通わせた幼馴染みというものは、大いに役立ちそうである。
――確保しておくに如くはない。
名前、年齢、出身地まで掴んでいるのだ。さして労せず、消息は割れると期待した。
が、案に相違して、待てど暮らせど一向に情報が集まらない。本腰を入れた調査でなく、低コストの失せ人探し程度に止めたのは失策だったか、とコジマは密かな悔いを抱いた。
(この具合だと、両人とも死んだか、それとも革命軍にでも入ったか)
前者はまだしも、後者はまずい。彼らを捜す動向を相手方に探知されれば、不審を抱かれるのは必定である。
組織内にて吊るし上げを喰らうか、それとも調査の仕手を再会出来ていない幼馴染みと判断して辿ってくるか。一応、指示は
面倒なことになりそうだった。
血の医療の被験者を手放すなど論外で、しかしタツミ・イエヤス両人があちらの思想に染まりきっていた場合、下手な接触は命取りになりかねない。よしんば転向までは至らずとても、サヨの精神に与える影響は甚大だろう。
最悪、獣化の急激な進行まで予測された。
もっとも一連の心配は、いざサヨが覚醒する段に及んで悉皆解消されたのだが。
しかしながら、啓蒙的真実に関する事案でコジマに手抜きは有り得ない。
スタイリッシュが心待ちにし、先日ついに実行された、サヨの故郷に対する擬装検疫作戦に於いて、実行部隊たる「聖歌隊」が二人についてもそれとなく探りを入れている。
村人全員の血を採取し、一帯に伝わる伝承を調べ、更には帝都へ出稼ぎに行った若者達を調査する。それも所属と素性を偽って、だ。みるからに怪しげなこの任務を、しかし「聖歌隊」の面々は文句も言わず
「素晴らしい。それでこそ、諸君らを選んだ甲斐があった」
というコジマの台詞から、部隊内では忠誠心と命令への服従性を確認するための試験的任務だったのではあるまいか、と取り沙汰されているという。
考える癖は重要である。部下が思慮深くなるのはいいことだった。その調子でいつの日か、宇宙は空にあると気付いて欲しい。
収集した情報を元にタツミ・イエヤス両名の人相書きも作製し、脳裏に焼き付け、コジマは結果に満足している。
血液の方は、目下スタイリッシュが不眠不休で解析に取り掛かってはいるものの、あまり期待していない。サヨは本当に、極小の確率で誕生した突然変異、紛うことなき
彼女を迎えられたことは、コジマにとって、ここ数年来の僥倖だった。
(だからこそ、あの娘に対して不義理は働きたくなかったのだが)
やんぬるかな、ここからの流れ次第では、自分がタツミを殺してしまう展開も大いに有り得そうなのだ。
作製した布切れは、目隠しとして使用した。出席者達の目に、片っ端から巻き付けてゆく。
「あの、なんで態々、そんなことを? この人たちの眼は、どう見ても何も映していません」
タツミの疑問はもっともだった。
ニャウの入念な演奏により、まぶたこそ開いているものの、どの瞳もとろんと蕩け、薄い膜がかかったようになっており、明らかに機能していない。光刺激から電気信号への変換業務すら怠っているような、これはもう眼窩というより孔だった。
「私は心配性な女でね」
「…………」
「少々、刺激の強い光景が現出するのは請け合いだ。万が一にも記憶化されて、心的外傷でも負われてはかなわん。やれることがあるのなら、やっておくべきじゃあないか」
今度は満更、嘘を吐いたわけではない。
目の前で大砲をぶっ放されても無反応を守りそうな彼らであるが、しかし啓蒙的真実の暴露にさえも同様のままでいられるか、これはちょっとわからない。
むしろ、白痴化しているからこそ危険と言える。
下手に発狂者でも出そうものならおおごとだ。おあつらえ向きに莫大な水も揃っている。足下を滔々と流れている。水面に
(それに、何より)
月光を衆目の前に晒すなど言語道断。考えるだに血圧が急上昇して気死しかねない恥辱であった。
(白昼、路上で強姦された方がまだましだ)
馬鹿げているが、本人は大真面目なのである。正気でそう信じていた。
