まだ序盤の穏やかな感じが抜けきっていない様子を描きたかったのですが……かなり難航してしまいました。
ともあれ、少し間のあいてしまった第4話、始めたいと思います。
忘れてきた過去がある。
置いてきた過去がある。
そんな取り戻したくもない思い出が、時折ふと、蘇る。
現実ではないおぼろげな景色。夢の中だからこそ許される幻。
いつか消え行く記憶の欠片が、唐突に湧き上がった。
土袋を蹴りつけるような音が響き渡る。
「ぐ……っ!」
夢の中を泳いでいた意識が完全に覚醒する。汚い地面に横たわっていた自分の五体が強かに蹴りつけられた音だと知る前に、口から洩れた唾液が顔を穢した。不快に思うより、腹の底から湧き上がる鈍痛が表情を歪める。それでも痛む腹部を決して意識せぬよう努め、平常を装いつつ立ち上がることを優先したのは、針で刺すような視線を頭上からまだ感じたからだ。
「雨で感覚が鈍ったか」
聞き取れる声は、女性のもの。否、それはまだ年端もいかぬうら若き少女のものだった。
いつの間にか、目の前に少女が一人、立っている。近づき気配も感じなければ、今そこに佇む人間一つの存在感も捉えられない。細身でしなやかな体躯は小柄で、しかし、放つ威圧感は男性のものより遥かに膨大。
身をすぐさま起こす。眼は女性から決して背けず、耳を外へ傾ける。突然の出来事も大きく関与しているだろうが、湿気で手のひらが汗ばんでいた。確かに大地をしとどに濡らすざぁざぁという音が、雨の訪れを教えた。これだけの音量ならば眼が覚めてもおかしくないというのに。
「どこを見ている」
「ぅぎ……っ!」
堅い物体が頬を打ち付ける。それがブーツの爪先と分かる暇も無かった。頬骨が砕けんばかりの衝撃に耐えかね、身体が横へ吹き飛ぶ。転々と冷たい床を転がり、やがて壁に背中からぶつかる。強かに背面を打ち付けた痛みに顔が歪み、しまった、と後悔するも、直後に無防備になった腹へ鋭い蹴りが再び放たれた。
ご、と息を吐く情けない声が漏れ、酸味のある液体が喉までせり上がる。止めようがなかった。苦味が口腔に広がるのを堪え切れず、たまらず吐き出した。
「何故苦しいか分かるか」
唐突な問い。
すぐに答えなければ、痛覚と吐血が待っている。なら分からずとも思いついた考えをすぐさま口にせねばならない。
「それは、人間だから……」
無言で腹を蹴り上げられる。執拗に同じ個所を狙うのは、相手の心を痛めつけるには効果が覿面だった。
「そんな哲学な問答をしたわけではない」
どこか呆れたように息をつく。
「お前が生きているからだ」
確信めいた自身の窺える断言だった。
「生きていれば次があるなどと甘言で己を誤魔化す者もいる。だが、相手が貴様の命を欲する者ならどうだ? お前が見過ごした過小な存在がいずれ貴様を脅かすと考えないのか?」
地べたを這う少年は答えられず、無言で睨み返す。少女の反感を買いそうな態度ではあるが、気に留めた様子は無い。むしろ少女は気弱な気配が臭いでもしたら即座に蹴りを放つだろう。気丈に振舞わねばどうなるかは、先程のやり取りで十分身体が理解していた。
「命など軽い」
蹴られる。
「言葉など必要無い」
蹴られる。
「感情を強くコントロールしろ。でなければ大事なモノなど何一つ守れないし―――」
人も殺せない。
少女はそう言い、ほんの僅かに、口の端を釣り上げる。
大事なモノ――人それぞれだが、結局は答えは一つだけ。
自分の命。
それを守れるようになれと、少女は言っている。
何故なら、それさえあれば、人は何だってできるのだから。
そう、何だって。
あれから2年。
もう、最後に笑ったのがいつのことかさえ、思い出せない。
雨が降り続いている。
止まることなき、雨が。
第4話 忘れられた思い出
寝汗がひどい。
直前まで悪夢に近い光景を直視し続けていたダイスケは、意識の覚醒と同時に布団を跳ね除け半身を起き上がらせる。
外から明かりが差しこんでいる。眩しい、と余計感じるのは、頭上で煌々と照らす人工のライトによる照明が原因だった。部屋に居る時はほぼつけっ放しの明かりを消し、カーテンを開いて窓を開ければ、朝方特有の程良く冷えた新鮮な空気が肺を満たし、遠くから聞こえる潮の音と香りが新鮮味を加速させる。
うん、と背伸びをすれば、最悪だった寝起き直後の機嫌も直る。
数分前までの悪夢も、もう思い出せない。昔の記憶なのだろうか、と近頃心当たりのない出来事や光景を思い出すことに疑問に思うが、どうせそれも時間が全て押し流してしまうはずだ。
男の一人部屋は大概整理が行われていないだとか不潔だとか言われるが、それは人の性格に依存するだろう。基本的に私物を多く持たず几帳面な気質のダイスケは、支給された制服は市販の脱臭剤を拭きかけハンガーに吊るし、数少ない必需品のデバイスは枕元の壁に立てかけてある、あまり生活臭が漂わないのは部屋を使い始めて間もないこともそうだが、極端に私物が少ないことも一因だろう。元々満足な生活が送れない環境下で暮していれば自然とそうなりもする。あれも欲しいこれも欲しいという満足感を得るための欲求がないので、室内にはデバイスと衣類の他は、身だしなみを整える道具くらいのものだ。例えテレビやらゲームやらを持ち込んでも遊びに興じる余裕がないという実情もあるが。
身体に目覚めを促すために肩を動かしつつ、バスルームに直行。洗面台の鏡を見る。いつもは長く三つ編みにしている金髪も、就寝の時は解いて後ろに流している。髪が傷むのはまずいと考え、手入れは割りとこまめに行っている。ブラシで整えようとしたところで、まだ午前の訓練まで大分時間があることを思い出す。なら、この不快な汗の残滓を取り除くのも悪くない。
男の湯あみに要する時間は短い。15分ほどで汗を流し終え、念入りな洗髪や身体の手入れは後回しにする。かつては風呂に入る水どころか暖かい湯さえ確保できず、一週間に一度は入れれば良いくらいだった。それを思えば、今の生活のなんと恵まれていることか。かと言って、これだけ整った設備を使わない手はないので、ここ最近は一日に三度の湯あみが密かな楽しみになってきている。娯楽が少ないとはいえ、なんだか考えが女性に近いのは男としてどうだろう、と髪を乾かしながら部屋に戻ると、通信機のランプが明滅していた。メッセージを受信したらしく、立体画面を開くと、一通のメールが届いていた。
