月光が導く   作:メンシス学徒

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捏造設定多数。
散々迷いましたが、これで行きます。




02

 

 

 

「―――と、無駄話が過ぎたかな。そろそろ本題に入ろう、オーガ隊長」

 

 実務的な話が始まった。

 中央に於いて決定された政策の最新情報と、それがこの辺りの民心に及ぼすであろう影響の検討。

 地図を睨み、ピンを立て、書き込みを入れつつの重要巡回区域の策定。

 部下の錬度とその教育内容、及び不満についても慮ってやらねばならない。

 その最中、不意に犯罪発生率の推移や検挙数について明確な数字を訊ねられることがある。

 これに対して必要以上にまごついたり、先に提出した報告書と大幅に食い違う発言をした暁には、たちまちあの目がナイフのように鋭く光って襲いかかって来るのである。オーガは絶えず緊張を強いられ、必死の思いで記憶野を活性化させねばならなかった。

 甲斐あって、どうやらさしたる失態も演じずに済んだらしい。オーガは神に感謝した。

 このまま何事もなく、平穏無事に終わってくれと懇願までした。

 

「ああ、そうだ」

 

 それがいけなかったかもしれない。

 この業突く張りめ、と神が天から雷を降らすイメージが勝手に脳内に発生した。何気なく放たれたコジマの言葉は、それほどの凶兆を孕んでいた。

 

「お友達のガマル君は元気かね。ほら、油屋を営んでいるという彼だよ、彼。最近、とりわけ仲がよくなったというじゃあないか」

「―――」

 

 なんのことやら、と言おうとして出来なかった。

 喉に鉛玉でも突っ込まれたかの如く息苦しい。肝が縮まり、胃がひっくり返りそうになった。蛇に睨まれた蛙の心地は、きっとこんなものだろう。血管に氷水が流されたようで、指一本たりとて動かせない。

 

(ばれている)

 

 オーガは全てを覚悟した。問いかけを装ってはいるが、長官には絶対の確信があるのだろう。彼女の地獄耳は有名である。独自の諜報員を帝都全体にばら撒いて、上は皇帝の朝食から下は浮浪者の戯言めいた噂話まで悉皆存知しているという。

 オーガとてそれは聞いていた。だからこそ、このダークブルーの双眸に常に見張られている感じがして、賄賂を差し出されてもその都度不安がよぎったのである。

 

(……これを受け取ったら)

 

 握った腕ごと叩き切られるのではあるまいか。

 血を噴き上げながら舞い飛ぶ己の両腕を、オーガははっきり幻視した。妄想とは呼べまい。なにせ、コジマ長官が隊長格相手だろうと躊躇を挟まぬことは既に実証済みである。幻視が真に迫る生々しさを帯びていたのも道理であろう。

 が、その不安を掻き消すほどに、商人どもが押し付けてくる心づけが魅力的に過ぎた。黄金の輝きを見ていると、次第に心に麻酔がかかり、恐怖心が溶かされて手掴みに取ることしか考えられなくなってしまう。

 オーガは誘惑に屈した。耽溺したといっていい。

 金額が増えるにつれ、要求の過激さも増していった。

 最初は証拠を握り潰すだけでよかったはずが、いつの間にやら権力を盾にした恫喝や脅迫へと姿を変え。

 まずいか、と薄々思いつつも一線を越えてしまった以上後戻りなど出来る筈もなく―――すればガマルは間違いなく自分を道連れにしようとするだろう―――。

 遂に先日、来るべきものが来た。邪魔な人間に罪を被せて消してくれ、と言うのである。

 かつての帝都では日常茶飯事な、しかしコジマが警察長官の椅子に着いた今となっては余程の覚悟を要する「依頼」であると言っていい。

 流石に、オーガは躊躇した。

 その動揺を、ガマルは目聡く察知した。

 

「やはり、駄目ですかな。長官があの方になってからというもの、誰も彼も尻込みしてしまって。さぞや恐ろしい人なのでしょうね、コジマ・アーレルスマイヤーとは」

「……あ?」

 

 例え真実であろうとも、自分一個の裡に蔵しているのと他人の口から語られるのとではまるで違った印象を受けるものだ。

 この時のオーガがそうだった。普段こそ彼女の恐ろしさを素直に認められていた筈の彼が、

 

 ―――こわいんでしょう。

 

