「RISING SUN」より前の話しになります。
話しのメインは「タイタニック」です。
東城会初代の、父の話
昭和六十年(1985)四月十五日、堂島宗兵に連れられて、風間新太郎、桐生一馬、錦山彰は、東城会初代組長、東城真の屋敷にやって来ていた。横浜の山手町にある洋館風の豪邸で、横浜の街が一望出来る。この屋敷は、真が父・努(つとむ)の死を期に足を洗った際に、終の棲み家として購入したものだ。
堂島も風間も、真にはひとかたならぬ恩義を感じているので、真が堅気になった今でも、時節の参内は欠かさない。
この度は、努の七回忌に当たるので、新参の桐生と錦山の顔見世も兼ねての訪問である。
室内に通されると、仏間に金髪に青い瞳の老婦人が和服姿で座っていた。努の妻、亜里沙(アリサ)である。神戸での七回忌法要は三日前に盛大に済ませて来たので、祥当日の今日は、一番仲の良かった三男の所へやって来た、との事である。
仏壇の前で手を合わせ、堂島のへタクソな般若心経を聞いた後、リビングで御斎を頂く事になった。
一杯目のビールの後は、すぐにスコッチが開けられた。
「父親はずっとスコッチだったよ」
そう言う真の視線を追った桐生が、船の模型に気付いた。
「これ、『タイタニック号』ですよね?」
桐生の問いに、真は相好を崩した。
「何だお前、知ってるのか?」
「この間テレビで、『レイズ・ザ・タイタニック』を観ました」
「ああ、あれな」真は大きく頷いた。「あれな、父親の言う通りだとすると、有り得ないらしいぜ」
「どう言う事ですか?」
がっつり食い付いた桐生を見て、堂島と風間は顔を見合わせて、お互い肩をすくめた。
「実はな、タイタニック号は、あんな風には曳き上げられんらしい」真は模型をまじまじと見た。「俺の父親な、タイタニック号に乗ってたらしいんだ」
真は、唇をなめて、息を大きく吸い込んだ。
X
明治四十三年(1910)八月二十九日、日韓併合がなされて、朝鮮半島は日本国の一部となった。それ以降、朝鮮人達は自国より経済状況の良い日本にやって来て、日本国内で種々な方法で金稼ぎを始めた。奥ゆかしい日本人にはない、強引な朝鮮人の商売のやり方に、神戸の口入れ屋の後継ぎである東城(とうじょう)努(つとむ)は強い違和感を抱いていた。無理矢理仕事を取りに来る朝鮮人達とケンカになる事もしばしばだった。
ある日近所の、荷物船の船長をしている鑪野(たたらの)が、努に声を掛けた。
「よお、努、またケンカか?」
努は左の眉と右の唇の端を切っていた。
「おおよ」努は胸を張った。「チョンコロの野郎ども、どうしようもねえな。出来そうもない仕事を受け負って、適当に終わらせやがる。あんまりひどいんで、ボコボコにしたったわ」
「あんまりやり過ぎるなよ」
「仕事出す連中もあかんねん。あんな安い値段で買い叩かれたら、職人も人夫も生活成り立たへん。で、チョンコロが二足三文で仕事して、ショボい事やって信用落とす。ホンマええトコなしや」
「そうやな。日本は、そういった所は、まだへタクソや」鑪野はそう言って笑った。「欧州や米国は、その辺はきっちりしとぉで。まあ、俺らの見えとる所なぞ、知れとぉけどな」
ふと、鑪野は努の顔を覗き込んだ。
「お前さん、今、いくつや?」
「十九やけど」
「そうか。若くて元気な時やな」鑪野は一人で合点して頷いた。「どうや、努。一丁勉強しいひんか?」
「は?」
「俺の船に乗って、外の世界を見やへんか?」
その鑪野の言葉は、努の耳に甘美に響いた。
「ホンマか船長。俺行くわ。外の世界を見て、外から日本を値踏みしたるわ」
努は、鑪野の会社「東洋汽船」の荷物船『東洋丸』に荷物運搬の人夫として乗り込み、大海原へと乗り出した。
神戸港から上海、香港、ベトナムのホーチミンやシンガポール、セイロン等に寄港しながら、荷物を降ろして新しい荷を積む。途中スエズ運河を通り、ギリシャのミコノスやイタリアのチビタベキア、スペインのバレンシアを経てジブラルタル海狭を通り抜けた。ポルトガルのリスボンとビルバオに寄って、最後は一気にイギリスのサウサンプトンに入港した。約五ヶ月の船旅だった。
