魔弾
────無謬。
鍛え上げられた性能が至る、鍛錬の極地。
無想。無我。それらを異にする無なる極み、天稟の位。
その深奥を、無謬といった。
「──ガッ、」
それは言葉でなく、体の大事な部分が砕けた音。
俺には、防げなかった。
織斑一夏には、追いつけなかった。
気づいたときには命中し、理解するころには体のなにかが破壊されている。
なんだ、なんだ。
なんだよ、この速さは。
正確に時を刻む絶対時計のメトロノーム、ゆえに裏を掻いた拍子を持たない無拍子の連携は、我ながら人生最高の完成度。頭がいいやつにほど嵌りやすい必中の律動は、全世界八〇人のイッピーファンを減少させるほどに痛々しい。対人戦で初手プリズムコンボ決める程度の鬼殺しだろ、大げさな。
なのに。
なのに。
ただの、刻み突きだと、思った。
それくらいわっかりやすい、動きだった。素人でもわかる綺麗なフォームだった。
理解できるものだった、だったが。
今この体を打ち抜く砲弾の痛みは、どんだけ友達なくせば成し得るという。
決まったはずだ。追いつけねえはずだ。どうしようもなくいやらしく攻めたはずだ。際どかった。この戦槌は五条大橋を突破することができると、疑いはなかった。
それすらも、周回遅れにして定められたレールを走る弾丸。
完璧な
魔弾の拳。
天才の砲弾。
刻み突き。
そういう空手の技がある。
流派によってその名称には若干の際が生ずるが、内包している武威はまず違わない。
空手における最速の拳撃。
適度に、前後に広げた足から、軸足で地面を蹴り飛ばして身体を射出。その前進する力を原動力に左腕を突き出し、踏み込むとともに打撃する技。実に簡潔簡素だが、否定をはさむ余地のない完成度を誇る。
誤解をおそれずに云うが、一説によると、その速さはボクシングのジャブを超える。
ジャブ。
中てることに特化した最速必中の拳。それを超える速さだという。
過言ではなく、全格闘技最速の体技とも名高い。
レールガン──
それは魔弾であった。
魔弾と言わしめる領域に完成させられた機構であった。
この理論を完成するにあたり、実装させられた工夫はおもに三点。
まず、関節の最適化。
人間の構造上、関節を用いない運動は不可能である。
歩くにしても、腕を振るにしても。膝を、肘を、もろもろの諸関節を、屈折させなければ質量の移動を行うことができないつくりとなっている。二足歩行という生物ゆえ、骨格に頼らなければ姿勢が維持できないゆえ、そのことは言うまでもないことだ。
ならば日常生活では使用することがない部分の骨まで稼動し得る格闘機動においては、わざわざ最適化などいうのは返っておかしいほどに当たり前だ。そも、構えや型というものはそういった点を効率よく動かす狙いがある──しかし笹目大地の駆動にかぎっては別である。
彼の行動はマニュアル制御である。
見・考・動の三連を手動している人間である。
ならば、その最適化という恩恵は、他の人間を圧倒して意味がある行いだ。
刻み突きの基点となる軸足の蹴り出し。屈折しバネになる膝が伸びて力を伝達する。さらに足首も稼動して力を生む。そられが足の裏を伝ってつま先に全指関節まで稼動させる──というすべての関節駆動を、
二つ目に、筋力を重視しないという点。
殴打の動力には体重を使用する。
筋力とはわかりやすい破壊力である。どんなボンクラだろうと、病弱だろうと、身体障害者だろうと、子どもでも大人でも、程度の差こそ確かにあれ、時間さえかければ絶対に誰でも手にできるもの。それが筋力である。筋肉がつきにくいような体質もあるが、筋肉がつかない人間はいない。
それを重視しない。なぜか?
筋力を使う運動は疲れやすい。
また、威力に柔軟さが著しく欠けてしまう。
筋肉が威力を発揮するには酸素が必要であり、そうした運動は当然ながら乳酸を貯蔵させる。疲労を蓄積させる。加えて、筋肉を力ませるために関節が固定されてしまい、伝達経路が定められてしまう。関節の駆動に支障が出る。さらに、肥大化した筋肉はその質量ゆえ、初動を遅延させ、また次弾へ繋がるにも流れを遮る。またまた加えて、せっかく生まれた速度を減退させる要因にも成りかねない。
いいことがない。
最速という観点では利点がない。
ゆえに、筋力を使うというより筋肉を動かすという感覚。四肢の、五体の質量を移動させるという感覚で運動することが必須となる。滑らかな体重移動を自由な関節で攻撃部位へと連動させ、全身の質量で打撃を成立させる。
また、そのような感覚ゆえに、踏み込むという動作が不要になる。
ごく自然な、理論的な、理想的な体重移動を行っているため、筋力家のようにわざわざ地面を踏みつけて威力を増進させる必要がないのだ。よく考えてみるといい。前方に拳を繰り出そうというのに、自身の真下を蹴りつける踏み込みなど、勢いを殺してしまって効率が悪い。
筋力を重視する運動では、筋力で無理に移動させた威力をその反動力で破壊力に無理やり転化している。現に、踏み込みのあとに別の行動がとり辛いのがいい例だ。
二点目の工夫はこれ。
第三の工夫は構えである。
いいや、正確には構えではない、というよりも構えていない。
構えを必須としていない。
無構え、というあえて構えないという術技ではなく。
単に、どのような状態からでもこの拳撃が行えるがために。
なにせ、常に己の肉体の稼動状態を認識して制御しているのである。備に質量の移動を認識して伝達しているのである。
で、あれば。どのような状態、どのような条件、どのような相手に対しても、常に最速の道筋を描き出せる。
つまり、構えながら打てる。
構えて、打つ、のではない。
究極的に、蹴り出しで発生した力を最後には拳へ到達させられればよいのだから。
どのような過程で、体勢で、構えで、型で、攻撃しようが構わない。
笹目大地の型が綺麗だと、完璧だといわれる所以はここにある。
どのような行動も最短を極めるために。
どのような機動にも無駄がないために。
だからこそ、肉体の教科書に真摯なのだ。
ゆえにその構えは定石外のもの。理想論ゆえに、実用性がはなはだ欠けるもの。
だが、上記二点の工夫を搭載しているのであれば。
これは第三の工夫に成り得る。
──だが、そもそも。
なぜ、笹目大地はそのように、備に現状を認識できるのか?
