柔らかい風が頬を撫でる、穏やかな午後。日課である花壇の手入れも終え、私はしばしの休息をとっていました。うららかな陽光が眠りを誘うようで、耳を澄ませばあたりからは微かな寝息すら聞こえてきます。
「……ふー、ふー」
ヘレナさんに用意してもらった熱々の紅茶を冷ましながら、しかし私は別のことに思考を巡らせていました。
「茶熊学園……」
この世界では、冒険家になる人に教育は必要ありません。新米の方も歴戦の冒険家も、文字通り現場で経験値を積むことで腕を上げてゆきます。その他の――冒険家でない――職や、一部学術的な素養が必要な職を目指すひとたちが、専門の教育機関を利用することもある、程度のものです。
その中で、冒険家のために作られた教育機関などというものはあまりに突飛な存在でした。当然、教える側の冒険家も不足気味なので、実際に授業を受けられる者は極少数ですが、冒険家であれば出入り自由とのことで、興味本位で足を運ぶ冒険家も多いのです。
この極少数に、あのカスミもいると聞きます。
「いったいどんなところなんでしょうか……」
想像してみる。
カスミはあそこでうまくやっていけているでしょうか。
孤立していないでしょうか。
制服は似合っているでしょうか。
「……はっ」
いつの間にか、思考が偏った方向に向かっていることに気づきます。でも一度気になってしまうと止まらないもので、そのうち私はあることを決意しました。
「覗きというのも、悪くないかもしれませんね」
呟いて、少しばかり上気した頬を隠すかのようにティーカップに口をつけました。
ここ最近、新入生を迎え入れたということもあり、飛行島はアラマキ島に停泊することが多いようです。赤髪の彼を始めとする二人と一匹、そして在学生たちと新入生たちの一部も列をなして、あるいは思い思いの手段で校舎へと向かいます。物陰から様子を伺いながら、その列のある一点に彼女の気配を感じました。
私自身他ならぬ冒険家でもあるので、何ら隠れて行動する必要も無いのですが……。
「がんばってきてね、と送り出してしまった相手に、堂々と会いに行くなんて……とても恥ずかしくてできたものではないのです」
気配を消し擬似的透明人間になれる技術は、カスミに教えてもらったものです。まさか教えた相手に見つからないようにするために使うとは、カスミも思わなかったことでしょう。
正式な在籍者に対しても、そうでないものに対しても広く門戸を開く茶熊学園の敷地内に侵入するのに、そう苦労はしませんでした。今は授業中でしょうか、制服姿の冒険家は見られなかったので、ひとまず授業を行っていると思われる教室の窓辺へと、物陰を伝いながら向かいます。透明化を行っているのでコソコソと動く必要もないのですが、そのあたりは気持ちの問題なのです。
「ふふ、私、悪いことしちゃってますね」
髪飾りの白百合も、動く度嬉しそうに揺れます。小さな背徳感と大いなる好奇心で、私の心は満たされていました。足取りは軽く、程なくして私は窓辺にたどり着きました。覗きを実行する前に、聞き耳を立てることにします。
「……ノコ組の者どもよ、我が名はウマルス! その名は七つの海に轟き、その毛並みは天使の羽より純白に染まり、その瞳は千里先をも見通し……」
冒険家に対して何をどんな目的で教えようとしているのか皆目見当もつきませんでしたが、とにかく授業を行っていることは確認できました。でもこれから、少し大切な作業を行わないといけません。
恐る恐る、すこしだけ眼を開くと、すぐさま飛び込んでくる溢れんばかりの光量に、数秒も持ちこたえられませんでした。
「やはり、慣れないものですね」
私は目を開かなくても周りのことは大まかにわかるので問題はないのですが、とても長い間そうしていたせいで、目を開いてしまうとどうしても負担がかかってしまうようです。なぜなのかこの前キャトラさんに相談してみると、
「もぐもぐ、それはアレね、ずっと暗いとこにいて、もぐもぐ、すぐ明るい部屋に出ると何も見えなくなっちゃうのと同じだわ、もぐもぐ、そういうのは何回かやり直せば慣れるわよきっと……んぐっ、おいしいわねこのカニカマ」
……と答えてくれました。もしかしたらグラフィックの問題かもしれないと思っていましたが、杞憂だったようです。こんなふうにキャトラさんはエサさえ持っていけば何でもやってくれるので、とてもチョロ……いえ、ありがたい存在です。
そんなわけで、何回か目を開けてはしばらく悶絶し開けては悶絶しを繰り返して、漸く薄目を開けることに成功しました。久方ぶりの、色鮮やかな世界。いつだったか私の偽者と対峙した時、相手はこんな顔をしていたような気がします。
実はあまり目を開けないもう一つの理由として、この目つきだと相手を威圧してしまうのではという心配もあったのです。むやみに悪印象を与えるのなら、自然体でいた方が賢明というものです。
ただ『見る』という行為にここまでの労力を使ってしまうのです。無闇にできたことではないですし、またする必要もないのですが、今ここで使わない手はないでしょう。なんといっても『覗き』ですから……ね?
