the Garden of demons   作:ユート・リアクト

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悪魔の境界  番外編②

 

 

『普通の人間はね、拳銃をマシンガンのように乱射したりはしないんだよ』

 エボニーとアイボリーと名付けられた、二丁の銃。それを作り出した銃職人は、そう言って苦笑したものだった。

 秒間十数発の連射にも耐え得る強靭な銃身など、おそらくはダンテ以外には無用の長物かもしれない。それだけの速さでハンドガンの引き金を引ける人間など、この世には存在しない。悪魔の血を引くダンテだからこそ可能な芸当だ。

「ハッハァ、こいつを喰らいな!」

 場違いな歓声と共に、ダンテの両手が火を吹くような銃撃を披露する。

 ハンドガンにあるまじき猛連射による銃弾の雨を前にして、だが『聖堂教会』と『魔術協会』の猟犬――言峰綺礼とバゼット・フラガ・マクレミッツは、両腕で頭をガードするだけで、避けようとすらしなかった。詰め襟の僧衣、フォーマルなスーツは袖まで分厚いケブラー繊維製。しかも教会代行者特製の防護呪礼と硬化のルーンとで、それぞれ隙間なく裏打ちを施されている。四十五口径の拳銃弾程度ならば至近距離であろうとも効果は望めない。

 そのはずだった。

「な――」

「……に?」

 当惑の声が重なる。

 雷光の尾を引きながら綺礼とバゼットに襲いかかる弾丸の威力は、もはや通常の拳銃弾の域にない。ダンテの人ならざる魔力を込められた弾丸は、有無を言わさぬ衝撃で以って綺礼とバゼットを吹き飛ばしていた。

 悪魔の血を引くダンテは、弾丸に魔力を込めるといった行為を平然と行える。それによってただの弾丸も威力を増し、二大組織の武闘派にも充分に通用する兵器となるわけだ。

 着弾の衝撃で、綺礼とバゼットが事務所の窓を突き破って外に追いやられたのを見届け、ダンテは二丁の銃のマガジンを交換する。

 それから、彼の背後で呆然と座り込む真夜中の訪問者――この騒動の中心人物である、蒼崎橙子のほうに振り向いた。

「魔術師と言ったな。あんた、名前は?」

「……蒼崎橙子よ」

 その名前を聞いて、ダンテの視線が鋭くなる。

「――へえ、あんたが? 本物と寸分違わぬ義手や義足、果ては魂の容れ物としての肉体そのものまで作り出せる人形師がいる、と噂に聞いたことはあったが……まさか、こんな美人だったとはね」

 面食らったように嘯くダンテだったが、気を取り直して彼は先をつづける。

「オーケー、トウコ。俺の名前はダンテだ。自己紹介が済んだところで本題だが、あの連中から守ってほしい、ってのがあんたの依頼だったな?」

 綺礼とバゼットが吹き飛んだ方向を見据えてダンテは言う。

 緊張の面持ちで橙子は頷いた。

「あんたが噂通りの魔術師なら、大方、この騒ぎも『封印指定』とかいう希少な才能を巡っての争奪戦、と言ったところか? まぁともかくだ」

 トリガー・ガードに指をかけ、早撃ちで有名なガンマンのようにダンテは右手のアイボリーを回転させる。

 従来のモデルよりも遥かに巨大で取り回しも容易ではない大型自動拳銃は、彼の手の中にあって軽快に動き回っていた。腕の延長、肉体の一部ででもあるかのような不自由のなさ。あまりの一体感に、橙子は目を奪われる。

「聖堂教会と魔術協会、神秘とその秘匿を巡る闘争なんていう、くっだらねえ小競り合いを見かけたからには俺も黙っちゃおけない。事態を収拾するためなら街を焼き払うことも躊躇しねえバカどもだからな、あいつらは。はっきり言って嫌いなタイプだ」

「……その『嫌いなタイプ』には、私も含まれるのかしら?」

「あんたも魔術師なら、もちろんだ」

 試すような橙子の物言いに、ダンテは取り繕うこともなく即答する。

「魔術師が訳のわからねえ研究に没頭し、無関係な人間を巻き込むから、あちこちで血が流れることになる。罪もねえ人間を殺めるという点じゃ、俺が憎くて憎くてたまらねえ悪魔どもとやってることは一緒だしな」

 静かな、だが獰猛な怒りを秘めたダンテの眼差しを受けて、橙子の胸に諦めの念が芽生え始めていた。

 私はこの男に助けてもらえないかもしれない。

「その定義だと、貴方が私の依頼を受ける道理はないのだけれど」

「確かにそうだな。だが」

 眼差しから殺気を消したダンテは、いたずらっぽく破顔して言葉をつづけた。

「あんたからは魅力的な香りこそすれ、掃き溜めの匂いはしない。魂が腐ってない証拠だ。見れば、魔力の流れにもまるで淀みがない。マジックサーキットとかいう回路の造りがきれいだからだろうな。まぁつまりだ、あんたは外見だけじゃなく内面も〝いい女〟だ、ってことさ」

 俺が保証するぜ、と言ってウィンクを飛ばすダンテに、橙子は柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。

 かつて、こんな飄々とした男を好きになった経験が、彼女には一度あった。

「それでなくとも女を見殺しにするなんて俺のスタイルじゃないんでね。最近は仕事もなくて退屈だったしな。ガンショップを冷やかすのも『ラブ=プラネット』に行って可愛い子ちゃんのパンツにチップを挟むのにも、もう飽き飽きだ」

