月光が導く   作:メンシス学徒

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「どこまで消えた?」

 

 サヨが目覚めた。

 その報告を受けるなり、椅子を蹴飛ばし飛ぶように駆けてやって来たコジマが最初に放った台詞である。誰の、何が消えたのか。一連の主語を欠いている点を筆頭に、彼女の焦慮が透けて見えるといっていい。

 裏を返せば、それだけコジマがサヨを重要視している証左だろう。

 

「いきなりそう言われても、ねえ」

 

 なんにせよ、滅多に見られる光景ではない。

 更に揺さぶりをかけるべく、スタイリッシュは空っとぼけを装った。

 

「………」

 

 が、これは逆効果に終わった。

 謀略に対しては明敏な嗅覚を持つコジマである。スタイリッシュの反応から反射的に自己を客観視した結果、冷静になる必要性を悟ったのである。

 

 ―――とぼけるな、サヨだ、あの娘の記憶の話だ。

 

 と言いかけていた口を噤み、顎を引いて瞳を落ち着け、じっとスタイリッシュの眼窩目掛けて視線を注ぐ。

 これが効いた。

 

「んもう、可愛げのない人ねえ」

 

 両手を挙げ、如何にも降参とばかりにスタイリッシュが音を上げた。

 

「隙がないったらありゃしない。強いってのはそれだけで価値のあることでしょうけど、たまには弱みも見せないと、寄り付くオトコも居なくなるわよ」

「無用な心配だよ、ドクター。国家と結婚する覚悟はとうの昔に出来ている」

「あら、国が添い臥してくれるのかしら。空閨は寂しいわよぉ、若気の至りで強情張って、晩年床の寒さに泣いた志士が過去に何人居たと思う?」

「兆歩譲って未来の私が人肌恋しさに襲われたとしても、問題はない。何の為に娼館なる施設があると思っている。カネの巡りを潤滑ならしめ、世を益する為にも、憐れな目をした(おんな)どもに黄金(こがね)の雨を降らせてやるさ」

「ナチュラルに同性相手を口にしたわね」

「君の言えた義理ではなかろう」

「んん、ちょっと誤解があるようね。アタシは性に偏見がないだけよぉ、男だろうと女だろうと、いっそ異種であろうとも、スタイリッシュで美しければなんでも貪る。自分の情欲に嘘を吐いたりしないの。世俗の良識だの何だので自分を縛っているようじゃ、千年経っても飛躍的発想なんて降りて来ないもの」

「だから言った、君の言えた義理ではないと」

「あら、それって―――」

「体を売って絵にも(うた)にもなり得るのは女だけの特権さね。少なくとも私が認める男性的美しさとは、男娼なんぞにゃ寸毫たりとて宿らんよ。前提からして失格だ。畢竟、買うのは同性相手のみとなる」

 

 それにだな―――と、コジマは下腹部を指して続けた。

 

「胤をばら撒くだけの君と違って、こちとら子宮を抱えた身だぜ。母体だよ(・・・・)。臍の緒を通じて血やら何やら、あらゆる総てを注ぎ込む役目を負った存在だ。下手に孕んだりしてみたまえよ、何が股座から這い出すと思う? 絶対に碌でもないモノに決まっているのだ」

実験棟(ここ)の最下層に廃棄した、あの出来損ないどもみたいな?」

「うむ。よって、生産性のある行為(・・・・・・・・)には極限まで注意を払わにゃならん。窮屈なれど、血を受け入れた者の宿命だ。このあたり、あの娘にもよく言い聞かせねばならんのだが―――」

 

 話が出来る容態か、と。

 僅かに目を細めることで問い掛ける。馬鹿話はここまでだと気配を悟り、スタイリッシュも自然容儀を整えた。

 

「問題は無いでしょう。検査してみた限り、患者の脳に委縮の兆しはこれっぽちもなかったわ。言葉も認識していたし、ペンを始めとした道具の使用や一般常識もちゃんとある。失くしているのは名前に年齢、生育史、家族なんかの個人情報を根こそぎ、ね」

「まるで全生活史健忘症だな。まあ、拷問蔵にぶち込まれて散々甚振られたのだ。そうなるのも決して不思議じゃなかろうが―――」

「原因は別にある。でしょう?」

 

 輸血液との比類なき親和性に加え、先刻のコジマの第一声である。あれが兼ねてより胸奥にて渦巻いていたスタイリッシュの推測に、揺るぎない確信を与える結果となった。

 

