提督(笑)、頑張ります。 外伝   作:ピロシキィ

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後藤陸将さんからの応援ss。

感謝です。


History was changed at the moment 《結》

 

 

「これまで、長野の最期の戦いを見てきたわけでございますが、今日のその時を、司波さんはどう、お捉えになりましたか?」

「まさに、この作戦の成功によって、日本は終戦へと向かったと言っても過言ではないでしょう。まず、この作戦の成功は連合国側からしてみれば驚天動地の出来事でした。戦力は敵の数倍あって、まず負けるはずの無い戦いで戦力の九割近くを壊滅させられ、沖縄における制海権を一時的にとはいえほぼ喪失したとなれば当然のことですね。この数ヶ月前の硫黄島の戦いや、沖縄上陸戦においても連合国は事前の予想を遥かに上回る犠牲を強いられていましたし、このまま日本と戦い続ければ犠牲は当初の予想を遥かに上回ると連合国が考えるようになりました。もはや連合国の勝ちは揺るがない状態なのですから、後は如何に犠牲を少なくして勝利するかというのが連合国首脳陣の本音でしたし、特にアメリカのトルーマン大統領は、戦後のことも考えればなるべくソ連を対日戦で貢献させたくはありませんでした。日本に無条件降伏を強いるまで戦い続けるよりも、多少の要求は呑んでも戦争の早期終結を図る方が国益が大きいと判断した彼は、水面下で行われていた日米の和平協議に本腰を入れるようになりまして、それが一二月二四日の日本の降伏に繋がったというわけです」

「なるほど。この勝利が敵対していた連合国を動かしたということですね。一方、国内的にはどのような影響があったのでしょうか?」

「この坊の岬沖海戦と引き換えに、帝国海軍は稼動戦力のほぼ全てを失いました。しかし、それと引き換えに帝国海軍は絶望的なまでの戦力差をひっくり返して勝利を得ることに成功しました。この時、やんごとなきお方は沖縄を救った海軍に対して賞賛したという記録も残されています。そして、結果としてこれまで戦争継続を求めてきた海軍上層部の勢力も、大きな声で徹底抗戦を叫ぶことができなくなります。もしも、徹底抗戦を主張するのであれば、今度は彼らが長野がやってみせたような勝利を演出し続ける必要があります。徹底抗戦を主張しながら、自分たちでは長野がやってのけたような奇跡の勝利を重ねることはできないので特攻作戦で戦局挽回を図りますなどと主張すれば、彼らの面子は丸つぶれですからね」

「長野が進めていた和平工作にも、結果的に追い風となったというわけですか」

「ええ。というよりも、長野は自分が戦死することも前提として、自分の亡き後の和平工作の算段もつけていたのだと考えてます。ただ、和平の動きはおそらく彼が考えていたよりもさらにスムーズに進んでいたことでしょう。坊の岬海戦後、第三二軍の窮地を救われたことに対して陸軍はかなり恩義を感じていたみたいでして、これまで和平には慎重だった陸軍上層部の何人かも表立って和平工作に参加するようになりましたからね。特に、阿南陸軍大臣は思うところがあったのでしょう。彼は、クーデターを計画していた和平反対派の過激な思想を持つ軍人を陸海問わず自分の指揮のもとに集めておき、彼らが決起した直後に鎮圧するという行動にでました。彼が和平に不満を持っていた軍人を一掃しなければ、和平に反対する勢力が内戦を引き起こしていた可能性すらあったと言われていますから、彼は特に和平に大きな役割を果たしたと言ってもいいでしょう」

「国内的な影響も、連合国へ与える影響も、長野は全て織り込み済みで、最期の作戦を立案したということですね」

「おそらく、今日のその時の歴史的な意義を一番理解しているのは、それを演出した長野本人だったと思います」

「今日、お伝えしてまいりました長野の最期というのは、それは壮絶なものでした。司波さんも、『水平線のダイヤ』を通じてたくさんの方々に伝えようとしたことだとは思いますが、長野の最期の作戦、その生き方、彼が残したもの――それらが、今の日本人に訴えかけるものがあるとすれば、それは一体何なのでしょうか?」

