月光が導く   作:メンシス学徒

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 繰り返すようだが、帝都は広い。東西南北にこれだけの幅があるならば、四隅の気温や天候にちょっとした差さえ生まれてくるほどである。

 そんな広大な版図の悉くが市街地で埋まるなど、むろん有り得る話ではない。東には千から千五百メートル程度の標高の、大凡なだらかと呼んでいい山々が肩を並べて、南に目を転ずれば、我々のよく知る琵琶湖を丸々呑み込んでしまえる程に巨大な湖が、悠然と面を空に向けている。

 水。

 そう、水だ。

 魔術にせよ呪術にせよ、およそこの世ならざる領域に手を伸ばさんとする学問に於いて、水はしばしば重要な因子として扱われる。

 それは宇宙の本質に迫らんとする、啓蒙的真実の探求者達にとっても変わらない。特に大量の水は眠りを守る断絶であり、故に神秘の前触れとされる。

 だからこそ、涜神も恐れぬ好奇心の奴隷どもは、こぞってその先を目指すのだ。例え、誰一人戻ってこないという痛烈な現実を浴びせられても、性懲りもなく、何度でも。

 そうした思想を継承するかのように、コジマ・アーレルスマイヤーの帝都に於ける血の医療の研究所は、とある湖の真横にあった。

 隣接しているといっていい。

 むろん、南の巨大湖ではない。あのあたりは優れた景勝地として人目が多く、ふとしたことから秘密の入り口が発見されぬとも限らないし、万一研究所の内部環境が取り返しのつかない悪化をみた場合、「最終的解決策」を実行する上で少々都合が悪すぎる。

 よって、コジマが選んだのは東部山脈。人も通わぬ山奥に、ひっそり佇む人工湖。

 この湖を成立させているダム自体が、丸ごと血の医療の研究所だった。

 実はこれ、帝国どころか全世界を見渡しても類のない、おそらくは史上初の中空重力式コンクリートダムなのである。

 堤高五十六メートル、堤頂長一〇八メートル。

 重厚にして雄大なたたずまいは極めて高度な力学上の計算に裏打ちされた、ある種の機能美の結晶と評して構わない代物であり、観光地化が図られ、各方面から称賛を寄せられるのが正当な扱いの筈であったが、あいにくと一般的な帝国臣民にはその偉大さを理解するだけの能がなかった。

 

(上と下との学力差は深刻だな。ピラミッド型どころじゃない、下が厚すぎ、上があまりにも先細りすぎている)

 

 頭を悩ます一方で、好都合なのも確かである。裏からあれこれ手を回し、コジマはこの内側に広がる空間を密かに占有。大いなる探求の場として機能するよう設えた。

 そのことと、釣り人すらこの人工湖を訪れることがなくなったのは無関係ではないだろう。餌に魚が喰いつかないばかりか、近付くだけでえもいわれぬ不安と困惑に蝕まれ、よほど病的な空想力の持ち主でもない限り到底思い付かないような奇怪な妄想をどう足掻いても振り払えなくなるのである。

 肝試しに訪れた向こう見ずな若者さえ、このダムの姿を一瞥すると急にアルコールが抜けたような顔付きになり、黙って踵を返している。その後、この件に関しては誰に訊かれようとも決して語らず、恰も一個の石像に化すが如しで、それだけでも類のない不気味な印象を周囲に与えるには充分だった。

 

 輸血液を注射されたサヨが運び込まれたのは、正しくこの施設である。

 

 当然の判断であったろう。

 潜在的獣の病罹患者を一般病棟に放置しておくなど、それこそ正気の沙汰とは思えない。立派なテロリズムとして認定していい行為である。

 以降、それなりに日が経つが、彼女が目覚める気配は、未だない。

 

 

 

「どういうことだと思うね、ドクター」

「そうねえ。検査してみた限りだと、心拍・呼吸・血圧・体温のバイタルサインに異常はないのよ」

 

 神ノ御手の異名を有する手甲の帝具、「パーフェクター」の使い手たるDr.スタイリッシュにとって、コジマ・アーレルスマイヤーとは好悪入り乱れる複雑な関係性の相手であった。

 悪感情を抱く根拠としては、この女の所為でかつてほど自由に人体実験ができなくなったのが一点。

 

 

「囚人といえど、未だ帝国臣民としての権利を有します。制限はされますが消滅したわけではありません。二食を以って賄われ、何らかの臨床・投薬実験に於いても本人の同意を必要とし、結ばれた契約が歴とした法的拘束力を有することからもそれは明らかでしょう」

 

 然るに、不審ですな、とコジマは続けた。

 

「死刑囚にすら保証されるこれら最低限の権利条項が、なにゆえ家族のために我が身を捧げた憐れな少女に付与されぬのか。金がないということは、人殺し以上の悪徳だとでも言うのでしょうか。いいや、否、否、そんな馬鹿な話はない。決して、あってはならないのです」

 

 時期的には丁度、貴族的悪趣味の精髄たる拷問蔵を摘発していた最中である。

 流行の終息を予見して、しかし彼らのような人種が一度覚えた甘美な味をそう簡単に手放せるわけがないと見抜いた一部の女衒が、またぞろ下劣な企画を立て出した。

 そのやり口は敢えて語るも愚かしいほど、貴族達のそれと同一なりといっていい。何も知らぬ田舎の娘を甘い言葉と歓待でもてなし、緊張がときほぐれた頃合を見計らって一気に地獄へ落とすのである。

 

 ―――わしらに比すればまだまだ未熟。されども、その手並みに光るものがあるのもまた事実。なにより合法なのがいい。

 

 ということで、コジマを恐れた多くの貴族がそちら側へと流れて行った。市場の声に、女衒どもは見事に応えたと評していい。

 ただ、機密保持に関しては、彼らはまるで素人だった。この潮流は、すぐにコジマの耳に入った。

 

「私の振り撒く恐怖まで金儲けの出汁に使うか。これだから商人という連中は」

 

 呆れたように呟いて、とはいえ放置するコジマではない。

 これを見逃せば仏作って魂入れず、虎を描いて毛を忘れるようなものだろう。早速行動を開始した。幼帝の前で、前述の発言をぶちあげたのである。

 

