シロツメクサの恋 作:ライジング
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
奨真は微睡みから目を覚ます。
「……あれ?」
いつも起きている寮部屋ではないことに彼は違和感を覚える。
しかし見慣れた場所でもあった。
(……ああ、そっか。実家に帰ってるんだっけ)
今は夏休みだ。
長期休暇になったら、学園艦から実家に戻る。
それが近藤家の約束事だった。
「起きるか」
寝間着から部屋着に着替え、リビングに向かう。
味噌汁のいい匂いが鼻腔を突く。実家だからこそ嗅げる匂い。
胸がポカポカした。
「~♪」
軽快なハミングがキッチンから聞こえてくる。
小さい頃よく子守唄で聞いた優しい音色。
心が穏やかになっていくのを感じる。
キッチンでは、エプロンを着た妙子が鍋をかき混ぜていた。
「……」
朝日を浴びて朝食の準備をする姉の姿に、奨真は思わず見惚れる。
妙子と最後に会ったのは春頃だ。ほんの短い期間しか離れていなかったはずだが、どこか印象が変わったように思える。
うまくは言えないが、なんだかひと回り大人に成長した。
そんな気がした。
清楚を体現したような妙子に、朝のキッチンというのは非常にマッチしていた。
若奥さんという言葉が浮かんだ。
そしてつい甘い連想をしてしまった。
大人の女性に一歩足を踏み出したような艶のある表情で、しかし昔のように明るい笑顔で、『おはよう、あなた』と言ってくれる光景だ。
「あ、おはようショウちゃん♪」
もちろん、現実ではこうだ。
自分に向けてくれる妙子の笑顔は、未だにカラッとした無邪気なものだった。
先ほど感じた印象は恐らく思い違いだろう。
そして妙な想像をしてしまったことを、奨真は恥ずかしく思った。
「……おはよ」
込み上がる羞恥をまだ眠気が取れていないフリをして誤魔化す。
「そろそろ起きる頃かなと思ってお味噌汁温めておいたよ?」
「サンキュ」
仕事で多忙な母の代わりに弟の面倒を見てきた分、妙子はこういう面では本当に鋭い。
奨真のことはすべてお見通しとばかりに、いつもタイミング良く気づいてくれる。
「まだおねむ?」
「少しな」
「けどもう9時だよ? お母さん寂しがってたよ。お仕事行く前に、一緒に朝ごはん食べれなくて」
「ああ、それは、ごめん……」
「早速、親孝行の機会逃しちゃったね?」
「帰ったら肩でも揉んであげるか」
「うん。喜ぶと思うよ」
近藤家の家族構成は母と姉と弟の三人。
二人の子どもが学園艦に通っている間、母は家に一人きりである。
寂しい思いをさせてしまっていることは、姉の妙子と一緒に日々感じていることだ。
だから長い休みは家族と過ごす時間を大事にする時期だった。
母は女手ひとつで二人の子どもを養ってくれている。
深く感謝している。
特に奨真の感謝の度合いは計り知れない。
彼の年頃ともなると、親孝行というのは照れくさくて避けるものだ。
しかし奨真はその辺りに関して余念がない。
「顔洗っておいで」
「うん」
妙子に言われ洗面所に向かうことにする。
冷水を顔いっぱいに浴びて気分を変えようと思った。
そうしないと妙子のエプロン姿を直視できない気がした。
薄着の上からエプロンを着ているというだけで、途方もなく扇情的に感じられた。
露わになっている健康的な二の腕や、ショートパンツから伸びるスラリとした美脚が目に眩しい。
長年バレーボールによって鍛えられた肉体は美しいラインを描いており、引き締まるべきところはビックリするほどに引き締まっている。
だと言うのに出るべき場所は暴力的な発育をしている。
本人は大きすぎるヒップがコンプレックスらしいが、それが世の男性の目を引く武器になることは言うまでもない。
そういう目で姉を見ていることに気づくと、奨真はまた自己嫌悪に陥った。
純粋に妙子の美しさに惹かれるのならまだ辛うじて許容できるが、そこに思春期特有の青い、そして桃色の情欲が交じった途端、彼は己を叱咤する。
(去年まではこんなことぐらいで動揺したりしなかったんだけどな……)