「……あ、呆れたわね。まさか暇つぶしで、代行者と執行者とを同時に相手取るつもり?」

「人生には刺激が必要なのさ。そうだろ?」

 ゲームに興じるかのような気軽さで戦闘に臨もうとするダンテの赤い背中に、橙子は言葉をかける。

「相手は対魔戦闘のスペシャリストよ。だから悪魔の血を引く貴方に対しても有効な手段があると見て間違いないわ。……気をつけて」

 らしくもない助言が口を衝いた、と言った後で後悔する橙子。

 気恥ずかしさで顔を赤くする彼女を見て、ダンテはからかうような笑みを浮かべる。

「心配してくれるのかい? いいね、やる気が出てきた」

 景気のいい台詞とは裏腹に、ダンテの膝から一瞬、力が抜け落ちた。

「お……?」

 軽い驚きで声を漏らすダンテは、そこでようやく気がついた。

 言峰綺礼の黒鍵によって穿たれた無数の刺傷。それが回復していないのだ。

 人間よりも、そして並みの悪魔よりも遥かに強靭な肉体を持つダンテの自然治癒能力は常軌を逸している。たとえ腹を突き刺されたり眉間を撃ち抜かれたりしようと、その程度のダメージならば瞬く間に完治し、傷痕すら残らないのが常だ。

 だが、黒鍵に穿たれた傷口は今なお多量の血を流し、ダンテの体力を奪っている。

 黒鍵、別名『摂理の鍵』の持つ霊的干渉力が、ダンテの自然治癒能力に何らかの影響をもたらしたのかもしれない。橙子は先ほど、相手には悪魔の血を引くダンテに対しても有効な手段があると言っていた。

「――なるほどね」

 失血感と、その〝寒気のような熱〟から来る興奮にダンテは口角をつり上げる。まさしく手負いの獣の如き、獰猛な表情。まごうことなき死の感触が、この男のスイッチを入れてしまったらしい。紅蓮の炎のごとき闘気と魔力とが、その全身から沸々と湧き上がっていた。

 人間であれば失血死も必至な量の血を流し、不気味な小ぬか雨のような音をたてるダンテは、しかし衰弱など微塵も感じさせぬ力強い足取りで出口のほうに歩いていく。

 頑丈な樫の木でできた両開きの扉を、蹴破らんばかりの勢いで蹴り開けながら、最強の悪魔狩人は嬉々として叫んでいた。

「楽しいパーティになりそうだ!」

 

 

 

 

 留め具が弾ける。

 頑丈な樫の木でできた扉は、いびつに歪み、まるで指向性の爆薬でも使用されたかのようにダンテの前方へと吹き飛んだ。

 ものすごい勢いで滑空する左右の扉は、だが進路上にいた綺礼とバゼットによって難なく弾き返される。ハンマーそこのけのバックハンドに打ちのめされた扉は、今度こそ粉々の木片と化して薄汚れた裏路地の地面に転がった。二大組織の猟犬に、さしたるダメージは見受けられない。魔力の乗った弾丸の衝撃に吹き飛ばされこそすれ、その両腕に損傷は与えられず、防弾仕様の衣服にも不具合は生じていない。

 まさに意気軒昂といった風体の綺礼とバゼットに、ダンテは『ヒュウ♪』と感嘆の口笛を漏らす。

「やる気たっぷりって感じだな」

 大きな闘気を発散する二人に微笑み、ダンテは右手のアイボリーを持ち上げ、その必要以上に無骨な銃身で自身の肩をとんとんと叩く。

 臨戦態勢の二人とは対照的に、まるで緊張感がない。むしろリラックスしている。それが絶対の自信に裏付けられた不敵さであるのは言うまでもない。

 そして、こういう手合いが決して侮れぬ強敵であることを、歴戦の代行者と執行者は知っていた。

「なんという力だ……ただの弾丸を、あそこまで底上げするとはな」

「噂通り……いや、噂以上の力ですね。魔術協会が彼を危険視し、避けているのも頷ける」

 ダンテの軽口を無視し、綺礼は懐から黒鍵の柄を複数本取り出すと、それを両手の指に挟みこんで銀色の刀身を具現化させる。その隣では、バゼットが常に背負っている長筒を投げ捨て、強化のルーンを組んだ手袋(グローブ)をはめ直し、拳を引きつけてファイティング・ポーズを取っている。

 ダンテの力を目の当たりにし、彼が二大組織さえ不干渉を決め込むほどの実力者であることを再確認して尚、二人が退く様子はない。与えられた任務は遂行する。それが血生臭い部署に身を置く彼らの役割である。たとえ相手が悪魔であろうと。

