バレンシア領を占領した帝国軍の数は凡そ五千人程度であった。帝国兵は戦闘時のアンデットのような様子のままではあったが、バレンシア領に獣国ヨルムンガンドの首都ミッドガルドへと侵攻を進めるための拠点を築いていた。
「まさか、 こうも簡単に獣人共を駆逐できるとはな。---狂人薬。帝王から授かったときには怪しんだものだがなかなかどうして」
ひと足早く作らせた司令室の机の上に行儀悪く足を載せ、背もたれに身体を預けている人物---今回の遠征軍のトップである将軍は、右手に持つ紫色の怪しげに輝く薬の入った小瓶を見詰めながら至極愉快な気分でそう言った。
「しかし、この薬は余りにもリスクが高すぎます、閣下。何人かは元に戻ることができていますが、ほぼ全ての人間が正気を失ったまま。辛うじて命令を理解するだけの理性は残っているようですが……やはり、あのような怪しげな錬金術師が作った薬など使用するべきではなかったのです」
将軍の右腕である補佐官は最近、帝国にやって来た旅の錬金術師を名乗る男を酷く怪しい人物だと思っていた。確信はない。だが、この男はいつか絶対に帝国に災厄をもたらすと考えていた。
「ふん、確かに奴が信じがたい存在だということは認める。だがな、結果は結果だ。大した苦労もせずにバレンシア領を落とせた。この薬が無ければこうも簡単にはいかなかっただろう。……それに、この薬を使用させても問題のない人間などいくらでもいるのだ。貴様が気にすることではない」
狂人薬を使用している人間の多くが非正規兵である帝国の貧民街に住んでいた住民や重罪人であった。帝国は食料や釈放を餌に此度の戦争に参加させたのだ。軍歴の長い補佐官は私情は捨て去るべきだと理解していたが帝国のこのような所業は余りにも人道に反することではないか、と帝国の現状を憂いていた。そんな時だった。ドタドタ荒っぽい足音が廊下から聞こえだんだん大きくなってくる。そして、バタンと激しい音を立てて司令室の扉が開き一人の兵士が中へと入って来た。
「何事だ、騒々しい!」
「報告します!バレンシア領、南方にて敵襲!敵は既に攻撃を始め被害は甚大です!」
「なんだと!?敵の数は!?」
「それが……」
「なんだ、はっきりしろ!」
「は、はい! 敵は一人。恐らくはバレンシア領の領主であったマルグレットの娘であると思われます!」
「なにぃ、あの餓鬼一人だと?奴はそこまで強くなかっただろうが。それがどうして被害が出るようなことになる!」
「そ、それが……前回見た時の強さとは比べ物にならないほどの強さとなっていて。それから、私の見間違いと信じたいのですが、奴の尻尾の本数が九本に見えました」
「---馬鹿な。九尾……だと?」
---九尾。それは狐族のはるか祖先に存在していたと言われていて、神祖の吸血鬼、勇者に並ぶ強さを持つと現代に語り継がれる伝説の存在だった。
◆
時は少し遡る。バレンシア領南方にて、小隊長の帝国兵は、狂人薬を飲み、意識が虚になっている帝国兵たちが拠点の設営を行なっているのを眺めつつ、酒を飲んでいた。
「けっ、不気味な奴らだぜ……」
今回の遠征の編成は狂人薬を飲まず正気を保った小隊長が一人に、狂人薬を飲んだ兵士が約五十人の小隊を主に組まれていた。命令は聞くし、戦闘では役に立つが常時ではただただ気味の悪い存在にしか思えなかった。そんな風に気味の悪さをアルコールで誤魔化していると、街道から一人の少女がこちらに向かって来ているのが見えた。
「あ? あの餓鬼……くく、なんだぁ?敵討ちにでも来たかお嬢ちゃん」
近づいて来たのが領主の娘だと気づくと一人でのこのことやって来るとは馬鹿な奴だなと、ニタニタと笑いながら念のため兵士を三人ほど連れ少女へと近づく。
「……そうじゃ。貴様達には母を奪ったことを死をもって償ってもらう」
「はっ。たった一人で俺たちに楯突く気か?馬鹿なお嬢ちゃんだ。……だが、よくよく見れば獣人の癖になかなか顔立ちがいいな。くく、決めた。お前を殺しはしない。俺がたっぷりと可愛がってやるよ」
「下衆が」
舐めるような視線で全身を見て来る小隊長を心底軽蔑しきった視線で刺しつらぬくと、これ以上こいつの顔は見たくないと思い、怒りを魔力へと変え隠していた力を解放させる。
少女の怒りが噴火した火山ような勢いで魔力を噴きださせる。そうして金色の魔力光が晴れると、そこに帝国兵から背を向け逃げ出した弱々しい少女の姿はない。一四〇セメルほどだった背は一七〇セメルまで伸び平らだった胸板は膨れ上がり着物からは大きな谷間が覗く。顔つきも子供染みたものから美しいという言葉がこれほど似合う女はそういないと言わしめる美女へと変化した。妖艶な目が小隊長の心をトロリとさせるほど狂おしく突き刺さったが、それよりも信じられないものが目に映り正気を保つことになった。
