提督(笑)、頑張ります。 外伝   作:ピロシキィ

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後藤陸将さんからの応援ss第三弾。

本当に感謝です。


History was changed at the moment 《鋪》

 

「司波さん。軍人でありながら投資や農村復興、政治にも実家を通じて積極的に手を出す長野壱業氏の意図はどこにあったのでしょうか?」

「そうですね、まず彼が投資した意図についてですが、当時疲弊して困窮していた産業の救済や、景気の回復によって世論の不満を解消するというのもありましたが、主たる意図はそうではありませんでした」

「単なる弱者救済という慈善事業的なものではないのですか?」

「ええ。彼の狙いはそれだけではなかったのでしょう。景気が回復すれば、過激な思想に傾倒しつつあった世論を抑えることができ、戦争を回避しようとする空気を作り出せたというのもありますし、これは彼が投資した分野やそれがもたらした結果からの推測なのですが、彼の狙いは国力の増強そのものにもあったのだと思いますね。食糧自給率の向上は兵站を考える上で油と鉄よりも先に突き当たる問題ですし、工業の活性化は第一次世界大戦のような国家総力戦をするには不可欠な問題です。戦争をするにあたり、兵站や後方の生産力が貧弱では話にならない。最低限の生産力すら日本には欠けていると考え、長野壱業氏は産業の発展に力を入れたのではないでしょうか」

「なるほど。長野壱業氏は、日本が第一次世界大戦のような国家の総力を結集した戦争に突入する可能性を鑑みて、その時のための準備をすすめようとしたのですね」

「はい。また、彼がてこ入れを指示した会社の中では、無線機や即席調理食品の開発など民生にも使えますが軍事においてはそれ以上に価値を持つ技術の研究が進められていました。無線機の充実は航空機の連携に大きく寄与しますし、軍用の即席調理食品は、前線の兵士に等しく恩恵を与え、士気の向上にもつながりますからね。長野壱業氏は、VTRにもありましたように戦争回避のための努力も続けながら、その一方で戦争になったときにも優位に立てるように各種技術の開発にも力を入れていたことは間違いないでしょう」

「開戦か不戦か。どちらに転んでもこの国の利になるように備えていたというわけですか」

「ええ。長野氏は非常に計算高い人物でしたから」

 

「長野と山本の渾身の策、真珠湾奇襲攻撃は成功。日本海軍は大戦果を収め、その後も快進撃を続けるのでありますが、それも長くは続きませんでした。戦争が長期化する中で、国力に劣る日本は次第に圧倒的な物量差と資源の不足から、坂から転げ落ちるかのように敗北を重ねるようになります」

「相次ぐ激戦によって、聯合艦隊は疲弊していきました。もはや、聯合艦隊には往時の戦力はほとんど残っていません。そんな中、海軍軍令部は帝国海軍の誇りを賭けたある作戦を立案しました。この追い詰められた海軍軍令部の作戦が、長野の運命を決することとなるのでございます」

 

 

 

 

 

 昭和一六年一二月八日

 

 日本海軍の真珠湾奇襲攻撃は成功し、戦艦八隻を行動不能とする甚大な被害を米海軍に与えます。さらに、海軍工廠の一部が爆弾の直撃を受けた影響で、損傷を受けた艦の復旧にも支障が生じました。この時受けた損害の回復のため、アメリカ海軍はそれから一年以上太平洋での大規模な艦隊行動を制限されることとなります。

 そして、アメリカ海軍が動けない隙に、日本海軍は太平洋、インド洋を駆け回り、連戦連勝の快進撃を成し遂げます。

 イギリス海軍をインド洋で圧倒し、マレー、シンガポール、ニューギニアと占領地域を次々と広げますが、その間、日本海軍はマーシャル・ギルバート諸島機動空襲やドゥーリットル空襲など真珠湾攻撃で仕留め損ねた米海軍空母部隊の脅威に悩まされることとなりました。