 夜明け前の一瞬。

 ただでさえ全てが静寂に包まれる時間だというのに、この一帯はそれに輪をかけた静寂に支配されていた。

 急激に集中し、高まっていく、渦のような殺気。

 空気の音さえも聞こえそうなほど静まり返った、緊迫しきった夜のしじま。遅れて事務所を飛び出し、ダンテの背後で彼を見守る橙子が、ごくりと生唾を飲み込む。

「嵐の前の静けさ、ってやつか」

 素人なら耐えかねて悲鳴を上げてしまいそうな緊張感の中、不意に口を開いたのは、やはりダンテだった。あらゆる局面でも動じない彼こそが、この場の主導権を握っている。

「嫌いじゃないが、もうちょい騒がしいのが性に合っててね。ハード・ロックは好きかい?」

 パーティの進行役のような口調で、ダンテは先を進めた。

 その両腕が、激しい雷撃を帯びる。ダンテの力の顕現である赤い魔力。

 力の高まりが最高潮に達した瞬間、悪魔狩人は両手の銃を嬉々としてかき鳴らしていた。

「演奏するぜ!」

 静寂を打ち破る、強力な霊気をまとった弾幕攻撃。

 数多の悪魔を葬り去ったダンテの銃撃を前にして、しかし綺礼とバゼットに焦りはない。

「闘争の時間だ……いくぞ執行者、遅れを取るな!」

「貴方と組むと、ろくな目に遭ってない気がするのですが……まあいいです。いきますよ、代行者!」

 かけ声と同時に二人は行動を開始する。前進するバゼット、後退する綺礼。互いの役割を理解している両者は打ち合わせをする必要もなく、それぞれが得意とするポジションに移動して悪魔狩人の迎撃にかかる。

 迫りくる弾丸に真正面から突っ込む格好のバゼットは、やはり両腕で頭を庇うのみで、避けようとすらしなかった。先ほどはそれで吹き飛ばされこそしたが、今度ばかりは同じ轍を踏むバゼットではない。弾丸に魔力を込めて威力を底上げしているのだと解ったならば、そう弁えたうえで対処すればいいだけのことである。そして、その気になったバゼットにとって、ダンテの銃撃も決して耐えきれない程の脅威ではなかった。

 金属バットの猛打のような衝撃に揺るぐこともなく、しかと地を蹴って突進してくるバゼットに、ダンテは思わず口笛を吹いた。

「見かけによらずパワフルなお嬢さんだな」

「お嬢さんではありません、バゼットです」

 ダンテの軽口に生真面目に返事を返しながら、バゼットは右腕を引きつけ、拳を握りしめた。

 銃器が用を成さない至近距離まで敵の接近を許したダンテは、だからこそ迷うことなく愛銃をホルスターに仕舞い、背中の大剣『リベリオン』に手を伸ばす。ケブラー繊維は銃弾に対する耐性とは裏腹に、刃物による切断には極めて脆い。それでなくとも、当たった際のダメージは銃よりも剣のほうが格段に上だ。エボニーとアイボリーの洗礼を掻い潜るほどの強敵に出会った場合の、これがダンテの対処法であった。

 上段から振り抜かれ、稲妻のように閃く大剣。長大な刃渡りと引き換えに小回りの利かぬ大剣よりも、拳による打撃の方が機敏さの点において圧倒的に有利なはずなのだが、魔界最強と謳われた剣士の血を引くダンテの斬撃は、そんな理屈をも無視してバゼットに先んじていた。単純にダンテの動きの方が速いのだ。あとは『斬られた』という認識さえ与えることもなく、雷のような一閃が女の肢体を無残に斬り伏せるものと――

 横合いから飛来した黒鍵の剣先がリベリオンと激突し、ダンテの攻撃を阻害して女執行者をアシストしたのは、そのときだった。

 それが後方支援に回った言峰綺礼の仕業であるのは言うまでもない。そして、申し合わせたかのようなタイミングで援護射撃が入ることを予期していたバゼットにとって、この援護射撃も驚きに値しない。対立する二大組織の回し者同士だというのに、まるで長年のパートナーのように息の合った動きだった。

「シッ!」

 バゼットの攻撃を阻むものは今や何もない。鋭い呼気とともに、充分な踏み込みを経過して撃ち出された右のボディ・ストレートが、まずはダンテの鳩尾にめり込む。内臓破裂、あるいは背骨がへし折れることも大いにあり得る、凶悪な破壊力のストレート。

 声もなく身体をくの字に折り曲げたダンテの下顎を狙って、返す刀ですかさず左のアッパーカットがフォローされた。たかが二撃、されど二撃。人ひとりを仕留めるのに、大仰な手数など必要ない。

(取った……!)

 満足の持てる手応えに、バゼットは勝利を確信する。むべなるかな。硬化のルーンを組まれ、タングステン鋼を超える硬度の手袋(グローブ)に包まれたバゼットの拳は、まさに建物を解体する鉄球のごとき威力をダンテに叩き込んでいるのだ。さしもの魔剣士の息子といえど、これを二発もジャストミートされて無事に済むはずがない……

 のけ反って不様に天を仰ぐダンテが、なのに手を動かして剣先を突き込んできたので、バゼットは最強の悪魔狩人の危険度をまだ見誤っていたことを思い知らされた。

「くぅっ!?」

 目視もなく、体勢だって不十分だというのに機械のような正確さとスピードで振りかざされる大剣に、さすがのバゼットも回避が遅れた。鋭利な剣先がスーツの胸元を引っかけ、その下のカッターシャツも巻き込み、そうして横一線に切り裂かれた衣服の隙間から飾り気のないワークアウト・ブラが露出する。だが、そのことを気にする恥じらいも余裕も、今のバゼットにはない。

「……っとと。やるな、お嬢さん。こんな重いパンチを喰らったのは久しぶりだ」

 たたらを踏みながらもバランスを取り戻し、殴られた下顎を撫でさするダンテは、逃げるように間合いを離したバゼットを称賛する。だが、それを素直に喜べる程、バゼットは穏やかではいられない。数多の敵を叩き伏せた、単純だが必殺のコンビネーション。それを耐え抜かれた挙げ句、反撃という汚点まで追加されたのだ。その憤怒たるや、視線だけで戦場の鴉をも追い散らせよう。