『話があるので、後で部隊長オフィスに来て下さい フェイト』
そういえば先日、話があると言っていたな。一体何だろうと思いつつ、ともあれ、あの時の話しぶりからしてそれなりに大事な要件だろう。素早く制服を手に取り、ふと、半分乾きのままで少し濡れ髪をどうするか、迷い、考えた末、止むを得ずそのまま飛び出した。
「……誰?」
部屋へノックし返事を待ってから入室すると、怪訝な声を漏らすはやてと対面した。
急いで来たはいいが、室内にフェイトの姿は見当たらない。まだ8時を過ぎて間もない頃合いだが、はやては既に身嗜みを整えデスク前で書類を眺めていた。やはり重役ともなれば頭脳労働が主となり書類整理も山積みなのだろう。しかし技術発達の目覚ましい昨今、今時アナログ頼りとは。データと違って奪われねば漏洩の危険が少ないのは長所だろうか。
傍らに常に控えているリインフォースⅡやグリフィスの姿もなく、早く来すぎたか、とため息をつき、そのまま踵を返そうかと肩の力を抜いた。
「誰とはとんだ御挨拶ですね、八神総隊長」
「………………え、ちょっと待って。何コレ、ちょっとどういうこと?」
何故か激しく動揺するはやてを完全に無視して、ダイスケは白い目ではやてを見つめている。
「どういうこともこういうことも、つまりそういうことですね」
「その言い草は間違いなくダイスケなんやけど……あらまぁ、髪型がちゃうとこうも雰囲気変わりよるんやなぁ」
ほぅ、と素直に感嘆の息をつくはやて。ジロジロと不躾な目線が送られるが、不快感は無い。単純に珍しいからだろう、どこか眼が生気と興味と好奇心とその他色々で満ちている。さしものダイスケも居心地悪げに目線を逸らす。シャワーで体温が上がった素肌は赤みを帯びていて、本人はそうでなくとも端からすれば照れて赤面しているように見えないことも無い。
やがてはやては何事か思いついたのか、ポン、と手を打った。
「そや。なぁ、ダイスケ。ちょ―――」
「嫌です」
隔壁を降ろすような断言だった。
開きかけた口が停止したはやては、一瞬間をおいてから、慌てて言う。
「や、せめて最後まで話は聞こうや?」
「その悪戯を思いついた子供みたいな笑みがなければ考えます」
「嫌やなぁ。天使みたいな純粋無垢な笑顔やろ?」
「嫌ですね。悪魔みたいな極悪非道な笑顔ですよ」
「ほほう、言うやないか。総隊長相手に朝からトバすその性分、嫌いじゃないで?」
「ええ。僕も気負うことなくお話できる八神隊長の人柄は実に好ましく思ってます」
ははは、と乾いた笑い声が朝のオフィスに木霊する。
直後、ダイスケは脱兎のごとく振り向き走り出す。はやては腕を動かし、机の下で何事か行うと、扉の上からシャッターが降りてきた。どんな構造だ。
更に魔法陣が浮かび上がり、完全に外との行き来がシャットアウトされる。何だこの無駄な高性能。
くっ、と歯噛みすると、肩を軽く叩かれる。見なくても分かる。瞬間移動でもしたのか、かつて無いほど爽やかな笑みを携え、はやては諭すような優しい口調で言った。
「覚悟はええか?」
答えは聞いてなかった。
陽が程良い位置について人々の活気を後押ししている頃、一人の女性が六課を訪れていた。
青い長髪の女性、ギンガ・ナカジマは、妹よりも公的立場に身を置く時間が長かったこともあってか、元の性分も手伝って礼儀作法に厳しく、上下関係には徹底していた。管理局は年功序列ではなく実力主義が伝統だが、もし仮に目上の人間が年下であろうと愚直なまでに忠実な部下に徹することも厭わない。逆に言えば、年上だろうと上司だろうと、間違いと判断すれば慇懃な態度を崩さず進言し、諌めの言葉を口にするだけの意志の強さもあった。良く言えば素直でストレートな人間性を、悪く言えば人の悪しき有り様を断じて許容できない愚直さを持っている。
陸士108部隊から機動六課へ出向する形となったギンガは、途中ですれ違ったフォワードメンバーと軽く挨拶を交わし、総隊長である八神はやての居るオフィスへ向かっていた。
今日からここで世話になるのだ。先輩方への挨拶回りは欠かせない。
異動に関して、特にギンガは異論を唱えなかった。レリック捜査のための、密輸物ルートの調査依頼を受け取ったゲンヤ・ナカジマ三佐が、六課に対し捜査の全面的な協力を受諾し、ギンガの派遣を受理したというのもあるが、知人友人の多い六課への一時的な移転を、ギンガはむしろ心待ちにしていた。あくまでギンガは外来のメンバーであるので、正規のメンバーとは少々扱いが異なるものの、他の組織に比べ仲間内での団結する力に重きを置く六課では些末事だった。
傍らを飛翔するリインフォースⅡの案内に従い、一路はやての元へ足を動かすギンガ。案内をやんわりと断り、真っ直ぐに隊長オフィスへ向かう。
「それじゃあ、施設の案内はしなくて良いのですか?」
「お心遣い痛み入ります。ですがご心配無く。土地勘はある方ですし、六課の職員の人たちは皆、親切な方ばかりですもの。いざとなればどうにでもなります」
「他所よりもどこか和気藹々とした雰囲気がするので、まだできて間もないからというのもあるかもです」
「そうですね。けど、活気に溢れているのは良いことだと思います」
事実、資金や物資、戦力の問題に苛まれる陸上警備隊は、負荷を背負い茨の道を歩み続けた結果、表面上の功績や頂点に立つ人物の英雄度とは裏腹に、内部は生存競争の激しい独自の環境が生まれていた。全ての部署がそうだと決めつけるわけではないが、本局との対立もあって、若干空気が堅く張り詰めている感は否めない。若い者は過剰労働と分不相応な激務という辛苦を味わい、上は数少ない戦力で治安維持を務め、なおかつ本局との摩擦による金銭問題も人員不足も自力で乗り越え、かろうじて形成して来たクラナガンの守護者の地位を保たねばならない。若輩であるギンガも多忙な身ではあるが、何事にも例外はつきものだ。個人的な交友があるはやてとゲンヤの関係を考えれば、答えは自然と導き出されるであろうが。
