歩兵の本領   作:ジョニー一等陸佐

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意味

 目覚めると目の前に幽霊がいた。

 それがとある老人、倉岡勝一の今朝の出来事だった。

午前六時を伝える目覚まし時計が鳴り響き、それと同時に彼はいつもの一日を始めようとしたときのことだった。

布団から起き出て、早速洗面所に向かおうとした時目の間に見知らぬ人物がぼおっと立っていたのだ。

カーキ色の軍服に大尉であることを示す階級章。頬がくぼんで一見痩せこけているけれどもしかし同時にがっちりとした大きな躰。そして全体的に見て透き通って見え、向かいの壁紙の模様がはっきりと見える。

その見知らぬ男を見て、叫び声をあげるのも忘れてこいつは幽霊だなと倉岡は確信した。

体が透き通って見えるのに加えてその男の顔は倉岡の知る人物だったからである。そしてその人物はもうこの世にはいないはずだった。

「田中大尉……」

倉岡はその男を見て思わずつぶやいた。

田中幸平。それがその男の、かつて倉岡の上官であった男の名前だった。

田中大尉、と呼ばれたその男は白い歯を顔全体に押し出さんばかりににっと笑った。

「よう、倉岡少尉。生きておったか。幽霊が現れてもビビらんとは相変わらずデカい肝っ玉をしとるなぁ」

「なぜこんなところに……」

倉岡は目の前のかつての上官に疑問をぶつけた。

ここで読者のためにこの倉岡という男と田中という幽霊の関係について詳しく説明する必要があるだろう。

倉岡はかつて旧日本軍の少尉としてこの田中大尉率いる部隊の一員となって南方の島々で文字通りの死闘を米軍と繰り広げていた。

彼にとって田中は尊敬すべき上官であった。いついかなる時でも食料が枯渇しいつ飢え死にするか戦死するかわからぬ状況でも彼は部下を想っていた。負傷した兵士に大丈夫か、大丈夫かと声をかけ続け、腹の減った兵士に自分の食料を分け士気を上げ兵士たちを奮い立たせきた。だがある時の戦闘で彼を含め部隊は全滅、ただ一人生き残った倉岡はただ唯一の捕虜となってそのまま敗戦の時を迎えた。

それ以来、倉岡にとって田中はすでに死んでしまった人間でありあまり思い出すことはなかった。

だが、その幽霊が今更この老いぼれに何の用で来たのだろうか?

田中はあの時と変わらぬ、重くよく響く低い声で言った。

「倉岡少尉……いや、元少尉のほうが正しいかな?まぁ、どっちでもいいや……貴官に命令、というよりかは頼みがある」

「頼み?」

田中は頷いた。

「ある場所につれって言ってほしい。車は運転できるか?」

 

 

数十分後、倉岡は車に乗って幽霊とともにドライブをしていた。

「いやぁ、いい乗り心地だな。同じものとは思えん」

倉岡は変な気分になった。なんで自分は幽霊を載せて車を運転しているのだろう?

田中が連れて行ってほしいといった場所、それは都市から離れた地方に存在する彼の生まれ故郷であるとある小さな村――現在は開発がある程度進んだので町といったほうが正しいかもしれない――だった。

倉岡は皺だらけの手でハンドルを握りながら助手席に座っている、痩せこけているけれど肌につやのある田中を見た。

生まれ故郷の村に連れて行ってほしい、ということはつまり故郷の土地に戻りたいということなのだろう。その幽霊の体で死に場所である遠く離れた南方の島から日本にまで来たのだから、そのまま故郷の村に戻ることは造作でもないはずだ。なぜ自分を連れて行こうとしたのだろう?唯一の生き残りだから?

