「じゃあ…始めます…」
戸塚くんが弱々しい声で試合の開始を宣言した。周りには野次馬、もといギャラリーはいない静かな昼下がりだ。いつもなら微睡み交じりの瞳でどこかを見つめているだろうが、今日は厄日だ。こんなことをする羽目になってしまった。僕が何かしたのか。
そんな投げやりな気分には目もくれず、三浦がボールを上に放り投げた。
彼女は思い切りといったようにラケットを振りぬいた。コート中に快音が響き、一閃ともいえる剛速球が地面を蹴飛ばして、僕の横を通り過ぎようとする。
「ぐっ…!」
僕は呻き声に似た声を漏らして、その剛速球をなんとか弾いた。そのボールは、まさにチャンスボールそのもの。彼女はしめたともいわんばかりに片眉をピクリと上げるともう一度容赦ない一撃をふるった。弾丸とも見まごう球はもう一度僕の視界の端へと逃げていく。僕は思い切り飛び上がると、1発のショットをコートに叩きつけた。
「嘘っ!」
彼女は返せるとでも思っていなかったんだろう。そのボールはコートのラインぎりぎりで一度地面を擦ると後ろの金網にぶち当たった。腕に想像以上のだるさが来る。色々と無理があるだろうがこれくらいしなければ勝てるわけがない。
僕はただ黙って相手のコートを睨み付けていた。戸塚くんのコールはもはや耳にはない。
今度はこちらがサーブだということで、ボールを受け取った。研ぎ澄ました神経を一点に集中させて、僕は渾身の一発を放った。前髪が僕の額で暴れている。三浦はそれをなんとか返すも、空高く高くボールは飛び上がった。
三浦に返せば、必ず打ち返される。そんな判断を下した僕は今度は葉山に対し思い切りラケットを振り抜いた。だが、感覚が違う。
完全にまずった。顔から血の気が引いていくのがわかる。幸いボールはちゃんとコートへめがけて飛んでいってくれているが、これほど緩いと返されるだろう。盛大に焦っていた僕は奥歯を噛み締めて目を見開き、次に飛んでくるボールに対し身構えた。
だが、そのボールは飛んでくることはなかった。なんと恐ろしくいびつなカーブを描いてそのままコートへと飛び込んでいったのだ。当然、予想すらしていない軌跡を捉えることは出来ずじまいである。ああ、間一髪、首の皮が一枚つながった。だが、その直後に来る眩暈には耐えられなかったため、少しだけ膝に手をついて、ある一つの疑問をぶつけた。
「あの人…なんであんな…」
「中学の頃、女テニで県選抜選ばれてるからね…」
「くそ…やっぱ聞かなきゃよかったよ…」
呼吸を荒げたまま悪態をついた。これはまたとんでもない地雷だ。もう勝てる気さえしない。だけど、何か妙な克己心、どちらかというと怒りが今この場の僕を突き動かしている。この迷惑な人を打ち負かして何とか平穏を取り戻したい。その思いが僕の中で明確な意志となっている。
僕はもうそろそろ息が上がって来たため、由比ヶ浜さんにサーブを任せた。決して速いとも言えない、それでいて相手方のコートへと一直線に飛んでいく、安牌ともいえるショットだ。だが、それでは絶対に返される。それも防御が薄い方向へと。今ので手の内が読まれてしまっただろう。
予想どうり、容赦のない三浦の一発が由比ヶ浜さんのコートを掠める。ああ、やはり飛んでくるか。何とか彼女も返そうと努力したらしいが、明らかに速さに着いて行けていないのが見て取れる。彼女にボールをとらえられるはずもなく、ただむざむざそのボールを逃すのみだ。
「ごめん…」
「いいよ…別に…」
そう、僕の頭にはある策があった。僕はボールを必ず葉山でしか返せない場所へとのみ返す例えばコートの端や奴本人に向かって。至極単純なものだが簡単な話だ。奴は曲がりなりにもクラスの人気者、王子様だ。その王子様が女子に対して全力を使えばどうだろうか。三浦の様な火消し役、便利屋がいくら働こうと皆の心の底に何かが残る。弱いものを踏みつぶして勝利を勝ち取る暴君は必ず破滅を迎える。
だからこそ奴は絶対に僕に全力で返すか、由比ヶ浜さんに手加減をするはずだ。ただしこの作戦は僕の体力が持つ限りしか使えない。こいつはデュースの時、もしくはマッチポイントに使おうと思ってはいたが、仕方がない。
