提督(笑)、頑張ります。 外伝   作:ピロシキィ

36 / 45
応援ssということで、
後藤陸将さんから寄稿して頂いたものの第二弾です。

ありがとうございます。


History was changed at the moment 《承》

「ゲストのご紹介です。作家の司波次郎さんでいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「司波さんは、昨年映画化されて大ヒットを記録した『水平線のダイヤ』をはじめ、太平洋戦争を題材とした様々な作品を執筆されていらっしゃいますけれども、まず伺いたいのが、長野壱業という男は、まさに時代を先取りした男だったと言えるわけですが、彼は一体どのようにして数々の先進的な考えを編み出していったのでしょうか?」

「長野壱業氏の同期、海軍兵学校四四期生というのは、大変学習意欲の高い男たちの集まりでした。後にソ連太平洋艦隊を撃滅した柳本柳作氏をはじめ、彼の同期には後の太平洋戦争でも成果を残した軍人が多かったんです。海軍兵学校出身者のその後の戦績を振り返ってみても、この四四期生ほど優れた軍人を数多く送り出した年はありませんでした。おそらく、長野氏自身も類稀なる才能と洞察力を持っていたことは疑いようの無いことだと思いますが、これらの優秀な同期との活発な意見交換も彼にとってよりよい刺激となり、革新的な考えを編み出せるようになっていったのではないでしょうか」

「なるほど。優秀な学友との建設的な議論が、彼の才能をさらに伸ばすことにも繋がったということですね」

「はい。また、同時に時代背景も彼の革新的な考え方の成長を促したと考えられます。当時は兵器の進歩が日進月歩で、誰もが新しい時代の戦い方を試行錯誤をしながら探し求めていました。勿論、その中には机上の空論に過ぎない考え方から、一考の余地のある考え方まで様々なものがあったと思いますが、これらの数多くの様々な方向を目指す考え方が溢れかえっていた時代というのも、新しい戦略を常に軍人に考えさせる土台になりました」

「確かに、潜水艦や航空機など、この頃の兵器の進歩には目覚しいものがありましたね」

「第一次世界大戦を経て、戦争のやり方は大きく変わりました。潜水艦による通商破壊に、爆撃機による後方地域への直接攻撃など、国家総力戦においてその勝敗を大きく左右する国力の削り合いという戦いは、軍人の戦争というものに対する意識を大きく変えさせるものでした。また、これまで人間が戦う場所ではなかった大空や海中までもが戦場となり、軍人は新しい戦場で勝利を収める方法を模索するようになります。誰にとっても未知、解答のない問題に取り組む中で、各国ともに発想力に秀でた軍人が台頭するようになりました。長野壱業氏は、この時期にその発想力で台頭した軍人の中でも頭一つ飛びぬけた逸材であったということは間違いないでしょう」

 

「さて、長野はその優れた先見性と志を同じくする優秀な同期生と共に帝国海軍の進歩に尽力します。しかし、時代は帝国海軍の変革を待ってはくれませんでした。長野は、やがて全世界を巻き込む巨大な時代のうねりに立ち向かうこととなります」

 

 

 

 

 

 昭和三年

 

 海軍大学校を卒業した長野は、この頃から軍部だけではなく、日本の政財界への働きかけも積極的に始めるようになります。

 彼の実家、長野商店は現在の長野グループの礎となった会社であり、この当時も大正末期から昭和にかけて台頭した新興財閥の代表格でありました。

 長野は海軍兵学校を卒業したころから、既に実家の経営方針にも色々とアドバイスを与えたと言われています。株式や発動機事業を初めとした先進的な事業にも手を出して成功した長野商会は、長野が海軍大学校を卒業したころには、一躍国内でのトップクラスの商会へと発展を遂げていました。

 長野は、それ以降も頻繁に商会の経営に助言をし、大きな利益が見込まれる事業への参画と市場の開発を促すと同時に、国内のインフラ整備を主とした地方改革にも多額の出資をさせました。

 当時、成功を続ける長野商会に注目していた同業者も少なくなく、長野のやることに続けとばかりに財閥の後を追う発展中の商社も東北への投資を開始します。その結果、かつては貧困地帯であった農村地帯の経済は上向きとなり、娘を身売りしなければ冬を越せなくなるような家庭も減りました。都市部でも世界恐慌の煽りを受けて経営が傾いていた会社に対して積極的に融資を行い、都市部での失業者の削減に貢献します。