自分のいた場所は決して悪いところではなかったが、思わず、良い場所だ、とギンガがなんとはなしに思うほどには、機動六課は心安らぐ環境だった。
「何か質問などがあったら、今のうちに答えるですよー」
「質問、ですか……」
考え込む。真っ先に思い浮かぶのは、自分の妹のこと、そして、妹の周囲に関することだ。職務を全うするにあたって必要な知識は事前にあらかた入手済みだ。さしあたっての問題は、スケジュール内容に関してがほとんどで、それははやてとの対談が済んでからでも遅くはない。ならば懸念すべき事柄を今の段階で解消しておきべきではなかろうか。私情が混ざっている? そんなことはない。多分。
迷いは数瞬。ひとまずギンガは直接的な質問は避け、遠まわし気味に問うた。
「近頃、妹の様子はどうですか?」
「妹さんというと、スバル二等陸士のことですか? フォワード陣の中では特に頑張っている様子が窺えますですよー」
そういうことが聞きたいわけではないのだが、特別妹の態度に変化は見られないらしい。
しかし先日の様子が気になる。
直接切りこむか。ギンガは決断を下した。
「そういえば、最後に入った子に関してよく知らないのですけど、どうです?」
「えっと、最後に入ったというと、ダイスケですね?」
「はい。そう窺っておりますが、優秀な魔導師なのですか?」
「うーん、確かに腕は立つですけど……」
言葉を濁すリインの様子に眉を潜めたギンガは、思い切って問いただしてみた。
するとどうだろう、やれリインに反抗的だわ、やれヴィータにタメ口をきいてるだわ、やれはやてと夫婦漫才みたいなことを繰り広げているだわ、少々耳を疑うような話がホイホイ出てくるではないか。
素行不良、という言葉が浮かぶが、それとは少し違う気がする。
ともあれ、問題が目立つ『男』なのは間違いあるまい。
「でも結構面倒見がいいみたいで、エリオ三等陸士やキャロ三等陸士の世話を焼いたり、ティアナ二等陸士と作戦行動のプランを相談したりとか……」
どこか楽しげに語るリインの言葉も届かず、ギンガは腕組みして思案する。六課に入隊できるならば、腕前は確かなことは疑いようもない。けれども、内面の問題は書類では判別できまい。しかし正確に難が見られる男を何故捨て置くのか。疑問はますます深まるばかりである。
やはり、自分の眼で見極めねばならない。
必要ならば、自分の拳をもって。
ギンガが熱血気味な決意を新たにしている頃。
「うはははは! ほ、ほんま似合っとるなぁこらまた予想外けど予想通りやわぁははは!」
「よくもまぁ、こんな服をとっておいたものですね……」
心底呆れた風に大きな溜め息を隠しもせず、ダイスケは自分の姿を再確認する。化粧用に持ち込んだ鏡を見れば、いつもと違う自分が映っている。困惑しているのだろう、はやては心底愉快だと言わんばかりに腹を抱えて笑った。
子供であることを加味しても中性的な顔立ち、力強さは同年代以上だがそれを予想させない細身の身体。姿形を整えれば、西洋人形もかくやという出で立ちの少女が完成するだろう。否、事実はやての前にいるのは一人の可憐な少女だった。普段三つ編みにしている長い金髪は頭の両側頭部で纏められ、黒いリボンを経由して下へ垂れている。衣服も黒いジャケットは剥ぎ取られ、裾にフリルがあしらわれたスカイブルーのポロワンピースを着ている。靴ばかりはいつもと変わりない運動用のスニーカーだが、足元より上の嫌でも人目を惹くに値する格好と容姿の前では些細なことだった。
こうして見ると、どことなくフェイトに似ている気がする。はやては漠然とそう思った。
以前フェイトが着ていた衣装だが、細身の体格ということもあって、ダイスケの身体に見事合致した。素晴らしい逸材だ、将来は期待できそうだ。何にだと言われても答えは知らん。
しかし、違和感が無さ過ぎて逆に面白くない気がするのは何故だろう。ここで羞恥に頬を染めてくれたら更に面白かったのだが、本人はどうでもよさげに突っ立っている。気に入ったのか興味が無いのか。いずれにせよ、何か普段とは違うリアクションを期待していたはやてはがっかりしたように肩を落とした。欲望というか駆られる衝動に素直な少女である。
「しかしええなー、やっぱ素材ええと完成度も高いわぁー。なぁなぁ、なんかフェイトちゃんっぽく言ってみてくれへん?」
「チェケラ」
「そんな台詞間違ごうても言わんわっ!」
しかも無表情に言いおった。
「しかし外見そこまで似とらんのになんでかフェイトちゃん彷彿とさせるなぁ。やっぱ金髪だからか? ほんならちょっと外出歩いて他の職員に聞いてみよか?」
「みよか、じゃないですよ。何考えてるんですか貴女。まさか何も考えてないとか言わないですよね?」
「そんなことあらへんよ。……あ、女装だとバレてゲラ馬鹿にされる姿見たいとか考えておらんよ? おらんからな?」
「そうなった場合……果たして俺の真摯な発言と八神隊長の言い分、どちらが信憑性が高いでしょうかね」
「すいませんやっぱここにいて下さい」
自分でも情けないくらいの低姿勢だった。
「もう満足したでしょう? 着替えてもいいですよね?」
「えー勿体無いなぁ。もうちょっとその格好でいてくれたってええやん。減るもんなんてあらへんやろ」
「俺のSAN値が大いに減りますが……こんな格好を他人に見られたら色々終わりますよ普通」
「けどそこまで嫌そうにしとらんっちゅうことは満更でもないんやろ? どや、せっかくやし、その可愛らしい姿を後世に残すため写真撮影なんぞを」
「申し訳ないですが親友の服を大事に保管しているような変態の要望はNG」
「なんでやぁっ!」
なんでもクソもなかった。
と、扉がノックされる音が室内に響き渡った。続いて、「はやてちゃん、お客様をお連れしたです」と高い声が扉越しに聞こえた。客人の出迎えに出していたリインが戻って来たのだ。恐らくは、はやての予想通りの人物を傍らに連れて。我に返ったはやては肩を大きく振るわせるも、すぐに落ち着きを取り戻す。が、ここで問題が浮上した。目線を動かすと、硬直しているダイスケと視線が合致した。思考はこの時、間違いなく通じあっただろう。
((こいつを犠牲にして時間を稼ぐか……?))
