それはまさに唐突だった。
何の前触れも無く、気が付いたら私という存在は初冬の葉の枯れかけた森の中で立っていた。
時は満月の光に満ちる深い夜。欧州の初冬は既に寒気に包まれており、人間ならば肌寒く感じるだろう風が森の中を吹き抜ける。そんな時、私は己がどういった存在なのかを自然と理解する。頭の中に、世界から情報が流れてくるような、そんな不可思議な感覚。
自分はなぜここにいるのか。どうして知性を保有して生まれたかを自覚していく。
嗚呼、そうか。これが人の
私はモンスターだ。人類に対する必要悪の魔性。生き血を啜り、人に対する敵対者であれと願われた王の末裔。
まったく以て人間は理解不能である。何故自ら弱者であろうとするのか。天敵たる我ら怪異を生み出すのか。
しかし、生まれてしまった以上、私はウラド・ツェペシュの末裔で在ろう。人を襲い、喰らい、その血を糧に顕在し続けよう。そうだ、まずは手始めに近くの村の人間共を喰いつくす事でもしてみようか。それとも串刺しのオブジェでも作って飾ろうか。
いや、それよりもまずは、目の前にある存在感たっぷりの
しかしながら、今は無性に腹が
「ああもう、興奮が抑えられそうにない。血が、血が欲シイ。とってもオイシい、真っカな血ガ」
こうして、人々の吸血鬼という存在への恐怖、そして王として君臨し国を守った悪魔染みた人間が、本当に悪魔であればという願いが結実する。この吸血鬼の存在が、彼の王が悪魔であったことの裏付けとなろう。それによってある種の安心感を得られるのだ。悪魔を倒した我々は正義だったのだと。
そうだ、あんな化物に勝てるはずがない。あんな化物が国を治めていいはずがない。だから俺たちは悪くない。そんな人間の淀んだ想いは、果たして生ある者の声か、それとも―――――
◇
15XX年。ワラキア平原に位置するブカレスト近郊の森の奥に、赤い小さな小屋が発見された。全てレンガで作られた、なんてことのないごく普通の小屋ではあるが、そのある場所がとても奇妙なのだ。小屋の周りには樹木や雑草が生え放題で、間伐も碌にされていない他、木が
「ちっ、まったくこんな何にもねぇ森に調査で派遣されると聞かされた時は一体なんだと思ったが、ただの徴収の小間使いか。……嫌になるぜ」
そんな悪態を吐きながら男は小屋の扉の前まで行き、ドアノブに手を掛けようとして気づく。なぜか、扉のドアノブにはカバーが掛けられ、更にはいかにも高級な金色のノッカーまでも付いていた。さっきまでは普通の小屋にある、木製の簡素な扉に見えたがと目を擦るが、目の前で見えるのは貴族の屋敷にあるような赤みがかった金属の扉があるだけだ。
不信に思いながらも、疲れていたのかと思い頭を軽く振って悪趣味なノッカーを三回叩く。
「私はノストレア男爵様からの命で、この地に突如現れたと噂されている小屋について調べよと言われている。返事がない場合、強引に扉を開けることになるだろう。さあ、いるのならこの扉を……って、え?」
そう声を掛けて間もなく、目の前でガチャッと大きな音を耳にする。家主が開けたのだろうか。それにしたって返事一つ寄越さないのは如何な物かと考えながらドアノブに手を掛ける。すると、男がそれを回す前に唐突に扉が少し開いた。何とも奇妙で不気味な雰囲気に男は最近耳にする魔女についての噂を思い出す。
いつからか、この国に限らず他の国々でも噂されるようになった魔女の存在。曰く、魔女達が一度儀式を行えば忽ち川の洪水が巻き起こり、更に地震や落雷の発生までも操ることが出来るとも言われる異端の者共。ここ何年かは魔女狩りが盛んに行われており、つい先日も若い夫婦が魔女の疑いを掛けられて火炙りの刑で処刑されたと聞いていた。
まさか、この家に住む者も魔女なのではと男は考える。もしもそうなのであれば、すぐに捕まえて身柄を裁判所に連行せねばと気を引き締めて、少し開いた扉を全開にして押し入る。そして――――――
「なっ、……えーっと、…ハハハッ。俺は夢でも見ているのか?」
男はあまりの光景に目を擦って再度周りを見渡すも、やはりそれは変わらない。扉を開けた先は、
これも魔女の仕業なのだろうか。しかしいくら何でもこれは無理だろう。いやいや、落雷や竜巻すら発生させることが出来るのだからこれくらい訳ないのだろうか。
突然過ぎる神秘に出会して、軽く現実逃避気味に思考を明後日の方向に向ける男であったが、屋敷の奥から靴が床を子気味良く鳴らす音が聞こえてきた。家主が現れると感じ取り、即座に姿勢を正して、右手を腰に引っ提げた短銃の傍に寄せいつでも抜けるように身構える。
「初めまして、私の館にようこそ。……今宵はいい夜になりそうねぇ、ふふふっ」