「初めてじゃないのね? 前例がある。極端に相性のいい素体に血を注いだ場合、記憶の一部か、全部が飛ぶ。きっと貴女は、以前にもそれを見たことがあるのよ」

「鋭いな。その通りだとも」

「いったいどうして―――脳の中の、記憶が格納されている場所は―――上位者の意志と感応しやすい何かが、其処に秘められているとでも―――思考の瞳との関連性は―――いえ、それよりも。一体誰、誰なのよ。貴女が以前遭遇した、その記憶喪失の被験者は」

 

 駄目元の問い掛けであった。

 十中八九、その被験者とやらはアーレルスマイヤー領の人間だろう。おそらくは帝都に繰り出す以前、スタイリッシュの助けを借りず、独力で研究を進めていた時分の発見ではなかろうか。

 サヨのような突然変異体がそうそう居るとは思えぬ以上、候補は土壌に恵まれた者に限られる。呪いを浴び、尚且つおぞましい交配の果てに血を凝り固まらせた彼の地ほど、そうした個体を排出する土壌として相応しい場所はないであろう。

 となると、帝国臣民の権利保護にはひどくやかましいコジマである。

 本人のプライバシーを尊重してとか何とか、どの口が言うのだと罵りたくなるような愚論を吐いてはぐらかしてしまうのは、容易に想像のつく展開だった。

 だからこそ。

 

「……まあ、名前程度なら教えてやっても構わんが」

「嘘ぉ!?」

 

 予想と真逆のコジマの言葉に、喜びよりも驚愕からスタイリッシュは叫びを上げた。

 

(しめた。―――)

 

 油断か、それとも最初の焦りの残滓ゆえか。

 どっちにしろ、散々煩わされてきたコジマ・アーレルスマイヤーの秘密主義に一点の穴が穿たれた瞬間である。放置は論外、覗き込まずしてなんとする。この失言にはたっぷりつけこんでやるべきであろう。

 

(アタシを甘く見ないことね、長官。名前だけでもきっとそいつを突き止める。そいつを触媒代わりに使い、先に血の医療の深奥に至って、貴女を出し抜くのはこのアタシよぉ)

 

 鼻息も荒く、ずいと顔を寄せてみせ、スタイリッシュは話の続きを懇望した。

 

「さ、さ、早く。早く教えて頂戴」

「眼がぎらついているぞ、ドクター。野心、大いに結構だが、少しは隠せ」

 

 こほん、と一息ついて喉の調子を整えて、

 

「■■■■・アーレルスマイヤー。私の蒙を一番最初に啓いた少女。呪いに打ち克ち、共に世を救おうと誓い合った、とうに儚き腹違いの我が姉だ」

 

 

 コジマはさらりと、特級の爆弾を投下した。

 

 

「あっ―――姉ぇ!?」

「ああそうだとも。どうしたドクター、私に姉妹が居たことが、そんなに驚くべき話かね」

「そりゃそうでしょう。貴女が、貴女みたいな怪物が、人の胎から産まれて来たって事自体アタシにとっては驚きよぅ」

「あっははははは」

 

 快活に笑い、コジマは言った。君、君、それは買い被りが過ぎるというものだ。

 

「それとも、人類種を悲観し過ぎていると言うべきかな? 人の範疇は想像以上に甚深にして幅広く、その外殻は呆れんばかりに強靭だ。生半可なことではぶち破れない。―――……とまれ、残念だったな、アテが外れて。ああ、墓を暴いたところで無意味だぞ」

「なによ、火葬にでもしたの? 貴女の故郷は土葬でしょうに。秘密を守るためには風習に背くのもなんのその、家族だろうと綺麗さっぱり灰にする。呆れた完璧主義者だわ」

「それもある。が、だけじゃない」

「というと?」

「価値あるものは総て私が引き継いだからね。完全に、完全にだ。あの冷たい土の小部屋の中の、しみったれた骨壷なんかに彼女は居ない。あれに収まっているあんなものは、なに、所詮ただの抜け殻さ。彼女の()は悉く、絶えず、揺るがず、ずっと私と共に在る」

 

 ぞわり、と。

 足下を言い知れぬ不快感が駆け抜けた。

 ただでさえ重苦しく沈殿した実験塔内の大気に、深淵から発散される名状しがたい無形のなにかが混入したような心地がして、スタイリッシュは思わず背筋を寒くした。

 

(……比喩じゃないわね)

 

 心の中で生きているとか、そういう類の精神論でないのは明らかだった。

 コジマ・アーレルスマイヤーの気質がその種の慰安を受け付けないというのもあるし、それに何より、血の医療の被験者には半物理的にそういうことを可能にする手段がある。

 

「……殺したの? 腹違いとは言え、自分の姉を」

 