コジマにとって、それは単なる羞恥心の問題に止まらず、なにか手酷い裏切りのようにさえ思われるのだ。神秘的――否、
逆説的に言うならば、コジマがこれを披露した際、籠められた意味は二つに一つ。何が何でも此処で貴様を終わらせるという容赦なき抹殺宣言か、それとも背中を預けて共に夜を渡ろうとまで信頼し抜いた、満腔の友情表現か。このどちらかしかないのである。
「……手伝いますよ。それくらいなら、俺にだって出来る」
その一切を、むろんタツミは知る由もない。
これは案外、
「おや、そうかね。ではあちらを頼む」
あっさりした返答に、もはや疑念も抱けない。差し出された布束を無造作に受け取り、指示された方へと歩を進める。
作業に紛れて護衛の武器を掠め取るのも、信じられないくらい上手くいった。
(やっぱり、全然警戒されてねえ)
ここまで都合よく事が運ぶと、却って申し訳なくなってくる。自分は人の好意につけこむという、最低な行いをしているのではあるまいか?……
本来、殺しを
タツミは、そこが生煮えだった。つい罪悪感を覚えてしまった。となれば、連鎖して次にやってくる感情は何であるか、ほぼほぼ察し得るだろう。
(みんな、誤解してるんじゃないか? 案外この人、話せばわかってくれそうな)
自分だけがこの麗人の真実を知っているという、同情と義憤と侠気とが綯い交ぜになったものである。
少なくともマインの言っていた、
――冷酷、傲慢、差別主義者の糞袋女よ。あいつの額に風穴空けろって仕事なら、タダでも喜んでやるわ。
との評は、当たっていないように思われた。ネギの先っちょでも千切るみたく捕虜の首を
南方でやらかしかけた
(もし、味方につけることが出来たなら――)
その恩恵は計り知れない。帝都に於ける革命軍の活動は、その日を境に一変しよう。重度の糖尿病を患っていた人間が、適合性の完璧な腎移植を受けるようなものである。透析を含めたあらゆる不便から解放されて、どんな仕事ものびのびこなせる、我が世の春が手ぐすね引いて待っている。
(こりゃ凄え)
度を失ったタツミの思慮は、ついにこんな大構想にまで到達した。
一面、彼の大器を証明するものかもしれない。
「コジマさん」
声の上擦りは、なんとか抑え込めたと思う。
「ん? どうした、布が足りなくなったか?」
「いえ、そうじゃなくて。――何と言うか、随分噂と違いますね」
「ふむん。大方、血に飢えた鬼畜とでも言っていたかね? 私のことを、ナジェンダは」
「いやあ、頭のいかれた権力亡者……ッ!?」
そこまで言って、漸くタツミは戦慄した。なんの気なしな声色で、いま、こいつは何を言ったのか。どうしてボスの、ナイトレイドのリーダーの名がここで出る。
(バレていた――)
思うより先に、体が動いた。鞘を払って翻身し、無防備な背中めがけて斬りかかる。
「くくく、あいつらしい物言いだ」
耳元で柔らかな声がする。
冷たい両刃のきらめきが、なにもない中空を斜めに裂いた。体勢を崩すほど下手ではない。すかさず剣先を返そうとして、叶わなかった。視界の外から延びた手が、タツミの腕を掴まえて、思い切り捻り上げている。曲がってはいけない方向に曲がりかけ、関節がみしみしと悲痛に鳴いた。
「どうして、どうやって、この野郎――!」
瞬きなどしなかった。
にも拘らず、コジマの回避運動の一切が、タツミの眼には映らなかった。映画のコマ落としよろしく、気付いたときには側面に廻り込まれていたのである。掌が勝手に開き、折角拾った得物が落ちて、板張りの床を傷つけた。
「それが人にものを尋ねる態度か? まあ、慇懃無礼に訊かれたところで、精進しろとしか答えようがないのだが――なっとぉ!」
膝を内側から蹴り飛ばし、タツミの身体をがくんと落とす。重心の崩れをいいことに、そのまま襟首を掴んで引き回し、風をまいて迫りつつあったノインテーターの穂先に晒してやった。
「――ッ!」
鎧の帝具、「悪鬼纏身」インクルシオの副武装。鋭利なこと鋼鉄を貫いて余りある大槍は、しかし少年の柔い肉をほんの僅かに縫っただけで停止していた。