 こんな子供の悪口めいた挑発一つで、見事にその感情を逆方向に振り切らせた。

 

「俺がビビッてるって言いてえのか、おい」

「いえ、そんなことは」

 

 曖昧に笑うガマルに、オーガは執拗だった。

 

 ―――もういっぺん言ってみやがれ。

 

 と迫り、遂には、

 

「誰があんなケツの青い小娘一匹にビビるかよ。おおいいとも、望み通り殺ってやらあ」

 

 金に目が眩んだというより、コジマに対して常日頃から鬱積していた不満こそがオーガの首を縦に振らせた。

 翌朝になってまずいと気付いたが、既に前金まで受け取ってしまっている。やるしかないのか、と覚悟を決めかけたところにこの視察である。どんな馬鹿でも何らかの作意を感じずにはいられまい。正味な話、コジマが部屋の扉を潜って入ってきた瞬間からオーガは生きた心地がしなかった。

 

 ―――知っているのか。

 

 いっそのこと、叫び上げて楽になりたいと何度思ったか分からない。ところが案に相違して、いつも通り実務的な会話ばかりが展開される内につい希望を見出した。これはひょっとすると、杞憂に終わるのではないかと期待した。

 その油断を、コジマに容赦なく衝かれた。心憎いばかりに絶妙な間の外し方であった。

 こうなると、総てバレていると考えるしかない。

 

(畜生、あれだけ用心したってのに)

 

 自室にガマルを呼びつけるようなヘマはしなかったし、接触時間もなるたけ縮めて人目を忍び、細心の注意を払っていたはずだ。それでもバレた。彼の努力など所詮は小器量者の浅知恵に過ぎぬと嘲笑されているようだった。

 

「……まあ、仕事柄付き合いが多くなるのは已むを得まい。多方面に顔が利かねばとてもやってられんからな。蛇の道は蛇、兇賊を捕えるには連中の通る裏道に精通した情報源も必要だろう」

 

 こつ、こつ、こつとブーツが近付く。

 手袋に包まれた指がすらりと伸びて、オーガの眼球、数ミリ手前まで迫っても、彼の金縛りは解けなかった。

 

「だがな、節度は守りたまえよ。次の日にまで酒気を引き摺り、この建物を穢すようなら、残った片目も塞がるぞ」

 

 コジマは物事に線を引いている。限度を示す線である。

 この内側に留まる限り多少の悪戯は寛恕してやってもいいが、一歩でも踏み越えた瞬間、不倶戴天の敵になる。例え相手が誰であろうと何処何処までも喰らいつき、必ず殺すと決めているのだ。

 オーガの爪先は、今、線の数ミリ手前にある。丁度、彼の眼球とコジマの指との関係のように。

 

 

 

 ―――遺憾ながら、贈賄行為を地上から根絶しきることは出来ない。

 

 それがコジマの諦観だった。人が人である限り不可能だ、とさえ思っていた。この手の悪事は取り締まる側がどんなに法網を整備しても、手を変え品を変え、ときにこっちが感心したくなるほどの巧妙さでしぶとく生き延びてみせるのだ。

 

(不完全な存在である人間が社会を形成する以上、ある程度の腐敗は仕方ない。受け入れるべきだ。完全に潔癖な社会というのも、それはそれで息苦しかろうしな)

 

 だから、重要なのは度合いである。

 オネスト大臣との会話で触れた寄生虫のように、宿主である社会を食い潰さぬ程度に腐敗を調節するのが肝要だ。

 

 ―――賄賂は文化。

 

 などというたわけた台詞が半分本気で語られるこんな国であったとしても、表向きは犯罪として扱われているのだから大人しく人目を忍んで影の中でせせこましくやっていればいいものを、どうしても人は増長する。

 繰り返す内に後ろめたさは消え、罪を罪と認識出来なくなり、結果どんどん傲慢になる。「みんなやってる、何が悪い」なんて頭の悪い台詞を大真面目に口にしだす。

 

(だから法の守り手たる我々は、定期的に思い上がった馬鹿を白昼堂々逆さに吊るして水をかけ、心胆寒からしめてやらねばならない。―――一罰百戒、いい言葉だ)

 

 出ては叩き、出ては叩き。

 それを延々続けることで、徐々に―――それこそ牛歩の如くゆっくりと―――閾値を下げて行く。これほど根深い問題に対しては、腰を据えてじっくりかかる以外ない。 

 こうした考えを、少女時代に「姉」との語らいを通してコジマは形成し終えていた。

 