 さらに、長野商会はこれらの慈善事業で得た貧困層からの支持と資金力をもって政治にも介入します。長野商会のバックアップを受けた政治家や官僚は、日本国内の開発を積極的に提言すると共に、政府の経費削減などの政策を進めました。

 また、長野商会のバックアップを受けた政治家が推し進めた国策として、大量生産を可能とする生産モデルや品質管理の概念の導入があります。

 当時、日本よりも困窮していたドイツや失業者が社会問題となっていたアメリカから多数の技師を招聘し、大量生産に適した工業モデルの構築と、品質管理のノウハウの蓄積を目論んだのです。

 農業、工業、金融業など、様々な分野の発展を後押しした長野商会の活躍もあって、社会的な不況の中にありながら、日本の産業は着実に進歩を遂げていました。

 しかし、当時の日本を取り巻いていた金融恐慌、昭和恐慌と続いた大不況と、その余波による慢性的な不況の影響は強く、いくつかの商社が景気の回復に向けて足掻いたところで日本全体に影を落としていた不況から抜け出すことはできませんでした。

 さらに、そこに追い討ちをかけるように張作霖爆殺事件が発生します。これにより、日本が大きく幅をきかせていた中国市場で日貨排斥の動きが強まります。日本商店への襲撃、邦人への暴行、日本商品の不買運動などは世界恐慌下でどうにか日本の需要を支えていた最大の市場が揺らいだことにより、辛うじて踏みとどまっていた日本経済は一気にどん底への向かっていきました。

 そして、事態を打開できない政治家への不信や、世界恐慌、金融恐慌による経済の低迷、台頭する共産主義に対する恐怖など、社会に対する不満のはけ口を探していた日本は、それを広大な中国大陸に求めるようになります。

 日貨排斥等という蛮行を働く中国も、軍事力を持って捻じ伏せることができればいい。そうすれば、中国大陸という巨大な経済圏を完全に我が物にでき、この出口の見えない不況を乗り越えられる。こちらの言うことを聞く植民地さえあれば、モノも売れるし資源は手に入る。

 そのような幻想を抱く日本人は、少なくありませんでした。

 

 

 

 昭和六年九月一八日

 

 中国、柳条湖付近で満州鉄道の線路が爆破されます。満州事変の勃発です。

 この事件をきっかけに関東軍は軍事行動を開始し、瞬く間に満州南部を占領しました。

 日本の世論は、満州事変の勃発を受けて中国に対する積極的軍事介入に偏ります。

 満州鉄道の権益は、在満邦人の利益に直結するものであり、また、当時の日本人の多くは日露戦争でおよそ八万人もの犠牲を払って得た満州の特殊権益を守らなければならないと考えていたからです。

 関東軍が占領した満州には、その後、清帝国最後の皇帝溥儀を元首とする満州国が建国されることとなります。これは、実質的には日本の植民地でした。

 しかし、満州事変に端を発する関東軍の軍事行動や満州国の建国、加えて、特務機関の工作によって勃発した上海事変は海軍軍縮条約の調印など国際協調、平和外交を標榜していた外務大臣、幣原喜重郎の外交姿勢を否定するものでした。日本の国際的な信用は失墜し、他の列強国からの警戒が高まる結果となります。

 対外融和姿勢を取っていた幣原の外交には、以前から日本国内でも軟弱外交という批判があり、満州事変後はその批判もさらに強まることとなりました。

 そして同年一二月、幣原は内閣を去り、幣原外交は終焉を迎えます。同時に世論では強硬外交が支持を集めるようになりました。世論の支持を受けた強硬外交は、この二年後の昭和八年に、日本を満州国の不承認を理由に国際連盟から脱退させることとなります。

 世論が望んだ対外強硬外交の結末は、国際社会からの孤立に他なりませんでした。

 

 武力を背景にした中国への進出と、国際的孤立を深める日本の現況に危機感を覚えた長野は、海軍兵学校の同期に次のように語っています。

 

「中国人を力で押さえ続けながら日本一国で開発を続けたところで、日本を満たせるだけの利益なんてあがるわけがない。このままでは、この大陸は泥沼になるだろう」

 