「よう、百人斬り。態々死地まで、足労だったな」
「てめえ、アァレルスマイヤアアァァァッ!」
既に装甲は展開され、彼の表情を窺い知ることは叶わない。
が、相当激しく猛り狂っていることは、怒声だけでも明らかだった。
靄気に呼応するかの如く、天にも雲が広がり始めた。
鼻の奥で雨の到来を予感する。万象、固有の色彩が、順次剥げ落ちつつあった。境界線が曖昧となるこういう時こそ、人はよく魔に魅入られる。
「さて、とりあえず後ろに下がってくれないか? 君の発散する気は暑苦しくてかなわない。このままでは話をする気にもなれんのだ」
「殺し屋相手に、人質が通用すると思ってんのか? 随分おめでてえ頭じゃねえかよ」
「そこのところを確かめてみたくもあってなあ。何事も、やはり我が身で実証せねば。――下がれ、ブラート。二度はない」
「…………」
――駄目だ、兄貴。俺に構わず、やってくれ。
そう叫べたらどれほどよいか。が、コジマの拘束は周到だった。腕が蛇のように絡みつき、絶妙の加減で喉を締め上げ、どんなに気合を入れようと呻き声しか漏らせないようにされている。
タツミの切なる願いもむなしく、やがて重いものが床を擦りつつ遠ざかる音が聴こえてきた。
「結構、そこで止まれ。その位置がいい、すごくいい。……ああ、そう睨んでくれるなよ。人質の価値を失くすほど、馬鹿高い要求をする心算はないさ。他愛もない質問に、幾つか答えてもらいたいだけだ」
「他愛もない、ね。価値観について、てめえの秤は偏ってるって有名だがな」
「世間が間違っていることを祈りたまえよ。――では、まず一つ目。
「ああ? 知るかよ、なんで
鼻をかむようなさりげなさで、コジマはタツミの指を一本、へし折った。かっと眼が見開かれ、肺腑が激しく収縮する。痛みを悲鳴で誤魔化せないのが、苦しみを更に助長した。
「タツミぃ!」
「吐くならもっとマシな嘘を吐いてくれ。でないと、折れる指があっと言う間に尽きてしまう」
「ゲスが!」
「おいおい、素人みたいなことを言わんでくれよ、仮にも元軍人が。作戦情報の収集上、茶飯事だったろう、こんなもの。敵に捕縛されておきながら、虚偽の供述をして殴られないと思う奴こそどうかしている。もし身に覚えがないのなら、そりゃ君の目が届かぬどこかしらで、代行役を務めてくれた何者かが居たのだろうさ」
「そんなだから、俺はこの国に仕えるのを止めたんだろうが。何も変わってねえと今改めて実感したぜ、てめえも大臣も根は同じ、糞溜めで肥えた蛆虫野郎だ」
「で、革命軍に転向したと。素晴らしいな感服したよ、人間とはこうまで愚かになれるものなのか。国家の敵への暴力行為は駄目と言い、つむじから湯気を立たせる分際で、麻薬の密売は寛恕すると、そんな奴がいるとはね。私から見りゃ、そっちの価値基準こそ少々常軌を逸している」
「なんだと?」
ここまでのやりとりを通して、微かながらも、初めてブラートが芯から揺らいだ瞬間だった。
「おや、意外だな。ここはてっきり、取引相手は将来の仮想敵国だから問題ないと戦略上の正当性でやり返してくると思っていたよ」
「何を言ってやがる」
「とことんまで惚ける心算か、それとも本気で知らんのか。――ふむ、そうさな。どっちにしろ乗ってやろう。たぶん今頃、テンスイ村なる辺境の一集落が、地図から消されている真っ最中だが」
「!?」
「罪状は異民族との勝手交易、及びその利益を革命軍に供与した、即ち国家反逆罪。――だが、なあ、しかし、ブラートよ。君、あの村を実見したことが一度でもあるかね?」
「……いいや」
「私はあるぞ。だから当然、疑問に思う。交易と言うが村の連中、これといった特産品も無く、その日のめしにも難渋していた有り様のくせして、いったい何を売り捌いていたのだろう、と」
抜け荷の罪は重大だ。特に交戦国相手となれば洒落では済まない。露見すれば最低でも一族郎党皆殺しは固かろう。
それほどのリスクを覚悟してまで、なお取引するに値するハイリターンな商品とは果たして何か。穀物、毛皮、香辛料――いずれも条件を満たしているとは言い難い。胡椒が黄金と同じ価値を有した時代など、とうの昔に過ぎ去ったのだ。