 まあ、現実には囚人の権利保護とてとっくに空文化されているのだが。

 

 しかしながら、この幼い皇帝は多分に現実から乖離した幻想世界に棲んでいる。この鳥籠(せかい)から逃さず、虜にし続けることに大臣の苦心の全てがあり、かつこの花園(せかい)にあって囚人とは自らの罪を悔いて深く反省し、更生のため進んで獄舎の鎖に繋がれているものだった。

 それを今更、少々都合が悪くなったからといって、すみませんあれは嘘です大嘘です、本当は誰一人として納得して刑に服する者などおりません、それどころか出所()て来られると困る輩は牢名主に殺させるか強制的に人体実験の材料にして表向きは病死と処理してしまっています、などと暴露出来るわけがないではないか。

 結局のところ、制限はされているものの、囚人にも一定の権利が保証されていることを前提として議論を展開せざるを得ないのである。

 

(まんまと逆手に取られましたか。小癪な真似を―――)

 

 そして、この前提を覆せない以上は、如何なオネストとてコジマを口で圧倒するのは不可能だった。

 なにせ、この女の弁舌技巧は劇団仕込みである。

 

 ついでながら触れておくと、そういう噂があるのだ。帝都に出る前、未だアーレルスマイヤー家を継がざる時分にとある劇団の一座に身分を隠してこっそり師事し、あらゆるノウハウを汲み上げた、と。

 発声方法から空間に合わせた声量調整、効果的なジェスチャー、及び観客の情感を鷲掴みにする抑揚の付け方に至るまで、悉くを学んだという。

 なるほど演説も演劇も、要するに人を惹き付けねば始まらない。根底に流れる技術を応用可能と見た発想自体は平凡で、だからこそ説得力があるだろう。この風説は、或いは真実だったかもしれない。

 

 それはよい。

 重要なのは、その技術を惜し気もなくふるまわれた皇帝である。

 コジマは説いた。

 具体的な実例を幾つも交え、売り飛ばされた少女らが、如何に憐憫を垂れるに相応しい生物であるかを説き抜いた。

 たちまち彼の網膜上には痩せ細って凍え死ぬ幼い少女の姿が浮かび、あまりの悲惨さに血の気が退き、小刻みに震え、何度か悲鳴を上げさえした。

 

「なんということだ、余の治める帝国に、よもやそんな悲劇が罷り通る場所があったとは。―――」

 

 大勢は決した。

 娼妓取締規則を筆頭に人身売買に関連する諸々の法案が新たに制定、乃至改定された。

 とはいえ、オネストとてただで転ぶタマではない。これらの草案に意見して、コジマから一定の譲歩を引き出すことには成功している。

 例えば、権利が保証されるのはあくまで帝国臣民に限り、異民族にはこれを認めない。彼らの身柄のやりとりは変わらず奴隷取引であり、一切の人権が許されず、どのように処置するも購入者の自由であった。  

 抜け道を残したといっていい。また、法の不遡及原則も適応された。例の下劣な見世物を散々やったといえど、そのことで女衒どもはしょっぴけない。彼らを捕えられるのは、法律施行後にそれが行われた場合のみである。

 

(やはりこうなったか。まあ、この辺りが落としどころとして妥当よな)

 

 政界を遊弋するにあたって如何に平衡感覚が重要かは、敢えて語るも愚かしい。一方的な完勝ほど危険なものはないだろう。

 よって、表情だけはしぶしぶ繕い、

 

 ―――それで結構。

 

 と、コジマは譲歩を受け入れた。

 善悪は別にして、オネストは奮戦したと評していい。

 が、スタイリッシュのようなマッドサイエンティストにとっては冗談ではない。

 

「役に立たない官僚どもめ、あの偽善者の倍以上も生きていながら、まったく何てていたらく(・・・・・)よ!」

 

 一見すると彼にはまるで関係ない世界の話のようであるが、さにあらず。

 

「あの女が、これで終わりにするわけないでしょう!」

 

 職業上、数多の定理に通暁するスタイリッシュにはこれからの展開がありありと見えた。

 今回の「成果」を橋頭堡に、コジマは人権という、科学の発展上邪魔でしかない長物の伸張を図るに違いないのだ。スタイリッシュに言わせれば、これは力学的必然の現象である。

 

「だからこういう議論では、一歩も退くべきじゃなかったのに! ああもう、一人残らず麻酔無しで目玉を抉ってやりたいわ!」

 

 普段の優雅さ―――少なくとも、本人の認識内に於いては―――をかなぐり捨てて、地団駄を踏む様子が側近たる「目」や「耳」によって確認されている。

 が、それも仕方あるまい。

 これより訪れるに相違ない、研究者にとっての暗黒時代を考えれば、外聞を取り繕う余裕など残しておけるわけがないではないか。地団駄程度で済んでいるぶん、彼はまだしも理性的といっていい。

 

 

「やあ、邪魔するよ」

 

 

 そんな修羅場へ、ふらりと本人がやって来たのだからたまらない。

 一応その研究所はごく一部の限られた者しか知らない、入念に隠蔽された施設だったのだが、コジマは当たり前のように現れた。

 侵入者を探知する警報の類は、最後まで静かなままだった。

 

「なあドクター、君は歴代の、どの皇帝を以って最も偉大なりと考える? ああ、始皇帝はむろん抜きでな」

 

 彼の功績はあまりに巨大だ、比較対象に用いるのは酷であろうよ、と肩でも抱いてきそうな馴れ馴れしさで言うのである。

 

「―――」

 

 それを不気味とも、鬱陶しいともスタイリッシュは思えなかった。

 目下最大の憎むべき怨敵が、こともあろうに手勢も連れず、自陣の最奥、正に懐に居るにも拘らず、である。

 これ幸いと袋叩きに処するべく、部下達に号令してもいいであろう。普段のスタイリッシュならば、間違いなくそうしていた筈だ。話を合わせるふりをして時間を稼ぎ、こっそり配下に指示を下して脱出不可能な蜘蛛の糸を紡ぎ上げ、同時に自分を安全地帯へ運ぶ手段も模索していたに相違ない。