「大尉、なぜ私を呼んだのです?生まれ故郷に帰りたいのなら一人でも十分だと思うのですが……」

田中はしばらくの間黙っていた。

「……この国も本当に変わったな。」

彼は質問には答えず、窓ガラスの向こうの風景を見た。のどかな水田が広がり空では鳥が群れになって悠々と飛んでいる。

「……倉岡。お前はどう思う?」

「どうって……何がです?」

突然の問いに倉岡は戸惑った。

田中は続ける。

「俺たちの戦いは、意味があったんだろうか」

その言葉に倉岡は黙るしかなかった。

南方の島々で死闘を繰り広げていたときは、それが祖国や家族、愛する者のためになると信じて戦っていた。せめて一兵士としての義務は果たそうと生き残ろうと皆必死になっていた。

だが、奮闘空しく部隊は自分一人を残して全滅した。日本は戦争に負けた。

一体、我々の戦いは何の意味があったのだろうか?飢えやマラリアの恐怖に襲われながら気力を振り絞って戦い、皆死んでいったのに残ったのは荒廃した土地と廃墟だけだった。

……なぜ、我々は報われなかっのだろう?俺たちの戦いに意味はあったのか……?

「……もう、四十年も経つんですね。あの戦争が終わってから」

倉岡はぽつりとつぶやいた。

敗戦後は様々なことがあった。

敗戦で自暴自棄になり自堕落な生活を送っていた日々。

職を転々とし、結局警察予備隊に入隊した日。

自衛官としてある時は部下と共に訓練に励みある時は災害現場へ向かい復興支援を行った。

ある時、学生運動に励んでいた学生と少し揉め事になったのはいつのことだったか。

社会に目を向ければ安保闘争に石油ショック、学生運動、ベトナム戦争など様々な事件があった。

今年の一九八九年には昭和天皇が崩御し、いま一つの時代が確かに終わろうとしている。

だがその長い時代の間、倉岡はあの戦争のことを考えたことはあまりなかった。

世間から戦争の記憶が徐々に薄れていくのと同じように倉岡もその時のことを考えることは少なくなっていったのだ。

普通ならあの悲惨な戦争を伝えねばならないと躍起になってなにかしらの行動を起こすものなのだろう。

だが倉岡はそうしなかった。

俺たちの戦いに意味はあったのか。

どうしてもそう考えてしまうからだ。あの戦争のことを考えようとしなかったのは多分、その問いを避けたかったからなのだろう。

だが、いくら考えるのを避けようとしても事実は消えることも変わることもない。

「……ああ。たった四〇年前だ」

田中がそう言って、車内は沈黙に包まれた。

 

 

しばらく運転していると森や畑などの人気のあまりなかった景色に建物や家屋が見えてきた。目的の村に到着したのだ。

「止めてくれ」

田中に言われるままに車を止めた先には古めかしい寺と、その隣に隣接する広い墓地だった。

「ここに俺の一族の墓と戦友たちの墓がある。部隊の仲間のものも。お前も一緒についてきてくれ」

墓地の入り口には巨大な石碑があった。平に磨かれた石版には『戦没者慰霊』と大きな文字があり下には名前がびっしりと彫られている。この村出身の戦死者たちがここで葬られたのだろう。