 そこで、米空母部隊の封じ込め、あわよくば撃滅を狙った日本海軍は、昭和一七年六月にミッドウェー島攻略作戦を実施します。しかし、この戦いで戦力に優っていたはずの日本海軍はまさかの大敗北を喫します。

 このミッドウェー海戦の敗北から、日本海軍は次第に敗戦を重ね、ついには劣勢に立たされるようになりました。

 昭和一八年四月には、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将が前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で戦死し、昭和一九年にはマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で日本海軍は敗北し、多くの艦船を喪失します。

 

 

 

 そして、昭和二〇年六月一五日

 

 硫黄島を陥落させたアメリカを主軸とする連合国は、ついに沖縄上陸に向けて動き始めます。

 連合国の機動部隊は沖縄に大規模な空襲を実施し、それを阻止せんとする沖縄の基地航空隊と激しい空戦を繰り広げました。さらに、連合国はそれに平行して、戦艦六隻を中心とする三〇隻以上からなる艦隊が艦砲射撃を実施します。

 この知らせを聞いた日本海軍も、連合国が沖縄占領に向けて動いたことを確信しました。しかし、既に聯合艦隊には沖縄に来寇した連合国艦隊を撃退するだけの水上戦力は残っていませんでした。

 残存兵力で沖縄救援は不可能であることは、海軍軍令部にも理解できていました。にも関わらず、聯合艦隊司令部は沖縄の連合国の泊地に残存水上艦艇を突入させる「天一号作戦」の実施を決定します。

 これには、当時軍令部で密かに囁かれていたある噂が大きく影響していたといいます。

 

「海軍にもう動かせるフネはないのか。沖縄を救う術はないのか」

 

 この言葉は、海軍の残存航空兵力の総てをもって沖縄沖の連合国艦隊を撃滅するという作戦を奏上した軍令部総長が、やんごとなきお方からかけられたものだと言われています。

 しかし、この言葉は宮内省の記録や当時の侍従らの個人的な記録等による裏づけはされておらず、本当にやんごとなきお方が発せられたお言葉であるかどうかは、今でも分かっておりません。

 ただ、真偽の程はともあれ、この噂は海軍を揺るがしました。

 連合国とまともに戦えるだけの数はないとはいえ、まだ聯合艦隊には空母、戦艦ともに残っています。にも関わらず、航空兵力のみによる攻撃作戦を実行すれば、海軍はフネを失うのが怖くて怖気づいているという醜聞が広がりかねません。

 聯合艦隊の、そして大日本帝国海軍の有終の美を飾ろうとしていた軍令部は、直ちに作戦の変更を命じます。軍令部は、航空戦力だけでなく、水上戦力をも投入する特攻作戦を実施する決意を固めたのです。

 この頃、海軍軍令部や聯合艦隊司令部には既に、この戦争の勝敗のことなど頭にありませんでした。ただ帝国海軍の威光と伝説を後世に伝えることだけを念頭に、彼らはこの無謀としか言いようの無い水上特攻作戦を推し進めたのです。

 

 

 

 六月二○日

 

 長野はこの日、数人の同期と共に聯合艦隊司令部から呼び出されます。

 そして、聯合艦隊司令部は彼らに水上特攻作戦「天一号作戦」への参加を要請しました。

 実は、聯合艦隊司令部は水上特攻作戦の承認を軍令部から受けていましたが、この作戦に対して作戦に参加する部隊の指揮官や艦の艦長からの反対意見が続出していたのです。

 

「挺身部隊の説得に協力してほしい」 

 

 司令部からのこの要請に対し、長野と共に呼び出された同期は強く反発します。

 

「戦死することを恐れて反対なぞしない。しかし、最初から勝つ気の無い戦いで死んで来いなどと言われて、はいそうですかと従うことはできない」

「そんなに特攻をやりたいのなら、司令部に篭っていないで貴方たちがやればよろしい」

 

 とはいえ、司令部も引くことはできませんでした。返答に窮した司令部は、次の言葉を発します。

 

「一億総特攻のさきがけになって頂きたい」

 

