那智は大変な顔をしていた、
目元は赤く腫れぼったく、ぐっと力の入った眉は「へ」の字に曲がり、眉間のしわはものすごい事になっていた。
もうすぐ演習が始まるというのに、ずっとずっとそんな調子で、腕を組んで不機嫌そうに海をにらみつけているものだから、僚艦の誰もが遠巻きにして恐々見つめているのだった。
海は穏やかだった。気持ちのよい風が吹く、雲一つない澄み渡った青空だった。
その同じ空の下、埠頭で胡坐をかいているのは、鎮守府の提督その人である。
その隣には潮がいて、体の前でぎゅっと手を握っていた。
「て、提督。その、危ないですよ。もうすぐ始まっちゃいますし」
「ああ……ありがとう」
彼女の言葉は要するに、演習の流れ弾で死にますよ、というのをやんわり伝えている。
ハイ。潮は一度頷いて、その提督の視線の先を追った。
そこには彼女らの艦隊の旗艦がいた。
「な、那智さん……どうしたんでしょうか」
「そうだな」
「心当たりなどはないんですか? わたし、心配です……」
「そうだな。彼女は俺の秘書艦だ。何かあったなら、誰よりもまず俺が把握しているべきだろう」
彼の声はなんだかぼんやりとしている。抑揚のないまま話している。気が入っていないというよりは、別の事を考えているようだった。
視線の先には那智がいた。
「心配だな」
「具合でも……悪いんでしょうか」
「そうかなあ。昨日も普段とさほど変わりない様子だったぜ」
「お怪我とかじゃなくて、その、もしかしたら風邪……とか」
「なるほど?」
顎に手を当てて、首をひねる。
「はて。しかし、いや」
「わかりませんか?」
「恥ずかしい話だが……ちょっと見当がつかないな」
「どうしたんでしょうか……」
ちょっと直接聞いて、確かめてみようか。
提督がそう言って、潮が及び腰で聞き返す前に、
「――那智!」
隣の潮が「ひゃっ」とその場で飛び跳ねるぐらいの大声で呼びつけた。
「ん? なんだ?」
「すまないが、ちょっと来てくれないか」
ともかく所属するところの提督である。その声にゆっくりと振り返った那智は、相変わらずものすごい形相だった。さすがに上官の前で腕組みはしない。すっくと屹立し、どこかうろんげな目をしている。
「……なんだ? 用向きは手短に済ませてもらいたい。もう時間は――」
「なあ、君。やっぱり、どこか具合が悪いんじゃないか?」
彼女の言葉を半ば遮って、提督は立ち上がった。
そのまま目の前の那智を抱き寄せて、額と額を「こつん」と合わせた。
「な、あ――? あ?」
「熱でもあるんじゃあないのか?」
「あ、な、あ……!!!」
潮はその後ろで、手で口元を抑えて「きゃー!?」と叫んだ。
「や、やめろッ。おい……キサマ……!」
「大人しくしてろ!」
なぜだか突然那智の顔が赤くなって、そしてうろたえはじめた。
提督は彼女を静かに一喝した。
「……熱が出たとき母親によく、こうしてもらったのを覚えている。そして俺の気持ちもそれと些かも変わるところはない。具合が悪い時ぐらい、素直になるものだぞ」
「う、ううう……???」
手や足を、力任せにぶんぶんと振り回すのさえも咎められ、那智は混乱し、力なく呻いた。
二人がそれぞれ、海面と陸に立っている分、普段よりも提督のがすごく背が高くなっていて、それもどうしてか彼女を取り乱させる。うかつに口を開くのも、何だかいろいろと近過ぎる気がして、彼女には到底不可能だった。
視線だけで傍にいる潮を見た。助けてくれと心の底から強く念じながら。
その潮は。
すごく瞳をきらめかせていて、那智のその眼差しに力強く頷いてみせた。
「ほら、ほら、曙ちゃん!」
「ま、まて――」
「……熱はないみたいだ。おそらくは」
すました顔で提督が言った。もはや息も絶え絶えとなり、形ばかりの抵抗すらも行えなくなった那智の、瞳孔をのぞき込んだり、舌の裏側を確認しようとした。
「は、あ? なな、何してんのよ、この――クソテイトク!」
曙の叫びはその場にいる戦隊全員の総意であっただろう。そしてとりわけ、那智の切なる叫びでもあった。
「すごいよ曙ちゃん! 那智さんと、提督って、すごいね……!」
「那智にこんな、ムリヤリ……サイテー! 不潔よ、不潔!」
「……テーイートークー……? いったい何時の間に那智とそーゆーRelationshipになったんデスかー? Until when? Are you trying to eliminate me?」
「て、テイトク! 榛名は大丈夫です! ええ、大丈夫です! ですが、那智さんは嫌がっているのではないでしょうか! 榛名は大丈夫ですけれど!!」
喧々とする周囲に、ようやく提督は那智から手を離した。しかし、気遣う素振りは変わらず、真っ赤になって涙ぐんで震える彼女の額にかかった前髪をゆっくりと払ったりした。
「本当に大丈夫なのか? 気分は?」