それは類い稀なる才能だった。
笹目大地は、天稟があった。端的に、格闘におけるセンスが常道を逸していた。
世界最強を目指せる程度のものを持っている。
それだけのこと。
ではなく。
その才能だけでなく。
その身体こそ空前絶後の宝石である。
彼の身体は〇.五秒速く動く。
よく聞く話。
人間が見ている景色というのは、〇.五秒前のものだという話だ
それは逃れられない伝達信号の速度限界。視覚情報を電気信号で送り出し脳で処理する。その累計にどうしても半秒の時間がかかってしまうのだ。しかしそれではどうして人間は違和感なく生活できるのか、と問えば、それは視覚情報だけが遅延しているわけではないためだ。電気信号が遅いのだ。ゆえに触れるという触覚、味わう味覚、そうしたもの全部が全部遅延しており、大仰に言って我らは〇.五秒前の世界に生きているといっていい。
笹目大地の身体にはそれがない。
信号伝達のタイムロスがない。
遅延なく、滞りなく、知覚できる。
ギフト。
神からのオクリモノ。
それは単純な才能なんかよりも稀有な機能である。
そう、だから彼は己の行動を手動制御できるのだ。
類い稀なる才能と機能を搭載した、完成し尽くされた機構がゆえに。
でも、それでは答えになっていない。
かの織斑が一夏の拳を凌駕した理由になっていない。
そも織斑はそんな完璧なシステムがゆえの完成に付け込んで攻撃してきたのだ。曰く無拍子、調子のよい馬鹿の律動。完全に近ければ近いほど完璧に遅延してしまう、泥沼の嵌め手。
よってここに起動したのは才能、機能、それですらない三番目の真実。
努力。
日々の努力。
それだけの納得の理由。
ただし、修羅場を煮詰めた鉄火の宇宙星の魔人を相手取った内容であるが。
その破壊的な魔人に飽きもせず、ただ、来る日も来る日も師事を乞い、教えを受け、人間性の欠片もないほどの繰り返しの鍛錬を人生の短さを笑う単調さでひたすらに繰り返して、己の肉体・神経に刻み込んだ。万や億の回数では計るに足らず、そもそも回数に頓着できるような時点をはるかに千切って積み重なった修練の極み。
誰にでもできる努力を。
誰にも持てない才能で繰り返し。
誰も持っていない機能で実践し続けた。
その末の極地。
外部への執着も、内への懊悩も始めから持たなかった、笹目大地にしかできない。
ゆにこれは無想には至らない。ゆえにこれは無我に至れない。
しかし、とてつもなく際立った特異点。
無謬。
空っぽの繰り返しを機能させ続けた才能の到達点。
総合して。
笹目大地は、天才であった。
かくして
それはさながら大和製のリードジャブ。
残念ながら、こんなオレには理知的なトーテンタンツが似合いだろうよ。
──折れたか、割れたか。
とかくとして悶絶級の痛みを放つ肋骨は、この体に未だ肉なる部分があることを教えてくれる。だったらファッキンアウチをポーカーフェイスで隠すのなんざ得意技。
しかし、なんだありゃ?
教科書の有用性を証明する典型例。
なんとも現代風な気風でよろしいこった、との軽口は口腔で粘着くなんかが邪魔をする。
天才。
天才、だ。
このナンタラナントカという少年は、おそろしいほどに天才だ。
技がキレイ? 動きが速い? 正確で完成していて隙がない? そんなこの魔技を実現するために必須だった諸要素なんて、こんな言葉で片がつくだろ。
天才なんだ。
生まれながらのあるがままに、なににも左右されず逸脱している。
唐突に生まれる、持っている者。
全き欠けぬ者。
俺だからわかる。断言できる。織斑イッピーだから確信する。
こいつが、そうした類いの人種であるのだと、誰よりも強く強く理解できる。
困ったね、こりゃ。真っ向勝負で潰そうなんざ荒唐無稽だし、かといっていつものごとくちょっとの根性とひん曲がった奇策妙手などでもどうしようもない。度が外れてる天才ってやつは、それこそ俺などのような人間が天啓で閃く今世紀最大の必殺策を一〇や二〇束ねてどうにかできる奴原じゃねえんだ。
そんな地続きの先にある理屈で打開できるなら天才なんてやってない。
だが。
だが、もっともおぞましいのはそこではない。
練度。
ただでさえキレイな型。精密な動作。これ以上完成しようがない精巧な機能を、あろうことかその有限なる青春の一〇割を捧げて練磨しているのだということ。
目標があるから鍛える、がんばる。そうではなく。
ただ。
鍛える。
ただ。
練磨する。
手段と目的の逆転でもなく、意味も、意義も、崇高なる使命も、大義も、天命も、その森羅万象の鉄意に立脚しない。淡々と気の遠くなる時間をひたすらに鍛錬に充て、昆虫の生存欲求よりも理知的に、大規模装置の稼動よりも綿密に、繰り返し繰り返し繰り返した。
それでいて禁欲的でもない。欲を禁じて煩悩から解脱するのすら言葉が不適切。
ゾッとしねえなあおい。
ときに努力と呼ばれるそれに懸ける時間が、どのような他者をも圧倒していた。
んでもって、このゼツボー的な窮地まだまだ続きがあるってんだから笑えない。
その挙動、その術技。
残らずすべてが魔弾と化して飛来していた。
どんな些細な行動すらもが雷速をもって射出され、速射される数は五月雨を超える。
そして無論、すべてが必中。
正確に言やあ俺に避ける
参ったね、たまらねえな、クソ痛ぇ。
真面目に、どうしようもない消化試合だわ。
これに観客がいたら、間違いなく賭けが成り立たねえような醒めた色に映るだろ。オーディエンスからブーイングすら沸かない今世紀始まって以来の大傑作、って言ってる傍から背骨が逆海老に反る。俺の反応が追いつけない空白から到来する閃光の数々。さっきも言った速度優位の極み。テンポもリズムを死に絶えた。
これだから天才は。
こんなんだから天才は。
こっちがあれやこれやと穏便に終わらせようとしてんのに定法から外れる我が王道を行く私は私だ、なんてクッソ俺には関係ないことでこっちと摩擦してきやがる。勝手に謳ってほどよくイっててくれよ。そんなにお前らの美観に損なってるかねえ俺様。へこむわ。
ああまったく。
俺の人生、こうも天才が多くて滅入る。そう。
たとえば。
セシリア・オルコットは誇りの天才だった。
凰鈴音は行動の天才だった。
シャルロット・デュノアは優しさの天才だった。
ラウラ・ボーデヴィッヒは信仰の天才だった。
ほかにも、ほかにも。
山田真耶は教師の天才であり相川清香は少女の天才であり五反田蘭は後輩の天才であり蔵王和香は火力の天才でありダヴィッド・デュノアは不器用の天才であり御手洗数馬は美形の天才であり五反田弾は友情の天才であり篠ノ之束は天才的に天災であり固法美佳は先輩の天才であり。
織斑千冬は愛情の天才であり。
篠ノ之箒は勇気の天才であり。
IS関わるやつらは、俺の周りの人間は、いつだって誰だって天才だった。
皮肉じゃない。妬みや嫉みなりの羨望も、ときとして口に出すのもはばかられる黒い感情を抱いたことだってある。煩わしかったり、喧しかったり、羨ましかったり、──そんな風に生きてみたいと思ったことがただの一度としてなかったなどとは、はは。云えねえ云わねぇよ。
みんな輝かしく素晴らしい、宝石のような希代の天才そのもので、天稟とする存在そのひとだったと確信している。
それに対して織斑イッピーのフツメンなこと。