はやてとしては、この少年をそのまま衆人環視に晒して後で笑いの種にするのも大変宜しいと頭のおかしなことを考えていたりするのだが、時と場所がまずかった。ギンガとは知り合い関係ではあるが、なのはやフェイトほど深い交流があるわけでもない。赤の他人以上親友以下といった間柄だ。冗談が通じる相手ではないだろうし、彼女から『八神はやては部下を女装して愉しむ残念な人だ』というレッテルを貼られたら明日からどういう顔をして接すればいいというか死ぬしかない。ダイスケは言うまでもない。初対面の相手に女装癖があると勘違いされたら彼とて人生終了に王手がかかりそうだ。
ならばここはお互い協力し、先程までのお着替えイベントを隠蔽するしかあるまい。
すぐさま扉を塞ぐべくダッシュをかけようとし……ドアノブが傾いたことで中止せざるを得なかった。
タックルをかますわけにもいかない。後に言及された時、なんと言い訳すればいいのだろうか。NFLを目指し特訓をしていましたハハハと言ったらそれこそ変人コースへダイブする羽目になるというかそんなパワー系と思われたくない。
ならば、と踵を返し、はやては散らかった衣服を拾い上げる。狙うは観葉植物の陰だ。拾いながら服を丸めこみ、鉢の裏側に向かって放り投げる。本棚との隙間にすっぽり入り込むのを確認し、ダイスケはと見れば、入口から死角になる位置に身体を丸めて滑り込ませていた。確かに入室者には見えないが、振り返ったら一目瞭然ではなかろうか。
しかし背に腹は代えられまい。既にドアノブは完全に下ろされ、扉は開きかかっている。一瞬で表情を改め、にこやかな笑みを浮かべ、来客の登場を出迎えた。
「はやてちゃん、ギンガさんが来ましたですよー」
「さよか」
「……?」
若干堅いはやての表情に違和感を抱いたのか、ギンガが小首を傾げている。平静を装ったつもりだが、必要以上に堅くなりすぎたか。
全身の力を抜き、意識をギンガたちに向ける。二人を挟んで反対側、壁のすぐ傍で息を潜めるダイスケ。さすがに元犯罪者、気配を殺す技術はなかなかのもので、リインもギンガも斜め後方に居る少年の存在に気づいていない。
「まぁはるばるよく来てくれはったな。ゆっくりしたってなぁ」
人の良さげな笑みを浮かべ、左手をあげる。
それが合図となった。
すぅ、と静かに立ち上がったダイスケは、二人に気づかれぬよう、抜き足差し足で扉へと近づく。見事と言わざるを得ない無音の流動にはやても内心舌を巻く。こんなところで無駄に活用するのはどうかと思うが。
扉までもう少し。ドアの開閉音さえなんとかすればなるだろう。
しかしそう都合良くはいかなかった。
物音はせずとも、空気の流れでも感じ取ったのか、こめかみをピクリと動かしたギンガの表情が強張った。ついでにはやても。
何事、とリインが横を振り向くよりも早く、背後で蠢く気配を敏感に察知したギンガは、前振りもなく攻撃態勢に入った。
「曲者っ!」
古典的な台詞と共に後ろへ跳び、振り向きざまの回し蹴りを放つ。
風を切る音が聞こえ、眼を剥いたダイスケは慌ててバックステップで回避する……が、狭い部屋で、しかも壁の傍とあらば、満足な距離もとれない。回転の勢いを殺さず反転したギンガは構えを取りながら、拳を抜き放とうとしたところで、ようやく止まった。
背中側からでは見えないが、恐る恐る見上げるダイスケの眼には、至近距離で睨むギンガの顔が映っていることだろう。何故こんな行動に出たのか知る由はないが、彼女の琴線を刺激する何かがあったのか。
事態がどう左右するのか、固唾をのんで見守っていると、
「…………か、」
何事か呟いたギンガの声に、はやてとリインは耳を傾ける。
「可愛いーっ!!」
はやては頭をデスクに打ちつけた。
全力で飛びつき抱き上げるギンガ。初対面の人間に突然抱き上げられ混乱するダイスケ。そして「???」と首を傾げまくっているリイン。額を押さえて俯くはやて。
カオスな状況とはまさにこれのことか。
「何この子すっごく可愛いーしかもフェイトさんみたい! はやてさんこんな子いつ誘拐してきたんですか!?」
「誘拐やのうて勧誘やな」
いや、実際ヴィータが引き摺って来たからあってるのかも……などと考え、頬擦りされて辟易としている少年と目線が合致した。あれは誰がどう見ても助けを求めている目だ。事の発端ははやてのせいでもあるし、流石に捨て置くのは可哀そうだ。
「あー」と気まずげな声を出したはやては、「その子が最後の新入り、ダイスケ・ヒズミや」
指摘に、歓喜に満ちていたギンガの身動きが止まる。「男……?」と疑問符を浮かべるギンガに、はやては大きく頷いた。信じられない物を見たかのように驚いた様子のギンガは、腕の中でもがき苦しむ金髪の少女、もとい少年を見る。
「な、なんですか……?」
ともすれば泣きだす寸前のような不安げな表情。人を疑うことを知らない年頃の少年特有の瞳の輝き。乱暴さとは縁遠い細身の肢体。それら全てを考慮したのか、ギンガは一度少年を抱く腕から放す。
ポン、と肩を軽く叩き、ギンガは言った。
「可愛いから許すっ!」
天使を彷彿とさせる極上の笑みに誰もが思った。ああ、この人も変人なんだなぁ、と。
再度抱き締められるダイスケを視界に入れないようにして、はやてはため息をついた。あの二人の間に仲裁するだけの度胸は無いのか、それともそれは自分の仕事でないと判断したのか、リインが虚空を漂いこちらに流れてきた。