パシャパシャと冷水で洗顔しながら、奨真は修行僧のように煩悩を振り払う。
年々、妙子に対してますます魅力を覚えてしまうのは、それだけ自分が『少年』から『男』として移ろい始めているからなのか。
あるいは妙子自身に女性としての色香が加わり始めたからか。
その両方かもしれない。
手探りでタオルを取り、濡れた顔を拭く。
気分共々サッパリした。これで不自然なく『弟の顔』に切り替えることができる。
元の場所にタオルを戻そうとすると……15歳の少年にとっては目に毒なものが洗濯籠に入っていることに気づいてしまった。
「……っ」
切り替えたはずの気持ちはまた複雑な色情に襲われる。
籠の中にはかわいらしい柄の三角形、そしてそれと同じデザインの特注サイズの布が無防備に置かれていた。
視力の高い奨真の目は、タグに表記されている『I』というアルファベットまで刻み付けてしまった。
デザインとサイズからして、間違いなく妙子のだろう。
「はあ……」
込み上がってくる激情を少年は呆れの溜め息と共に吐き出した。
どうせ身内しかいない家だ。意識し過ぎる自分がおかしいのだ。
だがそれでも年頃の少女ならば、ましてや乙女ならば、歳の近い弟がいる以上、少しぐらいは気を付けるべきではないかと奨真は思った。
たとえ姉弟でも、そういうことを考えるべき年齢に自分たちはなったのだ。
そのことを妙子に伝えるべきだろう。
注意を促すこと自体は別におかしいことではないはずだ。
わざとらしく荒い足音を立てて奨真はリビングに向かった。
頭にちらつく、巨大な果実も包めそうな魅惑的な布は必死に意識から切り離した。
「おい姉貴。洗濯物だけどさ……」
リビングのテーブルには奨真のために用意された朝食がホカホカと湯気を立てていた。
そして妙子はソファに座りながら乾いた洗濯物……奨真のトランクスを畳んでいた。
「あ、ショウちゃん。洗濯物畳んでおいたから後で部屋に持って行ってね?」
奪い去るように奨真はトランクスを妙子の手から抜き取った。
「それぐらい自分でやるっつの!」
「なに恥ずかしがってるの? 別に姉弟なんだからいいじゃない」
「気にしろよ少しは!」
これは多分、洗濯籠のことを言っても「?」と首を傾げられるだけだろうと奨真は気落ちした。
(普通こういうのって逆じゃないのかよ……)
まるで気にし過ぎている自分のほうがおかしいみたいではないか。
奨真は煩雑な思いに駆られた。
妙子が若干天然気味なのは、というよりも空気を読めないのは昔からのことだが、ここまで来ると男としても弟としても心配になる。
今日ほど妙子の通う大洗が女子校で良かったと思ったことはない。
彼女が多感な男子生徒に思わせぶりなことをして誤解させてしまう絵が容易に想像できた。
そして面白くない想像に自分自身が腹立った。
「……もういい。飯食う。いただきます」
苛立ちを発散するように焼け食い気味で白米を口の中に掻き込む。
「ゆっくり食べなさい」
妙子が注意してくるが無視してオカズのハムエッグに箸を伸ばし、豪快に食らいつく。
「もう」
聞き分けの悪い弟に呆れている様子だったが、それもすぐに笑顔に変わった。
おいしいあまり夢中で食べているように見えたのだ。
「ふふ♪」
洗濯物を畳み終えると、妙子は奨真の対面に座り、ガツガツと食べる様をにこにこと眺めた。
「おいしい?」
「……うまいよ」
「よかった♪」
素直な感想を聞くと妙子はまた機嫌が良くなった。
この家でよく口にするのは妙子の手作り料理だった。
小学生の頃はずっと妙子が晩御飯を作ってくれていた。
奨真にとって母の味は妙子の料理だった。
久方ぶりに食べる妙子の手料理は否応なしに奨真の心を穏やかにした。
「そういえばショウちゃん。学園艦ではちゃんとご飯食べてる? いまだにコンビニのお弁当とかお惣菜で済ましたりしてない?」
「少しずつ覚えてるよ。この前はトンカツ揚げた」
「よろしい♪」
そう言って妙子は奨真の口元に着いたご飯粒を指で取って口に入れた。
ほぼ自然な動作で反応が遅れた。
顔が赤くなるのを、奨真はアツアツの味噌汁を飲んでいるせいにした。