 二人は墓地に入ると、墓参りを始めた。といっても線香もお供え物も何も用意していないので名前を確認して手を合わせるぐらいのことをした。

 「山本、飯村、宮原……みんないるな」

 田中が戦友の墓に丁寧に、一人ずつ手を合わせる。

 しばらくして墓地のちょうど隅のところに来るとそこには田中家の墓石があった。

 「おお、ここだここだ。ちょっと失礼……田中純蔵、順平……田中幸平。うん、ちゃんと俺の名前があるな。これで安心して冥土に行けるよ」

 田中は墓石に自分の名前が刻まれているのを見て満足そうにうなずいた。

 その様子を見て倉岡は田中に聞いた。

 「……大尉。先ほどは答えていただけませんでしたが一体なぜ私を呼んだのですか?一人で来れそうなものですが……」

 田中は倉岡を見た。

 「そうだったな。その説明がまだだった。なに、一人で冥土に行くのは寂しくてな。誰かに見送ってほしかったんだ。それから、お前に頼みが……いや、命令があるのだ」

 「命令?」

 田中は頷いた。

 「倉岡、車内で俺は言ったよな。俺たちの戦いは意味があったのかと」

 倉岡が避けようとした問い。

 田中はそれを口にした。

 「……正直を言うと自分には分かりません。負け戦だ、犬死だという者もいれば彼らの犠牲の上に今の平和があるという者もいます」

 「正直なところ俺にもわからん。勝ち戦だったらともかく散々な負け戦だったからな。だがな倉岡」

 田中は倉岡の目をじっと見つめた。

 「確かにあの戦争は負け戦だった。むしろ戦わずにさっさと降参すべきだったのかもしれん。だがそれでも俺達は戦った。なぜだと思う?そこに何かの意味があると思ったからだ。国を守るため、命じられたからという理由もあれば大切な人を守りたいからとか理由はたくさんあっただろう。だがまとめれば俺たちはそこに何かはわからないが意味があると感じたから戦ったのだと思う。でなきゃ、俺たちはすでに敵に投降していたはずさ」

 田中の話を聞いていた倉岡はふと、あることに気付いた。田中の透き通っていた体がさらに薄くなっている。

 どうやら田中もそのことに気付いたらしい。

 眼差しがさらに真剣なものになる。

 「もう時間がなさそうだな……手短に言うぞ、倉岡。俺たちのことを決して忘れないでほしい。死ぬまで絶対に。それが命令だ」

 さらに田中の体が薄れていく。

「いつもじゃなくていい。たまにでいい。俺たちのことを思い出してほしい。そして伝えてほしい。俺たちの戦いのことを。俺たちが確かに生きていたということを。俺たちの戦いが無駄ではなかったということを……伝えてほしい」

倉岡は頷いた。思わず敬礼する。

「了解しました」

 その様子を見て田中は微笑んだ。

 「ありがとう。安心したよ。これで胸を張ってあの世の戦友たちに会える……おっと、迎えが来たみたいだな」

 倉岡が振り向くと、そこには大勢の見知った顔がいた。カーキ色の軍服を着た、あの時の何も変わらない姿の戦友たちだった。彼らもまた、英霊となって田中のことを迎えるためこの世にあらわれたのだ。 

「山本、本木……」

かつての仲間の姿を見て倉岡は彼らに手をさしのばそうとした。そのまま伸ばした手が体を透き通る。

英霊たちは二人に向かって微笑んだ。

「皆に迎えられるとは幸せもんだな、俺は……倉岡、俺たちは先に行くからな。あの世で待っている。それまで頼んだぞ」

「はっ」

倉岡は再度敬礼した。田中たちも敬礼を返す。

「じゃあな」

田中が白い歯を見せて笑うと同時に田中の体ゆっくりと消えていった。

後にはただ規則正しく並ぶ墓石だけが残った。

風が吹き、木の葉を揺らす。

倉岡はしばらくの間直立不動の姿勢で立ち尽くしていた。

目に何か熱いものを感じ、袖で目元を拭った。涙の跡がつく。

倉岡は墓地の出口に向かって歩き出した。

ようやく分かった。あの戦いに意味があったかどうかではない。意味があったから戦ったのだ。なんの意味があったのか――そこまでははっきりとは分からない。でも、忘れてはならないのだ。死者が、かつては確かに生きていたということを伝え意味を見出していく。それが生き残った者も使命なのだ。

その物語は忘れられることなく次から次の世代へと伝えられまた新たな物語を作っていく。そして何かを守り何かを創り上げていく。

まだ、自分の任務は終わっていないのだ。

倉岡はふと、寺の近くに咲いている桜を見て笑った。まだ全体的につぼみだがよく見ると所々に花が咲いている。

倉岡は車に向かってまた歩き出した。

新たな季節が始まろうとしていた。

 

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