提督(笑)、頑張ります。 外伝   作:ピロシキィ

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後藤陸将さんからの寄稿です。

ありがとうございます。


History was changed at the momentⅡ[前編]《承》

 

 

「ゲストのご紹介です。太平洋戦争シリーズの第一回、第二回に引き続き、作家の司波次郎さんにお願いします。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「まぁ、しかし……長野とハルゼーの経歴というのは、意外と似たものなのですね」

「ええ。長野とハルゼーは年齢にこそ一回りの差があり、役職や階級にも差はあれども、直接海軍の航空部隊に関わり始めた時期はそれほど変わらなかったんですね。また、どちらもパイロットとしての資格も有しており、航空機の有用性を早期から理解していました。正規空母の艦長をしていたところなど、共通点は多いんです。後は二人ともとても頑固な人物として知られていますね」

「頑固ですか」

「ええ。ハルゼーは太平洋戦争中、ある問題児だった部下を解任せよという指示を受けたのですが、最後まで彼は頑強に抵抗し、結局はハルゼーの承諾を得ることも無く更迭を強行するしかなかったそうです。また、長野も間違った意見であればそれが上官だろうが躊躇することなく挑み、完璧な理論を持って論破していきました。彼は、大日本帝国海軍内では絶対的な存在であった軍神、東郷平八郎にすら恐れることなく挑んで論破したというのですから、自分の頭脳にも確固たる自信を持ち、かつかなり頑固な性格だったのでしょう」

「なるほど。では逆に、両者の違いは主にどんなところにあったのでしょうか?」

「やはり、両者は性格に大きな違いがあったと思います。ハルゼーは、例えるのであれば蜀の張飛やマケドニアのアレキサンダー大王のような典型的な猛将タイプの人物です。敵は真正面から圧倒的な力で叩き潰す。よく言えば豪快な、悪く言えば粗野な立ち振る舞いで周囲を自分のペースに巻き込んで突き進んでいき、周囲の人たちに自分を追いかけさせるタイプのリーダーシップが彼の大きな強みだったと私は思いますね。真っ直ぐで、大きな人物であるために周囲から目立ち、頼れる、安心できる存在というのは、人知れず周りの人間を纏う空気で一つの集団として束ねる力がありますから。また、ハルゼーのある上司曰く、ハルゼーはデスクワークを蛇蝎の如く嫌い、公式文書や公の場でのスピーチでも、使う語彙は極めて少なく、陳腐な表現やスラングが並ぶ、よく言えば単純明快な――悪く言えば粗野で下品な言い回ししかできず、知的な印象は全く受けないタイプの人間だったそうです」

「では、一方の長野はどのような人物だったのでしょうか?」

「長野はハルゼーとは対照的ですね。例えるのであれば、孔明や竹中半兵衛のような智将タイプということになるのでしょうか。彼らは人間的な魅力という中々目に見えないもので人を惹きつける猛将タイプと異なり、実績という目に見えるもので周囲の人を惹きつけます。そして、長野には常人では思いつかないような奇抜な発想、それを実現するまでの綿密な計画、相手の策を即座に看破し、更には相手の次なる戦略を予測する優れた洞察力、不測の事態に対する最適解を瞬時に弾き出す頭の回転の早さがありました。それらを武器に長野は武勲を重ね、周囲の信頼を得ていきました。しかし、彼自身は人と積極的に接しようとする人間ではなく口数も少なかったと言われていますから、人を惹きつけるような人柄ではなかったと思われます。ただ、自分自身をアピールしようと行動をすることもなく、他人の感情よりも持論の正しさを優先するところがありましたから、他人の感情の機微――とりわけ、他者から自身に向けられる感情についてはかなり疎かったのでしょう。多少、自己中心的な傾向があったとも考えられます」

 