「あ……頭が痛い。吐き気もだッ」
那智は短く呻いた。
信じられない、という感じだった。
「すまない。体調を悪くさせたか」
「い、いやではないが……その」
そう言って、那智はふっつりと黙り込んだ。
その横から、
「uuuー……テートクー……。ワタシも、何だかBad conditionみたいネー……」
「榛名も! 榛名も具合が良くないです! 吐き気というかそのぅ……そう、つわりです!!(?)」
「ふざけてるんじゃないぞお前ら。こうして那智の加減が思わしくないと思えばこそ黙っていたが、再三意味の通らぬ事を好き勝手並べ立てやがって。だいたいお前ら先程からそんな騒ぎ立てているのに、どうして仮病などとごまかせるものかよ」
いかにも面倒そうに、てきとーな感じであしらう提督に、さすがの金剛も、
「What is it! Then I will say, though! Saws convenient!」
というふうになった。一気にまくし立て、怒り心頭の面持ちで、
「そもそも那智の方こそ許されないジャアナイですか! そんなのただの二日酔いに決まってマース!」
と大声で口走った。
「何だって? 二日酔い?」
「馬鹿な。この那智が、そんなものなんかに」
「だって! 昨夜あそこまでべろんべろんに酔っぱらって、最後は足柄に担がれていたのに! There is a limit on things! Playfully! そんなの自業自得ネー!
Even though I am not able to manage my own self, the flagship does not work well!」
言っている意味はよくわからないが、その強い口調はデタラメとも思えなかった。
「……そうなのか?」
「いや……」
那智は何かを思い出そうと遠くを見て、そして頭痛がしたのか、ぎゅっと顔をしかめた。
「そうだな……新人の歓迎と称して皆で一杯やっていたんだ。先方も嫌いではなかったみたいだしな。……まあ、イタリア語が唯一話せた妙高姉がいなかったせいで、言葉は最後まで一言も通じなかったが……うっ」
額を抑えて小さく呻いた。
「よく覚えていないが……でも、今までこんな事はなかった」
「Because you did throw up drinking because you did not stop drinking」
「えっと……お姉さま」
「落ち着け金剛、言い過ぎだぞ」
「テイトク、こうなっては仕方ないデス。那智には下がっていてもらうほかありません、代わりにMeが旗艦を務めマス。Because、そして! 艦隊の代表として! At that time I hug you!!」
「あっ、お姉さまそれは! なら、榛名も! 榛名もほしいです!!」
「――ええいうるさいぞキサマラ!」
いい加減に我慢の限界がきた、というように、那智が全員を怒鳴りつけた。
さすがは戦艦以下巡洋艦、空母をも擁する鎮守府の、第一艦隊の旗艦であり、秘書官であり、妙高型重巡洋艦、その三番艦である。弱りはしてもその剣幕は些かも衰えるところはなかった。
「自身の管理ぐらい出来ている……心配は無用。無駄話はここまでだ。演習が始まってしまうぞ」
「はい、わかりました!」
「……よろしいのでしょうか?」
「本人がそう言っている以上、仕方がないだろ。何かあったら金剛、お前に頼むぞ」
「心得ましたネ」
「以上だ。出撃する」
「みなさん、お気をつけて……」
※
後日、足柄の話から結局のところ、おそらくは飲み過ぎが原因であるという事が判明し、那智は妙高に火のつくほど怒られた。
船底のフナ虫、女のひげ、魔女の婆さんに呪われた船……などと、悪しざまに彼女を罵るその怒りようは凄まじく、見かねた提督がわざわざ止めに入ったほどだった。
「なあ、妙高。その辺にしたらどうだ……」
「お、おい……待て馬鹿者……今の姉さんを怒らせるな……!」
那智は正座をさせられたまま小声でそれをやめさせようとして、あえなく失敗した。長々続いた苦痛の責め苦によって、その声はかすれてしまっていたのだ。
そして結局、彼の勇気ある行動は火に油を注ぐ結果になったのだった。
「貴方という人は、本当にもう……! 妹たちの気持ちを、いったい何だと思っているのですか……!!」
提督は那智の横に正座した。
艦橋に浮いた赤錆、チョウザメの卵とたばこ、火薬と寒天爆弾、メガトンコイン……。
こんこんとした妙高の高説が、二人の頭の上をからっ滑りしていった。
どことなく申し訳なさもあって、那智は横目で彼をうかがった。
すると提督はわずかに首を竦めて、別になんでもないという顔をするだけだった。
「このあと一杯行くか」
「……わかった。付き合おう」
言葉少なく頷き合った。
それだけだった。