長い準備を終え、いそいそと窓枠から顔の半分ほどを出してさながら猫のようになった私は、カスミに意識を向けることも忘れ、クラスの惨状に目を疑っていました。
……この表現、いつか使ってみたいと思っていたんですよね。
「ぐがーっ、すぴゅ〜……」
「すぅー……」
「むにゃむにゃ……」
視界の確保に専念していて気づきませんでしたが、既にクラスの半数近くが寝息やいびきをたてながら眠りの中に沈んでいました。
「……時は数千年前に遡り、とある王国の厩にて勇ましい雄叫びと共にこの世に生を受け……」
あの白馬さんは未だ大仰な自己紹介を続けていました。原因はあれでしょうか。これでは話を聞く気になれないのも仕方ないと、半ば憐憫の情でもって改めてクラス内を見渡した瞬間、私は黒板の隅にある文字列を認識しました。そこにはこう示されています。
『集中力を涵養せよ』
「ああ、そういう……」
この授業の意義がなんとなくわかりました。あの学長も、上手い人材の使い方をするものです。あの白馬さんがその辺りを理解して振舞っているかどうかは、怪しいところではありましたが。
(さて、カスミはどこかしら……)
あわよくば寝顔を見られるかもしれないと思うと、胸の高鳴りを抑えずにはいられません。ごはん三杯はいけそうです。知らず涎まで垂れそうになったので、慌てて拭き取ります。
そう人数もいない教室で、その姿は容易に確認できました。カスミは……カスミは、なんとしっかり起きてノートまで取っていました。がっかりしたような気持ちと、感心したような気持ちと、先程までの邪な自分への恥ずかしさが入り交じって悶えそうになります。いえ、実際悶えたのかもしれません。なぜならーー
「シャッターチャンス!」
突然の背後からの声に思わず振り返ると、口元を布で覆い、かつ上半身は制服のジャケット一枚という素肌を隠したいのか隠したくないのかよくわからない男が、伏せたままカメラを手にこちらを不敵に見つめています。
「実はさっきからいたんだ」
なにやら言っていますが、盗撮でしょうか。盗撮なんて許しがたい行為です。人の尊厳を踏みにじっています。というより、どうしてこの男には私が見えているのでしょうか。
「覗きをしている者に言われたくはなかったが……まあいい。他の者の目はごまかせても、この蛇の目をごまかすことなどできないのだ!」
「ふっ……決まったな」
あまり決まっていませんでしたが、覗きであることを考慮してかこれまで全てのやり取りを小声でしてくれているので、多少は理解のある人物と見ました。それに、少し精神を乱して気配を出してしまっただけの私をすぐさま察知できるような人物です。迂闊に排斥するのは悪手でしょう。
「で、噂に聞く草花に祝福された乙女が、どうしてこんな場所でこんな行いを? しかも眼まで開いてるじゃないか」
警戒を解くと、男は俊敏な動きで距離を詰め、捕食者のそれで取材してきます。この男、初対面のはずの私の情報を既に握っています。とても厄介な相手でした。
「その前に、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
答えづらい質問だったので、ひとまず話を逸らします。
「俺は茶熊学園新聞部のバイパーという者だ。 ジャーナリストとしてセカンドライフを歩もうと思っている」
「そ、そうですか……」
「で、何をしていた」
さらに距離を詰めてきます。近いです。カスミ以外にここまで詰め寄られるのはとても嫌悪感があります。あまりに嫌だったので、こともあろうに私は事の顛末を洗いざらい話してしまいました。この記者、できる……!
