アレルとジルが王城から戻り、ややあって。
ヤヨイとタバサが暮らす離れの屋根上で、テリーは闇夜に浮かぶ星々を仰ぎながら、物思いに耽っていた。幼少の頃の記憶を頼りに、口笛を静かに鳴らしていると、背後から人の気配を感じた。
「よいしょっと。こんな所にいたのね」
タバサが身軽な跳躍で屋根に上ると同時に、番いのドラキー達が、二人の頭上で翼を羽ばたかせる。タバサは深々と息を吸って伸びをしてから、テリーの左隣へと座り、彼と視界を共有した。
「酔いはもう醒めたのか」
「少し残ってるけど、もう平気。心配掛けてごめんね」
別に心配なんてしていない。そう言い掛けて、テリーは仰向けに寝そべり、タバサの横顔を窺った。
顔色が優れないのは、悪酔いの影響。何処となく浮かない表情は、酔いとは別の何か。タバサは宙を見詰めながら、静かに口を開いた。
「ねえ。変な話、してもいい?」
「好きにしろ。聞き流してやる」
「ん……私ね。セリアと、同じなのかもしれない」
唐突な告白。テリーは僅かに眉を動かして、タバサの声に耳を傾ける。
「昼間に、ライアンさんから言われたのよ。私の剣は、何かが欠けているって。正直に言うと、思い出せないことがあるの」
隼の剣。速度に特化した二刀流の剣技は、長年を経て編み出した我流。この世界に迷い込んで以降も鍛錬を怠らず、剣と共にある日常に変わりはない。欠けている物などあるはずもなく、ライアンが呈した苦言を前に、まるで心当たりがなかった。
しかしながら、どうしても思い出せないことがある。剣技ではなく、その根底にあるべき物が、見当たらない。
「あの日の私が……私がどうして、剣の道を歩もうと思ったのか。自分のことなのに、思い出せないの」
私は何を想って、剣の道を往く決意を固めたのか。
二羽の隼に込めた想いは、一体何だったのか。
そもそも私は、何故剣を握っているのか。
思い出せない一方で、脳裏を過ぎるのは、双子の兄の姿。天空の勇者という肩書を思い起こす度に、ない交ぜになった記憶と感情の蓋が閉ざされて、自分を見失いそうになる。
「ライアンさんに言われるまで、気付きもしなかった。こんなこと、あり得るのかしら」
「おかしな話でもない。俺も初めは、そうだったからな」
「……テリー、も?」
テリーは半身を起こすと、腰に着けていた皮袋の中へ右手を入れた。取り出されたのは、今から半年近く前に託された宝石。『夢見るルビー』は、闇夜の中でもしっかりと、ピジョンブラッド色の光を放っていた。
「この宝石は、所持者が願う『夢』を見せてくれる。代償として、凄まじい身体の痺れに襲われるが、使いようによっては、記憶を呼び覚ます術にもなり得る」
「記憶を……もしかして、テリーもそれを使ったの?」
「ああ。何度か夢を見ているうちに、全部思い出せた」
テリーは苦笑をしながら、夢見るルビーを強く握り締めた。その姿を見て、タバサは躊躇いつつも、テリーの過去に、そっと触れた。
「どんな、夢を見たの?」
「聞きたいのか?」
「聞きたい、かも」
「後悔するかもしれないぜ」
「……でも、気になる」
やや間を置いてから、テリーは語った。
幼き故に抗う術もなく、奈落の底で歪んでいった少年の名は、テリーといった。
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少年にとって、最愛の姉は彼の全てだった。悪戯好きで向こう見ずな少年は、姉の手を焼かせては叱られて、その手で慰められる。泣き疲れる度に、姉が奏でる子守唄に導かれて、微睡む日々を繰り返す。安寧と平穏に満ちた毎日は、しかしそう長くは続かなかった。
最愛を奪われた少年は、何より己の非力さを呪った。何度も何度も拳を地に打ち付けて、血に染まるばかりのちっぽけな手が、途方もなく憎かった。行き場のない憎悪の塊は、自分自身に向けるしかなかった。
いつしか少年は、力を欲するようになった。故郷を捨て、抗う力を求め、世界中を渡り歩いた。少年は青年へと成長し、やがて行き着いた先で―――青年は、人間をも捨てた。
感情を捨てた。
尊厳を捨てた。
矜持を捨てた。
思い付く限りの全てを捨て去り、代償を力に変えて、更なる力を欲した。精神を闇に支配されても尚、力が欲しかった。誰も救おうとしてくれない世界で、救える力が存在するのだと、誰かに証明するために。