 殺して、血の遺志を受け継いだのか、と。

 無機質な声色の問い掛けに、コジマは静かに首を振った。

 

「まさか。私が彼女を傷付けるなど、それこそ沙汰の限りというものだ。天地が逆転しても有り得んよ。そんな真似をする位なら先に自分の腕を斬り落とす」

「じゃあ、どうやって」

「死血だよ。変わり果てた彼女の亡骸に手を突っ込み、背骨を引き摺り出して中身の髄を全部啜り上げたのだ。まだ温かく、新鮮だった」

 

 ほう、と。

 蕩けるような吐息がコジマの唇から零れて落ちる。

 多感な年頃の青年ならもうこれだけで腰が砕け、へなへなと崩れ落ちてしまうに違いない。甘い体液がにおい立っている気さえする。凄絶なまでの艶やかさが、其処にあった。

 

(……近親者の血液は格段に熱く甘美な味わいだって言うけれど)

 

 それにしたってこれは度が過ぎている。かつての記憶を回顧するだけでもう体幹が灼熱し、それが皮下組織を泡立てるなど尋常一様ではないだろう。いったいどれほどの快楽刺激が当時のコジマを直撃したのか。全身の毛穴から射精するに等しかったに相違ない。

 

「っ、ああ、そういうこと。骨髄、造血器官(・・・・)―――!」

「血の生まれ出る場所、いわば最も濃厚な死血さね。幼く、愚かな当時の私にそんな知識は無かったが―――まあ、本能なのだろうな。野生動物が病を罹患した際に、喰らうべき薬草を誰に教えられもせず察知してのけるように、あの時は私もそれしかないと確信していた。大泣きしながら姉の体を掻き分けたのだ」

「地獄絵図ね。流石のアタシも耳を塞ぎたくなったわよ」

「地獄というなら、私にそんなことをするよう強いたこの世界こそが地獄だよ。姉は死んだ、ただのつまらん極ありふれた暴力に巻き込まれてな。彼女を殺したのは、啓蒙的真実の産物でもなければ星海からの来訪者でもない。この惑星の、この大地の上で蠢く雑多な悪意の一粒だ」

(……血の医療の被験者が、単なる凡愚俗悪の一肉塊に殺される?)

 

 馬鹿な。

 有り得ない、とすぐさま反駁してやりたかった。

 その効力をまざまざと、最前線で観察してきたスタイリッシュである。俄かには受け入れられずとも無理はなかろう。

 が、その叫びは喉奥にて堰き止められる。

 

(顔が―――)

 

 何一つ嘘を言っていない。

 いまやダークブルーの双眸は奈落の底に直結し、迂闊に覗き込もうものならやがて意識を切り離されて、二度と戻れぬ無明の彼方を彷徨わされる心地がした。

 

「それが最初の一滴だ。私の血の目覚めは、姉の体を通して行われたんだよ。斯くて私は遺志を受け継ぎ、啓蒙的真実と対面し、果てない探究の道へと踏み出した。初志を貫くためだ、何もかも。彼女と描いた新世界、其処に営々と繁栄の足跡を積み上げ進む理想国家。そうだ、何一つ、何一つ零していない。失っていない。忘れたりしてなるものか。あの日共に見た夢は、彼女の想いは、甘く切ない疼きを伴い、今も私の胸に在る。―――……」

「―――」

 

 圧倒された。

 ここまで来ると取り繕おうとも思わない。素直に脱帽を認めよう。

 

(どんだけ重度の姉好き(シスコン)よ、こいつ)

 

 詰まるところ、それがコジマの核なのだろう。一個の巨大な愛の奴隷だ。

 ここで一旦振り返り、かつてオーガの魂を得る際に、コジマが語った内容を思い出していただきたい。彼女は言った、

 

 ―――彼女の笑顔を曇らせたかった。先を行く者の足を引っ張りたくなる衝動と一緒だよ、私は姉ほど楽天的にはなれなかったからね。花になるより、一緒にこの泥濘に沈んでいて欲しかった。

 

 と。

 この一事からでも読み取れるように、幼年期のコジマ・アーレルスマイヤーとは現在の姿と打って変わり、陰気で内気で外界を拒絶し他者との接触にいちいち怯える、所謂引き籠り的気質を多分に含んだ少女であった。

 こういう人種の通弊として、滅多なことでは他人に心を開かないがその代わり、ひとたび一線を越えてしまうと物凄い。その後の傾倒ぶりは到底常人の追い縋れる域ではない。

 想いを寄せる相手の為なら身も世もなくなる。体も命も捧げ尽くして悔いはない、いやいっそ捧げたいと積極的に希い、仕舞いにはその欲求を満足させるべく進んで機会と状況を作り上げにかかるという、鬼気迫るようなものがある。