「なるほどな」
全てをメモに書き記した後、その半裸男は満足した面持ちでメモ帳を閉じました。しかし次の瞬間そのメモ帳をそのままびりびりに引き裂き、
「協力しよう」
と持ちかけてきました。
私の頭にはただ無数のクエスチョンマークが浮かぶのみでした。
「協力しよう、と言ってるんだ」
半裸男……バイパーと名乗る男はそう繰り返しました。さっぱり意味がわかりません。行動が支離滅裂です。私を発見した時から今さっきまで、この男は異常なまでのジャーナリスト精神で私を追い詰めんとしていたはずです。 あまりに突拍子もない申し出に困惑していると、表情に出ていたのか男は少し距離をとって申し訳なさそうに眉を下げ、困り顔を作ってみせました。
「すまない、驚かせたようだな。だがこれには理由がある」
「あの、理由とはどういったものなんでしょうか……」
男はごく真剣な面持ちで答えます。
「……俺は百合豚なんだ」
……えっ?
「百合豚?」
「お前たちみたいな関係を見守り、応援するのを無上の喜びとしている人種だ」
「女の子は女の子同士で恋愛すべき、そうは思わないか?」
思わず数瞬固まってしまいます。聞き慣れない単語ではありますが、話を聞く限りでは悪い人ではなさそうです。……変な人ではあるようですが。
「いえ、その意見にはまったくもって同意なのですが……」
しかし引っかかるところはあります。
「それならむしろ、死力を尽くして報道したくなるのでは?」
「何を言う。俺はジャーナリストである前に一人の百合豚だ」
……豚なのに人としての単位が与えられるのですか、と問いたくなりましたがすんでのところで押しとどまります。
「お前たちの関係をこの手で壊すような真似など、できるはずがないだろう」
「幸いにも俺はこの学園の生徒だ。俺が協力すれば、お前の目的もスムーズに達成できるだろう。悪い提案ではないと思うが」
……迷います。今追い返しても、周囲に言いふらすことはしないでしょうが、そもそも諦めてくれるのかどうかが怪しいところ。
「初めはスクープの匂いを嗅ぎつけて駆けつけたが、今は違う。ただ純粋に応援したい気持ちでいるんだ」
今度は近寄ってきませんでした。いつの間にかその長いストールから覗く双眸には、捕食者のものとは違う、むしろ純朴な少年のような光が宿っていました。
「……ふう……」
私はひとつため息をつくと、
「わかりました。ご協力感謝致します」
手を、差し伸べました。
そうしてここに、奇妙な新聞部員との奇妙な協力関係を結ぶ運びとなったのです。
「で、だ。手始めに何をすればいい」
再び窓枠にしがみつく私に、後ろから声がかかりました。振り向くと、無意味に反復横飛びを繰り返す半裸男の姿……いえ、透明化しているので姿は見えないのですが、視覚以外の五感を使えば何をしているかくらいはわかります。
「今はそのままで構いませんよ」
「そうか」
協力を承諾してからというもの、興奮した気持ちの行き場をなくしたようで、ずっとあの調子です。もしかすると、回避行動を繰り返さなければならない謎の校則エリアの影響でしょうか。とにかく邪魔にはならないのですが、一言でいえば異様です。透明化を会得してなければ、今すぐにでもつまみ出していたところです。
余談ですが、便宜上透明化と呼んでいるこの技術、正確には透明になったわけではなく、視覚による認識を欺いたと言ったほうが妥当なんだそう。曖昧な説明だったのでカスミに問いただしてみたこともあるのですが、
「さあ? 私もよくわからないのよ。わかってるのは精神が乱れると効果を発揮しなくなるってことと、『いる』のに『いない』扱いを受けちゃうってことくらい。最初にこの技術を開発したとある白魔道士の見習生なんか、常にそんな状態なんだって」
との答えでした。世界には不思議がいっぱいですね。
