僕は小学校にいた頃から所謂体育というものを毛嫌いしていた。理由なんてただ単純に運動が嫌い。その一言で済む話なのだが、僕はどうやら人を選り好みする悪い癖があるらしく体育会系とはどうも反りが合わないと感じていた。
そうは言っても今や高校生。そんなことも言ってはいられないし人の選り好みなど以ての外だろう。だがそこは腐っても僕だ。煮え切らない態度のままズルズルと高校までその問題を引きずって来てしまった。あまつさえ僕が感じるこの感覚を意識の内から外している。
だけど、今日はそれに対して向き合わなければならない日になってしまうとは、朝に寝ぼけ眼を能天気にこすっていた僕が知る由は無かった。そして多大な痛みを押し付けられることも。
事の発端はお昼休みあたりだろうか。昼ごはんをかき込んで腹も膨れた僕は、部室へと向かう比企谷君へとついて僕も少しだけ速足で歩いて行った。
今日も今日とて晴れ渡り、真っ青に澄んだ空にいくつか雲が浮かんでいるのが見える。窓からはこの時間帯のせいか少しだけ西向きへと傾き始めた日の光が、縦に近い斜線をくっきりと浮かび上がらせ、廊下へと突き刺さっている、少しだけ暖かい昼間だった。
「無理ね」
扉を開けるや否や、比企谷君に向けられたであろう否定の言葉が飛んでくる。これまた何を話し合ってるんだろうか。全くと言っていいほど状況がつかめなかった僕は少しだけ躊躇ったがなけなしの勇気を振り絞り、尋ねることにした。
「どうしたの…二人とも」
「矢島君…あなたもこの男に何か一つ言ってやってくれるかしら。この男、テニス部に入ると言い出したの。そんな寝言、永遠に眠ってから言ったらどう?」
「いや…遠慮しとくよ…。でも何でそこまで?」
僕は少しのきな臭さ、そしてこの部を早くも抜け出そうとする作戦なんだろうな、と少しだけ疑いを込めたまま、少しだけ訝し気に尋ねた。それにしても何故にテニスなのか。ああ、思い出した。彼は確か体育でテニスを選択していたはずだ。僕にはまともにできる気がしない。あれは運じゃないの?ラケット振っても当たらないし。
「戸塚に頼まれてだな…何しろ相談は初めてだし…」
「そういうことかー…でもいいことじゃない?孤独体質の更生ってやつの第一歩だと思うし」
僕は控えめに渋柿を食べたような表情を浮かべながら頭を掻いた。でもまぁ遅かれ早かれこの部に相談しに来るとは思う。普通に戸塚君はカースト上位でもなければ下位でもない。むしろ高い位置に属しているかもしれない。少なくとも由比ヶ浜さんという窓口からこの部にコンタクトを取ってくると考えた方が良いだろう。
「やっはろー!今日は依頼人を連れてきたよー!」
噂をすれば、と片方の眉を少しだけ上げた。由比ヶ浜さんが元気よく挨拶しつつドアを開けたのだ。その後ろには緑色のジャージ姿の戸塚君がいる。少しだけ落ち着かない、緊張したような面持ちで彼女の後ろから様子をうかがうように顔を覗かせている。
「ああ、ちょっと待ってて椅子出すから」
自分でも段々とこなれてきているのが良く分かる。そう思いつつも手ごろな椅子を一つ、引っ張り出して来て、長机の真ん中あたりに置いた。
「あれ?比企谷君…?」
「戸塚…」
そうしていると、少しの驚きを含んだ戸塚君の少しだけ弱めな声が後ろから聞こえた。確か言ってなかったんだね。ここの部員だってこと。でもまあテニス部に勧誘された時点で話すべきだろうに。僕の頭には苦言が浮かんでいた。
「そういえば、思ってたけどちょくちょく由比ヶ浜さん来てるけど…どして?」
「いやーほら…あたしも部員の一人だし!」
そう尋ねると、彼女は僕がまるで忘れていたかのような物言いで告げた。いや、あのね?まずそもそも入部届書いたの?雪ノ下さんに限って僕らへの伝達を忘れるはずが無いだろう。これはもしや自分が部員だと思い込んでしまっているんじゃないか?