 

「―――」

「どうした、返事がないぞ」

 

 が、この瞬間。スタイリッシュは総ての思慮を喪失していた。舌をもぎ取られたかのように絶句して、ひたすらとある一点ばかりを見詰めている。

 

「―――」

「ふむ、人に訊ねるのならば、まず自説を述べてみろ、ということか。いい根性じゃないか、気に入った。よし、ならばひとつ語るとしよう。―――私は断然、六百年前の彼の帝、臣具を創らせた皇帝だ」

 

 そのうち眼球が乾燥し、血涙が滴る段に至っても、彼は瞬きをしなかった。

 これを見ながら視力を失うならば構わない。最後に見た光景として永遠に網膜に刻めるならば、むしろ進んでそうしたいとさえ思ったろう。

 思ったろう(・・)と、推量の文体を用いたのは当時の彼が、まったく思考という機能を紛失してしまっていたからである。

 

「始皇帝の功績は絶大にして無類。ああ、そのことは認めよう。しかし、だからと言ってひたすら彼を仰ぎ見て、その遺産に縋るばかりでは駄目だろう。情けない進化どころか退化の一途を辿っている」

 

 こんなものは堕落だよ、恥以外の何物でもないと、コジマは大仰に嘆いてみせた。

 

「先人に敬意を払いつつも、彼らの先へと進まんと、超えて行こうとする気概こそが子孫たる我らに課せられた義務ではないか。然るに、現状たるやどうであろう。いつまで帝具を至高の地位に据えておいてやる心算なのだ? ―――いい加減にその座を簒奪してやらなければ、誰よりも始皇帝に対して申し訳が立つまいよ」

 

 だからこそ、その気概を多少なりとも有していた彼の帝を敬すのだ、と続く。

 むろん、スタイリッシュは聴いていない。

 耳には入っている。鼓膜を震わせ、耳小骨を揺らし、蝸牛を通して電気信号へと変換され、ちゃんと中枢へと送られている。

 だが、情報を処理すべき脳味噌が、それら電気信号を意味のある文章として解釈するのを放棄してしまっていた。

 それもむべなるかな。この研究室に姿を現し、スタイリッシュに声をかけたその時点から、コジマの手には月光の聖剣が握られている。

 

「―――……素晴らしい。なんて、美しいの」

 

 出し惜しみはない。月の光を凝縮させた青い刃は宇宙の深淵そのもので、漂う粒子は月光蝶の鱗粉か、それとも深海に降る夢幻の六花(マリンスノー)か。

 いや、降る(・・)では語弊がある。これは上から下へと落ち行くものではないのだから。

 果ても見えない海の底の深みから、音もなく無限に立ち昇って来るものだ。

 ああ、あの昏い淵の向こう側から予感がする。

 海の底に出現した更なる水面。塩分濃度の極端なまでの差異こそがこんな幻想的な光景を生むのだと、何時か、何処かで耳にした。

 にしてもこの、墨汁めいた暗さはどうだ。塩の濃い・薄いで、本当にこんな色彩が現出するのか。

 夜の闇よりなお黒く、瞼の裏より生々しい、こんな無明の澱みからあれほどまでに美しい粒子が立ち昇って来るのだからこの世の仕組みは分からない。

 ああ、ちょろり、ちょろりと音がする。奈落の水面が波打っている。

 きっとあの中に飛び込めば、途方もなく素晴らしい、これまでの人類史に例がないほどの光栄が、矮小な我が身を包んでくれるに違いない―――……

 

「お、おおっ、おおああああああぁ………!」

 

 手段も経路もまるで違えど、真理に至る研究を進めていたから分かるのだ。

 あれが、あの聖剣が、あの輝きが、いったいどんな意味を持つモノか。どれほどの価値を、持ってしまっている(・・・・・・・・・)モノなのか。

 何故だ。

 何故こんなものがこの世にある。

 石器時代の遺構から、スーパーコンピューターが発見されるに等しいオーパーツ。

 これに比べれば、自分が今まで創り上げてきた「作品」どもはどうであろう。投薬と外科的手術による身体能力の増強? 人間を細胞レベルで危険種へと変性させる? 脳を残して、肉体を機械と入れ替える?

 ああ、なんて、なんて慎ましい改造だ。思わず赤面したくなる。

 本当に度外れたモノとはそうではない。今、それをはっきり思い知った。知らされた。危険種などという、所詮はこの惑星の重力圏から脱することも叶わない、中途半端な生物を手本としていたことがそもそも間違いだったのだ。

 本当に目指すべき高みとは、空にある。

 あの暗黒の大海を這いずるように遊泳し、煌く星々の回廊を自由自在に練り歩く、真に偉大なる上位者こそが理想と仰ぐに相応しい。

 

 スタイリッシュをしてそのように啓蒙せしめた月光を、コジマは何の前触れもなく消失させた。

 

「ちょっとお!」

「取引だ、ドクター」

 

 抗議に声を荒げつつ、掴みかからんとする気勢を示したスタイリッシュ。衝撃醒めやらぬ彼をやんわりと宥めてやりながら、コジマは本題を切り出した。

 

「君をめくるめく神秘の世界へ導こう。その代わり私の研究に、啓蒙的真実の探求に、どうかその手を貸して欲しい。我が師、我が導きたる月光を、私はより深く知る必要がある。これまではどうにか一人で廻してきたが、いかんせん」

 

 ここのところどうも手詰まり気味でね、所謂スランプというやつだよ、と灰色髪を弄びつつ告白するコジマであった。

 

「折角帝都に居るのだ、ここはひとつ、私のような紛い物ではない、本職(プロ)の医療者の智慧を得たいと思ってな。どうだろう、手を貸してはくれまいか。君にとっても悪い話ではないと思うが」

 

 返答は、最早語るに及ぶまい。Dr.スタイリッシュはむしゃぶりつくようにコジマ・アーレルスマイヤーの手をとった。

 

 

 

 これがコジマに対して好意を抱く方の理由。

 あのまま研究を続けていても永劫に知覚することは出来なかったに違いない、豊潤な叡智にあふれた新境地へと蒙を啓いて案内してもらった恩である。

 