言葉通りの顔面で、幼少のころからびびりだし、いじめられるのなんて日常茶飯事。天賦の冴えた剣腕もなければ秀でた頭脳も持ってなくて、際立つ人類愛を歌って魔王に転じもせず勇者に憧れるほどには男の子。現在進行形で原初から武力の最前線に立ち続ける世界最強の威光に暗黒しながら百発必中で狙った女を落とすほどの男傾城も程遠い。なにやら男でISを動かせる特性をこそ秘めていたが、それは身長の高低や造詣の醜美なんかの比較となんの差がある。到底才能とは呼べぬ誤差の範疇だ。
だが、そのなかで。
俺は。『織斑一夏』は。
織斑イッピーは生きてきた。
勇者に魅せられて。最強に焦がされて。
『オリムラ』の血のなかで。
ただ目指したその野望。
性別も。
年齢も。
IS適性すらも言いわけにせずただ独り。
この地上でただ一人。
織斑千冬を、超えようとしていた男だったから。
剣に魂なんてかけてないし。武に人生なんか費やしてない。
努力は貴いし、目標へ邁進する姿は美しいけれど。
だけど、誤解を恐れず云わせてもらえば。
くだらねえんだよ、テメーら。
眼前に迫る精密精緻の石火拳。
レールガン。最速最正、すべての基礎を凡百が到達できない域で鍛え挙げた鍛造雷弾。
魔弾。
無謬の理。
それを前に、俺はなんのアクションすらとれない芥でしかない。
現に、そら。今だって構えすらとれずに一拍以上の遅延をもって雷速の拳弾を見つめることしかできない。普遍だ普通だ以前に、どうしようもなくボンクラだ。参るぜまったく、いくら一五年かそこらといえ、積み上げてきたものは本物だ。憧れ続ける者なんかじゃ残念ながらどうにもできない、これこそわかっていても防げない一撃ってやつ。
しかし、それだけだ。
一五年、血反吐吐いてきただけだ。
古参の老害はきらいだがな、端的にその点だけを比べるなら。
このイッピーが、どれだけ天才と戦ってきたと思ってんだ。
このイッピーが、どれだけ偏執と戦ってきたと思ってんだ。
セシリア・オルコットは誇りの天才だった。
凰鈴音は行動の天才だった。
シャルロット・デュノアは優しさの天才だった。
ラウラ・ボーデヴィッヒは信仰の天才だった。
織斑千冬は愛情の天才であり。
篠ノ之箒は勇気の天才であり。
織斑一夏は凡百だった。だったんだ。
だったから。
十数年間、生まれてから今まで、『
数十年間、生きてからこれまで、『
魔弾がくる。
注視するしかない魔技が迫る。
もしもこの刹那のなかで体を動かそうものなら高速思考ゆえに遅延していた時間が身体の真実に収束し、なにもできずに撃ち殺されることだろう。
だから動いた。
脊椎反射じゃない。そんな才能も機能もねえ。
すべてから平均してツーテンポ遅れる苦し紛れの無構えから、そっと。ややと軽く肘を曲げる程度の軽々しさで、緩い拳を作った右腕を上げる。脱力どころか怠慢の行動。常日頃の日常時でさえ緩慢に見える、事実その通りの、ゆっくりとした挙措を、あろうことかこんな最速の最前線で見せてしまえば、答えは簡単だ。
時間が収束する。刹那が六徳に昇華する。
逃げられない。逃れられない。
この魔弾に接触せずしてこちらの拳を届かせるなど、たとえ達人でも至難を極め得る。
世界創生の第一夜に比肩して不可能。
──笹目大地には見えていた。
この迅雷のなかで見えていた。
知覚していた。認識していた。
精巧なる雷速の砲手が魔弾、その繰り手ゆえに、この高速のなかだろうと意識は顕在。なにせ無明に挑む無意識の理合いではなく、確然と鍛錬の先に至る魔技がため。〇.五秒のギフトを寸毛違わず制御しきり、拳弾を魔弾へと完成させたがために、見えていた。
対手が握るその刹那──よりもさらに細かな六徳、いいや虚空。そのなかにみせた緩い握り拳の一挙動。それを間断なく識別し、認識する。
ほんの少し、驚愕した。
この絶技のなかでたかが三十路の中年が行動することに。
とても多く、落胆した。
避けるでも受けるでもなく対抗する意思をみせたことに。
断言できる。
この一撃は逃げられない。
この拳打は躱せない。
逃るることはあたわない。
地続きの鍛錬の先にありながら才能を必須とし、天稟を必要としながら地道を必定にしている。誰にでも理解できる、際立った工夫をしていない。それでいて再現がかぎりなく不可能。なにより努力と才能の上にさらなる一握を持っていなければなし得ない攻撃。
だから魔弾なり得るのだ。
少なくとも、この半秒のギフトを持ち得なければ議論の域にすら立てない。
ともすれば、あまつさえ。拳を握る動作で対抗しようとするその挙措は返って理に適っている、などとの論を抱いたものは才がないから、今すぐ体技を競う舞台から撤退することを斡旋しよう。
端的なたとえ。
目の前から飛んでくる銃弾が知覚できないからといって、それに正面から突っ込んでどうするというのだ。
ゆえに、この場での正解とは、運に頼ることだ。
避ける動作をすれば、もしかしたら、避けられるかもしれない。
躱す行動をとれば、もしかしたら、躱せるかもしれない。
神頼みを情けない、とは口が裂けてもいうまいな。そも、『魔』を冠する必殺の術技。ならば聖なるなにがしかにその命運を委ねるのは実に理に適っている。理知的だし論理的だ。
だから、これは愚かな選択。
さしずめ、この速度差で動いてどうなる。精々、よくてクロスカウンター。それもこちらが速度による最大のインパクトを達してからようやく接触できる時間差の迎撃だ。互いに攻撃を命中させたとして、果たしてどちらに分配が上がるだなどと、語るのもおこがましい。速度とは絶対的な攻撃選択権。その利権を一毛漏らさず掌握されて、引き分けの目すら引けまいよ。
笹目大地は思う。
己の浮遊感を思う。
己の許せないものを思う。
結局、終ぞ、理解できなかった灼然のなにがしかを想う。
──もしかしたら。
それがオレの始まりだったのかと。
どうしようもなく、どうでもいいことを抱きながら。
この期の最後におよんでまで決して鮮明にならない朦朧体のまま。
胸に迫るものもなにもないまま。
生まれそこなったまま。
自慢の握り拳とやらで、言語の塔を打ち砕いた。
ならば。
ならば、成る。
「顔は勘弁してやるよ色男」
「…………あ?」
──痛み。
その瞬間笹目大地の腹部に走る雷鳴の閃きは、どうしようもなく信じられないもの。
なんだ?
なんだ、なんだ、なんだ?
この痛みは、なんだ?
それはまったく理解のおよばない不可侵の領域で起きた現象だが、痛みの原因だけを考えれば赤子でもわかる。
腹部。拳が腹を叩いていた。攻撃が当たっていた。
それはわかる。腹を殴られて痛くない輩は稀有だ。だが、だが。
この速度のなかで。この雷鳴のなかで。その颶風のなかで。
夢幻の遠さで遅延していた、三十路の拳が、かちりと噛み合う歯車のように、毎朝昇る太陽のように、四〇秒で変わる赤信号のように、一日に二度正確な時間を指す時計のように。
少年の腹部を殴打していた。
ただ、魔弾より早く拳を当てていた。
端的に言えばそういうこと。
相手より先に攻撃を当てればこうした事態になることは当たり前のこと。だから重ねて理解がおよばない。
自らを天才だとは、最強だとは、ましてや最良最速の迅雷
あれは外れない攻撃だった。どうしようもなく必殺だった。
なのに、なぜ。
無想でも、無我でも、ましてや無謬とも似つかない埒外の結果。
いったいなにが起きたという──!
