知らぬ存ぜぬでまかり通るのであれば、どれ程に楽だったか。
フィーネ様とイゼッタという少女とが毎週末に行なっていた密会はある日、エイルシュタット領内の村で起きた小さな事件がキッカケで呆気なくその幕を閉じた。
「ウィルベルット、何か言うべき事はあるか?」
「……いえ」
脇腹に切り傷を負ったフィーネ様が誇らし気に帰って来てから数時間が経った現在、公女の脇腹に生涯消える事のない傷が付いてしまった責任の所在は言うまでもなく、付き人である俺へと向いていた。
フィーネ様の父君でもあるルドルフ様の鋭い眼光を見るに、付き人の任を解任される程度では済まされないだろうな。
「しかしウィルベルット。諜報員時代には無感とも呼ばれていた君ともあろう人間がどうしてまた、あの子へ肩入れをしたんだ。情に左右されない仕事ぶりが君の長所だったハズだろう」
「お言葉を返すようで申し訳がないのですが、オルトフィーネ様には人を動かす才覚が備わっておられます。それも並大抵の代物ではなく、特一級品です」
「無感と呼ばれた君自身が動かされたのが何よりの証拠、か……いや、その事については娘を褒め称えてくれた事として受け取っておく。がしかし、娘が傷を負ってしまったのは揺るぎようのない事実であり、その責は君の職務怠慢にある。よってウィルベルット、君には娘の付き人の任を離れて貰う。その他の処分については追って伝える。良いな?」
「承知致しました」
陽がまた、落ちた。
ジーク氏の計らいにより俺はその後、諜報部隊への復帰を果たした。
「ようウィルベルット、幾月もしない内に復職しちまった気分はどうだい?」
首都から一番遠くに位置する軍支部へ赴いた俺の元へ、エイルシュタット軍の同じ諜報部隊に所属していた元同僚のアンジェリカが相も変わらない人を喰ったような笑みを提げてやって来た。
「どうもしないさ。元から俺の居場所はここにしか無かったと、それだけの事だ」
「ふーん。王室付きになってちょっとは変わったって聞いたけど、さっぱり昔のまんまね」
俺への興味が薄れたのか、アンジェリカはそれだけ吐き捨てると支部の外へと消えて行った。
数ヶ月ぶり程度では、などと思っていたが支部にいる人間の顔ぶれは中々に変わっていた。先のアンジェリカや他の部隊は置いておくとしても、諜報部隊の面々の様変わりは酷いものだ。
諜報部隊はその性質上、部隊長と呼ばれる人間は定めてはいないのであるが、俺たちが勝手に決めた長のような存在はいる。それがいま俺の目の前にいるこの人、リンバースさんだ。
「立場上こんな事を言うのは許されないだろうが、個人的にはお前さんに戻って来て貰いたくはなかったよ」
リンバース――もとい、バースさんは諜報部隊に於ける統率者兼良心のような人だ。人柄が良く、情に熱い。諜報員としてその資質を問われそうなものではあるが、そこがこの人をここの長とたらしめる所以とも言える。
他の部隊は戦争に突入しない限りは凡そ非番続きのようなものである。が、俺たち諜報部隊は戦争が起きていない時こそ忙しなく活動しなくてはならない。そうでなくてはこの国を戦場にしてしまうのだから。
故にこの部隊は常に殺伐とする。そこでバースさんという良心が活きてくる。
「そう言ってくれる人が一人でもいてくれただけで有難いです。俺自身、こっちの仕事の方が性分には合ってる自覚はあるんです。あるんですが……願わくは、あの陽の下に居続けたかったですね」
「オルトフィーネ様は噂通りのお方だったという訳だな」
「いえ。噂なんかより、ずっと素晴らしい方でしたよ」
復帰初日、俺は各員への挨拶をしただけで帰宅する事を許された。とは言え、明日からはまたあの日々が始まるのではあるが。
本来の自宅は付き人をする事になってから借りたアパートではあるが、いちいち首都と北の国境付近とを行き来するのは手間であり、非効率的である。そこで俺は嫌々に軍人が貸し与えられる寮へと入寮することにした。
首都ほどの賑わいとまではいかなくとも、寮のあるこの小さな街はそれなりに小綺麗な街並みで、店の種類もそこそこに多い。右を見れば果物屋が客と世間話に花を咲かせ、左を見れば私服姿でも軍人だと一目で分かる身体付きの人間たちが和気藹々とジョッキを片手に盛り上がっているのが見える。
しばらくそんな街を散策ついでにブラついていると、路地の一角で黒いスーツ姿の二人組が何やら小難しい表情で向き合っているのを見付けた。
