「お帰りなさい。遅かったですね」
木製の小洒落た椅子に座り、本に向けていた目をこちらに向け、微笑んで迎えてくれた。いつもと変わらないのだが、やはり安心する。
「ただいま、俊。亜里沙はもう帰ってる?」
「ええ。亜里沙さんでしたら自室に」
「分かったわ。ありがとう」
もしかしてわたし、全然心配されてない?
そう思ってしまうほどに俊は帰った時間についてもノーリアクションだった。問いに答えると、また本に目を戻す。過干渉も腹が立つが、ここまで無干渉すぎるのも嫌なものだ。
「ねえ、何も言ってくれないの?」
「…どういう意味です?」
「ちょっとくらい心配してくれたって良いじゃない?」
「不要だと知っているからですよ。貴女は強いお人ですから、私の労いは必要ありません」
いつもこう言って、やんわりと敬語で断ってくる。流石に私も傷付いてくる。が、彼は変な所で頑固だ。これ以上言っても折れないことは知っている。
「今日はなに読んでるの?」
「創世記。これは中々に興味深いものです。見ていて飽きない」
「チョイスが凄いわね…どうしてまた創世記?もっと他にあるでしょ…」
何故弱冠15歳の少年が背もたれ付きの椅子に背筋を伸ばして座り、正典を読んでいるのか。
「昨今、巷では中二病という病が流行っているそうです。ヨハネの黙示録、ノアの箱舟等は中二病が発症した人間が使う言葉の代表例とされていますので。創世記だけを読んでいます」
「……ん?」
「しかしこの病は大変興味深いものです。中二病患者の症例からすると、これは「自分が特別」だと思い込むそうです。その点だけ言えば持続性妄想性障害に病状が似ていますね。言ってしまえば誇大妄想の悪化が一番有力な説かと…」
「…中二病は病気じゃないわよ?」
「え"…」
多分本気で知らなかったのだろう。もの凄い怪訝な顔で俊はわたしを凝視する。お願いだからそんな目で見ないで。わたしが変なことしたみたいじゃないの。
「では中二病は一体どういったものなのですか?私が記憶している最も重い症例は、「自分の右手には悪魔が封印されている」というものですが…これは精神疾患ではないというのですか?」
「違う。ぜんっぜん違う。良い、俊?それはそういう事にしておかないとかっこよくないからなの。中高生は大人になりたい年頃だから、自分は他よりも子供じゃないっていう妄想が、行き過ぎるとそういうファンタジックなことになるのよ。それにあなたのは、あくまで最も重い症例の話でしょ?」
中腰になり、椅子に座っている俊に目線を合わせてそう言い聞かせる。これって言ってるこっちも恥ずかしいんだけど?
「なるほど…一応納得出来ますね。流石は絵里さん。やはり博識ですね」
「普通俊の年齢ならこの話題でも盛り上がれるんだけど…」
一歩も外に出さないのはやり過ぎだっただろうか?でも、そうでもしないと俊の身に何かあったら手遅れになる。普通の人間なら治療すれば治る傷も、俊が負えば手術が必要なレベルになるのかもしれないし、何よりこの状態の俊を外に出すのはあまりにも危険だ。何せ一般常識に疎い。
「学校で何かあったのですね?」
こちらを見て、不意に俊がそう言った。
「…どういうこと?」
「隠すのが下手ですね、絵里さん。表情が動いてから喋り始めるまでに間がありましたよ」
どうもこういうことでは俊に敵いそうもない。こちらを見透かすように真っ直ぐ見つめる黒い瞳は、魅力的でありどこか不気味でもある。
「まあ言いたくないなら言いたくないで構いませんよ。別に尋問してるわけじゃないんですから」
「ごめんなさい。そんなに分かりやすかったかしら?」
「ええ。かなり」
何も言えなくなる。そこまで見透かされているのに、今の今まで隠し通していたつもりだったわたしが恥ずかし過ぎる。思わず両手で顔を覆ってしまう。
「…いつから?」
「絵里さんが「亜里沙は?」って言ったあたりから」
「もう最初の方じゃないの…」
「顔に出やすいのですよ、あなた達姉妹、特に絵里さんは。それなのにいかんせん普通の身体なのにオーバーワークが目立つ。あなたが普通に帰ってきたことなんて片手の指で数えられるほどしか無いでしょう。私は毎回極度の疲れ顔を見せられるのですが?」
耳が痛い。正直、隠せばバレないだろうと思っていました。はい。
「まあ、言いたくなったら言って下さいね。その時はできる限りお手伝いしましょう」
「ありがとう。ごめんなさいね」
「問題ありません。それより、そろそろですよ。多分もうすぐで––––」
「お姉ちゃん、俊さん!
