朝。それは変わらぬ日々の始まりであり、繰り返される日常は人々に安心
そして――
見知らぬ天井――いや、天井を見た記憶がない。何故なら人は目覚めて視覚情報が意味を成す頃には起き上がっているからだ。
布団の中で閉じ籠っていては記憶として浸透しない。目覚めの鐘が鳴り響く中、静寂を取り戻し再び夢心地となったとしよう。その目覚まし時計は誰が止めたのか。自分しか居ないにも関わらず、それを記憶として留めておけないのだ。
「うむ、大きすぎず、それでいて小さくもない。しかしながら確かな満足感。柔らかく、いつまでも揉んでいたい多幸感すら覚えてしまう」
俺は一体何を言っているのだ。しかしこの感覚、止めるに止められない。某かっぱ以上に止まることなく永遠に揉み続けられる。
視界の端に映る影。ふと顔だけを右へ向けると、そこには公園のベンチで食事を摂る中年サラリーマンへ向ける視線と同じものが向けられていた。要するに可愛そうな人へ向ける憐憫さ……とは少し違うが、哀れみを放っているには違いないだろう。ふすまから覗かせる顔。この表情に言葉を付けるのなら「うへえ」がお似合いだ。
「お姉ちゃん、なにしとんの……」
何と言われても「おっぱいを揉んでいます」としか答えられない。しかし子供に対して正直に答えられるだろうか。いや、友達でもそんなことは言えない。
「ご・は・ん! はよう
ピシャンと勢いよく扉は閉められた。引き戸だった。俺の部屋は開き戸なはず。そんな矛盾を考えながらも、その手は未だ丘陵地帯の探究に勤しんでいる最中だ。
ドアの向こうから「おばあちゃああーん」と聞こえた声を努めて無視し、再び顔を下に向ける。
「うーむ……」
やはりこれはおっぱいだ。そしてこの部屋、和風ながらも年頃の女の子が使っていそうな装飾品に溢れた可愛らしい内装。
制服。それはある種のステータスであり、女子高校生の特権とも言える武器である。なんせ制服を着ているだけで可愛いのだから女の子ってやつは卑怯で、それでいて卑猥だ。
ふと自分より年下の女の子に投げ掛けられた言葉を思い出した。あの女の子は俺のことを“お姉ちゃん”と呼んでいた。つまり俺は姉に分類されるのだろう。そしてご飯を知らせに来ていた。朝ご飯は大切だ。それを食べるか否かで昼までの人生が一変してしまう。昼までの空腹にただただ耐え続けるか、我慢しきれずに早弁をして午後から空腹に再び飢えることとなるか。そんな苦行を強いるくらいなら朝ご飯を食べるに越したことはない。
布団の温もりを惜しみつつ、俺はようやく立ち上がった。朝日の眩しさに若干目を細め、全身鏡の近くへと向かう。するりとパジャマが肩から外れ、その全身を顕にした。首元が伸び切っているのと、パジャマがワンピースなことが合わさり一糸纏わぬあられもない姿と――いや、流石に下着だけは穿いている。
「なるほど……なるほど!」
このリボンは一体何のために着いているのだろう。ただのオシャレだろうか。隠れて見えない場所でも女の子という生き物は気を使っているのだろうか。実に興味深い。欲を言うならばその探究心が詳細を要求しているのだが、今はそんな状況ではない。なんせ鏡に映し出された姿は、半生を共にした我が身とは全くの別人。更には性別すら違うのだから。
そう、おっぱいを揉むことは決して俺が変態だからではない。男性と女性を隔てる壁。そこに胸があるのだと俺は思っている。おっぱいを揉むことは、その
それにしてもこのスカート。例えるのなら、風呂上がりにズボンを穿かずタオルを腰に巻く感覚に似ているのだろうか。膝から五分の四くらいでスカートの丈は終わっており、これではふとした拍子に下着が見えてしまう。
だがしかし、俺の記憶を探ってみるもパンツを見た経験が一度もない。たかが腰巻き。されど腰巻き。女の子たちが階段でスカートを隠す意味が、ようやく理解できた気がする。
スカートの折り目。この間にポケットが縫われており、ハンカチやちり紙を収納できる。ズボンのポケットと同じ大きさだが、スカートは肌に密着していない。鍵など形の分かる物を入れてもスカートが膨れないのだろう。今まで膨らんだスカートを見た記憶が無いことがその証明となる。
ズボンと同じくチャックがありホックがある。しかしバンドを通す場所が見当たらない。くびれ――基、腰で支えるのだ。女の子のお腹がくびれているのは、スカートを支えるために窪む必要があったのだろう。
バンドが無いことでずり落ちないだろうか。些かの不安を抱きつつも、俺はスカートを穿き終えた。
「そう言えば制服って肌に直接着るんだっけ?」
ワイシャツであれば中にTシャツやタンクトップを上半身用下着とするが、男である俺が女性服の構造を理解しているはずもない。
記憶を手繰り寄せてみると、ジャンプしたりバンザイをしたときの女の子は下着ではなくお腹を見せていた。少年漫画を参考にすべきかは若干疑問だが、この際気にしていても仕方がない。
「う……うーん……これで合っているのか?」
生まれて此の方、女物の制服なんて着たことも着るところも見たことのない俺に正誤なんて分からない。
上の制服を着たことで気づいたのだが、どうも髪の毛が鬱陶しい。顔を動かすたびに襟に擦れて邪魔でしか無いのだ。首が隠れることで放熱性が削ぐなわれ、蒸れるような暑さを倍増させている。