 早い話が、コジマは死ぬほど愛の重い女であった。

 しかもその「愛」は、絶頂期に於いて相手が非業に斃れたために、却って完全なものへと昇華している。

 

(手が付けられない)

 

 もはやコジマ・アーレルスマイヤーの中にあって、姉とは無二の聖像(イコン)と化しているのだろう。

 その思いの丈は大海にも似て、如何なる計測器を以ってしても測り切れるものではない。正味な話、こんなものを常時詰め込んでおきながら、何故コジマが未だに人の形を保っていられるのか本気でわからなくなったほどである。

 

(水深くして影愈々(いよいよ)(こま)やかなり。―――こりゃあ魔を孕むわけだわ)

 

 そう得心するスタイリッシュは、しかしだからこそ気付けない。

 一番重要な案件に。自分が既にコジマの姉の名前を思い出せなくなっている、純然たるその事実に。

 常日頃の彼ならば、こんなことは有り得ない。何度無駄だと言われても、それでも涅槃寂静の彼方の可能性を追い求め、いつか機を見て彼女の墳墓を暴くべく、その名を脳裏に書き留めていたはずである。

 そういう偏執狂的傾向がなくば、神秘の探究者なぞやっていられたものではないだろう。

 が、このとき、スタイリッシュにそんな発想は欠片もなかった。

 まるで脳細胞そのものが、彼女の名を、その響き自体を拒絶しているかの如く。

 最初に口にして以降、コジマがただの一度もその単語を舌に乗せようとせず、「姉」だの「彼女」だのといった代名詞のみで賄い切った不自然さにも、ついに気付けぬままだった。

 

 

 

 

 さて、病室にてサヨと対面して以降のことである。

 入室と同時に、律儀にもベッドから上体を起こした少女と軽く会話してみて驚いた。

 

(これは、本当に失くしているのか)

 

 記憶を、である。

 受け答えもはっきりしているし、何より亡羊とした雰囲気がない。

 普通、記憶喪失者とはもっと、夢と現実との区別がついていないような、薄ぼんやりとした色合いが表情の何処かに混ざっていたりするものだ。ましてやこの少女は、他に患者のいない、やけに天井が高く、じめじめして薄暗い、耳を澄ませば微かに水の音が聴こえて来る、極めて胡散臭い病室に置かれている身ではないか。

 で、訪ねて来る者といえばオネエ口調の医療者に、飾り気のない軍服姿の女ときている。

 何をかいわんや、というものであろう。

 

「君は―――」

「はい?」

 

 たまりかねて口を開きはしたものの、そこから先が続かない。サヨは可愛らしく小首を傾げて待っている。馬鹿なことになった。記憶を失くした者が泰然としていて、健常者の方が逆に動揺しているのである。ついにコジマは、窮したあまり、

 

「妙だとは、思わないのかね」

 

 と、魯鈍そのものの台詞を吐いた。

 自分がサヨの腹の内を皆目読めぬと自白して、かつその不安が露骨に滲んだ台詞だろう。

 

(私は、なんという……)

 

 むろん、コジマとて一秒後には自分の迂闊さを認識している。臍を噛み千切りたい衝動に駆られたが、表情に出さぬよう努力する。これ以上失態を重ねた暁には、自己嫌悪で夜も眠れなくなりかねなかった。

 

「………」

 

 サヨは困ったように苦笑して、コジマの問いに乗らず、話題を別な方面へと転換させた。

 

「いい香りに満ちていますね、この場所は」

「ほう、黴の匂いが心地よいと? それとも消毒用のエタノールかな? どちらにせよ、珍しい趣味の持ち主だ」

「いえ、そうではなく。星空の香り(・・・・・)のことですよ」

「―――」

 

 この一言で、どこかズレていたコジマの頭の歯車が音を立てて噛み合った。

 

「これだけ濃いなら宇宙は近い。あと、薄膜一枚分を残すのみと見受けましたが、どうでしょう」

「ふむ。驚いたな、大した慧眼だ」

 

 先刻スタイリッシュにそうしたように、じっとサヨの両眼を覗き込む。すると、どうであろう。たじろぎもせず見詰め返してくるではないか。

 瞬きさえしない。

 並外れた胆力だった。

 共に揺るがぬ視線と視線はいつしか熱を帯びて絡み合い、それを縁に言語に依らぬ、脳の奥での昏く蕩けたささめき合いを実現させる。誰も立ち入れない筈の小部屋を共有しての語らいは、どこか睦み事にも似た雰囲気で、暫くすると頭骨を内側から擦り上げられる感覚に不慣れなサヨが微かに喘ぐ。白く柔らかな首筋を、珠のような汗が一滴伝い落ちていった。

 

「Seek the old blood. Let us pray... let us wish... to partake in communion.