改めてクラスを見渡すと、その惨状はやはり悪化しておりました。意識を保っているのは背中に白黒ツートンカラーの翼が生えた長髪の男とカスミだけで、それ以外の生徒が全滅しています。全滅。酷い生徒だと地面に大の字になって……え? この方は生徒会長と呼ばれる立場ではなかったのでしょうか。学園のことは調べていませんが、ちょっとした有名人なのですぐ分かります。それはともかくとして、無理のある寝相です。途中で目を覚まさないのが不思議でなりません。
意識をカスミに向け直します。彼女はときたま渋い顔をしながらも、メモをとりながら白馬さんの話をきちんと顔を上げて聞いています。並外れた集中力と言えましょう。
私は後ろで刻まれる一定間隔の靴音をバックグラウンド・ミュージックに、授業参観に来た親のような気持ちでしばらく見とれていました。
「……では今日はここまでとする。次回は我が盟友、タニアについてだ。ヒヒィーン!」
白馬さんはひとついななくと、蹄をツカツカと鳴らしながら板張りの教壇を降り、退出していきます。入れ替わりに現れた、上級生と思しき金髪眼鏡に風紀委員の腕章を身につけた若者は、ファイルを手にクラスを見渡し、溜め息をついてなにやら書き始めました。そのままの姿勢で、ふたりに話しかけます。
「しかしよく耐えたな。廊下で待機している間でも、結構危なかったぞ」
どうやらこの学園はクラス担任を上級生が担当しているようです。少し荷が重すぎる気もしますが……。
「これでもいっぱしの神だ。これくらいは造作もない」
男はあっけらかんと答えます。飛行島に長い間いると、神様くらいの存在にはさほど驚けなくなるようです。慣れとは恐ろしいものですね。
「作業しながらだと、案外耐えられるものよ」
返答しつつ、カスミは先ほどのメモ紙を取り出しました。よく目を凝らすと(これもやってみたかったことです)、そこにはなんとも精巧な白馬さんのスケッチが描かれています。
「たてがみの部分の質感を出すのが難しかったわ」
「なるほど、考えたな」
風紀委員の男は唸ります。神らしき男も唸ります。カスミはカスミでなんだか誇らしげにしています。なんとも微笑ましい構図。
「今日はこの授業だけで終わりだ。あとは好きにしてくれていい。寝てる奴らは……あー、しばらく起きなさそうだから放っておいて構わないぞ」
風紀委員の男はそう伝えると退出していきました。
「では、俺はツーリングにでも出かけるとしよう。風が俺を呼んでいる……」
「ええ、またね」
長髪の男も後を追うように教室を出ていくと、残るはカスミひとり。
「……あら?」
ちらりとカスミがこちらへと視線を向けました。一瞬だけばっちり目が合い、ほぼ反射的に身を隠してしまいます。
思えば、私は一度たりとて彼女と『目を合わせる』といった行為などしたことがなかったのです。これほどの甘く痺れるような衝撃を伴うものだとは、想像だにしていませんでした。体温が急上昇していくのを感じます。
「〜〜〜〜っ!」
声を出すわけにもいかず、狼狽しながら窓の下でうずくまっていると、少し怪訝そうな声が聞こえてきました。
「バイパーさんじゃない。……何してるの?」
なんだ、後ろのバイパーさんか……と、一瞬安堵してしまいましたがこれはこれで大問題。
「なに、面白い授業だと思ってな。それよりこれからどこへ行くつもりだ?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
恐る恐る顔を出すと、カスミは明らかに渋い顔をしています。
振り返ると、あの男はストールをひとつなぎにして縄跳びのようにジャンプを繰り返していました。しかもいつの間にか透明化まで解けてしまっています。
「あらまあ……」