「……姉、さん?」
そうして手に入れた力は、変わらずに鮮血で染まっていた。
誰の物でもない自分だけの、ずっと欲しかった力は、青年の最愛を凌辱していた。
奪われたはずの最愛。失ったはずの最愛。ちっぽけな手が掴み損ねた最愛が、動かない。
「ああ、あああぁぁあ、ああああぁあ!!?」
ただ理不尽な世界に翻弄された末に、青年は漸く、巨いなる力を手にしていた。その力を以って、己を支配していた闇を斬り、目に留まった敵を斬り、斬るべき存在を求め、世界の果てまで流れ歩いた。
ふと我に返ると、肉塊の海の中央に立っていた。
血生臭い池の真ん中で、青年は血涙を流しながら、微かな声で口ずさむ。
子守唄。遠い過去の記憶に触れて、青年は慟哭しながら、世界が歪んでいくことに気付く。記憶を失った青年が降り立った塔を、人々は『シャンパーニの塔』と呼んだ。
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夢の中身を語り終えたテリーは、再び身体を寝かせると、隣から伝わってくる感情の正体を窺った。
大部分は、明確な恐怖。控え目な拒絶。無理もないと、テリーは苦笑した。夢の中には、誰も救おうとしてくれなかったあの世界には、いつだって救いようのない末路しかなく、夢は現実に等しい。夢は、夢ではいられない。
「テリーは……元の世界に、戻りたいの?」
漸く口にした言葉は、腫れ物にそっと触れるように、遠回しだった。テリーは間を置かず、頑なな意志を込めた声で答える。
「当前だろ。俺達は本来、この世界の住人じゃないんだぜ」
「そっ……それは、そうだけど」
テリーは仰向けの姿勢のまま、右手を夜空に向けてかざした。
決して届かないこの空の下で、数多の人間が生きている。誰かを愛し、愛されながら生きる人間がいて、そんな当たり前の現実と向き合える自分が、ここにいる。
「タバサ。俺はこの世界を、『逃げ場所』にはしたくないんだ」
漠然とした想いは、固い信念に変わりつつある。一切の人間らしさを失ったからこそ、見い出せた物がある。
剣を握らないという力がある。
自分を赦すという強さがある。
変えようのない過去がある一方、明日を変えることはできる。
失った物は、これから取り戻せばいい。捨て去ったはずの感情がある。あの二人が教えてくれたことがある。多くを与えてくれたこの世界で、できることがある。
逃げ場所にしてはならない。居場所だからこそ精一杯生きて、一日たりとも無駄にはしたくない。帰るべきその瞬間まで、身を焦がす覚悟も、ここに。
「あいつらが生きる、あいつらが守り抜いたこの世界を、俺も守りたい。それだけの話だ」
言い終えてすぐ、タバサが音もなく立ち上がる。タバサは伏し目がちに視線を背けながら、両手を強く握り締めて、その拳は小刻みに震えていた。
「ごめんね。私、甘えてた。何も知らずに……何の覚悟も、なしに」
私は彼に、何を求めようとしていたのだろう。どんな言葉を期待していたのだろう。
私にだって、守りたい物がある。守りたい者がいる。親友の故郷で手にした聖雷は、希望の灯火。迷い流れた果てに、この世界で見付けた光がある。
けれど今は、失った記憶一つに見っともなく怯えて。取り乱すばかりか、自分自身の弱さに気付きもしない。向き合おうともしていなかった。
「何を謝っているのか知らないが、まあいい。こいつはお前に預ける」
テリーは腰を上げて、手にしていた夢見るルビーを、タバサの眼前に差し出した。
「どうするかはお前次第だが……焦るな、とだけ言っておくぜ。ヒトは追い詰められると、手が届く身近な所に、答えを作ってしまいがちだ。俺もその一人なのかもしれないがな」
「ううん、そんなことない。そんなことないわ」
タバサは微笑みを湛えながら、宝石を受け取った。
するとテリーの手が、素早い動作でタバサの肩へと伸びる。多少の力を込めて肩を掴まれ、タバサは思わず上擦った声を漏らした。
「あの、えっ、なに?て、テリー?」
「あれは、何だ?」
テリーの目線を追って、頭上を仰ぐ。その先には、不可思議な光景が広がっていた。
闇夜に覆われていたはずの空が、光を放っていた。まるで時刻が深夜から日没前に逆戻りをしたかのように、橙色の輝きが、地上を照らしていた。この世界を見下ろす『空』が、『呪文』の光を纏っていた。