 少々、余談が過ぎたきらいがある。時系列を現在へと戻そう。

 

「脳波や眼球運動を調べても、夢さえ見ない深い眠りが続いているとしか言えないし。正直、説明を求められてもお手上げよ。血の医療が気紛れなことぐらい、貴女だってよく分かってるはずでしょう?」

「それを常に一定圏内の効果に留めるよう、調整するのが君に期待した役割なのだがね」

 

 ずけりと言葉の棘を突き刺され、スタイリッシュの背筋に冷たい汗が噴き上がる。

 コジマはそっと屈みこみ、薄く柔らかなサヨの瞼をめくり上げた。

 

(……蕩けてはいない。兆候すらも見当たらず、か)

 

 ひとまず安心出来る要素であった。

 

「やっぱり瀕死の患者に施しを与えた所為かしら。いえ、でも似たような状態に陥らせてからの投与実験ではこうはならなかったハズ。ルボラ病の病原体と何らかの相互作用を起こした? そんな馬鹿な、それならもっと人体に破滅的な影響が出ていていい。にも拘らず、バイタルサインは至って正常ということは―――」

 

 ぶつぶつと、頭脳を高速回転させているのだろう、思考の切れ切れをこぼしながらうろつき回るスタイリッシュ。そんな彼を放置して、コジマは更に顔を近付け、互いの瞳がほとんど触れ合わんばかりに寄せるのだった。

 

(どれ、ひとつ視てみようじゃあないか)

 

 サヨの焦げ茶色の虹彩を、ではむろんない。

 見通すべきは更に奥。変質し、弾力を帯びたコジマの脳液が蠢いた。三次元の向こう側を透かし視る思考の瞳、その雛形といっていい器官を以って、この治験者の精神が何処に在るかを突き止めるのだ。

 

「ぎ―――ぐ、お―――」

 

 あっと言う間に床が消えた。

 次いで重力が消失し、景色が混ざり、流転しながら上下左右の、そのいずれにも当て嵌まらない方向へと落ちてゆく。いや、それともこれは、昇っているのか?

 自我の境界線が曖昧だ。時間と空間の軛から解放されて、視力では有り得ない異様な感覚によりすべてが見える。

 瞳を通して流れ込む情報量に何度も何度も発狂しかける。人間の範疇に留まる限り―――脳などという不出来な思考機関に頼る限り―――とてもこれらを処理しきれない。脈絡もなく人間の視界を与えられた蟻だけが、コジマを苛む苦しみを辛うじて理解できるだろう。

 己が名を、口腔内にて擦り込むように繰り返す。私はコジマ、コジマ・アーレルスマイヤーだ。それ以外に名など存在しない。私はこの惑星の上に居るのだ。この時代で生きているのだ。此処に留まっていたいのだ。ああ、導きの月光よ。どうか私に、私を繋ぎとめる(よすが)を与えたまえ。………

 

 

「―――づッ、らああッ!」

 

 

 それはまるで、落ちて砕ける大瀑布から目当ての一滴だけを掴み取るが如き所業。

 脳と精神に多大な負荷をかけることを代償に、その不可能事を成し遂げた瞬間、コジマは総身の力を振り絞り、稚拙な瞳を閉じていた。

 周囲の機具を薙ぎ倒しながら仰向けにどうと横たわる。コンクリートの壁一枚を隔てた先が湖だからか、床がひんやりしていて心地よい。暫くは起き上がる気になれなかった。

 

「……使った(・・・)のね?」

「ああ、やった(・・・)

 

 こんな短い遣り取りでも、両者の間では充分に意図が通じ合う。

 血の医療の最終目的地。人の身にて上位者と伍する唯一の法。思考の瞳の情報は、早くからスタイリッシュに告げてある。

 そして現状、コジマ・アーレルスマイヤーの脳こそが、この星の上でそれに最も近いモノであることも。

 

(今なら、或いは)

 

 腹の底から欲情にも似た、ドロリと熱い何かがこみ上げて来るのをスタイリッシュは自覚する。

 解剖したい。

 実験したい。

 そうだ、まずはこの灰色髪を剃り落とそう。メスを取り上げ、露になった表皮を切り裂きめくり上げ、頭蓋骨を継ぎ目に沿って綺麗に外す。そうすればいよいよお楽しみだ。皺の一本一本まで見過ごさぬよう丹念に丁寧に押し広げ、思考の瞳をじっくり探そう。ああ、想像するだに股座がいきりたってしまって仕方ない。

 

(でも、駄ぁ目。駄目よアタシ。強いんだから、この人。これしきの疲弊じゃちっとも当てにならないわ。もっともっと弱ったところに、惜しみなく全戦力を注ぎ込んで捕まえるの。だから、ここは自重よぉ)

 

 好奇の狂熱を押さえ込むのは、時として溶岩を呑み込むよりもなお辛い。

 それを顔色も変えずやってのけ、あまつ何事もなかったように会話を営み続けるあたり、スタイリッシュの情欲が如何に強烈で抜き差しならないものであるかを逆説的に物語る。

 

「どう? 氷水でも持ってきましょうか」

「いや、いいよ。こうして暫く寝転がっていれば回復するさ。……ふふ、ふふふふふ」

 

 普段のコジマからは想像もつかない、力の抜けた、弱弱しい笑声だった。

 

「いやはや、まったく。私が視たものの十分の一でも、君に分けてやりたいよ。独占するには惜しすぎるし、誰とも語り明かせぬのが辛すぎる」

「そんなにも?」

 

 引き込まれるように訊ねた。コジマはこっくり肯いて、

 

「私は見たぞ、見たんだよ。星風を、超新星を、事象の地平を、銀河の織り成す貴き壁(グレートウォール)を。遍く驚異を焼きつけた。―――けれど、けれどね」

 

 そこで一旦言葉を区切り、さも大儀そうに上体を起こす。

 

「こんなものは所詮三次元世界の範疇に収まる代物に過ぎない。今は無理でも望遠鏡が発達すれば、いずれ誰もが目にするだろう。早い話が浅瀬(・・)だよ、思考の瞳に映るもの―――時間と空間と次元を重ね合わせて漸く覗き見ることが許される、創造の根底、宇宙の実相からは程遠い」

