【完結】ハリー・ポッターと供犠の子ども 作:ようぐそうとほうとふ
サキは柄にもなく緊張していた。
当然だろう。だって今ここにいるのは自分を見た瞬間殺してきそうなヴォルデモートなんだから。
激戦の繰り広げられるホグワーツ城の崖を降りて、湖面にぽつんと佇む忘れられたボート小屋。湖に反射する閃光から遥かに遅れて爆音が響くとまるで常世と現世の間に落ちてしまったような気分になる。
サキは息を潜め、対峙する二人を曇りガラス越しに見ていた。
ヴォルデモートはすでに殆どの分霊箱を失っていることに気づいたらしい。いつも余裕そうな喋りの端々に焦りが見える。
サキの僅かな呼吸には気付いていないようだ。サキは念のため血を流し、聞き耳防止呪文や隠者防止呪文がかからないようにしている。
「さて、セブルス。お前は常に俺様に従い、よく働いた。サキに関して言えばお前は貧乏くじをひいたと同情すらしている」
「確かに、手のつけられない跳ねっ返りでした」
「俺様の血をひいてるとは思えんよ」
ヴォルデモートは暗く笑った。そして前置きもせず本題に移る。
「お前は俺様が杖に満足してないことをよく知っているな?」
「はい。存じ上げております。しかしそのニワトコの杖でしたら…」
「そう!最強の杖のはずだ。なのにどうもしっくりこないのだ」
ヴォルデモートは大げさに両手を広げ、不気味に笑った。セブルスは慎重に言葉を選ぶ。
「しっくり、ですか?」
「セブルス、お前は物語を読むか?」
「最近はめっきり読みません」
「なら教えてやろう。この杖は様々な持ち主を渡り歩いてきた。最強の杖を欲する者たちの戦いの末、常に勝者の手に渡ってきた」
「まことにあなた様にふさわしい杖でございます」
「そうか?そう思うのか、セブルス」
「はい。心より…」
セブルスはヴォルデモートの不穏な会話の流れに体を強張らせた。
「残念ながら、俺様は勝利していない。ダンブルドアは俺様に殺されたのではないのだから」
セブルスが息を呑むのがわかった。
ヴォルデモートは杖を握った。
それを見てサキは杖を構えた。
「お前が、ダンブルドアを殺したのだったな?」
サキは杖を突き出し無言でガラスを割った。ヴォルデモートの目がやっとサキに向く。
割られたガラス片はかつて魔法省のアトリウムでヴォルデモートがそうしたように宙に浮きヴォルデモートに向けて今にも飛んでいきそうになっている。
セブルスはサキを見て明らかに狼狽した表情を浮かべ、ヴォルデモートは残酷に笑った。
「サキ!死にに来たのか?」
「ちょっと通りすがっただけです」
サキは杖をヴォルデモートに向けたままゆっくりとガラス枠をくぐった。
ヴォルデモートは全くサキを恐れていない。
「サキ!馬鹿、どうして…!」
「黙ってみていられると思います?」
ガラス片はきちきちと引っ掻いたような音を立ててヴォルデモートとサキの中間でどちらにも鋭い切っ先を向けていた。
ヴォルデモートは杖も使わずこちらにガラスを押し返しているのだ。やはり地力が違う。迅速に事態を収拾しなければあっという間に細切れだ。なけなしの交渉スキルをフルに使って切り抜けなければならない。
「杖なんかなくても貴方はとても強い。そんな棒っキレのために有能な右腕を失うのは損では?」
「はっ…腕は2本で充分だ。ましてや他人の腕など。他人を信用するとどれだけ失望するかわかったからな」
だがヴォルデモートは聞く耳なんてハナから持ち合わせてないようだった。
サキは自分のガラス片が押し返されているのがわかった。サキはそのガラスが最悪自分を貫いても構わない。本命は別にある。