「はやてちゃん、一体何をしていたんですか……」
「いやなぁ、これにはマリアナ海溝より深くウチの家系問題並みに込み入った事情があるかもしれない気配が漂わないような気がすると断言できないわけで」
「要するにはやてちゃんが全部悪いんですね」
九年来の相棒はジト目で言いたいことを看破した。この妖精、幼いくせに言いよるわ……と現実逃避の感想を抱いていると、扉が唐突にノックされた。脊髄反射の勢いで居住まいを正したはやては、「はい!」と大きく返事をしてしまったところで、氷結した。いつもの調子で返答してしまったことを悔いるはやてと咎める目つきを向けるリインとは無縁の世界から、扉を開けた人物が顔を覗かせる。
長い金髪が見えた。
あ、面倒な展開の予感。一瞬で今後の事態を予測したはやては、どうにでもなれとばかりに思考を放棄した。
「ごめんなさい! ちょっとエリオたちと話し込んでしまって、て……」
語尾が小さくなっていく。
入室のために扉を開けたまま、足を踏み込んだところで時間が凍結するフェイト。揉みくちゃにされるダイスケとこの上ない喜びを感じていたギンガの身動きが止まる。それを遠巻きに眺めていたはやては、あれ、この状況どう説明すればええんかな、と考えた。
第三者には理解に苦しむ状況だろう。
が、被害者の少年は天からの救いと見紛うのもむべなるかな。六課では比較的常識人に近い存在を発見し、いいところに来てくれた、と一縷の救いを見出したダイスケは、咄嗟に手を伸ばした。
「た、助けて下さいっ」
呆然と佇むフェイトに思わず助けを求める。
しかしそれがいけなかった。
「…………あ、」
声にもならないような呟きが漏れる。俯き加減にフェイトは肩を震わせ、何か嫌な予感を直感で察したらしいダイスケは、新たに背を流れる冷や汗を止める術を持たなかった。
が、はやては違う意味で汗を流していた。今のダイスケの姿は、聞き及ぶ限りのフェイトの姉・アリシアを彷彿とさせる恰好だ。瞳の色も服装も、髪のリボンも何一つ類似点は無いが、今の彼からはどこかはやての親友と似た雰囲気を漂わせている。
フェイトを刺激してしまわないだろうか。下手をすれば、彼女のトラウマを大いに刺激する羽目に―――
「アリシアみたいーっ!!」
はやては椅子から転げ落ちた。
轟、と残像が生じる速度でギンガに肉薄したフェイトは光の速度でダイスケを奪い取って力いっぱい抱擁した。十年で随分とふくよかな体型に育った彼女の豊満な乳房に埋もれるダイスケの頭。年頃の男児ならば赤面して悦ぶところかもしれないが、息苦しげな様子とフェイトの異様なオーラにはやてとリインは少年に揃って合掌する。
というか、私の心配は何だったの? はやてはもう何も言えなかった。
一方、腕の中から大事なものを奪い取られたギンガは黙っちゃおけねぇとばかりに叫んだ。
「ちょっとフェイトさん! その子私が見つけたんですよ盗らないで下さい!」
「何言ってるの! 私が先に目をつけたんだから私のですーっ!」
お互いが腕を掴んで放さない。この状態は耐えかねるのか、ダイスケは苦悶の表情を作る。両側から凄まじい力で引っ張られれば誰も悲鳴を上げたくなる。
このままだと大岡裂きに発展しかねない。
いい加減助けてあげよう。見かねたはやては助け船を出すことにした。
「そういえばフェイトちゃん、何か用事があったんとちゃうか?」
ハッ、と我に返ったフェイトは一瞬で手を放す。突然拮抗していた力がなくなり、ギンガがバランスを崩す。後ろに倒れ込もうとする彼女に引き摺られる形でダイスケは転びかけたが、人外の速度で手を伸ばしたフェイトに回収される。ソニックフォームもお役御免なスピードであった。
「そうだそうだ思い出したんだよダイスケ!」
ガシッ、と力強く肩を掴むフェイト。指が肩に大きくめり込んでいる。万力もかくやという握力であった。蕩けたような先程の彼女の表情とは打って変わって、ずっと真剣なものだったが、
「ウチの子にならない!?」
鼻息荒く言ってのけるフェイトの言動は、どこまでも不審者のそれでしかなかった。
● ● ●
『―――おおまかではありますが、今後の予定をそちらへ転送しました。アインヘルヤルの製造段階も佳境を迎え、準備も整ってきています』
薄暗い部屋に浮かぶ立体映像の中で薄く微笑む女性の顔は、端的に述べるとあまり目立たない風貌だった。艶のあるセミロングのブロンドは陽の光を受けて柔らかな光を放ち、吊り眼の双眸は今は弓を描き、一筋走る薄桃色のルージュは色気よりも健康的な面を強調している。
しかし、一般的な女性よりも醜悪で歪んだ眼光を放つ瞳の奥底には、得体の知れない不気味な感情を他者に与える何かが蠢いており、さながら欲望の二文字を知らぬ奈落の沼を彷彿とさせる。魔貌とはまさにこのことか。
「そうか。ご苦労だったね。引き続き調査を頼むよ、近いうちに何か動きがあるだろうからね」
言葉を受け取ったのは、背の高い男性だった。濃紺の髪を頂く男性の眼は金色。人の感性を直接揺るがす笑みを携え、鷹揚に頷いた。藍色のスーツの上から無地白色の白衣を着込み、左右に展開されたディスプレイに目を通す。公にはされない地上本部の金銭事情、局員の配置、重役の個人情報などが羅列してある。差ほど気に留めた様子も無く情報を提示する女性も大概だが、目にして御苦労の一言で泰然と流す男も落ち着きぶりは同程度だった。