 

 言葉に力が戻って来た。聴くだけで心の水面を騒がせる、狂念が確かに宿っている。

 

「完成に到れば、きっと見える筈なのだ―――輝く泡の金線細工(フィリグラン)、その内側に広がる超空洞(コズミックヴォイド)の奥底にて微睡(まどろ)み続ける存在が。眷属でも化身でもない、真なる上位者の玉体が。……されど、悲しいかな」

 

 私の瞳はまだまだ未熟、脳液からほんの半歩だけ進んだ程度に他ならん、とコジマは嘆じた。

 たかが半歩、されど半歩。

 この僅かな距離を稼ぎ出すため、一体どれだけの失敗作を生んだことか。ちょっとでも経済感覚のある者が聞けば、あまりの採算の合わなさに卒倒するに違いない。

 しかもこの脳室に孕んだ未熟児ときたら、いまだ安定期からは程遠い。

 下手に自惚れ、注意を欠いて慢心すれば、たちまち腐って瘍壊し、邪眼に堕ちてコジマ自身も醜い獣にまっさかさまとなるだろう。鮪に似ている。あの回遊魚が泳ぎ続けなければ死ぬように、コジマも進化を止めれば自滅するのだ。

 

「冗談ではない」

 

 そんな結末は要らん認めん覆す。情けない進化など、コジマは頑として撥ね退けてやる心算だった。

 

「どうあっても血の医療をより高度な域へと昇華させ、その成果を我と我が身に還元し、思考の瞳を育て上げてやらねばならぬ。私達は、愚かさの先に進まなければならないのだから」

「ええ、勿論よ長官。これまで通り、これからも、アタシは協力を惜しまないわぁ」

 

 蛇のように体をくねらせ、スタイリッシュは言うのだった。

 

 

 

「で、それはいいとして、肝心のサヨちゃんはどうだったのよ。元はといえばあの子の容態を調べるために瞳を開いたんでしょう?」

「ああ、彼女か。うん、まあ、そうだな、とりあえず栄養補給の点滴だけ打っていれば問題なかろう。そのうち自然と目覚めるさ」

 

 この件に関して、コジマは露骨に言葉を濁した。スタイリッシュが如何にしつこく訊こうとも、ひたすら微笑を烟らせるのみで真相を霧の向こうへ押しやろうとした。

 ただ、それでも彼の執念深さに根負けしたか、僅かながらも意味のあり気な台詞を残している。

 

「輸血液に不備はなかった、それは確かだ。この点、私は君に謝罪せねばならないな。すまない、君に落ち度はなかった」

 

 礼儀正しく頭を下げて、容易ならないのは次である。

 

「計算外だったのは、あの血と彼女の相性の良さだよ。ここまでの親和性を示したのは、私を除けばひょっとすると初めてかもしれぬ」

 

 これを聞いたスタイリッシュの脳裏に真っ先に浮かんだ構想は、サヨの故郷を突き止めて、そこの住人を丸ごと実験棟にぶち込もうというものである。この特質がサヨ一人の突然変異か、それとも血族全員がそう(・・)なのか、是が非にも対照実験をしたかった。

 その願望が、表情筋に露骨に出ていた。

 

「それそれ、それよ。そんなだから迂闊に胸襟を開けんのだよ、君にはね」

 

 生きたまま黄色い背骨を引き抜かれるイメージが勝手に脳内に発生し、スタイリッシュは悲鳴を上げて九十センチも跳躍した。

 むろん、現実ではない。

 コジマは殺気を浴びせただけである。

 が、やろうと思えばいついつだとて、寸分違わず同じ光景を現出できるということは、誰の目にも明らかだった。

 彼女らしい、過激で効果的な警告であるといっていい。これを喰らったのは輸血液を無断で持ち出そうとした時以来、実に二度目の経験だった。

 果たして三度目があるのか、どうか。古語に倣って、今度こそ実行されるのではなかろうか。

 

「んもう、つれない人ねぇ」

 

 手の甲で頬に滲んだ汗を拭き取り、それでもスタイリッシュは食い下がる。

 

「これがどれだけ価値を有する発見か、貴女にだってよく分かっているでしょうに。ひょっとすると、大いなる邂逅の第一歩になるやもしれないのよ?」

「だからと言って君の発想は飛躍しすぎだ。何の罪も犯していない人々を、村ごと掻っ攫おうなどと正気の沙汰ではあるまいよ。まあ焦るな、その内検疫なりなんなりと名目付けて、住民全員分の血液サンプルでも持ち帰ってみせるゆえ」

 

 それまで大人しく待っていろ、と言うのである。舌打ちを堪えるあまり、スタイリッシュの顎部全体がつりかけた。

 

(相変わらずわけわかんないところに拘るわね、こいつ)

 

 スタイリッシュの目を借りるなら、コジマ・アーレルスマイヤーという人間は、正しく矛盾の塊だった。

 条件(・・)さえ整ってしまえばスタイリッシュも顔色を失くす、酷虐無道を鷹揚自若にやってのける分際で、法に対するこの従属性はどうであろう。制限された環境に進んで我が身を追い込んで、狭苦しいその範囲内にて生き抜くことに情熱を燃やす、ある種の倒錯趣味の変態としか思えない。

 

(不純物が多すぎよ。これさえなければ超越的思索のひとつやふたつ、とっくに得られていたでしょうに。惜しいわぁ)

 

 ああ、本当に不条理だ。何故月光は自分を選ばず、このような、寄り道ばかりに気を取られ、蝸牛の如き歩みしか為せない女を択たのだろうか。

 きりきりと、奥歯を噛みたくなるほどに懊悩する。そんな彼をよそに、コジマは懐中時計を覗き込み、暢気に時刻を確認していた。

 