「由比ヶ浜さん…」
「いいよ!ゆきのん!お礼なんて…部員として当たり前のことをしただけだし!」
「由比ヶ浜さんは別に部員ではないわよ?」
「違うんだ!?」
やっぱり違うんだね。僕が単におかしいのかと。そう安堵しつつ、ため息を一つつくと、少しだけ、僕は知らないよ。というような少しだけ呆れてしまったことが表情出てしまうが、それを包み隠しはしない。僕なりにでも慣れてきた方なんだろうか。
「まあ取り敢えず座ってよ」
「えっ?あ、うん」
僕は何かとコロコロと表情の変わる忙しい彼女を傍目に戸塚君に座るよう促した。いきなり話しかけてしまったせいか彼の表情は少しだけ戸惑い気味だったが、程なくしてちょこんと椅子に座った。粗方入部届も書き終わったんだろうか、僕は彼女の入部届を見ると、これまたまあ、アレなものだった。まあ入部届は入部届だし?まあいいでしょう。
由比ヶ浜さんの入部届の件をあらかた済ませたのであろう、雪ノ下さんが本筋である以来の件へと話を戻し、いつも変わらない凛とした態度のまま、立ち上がりつつ話し始めた。
「良いでしょう。依頼を受けるわ。あなたの技術向上を助ければいいのでしょう?」
「うん…僕が上手くなれば、皆も頑張ってくれる…と思う」
「具体的に何やるんだ?」
「言ったでしょ…」
「お前それ本気か…?」
由比ヶ浜さんと戸塚くんは二人を代わる代わる不安そうに見つめた。"言ったでしょ"という言葉に僕は酷く嫌な予感がした。どうせ碌なものでもないんだろう。そう煙たがっている自分がいる。だけども、運動が大の苦手かつ一番嫌いなことである僕にとっては仕方のないことだった。
所変わってテニスコート。ジャージに着替えてきた僕はなまり切った体を気遣いながらやらなきゃいけないだろう、と少しだけ不安が僕の頭の中に残っていた。ドアを開けると、突き刺してくる日の光と強さを増した潮風に顔を顰めながら、テニスコートへ歩き出した。
太陽を雲が覆ってくれないものか、と僕はそれとなく思った。
やがて、テニスコートが見えてきた。まだ戸塚くんだけらしい。彼は一人で体を解していた。あれだけ努力はしている。十分とも呼べる実力を持ってるんじゃないのか。何とも言えない表情が僕の顔に浮かんだ。だけども彼は上を目指そうとする。眩しい程にいい人だ。
「来たよ」
「あ、矢島くん」
「皆はまだ?」
「うん」
「そっか」
僕は短く返した。余計な事は言いたくない。余計な事言っちゃうとなぁ…、スポーツは嫌いだが、一番というわけではない。体の動かし方は分かっているが、それに体力と体の柔らかさが着いていかない。体力は休めば何とかできる。そう、僕が一番嫌いなのは柔軟運動そのものだ。
「先に柔軟運動済ませちゃおうか…」
「…!う、うん…!」
「大丈夫?…なんだか変な汗かいてるけど…」
「だ、だいじょぶ。だいじょぶだよぉ…」
自分でも驚くほど引き攣った表情だった。戸塚くんがそんな僕を見かねて不思議そうに僕の顔を覗き込む。これはこれでやるしかない。僕は自分に喝を入れて、これから来る痛みへの恐怖を振り払って、「よし!やるか!」と半ば諦めたように声を上げた。彼も心底嬉しそうにうなずいてくれた。
「いでででででで!!ギブギブギブギブぅぅぅ!!」
そして始めて十分後、僕はテニスコートに響き渡らんほどのけたたましい声で断末魔、もとい悲鳴を上げていた。背中合わせで腕を組んで片方がかがんで屈伸する、アレだ。僕はアレが死ぬほど嫌いだ。背骨が物凄く痛い。終わった頃には真っ赤に血が上ってしまった顔で虫の息だった。
「その…矢島くん…大丈夫?」
「はぁ…うぅ……うん……大丈夫だよぉ……?」
「まあ…続けてやれば、良くなるよ」
「ありがと…」
地面へと体を投げだした僕の顔を覗き込みながら心配そうに戸塚くんが告げてくれた。心の底からの感謝の言葉を苦しい呼吸交じりに何とか絞り出せた。ゆっくり、ゆっくりと呼吸を整えていく。なんだか全部やり切った感がするなぁ。頭上をまったりと流れていく雲を目で追いながらなんとなく思った。