無構え。
そう呼ばれる理合いがある。
合気道では馴染みが深く、次点で剣術関連で聞きおよぶことがあるだろう。
仔細は省くが、それは文字通り『構えない』という術技だ。
理屈はそれこそ簡単で、構えては相手に次の手が読まれてしまうから。あるいは構えないゆえにどのような行動にも変化可能だから。はたまた究極の脱力を成し得るためにあえて筋力を使いにくい姿勢をとるためだとか。そういった具合だ。実にわかりやすい。
だが、実際はそんな万能の術理ではない。
実際に行動すればわかる。
構えないという状態は果てしなく遅い。
そも構えとは──本来は防御のための姿勢を『構え』と呼称するが──次の行動に移るための予備段階である。ある動作を最短最高効率で駆動させるための待機状態である。
事実、パンチ一つ繰り出すのにも、『足を適度に開いて拳を握るという構え』をとった状態と『なにもせず脱力して腕をぶらぶらとした状態』で比べた際、その結果は一目瞭然だ。
遅い。
遅いのだ。
予備動作を、構えをとっていない攻撃は遅いのだ。
読む読まれる以前に、純然たる事実として、遅いのだ。
遅延が発生する。速度が渋滞する。どのような行動に移行しようとも構えをとっているミスターアベレージから平均してツーテンポ遅れる。
むろん、無構えの状態からでも『早さ』はある。
手だけを、腕だけを動かしてパンチをする場合。それはそうだ。体の一部分だけを駆動させるというのだから、単純に重量の真価として、軽量の攻撃部位が早くならないわけがない。だが、そう。対して威力が生まれない。
体重の移動が極小ゆえに破壊力がなく。関節の動きがないから威力もない。おまけに筋力だけで駆動する動作なために浸透力もなければ疲労ばかりが募る。よいところがない。
例外としてストリートファイトの際に使用される『バラ手』のような手法もあるが、それはそも軽く、早いことを主眼とし、第一に想定される形式が短期決戦だ。いささか疲労が大きかろうと、肝要なのは別の点になる。
話を戻し、つまるところ。
無構えの利点は驚くほど少ない。
だからこそ鍛え上げれば唯一無二の魔技となる──その論はわかる。
気概を汲んでやりたくもあるし、事実かの高名な剣聖はその最奥に無構えなるものを持っていて、今なお多くの羨望を集めている。けれど。
無構えを必殺にたらしめる果てしない努力を。
一般的な構えからの術技を繰り出す、という連鎖に裂いたほうが、圧倒的に効率はよい。
ゆえに無構えとは端的に天才にのみ許された術理であり、仮に実践するとしても一度かぎりの奇策でしかない。だってなにせ、もしもそんなにも優れた技術ならばもっとさまざまな場所でそれを使っている輩がいるはずだろう。
最速の格闘技とも名高いボクシングを見れば瞭然。
読まれ辛いことよりも早く、速いことを求めて最適化された構えをとっている──これら近代スポーツに関する断言は過剰な誤解を生むためにこの程度の議論で済ませるが。
ともあれそうした理合いがある。
不利な点の目立つ型がある。
だが、果たして。
果たして織斑一夏は、そうした者であったろうか?
単に言葉や理屈や数式でどうにかなるものを探求する、深淵に臨む者だったろうか?
いやさ、確かに深淵なる桜花に挑む憧れの矢であったかもしれないが。
そう、そうだ。
織斑一夏は武闘家に非ず。
織斑一夏は剣術家に非ず。
織斑一夏はISランナーに非ず。
織斑一夏は野望家也。
ゆえに俺が求めるのはいつだって。
大望に届くための後ろ向きな
これは無想ではない。
これは無我ではない。
これは無謬ではない。
これは奇跡などでは断じてない。
際立つ工夫もなく。類い稀なる発想もなく。超人的な機能もなく。
勇者から賜った三種の神器に立脚しながらも四番目の真理に確信し。
ただ野望に賭ける殺意のような偏愛だからこそ、この可能性に届き得た。
────我流魔弾
才能殺しここに達成。
この我流をなした要因はただ一つ。
他人に話すのも恥ずかしいただ一つ。
執念。
世界最速を極める才能も機能も賜物も無謬も凌駕する人間的な意志の力が、魔弾を超克せしめた。
ゴメンな。おいちゃん粘着質なんだよ。
実の姉を慕う程度には。
必ず当たる人間の鉄意が、野望を受けて歓迎する。
それはさながら青春を砕くブリジンガー。
トーテンタンツを阻むレーヴァテイン。
雷光を成す砲弾よりも早く、この拳はインパクトする。
無構えから放たれる無拍子は、盲目的な執念を経て、対手の腹筋を殴り飛ばす。
おいおい、そんな不思議そうな顔してんなよ。おブスに見えるわよ?
なに、難しいことはしてねえって。
必中の魔弾とは、こういうことを云う。
俺が天才と戦い続けたからできたこと。
お前が天才だったからこそできたこと。
そしてなにより。
ただ俺の天才に懸ける意志がお前より強かった。
簡単だろ?
それは当たっているから当たる必中の拳。
執念だけが成す速度破壊の大零落。
無構えから放つ、無拍子の白夜。
…………単純に損傷の度合いだけで計るなら。
損害は致命傷には遠くおよばない、
一度や二度殴られただけで機能が止まる、ロープライズな粗悪品でできていない。だが。
この腹部を支配する痛みなるや、価値観を破壊する稲妻にほかならない。
理解、できなかった。
意味が、わからなかった。
拳を当てた状態で殴れば当たる? 馬鹿を云うな、トチ狂ってるだろ。卵が先か鶏か、矛盾がどうのと理屈がおかしい。当たっているから当たるなど、そもそも当てられるってのがおかしいんだよ。どうなってんだ。理合いは? 型は? 最適化された肉体は?
なに一つ満たしていない。必中するための諸要素がなにもない。
多少なりとも理合いを解き明かすなら、無構え+無拍子の複合、か?
ゼロにゼロをかける不条理。しかし気づけば、
『結果を淘汰する過程はない』。
だが、その過程をまったく経ず。
結末だけで世界を侵すその暴論。
──唐突に思い出すはあの灼然。
身体を駆動させる。
理路整然精密精緻にどんなボンクラも納得させられる機動で最速と化す。
刻み突き。貫手。踵落とし。手刀。掌底。鉄砂掌。鉤突き。足刀蹴り。双手突き。鳥嘴拳打ち。──もって演義、十絶の陣。
だが、その人的電磁砲のすべてに先行して。
当ててから殴る打撃が、絢爛の戦技をことごとく不発にする。
超えられぬ
身体的なダメージよりも、精神の内側を確と殴打する必中の矛盾。
──終ぞ、未だに理解できないあの眼光。
理解を振り切る。
パラメータが正常な数値を弾き出さない。
とてつもなく重要な部品を直接殴打されている。
──客観的な分析を用意する。
損傷/無傷。体力/健在。速度/最速。耐久/圧倒。威力/愚問。
彼我の戦力差は圧倒的に絶対的だ。だからまったく理屈に嵌らない。
そのような状態でこのような現実が起きているとなると……我ながら素直な身体だ。
つまるところ、敗北を許容している。
これ以上の打開策はない。
──何者だと問う、ギラつくあの熱視線。
なんとも、色々足りないものだ。
というより、なにかを持っていた試しがあったか?
原初からして、なにかを。
あの日までは、自覚なんてそれこそなかったが。
気づいたときには父がいなかった。
気づいてしまえば連鎖する。
漠然としていたものが、真なる意味で茫洋となった。
以来、周囲の人間がオレに接する際にみせていたよくわからないものの数々……それの正体が確かになり。
それ以降の日々の、絶えぬ浮遊感といえば言葉にするに難しい。
なにせ実態などそれこそないものだったから。
父親を欲してなどいなかった。いるならいるで構わないし、死んでいてもう会えないならそれでいい。そんな程度でそんなものなのは、今このときだって変わらない。
母にしたって、オレに一度足りとてそんな話をしなかったことから、結局それくらいの瑣末さだったんだろう。
だから、背骨から後方に八センチのセットバックをして送る日々は。
感覚のズレは。
この身が、いかに空っぽかと痛感させてくれる日常ときたら。
自分の深奥に核心が持てなかった。確然とした価値観が持てなかった。
オレはオレだという少年誌的な完結が、どうしても理解できなかったから。
────オレを愛してくれるオレの愛すべき人達。
好きだ、嫌いだ、愛している。
その感覚すら真似事で、どうしようもなく見よう見真似の借り物だった。
オレを置き去りに、オレを確定していく外環境。母ですら──意図的でなかったとはいえ──ふとした拍子に、どこかはるか蒼穹を羨むような瞳でオレを見ているから。だってこの『大地』って名前からしてそうだろ? 由来からして不自然だろ? 『根を張って欲しい』なんて、それこそ根を張ってない前例がなけりゃ思いつかないだろ?
