あの依頼から何日かが経った。あの日からちょっとだけ変わったところがあった。由比ヶ浜さんはなぜか"入部していない"のに部室に毎日通うようになった。なんでだかよく分からないけど。まあ知らないうちに入部届とかなんかを書いてくれてるんだろう。
僕はその日常の些細な変化を一瞥すらせず、ただボーっとして過ごしている。そう。何ら変わらない。ただ少し帰る時間が遅くなるだけだ。
今を除いて。
まあなんと荒れてらっしゃる。葉山くんたちのグループの三浦さんがこれまた不機嫌になり。周りの人達は顔色を伺って黙り込んだりもしている。
僕は三上君に少しだけ目配せをすると、彼は少しだけうなずいてジュースを買いに行くんだろうか、僕と高田君にもついてくるように言い、誰よりも早く教室を逃げ出した。外はまだ雨だ。相変わらずしとしと音を立てて、落ちていく無数の雨粒は少しだけ湿った空気が溜まる廊下の窓に何度も当たり、窓の向こうの景色が溶けていく。
「馬鹿馬鹿しいもんだよ」
「ああ」
その窓へと寄りかかった三上君が買って来たコーヒーを一口流し込むと、まるで溜息をつくかのように言葉を漏らし、高田君はそれに答えた。
「本人にとっては重要なんでしょ。こういうのって」
「はは、あんな猿、ほっとけば増長するよ。保健所にぶち込んじまった方がいいだろ」
高田君のくだらない世迷いごとに僕は小さく笑みを浮かべた。少しだけ申し訳ないけど面白かった為だ。流石に保健所にぶち込んでしまえとは言いたくはないけど、はっきり言って迷惑だ。
「あれでも人間なんだから…」
「ほお、優しいこったなあ。クラスメイトとは言わない当たり、ちょっと苦手なのかな?」
「うん…まあ…はっきり言って、少し迷惑な人だと思う」
「やっぱり思ってるじゃねぇか」
彼らに釣られて僕も少しだけ苦みを含めた笑みを浮かべて、後ろ髪を少しだけ掻いた。そう思うのも仕方がないものだと僕は自分の中で言い訳をした。そして僕にはもう一つ心配事があった。
少なくともここは学校であり、この壁一枚隔てた向こう側では当の本人がこれまたイラついた状態で修羅場を作り出しているのだ。この会話が聞かれればいい方向へと転がる可能性は無いに等しい。
「でも考えてみてよ。本人たちにとっては重要かもだけど、どっちにしろ教室一個が使えなくなってるし、そもそも僕まだお弁当食べ終わってないし」
困った表情のままそう言い終わると、一発大きな僕の腹の虫が廊下に響いた。今日は少しだけ遅めに起きてしまったおかげか、早朝のべスの散歩どころか朝ご飯を碌に食べることなく出てきた為いつもよりが空いていたのだ。ちゃんとべスにご飯はあげたが。
「ああ。お前の胃袋も大ブーイングだ」
三上君は微笑を浮かべたまま僕のお腹のあたりを顎で示すとくっくっ、と引くように笑った。僕も少しだけ恥ずかしくなって釣られて少しだけ困ったように笑った。
やがて、由比ヶ浜さんが教室から出ていくのが見えた。もう騒ぎは収まったんだろうか、彼女はその顔に笑みを浮かべていて、そのまま廊下の向こうへと走り去った。次第に人がぞろぞろと戻り出してきたので僕らも戻って
いった。
僕はあれから三上君の唐揚げを含めたお弁当とおにぎり二個を間食した為午後の授業の延長戦で続く程よい微睡をコーヒーで掻き消したおかげですっきりした気分のまま途中で会った比企谷君と部室へと向かった。そして、目の前で起こっている状況を呆然と立ち尽くして見つめていた。
知り合いの女子二人がドアのそばで中の様子をうかがっていたのだ。中に何かがいるんだろうが正直覗きたくはないので、雪ノ下さんにとりあえず話しかけてみることにした。
「どしたの。こんなとこで」
僕が少しだけ困ったように二人に話しかけた。すると、雪ノ下さんたちはたいそう驚いたような様子で僕らを見て、少しだけ不機嫌な様子で言った。それ程本人たちにとってはのっぴきならない状況なので、声が漏れないようにしたいんだろうか声を潜めている。僕はそれを目ざとく察した。
「いきなり話しかけないで頂戴」
「ああ…ごめん…でも、そんなところでどうしたの?」
「部室に不審人物がいるの…」
由比ヶ浜さんはたいそう不安そうな様子で告げた。それに少しだけ比企谷君は間の抜けた声を出すと、その後部室の扉を開いた。
それも何も気にしない様子で、まるで大方予想がついているかのように。僕は何故かそれを察することを出来なかったため止めてくれと強く念じていた。
その先には、少しだけ茶色が強めな黄土色のコートを羽織り、ドライビンググローブと思われる手袋をはめた小太りの男がいた。面倒くさそうだ。そんな身勝手な感情を僕は静かに奥歯で嚙み潰して口の中に滲ませた。その時、開け放しの窓から風が吹いた。彼のコートは靡き、部屋中に文字列が羅列してある紙が部屋中を飛び交う。
「待ち侘びたぞ…比企谷八幡!」