「おっと、もうこんな頃合か。私はそろそろ帰るよ、ドクター。サヨについては言った通りだ、くれぐれも無体な扱いを加えるな」

「あら、今日は随分と早いじゃない。実験棟は見ていかないの?」

「取り立てて報告すべき新発見も無いと言ったのは君だろう」

「そうだけど。いつもなら、それでも自分の眼から見れば違うかもしれないって、一通り巡察するのを欠かさないでしょ? 今日に限って、珍しいわねえ」

「……別に、深い意味はないのだが」

 

 瞼を瞑り、長嘆息してコジマは言う。

 

「知らないか? 帝都に馬鹿が接近している噂」

「ああ、もしかして元首斬り役人の」

「そう、ザンクだよ。とち狂った阿呆といえど、帝具を所有している以上侮れん。下手に死人を出そうものなら、またぞろオネストに警備隊は無能と攻撃する材料を提供してやるはめになる」

 

 ただでさえナイトレイドの跳梁を許し、未だ一味の首級ひとつも挙げられていない、苦しい身の上なのである。

 この上頭のいかれた猟奇的連続殺人鬼の凶行まで止められなかったともなれば、コジマはいよいよ立つ瀬を失う。よって迅速に、誰の眼にも判り易い、明確な成果を得るために。

 

「幹部連中を招集して対策会議を開く予定でね。発起人の私が遅刻するわけにはいくまいて」

「やれやれね。気苦労ばかりが多そうで、貴女を見てるとすまじきものは宮仕えって痛感するわぁ」

「なあに、この苦労に見合うだけの楽しみもあるさ。特に、今のような沸騰しつつある時勢では、な」

 

 

 

 

 その日、帝都警備隊本部内に設置された第一会議室には各地域の隊長以下主だつ面々がずらりと並び、ぴりぴりと肌を刺す緊張感が直方体の空間内に横溢し、ともすれば粛殺たる印象さえ与えかねないほどだった。

 なにせ、音頭を取っている人間が一番殺気立っている。

 

「諸君、滑稽劇の時間だ。首切り役人を首級(くび)にして、天下の往来に晒してやろう」

 

 開口一番、薄笑いを浮かべながらコジマが放った台詞である。

 上司がこうである以上、付き従う部下としては、同調しない方が難しい。コジマは自分の心の色に、すらりと部隊を染め上げてしまえる女であった。

 

「はっははは、それは皮肉が効いていますな、長官殿!」

「待ち遠しくてなりません。帝都の守護者の腕前を、監獄上がりの田舎者にたっぷり教えてやりましょう!」

 

 うむ、と頷き、コジマは背後の壁に掛けられた帝国地図をだぁんと叩く。

 

「逃げながらもものを喰わずにはいられんドブネズミよろしく、奴も通り道に死体を生みつつ進んでいる」

 

 諜報員からの報告を基に、この数週間以内にかけて発見された、首と胴を泣き別れにされた遺体の座標にピンを打ち、こまめなことに横には日付と被害者の概要まで書いてある。

 こうして上から眺めてみると、なるほど下手人が帝都を目指しているのは明白だった。何らかの理由で急激なペースダウンでも起こさぬ限り、まず三日で城壁を越えてしまうだろう。

 

「調査の結果を総合するに、私はこれら一連の殺人が同一犯の犯行であると断定。所謂『首切りザンク』の仕業であると確信するに到った。であるが以上、壁外の自治組織や汚職と腐敗で弱体化した軍隊などには期待するだけ無駄だ、奴は必ず帝都に入る。これより先はその前提で動いて行くぞ」

 

 そう言って、全員分用意させた書類を机上を滑らせ配布する。

 

「全警備隊員に通達。絶対に一人で出歩くな。必ずスリーマンセルで行動し、細胞間同士の連絡を密にしろ。もし何処かで連絡が途絶えた場合、どう動くべきか等々も纏めて文書化しておいた。各自欠かさず眼を通し、叩き込み、部下達を教育しておくように」

「三日でですか?」

「不可能か? 日頃の訓練を怠らず、部隊の錬度向上に努めていれば充分対応可能なはずであると、それだけの応用力は培われているに違いないと、信頼して立案した心算なのだがね」

 

 第一、私にそう信頼させた根拠は、他ならぬ君自身が差し出した報告書ではないか、と。

 やんわり言われて、北西地区の隊長は迂闊な発言を後悔した。

 誤魔化すように配布された書類を取り上げ、没頭するように読み進めると、なるほど既存のやり方を無理なく変形させて組み合わせ、三日という僅かな期間内にも形を整えられるようになっている。

 

(なるほど、こういう会議の場では脊髄反射で発言すべきではないのだな)

 

 この地区の隊長は、前任者がコジマによって首を切られ、新たに任ぜられて日が浅い。

 もっとよく学ばなくては、と反省するのを見届けて、コジマは議事を再開させた。

 

「―――それと、市民達にも夜歩きを慎むよう呼びかけること。特にザンクが狙いそうな年代の男女を見かけた場合、引き摺ってでも帰宅させてしまって構わない」

「それはそれは。まるで非常事態宣言ですな、長官」

「似たようなものだ。と言うより、個人的にはいっそ発令して夜間通行禁止区域を設けてやりたいくらいだよ」

「やはり、帝具持ち相手となると物々しくならざるを得ませんか」

「特に今回の相手は、どんな能力を持っているか判らんからな。信じられるか? 奴の帝具は元々獄長が持っていたのをかっぱらったものらしいが、ふざけたことにこの獄長自身、それがどんな能力を持っているのか知らなかったときたものだ」

「は? いや、有り得んでしょう、そんなこと」

「私も初めて聞いたときは同じ台詞を口にしたよ。が、事実だ」

「帝具保管者にはその名と機能の詳細を克明に記した書類の提出が義務付けられていましたよね。資料の散逸等の理由でそれが不明な場合では、先ず研究所に届け出て性能を調べてもらわねばならない、と」

「贈賄」

「畜生め! ……あ、失礼致しました」

 

 一言で察せてしまうあたり、帝国が如何に末期かを物語る。

 

「聞かなかったことにしておこう。斯く言う私自身、こいつの頭蓋を切開して中身を覗き込んでやりたくてたまらない。一体帝具をなんだと思っていたのか、持ってるだけで御利益を齎してくれる御守りか? 代わりに味噌でも詰め込んでやっておいた方がまだものの役に立つんじゃないか」