「おいおい、そんなに睨むなよ。せっかくの美人が台無しだぜ?」

「……タフだと言っても限度があるでしょうに。本当に生き物ですか、貴方は?」

 今度ばかりはダンテの軽口を無視して、バゼットは苛立ちを吐き捨てた。

 闘争において冷静さを欠くことは死に直結する愚行だと理解してはいても、それを納得して飲み下せる程、彼女は歳を重ねていない。たとえ封印指定執行者という人型の修羅といえど、バゼットもまだ、若いのだ。

「さあ? 自分でもよく分からなくてね」

 おどけるダンテは、血気盛んな若武者を見つめる老練した戦士の面持ちで、にやにやと笑みを浮かべる。

 その余裕の態度を気に入らないと感じたバゼットは、再度地面を蹴りつけてダンテに突進していた。さっきの攻防で相手が自分よりも優れた身体能力、戦闘技術の持ち主であることが理解できぬほど愚かではないバゼットだが、それで怖気づくような様子は微塵もない。

「ガッツのあるお嬢さんだ……期待するのは五年後だがな」

 闘争心の塊と化した女執行者の拳を、紙一重の見切りで回避し、あるいは剣で防ぎながら、ダンテは呟く。

 肩から先が消失したかのように見えるスピードで繰り出されるパンチ。嵐のような回転力と拳圧が織り成す威力に、大気がヒステリーを起こして荒れ狂っているが、ダンテの赤いコートは揺らせても、その不敵な微笑みまでは揺らせない。

 バゼットの連撃の合間を縫うように、絶妙なタイミングで飛来する黒鍵。だが、それすらも決定打には至らない。常人なら視認すら危ぶまれる速度の投擲も、ダンテは人外の反応速度でかわし、叩き落とし、時には直撃に耐えつつ、目の前のバゼットに対峙しつづけている。将来が楽しみな戦士を見つめるような表情で。

 見守る蒼崎橙子が、まるで大人と子供が戦っているかのようだと思ってしまう程、両者の実力差には大きな開きがあった。

「このぉ……!」

 顔面ばかりを狙うコンビネーションを囮にして放たれた下段回し蹴りを、まるで読まれていたかのように飛び越えられると同時に、バゼットの苛立ちはピークに達した。

「舐めるなあッ!」

 腕の戻りやカウンターへの警戒も度外視し、大きく右腕を引きつけて渾身の一撃を解き放つ。

 ――硬化、強化。

 何の工夫もプロセスも無しに単調な大振りが当たるような相手ではないが、これ見よがしに予備動作を見せつけてやった方が、相手の性格からして、あえて正面から受ける可能性が高かった。そんなバゼットの期待通り、ダンテは剣を下ろして構えを解くと、まるで迎え入れるように両手を広げたではないか。

 ――加速。

 それは絶対の自信の表れなのか、あるいはどうしようもない馬鹿なのか。いずれにせよ、ぶん殴ることに変わりはないバゼットである。その余裕たっぷりなニヤけ面を、突き崩してやります。

 ――相乗

「食らえええッ!!」

 精神による詠唱で高まりに高まった威力を集約し、いざバゼット渾身の一撃が撃ち出される。

 乾坤一擲。時速にして八十キロという数値を弾き出す必殺の右ストレートが、依然不敵なスマイルを浮かべるダンテの鼻っ面を目がけて射出され――

「な――」

 驚きの声が漏れた。バゼットの口から。

 結果としてバゼットの拳は、みごとに空を切り、ダンテの鼻を頭蓋骨にめり込ませることは実現できなかった。なぜなら直撃の瞬間、両手を広げて立っていたダンテの姿が、かき消えたからだ。それこそ煙か幽霊のように、だ。

 躱された――否、違う。それでは瞬時に姿を消したダンテが、バゼットの後方に陣取っていた言峰綺礼の目の前にいきなり出現した理由を説明できないではないか。

 そう、それは『回避』ではなく『移動』だった。

「今のは……!」

 魔術の何たるかを知るバゼットと、とりわけ魔導を極めるべく日々執心している橙子は、その怪異の名を知り得るが故に驚愕の念を隠せない。

「空間転移ですって!?」

 蒼崎橙子の驚きもむべなるかな。

 この世界から失われて久しい秘術、現代では決して再現が不可能な神秘の極致――そういった〝奇跡〟を、魔術師たちは『魔法』と呼ぶ。その『魔法』の域に近しいとされる大魔術の一つが、空間転移だ。

 高次元を経由して一瞬のうちに移動する魔術を、だがダンテは特別な準備も呪文詠唱もなしに行使してみせた。たとえ魔術刻印の補助を受けたとしても考えられない発動速度で、あたかも手足を動かすかのような自然さで、だ。

 悪魔の異界常識に代表される、異常な空間干渉力のみが可能とする、種も仕掛けもないエアトリック――蒼崎橙子のような天の才を持つ魔術師が、確かな理論と過程を踏んでようやく到達する高みが、ただの一息で踏みにじられたと言っても過言ではない冒涜的なワンシーンであった。

「将来有望なお嬢さんとのデートを楽しみたいんでね……野暮な外野には、すっこんでもらうぜ。悪いがな」

 バゼットの意表を突き、まんまと出し抜くことに成功した緋色のトリックスターは、まずは言峰綺礼を無力化するべく背中の剣に手をかけた。バゼットとの一騎打ちに水を差されたくない思惑ももちろんあるが、後方支援を断つことによって状況を優位に進めるのが戦いの定石である。ダンテの個人的な目論見は、図らずも合理的なやり方に繋がっていた。