それ自体は、別段咎めることじゃない。諫めて、馬鹿にして、怒鳴りつけて否定することでは決してない。懐かしいなにかを、大切だったなにかを、今いる存在に重ねて幻視する。その尊い感性は、心と痛みをもったまっとうな、ちゃんと生きている人間にしかできないこと。とやとかくを云える権利がどこにあろうか。
けれど、生まれ損なっているオレは。
けれど、朦朧としているオレは。
なにひとつ、己だといえるものを持っていないオレは。
名前すら、誰かと比較して持っているオレは。
人間を理解できないオレは。
ついに一つの幻想に手を伸ばす。
────隠匿されたこの出生。
それが許せなかった。
責任を取れって話じゃない。
ただこのへばりついてなくならない不愉快な浮遊感は、つまり始まってないくせに生きている違和感だ。
真っ当に生まれていない。
愛のもとに生まれたのでも、欲望の果てに生まれたのでも、暴行の末に生まれたのでも、近親で生まれたのでも、望まれずに生まれたのでもなく。
ただ、隠蔽されたその真実。
始まりをなくされたその事実。
ならば、そうして生きているこのオレは、なんだ?
愛してくれとは云わない。憎んでくれとは云わない。子を捨てる親の是非は問わんし近親相姦の歪さや、強姦的な悲劇だってどうでもいい。真っ当な生まれってのは、そういう種が着けられるまでの諸要素諸環境諸事情のことを云うんじゃない。
誕生に欺瞞がないこと。
愛も憎も黒も熱もすべてをそのままの事実として、隠匿されていないこと。
だけど、生まれたんだよ。
ここにいるんだよ。
それなのに、始まりがないんだよ。
世界中でオレほど、三秒前に世界が始まったと言われて信じられる人がいないくらいに。
その空白の己を埋めるように、ひたすら武術に打ち込んだ。
存在感がありすぎる魔人に師事を乞うた。
オレを言い当ててくれる人間に言葉を求めた。
才能があったとか、機能だとか、無謬だとか、そんなものは後付だ。
たまたまそれがそれができた。実際、さしたる価値を感じてない……その物指しすらないものだから。
なのに、始まりすら始まらぬまま。
終わろうとしている。
この目の前の男が、母と会おうとしている。
多分、それは、──オレの終わりだって、わかった。
きっと、その邂逅がオレの人生に作用するものなんざなにもないだろう。
明日からいきなり金持ちになったり、超能力に目覚めたりなんてしないだろうし、将来が確定されるようなこともなく、いつも通りのこれまで通り、なにもない。だってオレには関係ないことのはずだから。でも、でもさ。
オレを始めた当事者の二人が。
オレを差し置いて。
オレの知らないこと話して。
オレに知られずに別れる。
許せるものかよ。
認められるものかよ。
勝手に懐かしんで、元気にしてたか、まあぼちぼち、暇ならこれから飲みに行こうぜ──そんな会話で適当に終わるその瞬間は、どれだけオレが望んでも手に入れられないものなのに。なのになんでそんな呆気なく、どうとでもないようにやってるんだ? なんでまた勝手に始まって終わってんだ?
笹目大地は始まってすらいないのに。
笹目大地を、おまえらは勝手に終わらせようとする。
……わからないか? 伝わらないか? 理解なんてできないか?
オレがなにを求めて、許せないか、皆目検討もつかないか?
だろうよ。
始まらずに生きている空っぽの風船にしか、わからないよ。
進退は窮まっていた。
雷光のすべてを粉砕して、激痛の拳が跋扈していた。
終わり。戦いの終わり。
相手の拳が効かないならまだ五分だとでも? なんら発展性のないこの身体に、そんな機能があるはずない。引き分けという結末は、すなわちシステムにとって敗北以外のなにものでもない。
笹目大地はここで終わる。
己の出生の真実にたどり着けぬまま。
己の始まりに納得ができぬまま。
自分の始まりに関与した赤の他人を倒せばスタートをリセットできるのではと、子供騙しの理屈にすら至れぬまま、その機能の欠落をリコールされてここに終わる。
ふざけるな。
許せないって言ってるんだ。
認められないってわかってるんだ。
悲鳴すら上げる間もない水子みたいに、生まれ損なったのに生きてるんだ。
その事実だけはここにあった。
その真実のみはここにあった。
オレが風船ゆえに知覚し得た絶対座標は、今もここに、まだあった。
どうしようもない確信だった。
世間一般に、かわいそうと言われるなにがしかであった。
だが、思い返せば。
その、逆説的な事実が。
どれだけオレを救っていたのか。
借り物に舗装された人生のなかで、オレだけの尊いニセモノだったか。
はは。
お前らになんか、わからねーよな。
「────ぁぁああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
身体を、駆動させた。
理屈。理論。数式。公式。
そうした手順の一切をなく。
確率。勝率。効率。比率。
そうした是非のすべてをなく。
なんとも不恰好に、泥臭くて、非効率な、無様な筋力が動き出す。
少年的な、前後不覚に、整っていない、不細工で、歪で、原始的な上に、根源的で、赤々と滾ったくせに、恥ずかしくて穴を掘りたくなる、誰しもを納得させることが到底に不可能な見違えるほどの血だらけ傷だらけの足が縺れて転びかける愚鈍の疾走。この我流魔弾の速度を前に、その歩みたるや幼げにつき、児戯と呼称していったいどこに言い逃れの芽があるのか。
それは笹目大地になかった原初の醜悪。
ただどうしようもなくなって爆発した、心の衝動。
無明から程遠いさまは、すべての武芸者が戯けと一言で切って捨てるほど。
しかし、だからなんだという。
それで、どうしたというんだ。
間に合わない? 勝ち目がない? うるさいうるさい知らないわからない聞こえねえよ邪魔だ黙れ。そんな外郭の定まった綺麗なもので、この胸の熱が殺せるものか。
勝てなくても。
不恰好でも。
矛盾していて、不確かでも。
憎いものは。
愛しいものは。
納得できないものは。
許せないものは。
認められないものは。
ここにある。
ここに、あるんだ────!