暫くすると、皆が来たのが見えた。逆さまの地面を歩く小さな3つの人影。2つは寄り添い、もう1つはその少し後を着いて行っている。僕は逆さまの世界を元に戻すべく立ち上がった。立ちくらみのせいか一瞬体に酷い倦怠感がのしかかったが、すぐにいずこかへと消えた。
そこから先は何も別段特別な練習だとかはしていなかった。ただ、足りない筋肉の部分に基づいた筋トレや、走り込みなど、まだごく一般的とも呼べる内容だった。"内容"は…。
そう、一番の問題は量だ。戸塚くんが少しだけ顔を曇らせてしまうほどの練習量だ。つまり、僕の体力からみると、もはやとんでもない量であり、これら全てをこなさなければならないのならば、昼休みどころか4,5日使いたい程の量だ。
当然僕はそんなことできやしないので、せいぜい壁打ちをまったりとしていた。無心のままに、ただごく単純な流れ作業の如く、ボールを打って、打って、打って。ボールの織りなす挙動は何一つ変わらないまま、壁に当たって、地面で跳ねて、僕が打っての繰り返しだ。もうこれをお昼休みが終わるまで繰り返していればいいんじゃないかな。
そんな風に思いながら壁を見つめていると、何か気配を感じた。いつの間にか材木座君がいたのだ。彼はいつものコートに手袋をはめた手をポケットに入れたまま、緑色の塗装がなされた金網の向こう側から彼らを見つめている。一緒にでもやりたいのかな。そんな風に思いながら一度見やったが、僕はまた壁に意識を向けたっきりまた打ち始めた。
しばらくして、今度は次の段階。第二フェイズ、とでもいうべきだろう。ともかく、今度は実践練習だ。これも僕のやることもない。と思いたいが、今回ばかりは審判をすることになった。僕ルールをうっすらとしか覚えてないんだけどね?
まあ比企谷君がいるし、僕は大丈夫だろう。半ば投げやりだし職務怠慢に近い考えだけど、ルールを覚えていないし、仕方がないだろうと僕は心の中で言い訳をした。
また、二人のボールのやり取りを無心のままに目で追い続けている。今日はやけに心の中が無になるのが多い気がする。今日一日で何か悟るんだろうか。なんてくだらないことを考えていた。
「あっ…!」
一転。心を無にしていた僕は戸塚くんの声で銃声を聞いた鹿の様に反応した。ボールのやり取りしている最中、転んでしまったようだ。白い肌の両方の膝小僧からは血が滴り落ちていた。程なくしてえらく慌てた様子で由比ヶ浜さんが、駆け寄っていく。
「大丈夫?」
「うん…なんとか…」
「まだ…やるつもり?」
「うん…皆付き合ってくれるんだ。もう少し頑張りたい」
彼は何とか無理して笑った。僕はこれ程まで何かへと打ち込める姿に、一種の憧れを抱いていた。雪ノ下さんはそう、と一つ短く返し、そのままテニスコートへの出口へと向かった。救急箱でも持ってくるのか、と思いその姿を見送った。
やがて話し声が聞こえないだろうというところまで彼女が遠ざかったのち、彼はネットのあたりまで歩み寄り、小さく、弱々しい声で呟くように尋ねてきた。
「なんだか…いつまで経っても上手くならないし…呆れられちゃったかな…?」
「それは無いと思うよ。ゆきのん、困ってる人を見捨てたりなんてしないから」
「お前の料理に付き合う程だ。よっぽどだろ」
比企谷君がちょっとだけ悪い笑みを浮かべながら言った。まあ確かに雪ノ下さんに限って見捨てる事なんてしないだろう。多分見捨てたりでもしていたなら、僕はとっくに失望してさっさといなくなってるだろう。それ以前に由比ヶ浜さんの料理に付き合える人は雪ノ下さんだけだろう。こう言っては悪いがまっぴらごめんだ。
「あー!テニスじゃーん!」
一瞬、甲高い声がテニスコートの入り口辺り、ちょうど僕の背後から飛んできた。いつもの6人がテニスコートに並んでいた。その声の主は十中八九、三浦さんだろう。しなやかな金髪をドリルにも見える妙ちくりんな髪型に整えている。
突然だが、僕はあの6人組があまり気に入らない。人格否定はしないつもりだが、僕とは馬が合わないとでも言うべきだろうか、とにかく僕の心の底には彼らへの何かと言い知れぬ反感が確かに在るのだ。
僕は少しだけ眉を顰めた。