 その言葉を聞いて、長野の同期たちは司令部の無責任さ、無鉄砲さに憤慨し、さらに言い募ります。

 その時、これまで一言も発することがなかった長野が同期たちを手で制し、初めて口を開きます。

 

「挺身部隊の説得は引き受けよう。その代わり、作戦立案の一部と部隊の運用は私に一任していただきたい」

 

 司令部は、長野の提案に揺れます。

 長野はこの太平洋戦争において、そして日本海軍史において、他に並ぶものがいないほどの戦歴を有していました。

 ドゥーリットル空襲を予見して米空母エンタープライズを撃沈したことに始まり、第一次ソロモン海戦等ミッドウェー海戦以後に南方海域で行われたほとんどの海戦に参加、沈めた艦の数は帝国海軍一を誇ります。

 しかし、その一方で彼は司令部からは問題児と認識されていました。ことあるごとに軍令部を痛烈に批判しており、さらにその批判の悉くが結果として裏付けられていたからです。

 もしも、その彼がこの作戦に反対していることが海軍内部に知れ渡れば、間違いなく水上特攻作戦反対派は勢いづきます。これ以上作戦反対の意見が強くなれば、作戦の実施は困難となることも考えられました。

 かといって、簡単に彼の提案を呑めば、これまで彼の作戦を却下し続けてきた聯合艦隊司令部の面子にも関わります。

 聯合艦隊司令部の面々が渋る中、これまで成り行きを黙って見守ってきた一人の男が口を開きます。

 

「君がそうしたいと言うのであれば、よかろう」

 

 そう口にしたのは、当時の聯合艦隊司令長官、小沢治三郎でした。

 彼の一声で、長野が天一号作戦の一部立案をすることが決定したのです。

 

 

「俺の死に場所が決まったようだ」

 

 長野はその日、司令部に同行した同期の戦艦榛名艦長にこう語ったといいます。

 

 

 

 

 

 六月二五日

 

 聯合艦隊司令部から作戦立案の許可をもらった長野は、それから僅か五日で作戦案をまとめ、海軍の作戦を統括する軍令部に提出しました。

 この時、長野が作り上げた天一号作戦の変更点を纏めた機密文書が、今も防衛省防衛研究資料館に保管されています。今回は特別な許可を受け、撮影が許されました。

 

 

 

「天一号作戦 別動艦隊作戦書」

 

 作戦方針

 

 別動艦隊ハ第二艦隊ノ出撃ニ先ニジテ出港シ、南太平洋ヘト移動。ソノ後、太平洋上ニ発生ガ予測サレル低気圧ト共ニ沖縄沖ニ向ケテ北上シ、悪天候下デ敵艦隊トノ乱戦ニ持チ込ムコトデコレヲ駆逐セントス

 

 

 

 アメリカ海軍に悟られぬよう、悪天候に紛れて接近。そして、荒れ狂う波と風の中で戦艦や巡洋艦による艦隊決戦をやるというのが、長野の立てた作戦案です。

 作戦実施時期はちょうど雨雲が多く発生し、大気の状態が不安定となる八月。作戦条件が整う可能性は十分に考えられました。

 

 しかし、長野が提出した作戦案を見た軍令部は騒然とします。

 

「ほどほどの嵐であればいい。しかし、下手をすれば第四艦隊事件の二の舞だ」

 

 第四艦隊事件。

 それは一〇年前、台風によって海軍艦艇が多数被害を受けた大規模海難事故です。

 海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊はその航行途中で台風と遭遇し、大波によって大きな被害を受けました。幸いなことに沈没した艦はなかったものの、これによって駆逐艦二隻が艦首切断という大きな被害を被りました。

 軍令部は、この時得られたデータから、台風の中での航行は艦艇に被害を与えるリスクがあることを知っていました。そのため、戦闘前に船体に被害の及ぶ可能性の高いこの作戦には難色を示したのです。

 それに対し長野は軍令部の指摘に整然と反論します。

 