「サウサンプトンは、造船業の盛んな街でな。俺はここで部品の輸入取引をしようと考えてとぉのや」
鑪野は舷梯(タラップ)を降りながら、努に話しかけた。
「あれ、旅客船やんな」努は、二つ隣の桟橋に停泊している巨大な船を指差した。「どえらい船やん。あんなデカい船、見た事ないわ」
「何でも、明日あたりに、柿落としでニューヨークまで行くらしいわ」
その船に乗り込む人夫達だろうか、大勢の者達が岸壁近くで作業をしている。巨大な木箱が並び、馬車や自動車まである。
「客船やろ?積み荷むっちゃ凄いやん」努は目を丸くした。「どんだけデカいねん。で、どんだけ人乗んねん」
「そやな」鑪野船長も唸った。「あんなん見せられたら、日本もまだまだや思うわ。せやから、今回の商売は何としても成功させにゃならんのや」
力強く言う鑪野をよそに、努の目はその巨大客船に釘付けだった。恐らくは世界最大級であろう、その船に乗ってみたくなった。
「あれに乗ろう思たら、キップ高いんやろうなあ」
思わず声に出してしまった努に、鑪野は笑って言った。
「メッチャ高い思うで。それに、もう売り切れとぉやろ。まあ、人夫としてなら判らんけどな」
その夜、努は仕事関係者と呑みに行くという鑪野と別行動を取った。努は、神戸で幼なじみのアイルランド人、エンリー(ヘンリー)に教わっていたお陰で、日常会話くらいなら英語に不自由しない。
夜だというのに、港周辺は大勢の人々で賑わっている。とあるバーに入ると、そこには巨大客船の出港を待つ人々が溢れていた。入口のすぐ横のテーブルでは、二人のロシア人と二人のアイルランド人とでポーカーをやっている。
「おい、オラフ、調子はどうだ?」
「ああ、任せろ、スヴェン。お前の負けの分まで取り戻してやるぜ」
対するアイルランド人は、眉根を寄せて手札を睨みつけていた。
「大丈夫かトーマス?」
「大丈夫なもんか。これで負けたらスカンピンだ」
トーマスはしかめっ面で大きく息を吐いた。努は思わずトーマスの手を覗き込んだ。エースのワンペアだった。
「三枚チェンジだ、トーマス」
言ってしまってから、努は十ポンド札をテーブルに置いた。
「トーマスの勝ちにベットするよ」
結局、エースが二枚来て、トーマスの一人勝ちとなった。一気に一文無しになったオラフは、腹いせにスヴェンを殴り飛ばした。
トーマスは勝ち金を半分くれると言ったが、努は元本だけを受け取った。
「じゃあ、これを」
トーマスはそう言って封筒を差し出した。
「もう俺は要らねえんだ。あんたにあげるよ。使うなり、誰かに売るなり、好きにしてくれ」
トーマスはそう言って、連れと共に店を出て行った。封筒の中には雇用証明書が入っており、「トーマス=ハート 火夫として雇用する。 ホワイト・スター・ライン社」と書かれていた。
「いやはや、とても面白い見世物でしたよ」
急に日本語で声を掛けられ、努が振り向くと、店の奥のバーカウンターで、鼻髭をたくわえた日本人紳士が笑いながら手を振っていた。
努が歩み寄ると、紳士はビールを一杯奢ってくれた。
「私は細野正文。逓信省の派遣で、ロシアのサンクトペテルブルクに鉄道院在外研究員として留学していた、その帰りでね。折角なので、乗ってみようと思ったのですよ。世界最高級と名高い、『タイタニック号』にね」
翌日、鑪野に事の顛末を話すと、彼は笑って言った。
「面白そうやないか。お前、あの船に乗りたいんやろ?まあ、気を付けてな。ニューヨークへ着いたら、ウチの会社のオフィスがあるから、そこを頼ればええ。折角や、色々見てきいな」
かくして努は、鑪野と東洋丸の乗組員達に別れを告げ、二つ隣の専用桟橋に停泊している巨大客船、タイタニック号へとやって来た。もう午前十時になろうとしていたので、二等、三等客室の乗客の乗船が始まっていた。丁度舷梯を登る細野の姿が見えた。
人夫用の舷梯はずっと下にあるので、努はそこからトーマス=ハートとして乗り込んだ。そのまま機関室に入ると、既にボイラーは圧を上げる為に、石炭を投入していた。