思わず声が漏れてしまいます。小声なので聞こえはしないでしょうが。
「ま、まあいいわ、バイパーさんがよく分からないのはいつものことだし……」
「それで、これからどこに行くんだ?」
「え? うん……いつも通り、私はこれから図書室に行くつもりよ」
「そうか。では俺も取材があるのでな」
前言撤回。あえて姿を現し、行き先を聞き出す作戦だったのでしょうか。一見掴みどころのないように見えて、なかなか侮れない人物です。
手早くストールを解くと、颯爽とその場を去っていきます。ひとまず後をついていくことにしました。
「……すまない。あまりに君たちの距離感が微笑ましすぎて集中が途切れてしまった。本当はもう少し見ていきたかったんだがな……」
笑顔を保ちながら考えます。やはり状況を処理する能力に長けているだけで、あまりなにも考えていないのでしょうか、この男は。
「さて、彼女は図書室が閉まるまではあそこにいるだろう。閉室した後は真っ直ぐ飛行島まで帰るはずだ。俺の出番も、もうなさそうだな。結局大したことはできなかったが」
彼はまた、少し自嘲するように笑いました。
「いえ、なんとお礼を申し上げればいいか……」
「礼を言うほどのことでもない。実際大したことはしていないんだ」
「それと、取材があるというのは本当のことだ。作戦の成功を祈っているぞ。アディオス!」
「あ、あでぃおーす……」
戸惑いながら手を振ると、木々を飛び越え、華麗な動きで去っていきました。
のちに私は、ここでこの男を見逃したことを後悔することになります。
ところは変わって図書室の窓辺。またもや犬猫スタイルとなって窓枠に張り付いている私です。
カスミはというと、来館者もいなくなった図書室のカウンターで、分厚い本を広げています。題名は……角度のせいか、よく見えません。
そよ風に揺れる黒髪は西日を反射して輝き、その憂い顔に陰影を象ります。グラウンドの遠くから聞こえる歓声と、ページをめくる音だけが繰り返し反響する閑散とした図書室で、その役目を粛々とこなす番人。切り取って絵画としても何ら違和感のない、ノスタルジックな情景です。ああ、視えるとはなんと素晴らしいことでしょう。
静まり返る図書室に、引き戸を開ける音が響きました。この安らぎ空間への侵入者に若干の苛立ちを覚えつつ、扉のほうを確認します。その際、カスミが少し焦ったように本を仕舞い込んだのが、少し気がかりでしたが。
「あら、また来たのね」
立っていたのは煌びやかなコートに身を包み、金色と焔色の瞳を気怠そうに伏せる少女――先ほどの生徒会長でした。その豪華絢爛な出で立ちとは対照的に、ひどく疲れたご様子。
「あーの赤いおっさん、あんくらいでプリプリ怒んなってのー。今日は特に酷かったし。どっからか圧力かけられてんのか本職の癖が抜けてないのか知らないけどさー、マジ嫌になってきたし」
ブツブツと呟きながら、今にも倒れてしまいそうです。立場の問題もあるでしょう。因果応報とはいえ、少しばかり気の毒。
「図書室では静かに……と、言いたいところだけど、もう誰もいないしね。聞くだけなら聞いてあげるわ」
慣れた様子でカウンターの仕切りを上げ、中へと招き入れるカスミ。そう、慣れた、様子で……。
自ら使っておきながら、どこか呑み込めない単語のような気がしました。
ふらふらとカウンターに身を滑らせカスミの横にある座席にへたりこんだ生徒会長は、糸の切れたあやつり人形のようにそのまま隣へと倒れてしまいました。なし崩しに膝枕のような状態です。
「うぅ〜……もうここしかオアシスがないのお……うっ……ひっ……スミちゃぁん……」
「ああもう、泣かないの泣かないの。もう涎まで垂らしちゃってまったく……」
小言交じりでありながらも甲斐甲斐しく世話を焼く様子は、どこか充実しているような印象すら与えました。