「……『ボミオス』?」
真っ先に思い浮かんだ呪文の名を、タバサは口にした。
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自宅へと戻ったアレルは、道中に合流した五人のうちの一人、ライアンと杯を交わしていた。
住民のほとんどが寝静まり、夜の静寂に包まれる中、生真面目な男二人が咲かす話題は固い。開催を三日後に控えた首脳会談に始まり、各国間の情勢。国軍への剣術指南と、互いの剣技について。少量の酒を口に含んだアレルは、以前から抱いていた既視感について言及した。
「無頼一刀……ライアンさんは何処となく、父に似ています」
「これは光栄の至り。して、その心は?」
「孤高を強さとする強さ、でしょうか。前々から考えていたことです」
単孤無頼。自らの信念を貫き通し、何者にも頼らず、為すべきを為す。
父親に関して知ることは少ない。物心が付いて間もなく、オルテガは単身このアリアハンを発った。それでも父親の背中は、鮮明に眼へ刻まれている。地下世界の奥底で目の当たりにした背中は、変わらずに逞しく、大きかった。大き過ぎて、到底手の届きようがない、壁のような背中。
「そういった強さもありましょう。されど強さと弱さは表裏一体。アレル殿、貴方は頼るべきです」
「俺は……」
不意に言葉が詰まり、アレルは視線を落とした。
この身に流れる血のざわつきが示す、確固たる悪の存在。各地で相次いでいる異変が、何かの始まりを告げようとしている。何が起きても不思議ではない状況下で、どういう訳か、孤独感ばかりが募っていく。
(この感覚は、何なんだ?)
これも前々から感じていた違和。変化の兆しは自分自身の中にもある。
振り返れば、いつだって誰かが隣にいた。頼るべき者達に囲まれ、孤独は一時もなかった。どれほどの窮地に立たされても、選択に迷う余地などなく、その結果が今に繋がっている。
しかしここに来て、掴みどころのない不安に苛まれている。漠然とした畏れ。自分が何に怯えているのかが、一向に見えてこない。
「ライアンさん、俺は……ライアンさん?」
胸の内を明かそうとしたアレルは、ライアンの視線を追った。見えていないはずの目が、頭上の何かを凝視している。天井の向こう側、遥か上空から降り注ぐ―――魔力の奔流。
「気付かれたか、アレル殿」
「はい。一旦、外に出ましょう」
勢いよく席を立ったアレルとライアンが、足早に玄関口から屋外に躍り出た、その刹那。
淀んだ夏空に雷鳴が轟くように、一瞬だけ地上が光に照らされて、夜が消えた。橙色の耀きに視界を奪われたアレルは、目に沁みた光を振り払って恐る恐る瞼を開き、そして愕然とした。
「何だ、これ。い、今のは、呪文なのか?」
戦慄が身体中を駆け巡る。
まだら蜘蛛の糸が全身に纏わりついたような感覚。特有の身体の重み。減速呪文、ボミオス。
「間違いありませんな。この呪文は、確かにボミオスです」
「待て、待ってくれ。そんなっ……!?」
アレルは、頭が空回りしているのを自覚した上で、思考に鞭を打って回転させた。呪文の正体はこの際どうだっていい。問題はその対象と詠唱元だ。
たった今、減速呪文は誰に向けられた。
呪文を詠唱した何者かは、何処にいる。
この受け入れ難い現象を、どう捉えればいい。
「……あれも、そうなのか」
光の色が、変わった。夜が再び中断を告げて、目が冴えるような青色の光と魔力で、上空が染まっていく。
変動呪文、『ルカナン』。眼下を嘲笑うかのように、空が地上に向けて、呪文を詠唱した。
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朦朧とした意識の中、吐き気と喉の渇きが、段々と治まっていくのを感じていた。次第に頭痛も和らいでいき、ゆっくり時間を掛けて瞼を開けたセリアは、傍らに座っていたジルに声を掛けた。
「ジルさん……。えと、私は」
「ん、起きたみたいね」
熱を帯びた吐息と共に、酒の残り香が口内に広がった。上半身を起こしたセリアは、頭を手で押さえながら、ジルの声に耳を傾けた。