彼が僕たちの方へ向き直って、何を言い出すかと思えばこれまた訳の分からないことだった。僕の頭の中は一瞬のうちに疑問で塗り固められた。何故腕をこう、良く分からない風に組んだのか。何故比企谷君の名前を知っているんだろうか。そしてなぜそんな変な喋り方なのか。そして部屋中に散らばった紙はどうするのか。僕は一度整理するべきだと思い、少しだけ小さく短めにため息をついて片づけて行こうと思い、比企谷君の耳元で小さく尋ねる。
「あの人誰…?知り合いとか?」
「こんな奴知ってても知らん」
「知り合いなら何とかしてよ…頼むよ…」
いつの間にか僕は手にはもう負えないといったような口ぶりになっていた。相変わらず、僕の中には腫物扱いする暗い感情が底に淀んで沈殿している。だけどもそれ以上に、早く要件を話してくれないものかという望みが湧き出していた。恐らく彼の挙動などが良く分からないということに対しての自分なりの逃げなんだろう。
「この相棒の顔を忘れるとは…見下げ果てたぞ!八幡!」
「相棒なんだね」
「た…体育でペア組まされた気がするなー…」
ああ、だから"相棒"と…。一つ、小さな疑問が解消された。多分比企谷君のことだ。少なくともこの学年になった当初から組んでいるのだろう。実際辛そうだとは思うが、その辛さは身をもって体験は出来ないものだろう。彼は僕には分からないことだらけだ。
「あのような悪しき風習…"好きな奴と組め"だと?我は何時寝首を掻かれるか分からぬ身…好ましく思うものなどは作らん!」
比企谷君は呆れた眼つきで、他は警戒したような眼つきで彼を見据えている。比企谷君は一つ、呆れたようなため息をついた。いつの間にか風が止んでいる事に今気づいた。僕はといえば相変わらず目を逸らしたまま、困ったような表情を浮かべている。
「何の用だ材木座?」
「やっぱりヒッキーの知り合いじゃん」
「誰?」
一つ、呆れたようなため息ののち、比企谷君は観念したように彼に尋ねた。相棒と言ってはいるのだから比企谷君とは面識があるだろうということは察することは出来たが、いかんせんまだ依頼内容もまだだし、名前も知らない。とにかく早めに終わらせるに越したことは無い。
「我は剣豪将軍…材木座義輝だ!!」
彼は、いつの間にやらまた吹き付け始めめた少しだけ温かい風を後ろ盾にしコートをなびかせながら刀を鞘に収める動作の後、右手を上げつつ名を名乗った。ほどなくして、沈黙が訪れる。反応に困ってしまって声すらも出せない。正直なところ下手に口を出して波風立てたくないという心理もあったけど。
「時に八幡よ!奉仕部はここでいいのだな…?」
「ええ、ここが奉仕部よ」
そのしばらくの沈黙を彼が破った。そして雪ノ下さんがまたどん底へと突き落とした。まあ見た目は相当整ってはいるし仕方ないだろう。ただ、一度口を開けばどれほど恐ろしいかを彼も思い知ることになるだろうに。当然助けられやしないが。
「やはりそうか!平塚教諭の助言通りであるならば八幡、貴様我の願いを叶える義務がある筈だ。幾百の時を超えようとも主従関係にあるとはな…これも八幡大菩薩の導きか…」
う、うん…。まぁ…しょうがないよね?僕だって最初話すときはものすごく抵抗があったんだもの。下心が無いとはいえ、恐怖心があった。今でも心の底から怖がっている。どうしても敵わないと本能的に負けを認めていて、言い方は悪いがこの人と一緒にはいたくない。
「別にここはあなたの願いを叶える場所というわけではないのだけれど」
雪ノ下さんが言い放った。彼も出鼻をくじかれたおかげでだいぶ焦っているんだろう。最初の彼の表情からも若干の焦りが見て取れてはいたがどんどん余裕がなくなってきているのが手に取るようにわかる。僕は心の中で合掌した。
「ふ…ふむ…ならば八幡、手を貸せ!思えば…我とお主は対等な関係…かつての様に再び天下を握る野望をかなえようとしようではないか!」
「主従の関係はどこ行ったんだよ」
誰もが思っていそうなことを比企谷君が尋ねると、彼はなんだかよく分からないが、特徴的かつわざとらしい咳払いをした。彼の額辺りには冷や汗と思われる水滴が2、3滴ばかりにじみ出ている。
「我とお主の仲だ。そのような野暮なことはどうでも良い!特別に許し……て………」
「……なんでこっち見んだよ」
言葉を連ねれば連ねるほど余裕がなくなっていく彼もついに決壊してしまった。顔中に冷や汗をかきつつ、眉間にしわを寄せ下唇をこれでもかというほどにつぐんでいる。というかもはや下唇を釣り上げていると言った方が良いだろう。そして彼は比企谷君へとSOSの意図を含めた視線を向けた、その表情を固めたままで。
僕は比企谷君から中二病に対して必死にレクチャーを受けている雪ノ下さんや由比ヶ浜さんをよそに柔らかい春風に煽られて僕の足元へと飛び込んできた一枚の紙きれを拾った。そこには文字列がびっしり並べられていて、内容に少しだけ目を通してみて、すぐに直感が答えを出した。
これが依頼内容なのだ、と。