 長野は、中国大陸への深入りが、日本を回復させるどころか疲弊させるだけだと考えていました。しかし、長野が本当に恐れていたのは日本の疲弊ではなく、太平洋を挟んだ大国、アメリカとの関係悪化でした。

 アメリカもまた、世界恐慌の影響で失業者が溢れ、経済は衰退していました。ルーズヴェルト大統領が主導したニューディール政策によってひとまず最悪の事態からは抜け出せましたが、政府による大規模財政支出をこれ以上進めることは危険でした。

 税収と雇用の回復のために新しい市場の存在が不可欠となったアメリカですが、既にこのころにはアメリカ国内にはアメリカの必要とする膨大な需要を満たせるフロンティアなど存在しませんでした。その結果、アメリカは奇しくも日本と同様に中国市場に目をつけました。

 先んじて中国に版図を広げつつあった日本は、アメリカにしてみれば将来性のある巨大市場を独占している国であり、邪魔者でした。

 強硬な姿勢を貫き国際社会からの孤立を深めていた日本がナチスドイツへと接近していたことも、アメリカでの日本に対する脅威論、警戒論を一層助長しました。

 このままでは、中国市場を狙うアメリカとの摩擦が戦争へと繋がりかねない。そんな危機感を持った長野は、戦争回避のために動き始めます。

 とはいえ、当時の長野はまだ海軍中佐に過ぎません。海軍内部での力は、政局を動かしうるには到底足りず、米英を刺激するであろう大規模な軍拡を推進している海軍主流派を抑えることは不可能でした。

 そこで、長野は「国際正義に基づく協調主義」を掲げていた立憲民政党と接触し、長野グループの財力を通じて支援させます。

 当時、立憲民政党の中心的存在だった町田忠治も彼が支援した人物の一人です。

 実は、町田は長野から援助の申し出があった際、一度はその申し出を断っていました。立憲民政党は軍拡を推し進めていた軍と協調路線を取る立憲政友会と対立しており、自分たちを支援すると言い出した軍人も、見返りに親軍姿勢を求めているのではないかと疑ったからです。

 すると、援助を拒否した彼の元に長野本人が訪ねてきました。その時のやりとりを町田は後にこう語っています。

「長野中佐が私達に求めていた政策は、農村の開発から工業規格の策定、貧民救済などと多岐に亘った。しかし、その中に軍への協力や、軍の政治への関与を強めるような政策は一つもなかった。私は、政策が実現した未来を脳裏に描き、彼が真に目指していたものを理解した。彼は、国内を豊かにすることで大陸から足抜けし、国際協調によって軍縮を実行するという時流に逆らったものを求めていたのだ」

 さらに、長野は民政党の対立候補であった政友会にも揺さぶりをかけます。政友会非主流派を援助し、政友会内部の不和を煽らせることで、間接的に民政党を支援したのです。

 しかし、戦争回避のために長野が行った一連の動きも、時代という大きな流れを変えることはできませんでした。

 

 

 

 昭和一二年七月七日

 

 北京郊外の盧溝橋付近で、現地駐留の陸軍部隊が一発の銃声を聞きました。その銃声をきっかけに、中国軍と日本軍の衝突が起きました。盧溝橋事件です。

 この都市の八月には戦局不利となった中国軍が上海を攻撃。これにより、事態は極地紛争から大規模紛争へと拡大し、日中両国は全面戦争へと突入しました。

 日本は戦局を優位に進め、一二月には中国の首都南京を占領することに成功します。しかし、中国軍に対して決定的な打撃を与えることはできず、戦線は拡大。日中戦争は、長野が恐れていた行方の見えない泥沼の戦争となりました。

 日本が中国全土を直接支配下に置くことを恐れたアメリカが、軍事と経済の両面で中国を支援したことより、日本国内では反米感情が悪化します。

 さらに、欧州でのドイツの躍進を背景に、日本では防共協定以来の対独協調の気運が高まり、昭和一五年九月には日独伊三国同盟が成立します。

 日本が米英の対中支援ルートを遮断するためにインドシナ半島に進出していたことや、アメリカが三国同盟を締結した日本に対して屑鉄の禁輸等を含む経済制裁を発動していたこともあり、もはや日米両国の関係は、いつ開戦してもおかしくないほどに逼迫していました。