「加えて陸路というのも見逃せないな、軽量で隠し易く、且つ高価であることが、ますます望ましくなってくる」
となればこれはもう、麻薬以外にないであろう。これほど慢性的に供給が需要に追いついていない商品も珍しく、ゆえに何処へ持って行っても歓迎される。
現に我々の世界に於いても、最も金になる犯罪は、誘拐、強盗、偽札造りを抑え込み、麻薬売買が伝統的に堂々一位を占めている。そして革命とは――革命に限らず、あらゆる政治的活動に言えることだが――とにかく金の要るものだ。
「使命感さえあれば強力な軍隊が組織出来ると、もし本気でそんな風に考えている奴がいるのなら、そいつは間違いなく知能に重篤な欠損を負っている。速やかに距離を置くべきだ」
おまけに革命軍の標榜する目的は、地方割拠などというせせこましいものでなく、壮大な軍旅を起こして中央を落とそうというものではないか。かかる費用は、戯れに概算しただけでも目玉が飛び出そうな額に及ぼう。
「有志からの供出や、富豪を強請って賄いきれるものでは断じてない」
現にその二つを頼りにした清朝末期の辛亥革命などに至っては、財政に極端な窮乏を来し、到底独力では政府を脅かすだけの軍事力など整えられなかった事実がある。
もしこの時、中華の大地に袁世凱なる政治的怪物が存在しなかったのならば、世界はどうなっていただろう。野心に満ちたこの魔人にとって、革命勢力とは皇帝を退位に追い込む格好の脅迫材料に他ならなかった。
ゆえに、支援した。強力に。革命軍を討伐するという名目で、清朝から引き出した資金をそっくりそのまま当の革命勢力に横流しするという方法で。
魔術的な政治芸といってよく、彼にこれほどの天才が包蔵されていなければ、その後の歴史がどう変転していたかわからない。
が、現下の帝国に
であるが以上、革命軍はまた別途、資金調達の道を模索する必要性に迫られる。
そして革命の看板は、快楽の煙と親和性が非常に高い。
地球の歴史に即して述べるのならば、ペルーの熱狂的毛沢東主義集団たる「輝く道」か、マフィアと結託した左派ゲリラ、
あとはヒズボラ、タリバンと、例を挙げればきりがなく、革命の資金調達に白い粉を売り捌くのはもはや常道といっていい。
そして事実、潤沢な資金の確保に成功した彼らは強かった。
「要するにこういうことだよ、テンスイ村を擁する山岳地帯の何処かに
「出鱈目だ。その手は喰わんぜ、扇動屋」
「焼却部隊ではなく暗殺部隊を派遣して、村民だけを一掃するよう命じたあたり、いい証拠になっている。工場や畑は無傷で残し、そのまま利用する気なのさ、オネストは」
そうして新たに生産された粉末は、流れを一八〇度転換し、今度は帝都に向かって流れ込む。
「私の仕事がまた増える、と。いやはや、迷惑極まりない」
「いい加減に黙りやがれ。ペラペラペラペラ、偉そうに、根も葉もねえことでっち上げて悦に入ってんじゃあねえぞォッ!」
「ああそうかもな。私の言葉など一から十まで捏造で、諸君らを混乱させ、不信の種を胚胎せしめ、やがては内部分裂に導くための真っ赤な嘘に違いない。――そう疑うのは自然だよ、むしろあっさり信じられていたならば、なんたる軽佻浮薄な粗忽者かと失望していた」
やはり真実とは、誰かの語る言葉ではなく、自分の心で知らねばなあ、――と。ぬけぬけと語るコジマに対し、ブラートは、石地蔵の頭を刺そうと躍起な蚊にでも化したが如き無力感が拭えない。
(俺に議論や交渉の能が無いのは知ってたが――にしても、これは)
浴びせられる論理の痛烈さはいっそ快感を伴う域に達しており、ふと気が付けばもっとこの明弁に触れていたいと惹き込まれている自分がいて、魅せられた分だけ彼女に対する畏怖の嵩が増してゆく。
(もしこいつが五年早ければ、ひょっとすると、俺達は)
闇に堕ちる必要などなかったのではないか? と。