あまりの熱さに目をやると、隔壁の奥の石炭が燃えているのが見えた。
「火事じゃないか!」
思わず口に出した努に、別の火夫が声を掛けた。
「ベルファストを出る時からさ。航海中に消そうって事らしいぜ。火事を消すより、時間通り出航させる方が大事なんだそうだ」
「そんなもんかね。影響はないのかい?」
「さあね」
「ハート、トーマス=ハートはいるか?」
努は、しばらく自分が呼び出されている事に気付かなかった。
「あっ!俺っすけど」
努は答えたが、呼んだ男は首を振った。
「あいつ、やっぱり逃げたか」男は肩をすくめた。「あの火事を見て、『降りたい』とは言ってたがな。で、お前は誰だチャイニーズ?」
「日本人だ。ツトム=トージョー」
「そうかい。俺は機関長のジョゼフ=べルだ。何かあったら遠慮なく言いな」
「ありがとう。じゃあ、仕事をくれないか?」
そう言った努に、ベル機関長は笑って言った。
「また頼む事もあるかもな。とりあえず、船の中をよく見て来な。こんな船、なかなか乗れねえだろうぜ」
お言葉に甘えて、努は船内を探検する事にした。
一等客室の乗客の乗り込みが始まっているので、エレベーターも使えない。最下層のボイラー室から階段で上部甲板まで登った。上から見下ろすと、金持ちらしき人々が続々と乗り込んで来るのが見えた。豪華なドレスに立派な帽子を被った若い女性が、いけ好かない男にエスコートされて舷梯を登って来るのが見えた。
「あちらは、ブケーター家のご令嬢、ローズ様ですね」
横から声を掛けられて、努は飛び上がった。
「失礼しました。私、スチュワーデスのメリー=スローアンと申します。ニューヨークまでお世話をさせて頂きますので、よろしくお願いします」
メリーは慇懃に一礼した。
金持ちが乗る船は、乗組員も上品だな。
努は、今まで乗っていた東洋丸を思い出しながらそう考えた。
舷梯が外され、いよいよ出港という時に、桟橋を走る二人の男が見えた。二人は離れかけた舷梯から船内に飛び込むと、ほぼその勢いを保ったまま上部甲板まで駆け上がって来た。
階段を登り切った所で、乗客の一人とぶつかりそうになり、素早く避けたものの、バランスを崩してプロムナードの手すりに激突した。被っていた帽子が飛んだのを、努がすかさず身を乗り出して掴んだ。手すりに寄り掛かって一息ついた男に差し出す。
「無くさないで良かったな」
努が帽子を渡すと、男は笑いながら握手を求めて来た。
「ありがとう、助かったよチャイニーズ」
「日本人だ。ツトム=トージョー」
「それは失礼。俺はジャック、ジャック=ドーソン」
ジャックは瞳を輝かせて、飛び切りの笑顔を見せた。
タイタニック号は大西洋に乗り出し、航海は順調であった。努も、火夫達を手伝って、その後ドンチャン騒ぎをしたり、三等客室のアイルランド人達と踊り明かしたりした。
その翌日には、細野のスーツを借りて、ー等客用デッキに入り込んで、女性活動家のマーガレット=ブラウンと語り明かした。成り上がりの彼女には、身分などのわだかまりもなく、話しは大いに白熱した。そこへ給仕に来たメリー=スローアンが、努を見て目を丸くした。
「まあ、大層男振りが上がりましたね」
そう言う彼女の笑顔を、努は眩しげに見た。そんな彼を、ブラウン女史が面白そうに眺めていた。
そんなこんなで、努は巨大豪華客船の船旅を満喫していた。
四月十四日、夕方から第五ボイラー室に入っていた努は、二十三時半に交代すると、顔と手を洗い、隣の第六ボイラー室へ歩いていった。火事は既に収まっていたが、壁や天井部分には焼け焦げた跡が生々しく残っていた。
その焼け跡の前で、主任火夫のフレデリック=バーレットと、二等機関士のJ・H・ヘスケスが煙草をくゆらしていたので、努もそこに加わった。
「何でも、近くに氷山があるらしいぜ」
ヘスケスが上で仕入れた情報を披露した。
「そうかい。そりゃおっかねぇなあ」
バーレットがちっとも恐くなさそうに言う。
「大丈夫なのかい?もし氷山にぶつかりでもしたら」