 

 

 

 昭和一六年二月

 

 対米開戦の空気が濃くなる中、呉鎮守府附になっていた長野は海軍御用達の高級料亭に秘密裏に呼び出されます。

 海軍士官の中でも、将官以上のものでなければ利用できない最高級の部屋に通された彼を待っていたのは、時の聯合艦隊司令長官、山本五十六でした。

 この時のことを、後に長野は同期の柳本柳作に次のように語っています。

 

「真珠湾攻撃。君ならどうやる」

 長官が前置きもなく切り出したその一言で、私は長官が対米開戦を決めたことを理解した。

 長官は、海軍軍縮条約の撤廃以後、対米開戦反対を徹頭徹尾貫いてきた方だ。その長官が聯合艦隊司令長官として対米戦をやる覚悟を決めているということは、もはや、対米開戦は避けられないところまできている。

 私のところに来たということは、きっと海軍大学校時代に書いた戦術案をご覧になったのだろう。そして、長官もアメリカと戦うのなら真珠湾奇襲が不可欠であると判断された。

 ならば、自分も軍人として腹を括るしかないと思った。やるのならば、徹底的にやらなければ意味はない。

「開戦直後に航空機による奇襲をかけ、戦艦群を撃沈。あわよくば海軍工廠を破壊します」

 私の答えに、長官は酷く複雑な表情をしておられた。

 今思えば、きっと長官は真珠湾奇襲の理解者を得られたことの喜びと、こんな博打のような策をせざるを得ない悔しさの狭間で苦しんでおられたのだと思う。

 

 この会談の一ヵ月後長野は連合艦隊司令部附に抜擢され、航空魚雷の深度調節や、雑音の少ない無線機の導入による連携の取れた攻撃の実施などといった真珠湾攻撃における技術的、戦術的諸問題の解決に奔走することとなります。

 

 

 

 昭和一六年十二月八日三時一九分

 

 真珠湾奇襲攻撃の特命を受けた機動艦隊から発艦した真珠湾第一次攻撃隊一八三機が『ト連送』と同時に真珠湾停泊艦艇に向けて突撃を開始します。

 その時を連合艦隊旗艦戦艦「長門」の作戦室で迎えた長野は、重い沈黙に包まれ、沈痛な面持ちをしている幕僚達の前でも、眉一つ動かすことなくいつもどおりの平然とした態度をしていました。

 そして、作戦室に待ちに待った知らせが届きます。

「奇襲成功。敵戦艦撃沈、効果甚大」

 真珠湾奇襲が成功を意味する知らせに作戦室につめていた幕僚たちは沸き立ちます。

 しかし、その一方で長野だけは一人表情を崩すことなく地図を見つめ続けていました。

 

 

 長野壱業が、戦艦金剛と運命を共にする四年前のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休憩談話室で艦娘達に集られながら、悪夢と言える時間を終えた。

 

やめて! そんなキラキラした目で私を見ないでぇーーー!

 

長野壱業改め、長野業和は内面は兎も角、普段通りの仏頂面である。

 




《後藤陸将さんによる補足》

立憲民政党を長野グループが後援したというのは、自作設定です。当時の政策実行力のある政党のうち、一番マシなのはこっちかなぁと考えまして。政友会はこのころ、政党戦略に走って統帥権問題を持ち出すなどの政党政治の否定を自分からしていましたし。

町田忠治を抜擢したのは、史実では農相として農村の負債整理や米価の極端な変動を防止する米価政策を実現していたり、日本国内の発展に力を注ぐ点が長野の考えと相性がいいのではと考えたからです。

五十六が長野の元を訪ねたというのは完全自作エピソードです。大河とかでよくありそうなオリジナル演出ですね。
 一応、理屈をつけるとするならば真珠湾作戦をおぼろげに考えていた五十六が海軍大学校にあった長野の真珠湾攻撃計画を読み、十年以上前にこの計画を詰めた彼ならば真珠湾攻撃反対を唱える軍令部を黙らせるだけの意見を持っているかもしれないと考えて接触したというところでしょうか。

真珠湾後からは山本と長野の戦略観の齟齬がはっきり形になると思いますが、真珠湾攻撃に関しては山本と長野はかなり近い戦略観を持っていたのではないか、と考えて料亭での会話を書かせていただきました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。