而して同時に感じた、心にチクリと刺さる針のような感覚だけは、どうしても消えることはありませんでした。
生徒会長さんも疲れからかすやすやと眠りについたころ、新たな来客が現れました。勢いよく扉を開ける新たな乱入者は、先程の生徒会長とはうってかわって顔は紅潮し汗まみれ、息も絶え絶えの見るからに焦燥しきった様子です。
「すいません失礼します!まだ開いてますか!?」
「開いてるわよ。 ギリギリね、マリ」
「よかったあ〜……返却期限、今日までだったし……なんかその、赤い低速床みたいなののせいで間に合わないかと思った」
生徒会長とはうってかわって大人しい印象を抱かせる赤縁眼鏡に黒髪の少女は、安堵したように大きなため息をつきました。教室では見なかった顔です。制服も、カスミたちと違い中等部のもののようです。
「じゃあ返却する本を見せてくれる?こっちで記録して棚に戻しておくわ」
マリ、と呼ばれた少女は鞄からハードカバーの本を取り出しおずおずとカスミに差し出しました。
「ルーン兵器開発・応用編ね。確かに受け取ったわ」
「ああ……そういえば、もうそろそろ見学の期間が終わって、元いた学校に戻らないといけないんだっけ」
元いた学校?彼女はこの学園に所属している訳ではないのでしょうか。
「名残惜しいけど、私にはやりたいことがあるから」
「やりたいこと?」
マリさん――そう呼ぶことにしました――は、決意に溢れる眼差しをカスミに向けました。
「ルーンバリスタを、世界中に広めたいの。あの古代兵器を研究して再現すれば、きっと冒険家の皆の力になれると思うから」
《智の民》の暴走と鎮圧、その顛末は、部外者である私も聞き及んでいました。そして、その勝敗を分けた古代兵器についても。
「そうね。上空への対抗手段を持たない冒険家も多いし、設計図を流通させて、どこの島でも作れるようにすれば、私たちの戦いも楽になると思うわ。頑張ることね」
「はい……わたしにできること、ひとつずつでも」
その言葉を待ちわびていたかのように、カスミは顔を綻ばせてまっすぐにマリさんを見つめました。
「じゃあ、あなたにしかできないことひとつ、お願いするわ」
「わたしにしか、できないこと?」
マリさんがきょとんとしている間、カスミは――あろうことか、おもむろに深く寝入ってしまった生徒会長をお姫様抱っこにしてマリさんに差し出しました。
「ルームメイト、なんでしょう? 寮のベッドまで送ってくれるかしら」
「……はい!」
図書室に再びの静寂が訪れて数刻。しかし私に、もとの穏やかな気持ちはありませんでした。今日一日彼女を観察していて、うすうすとわかってきたこと。見ないように、聞かないように、感じないようにしていたこと。
――もうカスミにとって、私は必要のない存在なのではないか――
初めて彼女を『知覚した』とき、誰にでも分け隔てなく丁寧に接する代わりに誰とも深く関わることのできなかった私にとって、孤高に、力強く、自らの使命と意志に生きる彼女は、とても眩く高貴な存在に思えました。自らの変質に怯え、傷つくことを恐れ、また傷つけることも恐れて透明な殻越しにしか世界に触れられなかった私が、はじめて一歩を踏み出そうと決意するほどに。
その一方で彼女に接するうち、彼女が本当の繋がりを心の奥底で求めていたこと、そして私もまた本当の繋がりを求めていたことを自覚しました。
利害の一致。ささやかなる福音。彼女を幸福にさせられるのは私だけだという、知らず覚えていた傲慢な思い込み。
かつて私を護るかのように張り巡らされ、私と彼女の世界を構築し他者を寄せ付けなかった彼女の茨は、今その外側に向けた棘を自ずから失い、かつて私に向けた優しさで周囲を包み込まんとしています。やがて彼女がすべてを包み込んだとき、私という存在の意味に、価値に、どれほどの熱量が残っているのか。