その身は決して鍛え上げたものでもなく、日陰の下で育った華奢とも言える体躯の男は、言い様のない雰囲気を漂わせる。強いて一言で判ずるならば、この男―――ジェイル・スカリエッティほど、『正体不明』の言葉を授かるに相応しい存在はいないだろう。
『六課に関しては前回とほぼ相違ありません。新たな報告に関しても、一週間後に控えた警護任務くらいでしょうか』
「ホテル・アグスタだったかな。あそこはもののついでみたいなものだから、今回は別段重視してないけれども、まぁ折角だ。手が空いている者でどうにかよう」
『以前、新たな実験サンプルを入手したと窺っておりますが、そちらの具合は如何ですか?』
「あれはじゃじゃ馬すぎて手に負えないよ。今もどこかで勝手気ままに遊んでいるだろうさ」
苦笑。まったく困った様子も見えないスカリエッティに、女性も苦笑を返した。
『ともあれ、ドクターもご健勝で何よりです。前回はデータの送信だけでしたので、モニター越しにでもお会いできて幸いです』
「ナンバーズも数が増えたよ。今じゃ君も知らない子達の方が多いかもね」
『そうですか。では直接会える日を首を長くして待っております』
では、と言い残し、通信を終えた。
後に残るのは、空調の効いた閉ざされた空間の中で響き渡る機械の音と、それに呼応する水の音。そして、遠くから近づいてくる、床を打つ硬い音だ。
「ドクター」
闇の中で機を窺っていた長髪の女性が、静かな足取りで歩み寄る。波打つ薄紫の髪、スカリエッティと似た金の輝きを放つ眼を持った女性・ウーノは、息を吐きつつ傍に立った。
「おやウーノ、私の頼んだ案件はもう終わったのかい?」
「さして苦労せずに。……しかし宜しいのですか? このまま捨て置いても」
窺うようにウーノは問うた。不安材料を徹底して排し、全てを完璧に近づける。スカリエッティの理解者であり側近でもあるウーノは、科学者気質ゆえに作戦指揮や情報戦を『多少』苦手とするスカリエッティに代わる同胞たちの司令塔だ。いつ何時でも己の主人を優先する彼女だからこそ、懸念事項に必要以上の心配を抱いていた。不確定な要素は極力手放したいところであるが、スカリエッティの意向に逆らうほど彼女は愚かでは無かった。
ただ進言だけはしておくウーノに、対してスカリエッティはやはりというべきか、差ほど案じた様子もなく、
「いいさ。何事も完璧というのは恐ろしい。幾らか不確定要素があった方が後々修正も容易だ。それに……」
「それに?」とオウム返しするウーノ。
「人生に刺激は必要不可欠だ。予定調和など面白くない……そう思わないか?」
穢れを知らぬ無邪気な子供とも、酸いも甘いも噛み分けた老人ともとれる笑みを浮かべ、スカリエッティは喉を鳴らして笑う。
欲望に忠実。スカリエッティの行動理念は、突きつめればそれに尽きた。何事も己の興味が赴き先にしか向かず、他者が目をくれようと自分が関心を抱かなければ路傍の石に等しい。言ってしまえば興味のベクトルが自分の感情が揺り動く方向しか指し示さず、それ以外は一切無視する。複雑なようでいて、スカリエッティの行動は割と単純だ。
近年彼が数々の作品を完成させ、数多の世界で名を轟かせるのは、それが必要なプロセスだからだ。一見無目的に見えても、彼の行動にはある種一貫性がある。それが管理局に伝わっているか定かではないが、結局、目的がバレていようがいまいが、為すべきことは如何様にしても必ず成し遂げるのが彼の生き様であった。
これまで幾度もウーノにしてみれば不可解な行動をとったスカリエッティは、
「仔細は無いよ。単純に興味があったからさ」
これと言って理由もなく、ただこの一言だけで、全ての言及を流すのだ。事実それ以上の理由は存在しないのだから、彼としてはこう答えるしかないものの、気が向いたからというのと同じレベルの発言に周囲が頭を痛めることは一度や二度の騒ぎではないのは明白だった。
溜息をつかれ、ウーノはその話題を一度置いておくことに。
「あと、これは別件ですが、例の子が……」
「うん? プレジェクトFの残滓かい?」
「いえ、そちらではなく」
「ああ。確か六課に新しい子が入ったとかなんとか」
まったく興味を抱かなかった風に言う。記憶の奥底から引き摺りだした情報を頭に思い描きつつ、再度映し出された少年の姿に目を向ける。が、すぐに他へと関心を抱き、目は図屋グラフの描かれた他のウインドウに移ってしまう。
ウーノも、少し前までは目を引く要素も無い有象無象の一つを判断していた。確かに、デバイス強奪事件の張本人である確率は大いに高く、戦闘能力もなかなか侮れない。が、それだけだ。六課には他に直視せねばならない存在が多数おり、Sランクを超える隊長やベルカの騎士である副隊長の存在が大きい。今更B程度の低ランク魔導師もどきが入ったところでどうだと言うのか。
しかし、その辺りの事情も、ほんの五分前までのことだった。
「ええ。しかし一つ、気になることが……」
スカリエッティの反応を見てから、ウーノは気になった点を口にする。すると今まで視線だけしか向けていなかったスカリエッティは、初めて興味を持ったのか、身体ごとディスプレイに向き直ると、表面に触れ、何事かを調べ始める。「ドクター?」と問うても、反応が無い。熱中すると周囲が見えなくなる。主たる男の数少ない欠点だった。