努は最もな不安を口にした。
「心配ねえよ」ヘスケスは鼻で笑った。「見張りもいるし、何でもスミス船長はコースを少し南に取ったらしいからな。氷山なんか見る事もないだろうよ」
「仮に氷山に接触しても、タイタニック号は不沈船だ。何の問題もねえさ」
バーレットも笑って言うと、勢大に煙草の煙を吐いた。その煙がゆらりと揺れた。努の体に、船の挙動が伝わって来た。
「取舵だ」
全員の口から同じ言葉が漏れた。大西洋のど真ん中で、舵を切る事など滅多にない。あるとすれば…。
(障害物か)
努がそう考えた時、船首側から軋むような金属音が聞こえて来た。
まさか、と思った次の瞬間には、彼らの目の前の船体がメキメキと音を立てて十メートル以上の長さで盛り上がった。プレートが反り、リベットが弾け飛んだ。そのすぐ後から、噴水のように水が吹き出した。
「浸水だ!」
バーレットが叫んだ。火夫達は素早くボイラーの蓋を閉じ、排水の準備を始めた。何人かが毛布で亀裂を埋めようとしたが、噴出する水圧が強すぎて、すぐに徒労だと気付いた。
既に排水用電動ポンプは作動していたが、隣の第三船倉からも水が流れ込んで来ており、とても間に合わない。
すぐに、緊急灯が回転を始めた。
「皆、退去だ!隔壁が閉まるぞ!」
ヘスケスが叫び、全員が第五ボイラー室や、上のデッキに避難した。その時には、水は既にくるぶし近くまで上かって来ていた。
「てめえら!ボイラーの圧を下げろ!このまま水に漬かったら、爆発するぞ!」
火夫達はボイラーの蓋を開けると、火のついた石炭を掻き出し始めた。火を落として、ボイラー内の蒸気圧を下げる為だ。努も手伝って石炭を掻き出したが、その間にも浸水が進み、水位はどんどん上がって来ていた。
上層部は大騒ぎになっているようだった。船首方向への傾きが体感出来るほどになっている。そんな中で、火夫達は第一ボイラーの圧力を維持する為、懸命に動いていた。避難の為の明かりを保つ為に、ボイラーを止める事は出来ないからだ。他の火夫や機関士らは、機関長の指示で、上で避難誘導に当たっていた。中には、浸水に巻き込まれて行方不明になった者もいた。
「おい、音楽が聴こえて来るぜ」
火夫の一人が 言った。皆が、一瞬耳をすませた。楽団長のウォレス=ハートリーは、明るく楽しい男だが、義利堅く他人想いの良い奴だ。多分、パニックに陥った上流階級の人々を少しでも落ち着けようと、こんな状況でも演奏をやめないのだろう。
「俺達もギリギリまで頑張ろうぜ」
機関長は火夫達に声を掛けた。
排水ポンプの様子を見に行こうとした努を、機関長が呼び止めた。
「おい、ツトム、お前は先に上へ行け」
「何でだ?」
「お前は乗組員じゃねえ。早く脱出しろ」
「あんたらは?」
「俺達も後から行く。心配すんな」そう言って、機関長ベルは不敵に笑った。「俺は、無事に帰って、火夫の労働条件向上の談判をせにゃあならんのだ。お前には、俺達の頑張りを証言して貰わにゃならねえんでな」
努は少し考えてから頷いた。
「判った。上で待ってるぜ」
努は階段を駆け上がったが、Eデッキに登る為の通路が閉ざされていた。船内図を見ると、かなり大回りをしないと別の階段はない。
「くそっ!等級で脱出の順番を決めやがったな」
努は近くにあった斧を取って、扉を叩き壊した。上のデッキでは、一等、二等の客達が右往左往している。中には、キチンと正装して、泰然と椅子に座っている紳士もいる。
そんな状況を確認していると、横から救命胴衣が差し出された。メリー=スローアンだった。
「これを着けて下さい。もし水に投げ出されても、浮かんでいれば、チャンスは増します」
「ありがとう。あんたも気を付けてな」
努は礼を言って、最上層を目指した。既に何艘もの救命ボートに人々が乗り込み始めていた。
左舷では、ライトラー二等航海士が厳格に「女子供のみ退避」を実行しており、中々乗れそうになかった。ふと横を見ると、ジャック=ドーソンが、ローズ嬢といけ好かない金持ちと口論の真っ最中であった。嬢がボートに乗らないと強情を張っているようだ。見ると、ボートにはかなり空席が目立つ。先に降ろされた分も、定員には程遠い人数しか乗っていない。