 Let us partake in communion... and feast upon the old blood.」

 

 それを契機に、コジマもまた沈黙を破った。

 

「Our thirst for blood satiates us, soothes our fears.

 Seek the old blood... but beware the frailty of men.」

 

 紡ぎ上げるは闇に埋もれた釈教歌(しゃっきょうか)。六百年前、あわや帝都を亡ぼしかけた最悪の異端集団が、事あるごとに口ずさんでいた警句である。

 

「......Their wills are weak, minds young.

 The foul beasts will dangle nectar and lure the meek into the depths.」

 

 一片の痕跡も残すまいと、念入りに念入りに磨り潰されて、歴史の上から完全に抹殺された怪物(けもの)達。

 誰も知り得ぬはずのその歌を、しかしサヨはすらすら引き継ぎ謳い上げてみせていた。

 出来て当然と言うように。

 満腔の怒りと、惜しみない哀憐の情を載せ。

 

「「Remain wary of the frailty of men. Their wills are weak, minds young.

  Were it not for fear, death would go unlamented.」」

 

 最後は一緒に声を重ねて、恰も唱和するかの如く。

 一切の澱みも交えぬままに、二人はその工程を完了させていた。

 

「……馬鹿が。大馬鹿が。囚われるなと、ちゃんと言っておいただろうに」

「さあ、何のことでしょう。わかりませんね、もはや記憶は定かでないので」

「こいつめ」

 

 しゅぱっ、と無駄に切れのいい動作でもってサヨの額を軽く小突く。きゃっ、と鈴のような悲鳴が上がった。

 

「怪我人になにするんです」

「やかましい。カルテには一通り目を通した、君はもう退院だよ」

 

 ほぼほぼ初対面の人間同士が醸し出すべき空気ではない。

 これが超次元コミュニケーションの成果なのだろうか。十年も苦楽を共にして、幾度か死線を潜り抜けでもしたかのような親愛が既に確立されていた。

 

「まったく仕方のない奴め。―――いいさ、いいとも、いいだろう。仮にも導きを与えた者としての責任だ、君を此処から連れてゆくぞ。私としても腹を割って話し合える相手が居るのは助かるからな、精々酷使してやるゆえに覚悟しておけ」

「あらこわい。お手柔らかにお願いしますよ、長官殿」

 

 

 

 

 サヨがコジマの政務秘書官という立場に収まった経緯は、大方このようなものである。

 連れて来たはいいものの、さてこの娘をどう扱うかについて少々迷った。

 

(聖歌隊に組み込むか、それともセリューと組ませてみるか)

 

 どちらも魅力的で、大きな成果の期待できる案である。故にこその逡巡だった。が、だからと言って有能な人材を遊ばせておくなど、彼女の経済観念が許さない。例えそれが、決断を下しそれを事務化させるまでのほんの僅かな期間でも、である。

 

「暇を持て余すのも辛かろう」

 

 という計らいにより、書類整理や身の回りの雑務等を処理させてみたのである。

 すると、意外にも要領がいい。

 コジマの教え方もあるのだろうが、新しいことでもすぐに覚える。正に乾いたスポンジが水を吸収するかの如く、だ。

 

「戦場で剣を振り回すより紙上にペンを旋回させていた方がいいな、君は。よほど効率的に世を動かせる」

 

 コジマにすれば待望の、政務面での天才である。

 舌なめずりしたくなる衝動をどうしようもない。はしたないと知りつつも、ちろりと紅い舌をのぞかせた。

 その次の日にはもう、立派な官服に身を包んだ政務秘書官としてのサヨが誕生していたというのだから、権力の魔術性を思い知る。こういう思い切った人事を独断即決でやれるあたり、ワンマン経営の強みであろう。

 尤も、すべてがすんなり運んだわけでは決してない。

 小人の妬心―――やっかみの声も多かった。

 

「長官の物好きにも困ったものだ」

 

 と、言うのである。

 

「何処の山奥から掘り出してきたともしれぬ、あんな土臭い小娘を。―――」

「大体、文字が書けるのか。知っているのは縄を綯う方法と、皮のなめし(・・・)かたくらいじゃないのかね」

 

 こういう底意地の悪い観測は、大抵老人の専売とされる。

 その俗説を態々証拠立てるかの如く、コジマの派閥内でこうした反応を示したのは、その殆どが古参組―――長年政界に身を置きながらも昨今の情勢悪化に対処しきれず、冷たいものを予感して、慌ててコジマに庇護を求めて駆け込んだ、根っからの文官どもだった。