鏡の近くに置かれた縫い紐――ではなく、うどんのように太いゴムを手に取った。女性の髪型なんて意識したことのない俺は、手っ取り早いポニーテールを選択した。鏡で確認してみるが、上場の出来だ。実に良いポニーテールに仕上がっている。
「よし! 準備できたし朝食だ――ッ!?」
みんなは朝起きたら何をするだろう。俺みたいに真っ先に制服に着替える人が居れば、別の行動を取る人も居る。
――そう、トイレだ。
こればかりは我慢するわけにもいかず、廊下に出た俺はト……いや、お花畑を探しに各ドアを散策している。一目瞭然と言うべきか、ここだけ開き戸なこと、そして扉に付けられた半透明な硝子が特徴的だ。
これをお花畑と言わずに何を花園と言うのか。逆に問いただしたいほどの様式美。念には念をと扉を叩き、一方通行となった音に安堵しながら俺は中へ足を運んだ。
洋式だった。これが和式だったら男でも用の足し方が分からず二の足を踏んでしまうが、取り敢えず先手を取れたことは大きい。
立ってはしない……よな、うん。戦前の日本は女性でも立って用を足す地域があったが、今も立つ女性なんて居ないだろう。立ちション用のキットは存在するが、流石に日本では……海外でも普及などしていないはずだ。バツの付いたとある漫画家は楽だからと立ちションをした経験があったが、例外を上げてもきりがない。ここでは俺がどうしたいのかが肝心なのだ。
胸ポケットに忍ばせたスマートフォンを手に取った俺はすぐさま検索をした。困った時は聞けば良いのだ。現実では聞けないことも、顔も知らないネットでなら気軽に話し合うことができる。導き出された結果から、俺は有意義な情報が載っていそうなページを選択する。
その一、便器の蓋を開ける。いや、これは書かなくても分かるだろうと心の中でツッコミを入れつつ先へ進んだ。
出先など第三者が使うトイレでは便座の消毒、または簡易シートを乗せる。用意されていない場合はトイレットペーパーを丸め、便座を覆うように配置する……え、そうなの? 女って意外と面倒というか気を使う生き物なんだな。
脱いだ
――このとき瀧は気づけなかったが、トイレの床とは雑菌にまみれているのだ。共用では立ちションをして飛び散ったものが床に落ちてしまい、そこに服を晒すなど以ての外である――
迂闊だった。便器を後ろにしてからスカートを下ろすべきだった。このまま半回転して転んでは目も当てられない。面倒に思いながらもスカートを戻し、背中を便器に向け、再びスカートを下ろしている。座ってからでは下着の方のパンツが脱げないだろうと推察した俺は真なる花園へ手を動かした。
柔らかい。シルクのような触り心地の下着に手を当て、緊張で震えながらもゆっくりと、しかし確実に脱いでいく。肌に密着するパンツは脱ぎづらく、絡まるように上の部分が丸まっていく。だが俺は動じない。今の俺は全身膀胱人間。膀胱マンならぬ膀胱レディーだ。下手な動揺は膀胱レディーの一人用ダムを破壊しかねない。
便座に腰掛け、緊張した筋肉を弛緩させる。湯気により暖かさを纏う下半身。全身をぴくりと震わせ、鳥肌が立つ感覚にその身を沈ませる。身体が軽くなり、不安の一つが解消された俺は惚けた表情で短い時を過ごした。
しまった! スマホを落とさないようにとスカートのポケットに入れたことが不幸を招いてしまう。俺が男だったら松茸を上下し事足りるのだが、このままどうパンツを穿けばいいのかが分からない。流石に用が付いたまま穿くことは憚られる。
拭くべき……だよな。うん、これは決して触りたいとかやましい気持が誘導させているのではない。便座に腰掛けてから拭くことは男の時もやっていたではないか。なんらおかしなことではない。
俺はトイレットペーパーを数回折り、秘境へと手を伸ばした。と、その時瀧の脳裏にトイレトレーニングサイトの一文が浮かんできた。神は言っている。「瀧よ、前から後ろへと拭くのだ」ありがとう神さま。
慣れない姿勢に戸惑いつつも、俺は背中方向に手を伸ばし、普段とは逆の姿勢で拭くことが決定した。というか既に拭いている。マシュマロのように柔らかな手触りに顔を赤らめながら、俺はトイレットペーパーが染みなくなるまで何度もマシュマロンした。何度もいうが決して触りたくて触っているのではない。これも一種の事故、仕方がなかったんだ。
拭き終わった俺はパンツを穿き直し、スカートのホックを止め――
「へぶらっしゃああああああああああ!!」
危ない! ポケットから滑るように落下するスマートフォンを既のところで受け止め、なんとか大惨事を招かずに防ぎきれた。冷や汗でベタついた服をぱたぱたとさせ、涼しさと共に冷静さを取り戻す。
安全牌としてスマートフォンを棚の上に置き、再びスカートを穿き直した。
はっとした俺は扉に視線を向けるが、妹に見られている、なんてことは流石になく胸を撫で下ろした。
水を流し手を洗っている俺だが、朝からどっと疲れてしまった。辛気臭い顔をしても仕方がない。俺はトイレという難問に打ち勝ったのだ。もう花園だのお花畑だの言っている余裕はないが、勝ち誇った顔でトイレを後にした。
扉を開けると、出待ち――いや、トイレ待ちをする妹と目があう。それはおっぱいを揉んだ俺を扉の隙間から覗いた時よりも口をへの字にさせ、言葉で表すなら「うへえ」が似合っていそうだ。ただの「うへえ」ではない。最上位の「うへえ」だ。
「はあ……お姉ちゃんは朝から元気やねえ」
こうして俺の摩訶不思議な体験は、幕を開けることとなった。