「真珠湾攻撃によって幕を開けた太平洋戦争。真珠湾奇襲による成果を最大限に活かそうとする大日本帝国海軍聯合艦隊と、深刻な戦力不足の中、どうにか戦力回復までの時間を稼ごうとするアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊。それぞれの立場を違えども、長野もハルゼーも海軍軍人としての本分を果たすべく邁進します。そして、彼らの奮闘は様々な人物の目に留まることになるのです」

 

 

 

 

 

 昭和一六年一二月八日

 

 日本海軍航空部隊の真珠湾奇襲攻撃。

 海兵隊の戦闘機をウェーク島に輸送して帰港の途中であった空母エンタープライズに搭乗していたハルゼーは、この報告をホノルル西方二四〇kmの海上で聞き、怒り心頭に発します。

「卑怯者の猿共を血祭りにあげろ」

 アメリカ合衆国艦隊司令長官のハズバンド・キンメルから洋上の全艦船の指揮権を得たハルゼーは未だにハワイ近海にいるはずの日本海軍航空部隊を捜索する命令を発します。

 この時、ハルゼーはハワイからの情報を下に、敵部隊は空母を最低でも六隻ともなう部隊であり、退避針路は北西だと予想。北西に大規模な捜索網を構築しましたが、ハルゼーが構築した捜索網も、巧妙に擬装針路を取りつつ西進した日本海軍航空部隊を捉えることはできません。

 もはやこれ以上目視による索敵は困難であり、真珠湾奇襲からかなりの時間が経過していることから日本海軍航空部隊は既に索敵圏外へと逃亡に成功した可能性が高いと判断したハルゼーは日没を持って捜索の終了を宣言します。そして、彼の率いる艦隊はそのまま真珠湾へと帰港の途につきました。

 しかし、真珠湾に戻ったハルゼーを待っていたのは、彼の想像を遥かに超えた惨状でした。

 海を覆う怪しく光る濁った黒。

 その正体は、空襲によって破壊された重油タンクから流れ出した大量の重油でした。

 日本海軍航空部隊はこの空襲における最優先目標を空母、次に戦艦以下艦船、そして重油タンクと設定していました。真珠湾に空母が停泊していなかったため、空母こそ沈められませんでしたが、日本海軍は湾内に停泊していた戦艦を一網打尽。さらに戦艦ネバダは主水道にて沈没させ、港湾機能を大きく損なわせることに成功します。

 重油タンクもまた徹底した爆撃により損傷。六〇万tの重油が湾内に流出しました。重油に覆われた海面は艦船の航行にも影響を及ぼし、さらに大量の重油が放つ悪臭は、軍港やその周囲の街にも充満。多数の軍人や住人が健康被害を訴えるに至り、アメリカ海軍は真珠湾内の一部地域を立ち入り禁止にする措置を取らざるを得なくなっていたのです。

 この光景を見たハルゼーは、激怒しました。

「われわれが奴らを始末する前に、日本語は地獄だけで話されるようになるだろう」

「日本人には、この借りを一〇〇万倍にして返す。エンペラーのパレスはクソまみれにし、港と言う港を機雷で封鎖して二度とヤツラが海に出られないようにしないと、俺の腹の虫がおさまらん」

 ハルゼーの凄まじい剣幕に、空母エンタープライズに乗っていた幕僚たちは震え上がったといいます。

 

 しかし、ハルゼーの思いとは裏腹に、アメリカ海軍が日本海軍に対して即座に攻勢に出ることはできませんでした。

 当時アメリカ海軍が保有していた戦艦は一七隻。その内八隻は欧州戦線への備えとして大西洋に、一隻は西海岸で修理中、残りの八隻が真珠湾に停泊していました。その八隻が全て失われたことで、アメリカ海軍は攻勢に出ることができなくなります。