「分の悪い賭けであることは百も承知。しかし、誰もがやらないと思うからこそ成功すれば大きな成果を得られる」

「貴方方は一度山本長官に真珠湾で博打を打たせているではないか。今度は私が博打を打つ番になったというだけのこと。ここに至り、博打を打つのを躊躇する理由はない」

 

 さらに、なおも煮え切らない軍令部の態度に業を煮やした長野は、懐から一枚の封筒を取り出します。

 

「もしも、軍令部の承認を得られないのであれば、私はここで辞表を提出させていただく」

 

 それは、奇しくも真珠湾奇襲作戦後、戦略観の相違から長野と袂を分かった聯合艦隊司令長官山本五十六が、真珠湾奇襲作戦の前に軍令部に切った啖呵と同じものでした。

 これを聞いた軍令部は、ついに長野の作戦案を承諾します。

 

 

 

 

 

 しかし、作戦の承認を得たところで、長野の前にはいくつかの課題がありました。

 

 最初の課題は、自身の指揮する艦隊を動かす燃料の問題です。

 本土近海における制空権は辛うじて保っていたものの、既に主要な航路はアメリカの潜水艦と哨戒機によって抑えられており、海外からの物資の輸入はほぼ不可能となっていました。戦前に備蓄していた石油や海戦初頭に東南アジアから運び込んだ石油もほぼ尽きかけており、片道分とはいえ、とても長野に預けられる艦隊のために用意できる燃料はなかったのです。

 軍令部に燃料事情から預けられる艦船を減らされることを危惧した長野は当時日本の商船のほぼ全ての運行を管理していた大本営海運総監部に働きかけ、艦隊行動用の重油を運ぶための油槽船を東南アジアの各所に手配させ、海上護衛総司令部にこれを護衛する艦隊を都合するように要請します。

 

 そして、七月七日。

 

 日本の占領下にあったシンガポールとニャンチャンに準備させた油槽船を無事に本土まで送り届けるために、海上護衛総司令部とは別に長野自身も護送部隊を編成して出撃しました。

 巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、海防艦二隻の艦隊を率いた長野は、機雷で封鎖された海峡を突破し、一路シンガポールを目指します。シンガポールで二隻の油槽船と合流した長野は、その後ニャンチャンで新たに八隻の油槽船と合流し、香港、台湾を経由して帰路につきます。

 しかし、アメリカ海軍は長野が船団護送の任につき、小規模な部隊で鈍足な輸送船を守りながら台湾から日本に向かっているという情報を暗号解読によって掴んでいました。アメリカ海軍は、台湾方面で通商破壊に割り振られていた戦力の大半をこの船団の撃滅に割くことを命令します。

 この時、アメリカ海軍は血眼になって長野壱業という一人の軍人を殺そうとしていたのです。

 

 当時のアメリカ海軍における長野に対する認識を示す貴重な資料がワシントンにあるアメリカ国立公文書記録管理局に保存されています。

 

「|Operation:Retributive Justice《因果応報作戦》」

 

 アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド少将から、フィリピンの陸軍航空隊第五空軍に宛てられた作戦書です。

 そこには、暗号解読から得られた船団の航路と目的地の情報と共に、輸送船団の護衛を指揮する長野が乗る船を沈めよという命令が記されていました。

 

 ドゥーリットル空襲で虎の子だった正規空母を撃沈されたことから始まり、第一次ソロモン海海戦では物資を満載した輸送船団を壊滅させるだけではなく、上陸していた海兵隊にも艦砲射撃で大きな損害を与え、さらには南方の諸海戦で沈めた艦は数知れず。

 さらに、長野が哨戒した海域では必ずと言っていいほどに潜水艦が撃沈されていました。南方海域での激戦の結果、アメリカ陸海軍に二万人近い死傷者と数十隻の艦艇喪失をもたらした長野は、アメリカの新聞やラジオにも度々名前が報道され、アメリカの世論からも恐れられる存在となっていたのです。

