カラハリの大した猟師ダオナンは、誰にも避けられないその時を迎える

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えっと…もしかしてワルキューレ・ロマンツェでしょうか?





ダオナンの死

 

 

 

乾季のカラハリは熱気で覆われていた。丈の低い木と草が生える平原をダオナンは走る。長い手足と胴体を動かすしなやかな筋肉は未だその猛りを休ませる時を知らなかった。

ダオナンは大した猟師だった。用心深く、果断でもあった。カモシカを三日追い回す事も出来た。ライオンを前にしても心は揺れず、襲い来る苦難に耐える知恵を幾らでも持っている。既に妻と子供達を持つようになってその手腕は更に冴え、ブッシュマン達の間に知れ渡っていた。

 

「弱ってきている。そろそろ追いつけるだろう」

 

草の間に屈み込んで、ダオナンは呟いた。ふらつくエランドの足跡はその活力がトゥイの矢毒によって失われつつ在る事を物語っていた。

友への感謝を捧げながら、ダオナンは正確な予測に基づき、追跡のペースを緩めずに走った。

暫く雨は無く、彼もそろそろ喉の乾きを気にしなければならなくなっていた。いずれ木の根か、獲物の胃袋から水を得なければならなくなるかもしれない。もう一本の矢も無い以上、この獲物を逃す選択肢など無かった。

少しの休憩と立ち止まったダオナンは最後のスイカを齧り、大地の恵みに感謝した。

 

「あの時よりはましだな」

 

ダオナンはそのように呟き、影を連れてまた走り出した。弓と槍の重さも見せない力強い足取りだ。

汗を流し、硬い足裏で草を踏み走るダオナンに、高い日差しは容赦なく照りつける。乾いた風からは、雨の気配を感じ取れなかった。

厳しい自然環境だけでなく、白人達による暴虐もブッシュマンを脅かすものだった。しかし、今のダオナンはそんなものへの憂いなどより切実なものに突き動かされる。

自分がしくじれば、キャンプで待つ家族や仲間は飢えが満たされずに悲しむだろう。子供達も一人では充分な獲物を仕留めるには早い年頃なのだ。

生きるために、ダオナンはカラハリを走る。

 

「もう少し……」

 

ダオナンの追うエランドというカモシカは、カラハリに棲むカモシカのうち特に体躯と生命力に優れた動物だった。その中でもあまり大きくはない個体を選び傷を負わせたダオナンだが、だからとそう容易くは手に入る獲物でもないのだ。

脚の数が倍も違えば、同じ時間で歩ける距離は倍も違う。ダオナンがエランドより勝る部分といえば精々その年嵩くらいである。

だが、狩人としての尽きない執念が、ひとりのブッシュマンを一昼夜もかかる追跡を支えていた。

そしてダオナンは、ようやくそこに辿り着いたのだった。

ダオナンは僅かに瞠目し、そこに佇む。

日差しは、座り込んで恨めしそうに俯くエランドの姿より、それの寄り添う奇妙な物体をダオナンの目に明らかにしていた。

くすんだ銀色の、平たい大きなもの。

白人が使う、タバコの吸い殻を入れる皿をひっくり返したような形をした物体は、大地に半分以上埋まり、雑草に覆われてその全貌を判別する事は出来なかった。

しかし、ダオナンはそれをよく見知っていた。忘れることの出来ない記憶だった。

 

「なつかしいな。しかしエランドよ、きっとあの時お前がここに来たって、おれは同じようにしただけだ」

 

ダオナンは遠い思い出を懐かしみ、弱りきったエランドにそろそろと近づいた。手負いの、死を目前にした獲物だが、ダオナンは決して油断しなかった。自分が死ぬのには、わざわざ白人に歯向かって火を受ける必要も無い。飢え、乾き、病、ライオンの牙……幾らでもカラハリには死があった。

エランドの角も、そのひとつだ。

 

「これ以上の苦しみはお前のためにはならないだろう。おれの槍はお前に必要以上の痛みを与えることはないのだから、もう諦めろ」

 

ダオナンは両手に握る槍を差し向け、エランドに語りかけた。毒はエランドの逞しい四肢から力を奪っていた。こうなれば後はライオンの餌食か、ハイエナの餌食か、そうでなければ飢えと乾きにじわじわと取り殺され、大地の肥やしとなるのに任されるだろう。

だがエランドの目は鋭く、今生への諦めを抱いていない事を物語る。

熱気は槍の穂先と、エランドの鼻先の間に漂っていた。

にらみ合いの中でダオナンは、エランドの後ろの物体に過ぎ去った憧憬を蘇らせる。

口の中が乾いていた。

風もなく、狩る者と狩られる者は汗を流して対峙を続けていた。

 