 アメリカ海軍が保有する正規空母は大西洋に四隻、太平洋に三隻配備されており、太平洋に配備されていた空母は幸いにも無傷で残っていましたが、対する日本海軍の保有する正規空母は倍の六隻。 また、アメリカの同盟国のうち太平洋で日本海軍と戦いうる戦力は、シンガポールに配備されていたイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二隻を中心としたイギリス東洋艦隊のみ。

 さらにイギリス東洋艦隊は真珠湾攻撃から二日後、マレー沖海戦にて日本海軍の陸上攻撃機の空襲によって壊滅。これにより、アメリカ軍は日本海軍の有力な部隊と渡り合える戦力を完全に喪失します。

 空母は三隻が無傷で残っているとはいえ、戦艦の数、空母の数で優る日本海軍に、現状の戦力で挑むのは厳しい。そう考えたアメリカ軍は、太平洋戦線を早期に決着させることを早々に諦めざるを得なかったのです。

 

 アメリカ海軍の苦難はそれだけではありません。

 アメリカ領グアム島、ウェーキ島の二つの島も、真珠湾攻撃の直後に攻撃を受け、守備隊の必死の抵抗も空しく陥落していたのです。

 グアム島、ウェーキ島は、日本陸海軍にとって、日本からマーシャル諸島まで南東に延びる作戦線上の中間点に位置し、ここに敵戦力を放置しておけば作戦上の障害となる可能性がありました。

 また、ウェーキ島は最も近い陸地であるエニウェトク島からも八〇〇km余り離れているという立地上、太平洋上の航空機の中継基地としての能力を有しています。実際に、アメリカ海軍はハワイからグアムを経てフィリピンに向かう中継地として整備しており、開戦前には太平洋を横断する民間の航空機の給油地としても使われていました。

 この二つの島の攻略は、アメリカ軍の作戦行動範囲に大きな制限をかける意味を持っていたのです。

 ウェーキ島への攻撃は、真珠湾攻撃の数時間後、クェゼリン環礁のルオット島から出撃した三四機の陸上攻撃機と一二機の戦闘機の空襲によって始まりました。

 空襲を受けるまで日本海軍航空部隊の襲来に気がつかなかったウェーキ島守備隊は、この空襲によって配備されていた戦闘機一二機の内一〇機を失い、さらに滑走路にも甚大な被害を受けました。

 同日に行われた陸上攻撃機二〇機、一二機の戦闘機による第二次攻撃も、陸上攻撃機三機と戦闘機一機の撃墜と引き換えに滑走路修復作業に当たっていた多数の土木機械を破壊。ウェーキ島守備隊は全ての航空戦力を喪失するに等しい状態となりました。

 一二月二二日、真珠湾攻撃からの帰途にあった艦隊から派遣された戦艦によるウェーキ島への艦砲射撃は辛うじて残っていた対空火器や陸上砲台を壊滅させます。戦う術をほとんど奪われたウェーキ島守備隊は強襲上陸を試みる海軍陸戦隊に果敢に挑みますが、航空部隊と戦艦部隊による支援を受ける陸戦隊の前に劣勢に立たされ、強襲上陸から半日で指揮官を捕らえられたために降伏を余儀なくされました。

 さらに、一二月一〇日には、日本陸軍から派遣された攻略部隊の手によってグアム島が陥落しました。

 

 太平洋艦隊の最重要拠点である真珠湾に大きな被害を受け、さらにはグアム島、ウェーキ島などの要地を失ったアメリカ海軍は、反抗の準備が整うまでの間、ハワイからミッドウェー、及びサモアからオーストラリアのラインを保持することに全力を傾けるほかなかったのです。

 

 しかし、アメリカ建国以来最大級の大打撃を受けたにも関わらず、当時のほとんどのアメリカ国民には厭戦感情は全くありませんでした。

 実は、真珠湾奇襲前のアメリカの主要メディアによる世論調査によれば、対日開戦に賛成する国民は二割ほどにすぎず、上下院の議員の大半もまた、対日開戦に反対の立場を表明していました。