「そうだ。お姉ちゃん今日バレー部の皆と練習する約束があるから、お留守番よろしくね?」
「ん、了解」
彼女が所属するバレー部(非公認)の面々は、妙子の家庭事情に理解を示してくれ、長期休暇になると一緒に帰省してくれるのだった。
しかし根性をモットーにする彼女たちはもちろん帰省してもバレーの練習を欠かさない。
キャプテン磯辺典子は大洗町、同級生の河西忍と佐々木あけびはひたちなか市と比較的近隣に住んでいるが、妙子だけ北茨城市の住まいのため少し距離がある。
そのため陸で練習する場合は、ちょうど互いの住まいの間に位置する日立市にわざわざ電車で集まるのだった。
陸のほうが練習場所を気兼ねなく確保できるため、学園艦よりも捗るという。
本当によくやるな、と奨真は感心した。
「出かけたいなら出かけてもいいけど、鍵はちゃんとかけてね?」
「うん。でも今日は夏休みの課題に集中するよ」
「夏休みの課題……あーあー聞こえない聞こえない」
「今年は手伝わないからな」
妙子がスポーツに情熱を燃やす一方、奨真は勉学に励んでいた。
学費を無駄にしたくないという気持ちと、しっかりと学んで母に恩を返したい夢があるからだった。
中高一貫の学園艦に通っているので受験の心配はないが、その分夏休みの課題は多い。
休みの終わりに泣きわめく姉と違って、奨真は早めに終わらすタイプだった。
「バレーの練習もいいけどさ、ちゃんと計画的にやれよ?」
「わ、わかってるよ~。こほん……とにかくお昼ご飯は作り置きしてあるから食べたいときに食べてね?」
「おう」
姉の威厳を取り戻すためか、妙子はやたらと「あーだこーだ」と弟に注意を呼び掛けた。
段々と「歯はちゃんと磨くんだよ? 知らない人を家に上げちゃダメだよ?」と小さな子に言い聞かせるような内容になっていった。
「お姉ちゃんがいなくて寂しいかもしれないけど我慢してね? 泣いたりしないでね?」
「泣くかよ! 園児か俺は!」
さすがに子ども扱いが過ぎるので奨真は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「え~だって昔は『お姉ちゃん行っちゃやだ~!』ってよく泣きついてきたじゃない。かわいかったなぁ、あのときのショウちゃん♪」
「いつの話してんだよ、ったく……」
確かにできれば妙子と二人きりで過ごしたい気持ちはあるが、だからと言って子どものように駄々をこねたりしない。
しかし妙子の中では奨真はいまだにあの頃の小さな子どものままなのかもしれない。
つまり男として意識されていない。
そう考えると複雑だった。
「帰ったらいっぱいお姉ちゃんがお世話してあげるからね?」
だからこのような発言も意味深いものではなく、単なる幼少時の延長に過ぎない。
「しなくていいから」
つい浮かびそうになるふしだらな妄想を地平線の彼方に押しやって、奨真は素っ気なく言った。
その態度は妙子にとっておもしろくなかったようで不満げに頬を膨らませた。
「むぅ~。お姉ちゃんにとって実家に帰ってきたときは弟のお世話をすることが楽しみなんだよ!?」
「初耳だよそんなの」
確かに学園艦から帰ってくるたびスキンシップが過剰になっていくのを感じてはいた。
弟と離れていて実は一番寂しい思いをしているのは妙子なのかもしれない。
しかし、その成長した肉体で昔のように遠慮のないスキンシップをされるのは健康上よろしくない。
妙子が気にしていなくとも、奨真は常時爆弾を抱えて生きているようなものなのだ。
ふとした拍子で爆発でもしたら、姉の無垢な愛情を裏切りかねない。
だからこそ抑制のため奨真は言う。
「あのさ、お互い恋人ができた時までそんなことしてたら恥ずかしいだろ?」
そんなことは想像もしたくないが、彼女の弟として生きる以上、いずれは避けられないことだと思っている。
妙子ほど魅力的な女性ならば引く手あまただろう。
今のうちに覚悟は必要だ。
「だからさ、もういい加減弟離れを……」
「え? ショウちゃん、もしかして、恋人ができた、の?」
「はい?」
妙子の様子がおかしいことに奨真は気づく。
目の中の光が消えているように見えるのは、はたして錯覚か。