思い返してみても、彼女が浮かべていた穏やかな微笑に、かつての刺々しかった雰囲気はもうなくて。
私のそばにいた時、どんな表情をしていたのかさえ、今の私に確かめる術はないのです。
失ってしまう。
やっと手にした大切なもの。
すべて失ってしまう。
そんなのは、イヤ。
「イヤ……」
気がつくと、私は駆け出していました。精神の集中など望むべくもありません。今の私がどんな状態か、誰にとっても明白でしょう。きっとひどい顔をしている筈です。図書室の正面入口に向かっているのは、ある決意からでした。カスミに今日一日隠れて覗きをしていたことと、その理由、そしてこれからのこと。一切合切打ち明けてしまって、このおそろしげな懸念を振り払う。そう決めました。私はとんだ回り道をしていたということ、痛感せざるを得ません。今度こそ、正面から――
私は勢いよく扉を開いて駆け込み――直後、なにかに激突してそのまま倒れ込んでしまいました。なにか、だなんて、現時点で図書室の扉の前にいる存在です。考えるまでもありません。頭でも打ったのかまたもや朦朧とした視界の中、久方ぶりに彼女の顔が近くにありました。顔……だけではありません。倒れ込んだのですから、当然、その、身体が――
「フ、フローリア!? どうして……その、ここに!?」
私は咄嗟に立ち上がることもできず、
「あわわ、わ、ご、ごめんなさい!」
そのままの体勢で話し始めてしまいました。感情も理性もすでにコントロールの外です。
「今日一日、ずっと、学園に行ってるカスミのことが、その……気になって、あとをつけてたんだけど、やっぱり、申し訳なくて、謝らなきゃって……」
「え? あ、あ、そうなの……普通に、一緒に行かせてって、言ってくれれば……」
カスミもまた、体勢を変えようとはせず、そのままで答えました。顔を私から反らせてしまっていて、その表情を窺い知ることはできませんが、密着している胸の鼓動が早鐘のように鳴っていることは判りました。とするならば、同じことを相手も思っているはずです。宙ぶらりんになった私の理性は、そんなことをぼんやりと考えていました。それでも言葉はまるで私の言葉でないかのような身勝手さで飛び出します。
「私がいないとき、どんな風に過ごしてるのかなって、気になって……でも、一番はやっぱり、その、恥ずかしかった、から……」
カスミの耳に朱が差しました。
「でも、今日一日、慣れない目も使って、一心不乱に、カスミをずっと観察してたら……私から、もうずっと離れてしまいそうな気持ちに囚われて……」
もう限界でした。私の目から溢れた涙が、カスミの艶のある黒髪にぽたぽたと零れていきます。
「私、あなたのことが、好き、なの」
本当なら一晩でも何日でも何週間でも練られるべき想いの言葉は、ごくあっさりしたものになってしまいました。
逡巡がありました。何かを躊躇っているようでもありました。夕暮れと木の匂いに満ちる橙色の図書室に、ただ時間だけが流れていました。
やがて、その静寂を打ち破るかのように、唐突に言葉は紡がれました。
「うん、わたしも」
そのたった六つの文字列は、どうにか保っていた私の最後の理性をほどくのに必要な熱量を有していました。
「カスミ……っ!」
「わ、ちょっと、こんなとこで、んぐ――」
重なって、彼女の自由を奪いました。倒れ込んだ方向が幸いしたのか、最初私の下で暴れていた四肢は、次第に力を失っていきます。その拍子に、彼女の脇に挟まっていた本が地面に転がりました。その題を見て、私は驚愕します。思わず身体を離してしまうほどに。
「女の子同士のための四十八手・図解……!?」
私の蔵書でもある本です。目が見えることを確認してから最初に買った本です。
「あはは……バレちゃったかあ……」