サキはガラスを目に見える範囲にのみ浮かせ、残りは床で散らばったままナギニを狙っていた。
最悪刺し違えてでも殺すつもりで体を出してみたものの、いざ臨戦状態のヴォルデモートとナギニを見たらそれも叶わない気がした。
じゃあセブルスを見殺しにする?そんなの有り得ない。
「そう焦らずともじき城は落ちます。戦いが終わってから所有権についてじっくり調べればいいのでは」
「諄いぞ。ハリー・ポッターを万全の状態で仕留めるのだ。やつは何度も俺様の手を逃れた。次こそ最後だ」
サキは床に落ちた破片に意識を集中させた。浮かんだガラス片が圧されてひびが入った。
パキ、と一番大きな破片が音を鳴らした瞬間だった。
突然ナギニがサキの脚に向かって飛びかかってくる。
サキは咄嗟にナギニの頭目掛けて脚を振り上げた。しかしそれを振り抜く前にナギニが軸足に絡みつく。
「ッ…!」
蛇はあっという間に足を絡め取り、サキを転ばせた。ナギニの頭突きで手から杖が叩き落とされる。
視界が反転して、次の瞬間にはボート小屋の天井を仰いでいた。
サキは完全に先手を打たれた。
「本当に呆れ返るほど馬鹿な娘だな。お前がたった一人でこの俺様に太刀打ちできるとでも?」
宙に浮いていたガラス片は支配権を完全に奪われ、今はサキの目の前いっぱいに浮かべられていた。ヴォルデモートから見れば鋭い切っ先がキラキラとサキの瞳に反射しているはずだ。
「馬鹿はひょっとしたら遺伝かも」
「次は命はないと言ったな?」
サキは心の中で必死にセブルスに逃げてと唱えていた。もうこうなったらセブルスが生き残るには、ヴォルデモートが私に気を取られてるうちに逃げるしかない。
ヴォルデモートが杖の支配権ごときの為にセブルスを殺すとは思ってなかった。分霊箱を失ったヴォルデモートの焦りは彼の動揺と冷静の欠如を産んだものの、焦りからセブルスを殺そうとしている。
想定外…いや、思慮が足りなかった。
「おやめください、我が君。私の命ならば喜んで差し上げます。どうか、どうか情けを」
「…ほう?」
「なんで逃げてないの先生!」
サキは視界の外から慈悲をこうセブルスへ怒鳴った。しかしそんなサキへセブルスはいつもどおり冷静な声で返す。
「何度も言っているだろう。必ず君を守ると」
「っ…違う!違うよ先生、母はー」
「セブルス、お前が喜んで命を差し出すというのならばそれもまた良いだろう!最もお前の命がこの哀れなバカ娘の命と釣り合うとは思えんがな」
「いいえ、我が君の…ご栄光のため。そしてリヴェンとの約束のために死ねるのならば本望です」
やめて、と心の中で何度も何度も叫ぶ。母はセブルスを守りたかったのに。何故願えば願うほど、その願いは夜へとけていくのだろう。
「よし。では誇り高き殉教者らしく自ら杖を折れ。礼儀作法は守らねばならん」
「はい我が君、仰せのままに」
どうして、救われて然るべき人間ほど救われずにいるのだろう。
セブルスは自ら杖をおった。木の折れる乾いた音を聞き、ヴォルデモートはひどく醜悪な笑みを浮かべ、その杖先をサキからセブルスへ向けた。
「やめろぉおおおお!」
絶望と恥と後悔と懺悔とが脳髄をめちゃくちゃにする。その衝動に任せて、地面のガラス片すべてを自分に巻き付くナギニに向けて飛ばした。
ナギニはサキの地面からの攻撃を予想していなかったらしく驚き、胴にガラス片をモロに受けた。痛みで強烈にその肉が締まり、サキの肉体を締め潰す。
サキは下半身を襲う痛みで頭が真っ白になり、自らの上空に浮かべられたガラス片を一瞬忘れてしまっていた。
ガラス片は、ひときわ大きく尖ったそれは、突然糸が切れたようにふつりと中空から墜ちた。
すべてが一瞬のことだった。