今度は葉山のサーブ。狙い通り、こちらに飛んできた。やはり体面を守ろうとしている意思が見え透いている。八方美人であるが故の盲点。僕はそこを突き続ける。だが、それも体力勝負。どちらが勝つかそれは奴のみぞ知る。
だが奴も無駄と分かっていた。動体視力の差は埋められないようだと気づいたのだ。そうして由比ヶ浜さんにボールが集中し始めた。ああ、盲点だった。いくら僕が返せようとも、もう片方が上手くなければ使えない。初心者である由比ヶ浜さんはボールが集中して最終的に取りこぼしてしまうのがオチだ。
「あぐっ…!!」
最初は快調に点を重ねてはいたが、追い上げられてしまい、ついに点数を追い越されてしまったとき、彼女は苦痛を訴える悲鳴を上げた。彼女に対してボールが集中した結果、転んでしまったようだ。膝からは一筋の血。そしてその源流には見るも無残な擦り傷があった。
「大丈夫!?」
僕は少し焦り気味に駆け寄った。ああ、僕がミスってしまったばっかりに。僕はいたたまれない気分になった。彼女は傷の痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がった。僕は不安そうに見上げながら釣られてゆっくりと立ち上がる。
「ごめん…」
「大丈夫…でも…私の代わり…」
「ああ…今は良いから…」
「……ちょっと待ってて」
彼女は少し得意げに笑うと、少し不自由そうに左足を動かしながら、学校の方へ消えていく。なにかまた秘策でもあるのだろうか。だが、この場をどうしろと…せめて何か相手方に少し待つように告げてから行ってきてもらえないと…。
「どうしたー?喧嘩でもしたー?」
ほらこの人調子に乗ってるよ。相手するのさえも面倒だ。火照った体とは反比例して僕の気分が底冷えしていくのを感じる。君の相手をするのは葉山君に頼んで欲しい。その甲高い声も耳障りだし、そのドリルみたいなみょうちくりんな髪形もバカみたいでうっとうしい。僕は少しだけ気の抜けたように笑い、彼女から目を背けた。
「まあ引き分けにしない?両方とも頑張ったってことでさ」
「ちょ、隼人。マジでカタつけんとヤバいっしょ」
ああ。その人間とも思えない最悪な勝負意識はどこから出てくるんだろうな。自分の身を焼く暑さとは正反対にどこか冷ややかな目付きで何処かを見つめながらラケットで肩を叩いて由比ヶ浜さんの帰りを待った。早く来てくれないものか。そう思いつついたたまれない気分になっている。
「この馬鹿騒ぎは何かしら?」
透き通った女声。その主は雪ノ下さんその人だった。テニスウェアに袖を通している彼女の後ろには制服姿の由比ヶ浜さん。ああ、代わりを呼んできてくれていたのか。
「え…なんで…?」
「このまま終わるのもなんかやだし、ゆきのんに代わりに出てもらうってだけ!」
とは言え心強い味方だ。僕には勿体無いほどだ。彼女は由比ヶ浜さんにくっつかれたままテニスコートへと足を踏み入れた。
「これで手当てを。保健室の先生が見当たらなかったので時間は掛かったけど」
そう言い、手に持っていた救急箱をスタンドに座っている戸塚くんに手渡した。だがこれでいい戦力が来た。恐らくは僕の考えた作戦を使わずに済むだろう。それどころか僕は一歩も動かずに終わるかもしれない。
「やっぱゆきのんって優しいね!」
「どこかの男曰く氷の女王とまで呼ばれてるらしいけれど」
まるで誰かへの当てつけかのような口ぶりだった。その言葉を確かに聞いていた比企谷くんが少しばかり苦い表情を浮かべた。君でしょ陰で呼んでるの。少しだけピッタリだとか思った僕も同罪だろうけどさあ。
「まあ、どう思われようと当人の勝手…だから…あなたに頼られるのも…やぶさかでは…」
「ゆーーきのーーーん!」
「ちょ、ちょっと…!」
彼に向けていた疑念の篭った視線をもとに戻しつつ、彼女たちの仲睦まじいさまを温かい目で見守ることにした。まあ友情が発展して色々と間違いが起きたりはしないと願いたい。
「で…?雪ノ下さんだっけ…?あーし手加減できないから」
「安心して、あなたのその安いプライドを厚化粧と一緒に削ぎ落としてあげる」
これまた高圧的な物言いだったが、雪ノ下さんも負けず劣らずだ。正直この二人だけでやっていてもらいたいなあ。どうせ二人共上手いはずだ。僕などそこに居るだけのただの置物。そう、現に今目の前にいる葉山もだ。二人を見つめる彼の空虚な表情がすべてを物語っている。