「おい、まだ全然席が残ってるじゃねえか」努は、ライトラーに食って掛かった。「夫婦とか、親子とか、少しくらい男が乗っても問題ないだろ?」
「黙れ。船長命令だ。女子供が先だ」
ライトラーはにべもない。
努は舌打ちをすると、人をかき分けて大ホールへ戻った。途中、喫煙室の中に、呑みかけのスコッチの瓶を見つけたので、ひと口呑んで、ポケットにねじ込んだ。
大階段の前で、努は細野を探し出す事に成功した。
「やっぱりまだおったんか」
「おお、東城君」
「何やってんねん」努の口調がきつくなる。「早く上へ行って、無理にでも救命ボートに乗らんかい」
「どうやら私達は差別されているようでね」細野は肩をすくめた。「上に行ってみたんだが、『下に行け』とあしらわれたよ」
「大丈夫やて。隙見て飛び乗ったらええねん。あんた、ロシアで勉強して来たんやろ?その知識をちゃんと持って帰って、日本をより良うして貰わな困んねん」
「君はどうするんだ?」
「まかせとけ」努は笑って見せた。「俺も、何が何でも生き残るで」
再び上へ登ると、丁度十番ボートが降ろされる所だった。その時、ジェームス=ムーディ六等航海士が声を掛けた。
「あと二人乗れる」
その声を聞いて、すかさず男が一人飛び乗った。
「今や。あいつに続け」
努は、細野の肩を押した。
「ありがとう東城君、きっとまた逢おう」
細野はそう言って、少し降ろされたボートに飛び降りた。ボートはそのまま海へ降ろされた。
船は既にかなり船首側に傾いて来ていた。不安定な救命ボートに乗るよりは、他の救助の船が来るまでこのまま待っていた方が良い、と考えていた一等船客達も、ここヘ来て危機感が募って来たが、実際には救命ボートの数は全く足りず、とても乗員乗客全員を乗せる事は出来ない。この頃ようやくデッキに登って来た三等の乗客達は、既にほとんど残っていない救命ボートを見て、絶望して天を見上げた。
努はそんな乗員乗客の中に、機関長やバーレット、ヘスケスなどの姿を探したが、やはり見付ける事は出来なかった。現時点で、明かりが煌々と点いている事で、それは疑いようのない事実である。
「あいつら、最後まで電力を維持するつもりやな」
努は胸が締め付けられる思いがした。機関長ベルや火夫達は、皆が避難出来るように、自らの命を顧みず、ボイラーと闘っている。
俺は何としても生き抜いて、機関長や火夫達の思いを引き継いでやる。
努はそう決心すると、メリー=スローアンの姿を探した。彼女は絶望して泣いている女性客を慰めている所だった。
「スローアン」
努の呼び掛けに、メリーは振り向いた。こんな状況でも、彼女は優しい表情をしていた。
「まあ、まだ避難していなかったのですか?」
「あんたを置いては行けない」
努ははにかみながら言った。言ってから、自分の気持ちにはっきりと気付いた。
「こんな時に何だけど、俺、あんたに惚れちまったみたいだ」
「まあ」
「もう船は沈没する。救命ボートもない。俺には何も出来ない。でも、せめてあんたを助けたい」
「ありがとうございます。でも、こんなおばさんでいいの?」
「関係ない。日本では『一目惚れ』って言うんだ」
努はメリーを優しく抱き寄せ、唇を重ねた。少し冷たい唇は、かすかに震えていた。
「俺、ツトム=トージョー」
「メリー=スローアン」
見つめ合った二人を、逃げまどう群集が取り囲んだ。一度右に傾いだ船体が、今度は左に傾いでいる。船首は既に海面下にあり、前方にかなり傾いている。しかも、甲板が沈んだ事により、開口部からさらに浸水して、沈下する速度が早くなっている。他の群集と共に、努とメリーは船尾へと向かった。十度近く傾いた甲板は、登るという感覚になっている。
そんな中で、パン職人のチャールズ=ジョーキンが、歩きながら近くにあるベンチや机などを次々と海へ放り込み始めた。
「もし海に飛げ出されても、掴まるものがあれば安心だ」
ウィスキーをあおりながらそう言うジョーキンに、努も頷いてスコッチをあおった。