目の前にガラス片がいっぱいに広がって、そして…
そして、何も起こらなかった。
痛みも苦痛もない。
温かい。温かい液体が、びしゃびしゃとサキの頬にかかった。
「あ…」
嗅ぎ慣れた鉄サビの臭いで胃がムッとした。
おそるおそる目を開けた。
サキの目の前を覆っているのは、見慣れた土気色の顔をしたセブルスだった。
「サキ…」
「せ、んせい」
サキが無事なのを見るとセブルスは柔らかな笑みを浮かべ、重力に負けて倒れ込んだ。
自分に墜ちてきたセブルスを見てサキは背筋が凍った。セブルスが仰向けに倒れたサキの上に覆いかぶさり、全ての破片をその背中で受け止めていたのだった。
「あ…あぁ…そんな…」
ナギニはヴォルデモートのもとへ戻り、ガラスの刺さった胴をかばうようにしながらサキへ威嚇した。
ヴォルデモートは地面に伏したセブルスと絶句したサキを見て満足げに微笑んだ。
「セブルスの死に免じてお前を赦そう、サキ。感謝するのだな。その呆れるほどに忠実な男に…」
そしてヴォルデモートはナギニを労しげに撫でると残酷な笑みを浮かべて姿くらましした。
サキは上体を起こしてセブルスの傷を震える手で確認した。
ガラスが、無数の大きなガラス片が彼の身体を貫いている。一際大きな破片は的確に背後から彼の首を裂いていた。他の破片も、まるで一つ一つが悪意に満ちているかのように骨の隙間を縫って内臓に突き刺さっている。
ガラス片を押しのけて吹き出す血飛沫をサキは手で押さえる。それが意味があるのかわからないくらいに、血が流れ出している。
嘘だ
サキは自分が発声しているのかなんだかわからないままうわ言のように頭の中でそれを繰り返した。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…
先生の真っ赤に染まる頸に必死に私の手を重ねた。でも血は全然おさまらないで指の隙間からどくどくと流れ出していく。温かい。そしてだんだん冷たくなっていく。
先生が口を開けて何かを言おうとしていた。でも声は出ないで喉の傷からひゅうと掠れた音を出すだけだ。
サキは多分何かを言った。自分ではわからない。
ただ頭の中に自分を罵倒する言葉が満ちていき、身体が押しつぶされそうなくらいの絶望がふくらんだ。
先生の目から涙が一筋流れ落ちた。
先生はそれを指差し、とれと言った。
サキは言われるがままに自分の血をしまっていた瓶を開けて採集する。
セブルスはそれを見て安心したように微笑み、サキを見つめた。
よかった。
と、言われた気がした。
サキは喪われていく瞳の煌きを呆然と見送ることしかできなかった。
気づけば一人ぼっちで座り尽くしていた。
粉々のガラスが血溜まりに浮いて宝石細工みたいに錆色を彩っている。
私がー私のせい?
いや、もとよりあの人は先生を殺すつもりだった。
もっとうまいやり方があった。
絶対的に強いあの人に対して何ができた?
先生の血が乾いてきて気持ち悪い。
ガラスなんかを使った私のせい?
ナギニをすぐに殺しておけば…
気持ち悪くなんかない。
私が出ていかなければ…
出ていかなくても、殺されていた。
私が盾になれば。
先生は盾になる私を庇う。
ナギニに気を取られなければ。
取られたところで変わらない?
小屋に行かせなければ。
今後の任務のことを考えればそれは不可能だ
私が彼を止めれば
騎士団に捕まえてもらえばよかった
校長室に閉じ込めておけば
ハリーたちより先に分霊箱を私が探し出せば?
ニワトコの杖なんか先回りして壊しておけば…
ダンブルドアを私が殺していれば…
私が、私が…私がもっと賢ければ…強ければなにか変わった?