「九尾だと?俺は夢でも見てんのか?」
先ほどまで酒を飲んでいたこともあり本気でそう思ったが、全身に突き刺さるような殺気と覇気がこれは現実だと無理矢理理解させられる。
「---っ!?狂化兵、こいつを始末しろ!」
もう少女をどうこうする気は失せていた。生存本能の全てが一刻も早くこいつを殺さなければ死ぬのは自分だと叫んでいる。しかし、小隊長は気づくべきであった。立ち向かった時点で死の運命から逃れることは出来なくなる。たとえ、どんなに可能性が薄くとも目の前の存在から一目散に逃げることこそが唯一の生き残ることができたのだと。
「遅いのじゃ」
狂化兵が常人からしたら凄まじい速度で迫るが、少女の速さはその上をいく。少女の臀部から伸びる九つの尻尾を扇状に広げ先を前へと向ける。そして一本一本の先端に魔力を収束させ炎へと変換させ、炎球と化したそれを敵へと放った。それは狂化兵にぶつかると爆散し五十人全員が怨嗟の声すら上げずにこの世から蒸発することとなった。
「……馬鹿な。馬鹿な馬鹿な馬鹿な!どうして貴様がこんな強さを持っている!?あの時はなんの力もないただの餓鬼だったじゃねえか!」
「……ふん。貴様如きに話すことなどないのじゃ」
情けなく腰を抜かしながら喚く小隊長を擦れ違いざまに、永遠に目覚めることのない眠りへと誘った少女はバレンシア領の中心へと歩みを進めた。
狂化兵を赤子の手をひねるほどの容易さで仕留める程の強さを得た理由は当然、フランの種族である吸血鬼の技能の一つ、眷属化が理由だ。フランの力が欲しいか、という問いに対して他人の力で強くなり復讐を果たすのはどうなのだろうかと悩んだが、このままバレンシア領に向かい志半ばに死んだとしてもそれはただの自己満足でしかないと思い、フランの眷属になることを決意した。眷属化の儀式は特に複雑なものは無かった。洞窟の床に光り輝く魔法陣が刻まれ、その中でフランと口づけを交わせばそれで終了だった。まあ、少女がファーストキスをフランと交わしたことで顔を真っ赤に染めて照れていたりとか、フラン第一主義のミコトが嫉妬に駆られ恐ろしい形相でナイフを取り出したりとかゴタゴタはあったのだが、その辺りは割愛する。
何はともあれ少女はフランの眷属となった。眷属化により得たものは大きくわけて二つある。まず一つが身体能力や魔力の底上げだ。そして、もう一つが種族特性の
「くそったれ!なんだこの化物は!?」
少女の侵攻を必死に止めようと続々と帝国兵が集まってくるが強大な魔力を持って薙ぎ払われ歩みを止めることは叶わなかった。だが、倒しても次から次へとやって来る帝国兵を前にこれでは埒があかないと思い上空へと跳躍し、魔力を用い空中に足場を創り立つ。帝国兵を見下ろした少女は未だかつて無いほどの膨大な魔力を練り上げていく。
「くっ……これ以上は流石に制御が難しいのじゃ」
魔力の絶対量は増えてもそれを全て操るほどの技量はフランにはあっても少女にはない。故に全力には程遠い量の魔力で暴発ギリギリまで練り上げていく。幸いにも視界に映る帝国兵を葬ることが出来る規模の魔術を構築することは出来た。少女は母の仇である帝国兵共を憎しみの篭った視線で見下ろし、そして解き放つ。
「---
魔術が発動すると同時に狂化兵を含む帝国兵たちは意識が幻に囚われる。そして各々が自身が炎に焼き尽くされ、氷漬けになったり、数多の槍に刺し貫かれるなど、堪え難い苦しみ味わった。だが、それは所詮幻であり現実の身体には何も起きないはずだ。しかし、より高度な幻惑魔法は現実との区別がつきにくく、脳を錯覚させ実際に死に至らせる程のものであった。
「母よ、仇は、討った、ぞ……」
確かな手ごたえを感じた少女は、初めて行使した大規模魔術による疲労や復讐を果たした達成感もあり意識が朦朧となり、魔力で創った足場が消失し身体を宙へと投げ出した。やがて少女の身体が地面へと向かい衝撃に襲われるその瞬間、一瞬前には気配すらなかった存在が元の十二歳くらいの姿に戻った少女を抱きとめる。
「…………フラン、か?」
「ん。……お疲れ、---ソフィア」
よく頑張ったね、と頭を撫でるフランに、少女---ソフィアは今、自分がいるのは世界で一番安心できる場所だと確信し、意識を闇の中へと放つ。フランの腕の中で眠るソフィアの表情は嵐の後の空のような朗らかな顔をしていた。