「……子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
ある男は、赤毛の少年の隣でそう呟いた。実の子ではない少年と月を見ながら、そう言った。
明確に誰かに聞かせたかった訳ではない。気付けば男──衛宮切嗣は、縁側で共に座る士郎に向けて口を開いていた。
当然のように、養子として引き取った士郎からは不機嫌そうな声が飛ぶ。深い憧れを持ち、切嗣に羨望を抱いているのだから、自身を否定するような"だった"とは口にして欲しくないし、そう思っている事さえ嫌なのだ。
だが、どうあっても切嗣が"正義の味方"になれなかった事実は変わらない。
彼の生涯において、大切な人をその手で殺め、今も尚、自分の娘を抱き締めてやる事さえ出来ない男が、"正義の味方"である筈がない。
少なくとも、彼はそう思っている。
たった一つの願いさえ叶わず、たった一人の娘でさえこの手で抱き締めてやれない、と。
十ある命の内、一を自らの手で切り捨てて九を選ぶ。
その生き方が間違いだったのか?
答えをくれる者はもう居ない。
初恋だった少女は死んだ。
実の母親のように慕っていた女も死んだ。
最後の最後に大切だと知った女も死んだ。
妻として愛してきた女も死んだ。
衛宮切嗣の傍にはもう誰も残されていない。……いや、たった一人だけ、彼の傍には少年が居た。切嗣が助ける事が出来た存在が。
そして、そんな少年が、死が刻一刻と迫る切嗣へ、一生消える事の無い誓いの言葉を口にする。
俺が代わりに"正義の味方"になってやる、と。
その言葉が、どれだけ切嗣の心に安堵を与えたのかは分からない。
ただ、在りし日の遠い記憶の中に、言えなかった言葉を思い出せた。
──どんな大人になりたいのかを聞かれたときの答えを。
だが、思い出せたところでもう時間はない。
切嗣はそっと、目を閉じる。
思い起こされるのは、彼のこれまで生きてきた軌跡。
救えなかった少女が居た。殺してしまった女が居た。死を見届ける事さえ出来なかった女も居た。
解り合えなかった……解ろうとしなかった少女もいた。
それらの想いを抱きながら、切嗣は眠るように息を引き取った。
肩を揺すられるのを感じる。
同時に、自身を心配そうに呼び掛ける声も。
その声をひどく懐かしく感じて、衛宮切嗣はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫……? 切嗣。サーヴァントの召喚は延期にした方がいいんじゃ……」
「アイリ……!?」
瞳に映る女性に、切嗣は驚きと戸惑いがない交ぜになった声を挙げた。
彼の視界に飛び込んだのは、美しいまでの美貌をもった、衛宮切嗣の妻である女性。それも、もうこの世には居ない筈の、死んでしまった筈の女だ。
それが何故今も生きて、切嗣の傍に居るのか。何故不安そうに自身を見つめているのか。
ふと切嗣が周囲を見渡すと、そこは彼の最後の記憶の場所、士郎と共に月を眺めていた衛宮の屋敷ではなかった。
切嗣が座り込んでいたのは、日本から遠く離れたアインツベルン城の礼拝堂。その床に描かれた魔方陣の中心だ。
そして──黄金の輝きを放つ鞘が、祭壇に設置されている。
「本当に大丈夫なの……? もし体調が優れないなら、別に今日でなくても……」
「いや、大丈夫だよ、アイリ。……少し、サーヴァント召喚後の事を考えていたんだ」
「そう、なの?」
再度問い掛ける声に、切嗣は至って平常心を保ちながら頷く。
本当は、何故なのかと叫び出したい程だった。
夢なのか現実なのかすら判断が付いていない。にも関わらず、それでも構わないと思う。
死ぬ前の走馬灯を見せられているのか、或いは過去に戻ったのか。
全く解らないが、切嗣はアイリを安心させるために笑みを浮かべ、過去の記憶通りにサーヴァント召喚の儀に入る。
「告げる──」
解らない。
僕は死んだ筈だ。
もし本当に過去に戻っていたとして、サーヴァントを召喚してどうするというのか。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば答えよ──」
詠唱を紡ぎつつ、切嗣は必死で思考を回す。
自身の身に、一体何が起こっているのかを。
ただの夢であるなら話は簡単だ。だが、もしここからやり直す事が出来たとしたら……
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世全ての悪を敷く者──」
体内を蠢く魔力と激しい風圧の、凄まじいまでの苦痛は無視する。
何せこれは、切嗣が一度経験した痛みだ。失敗などありえない。成功する未来しか彼の頭にはない。
もう切嗣は、世界の恒久的な平和を願ってなどいない。
過ちを繰り返したくはないという思い。ただそれだけで、彼はサーヴァントを、過去に解り合えなかった少女を召喚する。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ──ッ!」
そう詠唱を告げると、切嗣が数分前に描いた魔方陣が、眩い光の輝きを放ち始める。
しかし切嗣もアイリスフィールも、その輝きにも無論荒れ狂う風圧にさえ意識は向かない。
ただ魔方陣から現れた、それ以上の輝きに目を奪われてしまっただけの事。
衛宮切嗣が召喚したサーヴァント──彼女の流れるような金髪には一切の穢れが無く、エメラルドのごとき瞳には一点の曇りもない。
可憐さと凛々しさ、清廉ささえも、ただの立ち姿から感じ取れてしまう。
それほどの英霊が、眼前の切嗣へと口を開く。
「問おう。貴方が私のマスターか」
「────ああ、そうだ。僕が君の……アーサー王のマスター、衛宮切嗣だ」
初めて彼女を召喚した時は、一言たりとも言葉を交わさなかったというのに、今は自身の名を告げた。
それがどういう意味なのか。解るのはこの場において、衛宮切嗣以外には居ないであろう。
憤った感情は消えていない。英霊たちに向ける感情も消えてはいない。
たった三度、それも彼女を縛るための令呪を使った、会話とも言えないものも、切嗣の記憶には新しい。
彼女の抵抗も無視して、無理矢理聖杯を破壊させたことも……勿論覚えている。
だが、これからの戦いには彼女──アルトリア・ペンドラゴンの力が必要不可欠だ。
今度はちゃんと、真剣に会話をしないければいけない。そう思う切嗣の瞳には、両の手から零れていった人達の姿が浮かんでいた。
「サーヴァント、セイバー。召喚に応じ参上した。
これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。ここに契約は完了した。
マスター、切嗣と呼ばせてもらっても?」
「僕の事は好きに呼んでくれ」
「ええ。では、切嗣と」
それが、二人の二度目の出会いだった。
今宵、ありえなかった──ありえる筈もなかった運命の歯車が動き出す。
ちゃんとセイバーと話をする切嗣と、信頼出来るマスターだと確信するセイバー。
ただし、切嗣さんの"ズル"を許容してくれるかどうかは別の話。