「先生…」
先生はもう、息をしていなかった。
サキはしばらくそこから動けなかった。
爆風で波立つ水面がボートにあたりちゃぽりとマヌケな音をだす。水面に反射した色とりどりの呪文の閃光が動かないセブルスと座り尽くすサキを照らした。
セブルスの血の池の中で、サキは涙を流しながら感覚のない左手を思いっきり地面に叩きつけた。
痛くない。痛くない。痛いのは、心だ。
絶叫。
頭の中に浮かんでくるいろんな出来事を塗りつぶすように叫んだ。
声が枯れ、頭が空っぽになってからサキは血の気の失せたセブルスの頬を撫ぜた。こんなに顔を近くで見たのは初めてかもしれない。真っ白な肌は明らかに栄養失調だし、髪の毛も相変わらずべとべと。もう、二度と動かない。
その死に顔は安らかにも見えるけど、多分そうであってほしいという願いがサキにそうみせている。
サキはそのままずっと座り尽くしていた。そしてヴォルデモートの最終勧告がきてから暫くしてようやく立ち上がった。
地面に打ち付けた拳はセブルスの血と自分の剥がれた皮膚でボロボロだ。それでも痛くはなかった。その手で小屋の隅に飛んでいった杖を拾った。
「…約束…」
セブルスが出来なかった最後の任務を遂行しなければならない。
サキはハリー・ポッターに死にに行けと、伝えなければいけなかった。
……
セブルス。あなたは不死鳥の騎士団に入って諜報任務中に死ぬ。
騎士団に入ろうとするあなたを止められても、やがて死喰い人が私を求めてやってくる。
死喰い人の仲間になればハリー・ポッターをめぐる争いに巻き込まれて死ぬ。
ハリー・ポッターを殺してもトムはダンブルドアにあなたを殺させる。
どこへ逃げてもあなたは死ぬ。
運命は、あなたの死へ収束していく。
トムを殺すために分霊箱を壊そうとしても、ダンブルドアが生き残れば結局同じ。貴方は彼の手駒になって死ぬか、トムの逆鱗に触れて殺される。
どんな運命を選んでも、あなたは私をおいて死んでしまう。
あなたの死を見るたびに私は繰り返す。
何年も何度でも遡ってやり直す。
パターンを調べ、分岐するであろう時間へ跳ぶ。失敗を記録し変化した過去を分析し、そうしていくうちに背後に潜む病が首を擡げる。
プリオンの異常は過去の改ざんにより記憶領域に負荷がかかることで加速する。因果関係についてはまだわからない。私達の魔法はおそらく近い未来マグルの医療で解明するだろう。魔法界の医学は対処療法的で発展性にかけている。
けれども私はこんな呪いを繋ぐ気はない。何もかもが虚しい。繰り返される歴史が、時間が教えてくれるのは、何もかもがただ無意味だということだけ。
過去へ行く。目が醒める。あなたが死ぬ。
それを繰り返してくうちに私自身の思い出はテロメアのように失われていく。
指先が言うことを効かなくなってきた頃、あなたがまたダンブルドアに頸動脈を切り裂かれ、物言わぬ躯になり禁じられた森へ打ち捨てられたと聞いたとき、私はようやくわかった。
彼は私といる限り必ず無残に殺される運命なのだ。と。
だから私はあの雪の降る中庭まで戻った。
私があなたにハンカチを渡さない未来、あなたと打ち解けない未来を選んだ。
私と共に過ごす未来が消えてもいい。私はただ、あなたに生きていてほしかった。
それだけだった。
でもあなたは死ぬ。
リリー・ポッターのために何度も死ぬ。
彼女をかばって死ななくても、どうでもいい生き残った男の子を守って死ぬ。
私はトムに捕まって、二度と屋敷から出られない。
ダンブルドアの手を借りようとしても、彼はあなたを利用して使い捨てる。リリーを忘れられないあなたは、彼に危険な任務を割り当てられ、トムに殺される。あるいはベラトリックス・レストレンジに。またある時はシリウス・ブラックに。またはアラスター・ムーディ。またある時は、バーティ・クラウチJrに。
何通りも試した。トムも殺して、ダンブルドアも殺して、ベラもアラスターもJrもシリウスもハリー・ポッターさえも殺した。けれどもなにをしても、あなたは死んだ。
トムに捕まった私は、それを屋敷の部屋で知る。
あなたは結局、私の手の及ばないところで死ぬ。
私はあなたを救えなかった。
全てにおいて失敗した。
あなたを救うと決めた、1998年12月22日に戻れなくなってようやくわかった。
私は運命から逃れられないのだ、と。
そう悟った瞬間、私の中で何かの糸が切れた。
そして私は紡ぐまいと決めた呪いの糸を繋ぐことを決意した。