 

(どうも、この風向きは)

 

 差し当たって、今すぐ自分を殺す心算はコジマ長官には無いらしい。

 彼女の言葉を解き解すべく何度も何度も反芻し、これが最後通告であるとやっとのことで理解すると、オーガの金縛りは漸く解けた。全身から汗が噴き出し、腰が抜けてどっと尻餅を着いてしまう。それを恥だと、みっともないと思えないほど、オーガは疲弊しきっていた。

 

「ガマル君との友人付き合いがこの先どう推移するのか、興味深く見守らせて貰うぞ。手を切るにしろ改善(・・)を図るにしろ、君の裁量でやってみたまえ。その結果如何で私から君に下す処分も変わるだろう」

「………何故です」

「なに?」

 

 だが、極限の疲弊は時として人に真実の声を上げさせる。自らを取り繕う余裕さえも失ったとき、人は思いもかけず赤心を吐露してしまうのだ。

 勝手に動き出そうとする口を、オーガは最早止められなかった。

 

「何故、俺達警備隊ばかりがこんな目に遭わなきゃならねえ。なんでこんな、報われない努力を続けなくちゃあならねえんだ」

 

 多年に渡り胸中に鬱積していたものが、次々溢れた。

 

「俺達がやっているこたァ何です。命を懸けて、必死に凶悪犯を追っかけて、やっとの思いでとっ捕まえてもそれを裁くのは司法官の連中だ。俺達以上に深く腐りきってやがる、正真正銘の猖獗だ。国のために戦った軍人さえも金額如何で平然と監獄にぶちこむ連中ですぜ。金を積む相手が警備隊(おれたち)司法官(あいつら)かの違いしかないじゃないですか」

「だから金を受け取って罪を擦りつけて何が悪いと、そうとでも言う心算かね」

「ああそうですよ、何が悪いってんだァ!」

 

 忘れもしない。

 同期の友人を惨たらしく殺した異常性癖の連続殺人犯が、三日もせずに出獄した。

 貴族の息子だった。

 積み上げるカネと、それを活かすコネを持っていたというだけで。

 あれだけのことを仕出かしておきながら、堂々日の当たる街道を歩いていた。

 それどころか、彼を逮捕する際、既に投降していた相手に必要以上の暴行を加えたとかふざけた言いがかりをつけられて、現場指揮官が首を切られた。

 防衛行動を名分に犯人を殺そうとする新人を、どうにか抑えたのは彼だったというのに。

 気前のいい、感情量の豊かな、尊敬できる上司だった。

 一週間後、彼の死体が川に浮いていた。

 明らかに拷問を受けた痕があった。

 検死官は自殺と断定した。

 何もかもどうでもよくなった。

 そして一度受け入れてしまえば、意外と居心地は悪くない。

 強者に媚びへつらい、弱者をいたぶっているだけで、自然と出世の道が開けていった。

 帝都警備隊隊長の座に就いたとき、オーガはやっと理解した。ああ、これが、これこそが、正しい世の姿だったのだと。

 この腐臭に満ちた街で王を気取り、権力の甘美さに陶酔した。漸く自分の人生が正しく回転し始めたように思えた。幸福だった、幸福だったのだ―――目の前ですまし顔で佇む灰色髪のこの女が、遥か天上の御座にて何かおかしなことを始めるまでは。

 

 

 

 オーガは、洗いざらいぶちまけた。

 

 ―――あんたのやってることは全部無駄だ。

 

 とまで叫んだ。

 

 ―――世間知らずの坊ちゃん育ちの小娘が、薄っぺらい正義感振り回して図に乗りやがって。

 

 これなど、何故まだ彼の首が繋がっているのか分からなくなる発言だろう。オーガ自身にも疑問であった。何故この女は、ああまで暴言を浴びせられて平然としていられるのか。

 ―――否、平然としている、どころではない。

 

「……懐かしいな」

 

 あろうことか、コジマは穏やかな顔をしていた。

 目を細め、オーガを通して何処か遠くを眺めているような風情である。オーガは気味が悪くなった。

 

(おかしいんじゃねえか)

 

 頭が、である。

 おそるおそる、訊ねた。

 

「何が懐かしいんです」

「私も昔、君と同じようなことを言った」

「えっ」

「相手は姉だったよ。その時のことが思い出されて、つい、な」

 