ならば、この話をせねばなるまいな。
人間の話をせねばなるまいな。
始まりがないゆえに引っかかっていた血縁関係。
己が空っぽゆえに欠落していた執念。
もはや愛のごとく互いを縛り付けるキズナ。
嘶く絶叫はただ心に迫る悲痛の赤。
塵芥、どこぞの誰もが持っている人間的なワルイトコロ。
その凡百の情熱を搭載した笹目大地。
それは彼の持ち得た、それこそ掛け替えのないさまざまを汚して貶める。
天稟。その才能、煩悩に飲まれて鈍くなる。
機構。その性能、型遅れのごとく能力が減耗する。
賜物。その半秒、思考を捨てた本能に食われて汚された。
輝かしい宝石の数々を泥水に漬ける、愚行。
なんと愚かな。
天才は、地に墜ちた。
──ゆえに成る。
人間理論が完成する。
無想とは対極になお遠く、無我とは酷似し非なるもの。
天才破りの理論のなかでなお鼓動を続けるもの。
術技の理解ならば誰でもできる。型をなぞって実践することすら可能だろう。
天才的な工夫も技術ももはや喪失したゆえ、匹夫の稼動に耐え得る量産品だ。
だが。
しかし、それを必殺として、完璧な
この土壇場でこの瞬間、あるべきときに起動させるなどただの凡夫にできようものか。
もとより生まれを剥奪された空の己という稀有な出生と、天稟の才能を持って生まれ、なおかつ無謬の繰り返しのなかで機能することを止めなかった今世紀最大の三重苦でなければ成し得ぬこと。
ゆえに成す。
父子のような血縁の因果関係と愛憎の絆だけがこの理論を論理とする。
────魔弾 空我
最速の魔弾、ここに再現。
とある日本の古流武術において『零拍子』と称される魔技が、現代に蘇った。
笹目大地の戦闘技術に足りなかった最後の部品。
それを内蔵して駆動する技術は、なんら変哲のない右ストレート。
ただし零拍子という、
この日。
この時。
その人生において、初めて。
笹目大地は。
諦めなかった。
通用しないから、届かないから、そんな機構でできていないからと。
諦めなかった。
(あ)
それを知覚する。
その感情を認識する。
そうして思わず行動したのだと、途端に気づく。
執念。
そう、そうだとも。
ただ許せないから認めないという純粋な気持ちを。
誰にも言えないような恥ずかしい内情で振りかざす、その傲慢。
諦めないという気概。
始めから持っていなかったから執着するという価値観がそもそも存在しなかったこの心に。
その、人間なら誰しも持っている原始的な感情。
才能も、機能も、賜物も。なにひとつに起因せず。
怨敵の一挙一動を備に決して見逃さないという、粘着質な執念だけが。
我流魔弾の野望すら超えて、零拍子の神速を実現する。
ふと。
『テメエ、なにもんだよ?』
その灼然を、思い出した。
何者、だと。訊いた声。
なんだとか。どうしてだとか。なにが目的なんだとか。
『名前はなんだ?』と、初対面だったら間違いなく口にするはずの疑問ではなく。
この身が、この存在が、いったいどういうものなのかと問い糾す言葉。
何者だと問われた。
何者だと問われた。
何者だと、問われた。
オレを、言い当てようとしていた、その言葉。
……ああ、そうか。そういうことか。
なんでこんな土壇場でこんな執念に目覚めたのか。なんで未だに灼然の意味が理解できないのか。
つまり、オレは、昨日そのときその一言で。
とっくに。
──御目出度う。
──御愛でとう。
魔人と佳人の祝福の幻聴を受けて。
さながらその咆哮が、産声だったかのごとく。
笹目大地は。
今ここに。
出
生
俺の打撃は通じず、意識を一発で飛ばすような右ストレートが迫る。
ゼロコンマ一秒を経験した俺は、対応こそできないものの反応だけはできる。
反応──せいぜいくだらねー脳内悪態と軽口だけ。一言『クソッタレ』と吐き捨てるには十分すぎる時間。
何度だって言うが、天才かよ。
よもやこんな土壇場で? どうしようもない幕引きで? なに主人公みたく覚醒しちゃってんだよ天狗道の輩は本当にクソだわ。あーあークソゲークソゲー(意味深)。畏み畏み申してろよ。
脳内の悪態は無制限。されど肉体は賞味期限。
俺という人間が叩き出せる最速、必中のザミエル。
無理無理、ネタ的にも現実的にも打ち止めだ。無構えだ無拍子だをあれやこれやと四の五のしたが、さすがにそろそろごまかしがきかねえ。もとより格闘趣味の修羅曼荼羅出身じゃないんですよ。ことなかれ主義のイッピーですよ。
腕は動かない。体は動かない。脳はもともと良くはない。
ここが人間の限界点。人間理論の完成形。
この最速を否定できる理由がどこにあろうか。
人が持ちうる文化の真髄……だからホモじゃねえって言ってるだろ。なんなの? なんでおれの相手っていっつもどいつも暗くて陰湿で偏執的なの? 根暗なの? 天災といい世界最強といい勇者様といい赤の他人といい……友達いねーの? ……べ、別に泣いてねーしっ。
俺の人間は打ち止めだ。
そのどうしようもなく最速の魔弾を前に。
逆転できる人間なんているはずない。
愛しさあまって憎さ一〇〇倍のこの執念を超えられるなど、そんなん人にあるまじきバケモンだわ。
だが、俺は知っているはずだ。
だが、 は知っているはずだ。
ここに至るまでの道程、歩んできたものを見てきたはずだ。
青春。矜持。一興。勇気。輝かしく語るべきもの。
殺意。絶望。愛憎。偏愛。醜悪で秘めるべきもの。
そうとも、今はそんな物語じゃねえ。
人間の泥臭くて格好良い部分で鬩ぎ合う物語じゃねえ。
なあ、そう思うだろアンタも?」
今は、
そう、俺は。
俺は。
織斑一夏は。
イッピーだから。
執念を打倒する人間ではないから。
ただ一言呟くぐらいしかできなくて。
「────唯貴」
それだけで、十分だ。
「汚えぞおっさん!」
空間に突然浮かび上がった機械の腕が、少年の右拳を受け止めていた。
そのあり得ざる物質構成現象。
示す事実は簡単だ。
「こんな喧嘩に、アイエスを持ち出す馬鹿がいるかよっ!」
──ISの展開。
人にはできない。人間には無理だ。
だったら人間以外に余裕で頼るわ。
俺が路上の喧嘩でISを出したとなればそりゃあ世界的ニュースになっちまうけど、お前が相手ならそうはならない。
この辺り一帯はとある美人のアリス系おねーちゃんが電子的目視的に完璧に潰しちまってる。この情報が漏れることはない。
ましてお前は、日本政府が絶対に公表してはいけない立場の人間だ。
表立って問題になることはあるまいよ。
というか、第一な。
俺は端からテメエに用がねーんだよ。
俺があの人に会おうとしたらたまたまお前が出てきたから、しかたなく、相手してやったんだよ。リベンジ? ああ、あれな。あいつなら俺の隣りで寝てるぜ?
んでもって、厭きた。
お前の相手は
喧嘩っつったよな? だったら喧嘩の作法ぐらいわかるだろ?
相手が乗り気じゃないってんだ、だったら潔く引くのが筋だぜ?
嫌がる相手に無理やり殴りかかってんじゃ、自称聖戦のテロと変わらん。
なのにお前はまーだ潰し合いをしたいっていう。
復唱要求!
織斑一夏は武闘家に非ず。
織斑一夏は剣術家に非ず。
織斑一夏はISランナーに非ず。
織斑一夏は野望家也。
武術も剣術も、世界をひっくり返したISでさえ、道具に過ぎない。
目的を叶える手段でしかない。
何かに頼らなきゃ。
何かに縋らなきゃ。
立って居られない程、弱くない。
織斑一夏とは、純然たる個として成立しているのだから。
だから、まったく悪びれも後ろめたさもなく。
ISだって使えるんだぜ?
世界最速の右ストレイト。
それを知覚できるのは偏に天才とやらに対する矜持ゆえか。
速度の限界。人間の最大駆動。拳乱舞踏の英雄の戦場。
人が極め得る絶技の最前線。
を、いとも容易く受け止める機械の腕は、どんな凡人だって片手間に呼び出せる。
こうも容易い。
ここまで呆気ない。
人間の最高峰は、そこらのおっさんがちょいと呼びつけた道具一つで無力化される。
そうとも、これが武威の極地。
どのような人間も限界点を突破できるようになる、天才に並び立てる可能性をなんの代償もなく、遍く七〇億人に配布する努力の否定。才能、機能、賜物、執念、人間が明日を殴り飛ばすために必須の熱を一顧だにもしない。
可能性の絶対値のみを肯定する少女機関。
ただ世界最強に迫ろうとするも者だけがこの理論を蒼穹のものとする。
人間殺しの
ここに。
展
開
「そら、よっと!」
右腕が白式に掴まれ、がら空きな横っ腹にミドルキックを叩き込んだ。
身体がくの字に折れ、腕を吊られたまま悶絶してる姿を横目に、俺は境内への階段を上り始める。
アバラの二、三本は折るつもりだったけど、びっくりするぐらい丈夫だなおい。
大人気ない? 格好悪い? おいおい、んなもん自慢しにきてねーよ。
おーおーそんなに憎ったらしく睨み付けんなって。さすがに照れるわ。
「知らなかったのか、大人はズルいんだよ。ひとつお利口さんになったな、クソガキ」
そして石畳に残るのは未成年をボコッたアラサー一人。
端的に犯罪者である。
……ジャック・クリスピン曰ーく。
「やったら逃げろ!」
そーれオカンに見つかる前にスタコラサッサ!