「……(ツァ)……」

 

何故か湧き上がるひどい乾きが、ダオナンにその言葉を自然と呟かせる。過酷なカラハリに生きる全ての者が、いつだって求める天の恵み。

ダオナンは、幾つもの矢を身体に生やすエランドから遥か離れた場所へと、その意識を僅かに傾けていた。

あの時も、今のようなひどい乾季だった。雨は久しく降らない中、ダオナンは三日もかけてカモシカを追ったものだ。刺さった矢は一本だけだったが、僅かな手がかりも逃さずにダオナンは走り続けた。

そして、この奇妙な物体へと辿り着いたのだ。

そこでダオナンは、不思議な友を得た。

今の彼を支配する乾き、水への渇望をほんの少しの間だけ分かち合ったあの不思議な友の事を、ダオナンはまんじりと思い返していた。

 

「!」

 

郷愁は一瞬でかき消えた。エランドは、ダオナンの僅かな緊張の緩みに気付いたのに違いない。残された力を振り絞り立ち上がると、地を蹴るべくその脚を屈めた。

長く培われたダオナンの猟師としての本能は、思考より先んじて身体を動かした。肩は振りかぶられて大きく伸びる。

 

「オオーッ!」

 

掛け声。

跳びはねたエランドの首に、ダオナンの投げた槍が突き刺さった。エランドの巨体はダオナンを逸れてすぐ後ろに墜落し、転がった。

苦しそうな呻き声がダオナンの耳に届いていた。

 

「すまない、エランドよ。すぐに楽にするから大人しくするんだ」

 

四肢をばたつかせる姿はダオナンに憐れみと自分への訓戒を呼び起こした。大地とともに生きるブッシュマンは、無用に他者を長く苦しめるのを嫌った。ダオナンもそうだ。

よく研がれたナイフを取り出して、ダオナンはエランドに歩み寄った。これで心臓を穿けば、エランドの苦しみは終わるのだ。

そして獲物を手にした自分はキャンプへ帰るだろう。友と家族の待つ場所へ。

 

「――――お!?」

 

ダオナンはその、ほんの僅かな気の緩みによって、エランドの最後の嘶きとともに突き出された角を避けるのが遅れてしまった。

ねじれながら一直線に尖った太い角は、白人達にとっては物珍しい収集品に見えても、カラハリに生きる者にとっては、たやすくその命を奪う恐ろしい鉾として知られていた。

ダオナンは腹を貫かれ、しかしそこで踏ん張り、エランドの頭を両手で掴んだ。

 

「ウグッ……」

 

すさまじい痛みがダオナンの身体を金縛りにしようと駆け巡っていた。しかし、ダオナンは大汗を吹き出しながら、地を蹴って後ろに飛び、倒れた。

腹に空いた穴から血が溢れた。それはすぐカラハリの乾いた大地に染み込んでいった。

 

「ウッ……」

 

傷をおさえて、ダオナンはうめいた。視界が霞むほどの痛みだ。ダオナンは自分が不覚をとった事を知り、そして、キャンプへ帰れるかどうかも危うい状態である事を知った。

ダオナンは、手持ちの薬を飲み、傷に塗り、それから全ての力を振り絞って立ち上がった。

エランドは動かなくなっていた。

力を失いそうな両脚を、ダオナンは必死に動かした。

 

「……(ツァ)……」

 

ひどく喉が乾いていた。命の源をしとどに流すダオナンは、痛みに朦朧としながら歩いた。エランドから引き抜いた槍を杖の代わりにして、彼は一昼夜掛けた旅路を戻りはじめた。

太陽は容赦なく、死の淵を彷徨うダオナンに熱気を注いだ。

 

「ツァ!」

 

「ツァ!」

 

ハイエナ達の声はやけに近くに聞こえ、ダオナンは苦痛をおして槍を構える。周囲には、乾き切ったカラハリの大地だけが広がっている。

乾き、疲労、熱気、傷。迫る災厄の数々は、ダオナンの頭の中に幻を産んでいた。

おさまらない傷の痛みで顔を歪めるダオナンは、歩き続けながら呟いた。

 

「……おれもここまでなのか」

 

カラハリに生まれブッシュマンとして生きてきたダオナンにとって、それは心を乱すようなことではなかった。死は常に、ダオナンの傍にあった。

しかし、悔いはあった。子供達はまだ若いし、妻を愛していた。友に礼も言えずに命尽きる事が惜しかった。

傾く日差しが、ダオナンの影法師を長く大地に伸ばしていた。血と汗を流しながら、ダオナンはひたすらに歩いた。

カラハリの広大な地平に太陽が触れる頃、ついにダオナンはその身を横たえた。

 

(ツァ)……」

 