 余程輝かしい思い出らしい。口元を柔和に緩め、コジマはぽつぽつと語り出した。

 

 ―――彼女は夢見がちな人だった。

 

「私とは正反対に、心の底から性善説を奉じていてな。物窮ずれば通ず、だったか? どんなに事態が悪化の一途を辿っても、いや、最悪の状況にまで陥ればこそ、却って活路は開かれる。夜明けは必ず訪れる。暗黒の泥濘の上にこそ、自ら燐光を放つ瑞々しい蓮の華は開くのだ。嘘じゃない、この手で開いてみせてやると事あるごとに豪語していた」

 

 ―――それがまぶしくて、うっとおしくもあった。

 

「彼女の笑顔を曇らせたかった。先を行く者の足を引っ張りたくなる衝動と一緒だよ、私は姉ほど楽天的にはなれなかったからね。花になるより、一緒にこの泥濘に沈んでいて欲しかった。甘っちょろい考えだと、現実を知れと何度言ったかわからない。分際を弁えろ、何をやろうが世は変わらん、貴女の情熱はまったくの無為、ただの徒労でしかない。―――……」

 

 いつの間にやら、自分が息を詰めまでしてコジマの言葉を拝聴していることにオーガは気付かない。この女長官にもそんな時代があったのか、と青天の霹靂を喰らったような思いがした。

 

「すると、姉はこう言ったのさ。―――“そうだね、私は『結果』だけを求めてはいない”」

 

 ああ、これは、この言葉だけは、何年経とうと忘れない。

 何故ならこれこそ私の人生を決定付けた一言。暗夜に迷い、挫けそうになる私を支えた、もう一つの月光なのだから。

 

「“『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ………近道をした時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく”」

「“大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあればたとえ何回失敗したっていつかはたどり着くでしょう? 向かっているわけだからね………違うかな?”」

「―――、―――、―――、それ、は」

 

 今度こそ、ハンマーで頭をぶん殴られたような衝撃だった。

 なんという高潔さ、なんという人間性、まるで黄金のような意志の言霊。

 これほどまでの感動を、かつて味わったことはない。自分にそんな資格はないと理解しつつも、こみ上げて来る熱いものを止められなかった。

 

「信じられるか、まだ十四の乙女がこんなことを言うんだぜ。彼女は本当に不思議な人でな、他にも色々な事を教えてくれたよ。どうやってあれだけの叡智を練り上げたのか、それなりに読書家を気取れるようになった今の私ですら見当が付かん。生きていれば哲学者として、或いは思想家として、さぞや一世を風靡しただろうに」

「……生きていれば? では、まさか長官の姉君は」

「ああ、死んだよ」

 

 さらりと言ってのけるコジマである。

 

「―――」

「死んだ。もう随分と昔の話だ。虫のように殺された」

「そん、な」

「だが、意志は生きている」

 

 火山弾を噛み潰すような、凄まじい決意の籠った言葉であった。

 

「これも姉の受け売りだがね。―――真実から出た『誠の行動』は、決して滅びはしない。滅ばないのだ、絶対に。姉は死んだ、儚くも。だが、彼女の願いは、意志は生きている。この私の胸の裡に今も在る。かつて私は姉と同じ夢を見た、この世界のこの大地に、我々の理想の国家を築き上げると。その夢を、私は必ず実現させる。必ず、必ず、必ずだ。彼女の信じたこの夢が、真実から出た誠であると証明してやる」

「……子供の夢が、国を、世界を振り回しますか。巻き込まれる側は堪ったものじゃありませんな」

「まあ許せ。―――それにな、別段今に始まった事じゃあるまい。理想なんてものは本より総じて子供っぽいものだろう」

「はっ―――」

 

 たまらぬとばかりに、オーガはとうとう吹き出した。ああ、まったくこいつはなんという、規格外の怪物だ。重々承知していた心算であったが、甘かった。コジマの真の恐ろしさは、単純な戦闘能力などにない。その力を行使して何事かを成し遂げようとする意志の強さ、延いては魂にこそ宿る。

 単純に、異常なのだ。その密度も熱量も形状も、何もかもが常人の想定枠を遥かにぶっちぎっている。この手の人種が至れる未来は二つに一つしかないだろう。勝利し、走り抜けた果てで何もかもを手に入れるか、志半ばで斃されて死体をどぶに棄てられるかのどちらかだ。