「祈りは済ませたかい、神父さん?」まさしく聖職者に牙を剥く悪魔のごとき微笑みを浮かべ、ダンテは背中の剣に手をかけた。「命乞いはナシだぜ?」

「ぬぅ……っ!」

 聖堂教会代行者とはいえ生身の人間に、魔剣士の奇襲を防ぐ手立てがあるとは思えない。さしもの言峰綺礼も重苦しい目を焦りに見開く。

 接近を果たしたダンテに応戦すべく、とっさの反応で両手に黒鍵を抜いたのは歴戦の代行者としての貫禄かもしれない。だがそれも、圧倒的な実力差の前に突き崩されようとしていた。

「俺を相手に剣で挑むたあ、勇敢だな」

 だが無謀だ、と鼻で笑うダンテの右腕が雷光のように閃く。

 けたたましい金属音が鳴り響いた。刃渡りだけならリベリオンに対抗できる黒鍵も、あくまで投擲に特化した刃物である。そして元より、この世での実体すら定かではない半霊体の刀身が、数多の悪魔の血を吸って磨き抜かれた地獄の剣に、文字通り太刀打ちできるはずもない。

 薄いガラスが割れるように呆気なく砕け散る黒鍵。

 魔力で編まれた刀身が、あわい光の粒子となって消滅する様子にダンテは微笑み――

「あん……?」

 武器を無力化されて怯むかに思われた綺礼が、後退するどころか素手のままダンテの懐に踏み込んでいることに気づいて、そんな間の抜けた声を漏らしていた。

「――人の身と侮ったな、魔剣士の息子よ。元より斬り合いで勝てるなどと思ってはおらん」

 感情の籠らない声で嘯く綺礼の万力のように硬く筋張った指が、さながら蛇のようにダンテの右手首に絡まった。

 そびえ立つような黒衣の長身が低く身をかがめ、そのままダンテの右腕の下をくぐる。次の瞬間、まるで怪我人に肩を貸すかのような姿勢で、綺礼はダンテの右腕を肩の後ろに背負い込んでいた。

「あの動きは……!」

 離れた位置で一連の動作を見届けていた橙子が、はっと息を飲んだ。

 黒鍵使いの代行者。その先入観に騙された。言峰綺礼にはバゼット・フラガ・マクレミッツのような近接戦のスキルなどないと早合点していた橙子は、ダンテの身を案じる間もなく理解する。あれは中国拳法、八極拳の――

 綺礼の体側がダンテの腰に密着すると同時に、左腕の肘は鳩尾を一撃していた。

 鮮やかなまでに決まった『六大開・頂肘』。リベリオンを持つ手首を掴んでからは、すべてが一瞬のうちの一動作である。まさに八極拳の極意とされる攻防一体の套路だった。

 思いもよらぬ反撃を受け、ダンテの動きが一瞬、硬直する。見逃す聖堂教会代行者ではない。

 ダンテの内懐に、僧衣の長身が死神のごとく滑り込む。八極拳が最大効果を発揮する至近距離。その拳は、八方の極遠に達する威をもって敵門を打ち開く……

 踏み込んだ震脚が、ひび割れたアスファルトの亀裂をさらに広げながら地面を揺るがし、繰り出された巌のごとき縦拳が、ダンテの胸板を直撃する。金剛八式、衝捶の一撃。もはや胸元で手榴弾が炸裂したも同然の破壊力だった。吹き飛ばされたダンテの身体は藁屑のように宙を舞い、さびついたダストボックスに受け身も取れぬ勢いで突っ込む。赤衣の長身が酸っぱい臭いを発するゴミの中に埋もれたのを見届け、ゆっくりと吐気して残心する綺礼。

「……私のコレは真似事でな。師の塘路を真似ただけの、内に何も宿らぬものだが――」

 それでも相手が常人であれば一撃で胸郭を粉砕し、肺と心臓をまとめて粗挽き肉へと変えるだけの威力。そう、あくまで常人が相手であれば、の話である。

「やはり、そんな程度の児戯では貴様に通用はせぬようだ」

 瞬く剣閃がダストボックスを真っ二つに切り裂き、そうして二つに分かれた鉄屑のあいだから血の色をした男が姿を現す。確かめるまでもないが、まったくの無傷である。攻撃を受けたことより身体の汚れのほうが気になるのか、ダンテは自慢のコートに付着した野菜の食べかすやらゴキブリの死骸やらを鬱陶しそうに払い落としていた。

「……こいつは驚いた。最近の神父さんはカンフーもできるのか?」

 俺もブルース・リーには影響を受けた、とダンテは言って、ふざけ半分にカンフーの真似事までし始める。

「なんて……化け物」

 あまりにも遅蒔きながら、バゼットは本当にこの男に勝てるのだろうかという不安に襲われていた。じりじりと無意識に後退する両足が、端的に彼女の心情を表していた。それは伝説の魔剣士の息子、最強の悪魔狩人と対峙した誰もが等しく感じる力の差であり、絶望だった。