職業病とも言える行為だが、俺はその二人から見られる事のない位置へと瞬時に着き、無意識に息を殺していた。
二、三言葉を交わすと二人組はそれぞれ反対の方向へと別れた。一方は痩身、もう一方はスーツ越しにでも分かる程に屈強。俺が選ぶべき選択肢は一択……痩身の男の方だ。
幸いにも俺のターゲットは路地裏の方へ歩み出しており、もう一方の男はそこから一番近い店の中へと消えて行った。この場合に於ける留意点は一つ、焦って後を追わない事だ。向かった方向を把握済みで且つ、相手が歩いているのであれば焦る必要はないからだ。
俺は数刻待ち、男が消えて行った路地裏へと侵入した。
予想したより道は短く、男の姿は既に見えなくなっていた。が、抜けてすぐに周囲を確認すると街のすぐ裏手の森へ入って行く寸前の男の後ろ姿が見えた。
道とも言えぬ道を生い茂る背の高い草たちを掻き分けて進むと、男の後ろ姿はちょうど草たちの茂りが終わった位置で止まっていた。
「なんだよ、人が悪いな。気付いていたならこんな場所まで尾行させないで貰いたかったんだが?」
「お前はただの軍人ではないようだな」
一人ならまだマシだったのだが、後ろからも声が聞こえて来た。状況は最悪だ。
「いやいや、俺は一介の軍人ですよ」
「その余裕ぶった態度を見るに、差し詰めオレたちと同業か」
「まさか自分が炙り出されるとは思わなかったんだろ?」
クックック、とカンに障る笑い声が後方から聞こえて来た瞬間――俺は動いた。
そう不思議な物ではない。誰しもが生まれる際に天から授かって来る才能の一つに過ぎない。ただ、コレは希少性の高い代物なのだろうが。
時間感覚――人はそれぞれが体感する時間の感覚に差異が生じる事がある。俺に備わった才能はその時間感覚を操作する事だ。言っても他人の感覚をどうこうできるモノではなく、俺自身の体感時間を弄れる程度のモノだ。
「このっ」
優秀だ。後方の男が構えた銃口は正確に俺を捉えている。このままでは間違いなく俺の身体を鉛玉が貫くだろう――が、照準がどこで定まっているのかが分かれば避けるのはそう難しい事ではない。
鼓膜がダメになりそうな程の発砲音がする頃には、俺の身体は射線から外れていた。さすがに体感時間をどんなに遅くしようとも銃弾が宙を駆ける光景をマジマジと目にする事はできないが、それでも銃弾は俺の身体を僅かに掠める所を抜けて行った事だけは確認できた。
次弾が来るよりも早く、とそれだけを念頭に男の姿を確認する。
よく見れば可愛い目をした男だ。俺がこの距離で銃弾を避けて見せたのに驚いて見開いたであろう目はツブラもツブラ。まん丸だ。
距離にして三メートル弱か――飛び込む形で突っ込めばギリギリ届く。
常に右足に忍ばせているナイフを引き抜き、男の太い首目掛けて地面を蹴る。屈んだ体勢から足のバネを最大限に活かす形だ。正確に首を捉えれば腕に余計な力を込める必要はない。
「がっ――あがっ?!」
世界の動きが通常のソレへと戻る。
「ヘンリー!?」
相方が喉元から盛大に血の噴水を上げている様を見て動揺したのか、痩身の方は瞬間的に俺への注意を逸らした。その隙を上手い具合に活用しなくては、諜報員としての名が廃る。
態勢を瞬時に整えてもう一方の男の方へ走り出す。
「クソッ!」
二歩ほど進んだ所でようやく相手は銃口を俺へと定めようとする。が、もう遅い。遅過ぎる。
「がっ!?」
男が引き金を引いた瞬間にはもう、俺は男の後方から首を捕らえ、ナイフを喉元へ突き付けた態勢に入っていた。
「下手に抵抗すればお前もあの巨漢と同じように大道芸師へと転職して貰う事になるが?」
「わ、わがっだ……」
男の手から銃が落ちるのを確認して、俺はナイフの切っ先を喉元から僅かに放す。
「どこから来た」
「……ごふっ」
瞬間、男の口から微量の血飛沫が吹き出た。
俺の左腕を掴んでいた男の手から力が抜け落ち、次いで重力に抗えなくなった身体は引っ張られるようにして地面へと突っ伏して行った。
こうなった場合にいつでも服毒自殺を行えるよう、常に即効性の強い毒を持ち歩いていたのだろう。その心意気を天晴れだと褒め称えたいところではあるが、それ以上に俺は自分の甘さを咎めずにいられなかった。
「……鈍ったな」
どういう訳だか、その刹那に脳裏を過ぎったのはフィーネ様の姿だった。
すごく設定の資料が欲しい(苦笑)