ややあって、唐突に指の動きが止まる。
「確かに……ウーノの言う通りのようだね」
「さしたる問題と言うわけでもありませんが、如何なさいますか」
問われ、ふむ、と頷きを返す。
「別段、どうもしないよ。ただ、もし機会があれば……」
彼と話してみたいね。
獰猛な爬虫類のような笑みを浮かべ、さも愉快気な笑い声を響かせる。
とりあえず逃げてきた。
六課を飛び出してから延々と走ること十数分。ここまで追って来るまい、とようやく息をつき、額の汗をぬぐった。追いかけようとする瞬間の二人の表情を思い出し、身震いしつつ四方を確認。気配を感じず、足の動くペースを落とす。
逃亡に使用した方法は簡単で、フェイトとギンガが口論している隙に、腕の関節を外してフェイトの拘束から逃れると、窓へ向かって一気に直進。体勢を整えつつ関節を戻し、窓を蹴破って脱出した。当然約二名ほど追尾に身を乗り出すどころかセットアップを図る人物がいたが、すかさずはやてが待ったをかけて説教を未だに続けているのはダイスケには知りようの無い話であった。半ば徒労になりつつも、ようやく足が自然とスピードを落とせるくらいに心の余裕が舞い戻って来たのであった。
久方ぶりに恐怖を味わった。最早覚えていないが、今朝方見た夢よりも遥かに恐ろしかった気がする。
「大体、『ウチの子にならない!?』ってなんだよ……」
しかも嫌に目が輝いていた。いや、あれはただの脳の病気かもしれないが、もしかして先日話があると言っていたことがそれなのか。もし万が一、自分の与り知らぬところで話が完結していたらと思うと違う意味で背筋が粟立つ。明日からフェイトを母とでも呼べばいいというのか。もしそれを強いられた場合は迷うことなく廃棄都市へユーターンしているかもしれない、と割と真剣に考え始め、ふと自分がどこを歩いているか、ようやく認識した。
広い公園だった。銀色のコンクリートジャングルが広域にわたって展開されるクラナガンでは数少ない、緑生い茂る自然公園だった。草木の香りが漂い、まだ肌を温める日差しが心地良い今の時期ならば、整えられた芝生の上は最上の敷布団にもなろう。平日昼間ということで、人数は少ないが、皆無ということもなく、午後のひと時を満喫する子連れの母親の姿が散見され、見回りと思しき局員の姿も遠くに窺えた。
ミッドは近年、大規模な犯罪が激減した影響もあって、治安も大分安定してきている。なんだかんだで管理局の影響力は多大であり、人々の安心と笑顔を維持している地上本部の力は偉大である。さんざん自分らを脅かしてきた管理局の『陸』は、一応味方となれば幾分心強く感じる。それが錯覚と思いつつも、こうして敵に怯えず昼間から大手を広げて街中を闊歩できるのは、やはり素晴らしいことなのだなと再認識する。
どこもかしこも家族連ればかり。もう少し静かに座れる場所はないものかと探して歩くと、空いているベンチがあった。ただし、隅の方に青年が一人、腰かけている。見覚えのある制服は、陸上本部所属を指すものだ。一瞬警戒心を露わにするも、よく考えれば今は怯える必要のない立場であるので、身構えることはない。しかしこんな時間から一体何をしているのだろうか。見回り途中とは見えないが……。
他に場所はない。仕方なく、そこへ座ることにした。
「隣、よろしいですか?」
顔を上げた青年は、まだ入って間もないのか、制服からは糊の効いた真新しい布地が見え、少し服に着られている感が漂う。驚くその表情も若々しい。新人、という言葉が浮かび、自分のような子供が同じ管理局員だと思わないだろうな、と苦笑する。
声の主が年端もいかない子供と分かり、青年は「あ、ああ……」と慌てて返答する。僅かに距離をとって腰かけ、気分転換に話しかけてみた。
「陸上警備隊の人、ですよね?」
「ああ、そうだが……」
分かるのかい? と言いたげな目線に、小さく首肯する。管理局は、他の次元世界で言うところの警察機構や行政機関そのものだ。法を敷く存在は子供の中でも常識に等しい。疑った様子もなく、青年は、そうか、と納得の息を吐いた。
「この辺じゃ、あまり見かけない顔だな。家族とお出かけかい?」
何気ない問い。ダイスケは少し迷ってから、素直に「ええ。観光、みたいなものです」と答える。驚いたように目を丸くし、青年は心持ち頬を緩めた。
「熱心なお嬢さんだ。こんなところ、別に見るものなんてないだろうにな」
「いえ。次元世界は多く広いのですから、見るだけでも十分新鮮です」
「へぇ、わざわざ遠くから来たのかい」
鳥たちのさえずる声に背を向け、青年は感嘆の息を吐く。疲労の色濃い青年の容貌は、どこか達観しているように見えた。まだ立ち上がらない様子を見て、時間はあるみたいだと踏んだダイスケは、もう少し、話してみることにした。
「ずっと、この街に住んでいるのですか?」
「ああ。生まれも育ちもこのクラナガンさ。親父もお袋も、その先祖も、ずっとこのミッドチルダで生きて死んだ。誰ひとり戦死なんてせず、天寿を全うして布団の上で安らかだった。管理局に所属してると、戦で命を落とす魔道師なんてそれなりにいるが……」
言ってから、子供に聞かすような話ではないと思い至った青年は、悪い、と謝罪する。首を振って否定したダイスケは、先を促すように頷いた。