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「お久しぶりです、先輩」
定期的に誰かが掃除をしているのか、石を磨く必要はなさそうだった。
仄明るい外灯に浮かび上がるレタリング。こんな夜にくるつもりじゃなかったんだがな。
萎れた花をとり替え、火のついた細い棒から独特の香が上がる。
静かに、手を合わせる。
なにから話そうか。
情けない後輩らしく、言いわけから入ろうか。
ずっと会いに伺おうとは思ってたんですが、個人情報がどうとかうるさくてみんな連絡先を教えてくれなかったんですよ。
それでもまあ、俺と先輩の縁なら何処かでお会いすることができるだろうと楽観してました。
遅くなってすみません。
そういや下で先輩の息子さんに会いました。
先輩の息子だけあって男のくせに美人でしたね。きっと頭もいいんでしょう。
初対面の俺にイジワルするんでボコっちゃいましたけど許してください。
だって変に粘着質なんですもの。いったいどこの誰に似たんですかね?
──きっと、あの一回ですよね?
先輩が可愛すぎたのが悪いと俺は声を大にして言いたいところですが、男として無責任な事をしました。
先輩とシたのはまったく一切微塵も後悔してませんが、ごめんなさい。
……なかなか、言葉にならないものですね。
ずっと会いたかったんですけど。
ずっと話したかったんですけど。
ずっと考えてたんですけど。
いざ目の前にすると、口から出ないものですね。
いろいろあったんですよ。
楽しいこと、楽しいこと、楽しいこと、たまに辛いこと。
あれから一五年ですよ?
いくらでも話の種はあるんですけど、なんだか今日は上手く思い出せません。
今は、先輩との一年間しか思い出せそうにありません。
ほら、俺も三一歳なんでダンディな魅力を醸してるでしょ? 実はバツイチなんですよ、俺。
それっぽい感じで察してください。
あー、なんだか線香の煙が目に沁みてきました。
いやいやまさかこのイッピーがこんな歳にもなってそんな簡単に泣くわけないじゃないですか。
声とか震えてねえよ。ぜんぜん震えてねえよ。
会いたいなぁ。
申しわけないです先輩。
また近々顔を出しますので、どうしてもお伝えしたいことだけ。
あの学園で、初めて俺の味方になってくれたのは貴女でした。
俺を珍獣にしか見ていなかったあの場で、貴女だけが俺という個人を見てくれました。
織斑一夏は、貴女に救われました。
このりみか先輩、ありがとうございました」
頭を下げる。
恨み言はある、文句もある。
だけどさ、感謝してるんだ。
あの時。あの場所で。
遠巻きに好奇の目を向けるだけの女と。
男は猿としか思っていない女と。
俺じゃない
世界最強だった女と。
それだけだった。それだけだったんだ。
それだけ、だったんだよ。
「―――大事な、人だったんですか?」
いつからいたのか、遠くから俺に声をかける女性がいる。
なんと答えようと考える間もなく、口は勝手に動いていた。
「はい。素敵な方でした。俺が高校生活でお世話になった先輩は、この方だけです」
「あなたにとって特別な方だったんですね」
向き直りもせず、正直な思いだけが勝手に溢れた。
振り返った先には、和服の女性が一人。
日傘代わりに番傘さして、淑やかに佇む妙齢の女性。
くすりと上品に笑う仕草は、この静かな夜にとてもよくお似合いで。
なにより。なにより。なにより。
顔立ちも、雰囲気も、身長すらも違うんだけど。
その特徴的なシャギーだけは、なんのポリシーか変わっていなかった。
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「いやー笑った笑った! まさかお墓に青春三〇代喋り場してるのが一夏くんだとはなー!」
「先輩、もうホントちょっとこの辺で勘弁してやってください」
くすりと上品に笑う仕草を魅せた美人さんはどこに行ったのやら居酒屋に入れば乾杯のビールを一息に飲み干し腹抱えて俺の肩をバンバン叩く女性が一人。
ぶち壊しなんだーが?
感動の再開なんだーが?
俺の青春の訣別と別れの涙が台無しなんだーが?
「にしても、なんでこんな時間にあんなところに? 地元民なら夜桜なんて珍しくもないでしょう?」
「こんな夜中に大地がどっか出歩くんだもん。ちょーっとでばがめママとしては気になっちゃうよね。で、着いてッたらまさか一夏くんがいるなんて」
「俺もまさか、ええ、会いたいな思ったけど生身の先輩と会えるとは思いませんでしたよ」
「なにー? もう骨の私と会ってなにが楽しいのよーこのっこの!」
「先輩飲み過ぎですよちょっと抑えましょうほんと」
「『織斑一夏は、貴女に救われました』、キリッ」
「ヤメテッ。コロさないでッッ」
青春と三十路は一緒に生きられない!
乾杯からこっち、いっこうにペースが落ちないマドモアゼルに終止肴にされている男がいる。俺だ。
こんばんは夜更けのイッピーです。
がきんちょぶっ倒して夜桜墓参りとかいうオシャンティーに粋を教授してたら後ろに立ってた人が本人だった。ナニソレこわい幽霊とか初めて見たっ。
ってわけもなく我が青春の固法先輩でした。シャギーがマブい。
でもってよい大人がこんな夜更けに再開である。だったら飲みに行くしかほかあるまい。
居酒屋なーう。
「それにしても──久しぶりね」
「はい。お久しぶりです」
「一五年くらい?」
「息子さんはおいくつですか?」
「ほんっと、自ら火薬作って起爆させてくよね、君」
アンタの方が剛速球じゃね……?
アタイが言うのもあれだけど、大分レバー狙ってない?
そんじょそこらの居酒屋のなか、雑多な周囲の音声に包まれて、掻き消されない程度にマッハである。俺の胃袋もマッハ。胆力がダンチだぞおい。
つーか結構、話題が際どい。ちょいと国家機密級ですよこれ。パパラッチされたらひとたまりもない……無論ウォッチングした方が生き残れない意味で。実姉のパワーにはドン引き。
ガーバガバ生中呷るサマはどう足掻いても素敵な三〇代だった。
いやでもさー、いい歳だしさー。せめてもっとこう、シャレオツなバーでしっとりするとか、ね?
「そーいや先輩のお子さん、大地クンマジイケメンっすね。死ねばいいのに」
「おいおーい。後半聞こえてるぞー」
「おいおーい。もうアイアンクロー決まってるぞ……痛ででで!?」
日々のやるせなさを嫉ましい美丈夫に押し付けたらママンにヤキ入れられてた嘘だろ見えねえ! どうりでお宅のお子さん二百体破壊者並みに強いわけだわ! マジかよイッピーフェイスレスじゃん……せめて甘粕大尉にならなかったのか……キャットレ○パーは黙ってて……。
ヘルガ姉だけじゃないのだけが救い。
うーむ、酔いが回るのが早い。
真面目に酒豪じゃねえかよ。
「あー痛ておー痛て。……母は強いって、本当ですね」
「なーにー? 今だって現役ぶいぶいのか弱い乙女ですけどぉ?」
「酔ってんなー」
とりあず背中叩くの止めてほしい。
ああまた泡がこぼれた。
「ところで、息子さんなんですけど、苗字違いますよね?」
「あー、それ? それは話せば長くなる、ってほどでもなんだけどね。ほら、あの子、立場が特殊じゃない? おまけになんだかんだIS絡みだから」
「要人保護プログラムですか。まだやってるんですね」
「ご明察、とは少し違うかな。もうちょっと特殊なんだけど、一夏くん面識なさそうだしね。
だから、まあ。あたしも一応、苗字変わってるのよ」
要人保護プログラム。
日本に有益を齎す──あるいは対極を生む──人間の保護を掲げて罷り通る、二四時間三六五日フル稼働の監視システム。時として軟禁し、転居転校を繰り返し、そして名前すら偽名を余儀なくされる。不自由な点は確かにあるが、単純な保護の側面、守備体制を思えば、大分牢固で堅牢だ。閉鎖的な日本の気風の一側面だわ。
その程度がどれほどかというなら、まあモッピーのありさまをご覧下さればいいとして。
面識? 誰と?