 家族を守り、平穏無事に生きて行ければそれでいいという発想にどうやっても甘んじられない。必ず自らの志を世に向かって実現させようとする。

 その結果世界に強いる犠牲ときたらなまじっかな悪党より余程巨大なものとなるが、本人が疚しさを感じることはない。

 果てしなく暴走する巨大な車輪のようなものであり、距離を取る以外に対応策などないのだが、その質量と外連味のなさから妙な引力を生み出して人を惹き付け、共に暴走行に加えようとするから性質が悪い。最後まで着いて行ける者など、ほんの一握りに過ぎないというのに。残りは皆悉く、轍を彩る鮮血にしかなれないというのに。

 オーガはそんな末路などまっぴらだった。まっぴらだと、懸命に思おうとした。

 

「ははは、ははははは―――まったく、付き合いきれねえや」

 

 立て掛けられた剣を取り、出て行こうとした。

 

「何処へ行く?」

「巡回に出てきます。頭を冷さないと、とてもやってられない気分でしてね」

「そうか。まあ、偶には初心に帰るのもいいだろう」

 

 コジマは止めなかった。が、今にも部屋を出ようとするオーガに向かって、

 

「ただ、腹は切るなよ」

 

 と、釘を刺すのを忘れなかった。

 

「な―――んの、ことでしょう」

「そんな顔をしていた」

「………」

「よくやるんだよ、皆。自分の身さえ犠牲にすればあらゆる責任が果たされるような気になって。だがな、一死を以って大罪を謝す、なんてのは精々敗軍の将のような特殊な環境下でのみ成立し得る特権だぜ。君がそんな恩典に浴せると思うか。そうでもなしに勝手腹を斬るのは畢竟ナルシズムの変形で、ヒスを起こした女とさして変わらんのだが、何故か本人だけが気付かない。全く以って困ったものだ」

 

 どうやら自分の頭蓋骨はいつの間にやらガラス張りになったらしい。何もかも見透かされている、と観念する他なかった。

 

「……では、俺は一体どうすれば」

「もう言った、自分の頭で考えろ。そうでなければ人間の発達などあるものか。ヒントを求めて書を漁るのも、縁を頼るのもいいだろう。兎に角『奴を殺して自分も死ぬ』以外の答えを出してみせろ。私がそれを添削するまで、とりあえず命はとっておけ。なに、心配するな、落第点だったなら即座にこの手で殺してやるさ」

 

 この異常な発言が、オーガの心に風を通した。

 

(ああ、そうか)

 

 何を頓悟したかは本人自身さっぱりわかっていないのだか、急に心が広々として、許されたような気分になったのは確かである。

 

(俺の命は、もう俺の好き勝手に出来るものですらないのか)

 

 そのことに、ぞくぞくするような喜びを感じるのである。

 普通、自らの生殺与奪を握られて喜ぶ馬鹿もいないだろう。よっぽどの変態でもない限り有り得ない。

 が、よくよく考えてみれば、人生の苦しみは自意識からこそ生まれている。ならばいっそ、この自分という荷厄介な代物を丸ごと他人に委ねてしまえば、後に残るのは重石から解放されのびのび動く肉体と、解脱にも似た法悦ではあるまいか。

 二流以下の人間にとって、誰かの道具になる以上に甘美な生き方はないのかもしれない。

 そしてコジマ・アーレルスマイヤーは、魂を売りつける相手としてこの上ないほど信頼出来る最高の買い手だった。

 もはやオーガは、コジマの引力に抗う気力を失っていた。

 その果てに彼女の轍を彩る真っ赤な染みの一つになろうとも、それはそれでよいではないか、と思うようになっていた。

 

「―――了解致しました、我らが警察長官殿」

 

 別人のような謹直そのものの声で言うのである。

 

「不肖オーガ、半熟の脳漿ながらも搾りに搾って考えてみせます」

「うん、頑張れ。君がどんな絵を描き上げるか、私も楽しみにしているよ」

 

 ―――願わくば、それが聖血を注ぐに値する出来であらんことを。

 

 謎めいた言葉を残し、コジマは去った。残されたオーガは、この日を境にあらゆる苦悩から解放されて永遠に醒めない夢のような陶酔の渦へと堕ちていった。

 人間にとっての幸・不幸など、まるで見当がつかない。

 

 

 


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