「じゃあ、その、覚悟は……」
「うん」
カスミは微笑みました。顔のみならず全身に汗が滲み、髪も解れてお互い酷い有様でしたが、今まで見た中で、最も網膜に焼き付けてしまいたい一瞬がありました。
「じゃあ、その、いくわね」
「うん」
私が、カスミの制服に手をかけた瞬間。
ぽとっ……ぽとっ……
天井から落ちてきた水滴が、赤い染みを板張りの図書室の床に作りました。
私たちは同時に天井を見上げ……そして認識し、お互いどこからともなく取り出した弓で射掛け、正確にその侵入者を縫い付けました。
「やっぱり」
「あなただったのですね……」
「バイパーさん」
私は矢をつがえ限界まで引き絞った弓で正確に鼻血の垂れている半裸男の頭を狙いながら言葉を投げかけました。
「どういうことか説明してくれたら、命だけは助けてあげます」
「はは……これは参ったな。あと少しの、ところだったんだが」
「無駄口を叩かないでください。貴方の置かれている状況は理解しているのでしょう?」
私の心は先ほどの反動で冷えきっていました。人を殺すことへの抵抗は既にありません。
「ふふ、こうなってはおしまいだな。すべて話そう。副会長をけしかけていつも以上に生徒会長を疲弊させ、マリの通る道に低速床をたくさん置いて速度を微調整し、司書用のカウンターにあの本を置いたのは俺だ」
半裸男は表情も変えずに言いました。生への執着など既に捨てたのか、この状況を脱する策があるのか。
「反復横飛びを繰り返しながら俺は考えた。お前は本当に手遅れになるまではこうして何も気づけないまま時間を無為に過ごすだろうとな。だからその
認めたくない理屈。自分の弱さを既にあの変な男に見透かされていたという、ひどく冗談めいた事実。機械音声めいたその言葉は私の心を素通りしていきます。
「……」
「言っただろう?お前達のような関係を応援することが、俺の喜びだと」
「だからってそんなコソコソと覗かなくても……あ」
私は自らの浅はかさを呪いました。
対照的に半裸男は不敵に笑っています。
「人を覗けば穴二つだ」
「変なことわざを作らないで」
カスミがそう言いながら半裸男の首筋のすぐ横を射抜きました。それでも動じることはありません。
「俺は俺の倫理に従って正当にお前たちのレズセ――」
私が頭に矢を放つのと、カスミが彼の手にしていたカメラを撃ち落とすのが同時でした。地面に落ちてカラコロと音を発するカメラの裏側には、何故かスピーカー。唐突に音を発し始めるそれに気を取られて、周りを確認するのが遅れました。
「思い通りになってくれてホッとした。今日撮ったネタはかなりの大物だが、絶対に表には出さないから安心してくれていい。口にも出さない。信用してくれなくてもいいが、約束しよう。ああ、間違っても俺を襲わないでくれよ。あまり変な気を起こしたくはない。その人形は精巧にできてるが、鼻血のからくりを作動させたタイミングは俺の意図的なものだ。さすがに全部を見届けるのは良心が痛むんでな」
その気配は半裸男の
「しかし、ほんっと腹が立つわねあの男……今度見かけたら弦で首を絞めてやろうかしら」
「でもカスミ。あの実力差だと、返り討ちに遭って終わりそうな気がする」
あれから一段落して、飛行島の宿屋の一室、そのベッドに寝そべったまま、私たちは対策を練っていました。
「もっと力をつけて、あの半裸男を軽くノックアウトできるくらいになってからじゃないと」
「半裸男……」
私はもうカスミの前で演じることをやめました。なので、たまにこんな感じで困惑されることがあります。
「ところで、どうしてあの時から一度も目を開けてないのかしら」
私はあらかじめ用意しておいたセリフを吐きました。
「もう目なんて使わなくても、カスミはずっとそばにいてくれるじゃない」
(完)