 そして、その長野を仕留められるかもしれないというチャンスに、命令を受けた第五空軍は躊躇わずに全力を投入しました。

 長野率いる護送部隊は台湾沖でついにアメリカ海軍の哨戒機に発見されます。その後、通報を受けて駆けつけた五〇機余りのB-25爆撃機による襲撃を受けた長野は、船団に煙幕を展開させながら味方の制空権下に逃げ込もうとしますが、鈍足な輸送船を守りながらの戦いとなり苦戦を余儀なくされます。

 自身が搭乗する旗艦と二隻の駆逐艦を殿に置き、多数の航空機を撃墜する奮戦にもかかわらず、最終的に長野はこの空襲により三隻の輸送船を失いました。

 しかし、幸いにも、海上護衛総司令部が護衛してきた別動油槽艦隊が大きな損失も出さずに任務を成功させていたこともあり、長野は帝国海軍残存艦艇が全力で出撃できるだけの燃料を確保することができました。

  

 

 

 燃料の問題が解決した長野が次に取り組んだのは、敵制空権下を突破する第二艦隊を援護するための直掩戦闘機の問題でした。

 いくら大和型戦艦であっても、敵の完全な制空権下で護衛もつけずに航行していれば、航空機の袋叩きにされて沖縄にたどり着けないまま撃沈される可能性が高いと判断した長野は、可能な限りの護衛をつけるべきだと考えました。

 しかし、海軍の航空隊はマリアナ沖海戦や台湾沖での航空戦によって壊滅的な被害を被っており、再建の時間が必要とされていたため、唯一マリアナ沖の損耗を補填し、空母艦載機と乗員が揃っていた瑞鶴以外はこの作戦に動員できません。そこで長野は、航空戦力を陸軍に求めることにしました。

 

 油槽船の護衛任務を果たした長野は、すぐさま本土防空のための航空戦力を束ねる陸軍防衛総司令部を訪れ、航空兵力を艦隊の援護のために出して欲しいと訴えます。

「沖縄では、およそ六○万人の民間人と九万の陸軍兵士が米軍の脅威に晒されている。彼らを助けるために、何が何でも私は艦隊を沖縄に送りたい」

 しかし、防衛総司令部の返答は冷ややかなものでした。

「まず辿りつけないであろう艦隊を護衛するために戦闘機を出せたとて、何の意味があるか」

 防衛総司令部は、海軍の水上特攻の成功の可能性は低いという理由で、航空機による援護を断ります。しかし、防衛総司令部首脳部が長野の要請を断ったのには、実は別の思惑がありました。

 この時の陸軍では、連合国の沖縄侵攻によって現実味を帯びてきた本土決戦に向けて、戦力の整備が進められていました。そもそも、防衛総司令部も日本本土に対する空襲が激しさを増すことを予想し、本土防空のために成立した組織です。

 本土決戦となれば、その主役となるのは陸上戦力を有する陸軍であり、そこで米軍を撃退すれば、講和への道も開ける。そして、戦争終結を決定付ける功績を得た陸軍は、戦時中の度重なる敗戦の不名誉を払拭し、同時に海軍に対して優位に立てる。そんな打算が当時の陸軍にはあったと言われています。

 防衛総司令部と話をしていても埒が明かないと判断した長野は、防衛総司令部の説得を諦め、別の角度から陸軍へのアプローチを開始しました。

 当時、長野は航空機の開発を通じて親交のあった陸軍内部の対米和平派の将校と繋がりがありました。その伝手を利用し、彼は時の陸軍大臣阿南惟幾に渡りを付けたのです。

 阿南は、長野が水上特攻作戦への協力を求めてきた時のことを、後に鈴木貫太郎に次のように話しています。

 