「私が思うに、長野壱業という人物は立ち止まることができなかった人物ではないでしょうか。日本人の多くは、成功例というものや慣習などといったものに縛られがちで、新しい風を吹き込むことに慎重になり、いざという時に踏みとどまってしまう傾向にあると思います。実際、大日本帝国海軍は日本海海戦の栄光に縛られて海上の砲戦力こそが戦争を決するという考え方から抜け出せませんでしたし、ゼロ戦が開戦当初は神話ともいうべき圧倒的強さを誇ったことから、後継機にもゼロ戦の発展機を望んだために本来進むべきではない方向へと開発は進んでいきました。それに対して長野は決して古い考えに固執して立ち止まらなかった。未知のものを素直に受け入れ、常に新しい道へ躊躇わずに踏み出す決断力と、その道の先にあるものを見据える想像力が彼にはあったのだと思います。古い考えに固執する周囲に対し、我が道を歩み続ける長野は、当時の海軍組織の中でも浮いた存在となり、左遷同然の配置や、成功を期さない作戦に駆り出されることもありましたが、彼はそんな境遇の中でも自分の在り方を変えようとはしませんでした。日本は終戦後、古き時代を捨て去ることを強いられ、結果として新しい風を受け入れたことで今日の発展を得ることが出来ました。しかし、日本人は暮らしが豊かになり、文明が発展すればするほどに新しい考えを、新しい道へと踏み出すことを躊躇するようになります。保守的な考えに染まる周囲から孤立することも恐れずに新しい考え方を模索する長野の姿勢は、現代を生きる私たちにも必要なものではないかと思います」

「そうですか……ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

「長野は、己の全てをもってしてこの国と国民の未来を繋ぐための戦いに身を投じ、彼の決死の作戦が守り抜いた未来を見ることなく壮絶な戦死を遂げたのであります。この応援SSの終わりにあたり、終戦後、英雄となるはずだった長野になされた連合国の報復と、長野がその命と引き換えにこの日本に残したもの。それらをご紹介しながら、筆をおこうと思います。これまでご愛読いただき、ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 終戦後、極東国際軍事裁判において長野は日米の関係が悪化する前から真珠湾攻撃作戦を立案し、日米開戦の絵図を描いてその実現のために奔走していたという理由と病院船を沈めたという理由で戦犯に指名されます。

 しかし、実際の理由は異なりました。実は当時、連合国の世論は、長野を戦犯として裁くことを強く望んでいたのです。特に、ドゥーリットル空襲、ソロモン海戦、坊の岬沖海戦で辛酸を舐めさせられ続けたアメリカの世論は強硬でした。そして、長野の差配によってオホーツク海で強襲揚陸部隊を全滅させられたソ連もそれに同調します。

 当初、日本側はアメリカ側が提示した講和条件の中で、日本を救う為に命を賭した英雄から死後の名誉まで奪うこの要求には強く反対したといいます。しかし、連合国側は講和が早期になされなければ大陸や南洋の諸島で孤立した陸軍部隊が飢えと乾きに苦しむことになると仄めかします。

 日本政府は、数十万の兵士の命を守るため、この講和条件を呑むという苦渋の決断を下しました。

 これにより、日本の未来のためにその身を捧げた長野壱業の名は、世界の平和を乱し、日本を勝算のない戦争に引きずり込んだ天下の大罪人として歴史に刻まれることとなります。

 

 しかし、長野の死から五年後の昭和二五年。

 朝鮮戦争の最中、ある記事が大手新聞社の全国紙の一面を飾ります。

 

「東京裁判の真実」

「英雄の名を汚したアメリカの卑劣な脅迫」

「その名すらも汚された英雄のために」

 

 その記事では、長野壱業が戦犯に指定されることとなった経緯と、長野を戦犯に指定するために連合国がしかけた細工、もしも講和がならなければ実施されていたであろう日本への原爆投下計画が曝露されていました。

 これを受けて、人々の間では長野の戦犯指定を主導したアメリカへの反発と、長野の名誉回復運動が高まります。

 東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれたビルは長野の戦犯指定解除を求める一〇万人のデモ隊によって包囲され、デモ隊を排除しようとする占領軍との衝突により数百人の逮捕者と数十人の死傷者が出る事態にまで発展しました。

 このデモ鎮圧による余波は日本全国に広がり、大阪や名古屋、福岡といった大都市では毎週のように数万人規模の反米デモが発生する事態となります。

 当時、朝鮮戦争における前線基地として日本を活用する予定を立てていたアメリカは、ここで日本の治安が悪化すれば朝鮮の戦線にも影響が出ると考えました。そこで、アメリカは長野の戦犯指定を解除し、当時の大統領が長野個人に向けて謝罪する内容の演説をするという異例の対応をとりました。