甘酸っぱい未練にともすれば惑わされそうになり、それを断ち切るためにも殊更激してどやしつけてみたのだが――気味が悪いくらい手応えがない。
硬軟自在、伸縮可能な不定形生物でも相手にしているような心地がした。
こちらが刃を振るっても雲を突いているようで一向手応えがないくせに、いざあちらが弁じ立てる番になるとその舌鋒は途端に鋭く、急所を抉り、ついには急峻な坂道で巨岩を背負わされているように、息をするのも困難な域まで圧される。
――だから、あいつと遭っても会話はするな。何と呼びかけられようが、全部無視して踵を返せ。
という
――とにかく逃げるのが最適解だが、どうしても逃げられない状況ならば、仕方ない。耳に栓でも詰めてひたすら殴れ。
続いて聞かされた対処法に従いたいのは山々である。
が、タツミが人質に取られている以上、そうもいかず。
(何もかも気の迷いだ、しっかりしろ、俺。こんな奴相手にこの俺の燃える情熱が、汚染されてたまるかよ)
自戒して、自戒して、自戒し尽くして対話に臨むブラートだったが、その後革命軍の内情を尋ねるコジマに対し、彼の口が知らず軽くなっていたのは疑念を挟めぬ事実であった。
種はしっかり、肥沃な大地に根付いたらしい。
「なるほど、ようくわかった。この状況を招いたのは、偏に君らのやり口の拙劣さに由るものだ。ナジェンダめ、少し見ぬ間に脳みそまでカビたのか」
「そうやって、人を見下していればいい。侮るなよ、俺達は必ず、お前に報いを受けさせる」
「テロリストの脅迫には屈さんよ、私は言いたいことを言う。――そも、この少年を着飾らせて潜入させようとしたのが失策だったな。具眼者ならば、服を着ているか着られているかは一秒で見抜ける」
脳に孕んだ未熟な瞳の恩恵という、裏技はむろんのこと明かさない。コジマは、適当にそれらしいことを言って茶を濁した。
「で、あんまりにも怪しいものだからひとつカマをかけてみた、するとあっさり馬脚を現した。焦りか何か、動機は知らんが攻撃されたのでやり返したと、どうだ、私の行動に手落ちはあるまい? 失態を犯したのも、先に殴りかかったのも、それに不法に乗船したのも君らの側だ。非難されるのは筋違いだし、心外だよ」
「それで?」
「ん?」
「俺に何が言いたい、『アーレルスマイヤーの虐殺者』。詫びか? 土下座して靴でも舐めて欲しいのか?」
「私をエスデスと取り違えてないか? はっきり言うがあいつと違ってこの私には――ああ、いい、やめよう。そんなことはどうでもいいのだ。もっと建設的な話をしようじゃあないか」
ナイトレイドの目的は、畢竟文官の保護と名を騙られたことへの報復であって、コジマの殺害は任務の達成条件に含まれていない。
革命軍の上層部でもコジマの処置に関しては意見が分かれ、纏りを得ず、留保されているのが正直なところだ。断固として殺すべし、帝国民に我ら以外の希望は不要と怒号する者もいれば、大勢がこちらに有利になれば彼女は説得に応じ得る、名声ごと取り込むに如かず、下手な刺激は命取りだと訴え譲らない声もある。
ナジェンダが勧告の中でまず
「私としても、どうあっても今すぐ君達を殺さなければならないほど、切迫した事情は抱えていない。此処へは警察長官としてではなく、アーレルスマイヤーの当主として招かれた身だからね。つまり、この場に於いてのみではあるものの、我らは妥協が成立し得る」
「待て。おい待て正気かおい、ここまでやっておきながら、まさか今更、手を組もうって言い出すんじゃないだろうな」
「いや、言う心算だが? 手を組もう」
「…………」
絶句した。
この厚顔ぶりは、ちょっと理解を超えている。何処に心臓がついているのか見当がつかなくなるほどだ。
「むしろ何故、訝しがるのかわからんな。より豊富な収穫のためなら、未来の食物の上に糞を撒き散らす嫌悪感だって乗り越えてゆく、それでこそヒトというものじゃあないか。目的の為なら好悪を投げ捨て、なりふり構わず行動してこそ人間性の証明だろう」
「糞を、か」