 

 この発言に、一同どっと沸き立った。

 

「なるほど、それはいい考えですなコジマ長官!」

「だろう? そんな無能のお蔭で我々の危険度が増すとは忌々しさも一入(ひとしお)だ。が、嘆いたところではじまらん。唯一判明している名前を頼りに資料庫を漁らせてはいるが、あまり過度な期待を懸けるな。最悪を想定して行動する」

「となると、やはり?」

「ああ、諸君らがザンクと直接やり合う必要はない。警備隊員の役儀はあくまで民衆保護と自分達の安全確保、この二項に絞る。その為の布陣、血に飢えた人殺しをして容易に手を出しえない構図を整えるのだ」

「餓狼を更に餓えさせる、と。後は囮に喰いついてくれれば完璧ですね」

「その通りだが、一つ違うな」

「えっ」

「奴が狼だと? 馬鹿を言うなよ、おこがましい。狼とは誇り高い生き物だ。然るにこいつの犯行の、一体何処に誇りなんて上等なものを見出せる。美学も敬意もない、いいとこ狂犬病の痩せ犬が精々だろうさ」

「これは失礼を、仰る通りでございます」

「構わん、それよりよくぞ囮を使うと見破った。……この厳戒態勢下、二人の帝具使いをそれぞれ孤立した位置に徘徊させる」

 

 帝具には帝具を以って対応すべし。

 常識であり、王道である。

 尤も月光の聖剣は帝具ではなく臣具という扱いだが、性能が生半可な帝具を軽く超えているために、一々語句を使い分ける必要はなしとコジマは判断したらしい。

 

「むろん、私服で、だ。おまけにどちらも奴が好んで殺したがる若い娘ときているよ。この餌に喰い付かないだけの自制心を残しているか、さて、ひとつザンクを試してやろうじゃあないか」

「その囮というのは、やはり?」

「うん、私とユビキタス巡査官でやる」

 

 と、この場で唯一の巡査身分の少女を引き寄せ、宣言した。

 彼女がここ最近のコジマ長官の「お気に入り」であることは、情報通の間では半ば常識と化している。近々昇進辞令が下るだろう、というのが衆目の一致した見解だった。

 抜け目のない輩は今のうちに気脈を通じておこうかと、密かに画策していたりする。

 

「上手いこと交戦開始と相成れば、諸君らは立体的な包囲網を敷き、慎重にこれを狭めつつ、同時に厚さを増して行く。直接戦闘は私と巡査官に限定したい、少なくとも両方の死が確認されるまではな。むろん、そうならないことを祈っているが―――やれるな?」

「はっ、不肖セリュー・ユビキタス、死力を尽くす覚悟であります!」

「よろしい。では諸君、早速準備にかかろうじゃあないか。分不相応な玩具をくっつけた人間の屑を、盛大にもてなしてやる準備をな」

 

 号令一下、彼らは爛々と目を光らせて、捕食者そのものの笑みを浮かべながら、部屋を後にするのだった。

 

 

 

 さて、時は流れて、四日後の夜である。

 この晩、ついに帝都に足を踏み入れた首切りザンクは、一際高い時計塔の頂上から蟻のように地面を蠢く兵隊どもの動向をつぶさに眺め、その統制の見事さに手でも打ってやりたくなった。

 

「んーっ、愉快愉快。これだけ腐敗した街の中で、よくまああれだけの士気を保てるじゃないか」

 

 彼が獄長から奪った帝具は五視万能こと「スペクテッド」。装着者に洞視、遠視、透視、未来視、幻視の「五視」を与えるというもので、結果得られる情報アドバンテージは一々語るのも馬鹿らしい。

 その帝具が、告げるのだ。あの兵隊どもが自分の来襲をとうに予期して万全の備えを敷いていたことも、いい加減な気持ちで任に就いている者がほとんどおらず、誰も彼もがこの都を護るのだと、若々しい使命感を燃やして恐怖に対抗していることも。

 

「たまらんねえ。さあて、どの首から切っていこうかなぁ」

 

 精一杯の知恵を絞って考えたらしい対策が如何に無意味か、三人一組を順々に潰して廻るのも、やる気に欠けた現実認識の甘い輩に冷水を浴びせてやるのもいい。

 

「選り取り見取りで困ってしまうが、ここはやはり。奴らの心の拠り所を一番最初に刈り取って、恐慌を来した死に顔のまま干し首にしてやるのが一番愉快か。さあて、囮を買って出た勇敢な長官殿は何処かなぁっと」

 

 隊士らのあたまの中身を洞視によって覗き込み、得られた情報を継ぎ合わせれば目当ての場所はあっと言う間に特定出来た。

 

「どれどれ?」

 

 尖塔から尖塔へと夜走獣の如く飛び移り、

 能力の射程圏内に捉え、

 その方向に遠視を試み、

 ザンクは、

 それを、

 見た―――。

 

「……あ?」

 

 なんだこれは。

 

 違和感。

 余りに甚だしいゆえに、具体的には何が狂っているのやら咄嗟に気付けないほどの、圧倒的違和感がスペクテッドを通して流れ込む。

 耳で匂いを嗅ぐような。

 舌で景色を見るような。

 全身の感覚器官とそれに繋がる神経との接続が一度切れ、てんでばらばらに繋ぎ直されたとでも言えばいいのか。

 今まで自分がどうやって呼吸していたかも分からなくなる。自律神経が自律性を失った。陸に打ち上げられた魚のように、口がぱくぱく開閉しては止まらない。

 

「ひ、ひっ―――」

 

 駄目だ。

 アレは駄目だ。

 肉体を構成する三十七兆の細胞が、一つ余さず声を限りに叫んでいる。逃げろ逃げろ、脇目もふらさず遁走するんだ。

 さもないととんでもないことになる。死ぬよりもおぞましい結末が待っている。想像さえしたくない、微かに思いを馳せるだけでも即座に頭を撃ち抜いた方がマシだと確信可能な結末が。

 急速に霞みつつある理性の上でも、この警告が大袈裟でもなんでもない、完全無欠な正論であると、ザンクは確かに理解していた。

 

 

 ……なのに、なんで自分はこんな処を歩いている?