 最初に、彼は迷いも無く頭を床につけた。

「沖縄県民と第三二軍の兵士達の命を、一人でも多く救いたい。そのために陸軍の戦闘機部隊の力をお借りしたい」

 私が、

「海軍さんのフネは、沖縄にたどり着けるのか?」

 と問うと、彼は頭を上げることなく、それでも堂々とした声でこう答えた。

「たどり着けます。たどり着かせるために、私はここにいるのです」

 私は最初、海軍の有終の美なんかのために援護の戦闘機を出すことなど真っ平御免だったが、彼の言葉を聞いて気が変わった。

 彼が陸軍の兵器研究に大きく貢献してくれていることは公然の秘密だったし、彼が戦場では並大抵ではない戦果をあげていることも知っていた。彼ならば、この無謀としか言いようの無い作戦に勝機を見出すことができるだろう。

 それに、彼がウチ(陸軍)や旧民政党系の政治家たちと和平に向けた宮中工作やスイスを窓口にした外交工作、国内の取りまとめを進めているということは知っていたから、彼がこの海戦の成果を持って和平にこぎつける段取りを整えているであろうことも察しがついていた。

 きっと、彼の策がなればこの戦争は終わり、沖縄県民も第三二軍もこれ以上の犠牲を出さなくてすむだろう。仮に策が失敗して本土決戦となったとしても、アメリカの海軍戦力を削っておいてくれればこちらの利にもなる。

 ただ、自分の死を念頭において、その後の講和までの段取りを整えることができるほどの男を死なせるのは勿体なさすぎる。彼の能力は、この戦争が終わった後にも絶対に必要になると私は思った。

 彼の策を成すためにというのも勿論あったが、できれば彼の生還の一助となってほしい。そう考えて、私は戦闘機部隊の派遣を了承した。

 

 阿南は長野の作戦に航空支援を出すことを了承し、大東亜決戦機として温存していた四式戦闘機疾風六○機を航空支援のために九州地方に回すことを確約しました。

 これで、長野壱業渾身の策の準備が全て整いました。

 

 

 

 八月九日 午前二時○○分

 

 日本海軍水路部が分析した気象情報から、近い内に沖縄方面の天候が大きく乱れることが分かり、「天一号作戦」が発令されました。

 それを受けて、第二艦隊に先んじて長野率いる別動部隊がフィリピン海に向け出撃します。

 

 ところが、出港直前になって主力として期待されていた長門と陸奥で機関不良が発生しました。

 機関不良でも出撃を志願する二隻の艦長に対し、長野は待機命令を下します。

 

「機関不良デハ荒天下デノ艦隊運動ニ支障ヲキタス可能性高シ。長門及ビ陸奥ハ作戦参加不可能トミナス。護衛ノ水雷戦隊ト共ニソノママ待機セヨ」

 

 実はこの機関不良は最初から仕組まれたものでした。

 当初、天一号作戦には長門型戦艦二隻の参加は想定されていませんでした。二隻の戦艦に積み込めるほどの重油がもう残っていなかったからです。

 しかし、長野が油槽船の護送に成功したことや、ほとんど期待されていなかった別の輸送ルートからの輸送が成功したことで、戦艦二隻を動かすだけの重油が集まりました。これを受けて軍令部は作戦参加艦艇を見直し、長門と陸奥の作戦参加を決定したのです。

 この長門と陸奥の作戦参加に対し、長野は当初難色を示します。

 確かに、別動隊に参加する戦力が増えれば作戦の成功率は上がります。軍令部としても日本の誇りとまで謳われた大戦艦をこのまま無為に朽ちさせることは惜しいという考えもありました。

 ですが、長野としてはこの二隻を日本に残しておきたい理由がありました。その理由とは、当時相互不可侵条約を結んでいたソ連の存在です。

 長野は、ナチスドイツの降伏によって二正面作戦をする必要の無くなったソ連が、このまま極東情勢を座してみているはずがないと確信していました。そこで、北方でソ連の南下が起きた時への備えとして長門と陸奥を本土に残しておくべきだと考えたのです。

 しかし、軍令部は彼の意見を却下します。既に航空隊錬成中の雲龍を北方艦隊に配備しており、九月末には航空隊の錬成が終わり戦力化される以上、戦力を追加する必要がないと判断したためでした。