そして仕切り直し。随分と休めたのでこれはこれで良しとしておこう。もとはといえば由比ヶ浜さんが怪我してしまい、できた時間ではあるが僕の頭に罪悪感や後ろめたさなどはまるでなかった。この場をどうやってしのぎきれるだろうか。ただ利己的な臆病さが巣食っていた。僕は相手方にボールを放り投げて渡すと、そのまま後ずさりして身構えた。
彼女の運動神経は未知数。とは言えあれだけの様子では僕など足元にも及ばないだろう。柔らかい春風が火照った体を微妙に冷ます。一つ大きく深呼吸をして肩の力を少しだけ抜いてボールを見据えた。さあかかってこい。ここまで来た以上やってやる。
三浦がボールを放り投げる。そのボールはスローモーションに見えたが。あっという間に剛速球へと表情を変えて僕らのコートへと抉り取るように飛んでくる。
無駄だ。そうどこか僕までもが少しばかり高圧的な言葉が反射的に浮かんだ。ボールはどうやら僕ではなく雪ノ下さんの方へと飛んでいっているようだ。これは完全に意識が雪ノ下さんに向いているな。
あれだけのことを言ったんだ無理もないはずだ。ただ不思議と不安が湧いては来ない。この人ならやってくれる、そんな気がする。それこそが彼女の強みであり、僕が雪ノ下さんを信頼し続ける理由だ。
彼女は造作もないとも言わんばかりにそのボールを返す。そのボールは十分すぎるほどのスピードをつけて三浦目掛けて飛んでいく。彼女が、ボールへと向かうのを同じくして雪ノ下さんもコートを駆ける。
刹那。フェイントをかけた鋭いショットを彼女の向かおうとする反対へと叩きつける。だがそれを見抜いていたかのような反応。すぐにそのボールを返す。
返されるとも思っていなかったせいなのか三浦はそのボールを取りこぼした。どうやら彼女には予想へと意識を傾倒し過ぎる嫌いがあるらしい。落ち着いて来たのだろうか、着実に相手の手の内を読み取り始めた。
「あれよく返せたね…」
「あの女。私の小学校の頃の同級生と同じ目をしているもの。簡単よ」
敵わないや。そう言い表すかのように、僕は少しだけ肩をすぼめて微笑むと、ラケットを構える。今度はこちらのサーブだったか。僕の左隣から少しばかりエグい音が聞こえたような気がするが気にしてはいけないだろう。
その後、快調に点を重ねつづけた。それでも同点に抑えるあたりさすがとも言える。だが素直に相手を褒めるようなことはどうしても出来ない。この勝負自体が既に相手が、無理やり吹っかけてきたものなのだから。
僕が暗い気分のままサーブのためボールを彼女に投げ渡した。雪ノ下さんはそのボールを真上に放り投げた。すると彼女は飛び上がったと思うと、テニスボールから鳴ってはいけないであろう音が響いた。
そのボールは三浦のボールにも負けないぐらいに速い。ボールが地面を鋭く飛び上がるとそのまま後ろの金網へとぶち当たった。金網が明らかに円形に歪んでいるさまを見て少しだけ血の気が引いた気がした。
「ぼ、僕いる必要あるかなぁ…もう二対一だよ。そのまま決めれるんじゃないの?」
「私もできればそうしたいけれど…体力だけは自信がないの」
「うそぉ…」
僕は盛大に焦っていた。こんな僕が勝ちをもぎ取ることは出来るんだろうか。僕の頭の中には全くの勝算も無いしただ目の前で起こる事実に対し目を虚ろに向けているのみである。
その会話を遮るように鋭いボールが僕らを通り抜ける。反応なぞできるはずもない。今更卑怯だと思うこともできない。僕は今まで逃げ続けていたのだから。戸塚君は少し遅れて焦ったようにデュースの掛け声を上げた。
「聞こえてんですけどー?流石にもう終わりっしょ」
「まあ、両チームとも頑張ったって事で引き分けにしない?」
「ちょ…マジで片つけんとヤバイっしょ」
少しばかり怪訝というか少しばかり眉間にシワを寄せた三浦が少しばかり怒気を確実に含ませた声で答えた。いつもなら僕はそれでいいと即答する筈だが、今はそんなこと言う気にもなれなかった。僕はどこか心の奥底でこの勝負での勝ちを渇望しているんだろう。
「片ならこの男が付けるわ」
「え」
「私は暴言も失言も吐く…それでも戯言は吐かないつもりよ」
無理だ。
じゃあ負けるか?