ダオナンはもう熱気を感じなかった。ただ、とても乾きを感じた。

誰にでもなく呟くダオナンは、キャンプの妻、子、友、いずれかへの残す言葉ももう心の中で唱えきっていた。

薄れゆくダオナンの意識は、遠い昔の過去へと帰っていく。

 

(ツァ)……』

 

若きダオナンは三日もかけてカモシカを追い続けた。その果てに、あの不思議な物体を見つけた。

そのぴかぴか光る丸いやつの傍に斃れていたカモシカを、じっと見つめている者がいた。

トゥイの矢毒で弱ったカモシカを仕留めたその者は、人間にも、ライオンにも、エランドにも似ていなかった。しかし、ダオナンはブッシュマンのしきたりに従い、彼にカモシカの肉を分け与えた。

だがダオナンが自分の事を語り聞かせても、そいつはブクブクと泡を吹いたり、何本もある手足をウネウネと動かしたりするだけだった。ミーアキャットほどの大きさのそいつの滑稽な姿には、ダオナンも笑うのだった。

そいつはハイエナよりも頭が悪いのか口を利くことが出来ず、肉を食う方法も知らないようだった。しかし、実はそいつは肉よりも水を欲しがっていたのだ。

ダオナンはカモシカの肉を背負い、そいつを連れてキャンプへの道程を引き返した。そいつはライオンも追い払う力を持つのに、水を手にする方法を知らなかった。

シューシューと、苦しそうな吐息を漏らしながら、そいつはダオナンとともにキャンプ目指して必死に歩いた。

道すがらの飢え、乾き、不安を分かち合うダオナンは、そいつを襲おうとするハイエナを追い払い、また地中から吸い出した水を小さな体に浴びせて元気を与えた。

弱りきったそいつは、やがて座り込んだ。ダオナンは哀れんだ。カラハリは過酷で、どんな生き物も傍に死があった。

しかし、天は二人に慈悲を与えた。雨雲がカラハリを覆い、俯くダオナンと友に水を降らせたのだった。

二人は言い表せない喜びに踊り、天への感謝を捧げた。

 

『ヅ……ヅァ……』

 

(ツァ)!そうだ(ツァ)だ!』

 

ダオナンは苦難と歓喜を、友と分かち合った。

ブピ。

忘れようもない、ダオナンが出会った友の名前だ。

 

「……(ツァ)……」

 

ダオナンは、自分がまどろみのなかに居た事を悟った。目を開けると、見渡す限り広がる夜空に、数え切れない星々が輝いているのが見えた。傷の痛みは消えていた。

視界を遮り見下ろす顔が現れた。息子の一人だ。悲しそうな顔で、ダオナンに呼びかけていた。なぜ此処に――――と、尋ねる気にはならなかったが、実際のところは息子は友と一緒の狩りの最中に、斃れた父を見つけたのだった。

ダオナンは何も言わず、ただ穏やかな顔で頷いた。

ダオナンは、子供に対して自分の伝えるべきすべての事を伝えきったのだとは決して思ってはいなかった。しかし、それは悲しい事とは思わなかった。自分はそれまでの男だったのだ。息子達は、老いた父など無くともきっと大丈夫だろう。そうダオナンは思った。

ダオナンは、自分の不覚で命が尽きてしまう事への無念も、持っていなかった。カラハリの夜空と同じような気持ちだった。静かで、穏やかだった。

ダオナンの姿は、倒れた彼を囲んで見送る者達にその心境を充分に悟らせた。

 

「……(ツァ)……」

 

そう呟くダオナンの口元に、革袋が近づけられた。ダオナンはそれを一口だけ飲んで、微笑んだ。

ダオナンは、自分の魂がカラハリの大地へと染み込んでいくのを感じた。

そして、どうして自分が再び、あの物体のもとへと辿り着いたのかも、何となくその理由を察していた。

 

(ばかだな、ブピ。おれは、あの時からお前を忘れたことなんて、一度だってないよ)

 

ダオナンは、友への恨み言など思いつかなかった。たとえその魂に呼ばれた結果が今なのだとしても、エランドの角に貫かれたのは自分の招いた事だからだ。

 

ダオナンは、大した猟師だった。

 

ダオナンは、カラハリで生まれ、そして生きたブッシュマンの一人だった。

 

ダオナンは少しだけ首を動かして、霞んでいく視界をその方角へ向けた。

ブピと出会った、あの奇妙な物体のある場所を遥か彼方に望みながら、ダオナンはそれを見た。

夜空にのぼっていく流れ星が、一条あった。

 

カラハリで生まれたダオナンは、カラハリに帰っていく中で、思った。

 

ブピの魂もきっと、故郷へと帰っていったのだと。

 

 

 

 

 


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