 

「あの人たちの気持ちも、分からなくもないのですが」

 

 コジマの代筆を勤めつつ、ぽつりと漏らした一言である。

 

「なにせ、自分の三分の一も生きているかどうか怪しい相手から、いきなり偉そうに命令されるわけでしょう? 誰だって良い気持ちはしない。するわけがない」

「その不快感を露骨に出すから、彼らは無能と言われるのだよ。あの齢で面従腹背も出来んとは、いよいよ以って嘆かわしい。それともあれか、齢を重ねて劣化したのか」

 

 コジマの論に基けば、老人の意識は屡々明確な二極化を遂げるという。

 一つは歳を重ねるにつれいよいよ自我が肥大化し、過去に成し遂げた事業の数々が実態以上にきらびやかに見え、その功績を鑑みれば殿様扱いされて当然、誰のお陰でこの「今」があると思っていやがる、もっと労われ、わしに敬意を示してみせよと傲慢ぶりに拍車がかかり、無駄に膨れ上がった自尊心が満たされなくば時間も場所も頓着せずに、口角泡を飛ばして顔を真っ赤に染めながら罵詈雑言を撒き散らすタイプ。

 ここまで来ると、もはや一種の妖怪だ。稚気と自己愛のばけものと言っていい。

 対してもう一方は、逆に時の流れに晒されるうち、我執という我執がこそぎ落とされ、自然容貌柔和となり、生きながらにして自然の風景に溶け込んでしまったかのような―――そういう植物的変化を起こすひとである。

 

「ところが、政界とはやはり伏魔殿だな。此処に首を突っ込んで以来、後者のような人間を見たことがない。どいつもこいつもばけものばかりだ」

 

 ―――そんな相手に。

 

「共感、同情など無意味だよ。いや、敢えて有害と言い切ろう。ようく刻んでおきたまえ、人間とは恐れている相手より、愛情をかけてくれる者をこそ、容赦なく傷付けるものだということを」

「牙があるのを教えてやれと? 黙って聴こえぬふりをせず、正面きって毅然と対応しなさいと、つまりはそういうことでしょうか」

「あくまで法に則って、だぜ。共に沈むなど馬鹿げていよう。陰口程度で済めばよいが、君が大人しくしているのをいいことに、もし連中が増長し、職務に差し障りのあるいやがらせまで仕掛けてくるようになってしまえば、それこそ悲劇が待っている。流血が不可避とあらば先んじて流すに如くはないのだ。結局のところ、それが被害を最小ならしめる道である。いわば瀉血、外科的治療の一環とでも思いねぇ。その為の名目作りに手間を惜しむな、必要な権限は既に与えた、存分に利用したまえよ」

「長官、もしかして試してません?」

「さあ、どうだろうな。ただ、権謀術数は必須技能だ。磨ける内に磨いておいた方がいい。よく言うだろう? 若い内の苦労は買ってでもしろ、と」

「ずるいなあ。またそうやってはぐらかす、本当に人の悪いお方です」

「少なくとも期待しているのは確かだよ。そこは信じて貰いたいね」

「ありがとうございます。ええ、ええ、勿論信じていますとも」

 

 しかし、しかしですよ―――と、サヨは少々むきになっている。

 

「ただでさえ長官は冷血主義、暴力主義、厳格主義一辺倒じゃないですか」

「これはあいさつだ」

「そこへ私までもが温情主義をかなぐり捨てて厳に徹したらどうなります。下からの意見は封殺されて、内部の空気が硬直しますよ。天日暗き景況とはこのことだわ」

(ああ、この娘はやはり聡い子だ)

 

 組織に於ける自分の役目を、資質から逆算してよく心得ている。

 実際、サヨは時に苛烈に過ぎるコジマに対して、唯一物怖じせず意見し諌めることが可能なバランサーとして、後々名を博すのである。

 このあたり、両者の呼吸の合い方は並々ならず、まるで一ツ芝居を見ているように見事であった。

 或いは、本当に芝居を演じていたのかもしれない。

 

 

 

 

 話が、前後に逸れた。

 そろそろ時間軸を戻してやるべきだろう。具体的にはコジマがサヨから例の書簡を受け取った直後あたりに、だ。

 差出人の名前を一瞥し、コジマはすぐさまその面貌を脳裏に浮かべた。

 

(あの禿頭(とくとう)か)

 