 

 

 

 五年の時を経てついに戦犯の汚名を外され、長野の名誉は回復されたのです。

 

 

 

 坊の岬沖海戦から四四年が経った平成元年八月一九日。

 昭和が終わり、新しい時代、平成が始まったこの年、久高島の西沖で海軍による坊の岬沖海戦の戦死者を追悼する洋上慰霊祭が行われました。

 海上に勢ぞろいした平成の聯合艦隊。その旗艦として将旗を掲げていたのは、四四年前にこの場所で沈んだ戦艦金剛の名を継いだ最新鋭のイージスシステム搭載巡洋艦「金剛」でした。

 そして、金剛の艦上には、長野の最期を見届けた戦艦金剛の元主計中尉――時の、内閣総理大臣の姿がありました。

 元主計中尉は、長野にこう語り掛けます。

 

 

 

「私達日本国民は貴方によって救われました。貴方が、あの凄惨な戦争の末路を憂い、己の命をも顧みず戦ってくださった結果として、今の私達があります」

 

「しかし、私達は命を賭してこの国を救ってくれた貴方に対し、感謝の言葉を述べるどころか、一時は戦犯の汚名を着せるなどという蛮行に及びました」

 

「貴方が生きておられたときも、貴方の提言に耳を貸すことなく、貴方を蔑ろにし、最期には生還を期さない特攻に送り出しました」

 

「そして今、昭和は終わり、新しい時代、平成が始まりました」

 

「長野司令。かつて、貴方に何一つ報いることが出来なかったこの日本は。貴方に感謝の言葉すら直接伝えられなかった私達日本国民は。新しい時代を迎えた今、貴方の誇りに――貴方が、命を賭けて守る価値のあるものだったと胸を張って誇れるものとなれているでしょうか」

 

 

 

 

 

 己の才覚も、命も、その全てを国家と国民、そのまだ見ぬ未来を信じて捧げた天才長野壱業。

 

 彼は今、彼を信じ、共に戦いぬいた一万人余りの尊い命と共に、久高島沖の海底深くで静かに眠りについています。

 

 

 

 

 

 

     アメリカ海軍が最も恐れた男、長野壱業 ~坊の岬沖に散った英雄の献身~

 

 

 

 

 

 監修   ピロシキィ

 

 資料提供 防衛省防衛研究資料館

      アメリカ国立公文書記録管理局

      長野壱業記念館

      (財)戦艦長門保存会・記念艦長門

      (財)戦艦陸奥保存会・記念艦陸奥

      長野出版「月刊海軍」編集部

 

 構成   後藤陸将

 

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 終

 

 制作・著作 日本国営放送機構 大阪支局

 

 

 

 

 




《後藤陸将さんからの補足》

1 アメリカ大使館包囲事件ですが、調べたところ史実ではアメリカ大使館は太平洋戦争勃発後、一九五二年まで閉鎖されていたそうですので、包囲されていたところをGHQの本部ビルとしました。
  しかし、こんなところ包囲したら当然のことながらヤバイこととなります。結果として、死傷者多数の凄まじい弾圧事件となってしまいました。

2 大手新聞社はソ連の回し者から情報を得て、それを記事にしたと考えています。普通こんなこと記事にしたらただではすみませんから、それなりの謝礼がソ連から支給されていたのでしょうな。

3 戦後、この世界では海上自衛隊という名称になるのかどうか分からなかったため、ひとまず海軍としておきました。

4 こんごう(金剛)は史実では平成五年就役ですが、平行世界ということで史実よりも早く就役しています。
  この世界では朝鮮戦争でソ連と戦ったこともあり、ソ連の対艦ミサイル飽和攻撃への対処法としてイージスシステムを導入することも早期に決定、実行に移していたと考えています。

5 総理大臣のモデルとなった方は、史実ではこの時期は総理の座から退いておられましたが、歴史が変わったこともあって史実よりも任期が長かったという想定です。(まぁ、この慰霊祭の翌年には退陣しているでしょうが)

6 後日ですが、本編の時間軸、つまりGHQ包囲事件がなかった時間軸におけるこの作品のエンディングも作成し、投稿する予定です。


ピロシキィからの補足

海軍の呼称は海上自衛隊ではなく日本国海軍呼称です。
そうなると国防省が正しいのでしょうが、防衛省という呼称で考えてます。
その辺は戦後政治の歪な形での影響と考えていただきたいと思っております。

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