「逃げるがいい、マクレミッツ」

 戦意を喪失しつつあるバゼットの、おぼつかない足元を見咎め、言峰綺礼は無感情に進言した。

「な……この私に尻尾を巻け、と言うのですか、貴方は!?」

「おまえももう、気づいているだろう。あれは私たちの手に負える相手ではなかった」

 反射的に声を荒げるバゼットに、ここが引き際だと見定めた代行者は冷静に言葉を続ける。

「私が囮になる、その隙に退け。おまえはまだ若くてチャンスがある。これ以上、目の前の破滅に深入りする必要はない」

「で、でも……!」

 綺礼の物言いが嘲りではなく、こちらの身を案じてのことだと理解し、ひとまず怒りを抑えてバゼットは食い下がる。一方、綺礼は決定事項だと言わんばかりにバゼットに取り合わない。そんな二人のやり取りを、ダンテは面白そうな顔で見つめている。

「――やつは危険な男だが、この世界には似合わぬことに『不殺』を信条としている手合いだ。私の生死を気にしているのなら、いらぬ心配だ。手ひどい仕打ちを受けるだろうが、命まで取られることはないだろう」

「……っ!」

 言峰綺礼を死地に置き去りにすることが後ろ髪を引く最大の要因であったバゼットにとって、その後押しは理性的な判断を促す決定的な一手だった。それに、勝てぬと判った戦いに命を賭ける程、彼女も愚劣ではない。戦術的撤退の必要性も認めていた。

 そうして頑固な女執行者が折れようとした、そのときである。

「……っく」

 こらえ切れぬとばかりに笑い声が漏れた。ダンテの口から。

「クッ、クッ……ハハ! ハハハハハハッ!」

 堰を切ったかのように、笑い声は止まらない。

 だがそれは、乾いた冷笑。見せかけだけで心など籠っていない、それこそ悪魔が浮かべるような――

「おいおい、感動的だな。涙でも流すか?」

 わざとらしく手を打ち鳴らして拍手をし、皮肉に口元を歪めるダンテの目は笑っていない。

 静かに、だが確実に豹変した銀髪の悪鬼は、温度のない声で先を続ける。

「あんたの言う通りだぜ、神父さん。必要のない殺しなんてダサいぜ」

 裏世界に身を置く人間にしては珍しい建前を、ダンテは平然と口にする。

 だが、それは『必要であれば人殺しも厭わない』という逆説に他ならない。

「将来有望なお嬢さんを逃がして、いい人を気取ろうとしたって無駄だぜ。俺はこう見えて鼻が利くタチでな」

 言葉の温度が急激に下がっていく。

 人には決して持ち得ない、闇の感情ゆえの冷気が、橙子を、バゼットを、そして言峰綺礼を包み込む。

「コロン臭い修道士よりはマシだが、まるで掃き溜めのようなにおいだ。十字架と祈りで上手いこと取り繕ってはいるようだがな、俺の鼻は誤魔化せない。――あんたの魂は、腐ってる」

 そのとき、ダンテの瞳が真っ赤になった。血のような赤に。

「何が狙いで〝俺とサシで戦いたかった〟のかは知らないがな、あんたみたいな嫌なにおいをしてるやつの考えてることなんざ、ろくなもんじゃねえって相場が決まってる。二度と悪だくみできないようにしてやるぜ」

 膨大な、もはや視覚化できるほどに膨大な魔力が、ダンテの全身から沸々と溢れる。

 周囲一帯を走り抜ける禍々しい気配。

 ずるり、と世界が裏返ったと錯覚するような恐怖と戦慄。

 ヒトではあり得ない力を、これ見よがしに放射するダンテを味方に付けている橙子は、そんな彼に守られている立場だというのに身体の震えを抑えきれなかった。優秀な魔術師である蒼崎橙子は、もちろん恐怖を抑える術を心得ている。だが、そんな彼女も人間という卑小な存在の一人であり、その細胞の奥底には原始時代の記憶ともいうべきものがまだ残っていて、その有史以前の本能が、ダンテの放つ闇の気配、圧倒的な力の波動に触れた途端、恐怖に震え上がるしかなかったのだ。

 人は本能的に闇を恐れる。それは長い年月にわたり、悪魔に恐怖してきた遠い先祖の記憶を、その血に受け継いでいるせいなのかもしれない。

「鬼が出るか、蛇が出るか……いずれにせよ、彼を味方に付けて正解だったわね」

 恐怖を誤魔化すように軽口を叩き、稀代の人形師は気丈に笑い飛ばす。

 だが、ダンテと相対する言峰綺礼にとっては笑い事ではなかった。明らかに真の姿、人の皮の裏側に秘め隠された本性を露わにしつつある赤い男の先ほどの言葉を、その意味するところを、これまで数々の夜の眷属と戦ってきた代行者は今更ながらに思い出していた。ガキの頃から俺の身体には悪魔がいた。よければ紹介してやってもいいぜ?

「なるほど、これほどの力ならば……いっそヒトでなくなってしまったほうが道理が通るな」

 これまで鉄のように微動だにしなかった綺礼の表情が動いた。それは笑みというには、あまりに些細な口元の歪み。

 だが、このとき確かに言峰綺礼は、笑っていた。この世ならざる闇の生き物に標的とされておきながら。

 含まれた感情すら察することのできない、ゆがんだ笑み。一体なにが鉄のような代行者の心を揺さぶったというのか。恐怖か、絶望か、それとも――

「やれやれ、呆れた魔力量だな……奇蹟を巡る冬木の闘争、現世に呼び出された英霊たちの宝具でもあるまいに」

 いつになく饒舌に、言峰綺礼の口は回る。教会側の人間でありながら魔術師の戦争に参加したという、異色の経歴の持ち主は、その〝戦争〟で行使された最強のマジックアイテムの存在を思い出していた。