 

 

 どうして、あの絶対的に忌避すべき、超脱の悪夢へ近付こうとしているのだ?

 炎に飛び込む蛾のようだ、と頭の片隅、一握りの脳細胞で考えた。

 

「未来に目を向けよ………人の本質は闇である………んぎぎ………ぐごご………病める砂のローラン………宇宙に触れた聖なるイズよ………星の恩寵を、彼の地より………」

 

 断続的に零れ落ちるうわごとは、何を言っているのかザンク自身わからない。

 というよりこれは、明らかに理解してはならない禁断の知識の類だろう。そんなものが他ならぬ己の口から垂れ流されていることに、内臓を吐き出したいほどの嫌悪感が止まらない。

 知らないはずの物事を勝手に喋る。自分の体が自分の意志を反映しない。

 ああ、それは。それこそは、この醜い肉の塊が既に自分の体でない、何よりの証明ではあるまいか。

 なら、今これを動かしているのはいったいどいつだ?

 顔をみせろ、いいや待った見たくない。これ以上余計なものを見せられたなら、それこそ溺れてしまいそうだ―――。

 

「ふむ、此方へ来たか」

 

 気付けば、既に間合いであった。

 裏路地に響き渡る女の声が、二重奏にも三重奏にも感じられる。その奥から迫り来る、ああ、あの獣の叫びはいったいなんだ。

 

「些か出来過ぎのきらいがあるが、まあよかろう。―――警察長官、コジマ・アーレルスマイヤーだ。帝都へようこそ、歓迎しよう、盛大にな」

 

 濃厚なワインレッドのドレスの裾を翻しながら振り返り、ダークブルーの双眸が、ザンクの眼窩を刺し貫いた。

 

「―――ぐ」

 

 ……帝具スペクテッドの装着者は、読心としか思えぬほどに相手の考えを看破出来るようになるのだが、なにもこれは本当に、心という形而上の存在を書物さながらに読み解いているわけでは、むろんない。

 表情筋の微細な動作や眼球移動、呼吸のリズムに頬を巡る血潮の様子といった諸々の情報から擬似的な読心を可能とする、畢竟観察力の延長線上の能力に他ならないのだ。

 が、それでも、常人にはまるで理解できない異様な視界を獲得するのは確かだろう。

 そんなもので、コジマ・アーレルスマイヤーを視てしまったのである。

 脳液が変質し、弾力を帯び、影響が新皮質にまで広がって、緩やかなれども確実に人の範疇から脱しつつある、誰も見たことのない全く新しい生命体の内側を、ほんの僅かたりと雖も真正面から覗いてしまったのである。

 

「ぎぃぃいいいやああああああああああああああぁぁッ!」

 

 硝子細工を落としたように。

 ザンクの自我は、その瞬間に完膚なきまで破壊された。

 

 

 

「で、何なんです、これ」

 

 神経を掻き毟る、不吉な悲鳴を耳にして急ぎ駆けつけたオーガが目にしたものは、何やらばつの悪そうな顔をした上官と、四肢を砕かれ地面に転がる凶悪犯の姿であった。

 

「返してくれ……俺の耳を返してくれよ……罪人どもの悲鳴に戻してくれ……湿った音はいやだ……鼓膜の内側で……滴るんだ……蜜を囁く冒涜の獣! ああ、白痴の蜘蛛よ! 憐れみを、どうか憐れみたまえ! 蛆の集る乳の霧にて、慈悲深く全てを覆い隠したまえ!」

 

 そこから先は、もはや人間の言葉ではなかった。

 無事な手足など、一本たりとて残っていない。悉く粘土細工のように捻り曲げられ、そんな状態であるにも拘らず、筋肉に命じて無理矢理動かそうとした結果、烏賊や蛸の触手めいた不気味な蠕動を繰り返す。

 見ているこっちが痛々しい。生理的嫌悪感を伴う光景に、新人がひとり胃の腑の中身をぶちまけた。

 

「なにやったんです、長官?」

 

 なにをどうすれば人間を、ここまでどうしようもなく壊せるのかと。

 明日の天気を尋ねるような気軽さで、オーガはコジマに問い掛けた。

 

「さあな。余程恐ろしい怪物でも見たんじゃないか」

 

 投げ遣りな返答だった。

 実際、コジマにしてもわけがわからない。自分の顔を見るなり突如発狂した初対面の殺人鬼、幼児の如く四肢を振り乱して暴れる彼を物理的に行動不能にしたはいいが、精神を再起不能に追い込んだのは完全に想定外の沙汰である。

 

(ただ、推測は可能だ)

 

 ザンクの額からもぎ取った帝具を弄ぶ。

 目の形をしたそれを見やれば、能力の方もおおよそ見当がつくだろう。きっと、彼は視てしまったのだ。

 知るべきではない事を。その結果、囚われるべきでない場所に囚われ、しかも未来永劫解放されない。

 此処にある肉の体は残骸だ。体腔の内側にこびりついた残留思念が、辛うじて動かしているに過ぎない。精神の源流は、きっとおそらく夢の中。狂気的な悪夢の渦中で、無限に脳漿を破裂させ続けているのだろう。

 流石に同情を禁じ得ない。

 コジマの視線は自然と西へ、忌まわしくも愛おしい呪いの生地たる「焼け野」の空へと向いていた。

 

 

 

 メインストリートから繋がる広場にて、ザンクの処刑が行われたのはそれから三日の後である。

 朝早くから見物客が大挙して押し寄せ、この刺激的な演目を拝もうとし、露天商が大繁盛だと喜んだ。やがてザンクの体が曳き出され、首が胴から離れると、勢いよく噴き上がる血に誰しもが割れるような快哉を叫んだというからたまらない。

 人の本性が獣であると、如実に示す光景であろう。

 とまれかくまれ、帝都の闇とは、ザンクの如き真っ当な狂人が我が物顔で闊歩するには深すぎる、空前の狂気が裏に潜みし極地へと、どうやら既に変化してしまっていたらしい。

 

 

 


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