嫌な予感は当たっていた。身に余る量の酒を飲んだセリアは、ライアンの背に担がれて、ジルと共に暮らす部屋のベッドへと運ばれた。目を覚ましたのは、それから約一時間後。日付は既に変わっていて、皆で夜を満喫したのは、昨日の出来事となっていた。
「ご、ごめんなさい。私、またご迷惑を」
「それを言うなら『ありがとう』。気分はどう?ホイミが効いたはずだから、大分楽になったと思うけど」
「……ホイミ?」
改めて自分の体調を見詰め直す。言われてみれば、睡眠に至るほどの深酒に及んだ割には目が冴えているし、頭も軽い。酒の経験が浅くとも、不自然さは理解できてしまう。
「少しコツは要るわよ。通常のホイミじゃ効果はないの。今度教えてあげるわ」
「ホイミにそんな……は、初めて知りました。呪文が、酔いに効くなんて」
セリアは胸を躍らせて、目を瞠った。少女のような初々しい反応を前に、ジルはセリアの頭にそっと手を触れた。姉が妹へ注ぐ愛情を思わせる、慈しみ溢れる愛撫。
「ねえセリア。呪文がどうやって生まれたのか、考えたことはある?」
「え?」
それはジルが抱き続けてきた、世界に対する壮大な問い掛け。きょとんとした表情を浮かべるセリアに、ジルは饒舌に言葉を並べた。
「ヒトが使う呪文と魔物の呪文は、根底が違ってる。なら、何が違うのか。そもそも呪文とは何なのか。私なりにずっと考えてきたことけど、結局のところ、何も分かっていないの」
「それは……考えたことも、ありませんでした」
「でも一つ言えることは、呪文は私達人間の歩みを映し出す、鏡みたいな物だって思うのよ」
「鏡、ですか?」
「そう。例えば、こんな風に。……『アバカム』」
ジルの利き手が光を纏い、放たれた光玉は、宙を漂って玄関扉へと向かった。セリアが固唾を飲んで見守っていると、扉を閉ざしていたはずの錠が、がちゃりと音を立てて独りでに外れた。
「施錠という概念が存在しなかった太古に、この呪文は存在し得ない。こうやって新たな呪文が生まれることもあれば、その逆も然り。消えて往く呪文も、あるんだと思う」
「……消える?」
賢者の称号は、与えられた肩書きにあらず。言わば先人達が築き上げた、蓄積された知識と想いの集合体。
呪文とは何か。何処からやって来て、何処へ向かうのか。賢者と称された者の数だけ答えがあり、それら全てが文字として綴られ、『悟りの書』に新たな頁が生まれる。ジルが見い出した境地もまた、形に成りつつある。
「ヒトの営みが変われば、呪文の在り方も変わる。呪文は私達が生きた証でもある。だからこそ私は、呪文と真摯に向き合って、大切にしたいの。……セリア?」
誰にも明かしたことのない信念を語り終えて、ジルはセリアの頬を伝う水滴に目が留まった。
「ごめんなさい。私、どうして」
「……大丈夫。今は、分からなくていいから」
理由のない涙が、次々に零れ落ちていく。セリアは左腕で目元を隠しながら、未だ眠り続けている記憶達の一片を、僅かに垣間見た。
私はきっと、何かを成し遂げることができなかった。救おうとして救えた者がいて、しかしヒトは、いつだって誰かを救える訳じゃない。救いようのない世界で、守れなかった何かがある。
だから今は、呪文という希望の光を、尊い物にしたい。私の手に残された光は、もっともっと大きくなる。導いてくれる女性がいる。何故なら私は今、この世界で生きているのだから。
「ジルさん。私は―――え?」
異変は何の前触れもなく、舞い降りた。
時の流れに何かが絡まり、息苦しさが込み上げる。意識と身動きが噛み合わず、ジルとセリアはぎこちない動作で、頭上を仰いだ。
何者かによる減速呪文の詠唱。堪らずに飛び起きたセリアは、ジルの背中を追って、既に開錠されていた玄関扉から屋外へ駆け出した。
「きゃあぁ!?」
立て続けの変動呪文。ルカナンの光が上空から放たれるや否や、全身の薄皮を剥かれたかのような不快感が到来する。ボミオスとの相乗が更なる苦痛を生み、遥か頭上の夜空は三度、不気味な輝きを放つ。
「封魔の光……ジルさん。これは、夢なのでしょうか」
「そう思いたいけど……覚悟を決めましょう。世界が、変わるわ」
『ボミオス』、『ルカナン』、そして封魔の呪文『マホトーン』。この地上で生きとし生ける全ての者達に、三つ目の呪文が向けられた。
アリアハン暦一二八四年、一角獣の月初旬、竜の日。生命は三重の枷に縛られ―――世界が、変わった。