 宝具――英雄を伝説たらしめるのは、その英雄という人物のみならず、彼を巡る逸話や、彼に縁の武具や機器といった〝象徴〟の存在である。その〝象徴〟こそが、英雄の持つ最後の切り札にして究極の奥義。俗に『宝具』と呼ばれる必殺兵器なのだ。それを行使し、竜殺しや神殺しといったヒトの身に余る偉業を成したからこそ、英雄は伝説となり、死後の魂は世界へと召し上げられたのである。

 

 

 そう、かつて英霊たちの宝具が竜を殺し神を殺したというのなら。

 その伝説上の破壊を再現できれば、悪魔も殺せぬ道理はない。

 

 

「これは……!」

 バゼットが常に背負っている長筒。

 近接戦の妨げとならないように投げ捨てられ、地面に転がっていたそれが、カタカタと独りでに震えている。ダンテの魔力に反応しているかのように。

「――後より出て先に断つ者(アンサラー)!」

 一も二もなかった。最後の切り札である迎撃礼装の〝発動条件〟が整っていたことを理解したバゼットは、右の拳を高々と突き上げて声を放つ。その呼びかけに応じ、筒の中身が勢いよく飛び出す。それはバゼットの右拳の先で浮遊し、帯電しながら停止した。

 鉛色の球体、である。どう見ても武器には思えぬそれを見た蒼崎橙子が声を上げる。

「まさかあれは……エースを殺すジョーカー……フラガが現代まで伝えきった神代の魔剣!?」

 ルーン魔術を得意とする蒼崎橙子は知っていた。バゼットの生家でありルーンの大家であるフラガの魔術特性について。

 伝承保菌者(ゴッズホルダー)――端的に言えば、神代から脈々と受け継がれてきたあるモノから感染した魔術特性である。

 そう、かのフラガの血脈は頑なに保管し、現代まで伝えきったのだ。

 戦神の剣、時間の経過による神秘の風化を、ついに免れた〝宝具の現物〟を。

 その真価は、『敵の切り札に反応し、時間をさかのぼり切り札発動前の敵の心臓を貫く』――

「斬り抉る戦神の剣(フラガラック)――ッ!」

 振り抜かれた右腕に追随し、光の線と化して逆光剣が撃ち出される。

 その能力に基づき、時間を遡行して〝切り札を発動する〟という事実をキャンセルされたダンテは、いきなり魔力をかき消された脱力感に驚き、そのことを困惑する間もなく心臓を貫かれていた。

 胸板に大穴をあけ、赤衣の長身が吹き飛ばされる。

「今しかない……退きますよ、言峰!」

 必殺宝具の手応えを感じつつも、バゼットは戦闘の続行を良しとはしなかった。

 フラガラックの特性上、被弾した相手は心臓を貫かれるので、確実に命を落とすのが普通だ。

 だが今回の敵は、ノーマルではない。全身を串刺しにされようが、大量の血を流していようが平然としているアブノーマルだ。そういった〝死なない相手〟がフラガラックの天敵であることくらいバゼットも理解していた。

 そして、ブロック塀に叩きつけられ、衝撃で崩れ落ちた瓦礫の下敷きになったダンテの生死を確認していては、せっかくの離脱のタイミングを逃すことになる。

「聞こえてますか、言峰! 突っ立ってないで動きなさい!」

「……」

「早く!」

 なぜか不満そうに目を細め、立ち尽くしたまま瓦礫を見つめる綺礼の腕を強引に引っ掴み、バゼットはその場を後にした。そうして、二大組織の狩人は死地より離脱を果たす。朝を迎えつつある裏路地の陰へと消えていく二人の背中を、橙子は安堵の面持ちで見送った。彼女に対する刺客は去ったのだ。

 ほぼ時を同じくして、瓦礫の下からダンテが姿を現す。

「クソッ、シャレたオモチャだ」

 さすがにダメージを受けたのか。珍しく悪態を吐くダンテではあるが、大穴があいたはずの胸元にはその痕跡すらない。くり抜かれたように破れたインナーだけが、唯一の名残だった。

 橙子が呆れたように、くるっと目を回した。どういう脅威が生じたら死ぬのかしらね?

「聞くだけ無駄なことだと思うけど、けがはない?」

「被害があるとすれば、特注のコートだけだ。こいつの予備は少ないんだがな」

 ダンテは見せかけではない悲しげな表情で、ボロボロになったコートを指し示す。橙子は思わず苦笑した。

「コート代くらいは報酬として出すわ。さすがに何のお礼もしないっていうのは申し訳ないし」

「いや、金ならいい。久しぶりに楽しめたからな」

 あんな野郎を助けようとした、お嬢さんの男の趣味だけが気がかりではあるがね。ダンテは橙子に聞こえぬ小さな声で、そう呟いていた。

「それより、あんたの追手は振り払った。こんなスラムに美女を一人にするのは気が引けるが、もう俺の護衛は必要ないだろ?」

「ああ、そのことなんだけど――」

 退屈しのぎを終え、いい気分のダンテはさっさと寝ぐらに戻って一杯やりたかったが、その足を橙子が呼び止めた。彼女は眼鏡に手をかけ、ゆっくりと外す。

「――下手に逃げ回るより、おまえと一緒にいるほうが安全だとわかった。ふつつか者ではあるが、しばらく厄介になるぞ?」

 人格が切り替わったかのように豹変した橙色の魔術師に、さしものダンテも面食らった。そして、たちまち嫌な予感がし始めた。まさか、こいつはいつものパターンか?