「あくまで形式に拘りたいなら、仕方ない、私が依頼を出してもいいぜ。この事件の主犯を始末しろ、とな。契約しよう。報酬は――そうさね、命の保証が妥当なところか。私から君達二人にこれ以上の危害は加えず、無事にこの船から降ろすと誓う。勿論、後を尾けることもしない」
「……!」
「どうだ」
コジマは、見るからに愉しそうに言葉を継いだ。魂の契約書を鞄に詰めた悪魔が見れば、あれこんな親戚がいたっけかと戸惑いそうな貌だった。
「悪い条件ではないだろう。むしろ破格といっていい。ここは一つ、手を打ちたまえよ」
「駄目だな。潰し合いを始めればと期待したが、ブラートめ、あの調子では逆方向に堕ちかねん。これ以上待ったところで状況が悪化するだけだ。――ダイダラ、やれ」
「応よ。待ちくたびれたぜ」
コジマはまず、タツミを思い切り突き飛ばした。
右手側、船内に続く通路の奥から、猛烈な勢いで飛来する「何か」を感知したためである。
向き直ると、正体は意外にも人であった。
それも女だ。歳若い。服装から推察するに、給仕であろう。主に飲食の接待を役儀として船の一員になった少女は、何の因果か脳の機能を強制的に停止させられ、いま砲弾の如く飛翔している。
(そうきたか。――そこまでやるか、
クラシックなロングスカート。下に何かを隠すには最適な、ゆったりとした装飾こそ彼女が選ばれてしまった原因とみて相違ない。
(弔いはする)
動かず、避けず、一見受け止めようとするかのような勢を示したコジマの前で、少女の脚が真っ赤に爆ぜた。
両の腿に括り付けられ、スカートの下に隠されていた容器から、水が槍となって射出された反動である。
血飛沫を後ろに、
「狗め」
暗く滾る月光が、迫る
顕現した聖剣を担ぎ直して、姿を露にした三獣士へと呼びかける。
「なるほどな、ついに真実、狗畜生に成り下がったというわけだ。誇りも名誉も棄て去って、ふふ、さぞや体は軽かろう? 羨ましいよ、なんとも生き易そうじゃあないか」
「漸く見せたな、それが『月光の聖剣』か。唯一本懐を遂げた臣具、眉唾だと思っていたが、触れ込みは確かだったらしい。私の水が蒸発ではなく消滅した。単なる熱の放射だけでは、こうはならぬ。――得体が知れんな。二人とも、瞬きほどの油断もするなよ」
「……揺れんか、もはや」
狂気を克服するためには、より巨大で純度の高い狂気に身を浸すより他にない。
時の流れを押し返し、無限に沸騰を繰り返す宇宙の深淵に直結した刀身を目の当たりにして、こうも淡々と振舞えるあたり、覚悟は決まりきっているのだろう。
生死を離れ、手段を選ばず、ただどこまでも闘い続ける修羅がいる。
「しかし惜しいな、元将軍よ。どうせ棄てる矜恃なら、もっと以前に擲っていれば、貴様は今も将軍のままであれたろうに」
具体的には、片意地を張らずオネストに賄賂を贈ってしまえばよかった。
万が一にも自分が更迭されるような目に遭えば、残される部下はどうなるかと、そういう大義名分もあの時点では充分成立し得たのだから。
本当に勝ちを目指すなら、敵の意中に身を委ね、一時的に道化を気取って踊るくらいがなんであろう。他ならぬコジマ自身、軍人時代に何度かそうした忍辱を強いられている。
なにしろ戦地へ着く以前、行軍の段階に於いてさえ、袖の下を通さなければろくに宿舎も確保出来なかったのだから。怒りを通り越して唖然とした。
(私独りならば、よい)
プライドと心中するのも勝手だろう。そんな腐れ長屋に誰が泊まるか、藁に潜って寝たほうがましだ、せいぜい夜道に気をつけやがれと唾を吐き捨てて去ればいい。
(が、今や仮にも一集団を率いる身だ。こんな馬鹿なことで彼らの戦闘能力を削ぐわけにはいかぬ。自尊心の犠牲にして許されるのは、原則自分だけだろう)
コジマはその行為に埋没した。いつか必ず復讐すると、密かに怨念を募らせながら。
そして現に、それが可能な地位にまでのし上がってみせたのだから、この女は侮れない。心当たりのある連中は、さぞや怯えたことだろう。
「どうでもいいことだ。あの方に仕えなかった私になど、何の興味もありはしない」
「その台詞。仮にも元部下の前で言うことかね」