「誰か、そうした諸々全部取り計らってくれた人でもいるんですか?」
「四十院神楽さん」
「……? あー、ああ。いましたね、そんな娘」
同じクラスだったんだが、唯一俺が一度足りとて会話したことがなかったクラスメイト。
そういう意味ではよく覚えているし、その程度の存在だったということでもある。別に馬鹿にしてるんじゃなくて、関係性の強弱としてね。
とりあえずべっぴんのお嬢様。うちの頭首閣下と家柄的に真っ向からタイマン決められるくらいセブリティだったと思う。いつだったかな、女子の誰かがおちょくって『ブラックカードとか持ってるの?』とか訊いたら『? 家に揃ってるのにまだなにかご購入されるんですか?』って心底不思議そうな顔してた。会話の段階飛ばしもさることながら、世間知らずって本当にいるんだなー。
その程度。
俺にとっては、それだけの人だった。
どうにも、彼女の保護下にあるらしい。
憎いね、SHIJUIN。
そうしたらあとは、思い出話に花が咲いた。
一度過去を回想してしまえば、そうなってしまう。
そうなってしまう大人にまで、とうとうなってしまっていた。
教師の誰が優しかったとか、面白かったとか、食堂のあれは不味いだこれは美味しいだ、時間割が無謀だったとか、ISスーツは際どいとか、生徒会長が愉快だったとか、あの頃は事件ばかりで本当に大変だったとか。
間違いようもない輝かしい宝石を思い出しながら。
目の前の女性の、とり逃した歳月を考えずにはいられなかった。
俺が殺してしまった日々を、考えないわけにはいかなかった。
なにせ一八そこらで母親になっているんだ。
順当にいって大学でキャンパスライフ送るなり、やりたい仕事に就くなり、そうした自分自身を謳歌するはずだったその時期に。
時代を育む、自己犠牲の疾走を開始してしまった。
……未成年が出産することをあたかも悲観的に捉えてるかもしれないが、そうじゃない。そんな馬鹿みたいな理屈を押し付けたいわけじゃない。
母親になるとは、親とは、素晴らしい存在であるはずだから。
その一員になる喜び。軽いわけがない。
だが、彼女は。
果たして、自ら望んでその道を選んだのか?
ただ単に、堕胎に対する忌避感が母になることを強制したのではないのか?
聡いこの人のこと、賢いこの人のこと、子どもを生んだことを後悔など、それこそ今まで言われるまで考えたこともなかったという領域で無縁だろうが、それでも。
それでも、それは彼女が彼女の意志にのみ立脚して走りぬけた道か? そこにクダラナイ他人の一念が混入してはいまいか?
俺のせいでは、ないか?
──はン、勘違いもはなはだしいだろ。
んなどうとでも解釈できるような第三者の目で決め付けんなよ。やだね、歳取るとこのアチシですら理屈っぽくなって困る。気質の粘度が上がってる。はた迷惑な。
だってよ、そうだろ。
俺が憧れた人は。
俺が世話になった人は。
俺を救ってくれたその人は。
そんな不誠実な人間じゃなかったろ。
そして、もう。
俺も大人なんだろ?
なら、要るのはそういう言いわけじゃない。
誰にでも解釈し易いように噛み砕いたノンフィクションじゃない。
今この瞬間も己をしっかりと保って大胆不敵の傲岸不遜に笑うことができる。
俺はイッピーなんだ、嗤え。
反省でも、後悔でも、贖罪でもなく。
ただ真摯に、人間を実行しろ。
傲慢に、己の成すところをしろ。
いやまあ、さすがにノーパンで部屋に返しちまったのは反省してますよええホント。
「先輩」
居住まいを正して。
彼女に向き直る。
責任を、取らなければならない。
俺に責任をとる能力がなければ、大人にまかせてしまえば良かった。
それは子供の特権だ。
だけど、俺はもう大人だ。
責任能力があるんだ。
なら、きちんと応じないと。
だから、君のことを思った。
君のことを思う。
己の妻だったひとのことを思う。
ナイフ色で照り返す銀色の髪を、星の海すら霞む黄金瞳を、ビスクドールよりも無垢な肌色を思う、触れれば砕けてしまいそうな小さな体躯を思う。
儚い死期の君を思う。
俺の心を最後まで捕まえ■■■■■た、お前を、想う。
忘れたことはない。忘れられるはずがない。
思えば、お前があのIS学園で一番俺を理解していた、してしまっていた。
その理解の過程が真っ当な人間の交情の末だったかどうかは捨ておいて、誰よりも俺の中心にお前は触れた──俺が触れた。
悲嘆を見、悲劇を見、渇望を見、偶像を見、崇拝を知った。狂おしいほどに求めて求めてのた打ち回った挙句に至ったどうしようもないクソどうでもいい信仰を感じた。泣きたくなる滂沱の意識と乾涸びそうになる赤の殺意、互いに大切な部分を締め付けあう泥沼の今際の際。
誰よりもかの人を求めていた。
誰よりもかの人に感謝していた。
そんなお前がくれた言葉は、いつだって俺の心に響いていた。……なあ、気づいてたか?
そんなお前にやれた言葉は、お前のなかに届いていただろうか?
いま思えば青かったと顔から火が出そうなもんだが、決して偽りを口になどしていない。
誰もが盲目に狂ったあの場所で、本当の意味で俺を見ていた唯一の同世代。
そんな掛け替えのない偉大なる妻を。
君を想って、想っただけ。
始めに言ったろ、好きにするって。
始めから知ってたろ、そんなやつだって。
──そんな俺でも、お前は愛してくれたから。
ありがとう。
悼む気持ちを確かに持つ。
ありがとう。
彼女を愛してくれたことに感謝する。
ありがとう。
俺への理解を止めてくれなかったことに。
ありがとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
それだけを持つ。忘れず、忘れない、悼む心だけを持つ。
それ以上は、ただの呪いだ。
メメント・モリは願い下げ。
泣いてねーよ。
彼女の手を握る。
細い手だ。今でもキレイだが、若かりし頃とは違う。
そこに重ねられた年月よ、苦労よ、読み取ろうとすること自体がおこがましい、俺の与えた重荷よ。
俺は当時、あんなにも大好きだった先輩に、無責任なことをしてしまった。
許しは請わない。君に/貴女に。
救いを求めない。貴女に/君に。
きっと嫁の度量がどうだなどと、浮気は男の甲斐なんて、イイオンナであろうとしてくれるだろ? 信じてるんだぜ?
だから、そこで止まったらダメっしょ。
君もきっと、そんな虜囚の鎖になりたくはないだろ?
貴女へきっと、これは俺がやるべきこととやりたいことが重なった言葉。
あるべきものを、あるべき形へ。
彼女の手を、強く握った。
「固法美佳さん、―――結婚してください」
「私、バツイチの男性はちょっと……」
断りやがったこのアマ! 振られたぞオイどういうことだ!
織斑一夏、三一歳。
三十路も超えて落ち着くかと思いきや全然知らない間に子供がいたり、かつて好きあっていたはずの女性に余裕で振られたり、まだまだ大騒動の香りがします。
イッピー知ってるよ! そういう星の下に産まれた宿命なんだって、イッピー知ってるよ! クソったれ!
「OutLine-SSBS」はKiLa様に書いていただきました。
こちらに関してはあまりにはっちゃけすぎなので、本編と分けるに至りました。
(味を殺さず手を加えることを断念した為)
私は非常に楽しめましたので、こういう形で公開いたします。かしこ。