「……なるほどね、それが本性ってわけか」

「女なんだから裏の顔を持つのは当然だろう? 私たちは上手に男を騙さなくてはいけない生き物なんだからな」

「その『騙さなくてはいけない相手』には、俺も含まれるのか?」

「おまえも男なら、もちろんだ」

 というか、すでに騙されていた。急に目つきの悪くなった美女は、ついにはダンテの嫌いなタバコまで取り出して断りもなく吸い始めていた。俺が最初に気に入った、あの眼鏡の美女はどこへ行っちまったんだ。

 うるさそうにタバコの煙を手で追い払うダンテに、橙子は底意地の悪い笑みを浮かべた。

「最強の悪魔狩人のくせに、タバコは嫌いらしいな」

「自分で自分の肺をヤニ漬けにして楽しいかよ? 俺がやるのは酒だけだ」

「女はどうだ? やらないのか?」

 紫煙を吐いた橙子は、赤い唇を歪めて言った。

「こんないい女と一つ屋根の下になるんだ。金が嫌なら、この身体で払ってやってもいいぞ」

「……いや、やめとく。あんたが相手だとベッドの中でさえペースを握られそうだ」

「つれないやつだな」橙子は勝ち誇った笑みで流し目を送った。「主導権を支配されることくらい、男の甲斐性で受け入れてほしいものだ」

「それより、あんたが俺の事務所で厄介になるのは、もう決定事項なのか?」

「こんなスラムに美女を一人にするのは気が引けるんだろ?」

 やんわりとではあるが、取り付く島もない。

「なに、おまえの身の回りの世話くらいはするさ、これでも厄介になるんだからな。必要とあれば仕事も手伝おう。劣情を催したのなら相手になってやってもいい」

「するかよ。あとが怖い」

「ああ、きっと高くつくぞ」

 満足した猫のように、橙子は笑っている。

 恐ろしいビッチめ。ダンテはそう思ったが、幸いにもそれを口にすることはなかった。この思ったことをすぐ口にする男にしては珍しく。

「……いつもながら、女運は良くないらしい」

 厭世的なため息を吐き、ダンテは朝焼けの空を見上げた。

 

 

 

 

 父は美しくあれと祈って、綺礼と名をつけた。

 それがずっと疑問だったのだ。

 父が美しいとするもの。

 それを――少年は、一度たりとも美しいと感じ得なかったのだから。

 話はそれだけのことだ。

 彼が美しいと思うものは蝶ではなく蛾であり、

 薔薇ではなく毒草であり、

 善ではなく悪だった。

 人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善であることが正しいと理解していながら。

 少年は、その正反対のものにしか、生まれつき興味を持てなかった。

 

 

 だから、大人になった少年は、神でなく悪魔に救いを求めた。

 

 

 かつて手にした答え。

 十年前の地獄で己の魂の在りように気づいた言峰綺礼は、その倫理から外れた解答を導き出せる存在を追い求めていた。

 世界に害を成すことを前提として生まれるだれか。自分と同じく、初めから規格外の存在として生を受け、世界から断絶されたまま死に至るなにか。数年前、女執行者の要らぬ横槍がなければ、あと少しで目撃できたかもしれないモノ。

 悪魔と呼ばれる存在であれば、あるいは倫理の問いにまるで違う可能性が拓かれるのではないかと。

 人並みの幸福を理解できぬ男は、切にそう思っていた。

「――我らを動かす操り糸は悪魔の掌中にあり――」

 ふと、何の前触れもなく聞こえてきた声に、言峰綺礼の意識は現実に引き戻される。

「――されば人は忌まわしき物にこそ魅入られ――」

 場所は冬木市新都の郊外、小高い丘の上に立つ言峰教会。

 そこの中庭には、司祭しか知らない秘密がある。

「――穢れた暗闇の中にあれど怖れもなく歩む――」

 壁と壁の間、建物の陰になっていて、普通なら見落としてしまう窪みに、細い階段がある。

 その先の地下聖堂に、言峰綺礼と、そして声の主はいた。

「――日毎日毎緩やかに、されど確たる足取りで――」

 言峰綺礼は、ゆっくりと階段を下りてくる声の主を見上げた。

 やけに背の高い、禿頭の男である。左右で色の異なるオッドアイが、その手の古びた本を読み上げている。

「――人は皆、堕ち行く。『地獄』の彼方へと――」

 ひとしきり読み上げたところで、男は古びた本を閉じ、言峰綺礼を見下ろした。

 交差する視線。不気味なオッドアイと、重苦しい目とがかち合う。

「……貴様、何者だ」

 この地下聖堂を知っているのは、ごく一部の関係者だけである。

 もちろん禿頭の男は、その限りではない。綺礼は警戒心も露わに誰何する。

「私の名はアーカム――」

 禿頭の男は、ひずんだ声で答えた。

 その足元の影が蠢く。広い石室に伸び上がった影は、まるで笑い狂った道化師のようなシルエットをしていた。

 ――冥王は約束の日に現れ、大地と天地を引き裂くだろう。

「第五次聖杯戦争の開幕を告げる者だよ」

 ――その者、裏切りの黒き翼持ちて冥王の前に立ちはだかるべし。

 

 

                 Thank you for reading ―――― continued to ‘Fate/screaming soul’

 

 




 こうして物語は、『Fate/screaming soul』に繋がっていくのでした。
 ダンテと橙子の出会いを描いた番外編、如何でしたか。程よく楽しんでいただけたなら幸いです。意外と長くなっちゃったなあ(誤算
 感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。

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