「……ブラートか」
「名前を呼ぶな、俺の名を。リヴァ将軍はとっくの昔に死んだんだ。その皮を被っただけのケダモノが、よくもやりやがったな、おい」
熱いだけでは生き残れないとタツミに言った。取り乱すなと、常に周囲に気を配れとも。
(だが、無理だ)
こんなことを見せられて、頭に来ない奴はいない。
打算も利得も放り投げ、自分が逆上することを、ブラートはむしろ誇りに思った。
「何の関係もない、何も知らない、ただそこにいただけの女を! てめえだけの都合で! 外道どもッ! 一丁前の人間ヅラして、心臓動かしてんじゃあねえェェ――ッ!」
「兄貴ィ……!」
大喝破の熱にあてられたか、折られた指を元の位置に無理矢理戻し、タツミがゆらりと立ち上がる。
既に痛みを感じていない。戦意はどう見ても最高潮。吐き気を催す邪悪を前に、ナイトレイドは正義の怒りに燃えていた。
それはいい。
問題は、その熱量が確実に、コジマに対してまで向けられていることである。
「交渉は決裂、というわけか。人質を離した途端にこれとはね、現金なことだ。どうやら君を買いかぶっていたらしい」
「わかってねえな、狂人が。ここでそんな発想しか出来ない奴を、どうして信じられる。語る誓いに、どんな重みを見出せってんだ。――あの
「ああそう、それは残念」
……月光の威力を調節すれば、脅威だけを一掃することも出来たろう。
(が、そうしてあの娘を受け止めたところで)
どの道救かる命ではない。彼女はとっくに終わっていたのだ。胃の中に、たっぷり水を詰められている。この第二の仕掛けがたちどころに作動して、親でも見分けがつけられぬ肉片へと加工されるだけだった。
言ってしまえば人間爆弾。投げ付けられたのは、肉体以上に心を削る、最悪の兵器だったのだ。
(ならばいっそ、私の手で、だ。殺してやれば、血の遺志を引き継ぐことも可能となる。私の中で蠢いて、三獣士への復讐に、ある意味共に赴くことが出来るのだ)
そんな合理的思考に基いての行動である。
正当性は我にありとコジマははっきり確信していて、であればこその曇りのない眼差しが、却ってブラートに血の通わぬ破砕機めいた印象を与えてしまったのだろう。
事実、まともな人間の神経ではない。
この女はきっと、
次の人質事件を抑制するためと、まことしやかに嘯いて。
明らかに人道を踏み外している。
こんな人間が、よりにもよって治安維持の責任者とは、いったいどんな悪夢だろうか。
(殺す。こいつは殺さないと駄目だ)
人間としての根本倫理が、ブラートを猛々しく焚きつけていた。
(気高いことで。――まあ、いい)
その気高さゆえに、不信の種を植え付けて無事に帰せばゆくゆくは、革命軍とナイトレイドの分離工作に役立ってくれるかと期待した。
自分が如何に契約に対して義理堅いかを上層部の保身に長けた閣僚どもに悟らしめ、彼らの心に安堵を与え、楽な気持ちで裏切りを打てるよう導く材料にもなったろう。
(敵は細かく分断するに限る。可能な限り調略し、戦う前に立ち腐れの状態までやってしまうのが最上だ)
そうした狙いからも、ひとつ懐柔を試みたが……最後の最後、三獣士に横から引っくり返された。
(しかし、これでもう、舞台袖には誰も居ない。横合いから殴りつけられる危惧は不要。全員表に引っ張り出して、ふふ、随分やり易くなったじゃあないか)
最上ではなくとも、及第点は超えていると判断してほくそ笑む。
始まるのは妥協を排した三つ巴。三者が三者、自分以外の全滅を欲し、血みどろになって殺し合う。戦いは混迷を極めるだろう。
そしてこの種の
「ならば貴様は国賊だ。駆除すべき、下劣な売国奴というわけだ。よろしい、アーレルスマイヤーの手並みを見せてやる。どいつもこいつも、次の目覚めは血の池だ――!」
層々と積み重なった黒雲から、気の早いしずくが一滴、地に降りた。
船の舳先に命中し、矮躯を砕き、たっ、と孤独な響きを残す。
彼の仲間がその背を慕い、大挙して押し寄せる頃にはもう、船の上では四つの命が消えていた。