 なんだろう、と淡い懐疑の念を覚える。

 派閥に属しているというわけでもない。彼は近頃収穫時の大根よろしくぽんぽん首を引き抜かれまくっている良識派文官の一員で、廊下ですれ違いでもすれば互いに軽く頭を下げるが、言ってしまえばその程度の関係だ。政策について論議を闘わせた記憶もなく、このような仰々しい封筒を送り付けて来る筋合いがとんと思い浮かばない。

 釈然としないながらも、ぽんと封印を弾き飛ばし、中の文書に目を通す。

 

「―――ほう」

 

 一行を経るごとに、コジマの瞳に愉快気な光が増して行った。

 

「良い知らせですか?」

「とは、言い切れん。が、興味深いのは確かだ。―――サヨ、君は『大運河』を知っているか?」

「ええ、それは勿論」

 

 大運河。

 全長、実に二五〇〇キロメートルを数える、並外れた規模の運河である。論を待たずして世界最長の称号を冠せられるべき代物だろう。

 竣工期間、七年。動員された民衆の数、およそ百万。

 驚異的を通り越して、もはや神業といっていい。作業員に将軍級の人外がグロス単位で混ざっていたのではなかろうか。

 我々の感覚に即して考えるなら、隋の時代の唐土に於いて築かれた、京杭大運河が近かろう。あちらも丁度、完成時の総延長は二五〇〇キロメートルだ。

 が、地球に於ける二五〇〇キロメートルとこの世界に於ける二五〇〇キロメートルは意味が全く異なってくる。なにせ、此方には危険種なる脅威がそこらにうようよ満ちているのだ。

 その厄介さは虎や獅子なんぞとは到底比較になり得ない。場合によっては軍隊ですら太刀打ち出来ず、尻尾を巻いて退散する。地形に大規模な変化を加える場合、この獰猛な野生生物から痛烈な反撥が起こるのは摂理と言っても言い過ぎではなく、相応の覚悟が要求された。

 まだある。悲観材料には事欠かない。情勢不安を反映し、物資を狙った匪賊の類も数多跳梁するだろう。

 

(十五年。或いは、二十年越しの大仕事にさえなりかねん)

 

 当初、コジマはそのように予測した。

 ところが蓋を開けてみれば、なんと七年で完了したというのだから、これには呆然とせざるを得ない。遥かな高難易度にも拘らず、要した期間は京杭大運河よりずっと短かったのだ。

 

(この一事だけでも、帝国は内外に向けてその国威を十二分に誇示し得る)

 

 そういうわけで、大運河に対するコジマの評価は極めて高い。

 尤も、民衆の評価は真逆である。

 彼らにしてみればただでさえ重税に喘いでいるところへ、働き盛りの壮丁を奪われて、畑は荒れるわ子供は泣くわ碌なことがない。多年に渡る労苦を終えていざ家路に就いてみれば、生活難に耐えかねて、首をくくった女房の死体と対面する者まで居たという。

 人間世界の悲惨であろう。というより、これははっきり官吏の罪だ。これほどの偉業を成し遂げたにも拘らず、支配者層が現場作業員に報いたところは僅かであった。

 本来、彼らこそが英雄として讃えられるべきであったのに。

 

(叛乱分子を大量生産しているようなものではないか。国家の基礎を揺るがしかねん失政だ)

 

 船を持たぬゆえに輸送業にも関われず、既得権益の横行により商売に参入する目も潰されている農民にとって、大運河が齎す恩恵などは遠い世界の話に等しく、実感するのは不可能であり、積み上がるものといえば怨みばかりで、

 

 ―――我らの生き血を啜り上げて流れる河め。

 

 と、憎悪の視線のみを差し向けた。

 

(どうも、昨今の帝国では)

 

 この大運河にせよ、コジマが実験棟として利用している中空重力式コンクリートダムにせよ、偉大な土木建築物が評価されない傾向にあるらしい。

 

(職人の権威失墜に繋がらねばよいが)

 

 と、彼女は密かな危惧を抱いた。

 それはよい。

 

「その大運河に」

 

 このたび出来上がった皇帝陛下巡幸用の大船舶、通称「竜船」をどっかと浮かべ、盛大なセレモニーを行う予定があるという。

 大運河を活発ならしめんと奮闘する、良識派の涙ぐましい努力であった。

 が、努力の方向性が少々おかしい。こんなことをした暁には、「自らの好みのために民衆を徴発した」と批難された煬帝よろしく、なおのこと憎悪の声が高まるのではなかろうか。

 

「彼らのやることはいつもこうだ。何処かピントがずれている」

「はあ。それで、長官とどんな関係が?」

「参加してくれ、と言って来ている」

「投資でもしておられたのですか?」

「いいや。が、この手紙の差出人―――式典の責任者は、我が父の旧い友人らしくてな」

 