「姉貴? 何を言って……うわっ!」
思いきり肩を掴まれる。
華奢な手が出しているとは信じられない握力だった。
「誰!? いったいどんな子なの!? お姉ちゃんよりバレー強い人じゃないとお姉ちゃん認めませんよ!?」
「なんでバレー基準なんだよ!? イテテテッ!」
「いつのまにそんな人ができたのショウちゃん! お姉ちゃんに黙ってたの!? 許しませんよおお!!」
グワングワンと揺らされる。
食べていた朝食を戻してしまいそうだった。
「例え! 例えの話だって! いねーよ恋人なんて!」
必死に説明するとパッと拘束が解かれた。
勢い余って頭がテーブルに激突する。
「なぁんだビックリしたぁ♪」
鬼気迫る態度は一気に霧散し、いつもどおりの、もしくはそれ以上のにこやかな笑顔を妙子は浮かべた。
「まぁでも当然か~♪ ショウちゃん女の子にモテなさそうだもんね♪」
失礼な、とテーブルの上で奨真はプルプルと怒りに震えた。
しかし事実なので否定できなかった。
クラスメイトの女子曰く「近藤君って悪い人じゃないけど何考えてるかよくわからない」だそうだ。
「あっ! もうこんな時間だ! そろそろ準備しなきゃ。お姉ちゃん着替えてくるね~♪」
やけに機嫌よさげに妙子は部屋に向かった。
「うう……」
男子顔負けのパワーに揺すられて、目が回りそうだった。
まさか妙子があんなに取り乱すとは思わなかった。
もし本当に恋人ができたと言っていたらどうなっていたことか。
「……」
ただ、あの反応が単に姉としての過保護なのか、それとも──自分と同じ感情から来るものなのか判別はつかなかった。
弟の自分は前者だろうと溜め息を吐いた。
男の自分は後者であって欲しいと期待した。
自分の中で聞き入れたのは弟の声だった。
こうして帰省して顔を合わすたび、妙子の過保護ぶりはエスカレートしていく。
そしてまた自分も、ますますそんな彼女の虜になっていく。
けれど、いつかは終止符を打たなくてはいけない。
この思いは家族としてとても歪なものだ。
思うところはあれど、奨真はこの家の暮らしが好きだ。
先ほどの妙子とのやり取りも、些細なものだとしても奨真にとっては掛け替えのないものだ。
あの日、妙子に助けてもらえなかったら、今も自分はあの暗く冷たい施設で心が磨り減っていたかもしれないのだから。
今でも充分、幸せだ。
だからこそ『男』の自分に言い聞かせる。
もうこれ以上、妙子を女性として意識してはいけない。
せめて家にいる間だけは、弟としての顔を……
「ショウ~ちゃん」
むにゅり、と信じられないほどに弾力性に富んだ感触が背中に広がる。
ついで首周りに絡む細腕。
艶のいい髪が頬に当たる。
シャンプーのいい匂い。
そして大好きな人の大好きな香り。
「ぎゅ~っ。弟分補給~」
体操着に着替え、トレードマークのハチマキを結んだ妙子に抱きしめられていた。
至福の心地がカラダいっぱいに広がっていく。
「さっきはモテないだなんてひどいこと言ってゴメンね?」
軽はずみで失言したことを気にしているらしかった。
お詫びとばかりにギュッと抱擁してくる。
凶悪な膨らみがますます背中に押し潰れた。
意識が混濁していく。
「でもね?」
追い打ちをかけるように、妙子は耳元に唇を近づける。
甘い吐息が耳穴にフッと当たる。
「お姉ちゃんだけには、ショウちゃんモテモテさんなんだよ?」
そう言って妙子は昔よくしてくれたように、頬に柔らかなものを当てた。
「よし! 気合い入った! これで練習がんばれるよ! 行ってきます!」
「……」
奨真はまたテーブルに突っ伏した。
元気よく家を出ていく姉に「行ってらっしゃい」と言う気力も湧かなかった。
まだ自分は寝ていて夢を見ているのではないかと思った。
しかしカラダに焼き付いた妙子の豊満な肉体の感触はまぎれもない現実だ。
姉に恋をしてはいけない。
妙子を女性として見てはいけない。
そう決めたというのに……
「挫けそうだよ、お姉ちゃん……」
つい幼い頃の呼び名を呟いて、奨真はしばらく悶々とした。
夏休みの課題にはちっとも手がつかなかった。