「––––ね?」
「ハラショー…」
まさか頭が良すぎるとこんな未来予知じみたことが出来るようになるのか?もしそうなら、わたしはもう少し物覚えが良い程度のレベルに止まっていたい。
「亜里沙さん、あまり大きな声を出してはいけません。それで、どうしました?また古典ですか?」
「日本語って難しいんですね…日本人さんはこんなに難しい言語を使ってるんですか?」
「日本語は世界で最も習得が難しい言語ランキングでもトップ10入りしてますからね。地道な努力が大事ですよ。それで、どこで詰まっているのです?」
何事もなかったように会話が展開されていく。もしかして、この状況がおかしいと思っているのはわたしだけ?
「絵里さんも、ね?」
「そうね。何かあったら頼りにするわ」
でも本当に危なくなったら…その時は…
◆◆◆◆◆
「ドアが閉まりきっていない。いやはや…生徒会長というのも大変ですね。結構早く起きたはずなのですが…」
翌日の朝。目が覚めてベッドから起きると、既に絵里さんは登校しており、亜里沙さんは制服姿でテレビを見ていた。
「お早うございます。絵里さんはもう学校ですか?」
「うん。今日は生徒会で会議なんですって」
亜里沙さんって何時に起きてるんだ…?
「それより朝ご飯ですよ。亜里沙さん、リクエストとか、あります?」
「とりあえず俊さんが朝食を食べることを
ふくれっ面で亜里沙さんがそう迫る。優しさが身にしみるが、そんなことを言っている場合ではない。
「大丈夫ですよ。私は慣れてますから、断食」
「いけません!そんなんだから女の子みたいな体型なんですよ!」
「はい…すみませんでした…」
結構グサリと来る。自覚はあるけど、自分で思うのと他人から言われるのはだいぶ違う。
「いつも思ってましたけど、いい加減何か食べてください。今すぐ!」
「はあ…分かりましたよ」
とりあえず菓子パンだけでもいいから口にしよう。亜里沙さんの面倒見の鬼っぷりは姉譲りなのかもしれない。
『昨日午後7時頃、江東区のマンションの一室で男性が腹部から血を流して倒れているのを男性の母親が発見しました。男性は意識不明の重体で、今も病院で治療中とのことです』
ニュース番組では殺傷事件が報じられていた。母親は涙ながらに犯人を捕まえて欲しいとテレビクルーに訴えていた。
「江東区って…そんなに離れてないですね。私たちも気を付けなくちゃ」
「先ほどテレビに出ていた被害者のお母様は何か知っていますよ」
「……へ?どういうことですか?」
「…菓子パン美味しい」
うっかり口が滑ってしまった。とりあえずそう言ってはぐらかしておく。この方法はさすがに不謹慎過ぎる。亜里沙さんに真似して欲しくない。
「亜里沙さんも学校でしょう?速く準備しないと、また高坂さんに叱られますよ。後片付けは私が引き受けますから」
「そうだった…怒った雪穂は怖いからなぁ…じゃあお願いします、ごめんなさい俊さん!」
「ええ。気を付けていってらっしゃい」
程なくして、玄関の方からドアがバタンと閉まる音が聞こえた。かなり大きかったあたり、相当焦っているのだろう。高坂さんに怒られる、というのはあくまで亜里沙さんが待ち合わせに遅れたらの話なのだが。
「やはり良いものですね…これも青春というものなのでしょうか?」
年甲斐もなく、そんなつまらないことを呟いてしまった。まだ15歳の子供が言うべきことではなかったのだろうか。
本編開始前に亜里沙との絡みを書いておきたかった。というわけでプロローグと同じようなものです。本編は次の話からです。