ベンチを飛げ込みながら船尾までやって来ると、いつの間にかジャックとローズの二人も来ていた。
最早船首は船長室までも水没し、第一煙突が自重で倒れた。それから程なく、ボイラーが爆発したのか、轟音と共に第二煙突も倒れた。そこに開いた穴から更に海水が流入し、船は一気に沈み込んだ。船尾が二十度以上持ち上がり、人々が次々とデッキや海に落下して行った。そこで遂に、全船内の灯りが消えた。真っ暗な中で悲鳴が上がる。
その直後、背筋の凍り付くような軋み音がして、船体が真っ二つになった。船尾は水面に落下して水平を取り戻したが、その衝撃で第三・第四煙突が倒れかかり、何人もの人々を下敷きにした。
努とジャックは、それぞれのパートナーを護りつつも、完全な沈没が間もない事を悟っていた。二人は、手すりを乗り越え、海側に出ると、メリーとローズもそれに習った。
竜骨で繋がっていた船首部が引っ張る形となり、左に傾斜しながら船尾部も海に引き込まれた。すぐに竜骨は千切れたが、切断面から海水が怒涛のように流れ込み、船尾はそのままほぼ垂直に立ち上がった。
努はメリーの肩を抱き、手すりに立つと、轟音に負けぬよう大声で怒鳴った。
「水に入る直前に、大きく息を吸え!水に全身が潜ったら、水に体を蹴り出せ!」
「はいっ!」
メリーも大きく頷いた。
エレベーターが高速で降下するように、タイタニック号は水中に没した。全身を覆う水の冷たさに怯みながらも、努はメリーの肩を抱いたまま、手すりを蹴った。凄まじい水の渦の圧力に負けないよう、必死に水を蹴って、水面を目指した。
ようやく水面に顔を出すと、大きく息を吸い込んだ。空気の冷たさに思わずむせるが、とにかく空気がありがたい。すぐ横に、メリーも顔を出した。痛いほど水は冷たいが、それでも沈没から脱出した事に、思わず笑みがこぼれる。
抱き締め合った二人に、水面下から何かがもの凄い速度で浮かび上がって来た。努は咄嗟に体を入れ替えようとしたが、冷たい水の中では素早い動きが出来ず、メリーの背中にぶつかった。それは、タイタニック号の船内から吐き出された、マホガニーの鏡台であった。
ぶつかった衝撃で、メリーはぐったりとなった。むせた口から鮮血が吐き出された。肋骨が折れ、肺を傷つけた可能性がある。
「メリー、しっかりしろ!」
努は叫びながら、メリーを引っ張って、近くに浮いていたベンチまで泳ぐと、彼女をつかまらせた。しかし、メリーは急激に消耗していった。
彼らの周りには、同じように海に飛げ出された人々の救けを求める声や、水を叩く音に満ちていたが、それも徐々に少なくなって行った。
一時間か、これとも一晩なのか、時間の感覚も麻痺していたが、二人は冷たい水の中で、何とか命を保っていた。しかし、メリーの衰弱は激しく、息をするのも苦しそうであった。
「メリー、がんばれ。もう少しで救助に来てくれる」
努の言葉に、メリーは力ない笑顔を見せた。
「ありがとう。一緒にいてくれて…」
「何言ってんだ。二人で生きて帰るぞ」
「ん、私はもう駄目。でも、あなたは、生きて日本へ帰って」
「大丈夫だ。もう少しの辛抱だ」
「日本ってどんな所かしら…。一度行ってみたかったな…」
メリーは独り言のように言った。
「おい、しっかりしろ!」
「私、最後にあなたに逢えて、本当に良かった…」
メリーは、虚ろな目で呟くように言った。
努は、かじかむ手でメリーの頭を抱き寄せ、くちづけた。
「Tsutomu, My heart will go on(ツトム、私の心はあなたとずっと共にあるわ)…」
メリーはそう言うと、はっきりと努の顔を見つめた。
「だから…生きて…」
メリーは微かな声で言うと、眠るように目を閉じた。
「ツトム…」
吐息まじりに努の名前を呼ぶ声が最後となり、メリーは二度と息を吸う事はなかった。救命胴衣の浮力に寄り掛かるように脱力する。
努の凍え切った瞳からは、涙も出なかったが、胸の内に膨らんだ悲しみとも怒りともつかない感情が、彼の歯の根も合わない震える口から迸った。