 そして、別動隊から長門と陸奥を外すのであれば、第二艦隊に編入させて沖縄へ向かわせると主張します。

 天一号作戦の決行までに残された僅かな時間を海戦の結果を見据えた和平工作のために費やしていた彼には、もはや軍令部を説得するだけの余裕はありませんでした。そこで長野は、已む無く現場の機関員たちに助力を頼みます。

 

 当時の戦艦陸奥の機関長が、戦後にこの時のことを回想したインタビューが残っています。

 

「長野少将がいらっしゃったときには、まず驚きましたよ。前に来たときは陸奥を爆破しようとしていた工作員を相手に大捕り物でしたからね。それに、戦争中は南方で数えられないほどの武勲を重ねたお方で、私達現場の軍人は彼を戦神として半分崇めてさえいました。その方が今度は一体何なんだ? って思いがありましたよ」

「訳を聞いたら、陸奥の機関を一時的に不調にできないか? って言うものですからね。明日には出撃で、そのためにちょうど燃料を搭載しているところだというのに、この陸奥を出撃させないつもりですか!? って私は階級も忘れて声を荒げました」

「そうしたら、少将は首を縦に振ってね。『そうだ。長門と陸奥の相手はアメリカじゃない。ソ連だ』と」

「『あの国が中立条約を律儀に守り続けるだなんて私には思えない。もしも、ソ連が参戦してきたときに、海上で揚陸部隊を撃滅できる戦力は残していかなければならない。それは、これから逝く私にはできない仕事だ。長門と陸奥に、それを託したい』と仰ってました」

「顔が真っ赤になったことを覚えてます。これほど先が見える人が、死にに行かなければならないのが悔しくて悲しくて、その方が私達を信じて後のことを託してくださるのが誇らしくて、嬉しくて。自分でもわけが分からないまま泣きましたね」

 

 

 

 八月九日 午前三時一分

 

 旗艦金剛の前檣に各隊の出港を意味する旗が翻ります。

 軽巡洋艦大淀を先頭に、駆逐艦時津風、浦風、夕立、時雨、長波が続き、殿に榛名と金剛が出港しました。

 

 この時、長野は次第に明るくなる東の空を見ながらこう呟きました。

 

「神風はとうとう吹かなかった。ならば、俺たちが神風になるしかないじゃないか」

 

 

 長野壱業が、戦艦金剛と運命を共にする一〇日前のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々と思う事はあった。

色んな人の支えがあったと改めて実感した。

途中、込み上げてくるものもあった。それはいい。

 

だけど、「神風に俺たちはなる(キリッ」なんて言ってないよぉぉ!?

 

「この戦上手の生き方下手っ!」

 

ちょっ、止めてください波平さん。

他の皆もそんな目で俺を見ないでおくれぇぇ!

 




《後藤陸将さんによる補足》

1 やんごとなきお方のお言葉は、真偽が分からない噂ということにしました。

2 |Operation:Retributive Justice《因果応報作戦》は、山本五十六が撃墜された際の米軍の作戦名「復讐作戦」に肖りました。
  復讐作戦でも、情報の把握から作戦立案までかなりのハイペースだったので、同じことができるのではないかと考えた次第です。

3 阿南惟幾陸軍大臣が長野の和平工作を黙認していたというのは、自分の解釈です。史実でも、本土決戦派でありながら、実は過激派を自分の手元に集めて手綱を握っていたように思えるところもありましたので。

4 長門陸奥が直前まで長野と共に特攻部隊にカウントされていたというのは自分の自作エピソードです。油さえあれば海軍としては出撃させたかったというのがあるのではないかと思いまして。
  後は、《起》の冒頭で触れたように、長野が聯合艦隊に残された戦力(当時使用可能なものに限る。雲龍など、錬成中で実戦に出せる状態にないものを除く)を全て委ねられたという形に添いたかったのもあります。

5 後にソ連を撃退する北方艦隊は、その時編成表だけはできていて、編成表に乗っている艦艇はこの時点では総じて出撃不能な状態だったか、瑞鶴の護衛についていたという風に考えています。

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