 それを出汁に使って来たというわけだ、と、にやにや笑いながらコジマは言った。

 

「見直したよ。良識派にも危険を嗅げる奴が居たか」

「と言うと、やはり昨今の連続文官横死事件を受けた上での誘いでしょうか」

「間違いなかろう。帝都近郊とはいえ、壁の外で開く行事だ。本来、私が首を突っ込む件ではないが―――その場に居合わせたともなれば、これは話が違ってくる」

「なるほど、警察長官を護衛要員に雇ってしまう腹積もりですか。これは豪気な構想だ」

「父との友人関係も、真偽のほどは疑わしい。が、確認の使者を出したところで、帰って来るまでにはどうしても、それなり以上の時間がかかる。セレモニーには間に合わない」

「後々嘘がバレたとしても、おや左様でしたか、なにぶん歳が歳でしてな、どうも記憶が混濁しがちで、とでも言えば割とすんなり逃げれる。兎に角長官を出席させられればそれでいい。嘘も方便、ハッタリ誤魔化しなんのその、と。確かに巧い手です」

「そして健気だ。読んでみたまえ、この文章を。もはや先の限られたこの老体、せめて懐かしき朋友(とも)が遺してくれた麒麟児と、時勢の先を大いに論じ、以って後生の障りを除いてから心静かに世を去りたく―――おいおい、書いたのはどんな死病人だ。それにこれでは、まるで私の父が既に亡いかのようじゃあないか」

 

 常ならぬはしゃいだ口調の物言いに、コジマの心が動かされているのをサヨは悟った。

 

「行かれるおつもりですね」

「ああ。この厚顔さは貴重だよ、みすみす三獣士にくれてやるには、ちと惜しい。何より今は、君が居るしな」

 

 一昔前のコジマなら、王城を一定時間以上留守にするなど思いもよらぬ沙汰だろう。

 が、今は懐刀を持っている。

 それも抜群の切れ味を誇る刃を、だ。

 オネスト一派が下らぬ企みを起こそうと、自分の代わりにサヨが防衛線を張ってくれる。帰還まで、必ず遅滞戦闘(じかんかせぎ)を果たしてくれると信頼していればこそ、かつてとは比べものにならない自由な動きが可能となった。

 正に虎が翼を得たようなものだろう。コジマの布陣は、いよいよ完全な姿へ近付きつつあるといっていい。

 

「御武運をお祈りします。どうか、無事の帰還を」

「大袈裟だな、そこまで重く考える必要性はなかろうさ。私としても、今エスデスと全面的に事を構える心算はない。いやがらせ程度に留めるよ」

「でも、何が起こるかわからないのが世の常ですから。予定なんて一寸した誤算ですぐ引っくり返ってしまう。ですから、くれぐれもお気を付けを。貴女に斃れられでもしたら、それこそ全部台無しなんです。絶対窮極の外世界は文字通り、永遠に手の届かないところへ行ってしまう。私は彼女(・・)を救えなくなる」

 

 おお、おぞましい、おぞましい、想像するだに卒倒しそう、と。

 芯から慄いていると言わんばかりに、ぶるりと震えるサヨだった。

 

「まったく、随分入れ込みやがって。血も呪いも、本来の君には縁もゆかりもない話だったはずなのに」

「そう仰られましても。『本来の私』なんて、とっくに焼き尽くされていますから。追憶が戻ることはない以上、私は私としてやっていくしかありません」

「その結果、人のカタチを失うことになろうとも、かね?」

「はい。―――そりゃ、ついこないだ生まれたばかりみたいな意識の私が、二十年近く使い込まれた『私』の体を勝手にあれこれ弄るのは、なんだか変な申し訳なさも浮かびますけど。でも、昔の『私』だって、きっと分かってくれた筈です!」

「言い切ったなあ。その根拠は?」

「―――だって、誰にも知られない場所で、ずっと独りで泣いてる子がいるんですよ。その涙を拭ってあげたい、悲しみを癒してあげたいと思うのは、当たり前じゃあないですか」

 

 ましてやそれが、あんなに綺麗な()なら猶更じゃない、と。

 そう言って微笑むサヨの姿は儚げで、触れれば今にも崩れそうな美しさに満ちていて。

 

「……なるほど、畏れ入ったよ政務秘書官。君が正しい」

 

 しかしながら、崩したその後に(・・・・・・・)飛び出すものは一体何か。

 その答えを知る者は、未だコジマ・アーレルスマイヤー唯一人を除いていなかった。

 

 

 

 


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