「ウォオオオオッ!ウォオオオオッ!」
その慟哭は、生存者の捜索に引き返して来た、十四号救命ボートを率いるロウ五等航海士の耳に届いた。
「生存者がいるぞ!」
ボートがすぐ横につけられ、努は航海士達に引き上げられた。強張って上手く動かない体から、びしょ濡れの救命胴衣を剥ぎ取られ、乾いた毛布を掛けられた。
努は、脳の奥深くに焼き付けるようにメリーの白い顔を見つめると、視線を挙げて暗い海の一点を見つめた。
「だれか」努は、歯が鳴る口から声を絞り出した。「近く…生きてる…声がした…」
それに答えるように、闇の中からホイッスルの音が聞こえた。弱々しい音だが、間違いなくそれは、生者の吹く笛の音だった。
それからしばらく後に、懸命に泳ごうとしているローズが救助された。
その後、救命ボートの生存者達は、救助にやって来たカルパチア号に移乗し、ニューヨークへと送られた。その船上には、機関長や火夫達の姿はやはりなかった。
努はカルパチア号を降りると、すぐさま東洋汽船のオフィスに飛び込み、一週間後にやって来た鑪野の東洋丸に乗って、日本に帰って来た。
日本に帰った努は、今までやっていた口入屋を、港湾労働者や人夫、職人達の仕事上の権利を守る為の団体として再立ち上げした。そしてそれを『浜山興業』と名付けた。
X
「とまあ、これが俺の父親のストーリーだ」真は一息ついた。「父親が言うには、タイタニックは折れて沈んだんだ。だから、引き上げは出来ない」
「じゃあ、あの映画は嘘なんですね?」
桐生は今だに食い付いて離れない。
そんな二人を見ながら、亜里沙が笑って言った。
「あの子、話しがくどいやろ。すまんなぁ」
「いや、それほどでも」
堂島は苦しまぎれに返す。
「でもな、戦前に、"権利"なんて主張するんは、結構大変やったんや」
そう言ってから、亜里沙は小さく笑った。
「でも、ヒドい奴やろ、ツトムって」
「えっ?」
「あの人、私とメリーを比べよったんやで」
さすがの風間も、返事に窮した。
「俺には、忘れられへん女がおるが、ええかって。そんなプロポーズあるか?ホンマ、信じられへんわ」
亜里沙は位牌を見ながら、肩をすくめた。
「ご苦労されたんでしょうな、姐さんも」
堂島は、恐る恐る言ってみた。
「んーん、ちっとも。ホンマ、ええ男やねん」亜里沙は笑った。「今生で色々やり尽くしたさかい、今頃、メリーと一緒にタイタニック号で旅の続き、してるんちゃうかな」
お わ り
20171128了
註
※「東洋丸」の航路は、「飛鳥Ⅱ」や「クィーンエリザベス」のものを参考にしました。
※ オラフ、スヴェン 映画『タイタニック』に出ている二人です。『アナと雪の女王』の二人(雪だるまとトナカイ)の元ネタだとか。
※細野正文 細野晴臣(ミュージシャン。YMOの人)の祖父。
※マーガレット=ブラウン 不沈のモリー=ブラウン
※My heart will go on 『タイタニック』のテーマソングbyセリーヌ=ディオンから
※参考文献、 1974年6月10日初版発行
『タイタニック号の最後』 ウォルター・ロード著 佐藤亮一訳 ちくま文庫 1998年4月23日第一刷発行
『タイタニック号99の謎<驚くべき真実!>』 福知怜著 二見文庫 1998年5月30日初版発行
『タイタニック百年目の真実』 チャールズ・ペレグリーノ著 伊藤綺訳 原書房 2012年10月1日初版第1刷発行
『ジェームズ・キャメロンのタイタニック』 エド・W・マーシュ著 名木宏之訳 株式会社竹書房 1997年12月25日初版第一刷発行
映画『タイタニック』 1997年 パラマウント/20世紀フォックス
映画『レイズ・ザ・タイタニック』 1980年 東宝東和
他ネット上の記事も参考にしました。
※ 東城亜里沙(旧姓マックジェラルド)に関しては、別の物語がありますが、ここでは関係ないので、語りません。
とりあえず、「クロスオーバー」シリーズは、一旦終了となります。
タグが一杯になったからです(笑)。
まだまだ続けるつもりではあります。