 それを一気にひっくり返したのが、真珠湾奇襲の報でした。

 宣戦布告の前になされた真珠湾奇襲という「騙し討ち」、そして、当時の一般的なアメリカ国民が抱いていた白色人種優越思想に端を発する「格下の人種によるアメリカの領土への攻撃」に対する怒りは、アメリカ国民を恐怖で震え上がらせるどころか、逆に対日戦への戦意を高めることに繋がったのです。

 アメリカ国民とアメリカ海軍は日本に対する憎悪を持って団結し、守勢にも耐え、反抗の機会を今か今かと待ち望んでいたのです。

 

 

 

 一方の日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊が受けた大打撃を最大限に利用し、南方への進出を強めていきます。

 戦艦を全て行動不能とされ、動かせる空母の数で日本海軍に大きく劣るアメリカ太平洋艦隊には、一〇隻の戦艦と六隻の正規空母を有する日本海軍に正面から挑めるだけの戦力は残されていません。

 アメリカ海軍の活動が消極的なものとなっているこの隙をついて、西太平洋・インド洋に進出した日本海軍航空部隊は各地で瞬く間に制空権を奪取します。制空権を確たるものとした日本海軍は、上空からの支援を受けて制海権もまた確固たるものとすることに成功。

 制海権、制空権を不動のものとした日本にとって、南方の資源地帯を守備する戦力を撃破することは困難なことではありませんでした。日本海軍・陸軍は南方の資源地帯を次々と奪取し、極東におけるアメリカの拠点であるフィリピンや、イギリスの拠点であるシンガポールも瞬く間に日本の手に落ちました。

 日本海軍の前に立ち塞がることができる戦力は、もはや日本陸海軍の向かう先におらず。日本陸海軍はその後も破竹の勢いで進撃を進めます。

 

 

 

 真珠湾攻撃を立案した山本が当初思い描いていた、真珠湾奇襲によってアメリカ海軍とアメリカ国民の対日戦への戦意を削ぎ、厭戦気分を蔓延させるという一撃講和論は、「リメンバー・パールハーバー」を旗印に掲げて団結したアメリカ国民の前に消滅しました。

 しかし、彼が聯合艦隊司令部に引き入れた長野が海軍大学校にいたころから思い描いていたアメリカ海軍の主力部隊を叩き、アメリカ海軍が再起するまでの間に戦争継続能力の要となる資源地帯を電光石火の進撃で奪取するという基本戦略は、ほぼ成功を収めていました。

 

 

 

 日本陸海軍の快進撃と、それを止められないアメリカ海軍、そんな中で、日本陸海軍に対する戦果を望むアメリカの世論――そんな中、アメリカ海軍内である作戦案がアメリカ合衆国大統領、フランクリン・ルーズヴェルトの命で検討されていました。

 

「日本本土攻撃」

 

 戦艦も空母も失い、日本の対潜哨戒網を潜り抜けられる潜水艦もない当時のアメリカ海軍にとっては、まさに夢物語のような計画でした。

 しかし、この計画はある一人の軍人の閃きによって現実のものとなります。 

 

 

 

 昭和一七年一月

 

 ノーフォーク海軍基地で最終艤装工事を行っていた空母、ホーネットの視察に訪れていたアメリカ海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー大佐は、海軍の訓練用飛行場で陸軍の爆撃機が訓練を行っている様子を見てこう呟きました。

 

「陸軍の爆撃機を空母に積めば、日本本土を空襲することはできないだろうか」

 

 ローは早速このアイデアを計画としてまとめ、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官に伝えます。さらにそのアイデアはヘンリー・アーノルド陸軍航空軍司令官に伝えられ、二月には実際の空母を用いた陸上爆撃機の発艦実験も行われました。

 

 

 

 それは、長野とハルゼーの因縁の始まり、ドゥーリットル空襲の二ヶ月前のことでした。

 

 