奥から現れたのは絶世の美女、いや、年齢を考えると幼いながらも妖艶な雰囲気を醸し出す少女と言った方が適切かと観察する。身長は140cmあるのかどうかという幼い外見で、青みがかった銀髪にナイトキャップらしき赤いリボンが目立つ白い帽子を被っている。衣服もそれに合わせたのか白い白地に赤いレースを幾重にも使い、柔らかに膨らんだスカートが特徴の貴族の子女らしい豪華な衣服を身に纏っていた。その少女は今も、濡れて光っているように思える紅い瞳で男を見つめていた。
「こちらこそ初めまして……どんな人物が来るかと身構えたが、まさかリトルレディが来るとは思わなかったぜ」
そう挨拶を返し、
現れた少女はどうみても10歳そこらの貴族の子供にしか見えない。こんな森の奥深くに住んでるだけでもおかしいが、その者が幼い少女という益々奇怪な状況に男は混乱しっぱなしだった。しかしそれでも、なけなしの冷静な思考で少女に声を掛ける。
「それで出てきて貰って早々悪いんだが、屋敷の当主を呼んできてはくれないか?今日はここの主に用があるんだ」
努めて優しく、少女に頼み事を依頼する。男は仕事柄、荒っぽい事ばかりの環境にいるからか、幼い少女との会話に慣れず少々ぶっきらぼうに言い過ぎたかと後悔したが、その考えはある意味で正しかった。
「……ここは
そう少女が芝居がかったように口にした瞬間、突如男の目の前である床がカーペット諸共切り裂かれて亀裂が走る。突然の事態に男は焦って扉の方へ数歩後退するも、すぐさま空いていた扉が独りでに大きな音を立てて閉まる。それは、さながら罪人を牢獄に閉じ込めたかのような感覚さえ覚える程勢いが強かった。
「では、改めて名乗ろうか。
その少女、レミリアが言うや否やシャンデリアの光は紅く染まり、元々が赤いロビー全体が更に深い真紅となる。
それから数秒経って、レミリアが右手を掲げて何かの呪文を呟き始める。男は聞き取れなかったが、身体が、生物としての本能が
「ククッ、その扉は
男の後ろでレミリアが、喜悦を隠すことなく現実を言い渡す。逃げ腰の滑稽な男を見て、大層愉快そうに邪悪な笑みを浮かべている。
そして、掲げられた右手が紅く輝いているのを視認した男は、常識を遥かに逸した事態に驚愕と原始的恐怖が湧き出て体が無意識に震えた。
「ああ、イイ、良いぞその表情。退路を失い、
そう
その瞬間、屋敷の外から聞こえる森の雑音が消えた。
目の前の圧倒的な力の波動に、すべての事象が意味を無くしていく。
レミリアを中心に、床や周りの装飾品が爆ぜる。しかし、その音ですらレミリアの力の前では鳴ることすら許されない。
どこまでも紅い魔の力が、質量を持った斬撃として放たれる。
一閃。
男の右肩を正確に狙ったその斬撃は見事命中し、同時に腰に提げた短銃の入っている麻袋をも切り裂く。
「あぁっ、うあ…アギャアアァァァアアアッ!」
右肩から先が宙に舞う。腰にあった物は既に鉄屑と化した。
男はあまりの痛みと、現実離れすぎた光景を前に発狂せんとばかりに激痛で絶叫を上げる。痛みにのたうち回っていると、いつ近づいたのか、
「ふうん、あなたは結局叫んで転げまわるだけのようね?最初は銃を携帯している状況で撃とうともせずに、扉を開けようとしたりして少し面白い反応を期待したのだけれど、ただ臆病なだけか…。まあ後の事を考えるとやりやすいか」
そう言って、レミリアは男に近くに腰を下ろしてまた右手に魔力を込め始めた。
男は痛みで意識が限界寸前であったが、それでも無事な左腕で体を起こそうと試みるも、全身が鉛になったかのように動かない。
そうして、レミリアが少し貯めた魔力を男に流し込む。すると、男は痛みがみるみる内に痛みが引いていく感覚を覚える。
「さて、それじゃあ魔力もぶつけたことだしやりましょうか」
そう言うと、レミリアは倒れている男の上に右手を突き出したまま静止した。
ある程度痛みも引いて僅かに残った混濁した意識の中、唐突に
身体を触られていないのに、何故か触られて、
それから数秒か、或いは数分か時間が経つと、レミリアは目を開けて男に語り掛ける。
「……あなた、病気を患った妹がいるわね?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。いや、むしろ男は理解を拒んだ。
それは当たり前だった。この話は友人や同僚にも話しておらず、数年前に出会って以来治療を続けて貰っている旅の医者にしか話していないのだ。なぜそれを、見ず知らずの悪魔が知っているのか。
「…あんたはいったい、何を言っているんだ?」
二転三転と変わる状況に、さっそく男はやけになってぶっきらぼうに疑問をぶつける。
「さてね。それよりもあなたに、一つ選択をして貰おうと思ってね」
とりあえずここまで