そんなのお断りだ。
矛盾した感情が僕を押しつぶしてしまう。僕にこの勝負は勝てるんだろうか?勝算もないし保証もない。当たり前だ。僕はその当たり前が嫌いだから、だから誰かと対立することを酷く嫌った。ただでさえこれは負けられない。僕はこんな状況を恨めしく思うんだろうが不思議と僕の中に熱がこもっているのを感じる。
それでも
それでも僕が何かをやれるのならば。
負けたっていい。
この気持ちはもう投げやりとも呼べるんだろう。だけど、どこか硬い決意がある。矛盾しているが、どうにもこの気持ちが僕の心の中で揺るぎない感情として宿って来ているのがはっきりと分かった。僕は彼女の目をしっかりと見据えると黙って、それでいて力強くうなずいた。
僕は一つ深呼吸をした。
僕の頭の中はもはや真っ白だ。ただこの一発。この一発に全てを掛けるんだ。僕はコートを睨み付けてボールを放り投げる。僕は飛び上がる。思い切り高さを付ける。ボールは尚も浮かんでいる。僕は徐々にラケットを握る力を強めていく。どんどんとボールはラケットの目の前に来る。
一発。一発だけ研ぎ澄ました一撃をボールに向かって叩き込んだ。
「うらぁっ!」
思わず叫んだ。派手な音を立ててラケットで弾かれていったボールは僕が見た中で誰のボールよりも早くコートへとめり込んだ。そのボールは地面に当たると、これまたものすごいスピードで跳ねる。二人を抜けたボールは金網へと向かっていく。金網は派手な音を立てて揺れた。そして、その網の目から、ボールが外へとボールが零れ落ちた。
僕でも不思議なくらいだ。こうして火事場の馬鹿力を引き出す事なんてそうそうなかったせいか筋肉は悲鳴を上げているはずだろうが、全く痛みもない。アドレナリンとかいう奴だろうか。そんな事どうでもいい。僕は確かに勝利へと一歩近づいたのだ。僕は拳を懐で小さく握った。肩で息をしている事に気づいたのは少し後だった。
「驚いたよ」
「どうも」
僕は短く告げた。少し素っ気ない回答だろうが、今は誰とも話すつもりはなかった。言葉を選ぶのが今はとても鬱陶しかった。さあもう一度だ。これが最後だ。これですべてが決まる。僕の体の中の熱が加速していき、ボールを受け取った時、最高潮になった。僕の眉間は岩の様に固まっている。そして一発。研ぎ澄ました一撃を叩き込んだ。相変わらず速いボールはもう一度二人の間をすり抜けようとする。
だが、それは叶わなかった。三浦がそのボールを受けたのだ。僕は口から吐き出しそうになる悪態を抑え込んだ。そのボールはだいぶ無理のある方向へと飛んでいく。僕はそのボールを何とか返すも、僕の右はがら空きだ。
ああ、予想通り。僕は小さく漏らした。僕の右側へとボールが抜けようとする。ここで負けるのか。僕は諦観しかけている。だけど、冷めやらぬ熱が叫ぶんだ。
まだ満足していない。
ここまで来たんだ。
勝て!
僕は止めかけた足を走らせた。
何よりも速く。もっと速く!
僕はコートの端へと走る。ボールはもうすぐそこだ。ラケットを思い切り握り締めて振りぬくと、その場へと滑り込んだ。
肘にチクリと痛みが走った。すりむいてしまったようだ。だがその傷を意に介さずそのボールの行く末を見つめた。
そのボールは明らかにおかしい軌跡を描いた。コートの外側へと膨らむライン。一度コートの外へと出ていくボールは思い出したかのようにコートぎりぎりを蹴飛ばした。
一つ熱を冷ます風が僕を通り抜ける気がした。僕らのほかに誰もいないテニスコートに静寂がのしかかった。
息遣いだけが耳を塞いだ。
勝った。その事実を僕は目の前で見届けたのだ。
僕がつかみ取った。
正真正銘の勝ちだ。
麗らかな陽気に包まれた晴天へと腕を突き出した。