 

 

 

 

ふぅ。ブルドックメインで良かった。心のダメージがいつもより少ないわ。

 

しかしハルゼーさんねぇ…。

 

暗号漏れ改善されないから、ムシャクシャして暗号とか時には平文を使ってアメリカの大統領とか英国の首相とか将兵の事を煽ったり、何処何処に愛人囲ってるとかのスッパ抜きやったけど…。

殺意的な人気ナンバーワン獲得したのはこれもあったんじゃないだろうか。

 

──肯定。米国情報局ではサタデーゴシップと言われていたようです。

 

…へぇ。

 

──さすが孔明(笑)ですね。

 

やめろっ! ぶっとばすぞ!

 

 




《後藤陸将さんからの補足》

1 真珠湾の惨状は、長野の入念な根回しの結果です。
  ネバダも史実では間一髪で主水道への沈没を免れていましたし、真珠湾の重油タンクも史実では十分に攻撃するチャンスがありましたから、真珠湾攻撃の結果を知る長野であれば掴み取れたであろう史実真珠湾攻撃におけるプラスアルファの戦果の内、これくらいなら実現できるのではないかと考えた次第です。
  港湾の艦船修理施設の破壊も考えましたが、戦艦や空母といった艦船を主な標的とする以上、第一航空艦隊の航空戦力ではとてもドックなどを復旧不能にするだけの戦力を避けないはないでしょうし、仮にドックに大ダメージを与えたとて、アメリカの工作能力であれば半年から一年ほどで港湾施設の復旧を八割方達成できそうだと思います。
  どうせそれぐらいの期間はそもそも太平洋に戦力が足りてない以上、真珠湾の艦船修理施設の損傷がアメリカ海軍の動きに与える直接的な影響は小さなものに留まるでしょうし。
  逆に、当時のほぼ無防備な重油タンクの状況を鑑みるに、艦船の次の標的として重油タンクを指定すれば、重油の流出ぐらいならば爆撃で十分可能であると私は考えています。流石に、航空機に搭載できる爆弾の火力で大規模な重油火災を引き起こすことは難しいでしょうが、大量の重油が流出すればそれだけで大事故ですから、費用対効果で考えればかなりの打撃をアメリカ海軍に与えられたのではないかと考えます。


2 ウェーキ島攻略部隊の最高指揮官(というよりも、中部太平洋方面を管轄する第四艦隊の司令長官)である井上成美中将は、長野との交流を経て胃壁と頭皮への大ダメージと引き換えに航空母艦の有用性を早期から理解するようになったという独自解釈をしています。
  また、井上中将は航空機の能力と限界、アメリカ軍の恐ろしさを理解するが故に陸攻だけではどうやっても沿岸砲台は叩ききれないと理解していました。そこで、ウェーキ島攻略戦では陸上砲台をガン無視して滑走路と離陸前の戦闘機を全力で潰し、沿岸砲台の始末は真珠湾帰りの第一航空艦隊から比叡と霧島を借りて艦砲射撃で済ませた方が確実だと判断。
  史実における第一次攻撃を徹底的に滑走路と航空機を標的にしたものに切り替え、それらを始末した後はウェーキ島を包囲するに留め、金剛型二隻の艦砲射撃後に上陸部隊に強襲上陸を命じました。結果、ウェーキ島は史実と違い哨戒艇と陸戦隊以外の犠牲をほとんど出さずに攻略に成功――なんて経緯を考えていたり。


3 ハルゼーの台詞や性格の分析は自分なりの解釈です。繰り返しになりますが、ハルゼーに関しては本編において具体的な言及はあまりないため、今後も自分なりの解釈で描写していくことになりますのでご了承下さい。


《ピロシキィからの補足》

某週刊誌的に大体、木曜日に煽り暗号とかゴシップやって次の日に解読されるだろうと踏んでたようですがなぜかサタデーになってしまったようです。

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