「ここも随分変わったよ。昔は過労死寸前まで働かされて、安い給料でこき使われて、犯罪者が暴れていると高くない魔道師ランクの奴まで駆り出されて、結局若い奴は辞めていく。レジアス中将が上に就いてからは随分楽になったとは聞いていたが、親父から暗黒期を聞かされ続けた俺みたいな若造は、昔に比べたら、なんて思っていても、結局辛い職場で毎日訓練して、深夜まで働いて朝早くから働くの繰り返し。もっと才能があれば、なんて無いモノ強請りをするほど子供じゃないが、」
遠く、公園の外に並び立つ高層ビルの壁面、そこに取り付けられた大型モニターに視線を向ける。茶髪の女性と、金髪の女性。どこかで見た顔がインタビューを受けている。まるでアイドルのような扱いに、青年は見惚れるような眼でもなく、ただ羨望の視線を向けた。
「空を飛べる力があれば、なんて思う時もある。そりゃ、あの人たちだって苦労続きの毎日なのは俺でも分かる。けど、地べたに這いつくばって毎日走り続けて、それでも称賛の一つさえ得られないような人生ってのは、なかなか身に堪えるよ」
「レジアス中将は、それをご存知なのでは?」
「分かってても変えようのないものってのは、世の中には幾らでもある。現にホラ、近頃有名な違法住人とかだってそうだ。彼らもきっと、好きであんな生活を強いられてるわけじゃないのに、人からは好かれず、汚いモノを見る目を向けられてる。そういった人の意識は、簡単に変えられないだろ」
意志は正しくとも、それはマクロの中のミクロ。遥か以前に敷かれたレールから大きく外れることはできない。「……なんだか、難しい話ですね」と呟く声に、苦笑が答えた。「頭の良い子だな」と青年は言い、大きく頷く。
「まぁ、仕方ないさ。そいつにはそいつの生き方がある、ってことだ。人間、どんなに頑張っても無理なことなんざ腐るほどあるんだ、いちいち嘆いていたら何も始まらないって。ま、正義の味方なんて性に合わないことしてるけど、お嬢さんみたいな子を守るのが使命なんだって思えば、ちっとはやる気も出てくるってもんだ」
だから応援よろしくな、と片目を閉じてウインクする。ベンチに背を預け気だるげに話す様は、子供目にも正義の使者然としているかどうかいまいち納得し難い姿ではあるが、傍目にも慣れていない仕草に苦笑が誘われた。
「正義、か……」
なんと小綺麗で気高い言葉で、しかしなんと安っぽく聞こえる言葉か。
絵本の中の正義の使者ならば、人と人とを区別することもせず、人が安心して眠る毎日を約束し、笑顔を決して絶やさぬ街を築き上げだろう。それが理想と判じ、現実を直視せざるを得なくなったのは、結局誰もが先へ進む歩みを止めてしまったからだろう。
人々が手にして当たり前の生活を守る存在が、守られるべき人をおざなりにし、助ける人を区別する。かつて子供が憧れた正義の味方とやらは、どうやら絵に描いたお題目程度の存在らしい。理想の中で威風堂々肩で風を切る守護者の姿は、現実では大いに劣化を遂げた姿と似ても似つかない。人の命は平等と謳いながら、結局人の下に人を置く管理局の矛盾。現実はこうも歪んでいる。それがまかり通ってはいけないと、誰もが分かっているはずなのに。
見て見ぬふりをする大人と、それを見て成長する子供。延々と繰り返され、腐敗が世界の果てまで蔓延する。誰もが手にするべき幸せを踏みにじる存在を看過できない。そう思ったからこそ、少年は一人戦い続けた。犯罪者の烙印を押されても、のさばる悪を見逃せず、踏み潰される花のような小さき命一つさえ守りたいと願ったから。
何が間違いなのだろう。
何が正しいのだろう。
「けど」ぽつりと呟く。「今まであった辛い歴史や不動とされたレールを乗り越えて、今の管理局の姿があるんです。きっと、ちょっと前までには考えられなかった形が、後の未来には待ってるかもしれませんよ? 二つの力が、いずれ一つになって、新しいシステムが生まれて。やがて一つの可能性を示す……そういう夢のある話を考えるのも、素敵でしょう?」
生きてさえいれば、可能性は無限にある。そこから何を選んで、何を感じていくか。それが人生の醍醐味というやつだろう。後々後悔する羽目になるかもしれない。けれど、人は正しい選択をしたと真に思えるのは、振り返ってみた時に、間違いなんかじゃなかったと心の底から喜びの念を抱き締めた瞬間だけだろう。
生きている。
それだけで、十分だろう。
死ねば全て終わってしまう。
だから、今は、頑張って生きてみたらいいと思う。
全ての人が変われるかは分からないけれど、希望を持って生きられるなら、或いは……。
では、と短く礼をして、その場を後にする。青年がどんな顔をしているか少し気になったが、振り向くことはせず、一直線に出口へ向かう。
夢、なんて言葉が自分の口から出るとは。
現実ばかり見据えているくせに、たまに口を開けば理想な話。
結局、自分が一番、何も分かってないのかもしれない。皮肉げに笑い、やがて沈む陽の明かりを眩しげに見つめ、小さな手を握り締めた。
余談だが、服をはやての部屋に置いてきてしまったので、止むを得ず真正面の玄関から堂々帰還したダイスケの姿に誰もが驚愕したのは、言うまでも無い話である。
なんだか微妙な出来になってしまいました。
戦闘が入らないと延々と変な語りばっかになってしまう気がします。
恐らく後日修正するかと思いますので、ご了承ください。
さて、次からようやく話が変わり始めます。